・Daily Inspiration
二十数年前の下北沢のロックバーにて
昨日、一昨日と、本を読んでいました。
少し前、
・健康ブームの中でガンが増え続ける理由 : 世界でもダントツの「薬」消費国である日本は「薬に人間の自己治癒能力を奪われながら」滅ぼされつつあるのかもしれない
2015年04月10日
という記事を書きましたが、そこでご紹介した松本光正医師の『高血圧はほっとくのが一番』にある、松本医師の、
「人間の体の働きで無駄なものは一切ない」
という言葉に多少感銘を受けたのですが、この方は、中村天風という人に師事していたことが何度も書かれていました。
その人を私は知りませんでしたので、Wikipedia を見ましたら、ひとことで書いてしまえば、「日本初のヨガの行者」ということなんですが、その人生の凄まじい波乱ぶりに圧倒され、この中村天風という人に興味を抱きました。
中村天風( 1876 - 1968年)
・Healing Network
それで、Amazon を探しましたら、中村天風関係の本はいくつもあるのですが、とりあえず最初に出てきた『運命を拓く』というものを買ってみました。
これは中村天風が書いたものというわけではなく、中村天風が創設した「天風会」という場所での講演や修行の場で語っていた言葉がまとめられているものです。
タイトルだけ見ますと、どこかの実業家が書いたような感じですが、この本の巻末の付記に天風会の会員だった堀尾正樹さんという方が書かれたものによりますと、
本書の原典の『天風瞑想録』は、天風会の創始者中村天風が、夏期修練会において、ご自身の悟りを中核として宇宙・生命・人間・人生について講述されたものを、私が十五年かけて心魂を注いでまとめ上げ、昭和六十三年に発表致したものであります。
という「 15年」の歳月をかけてまとめられたものという執念の作品ともいえます。
どんな書籍でも、15年などの時間をかけて編纂されるものは珍しいと思います。
読みますと、中村天風は明治生まれの男性ですから、その口調は激しいものがありますが、この本を読んで、
「腑に落ちる」
部分が最初からたくさんあったのです。
それで、いつものような飛ばし読みではなく、私にしては珍しく、ちゃんと最初から読んで最後まで順番に読んだのでした。
もっとも腑に落ちたのは、中村天風が、この世のすべてを作り、今でもその基本的全存在であるもの(宗教でいう創造主とか)の名称を、仮称として
宇宙霊
と名づけている部分でした。
この言葉からかなり昔のことを思い出したのでした。
もう二十数年前ですが、私が二十代半ばから後半あたりの頃は、よく東京の下北沢あたりでダラダラと飲むことが多かったのですが、その頃、私は酔っぱらうと歩きながら空を眺めて、
「なんか全体にいるんだよな、きっと」
などと思いながら生きていました。
ある日、下北沢の、今はないでしょうけれど、ガソリンアレイというロックバーで飲んでいた時、どういうキッカケか覚えていないですが、お店の人と、
「神はいるかいないか」
というような話になったんですね。
お互いに酔っていて、加えて、当時の私は人生の中で最も「イラついていた」のか、あるいは、今思えば、その頃、サイクル22(第22太陽活動周期)の太陽活動最大期だったことも関係しているのかもしれないですが、当時は喧嘩っぽい流れとなることがとても多かったのです。
ここ 20年くらいは怒るとか喧嘩とかとは無縁ですので、あの頃の状態が自分でも信じられないですが、考えれば、周囲の誰もが喧嘩っ早い時期で、太陽活動の影響が大きかったかもしれません。
ちなみに、サイクル22は、1989年7月が活動最大期でしたが、このサイクル22の黒点相対最大値は 158(太陽活動の観測が始まった 1755年からの平均値は 114 )と、黒点活動が比較的大きな太陽活動周期でした。
まあ、太陽の話は置いておいて、そのガソリンアレイでも、お店の人と喧嘩のようなことになったんですね。そのお店の人は筋金入りの無神論者でした。
「神様なんていない」と。
私は、無宗教ではありますけれど、「無神論者ではない」という部分はあります。
しかし、今もですが、当時も「神とは何なのか」と尋ねられた場合、成立した言葉では対応できないのですよ。
その時も、私は最初は、「まあ、神っぽい感じのはいるんじゃないすかね」みたいな感じだったのが、店の人に、「それはどんなもんだよ」とか言われているうちにイラついてきて、
(ろれつの回っていない状態での会話と思って下さい)
