2014年12月19日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。




フランシスコ・シリーズ(3):神学上でも啓示学上でも難解な「動物の魂と動物の死後の問題」に気軽に介入した法王の発言で巻き起る議論



pope-francis-dog1.gif

▲ 2014年12月11日のニューヨーク・タイムズより。




万能の神を否定し、悪魔を公認した後に

いやまあ、実際には、過去記事に「フランシスコ・シリーズ」とか、まして、その(1)とか(2)とかがあるわけではないんですが、現ローマ法王であるフランシスコ法王の発言や行動は、ここしばらく大変に興味を持って追っています。

今回は、フランシスコ法王が「犬の魂も天国に行ける」と述べた発言が世界で論争を起こしている件についての米国ニューヨーク・タイムズの記事をご紹介します。

それにしても、思い起こしてみれば、昨年の法王選出会議(コンクラーベ)の前には、ベネディクト16世の次の教皇の有力候補は次の3人だったのですよ。

2013年のコンクラーベで時期法王としての有力候補だった3人
pope-next-112b.jpg

▲ 2013年02月17日の記事「最後の法王と呼ばれ続けたベネディクト16世(2): 予言では存在しない 112代法王…」より。


つまり、フランシスコ法王は有力候補でも何でもなく、それどころか、その名前さえ取り上げられてはいなかったのです。そういう意味では、「神がかり的な(あるいは逆の存在がかり的な)」パワーが働いての法王選出だったともいえなくもないかもしれません。

そんな現法王の最近の「フランシスコ・シリーズ」と言える記事としましては、たとえば、シリーズ(1)に相当するのが、

「神の敵の登場」:神による天地創造を否定し、ビッグバンと進化論を演説で肯定したフランシスコ法王
 2014年10月30日

かもしれません。

pope-speech2.gif
ODN

上の写真は、2014年10月27日のフランシスコ法王の公式な演説で、法王は以下のように述べました。

世界は、何か他に起源を持つようなカオス(混沌)の中から始まったのではありません。しかし、愛から作られた至高の原則を直接的に派生させます。

現在では世界の始まりとされているビッグバン理論は、神の創造的な介入と矛盾するものではありません。逆に創造論はビッグバンを必要としているのです。

自然の進化論は、神による創造の概念の逆にあるものではありません。なぜなら、進化論には「生物の創造」が必要とされるからです。

要するに、

この世は(神の創造ではなく)ビッグバンで生まれ、そして、地球の生物は(神の創造物としてではなく)ダーウィンの進化論的な進化を遂げて現在に至る。

とおっしゃったわけですね。

上言葉の中に「なぜなら、進化論には生物の創造が必要とされる」とありますけれど、その後に、ダーウィンの言うように、自然選択的に生物が「偶然」進化するならば、そこは神の手の及ばない領域のわけで、「これもまた神全能ではない」ということを言っているに過ぎないことになります。

そういう意味で、このフランシスコ法王の発言は、どう釈明しても「神の絶対性の否定」の部分が覆ることはありません。




子どもとフランシスコ法王を対談させたい

話は唐突に変わるのですけれど、19世紀から 20世紀の神秘思想家ルドルフ・シュタイナーによる 1922年の『いかにして高次の世界を認識するか』という著作には、以下のような下りがあります。

たとえば、ある観点から見ると自分よりもはるかに程度が低いと思われるような人の意見を聞くときにも、「私のほうが、よくわかっている」とか、「私のほうが、すぐれている」といった感情を、「すべて」抑えるようにしなくてはなりません。

このような態度で、子どもが話す言葉に耳を傾けるのは、すべての人に有益な結果をもたらします。すぐれた賢者ですら、子どもたちから計り知れないほど多くのことを学ぶことができるのです。

この中にある、

> すぐれた賢者ですら、子どもたちから、はかりしれないほど多くのことを学ぶことができるのです。

のようにシュタイナーは言っているわけで、フランシスコ法王が賢者かどうかはともかくとしてしましても、法王でも、きっと子どもたちの発言からは多くのことを学ぶことができるのだと思います。

