2015年01月22日



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日月神示の「額で見る」の意味 : 生物学的に「目と松果体」は細胞レベルで元は同じものであり、語義通りの「第3の目」であることを知った日



Shiva.jpg
Wikipedia



「額の目で見る」という意味

今回は昨日の記事、

動物の大量死のリンクから思う現在の「異常の真実」から改めて松果体の意味を考えている時に…
 2015年01月21日

の補足的なものとなりそうなんですが、上の記事で、ルドルフ・シュタイナーが「松果体」について、どのような考えを持っていたかを『シュタイナー用語辞典』という著作から抜粋として記しました。

それによりますと、シュタイナーは、松果体について、

地上の人間の最初の感覚器官。レムリア時代には、熱を知覚する器官であり、受精器官であった。レムリア時代には照明器官でもあり、一眼巨人の伝説の元にもなった。

アトランティス時代に、エーテル体頭部にあった知覚の中心点が、今では松果腺であり、これが発展すると人類は霊視力を取り戻す。

松果腺は目の平行器官として発達し、目が作るイメージに現実性を与える。

と考えていて、「目と松果体は平行器官」、つまり、目も松果体もどちらも「見る」器官ではあるけれども、「実体」を見ているのは目ではなく、松果体だと解釈できるようなことを書いています。

その後、お知り合いから、日月神示の中にも、何度も何度も繰り返し、「額の目」という言葉が出て来ることを教えていただきました。

たとえば、「黄金の巻 第七十三帖」には、

もの見るのは額で見なされ、ピンと来るぞ。
額の判断間違いなし、額の目に誤りなし。

という表現があったり、「夏の巻 第十九帖」には、

額に先ず気集めて、ハラでものごと処理せねばならんぞ。
形ある世界では形の信仰もあるぞ。
偶像崇拝じゃと一方的に偏してはマコトは分からんぞ。

だとか、何度か出てくるようです。

きわめつけは、「地震の巻 第06帖」で、この部分自体かなり長いもので、そこからの抜粋ですが、

各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。映像として真実であるが、第一義的真理ではない。

と、ここには、

> 目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れる

とあり、さらに、「目に見え、目にうつるものは、第一義的真理ではない」として、日月神示においては、「真理を見るのは目ではなく額」となっていて、これは、シュタイナーの言う、

「松果体が発展すると人類は霊視力を取り戻す」

「松果体は目の平行器官として発達し、目が作るイメージに現実性を与える」


というあたりと非常に概念としては似ているものです。

松果体の位置は下の図が示すように「額と平行で、かつ脳の最も奥深い場所」にあります。

pineal-glands-map.jpg
Nikon | 光と人の物語 | 第3の眼の進化




細胞から見ると、松果体は「眼」になるはずの器官だった

ところで、上の図を拝借したのは、カメラで有名なニコンのサイトなのですが、ニコンのサイトの中には、企業ページだけではなく、「光と人の物語」というコーナーがあり、その中に「第3の眼の進化」というページがあります。

その中に以下のような記述があります。

脳の中の「眼」

カマキリなど昆虫の一部やトカゲの仲間であるカナヘビには、「頭頂眼」と呼ばれる第3の眼を持つものがいる。頭頂眼は他の二つの眼と同じように水晶体や網膜を持つ。像をとらえる機能はないが、光を感じて体温の調整やホルモンバランスの調整を行っていると考えられている。

驚くことに、私たちの遠い祖先も第3の眼を持っていた。

その痕跡は今も私たちの脳の中にある。その器官、「松果体」は脳の中にありながら、細胞レベルでは驚くほど眼、特に網膜の細胞と構造が似ている。

松果体になる細胞がごく若い胚の時期には、レンズ、色素上皮、網膜ニューロンなど、眼をつくる細胞になる可能性(分化能)を持っている。

つまり松果体は眼になる可能性を持ちながら、眼とはまったく別の器官に発達しているのだ。

なんと!

私は今回初めて知りましたが、上にありますように、

松果体は、細胞レベルでは網膜の細胞と構造が非常によく似ている

わけですが、しかし、「松果体は眼になる可能性を持ちながら、眼とはまったく別の器官に発達した」ということで、脳の中の別の器官になったということのようです。

つまり、松果体は、細胞レベルで「基本的には、目と同じもの」だといえるようなのです。

どうして、松果体が眼にならなかったかということがわかってきたのは最近のことのようで、上のニコンのページには、奈良女子大学教授の荒木正介さんという方が、「眼と松果体は、発生の初期には同じ可能性を持ちながら、なぜこれほどまでに異なった形に変化するのか」ということを追求するため、 20年にも及ぶ実験を繰り返したことなども書かれています。