私 「名前なんかあるわけないじゃない」
店 「名前も言えねえようなものが存在するってのがおかしいだろ」
私 「存在するものすべてに名前があるって考えるほうがおかしいだろ」
店 「じゃあ、どんなもんか説明しろよ」
私 「しいて言えば宇宙全体だよ」
店 「あ?」
私 「宇宙全部がその存在だって思ってんだよ、オレは」
店 「なんだそりゃ?」
私 「宇宙神でも宇宙霊でもなんでもいいが、そういうもんだよ」
というような、問答をしたことを思い出します。
もちろん正確なやりとりは覚えていませんが、このような「宇宙神」というような言葉を使ったことは確かで、しかし、その言葉は酔った勢いで口から出ただけで、その後は使ったことはありません。
というのも、わからないものに名称をつけるよりも、その正体は「曖昧なものでいい」と今でも思っているからです。
話を戻しますと、店の雰囲気が怪しくなり、友人が私を引き連れて店を出ました。
友人「ロックバーで神様を巡って喧嘩してんのかよ(苦笑)」
私 「いやまあ・・・確かに喧嘩するのはおかしいわな」
友人「オカは、宇宙が神様だと思ってんのか」
私 「いや違う。宇宙が神様ってのは便宜上だよ」
友人「じゃあ、何なの?」
私 「この世全体的な感じなんだけど、なんか言葉ではうまく表せないんだよな」
友人「神様じゃなくて、奈美様はどうよ」
私 「まあ、それでもいいけど」
思えば、この友人って、クレアの「J氏の異次元との接触体験」など、たまにブログに出てくるジローさんなんですけどね( 30年以上も飲み友だちやってんですね・・・)。
そして、中村天風さん・・・いや、「さん」ではなく、日本のヨガの始祖ですから、天風師と表記させていただきましょう。
その天風師の言葉が収められている『運命を拓く』の序章には以下のような記述があるのでした。
中村天風『運命を拓く』序章より抜粋
我々人間ならびにすべての生物は、宇宙が出来てから後に宇宙が創ったのではない ----- ということをはっきりとわからなければいけない。
宗教には、唯神論と汎神論というのがある。唯神論というのは、初めに神がいて、神がこの宇宙を創ったのだということである。
汎神論は、宇宙が出来てから、その中に神が現れたのだということである。
いずれも、神を相手に考えようとする考え方で、これは、今のように、まだ科学が発達していなかったときの人間としては、無理のない考え方である。私がいつもいっているとおり、今から千年二千年経つと、今あるような宗教という宗教は、地上から姿を消してしまうでしょう。
それは、人間の理智が、既成宗教などに頼らなければ活きられないような、哀れで無自覚なものではなくなるからである。
純粋哲学の立場から観察すると、この宇宙というものは、形ある宇宙以前に、すでに形のない宇宙が在った、という真理の探究というものが、行わなければならないのだ。
神とか仏とかいうのは、人間が便宜上、付けた名前だから、このようなものにとらわれてはいけない。
あなたがたは、抽象的で、あまりにも漠然としたものを、やれ、神だ、仏だ、と思っているが、では「神とはどんなものか」と聞かれたら、何と説明するか。「仏とはいかなるものか」と聞かれたら、どう説明するか。見たことも聞いたこともないものに、説明の与えられるはずがない。
(略)
本当の真理から論壇すれば、何も神だの仏だのと頼らなくてもよろしい。
先祖を敬い、先祖を忘れないための、追善供養は必要である。だが、あなた方の神仏に対する信仰は、いつも自己本位な自分の生命や、自分の運命の安全ばかりをこいねがうだけが、目的になっていはしないか。
これを第二義的信仰というのであるが、そのような信仰を持っている人間は、何となく神があり、仏があるように思い、その神や仏がこの宇宙を創っているように思っているが、それは違う。
さきほど、形のある宇宙が出来る前に、すでに、形のない宇宙があったのだ、といったが、形のない宇宙とは何か、まず科学的に考えてみよう。
この宇宙の中に、我々が感覚できるいろいろな森羅万象がある。この森羅万象も、一番初めはいったい、何から出来たんだろうということを、つきつめて考えるという方法で考えてみよう。
一番根本は何か、というと、ただ一つの実在から産み出されたものである。
その実在とは何であろうか。
哲学では、”根本的本源自在”と呼び、科学では、これを極微粒子的なものとして、”エーテル”と名づけている。