先日、私が子ども(9歳)とふたりでいた時に、ふと子どもが、

子ども 「おとーさん、宇宙のはじまりってさ・・・あれは・・・」

と言ってきました。

わたし  「・・・(うッ、この質問キタ)もしかして・・・ビッグバンのこと?」
子ども  「あーそうそう。そのビッグバンだけどさ」
わたし  「はい」
子ども  「ビッグバンの前にも宇宙はあったんだって。だから別に始まりじゃないみたいだよ」
わたし  「……そんなことどこで聞いた? 学校?」
子ども  「いや・・・えーと、忘れたけど。おとーさんはどう思うの?」
わたし  「あー、それね。まー、そういうことをきみたちの世代が調べていくと」
子ども  「もうわかってるんじゃないの?」
わたし  「いや。何にもわかってないんだよ」
子ども  「なんにも?」
わたし  「そう。何にも」


こういう子どもと、フランシスコ法王の対談(通訳付きでOK)をさせてみたいですね。

ビッグバン仮説と現在いわれる状態の前にもずっと宇宙は存在し続けていたと信じる子どもに対して、「ビックバンが宇宙の始まりだ」と主張する法王は、子どもに対して、どのように語るのか。

あるいは、話に飽きた子どもから「妖怪ウォッチ」について質問されたらどうなるのか?

pope-jibanyan.gif


そういうようなことも思ったりもしますが、まあ、これらの対決はともかくとして、ローマ教皇の中でも、まれに見る、「神の万能性の否定」を明確に打ち出しているフランシスコ法王のアクション(2)は下の記事です。

フランシスコ法王が 300 人からなる悪魔払い師の団体「国際エクソシスト協会」をパチカンの組織として正式に支持することを表明
 2014年11月01日

exsorsist-pope-5.gif
Livescience

神の万能性を否定

した直後に、

悪魔払いを公式に支持

ということになっているわけです。

この件については今回のこととは関係のないことですので、今回は特にふれませんが、このあたりのことは昨年の記事、

この世は悪魔で一杯: 歴史に出てくる「最初のエクソシスト」がイエス・キリストだと知った夜
 2013年05月04日

という記事に、

・1990年のアメリカ映画『エクソシスト3』の台詞
・聖書の記述
・オックスフォード大学による悪魔憑きの2008年の研究論文


などを羅列して、朧気ながらキリスト教的世界で理解できるのは、「この世は何万人も何百万人も悪霊に取り憑かれているかもしれない」という概念かもしれないということだったりします。

そして、その行動を注意深く拝見させていただき続けていますフランシスコ法王が、今度は、「犬の魂も天国も行ける」ということを公共の場で発言して、論争となっていることが報じられています。

そして、この発言が全世界の動物愛護団体などから大歓迎されているという話です。




なぜ、犬の魂が天国に行ってはいけないのか?

ペットを飼われる方の多い現在の社会で、「死んでしまった犬の魂も天国に行ける」というようなフレーズは、私たち一般人にとっては別に、

「それはそれでいいんじゃないの?」

と思うところですが、しかし、神学的にはそう簡単なものではないようなのです。このフランシスコ法王の気軽な発言は、「カトリックの歴史的な論争の根幹と関わる」ことに抵触しているのです。

つまり、「人間以外に魂があるのか」という議論です。

これはカトリックの長年の議論の的でした。

また、それ以前の問題として、そもそも、「聖書の記述は犬に冷たい」という事実も存在します。

ジョン・ホーマンズ著『犬が私たちをパートナーに選んだわけ』には、以下のような下りがあります。

旧約聖書には、犬に関するかなり手厳しい記述が目立つ。はっきり言えば、すべての動物の中でも特に愚弄の対象として槍玉に挙げられているようにさえ思える。

聖書に登場する犬には「名誉人類」に値するようなところがまったく見られない。ほとんどの場合、犬は汚物や腐敗とかかわるかたちで語られる。

また、聖書の中の動物たちというサイトでは、

箴言26章11節 「犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさを繰り返す」

とか

詩篇22篇16節 「犬どもが私を取り巻き、……私の手足を引き裂きました」

を引き合いに出しています。ここでは、「イエスを十字架に付けた者たちを犬と表現」しています。

なぜ、聖書では犬がこのような扱いなのかは定かではないですが、実際の犬がどうこうはともかく、少なくともキリスト教の世界においては、このような扱いをされているようです。そして、「人間以外の魂についてカトリック保守派は認めていない」という問題があります。

