2015年04月17日



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自分が「今生」に生まれた理由がやっとわかったのは嬉しいけれども、恐怖と不安からの解放の前に立ちはだかる「西洋科学的思考」



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▲ 2015年04月06日の CNN より。なぜ、このニュースを冒頭に貼ったのかは後半で書かせていただきます。



現代の人に蔓延する「不安」と「恐怖」の心

前回の記事、

シュタイナーが「子どもへの詰め込み教育は絶望的な社会を作る」といった100年後に、完全なるその社会ができあがった日本…
 2015年04月16日

は、何だか「不安」を感じさせるような書き方をしているところが多かったです。

読み返してみて、確かに懸念を感じているのは事実としても、「方法を模索する」ならともかく、「不安」とか「絶望」の気持ちを伝播させるようなことは良くないと反省しました。

その記事のタイトルにもあるシュタイナー本人が、『いかにして高次の世界を認識するか』の中で、生きる上で重要なこととして、


あらゆる観点から見て、私が不安を抱いても、何の役にも立たない。私は一切不安を抱いてはいけない。私は、自分は何をするべきなのか、ということだけを考えなくてはならない。


と考えることの必要性を説いていました。

不安、あるいは恐怖や絶望といったものは、最も忌むべき感情(あるいは「感覚」)であるということは、様々な方々が様々に述べているので、ある程度の真理はそこにあるのかもしれません。

これに関しては、最近たまに引き合いに出させていただく中村天風が「なぜ、現代の生活は不安や恐怖が多くなるのか」ということについて、

「現代の人々は、科学教育の弊害として、疑いから考えるようになり、それが多くの人間を、消極的な考えが基本の小さな存在にしてしまっている」

というようなことを言っています。

「現代の人びと」といっても、天風さんが亡くなったのは約 50年前のことで(享年 92歳)、その時代に生きた方の「現代」ですから、今からみれば結構昔ですが、どうして科学教育がそのような傾向を人に持たせるのかというと、以下のように述べています。


科学は証明を必要とする学問であるから、証拠がないと是認しない。証拠がなければ、承諾しない、というのが科学の研究者の態度だ。すなわち、1+1=2というやり方。

ところが、この世の中の事柄が、すべて1+1=2でわからなければ承諾しないという態度で応接すると、むしろわからないものの方が多いという事実を発見するのである。

科学は万能の学問ではない。それは、何事も科学的態度で応接し、1+1=2でなければ承諾しないという考え方で、人生を活きていると、知らない間に、わからない事柄の多い人生の中に、自分のいる姿を発見してしまう。

そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。

これはつまり人生に対する信念が乏しいために他ならない。



「信念」とありますが、これは、何に対しての「信念」かといいますと、中村天風の宇宙観が、

「この宇宙にはすべてを完全にあらしめたいという力が働いている。宇宙真理は不完全なものはない。そして、人間には、その完全である資格が与えられている」

ということで、

・そもそも宇宙は完全なもの
・その宇宙が人間に与えたものも完全なもの


なのだから、とにかく、その作用は「完全」であると。
なので、どんなことでも疑う方向ではなく、「信念」の方向から考える、と。

最近、この中村天風さんの言葉を抜粋することが多いですが、その理由は、確かに私はこの人の本を読んで、気づくことがあったのです。




来世のために私がしなければならないこと

「よくない感覚」の中でも「恐怖」というものの問題。

最近、これについて気づいたことがありました。

クレアの「自分が今生に生まれた理由 - 根源的な恐怖とのバトルの始まりの日に」という日記的な記事に書いたのですけど、私には「幼少からの根源的な恐怖」があります。

これを言葉で説明することは大変に難しいですが、神経症やパニック障害などだけの問題ではなく、人生の上で「厳しかった多くのこと」の基本的な原因はそこにあると思っています。