哲学のほうでは、人間の感覚では、捉えることの出来ない、茫漠たる、見えざる、一つの”気”であるといっている。これを中国では”霊気”と呼び、日本の儒学者は”正気”といっている。中国の宋代の儒教哲学では、これを”先天の一気”といっている。
いずれにしても、このただ一つのエネルギーを産み出す元が、宇宙を創り出したのである。
我々人間ならびにすべての生物は、宇宙が出来てから後に宇宙が創ったのではない ----- ということをはっきりとわからなければいけない。
宗教には、唯神論と汎神論というのがある。唯神論というのは、初めに神がいて、神がこの宇宙を創ったのだということである。
汎神論は、宇宙が出来てから、その中に神が現れたのだということである。
いずれも、神を相手に考えようとする考え方で、これは、今のように、まだ科学が発達していなかったときの人間としては、無理のない考え方である。私がいつもいっているとおり、今から千年二千年経つと、今あるような宗教という宗教は、地上から姿を消してしまうでしょう。
それは、人間の理智が、既成宗教などに頼らなければ活きられないような、哀れで無自覚なものではなくなるからである。
純粋哲学の立場から観察すると、この宇宙というものは、形ある宇宙以前に、すでに形のない宇宙が在った、という真理の探究というものが、行わなければならないのだ。
神とか仏とかいうのは、人間が便宜上、付けた名前だから、このようなものにとらわれてはいけない。
あなたがたは、抽象的で、あまりにも漠然としたものを、やれ、神だ、仏だ、と思っているが、では「神とはどんなものか」と聞かれたら、何と説明するか。「仏とはいかなるものか」と聞かれたら、どう説明するか。見たことも聞いたこともないものに、説明の与えられるはずがない。
(略)
本当の真理から論壇すれば、何も神だの仏だのと頼らなくてもよろしい。
先祖を敬い、先祖を忘れないための、追善供養は必要である。だが、あなた方の神仏に対する信仰は、いつも自己本位な自分の生命や、自分の運命の安全ばかりをこいねがうだけが、目的になっていはしないか。
これを第二義的信仰というのであるが、そのような信仰を持っている人間は、何となく神があり、仏があるように思い、その神や仏がこの宇宙を創っているように思っているが、それは違う。
さきほど、形のある宇宙が出来る前に、すでに、形のない宇宙があったのだ、といったが、形のない宇宙とは何か、まず科学的に考えてみよう。
この宇宙の中に、我々が感覚できるいろいろな森羅万象がある。この森羅万象も、一番初めはいったい、何から出来たんだろうということを、つきつめて考えるという方法で考えてみよう。
一番根本は何か、というと、ただ一つの実在から産み出されたものである。
その実在とは何であろうか。
哲学では、”根本的本源自在”と呼び、科学では、これを極微粒子的なものとして、”エーテル”と名づけている。
哲学のほうでは、人間の感覚では、捉えることの出来ない、茫漠たる、見えざる、一つの”気”であるといっている。これを中国では”霊気”と呼び、日本の儒学者は”正気”といっている。中国の宋代の儒教哲学では、これを”先天の一気”といっている。
いずれにしても、このただ一つのエネルギーを産み出す元が、宇宙を創り出したのである。
ということで、この宇宙観が、二十数年前に私が下北沢で言いたかった感じと似ていたのです。
当時の私には(まあ今もですが)このように言葉で説明することはできなかったのでした。
この天風師の語る宇宙の正体が腑に落ちたと同時に、ここに、
> 形のない宇宙
とあり、これもまたとても腑に落ちたのです。
私がビッグバン理論を受け入れることができない理由が、
突然、存在(モノ)が出現するということはあり得ない。
という点で、たとえば、ビッグバン理論も「式」で示すことができますが、まだ物理の法則ができていない時に「物理の式に乗っ取った運動が存在した」という変な話となってしまいます。
それがどうしても納得できないのでした。
このことは何度か記していますが、最近では、
・量子論が導いた「宇宙には終わりも始まりもない」というビッグバン不在の新しいモデルと、ミチオ・カク氏の書く「超反骨のフレッド・ホイル卿」を知った昨今
2015年02月27日
という記事で書いたことがあります。
しかし、「形のない宇宙」という概念があるのであれば、どのような宇宙論でも、一応は大丈夫なのかなあとも思います。
要するに、ビッグバンでも、天地創造神話でも何でもいいのですが、「宇宙が創られる前は何もなかった」では科学的にも概念的にも、何だかおかしなことになってしまうので、「形のない宇宙」であっても、「何か存在があった」のなら、どんな天地創造の話でも、あるいはどんな科学論でも納得できるのかもしれないと思ったのでした。
