2015年03月20日



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聖書 vs 日月神示:「神の怒り」と「地獄」は存在するのかしないのか? 「宇宙の知性」の真意を知りたくて



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powerfulintentions.org


日月神示 扶桑の巻の第八帖

神に怒りはないのであるぞ。
天変地異を神の怒りと取り違い致してはならん。



地獄の存在に戸惑い

先日、ファティマの聖母について2つの記事を書きました。
そのうちの、

ファティマの聖母から知る「永遠の地獄」への序章(1) - 「地獄」は神話ではなく、事実として存在する
 2015年03月15日

では、1917年に3人の少女少年たちが、何度かにわたり「聖母マリアと自称している存在」から、いくつの予言というのか、メッセージを受け取った事象について記しています。

そのうちの「第1のメッセージ」は、以下のようになります。


死後の地獄が実在することについて

多くの人々が罪深い生活や傾向によって、死後地獄へ導かれている。肉欲や傲慢など現世的な罪から回心しないままでいることにより、人は死後、永遠の地獄へと行く。
地獄は神話ではなく実在し、そこは全ての人が死後行く可能性のあるところで、入ったが最後、二度と出ることはできない。



そして、聖母と自称する存在は、3人の子どもたちに一瞬ですが、「実際の地獄」を見せます。これで、3人の子どもたちは「地獄は存在する」と理解したわけです。


さて……この世にはいろいろな不思議な予言や霊言といったものが存在します。

たとえば、日本では、日月神示は比較的有名で、比較的支持を得ているもののひとつだと思います。

そこには「地獄」はどう書かれているか。

これはもう何度も何度も出てきます。

そして、最初に書きますと、そこには「地獄はない」のです。

地獄無いと申してあろうがな。
このこと間違わんように、地獄地獄の言葉、やめて下されよ。
言葉からモノ生むのぞ。(白銀の巻 六帖)

誰でも死んでから地獄へ行かん。地獄は無いのであるから行けん道理ぢゃなあ。曲って世界を見るから、大取違ふから曲った世界つくり出して、自分で苦しむのぢゃ。其処に幽界出来るのぢゃ。
有りてなき世界、有ってならん。(黄金の巻 第九十四帖)

死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ。この世を天国として暮らす人天国へ行くぞ。地獄の想念、地獄生むぞ。(黄金の巻・第75帖)

他にもいろいろとあるようですが、日月神示では繰り返し、

地獄は存在しない。

として、

地獄は人間の言葉や想念が作り出すもの。

だというようになっています。



キリスト教での地獄への選抜

さて、ファティマに出現した聖母は、「地獄はある」としていたわけですが、聖書にも「地獄」という言葉は何度か出てきます。

そして、地獄に「どんな人が行くか」を、多分もっとも具体的に記述されているのは、新約聖書「ヨハネの黙示録」にあるものだと思われます。

ヨハネの黙示録」21章8節

「おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である』」

日本聖書協会

というもので、地獄に行く人の具体的な条件(?)が記述されていますが、これはかなり厳しいです。聖書によれば、下の人たちはみんな地獄に行ってしまいます。

・おくびょうな者
・信じない者(信仰心のない人)
・忌むべき者
・人殺し
・姦淫を行う者
・まじないをする者(魔術や占いをする人)
・偶像を拝む者(多分、仏像、キリスト像、マリア像含む)
・すべて偽りを言う者


となり、これでは、現代社会では地獄に行かない人の方が多いのではないでしょうか。

たとえば、私なら、「おくびょう者」ですし、お地蔵さんなどがあればちょっと拝んだりもしますが、これは「偶像崇拝」に該当してアウト。他はそんなにないですが、過去に遡れば、姦淫という言葉からも逃げられない可能性もあります。

なかなか厳しいキリスト教ですが、仏教はどうなのでしょうか。



仏教や神道の場合

キリスト教の世界観には地獄があるということになりそうですが、仏教などではどうなのか。

地獄 (仏教) - Wikipedia を見ますと、

地獄とは仏教における世界観の1つで最下層に位置する世界。欲界・冥界・六道、また十界の最下層である。一般的に、大いなる罪悪を犯した者が死後に生まれる世界とされる。

とあり、一見すると、ありそうなんですが、しかし、

地獄思想の成立

元々は閻魔大王、牛頭、馬頭などの古代インドの民間信仰である死後の世界の思想が、中国に伝播して道教などと混交して、仏教伝来の際に日本に伝えられた。

そのため元来インド仏教には無かった閻魔大王を頂点とする官僚制度などが付け加えられた。

とあり、どうもお釈迦様が説いていたというより、「後になっていろいろと付け加えられている部分が大きそう」で、特に、日本の場合は、

地獄は、日本の文化史の中では比較的新しいもので、これが特に強調されるようになったのは、平安時代の末法思想の流行からのことと思われる。

というもので、少なくとも、日本の思想には本来、「地獄」というものはなかったとも考えられます。そのあたりは、『古事記』にも『日本書紀』にも、地獄という概念が登場しないことからも伺えます。