その結果としては、「脳の中という特殊な環境が、眼になることもできる細胞を、眼ではなく松果体にする」ことを明らかにしたとのことです。

また、上の記述で、これも初めて知ったのですが、カマキリなどにある第3の目である「頭頂部」の説明の、

> 頭頂眼は他の二つの眼と同じように水晶体や網膜を持つ

というように、カマキリなどの第3の目は、水晶体や網膜などを持つ「目そのもの」であるようです。

mantis-5.jpg

▲ カマキリの「第3の眼」の頭頂眼は触角の間にあります。


カマキリなどの第3の眼には「像をとらえる機能はない」とありますが、

> 光を感じて体温の調整やホルモンバランスの調整を行っている

というのは、第3の目が、メキシコの眼のない魚の松果体同様に「光を見ている」ことを示している上に、シュタイナーが述べていた「松果体は、レムリア時代には、熱を知覚する器官であった」という部分ともリンクしそうで、昆虫たちも、第3の眼で「光のナビ」を見ているのかもしれません。

この眼と松果体の細胞についての生物学的な特徴がわかったのは最近のことで、少なくとも、シュタイナー(1861年-1925年)が多くの著述をしていた今から 100年ほど前とか、あるいは、岡本天明氏(1897年-1963年)が、日月神示を自動書記したとされる 1944年頃とかに、松果体の細胞の生物学的な見識が彼らにあったとは思えず、この

松果体と目は、ほぼ同一の細胞構成

であることが生物学的にも言えるということは、いわゆるスピリチュアリズムや、神秘学の上でいわれる第3のビール……じゃねえや、「第3の目」の概念にも、かなりの信頼性が出て来るのではないかという気もしないでもないです。

ニコンのページには、以下のような下りがあります。

最近では、ヒトは眼や皮膚だけではなく、多くの種類の細胞で光を感じることがわかってきた。細胞を培養すると、それらは独自にリズムを刻む。それらをまとめて統括するのが松果体や視床下部の役割で、いわば生物時計の司令塔ということができる。第3の眼は、私たちの行動をコントロールしているのだ。

何と私たちは「行動を松果体にコントロールされている」ようです。

そのような「第3の目」について、日月神示では、「額の目」として、

もの見るのは額で見なされ
額の判断間違いなし、額の目に誤りなし。


のように述べていることになるわけですね。

とはいえ、「額の目で見よ」と言われても、具体的にどうすればよいのやら。

そのあたりのことはわからないのですが、松果体の役割を生物学的な意味でも合理性を持つ表現をしたシュタイナーが「高次の世界を認識する具体的な方法論」として記した著『いかにして高次の世界を認識するか』について、過去記事の、

人工 DNA から生命が作られる物質科学の時代に考え直したい 100年前にシュタイナーが唱えた「人類が高次へ移行する方法」
 2014年05月12日

の中で、高次の世界を認識するための、その本に記されているいくつかの条件や特性を書きました。

これらはシュタイナーの言うところでは、世界を「霊的に見る」ことにつながっているとのことですから、「第3の眼」、つまり「額」で見るということと関係することかもしれないですので、記しておきます。

実際に著作を読むと、一朝一夕で何が変わるというものではなく、何年も何十年も、場合によっては「何世代も(転生が存在すると仮定した場合)」続いていくような実践ではあるようで、簡単なことではありません。




神秘学の学徒になるための条件

第一の条件

「あなたの体と霊の健康を促進するように注意を払いなさい」

第二の条件

「自分自身を生命全体の一部分と感じること」

第三の条件

「私の行動だけではなく、私の思考と感情も、同様に世界に対して重要な意味をもっている」と考えることができる境地にまで上昇しなくてはならない」

第四の条件

「人間の真の本質は外見にではなく、内面にある」

第五の条件

「一度自分で決めたことは、確固とした態度で守り通す」

第六の条件

「自分に与えられるすべてのものに対する感謝の感情を育てる」

第七の条件

「つねにこれらの条件が求められるとおりに、人生を理解する」



霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない四つの特性

第一の特性

「思考において真実と仮象のものを、真理と単なる意見を区別すること」

第二の特性

「仮象のものと向き合ったときに、真に実在するものを正しく評価すること」

第三の特性

「思考の制御、行動の制御、ねばり強さ、寛大さ、信じること、冷静さを実践すること」

第四の特性

「内面的な自由に対する愛」



などです。

どれも、箇条書きにしただけではわかりにくいですが、私に詳しい解説ができる能力があるわけでもなく、そのあたりはシュタイナーの著作をお読みいただければ幸いです。

ただ、お読みいただければおわかりかとも思いますが、神秘学の訓練というのは、おどろおどろしい修行のようなものではなく、

この世の真実とは何かを常に理論的に考え、それに基づき、世の中の真偽を見極め、また自分を見極め、その上で日常生活を大事にして冷静に生活していく日々の考え方と生活の仕方。