ちなみに、天風師は、先ほどの本の中で、
初歩の物理学の定義は、こういうことを我々に教えている。
”同じきものは、どこまで行っても、同じである”
と述べたことが記されています。
ところで、この天風師の述べることは、ジョルダーノ・ブルーノの宇宙と神の理論と似ている部分を感じます。
創造主の正体
上の抜粋部分ではないですが、天風師が、「人間の心は宇宙より広い」ということを理論的に説明している下りがありますが、ずいぶん以前の、
・バチカンの希望の砦は「宇宙人という神」の登場
2011年11月01日
という記事で、ジョルダーノ・ブルーノ - Wikipedia から「ジョルダーノ・ブルーノの宇宙観」の下りを抜粋したことがあります。
・ジョルダーノ・ブルーノ像
ジョルダーノ・ブルーノの宇宙観
ブルーノは無限宇宙が「純粋気体」で満たされていると考えた。これは後に創案される「エーテル」概念のはしりであり、この気体は惑星や恒星の動きに一切影響を及ぼすことはないとされた。
ブルーノの宇宙論で特筆すべきことは、それまで信じられていた宇宙が特定の中心から広がる階層球によって成り立っているという考え方を否定し、地球も太陽も宇宙の一つの星にすぎないと主張したことにあった。
地球だけが特別な星であるという当時の常識に挑戦するかのように、ブルーノは神が宇宙の一部だけに特別に心を配ることはないと考えた。彼にとって神とは心の中に内在する存在であって、宇宙のどこかにある天国にいて地球を見ているものではなかった。
というようにありますが、この
> ブルーノは無限宇宙が「純粋気体」で満たされている
といっていて、この純粋気体というのは、天風師のいうエーテルのことでしょうが、ただ、すごいと思ったのは、ブルーノは「宇宙の姿の現実」を述べていたのに対して、天風師は、
「このエーテル(気)こそがこの世の存在のすべてだ」
と述べているというように理解できるところです。
さらには、「宇宙存在は、すべての人間と常に関係している」ことを繰り返し言っています。
たとえば、下のように述べています。
中村天風『運命を拓く』序章より抜粋
「この現象界に存在する一切の事物の根底は、科学的にのみ見れば、物質的なものであるが、哲学的に観察すれば、どこまでいっても非物質的な、精神的なものである」
すなわち、眼にも見えないし、観念で想定しなければ想定できない”宇宙霊”という一つの気が、全宇宙を支配し、それが宇宙の本質になっている、ということである。とすれば、運命も、健康も、自分の心の思い方、考え方で、良くも悪くもなるのだということがすぐわかるはずである。
の中の、
> 運命も、健康も、自分の心の思い方、考え方で、良くも悪くもなるのだ
というように、人間は自分の考え方次第で、宇宙はそれに呼応した状態をもたらすということを述べているのが、この本の内容のすべてです。
そして、天風師が主張することは、言葉上は難しいものではなく、
・積極的な考えであること(否定的・消極的な考えを持たない)
・口から出る言葉を大事にすること(否定的・消極的な言葉は使わない)
・何にでも感謝すること
・信念を発布すること
・笑うこと
このあたりです。
あとは、「利他(自分の利益ではなく他人や全体などの利益)を考える」ことを徹底するということですね。
これがインドでのヨガの修行で得た悟りのようです。
しかし、これは一見簡単そうですが、よく考えると、非常に難しい。
つまりは、商売で失敗しようが、病気になろうが、イヤなことがあっても、何でも「そのことに感謝して積極的に考える」ということですから。
しかも、偽りの心ではなく、「本心」で。
この「口から出る言葉」に関しては、言霊(コトダマ)という概念とも似ていますが、天風師のヨガの師匠カリアッパ師は、
「創造主によって便利な言葉を我々人間だけに与えられているが、言葉というものが、積極的に表現されたときと、消極的に表現されたときでは、直接的にその実在意識が受ける影響は非常に大きな相違がある」
と言っていたそうで、口に出した言葉は、健在意識から潜在意識へと影響を与えて、つまり、「発した言葉は、現実的に、その人に作用する」ということを何度も何度も言っていたそうです。
下のようなやりとりもあり、これはちょっと笑いました。
天風 「しかし本当に具合が悪いとき、具合が悪いといっちゃいけないんですか」