そこが今回の問題点となっているようです。

人間と、人間以外の生物の関係というのは本当に難しいことだと思います。

「動物を愛する」ということと「生命やこの世の真理」がイコールであるのかどうかは私にはわかりません。

それだからこそ、今回のような「フランシスコ法王の発言が一般の人々から歓迎された」というだけでの判断は難しいものがあります。

宇宙の中での本当の「それぞれの生物の立場」というものについて、ビッグバンの存在を認めるような人に本当に理解できているのか、私には疑問です

この記事の最後に出てくるアメリカの大学の宗教学教授の以下の言葉が、「それぞれの生物の死後の存在についての難しさ」を現していると思います。

「蚊は死んだら、神の目的のためにどこに行ったらいいのですか?」

これに対して合理的な答えを出すことの難解さは大変なものだと思います。

それでは、ここから記事をご紹介します。



Dogs in Heaven? Pope Francis Leaves Pearly Gates Open
NY Times 2014.12.11


天国に犬? フランシスコ法王は天国の門は開いていると言い残した


最近は、同性愛者や未婚のカップル、そして、ビッグバン支持者たちに希望を与え続けているフランシスコ法王だが、今度は、犬愛好家や、動物権利の活動家たちにも慕われる発言を行った。

可愛がっていた犬が死亡して取り乱していた少年を慰めようとするためだったとは思われるが、フランシスコ法王は、サンピエトロ広場の公共の前において、

「天国は神の創造物すべてに開放されています」

と述べた。

この言葉が少年を落ちつかせたかどうかはわからないが、この発言は「アメリカ動物愛護協会」や、「動物の倫理的扱いを求める人々の会」のようなグループに歓迎された。

そして、このフランシスコ法王の発言は、保守的なカトリック神学への否認として捉えられている。保守的なカトリック神学では、動物は魂を持たないので天国に行くことはできないとされる。

アメリカ最大の動物愛護団体「アメリカ動物愛護協会」のシニアディレクターであるクリスティン・ガトレベン( Christine Gutleben )氏は、「私のメールボックスはたちまちメールで一杯になりました。誰もがすぐに、そのことについて話していました」と語った。

イエズス会系のフォーダム大学のキリスト教倫理学のチャールズ・カモシー( Charles Camosy )教授は、フランシスコ法王が何を意味して語ったのか正確に知ることは難しいとしながら、「学者によって解剖されるものではないということを、宗教的というより精神的な意味で述べたもので、現実に対応したものではないのではないか」と述べる。

しかし、この発言が、「動物が魂を持ち、天国へ行く」という発言が、新たな論争を引き起こすのではないかと尋ねると、カモシー教授は、

「ひとことでいうと、論争が起きるのは間違いない」

と言った。

ベネディクト16世から教皇職を引き継いで以来、世界の10億人のカトリック教徒の指導者として在位してから、比較的短い期間の中で、フランシスコ法王は教会の保守派の間で物議を醸す発言を多く行っている。

たとえば、フランシスコ法王は、同性愛に関して、前任者ベネディクト16世よりもはるかに寛容な立場をとっている。シングルマザーや未婚のカップルなどに対しても同様だ。

そういう意味でも、この発言も驚きではない。

そして、フランシスコという名前は、フランシスコ会の創設者として知られるアルゼンチンのイエズス会士「アッシジのフランチェスコ(1182 - 1226年)」から取られているいるが、アッシジのフランチェスコは、ペットを失った子どもの来世の動物の守護聖人でもある。