というもののようです。

たとえば、「瞑想」という言葉がありますが、眼をつぶって「頭を空」、あるいは「無念無想」したような行為は、シュタイナーに言わせると瞑想ではないようです。

瞑想とは、「論理的に突きつめて真剣に考えること」だと、私は解釈しています。

そういう意味では、「無念無想」というよりは、むしろ、アニメの一休さんのように、「問題の対処を考え続ける」姿が真実の瞑想かもしれません。

まあ、一休さんのモデルなった「本物の一休さん」である一休宗純(いっきゅうそうじゅん)さんは下のような顔だったようですが。

実際の一休さん
ikkyu.jpg
・Wikipedia

しかし、一休さんの Wikipedia のページを初めて読みましたが、漫画とは違って、むしろ「破戒僧」で、「超奇人」の側面の強い人だったようですね。

本物の一休さんが悟りを得たのはこのような感じだったようです。

応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて、にわかに大悟する。華叟(師匠)は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟は、ばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。

そして、奇行もかなりのものだったようで、

正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。

など、いろいろなことをしていた模様。

しかも、僧なのに、

釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
(釈迦といういたずら者が世に出でて、多くの人を迷わすかな)

という詩や、

南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ

というようなアヴァンギャルドな詩を残しているようです。

ちなみに、一休さんの享年は 88歳と長寿でした。

しかも、死因はマラリアだったそうで、この病気にかからなければ、まだまだ生きたのかもしれません。むしろ「怪僧」というおもむきさえある人物だったようです。




なぜ今、「額で見る」ことが必要なのか

話が変な方向に来てしまいましたが、いずれにしましても、こんな時代だからこそ、現代社会では「当然と考えられている様々なこと」について、考え直す時であるようには思うのです。

上にシュタイナーのことを書いていますが、シュタイナーの『我が人生の歩み』という自伝には、以下のような記述があります。

自然科学の時代は、人間および民族の生命に及ぶ影響において凋落を意味している。人類がこれから先も発展していくためには、精神的な側面からのまったく新しい価値観が必要とされるだろう。

これは今から 90年くらい前に書かれたもので、その後の 90年の時代も、この「自然科学の時代」は続いていて、さらに肥大しています。

「自然科学の時代」という書き方ではわかりにくい面もありますが、要は「現在は精神的な時代ではない」ということです。

以前、

最後の法王と呼ばれ続けたベネディクト16世: 聖マラキの予言とコナン・ドイルの未来感の時間軸
 2013年02月13日

という記事に、コナン・ドイルの予言といわれる文章をご紹介したことがあります。

doyle-02.jpg

▲ アーサー・コナン・ドイル(1859年 - 1930年)。


非常に激しい将来を予言したものですが、実際にこの地球がそんな極端なことになるかどうかはともかくとしても、確かに今後いろいろな面において、厳しい状況が出現する可能性は高いと思われます。

そして、そのコナン・ドイルの文章は、

「人類は、自らの精神的な存在に戻ることによってのみ、生き残ることができる」

で締められています。

だからこそ、「真実と真実ではないもの」を見極めることができる第3のビール、じゃない(その間違いはいいかげんにせえ)第3の目、すなわち、額で見るという概念はとても重要になってくる時代だと思います。

アーサー・コナン・ドイルのその文章を再度、掲載しておきます。



A period of natural convulsions during which a large portion of the human race will perish - Sir Arthur Conan Doyle

人類の大部分が滅びる間の自然の激動の期間

人類の大部分が滅びる間の自然の激動の期間。
ひどい規模の巨大地震、そして巨大な津波が発生すると思われる。
戦争はその期間の初期の段階でのみ現れるが、これが危機の信号となるように思われる。
危機は瞬間的に訪れるだろう。
文明生活の破壊と転位は信じられないほどのものとなる。
多少の復興が続く中、短い混沌の期間があるだろう。
この激動の合計期間は概ね3年となる。
激動の中心地は地中海の東部沿岸となるだろう。
少なくとも、5つ以上の国家が完全に消滅してしまうだろう。
また、大西洋上に巨大な大陸が浮上し、アメリカとアイルランド、そして西ヨーロッパの沿岸に大きな災害を招くだろう。この際、イギリスの低地はすべて波に飲み込まれると思われる。
南太平洋でも非常に大きな変動があり、日本に近い太平洋でも大きな変動がある。
人類は、自らの精神的な存在に戻ることによってのみ、生き残ることができる。





(訳者注)ちなみに、「南太平洋でも非常に大きな変動があり」とありますが、南太平洋のトンガ沖にある海底火山フンガ・トンガ=フンガ・ハーパイの噴火域に「新しい島」が出現しています。

tonga-hunga-island.gif

▲ 2015年1月17日のきたるべき地球の形 トンガの海底火山「フンガ・ハーパイ」の噴火によって「新しい島」が形成されていることが判明 より。


詳しくは上の記事をご参照いただくと幸いですが、日本の西之島も拡大を続けていて、ちょっと近年見られていないような「海と噴火が連動しての大変動」が続いていて、こちらも多少気になります。

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