先生 「具合が悪いとき、具合が悪いといって治るか?」
そりゃそうだなあと思います。
私も体が強いほうではないですので、子どもの頃からかなり多くの病気をしてきましたが、これは真理です。つまり、「具合が悪いとき、具合が悪いといっても病気は治らない」じゃあ、具合が悪い時に「具合が良い」といえば治るかというと、「これはウソになる」ので、これでも治りません(笑)。
なので、具合が悪い時は、具合が悪いままの状態を(命に別状がない場合)「できるだけ気にしない」より他はないということになりそうで、これは、「気になることから気をそらせる」という意味では、神経症治療のひとつである森田療法にも通じるような感じもあります。
そのあたりを考えますと、前回、ベンゾジアゼピン系の薬についての記事を書きましたが、神経症や不安障害の方には、この天風師の本は特に良いものなのかもしれません。
それにしても、あまり意識したことがなかったですけれど、私たちは「気」がつく言葉を毎日のようによく使っていますね。「元気」なんてのは「元(もと)の気」ですものね。
今さきほど書きました、
・気にする
・気にしない
なんて、直接的に「気」が使われていますが、言葉の構造上ヘンな連語であることにも気づきます。
要するに「気」というのは名詞ですから、これが例えば、「土」だとすると、
・土にする
・土にしない
と何だかおかしなことになります。
「水」でも、
・水にする
・水にしない
どんな単語でも、この文脈では言葉として成立しないです。
なのに、「気」だけは成立していることに、今、気づきました。
お、気づきました、も「気」だ。
この「気づく」なんてのは、「気」が「くっくつ」わけですかね。
ということは、天風師の言う「気=エーテルが創造主そのもの」であるならば、「気づき」なんて単語は、「人間に創造主がくっついた状態」と考えてもいいのですかね。
無意識で使っていましたけど、「気」のつく言葉はなかなかデカイ話ではあります。
宇宙存在は美と調和の存在で「悪」は含まれない
ところで、天風師の言う「口から出る言葉を積極的・肯定的にすれば、いろいろと良くなる」というのはあまりにも単純な理論に見えますが、それを徹底している人は少ないはずです。
これまで「言霊」という意味を少し難しく考えすぎていましたが、
・言葉と宇宙がつながっている
・宇宙と自分もつながっている
と考えると、ネガティブな言葉がダイレクトに自分にネガティブに返ってくるということは、それほど不自然ではないのかもしれません。
そして、重要なことは、天風師は、
この世は本質的に調和した美しい世界であり、宇宙という存在は否定的な部分を持たない
としていて、否定的な面は「悪魔」がもたらすものだとしています。
私自身は、いわゆるポジティブ・シンキング的な思想はあまり好きではなかったですが、これは好きとか嫌いの問題ではなく、「人類としての責任」のようなもののようです。
なぜなら、口から出た言葉は、自分だけでなく、周囲の人にも響いていくからです。
同時に、言葉の内容はともかくとしても、
・宇宙の創造…ひも理論…432Hz…528Hz…ライアー…:数々のシンクロの中で、この世の存在は「音そのもの」であるかもしれないことに確信を持てそうな春の夜
2015年03月22日
という記事以来、たまにふれることがありますが、
「この世は音そのものかもしれない」
という概念や、聖書の、
「はじめにことばがあった」
という記述など、口から出る言葉には音声周波数を含めて、確かに人格や社会全体の形成に大きく関わるものが含まれていると最近思っています。
まだ解明されていない極微粒子(エーテル)がもしこの宇宙に存在しているのなら、言葉と、そして音の周波数がその微粒子から様々なものを形作り、そこに性格を与えるという図式が生き生きとした状態で頭の中に広がります。
それら、全然ジャンルの違う様々な概念すべてが「まっすぐ一本の線上にある」ということは驚くべきことなのか、あるいは、それが真理なら当たり前のことなのか、それはわかりませんけれど。
それにしても、今までまったく知らなかった中村天風さんですが、ジョルダーノ・ブルーノやフレッド・ホイル博士あたりの宇宙観を知ってからではないと、この「創造主と人間」とか「形のない宇宙」だとかを理解できなかったとも思いますので、今まで知らなかったことはむしろラッキーだったと思います。
中村天風さんに至るまでの道のりが「降圧剤」だったというのは、何だかおもしろい道のりでしたが、とても充実したこの2日間でした。