地獄があるかないか、どちらが正しいかなんてことは私に決められることではないですが、少なくとも、

「古来からの日本の死生観の中に地獄はなかった」

ということにも思えます。

しかし、日月神示では地獄はないと繰り返されている一方で、出口王仁三郎による『霊界物語』には、「地獄」が出てきます。

これに関しては、宗教法人大本のウェブサイトから抜粋しますと、


「霊界物語」は審判書で、天国に入りうるものと、地獄に陥落するものとの標準を示しています。この標準を示された後、各自はその自由意志によって、自ら選んで天国に入り、あるいは自ら進んで地獄に墜ちるのです。

それは各自の意志想念がどのような情態にあるかにかかっています。

標準とは何か。「霊界物語」によって示されつつある神示そのものです。最後の審判は、「霊界物語」発表の大正十年十月より始まっています。



とあり、なかなか難しいですが、

>天国と地獄に行く、それぞれの標準(神の示し)が定められている

ということで、それはともかくとして、その後にある、

> 各自はその自由意志によって、天国か地獄に行く

というのは・・・。

「自由意志?」

と、このあたりはどういうことなのか判断が難しいところですが、「自由意志」ということは、「自分から地獄に行きたいとする人々もいる」ということなのでしょうかね。

微妙に難しい展開となっていますが、あまりにいろいろと絡むと複雑すぎることになりそうですので、「地獄」については、とりあえず、ここまでにしておきます。

地獄の存在はともかくとして、では、「神の怒りは」?



やはり対立する日本の神と西洋の神

震災1年後の 2012年3月11日に、

神に怒りはないこと知る日々の中で
 2012年03月11日

という記事をアップしたことがあります。

これは震災の翌月に書きました「もはや神も大地も怒らない 」という記事に対応したものですが、今回の記事冒頭に書きました、日月神示の、


神に怒りはないのであるぞ。
天変地異を神の怒りと取り違い致してはならん。



という言葉は、大変に好きな言葉で、なぜかというと、もし「天変地異が神の怒り」だというのなら、たとえば、2011年の震災は、なぜ日本の、そして東北で起きたか。

何がその基準となるのか、私は神という存在があれば問いたかったです。

しかし実際には、地震などを含めて、天変地異が「神の怒り」とされているものは多いです。聖書にもコーランにも天変地異が神の怒りだというようにとれる記述は多数あります。

聖書で「神の怒り」として記述されている典型的なものとして、以下のようなものがあります。

ヨハネによる福音書/ 03章 36節

御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。

ローマ人への手紙/ 01章 18節

神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。

その他、「ヨハネの黙示録」にも神の怒りという言葉が出てきます。

このあたり、日月神示の「神に怒りはないのであるぞ」というストレートな表現と非常に大きく違っているのですが、これに関しても、どちらが正しいとか、私に判断できるものではないです。

ただ、地獄の存在はともかくとして、私個人は、「神の怒り」はあったとしても、それは天変地異や自然現象とは関係ないと思いたいです。

ところで、「地獄」や「神の怒り」は、このようにいろいろと説の違いがあるのですけれど、

「創造主(神という言い方はしないです)そのものの存在」

については、最近読んでいる本で、さらに確信に近い思いが出ています。




物理学と「創造主」の関係

最近、アメリカの理論物理学者のミチオ・カクさんの『パラレル・ワールド』という本を、パラパラと読んでいるのですが、大変に面白い本で、この『パラレル・ワールド』には、

「今の宇宙から脱出する方法について」

だとか、

「私たちの宇宙のほんの1ミリ上に別の宇宙が浮かんでいる可能性」

といったような、非常に刺激的な話も満載なんですが、最終章では「神」の問題にふれています。

「神」というより、「この宇宙を造ったもの」、つまり、創造主とか、そのように言われるものの存在のことで、たとえ多次元宇宙を語っていても、そして、もし、

「この宇宙を完全に現すことのできる「式」がついに見つけられた」

としても、

「その式は誰が?(そのような秩序がどうして存在するのか)」

という問題に物理学者たちは突き当たり続けることを記しています。

少し抜粋します。

ちなみに、文中に何度も「ひも理論」と出てきますが、ミチオ・カクさんは、この「ひも理論」(超弦理論)と呼ばれる大変に難解な物理学の専門家ですので、その理論そのものはともかくとして、最先端物理学のひとつだということになります。