フランシスコ法王は、聖書のくだりを引用し、動物たちは単に天国に行くだけではなく、お互い仲良く行くとして、イタリアのメディアに以下のように語った。

「いつの日か、私たちは永遠のキリストの中に、再び私たちの動物を見ることになるでしょう。天国は神が造られたすべての生き物に開かれているのです」

これについて神学者たちは、フランシスコ法王が、これらのことを何気なく語っており、教義上の声明を行っていないことを警告している。

カトリック・マガジンの編集も行うジェームス・マーティン牧師は、保守的な神学者たちが、天国は動物たちのためにあるものではないとしているにも関わらず、フランシスコ法王は「神は愛し、キリストは創造物のすべてを救う」ことを主張したのだと確信していると言う。

動物が天国に行くのかどうかの問題は、教会の歴史の中で長く議論されてきた。

1846年から 1878年まで 31年 7ヶ月というバチカン史上で最長の教皇在位記録を持つピウス9世は、他のどの教皇より、犬や他の動物は意識を持たないという教義を強く支持し、イタリア動物虐待防止協会の創設を阻止しようとした。

ヨハネ・パウロ2世は、1990年に、動物は魂を持っており、「それは人間のように神の近くにいる」と、ピウス9世と逆に聞こえる内容を宣言した。

しかし、バチカンはこのヨハネ・パウロ2世の言葉を広く公表しなかった。これはおそらく、ピウス9世とまったく逆のことを言ったためだと考えられる。

後継であるベネディクト16世は、2008年の説法において、ヨハネ・パウロ2世の見解を否定するような発言をおこなった。ベネディクト16世は、動物が死んだ時、「それは地球上での存在の終わりを意味します」と強く主張した。

動物愛護協会のガトレベン氏は、フランシスコ法王の発言は、ベネディクト法王とは非常に大きく転換したものだと述べた。

「教皇がおっしゃったことが、すべての動物が天国に行くという意味ならば、動物は魂を持っているということです。そして、それが本当なら、私たちはその事実をどのように扱うかを真剣に検討するべきです。私たちは、動物が感覚的な生き物であり、神に対しての何かだということを認めなければなりません」

テキサス州にあるサウスウェスタン大学の宗教学と環境学のローラ・ホブグット=オスター( Laura Hobgood-Oster )教授は、今回のフランシスコ法王の発言は保守派からの反発があると考えている。そして、その解決には長く時間がかかるだろうと言う。

「カトリック教会は、あるゆる場において、この問題を長い間明確にしていませんでした。なぜなら、ここには非常に多くの質問と疑問が含まれるからです」

そして、ホブグット=オスター教授はこう述べた。

「蚊は死んだら、神の目的のためにどこに行ったらいいのですか?」





(訳者注) この記事には、他にも屠殺業者や食肉加工業団体の談話、あるいは,ビーガン(動物製品の使用を完全に行わない最も厳密な菜食主義者)などの反応についても書かれてあるのですが、あまりにも長く、割愛しました。

しかし、この「肉食」や「菜食」、あるいは「動物愛護」を語る時にも、どうしても湧いてしまう概念が先ほどのホブグット=オスター教授と同じような思いなのです。

それは、

「植物には魂はないのですか?」

というものです。

こんなこと考えてもどうしようもないこともわかってはいるのですけど。

なんとなく、埴谷雄高さんの『死霊』から抜粋して、締めたいと思います。もっと広い抜粋は、過去記事の「イスラエル・ガリラヤ湖の水面下で年代不明の謎の古代構造物が発見される」にあります。

文中の「サッカ」とは釈迦のことです。

釈迦が自分が食べた豆(チーナカ豆)の死後存在から弾劾されている描写です。



埴輪雄高『死霊』 第七章「最後の審判」(1984年)より
 
「サッカよ、すべての草木が、お前に食べられるのを喜んでいるなどと思ってはならない。お前は憶えていまいが、苦行によって鍛えられたお前の鋼鉄ほどにも堅い歯と歯のあいだで俺自身ついに数えきれぬほど幾度も繰り返して強く噛まれた生の俺、すなわち、チーナカ豆こそは、お前を決して許しはしないのだ。」



Sponsored link


・ In Deep も» 人気ブログランキングに登録しました。よろしければクリックして下さると幸いです。