ミチオ・カク著『パラレル・ワールド』 物理学者が考える「宇宙の意味」より

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創造主の問題は、「科学は神の実在について何かを語れるのか?」という問題も提起する。

かつて神学者のパウル・ティリッヒは、「神」という言葉を臆面もなしに語れる科学者は物理学者だけだと言った。

実際、人類にとって最大級の疑問 −− 大いなる設計は存在するのか? 存在するとすれば設計者はいるのか? 理性と啓示のどちらが真理に到達する正しい道なのか? −− に取り組んでいるのは、科学者では物理学者しかいない。(略)

ひも理論に見られるような、多くの宇宙の存在を可能にする理論を、だれかが設計したのだろうか? 宇宙が微調整された時計のようなものなら、それを作った時計職人はいるのだろうか。

この意味で、ひも理論は「神には選択の余地はあったのか」という疑問に解決の光を投げかけてくれる。アインシュタインは、宇宙論を考え出そうとするたびに、自分ならどう宇宙を設計しただろうかと問うた。

そのうちに彼は、神には選択の余地がなかったかもしれないという考えに傾いた。

ひも理論は、この見方の正しさを立証してくれそうに見える。

相対性理論と量子論を結びつけようとすると、目立たないが致命的な欠陥 −− 爆発的な発散と、理論の対称性を損なう異常性 −− に満ちていることに気づかされる。

この発散と異常性を解消するには強力な対称性を取り込むしかなく、その点でM理論にはなにより強力な対称性がひそんでいる。つまり、必要なすべての条件を満たす単一のユニークな理論が存在する可能性があるのだ。(略)

私をはじめ一部の物理学者が考えているように、いずれ現実世界を支配する究極の法則が −− ひょっとするとたかたが数センチの −− 式一本で表せたとしても、次にはこんな疑問がわく。

「この式はどこから得られたのか?」




ここにあります、

> 「この式はどこから得られたのか?」

というのは、上のミチオ・カクさんの文章では「宇宙を設計したもの」というニュアンスと関係するもので、つまり、「何がこの(あまりにも正確な)宇宙の法則をもたらしたのか」という意味です。

物理学の世界が究極的なレベルにまで達したとした場合、「式」そののものが完ぺきであればあるほど、この「この式はどこから得られたのか?」という、「深遠な疑問」はさらに強いものとなっていくと思われます。

晩年のフレッド・ホイル博士の著作にも「宇宙の知性」が記述されていました。

『生命( DNA )は宇宙を流れる』という、パンスペミア説や「進化論の否定」、「ビッグバンの否定」などについて記されている著書の最終章で、ホイル博士は以下のように述べています。


フレッド・ホイル著『生命( DNA )は宇宙を流れる』
第11章 コズミック・インテリジェンス より


興味深いことに、われわれが到達した結論、すなわち宇宙に知性があることをロジカルに要請することは、世界の主だった宗教の教義と整合性がある。

世界中のさまざまな文化の中で、「創造主」は独自のすがた形をとる。エホバ、ブラフマー、アラー、天の父、神……宗教の数だけ呼び名もある。

けれども、その根底に横たわる概念は、どれも一緒だ。それは、宇宙は −− 特に生命の世界は −− 創造もつかないほど強力な人間型の知性を持つ「存在」によって創造されたということだ。

地球に暮らしたことのある人間の圧倒的多数が、この概念を完全に、無条件に、本能的に受け入れていたことを忘れてはいけない。

生物にこんな意識を持たせるのは、遺伝子のはたらきである。ひょっとすると、その「存在」がわれわれの部品を創造することにあたって、自らの起源についての真実を本能的に悟るように、遺伝子に細工しておいたのかもしれない。



優れた科学者たちが、その時点で最も進んだ科学で宇宙を考えれば考えるほど、

「宇宙の設計者の存在」



「宇宙の永遠性の問題」

に突き当たる。

最高の科学の先に待ち受けているのは、いつでも「創造主の存在」だという感覚があります。

しかし、創造主がどのようなことを私たちにおこない、そして、私たちはどのように(思想的な意味での)対応をしていけばいいのかはまったくわかりません。

もしかすると、地球単位での大きな変化もそれほど先ではないかもしれない時代に、私たちは確実に存在するとしか思えなくなってきている「創造主」とどのように向きあうかを考える時に来ているのかもしれません。

何だか、ファティマの補足的な記事を書くつもりが、混沌とした方向に進んでしまいました。

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