しかし、なぜ3歳とか4歳とか、そんな小さな時から自分はこの世に対しての根源的な恐怖を持っていたのだろうと考えると、その理由はわからないです。

ただ、今後どれくらいあるかわからない自分の人生の主たる目的が、天風さんの本を読んだ後に翻然と頭の中に出てきたのです。

その「私の目的、あるいは私が生まれた意味」とは、

「この根源的な恐怖と対峙して、これを消し去る」

ことです。

さきほどのクレアの記事のタイトルに「今生」とあります。

つまり、私の今後の人生の「責任」は、

「今生の中、つまり今生きている時代の中で自分の根源的な恐怖を消し去る」

ことだと認識し始めたのです。

この世に「輪廻転生」という概念が仮にあって、そして、それは次の世(来世)に「同じ気質」として伝わっていくのだとすれば、私が今のまま根源的な恐怖を解消しないままで死んでしまうと、

「来世に同じ苦しみを残すことになる」

と気づいたからです。

私はずっとこの「根源的な恐怖」から目をそらしていました。

例えば、不安ならどれだけ極度なものでも、ベンゾジアゼピン系の抗不安剤やお酒をたくさん飲めば、まずは回避できます。

その「消極的な対策」が今まで、どれだけ自分の肉体や脳を破壊し続けていたかは、「ブラック・フラミンゴが現れた地球。そして、数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本」という記事でも記しました。

何しろ、私が持っている不安と恐怖は、大人になってからのものではなく、「記憶があるころから始まっている」という強固なものです。それ以前からあった可能性があります。「生まれた時」から、あるいは、「母親の中で生命として芽生えた瞬間」から、すでに私は根源的な恐怖を持っていた可能性があるのです。

この状態を来世にまで引き延ばすことがどれだけ罪なことかを、最近少し実感したのです。

「もし来世というものがあった場合」ですが、私は、とんでもない大きな傷を次の世に受け継がせていく、ろくでもない存在となります。

いや、実は、来世だの輪廻転生があるかないかなども関係ないかもしれません。
今生を良くするということだけにでも意味はあるとは思います。

不安や恐怖や臆病な心といったものが「悪い」ことは、シュタイナーが『いかにして高次の世界を認識するか』で繰り返し述べていて、つまり、以前から知識としては知っていました。しかし、その時は、「そうなんだろうなあ」と思ってはいたのですが、シュタイナーの本にあるのは、

「翻訳の言葉」

であるのに対し、中村天風さんの言葉は、

「日本語の実録」

でして、それだけストレートに心の中に入ってきたのかもしれません。



恐怖と不安からの解放

ちなみに、『いかにして高次の世界を認識するか』について、

人工 DNA から生命が作られる物質科学の時代に考え直したい 100年前にシュタイナーが唱えた「人類が高次へ移行する方法」
 2014年05月12日

の中でご紹介したことがありますが、「神秘学の学徒になるための条件」として、シュタイナーは以下のように述べています。


私たちが克服しなければならない性質には、怒りや不機嫌のほかに、臆病な心、迷信、偏見を好む心、虚栄心、名誉欲、好奇心、必要のないことを何でも人に話したがる気持ち、人間を外見的な地位や性別や血縁関係をもとに差別する態度、などがあります。



羅列しますと、

・怒り
・不機嫌
・臆病な心
・迷信
・偏見や差別する心
・虚栄心
・名誉欲
・好奇心
・無駄なことをしゃべる


などは「いけないこと」とあり、実は、これは天風さんの言っていることと、ほとんど同じです。

さらに、シュタイナーの本の中に「十二弁の蓮華の育成のための六つの条件」という部分があります。十二弁の蓮華というのは私からの説明は難しいですので、リンクを示しておくにとどめますが、その条件は

(1)自分自身の思考の流れを支配すること
(2)思考の場合とまったく同じような首尾一貫性を行為においても保持する
(3)粘り強さの育成
(4)人間や、ほかの存在や、さまざまな事実に対する寛大な態度(寛容さ)
(5)人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度
(6)ある種の人生の均衡状態(平静さ)を捕獲すること

となっていて、この中の(1)と(5)は、不安や恐怖の心と直結することなんですね。

(1)は、自分自身の思考の流れを支配「できていない」から、不安になったり恐怖する。

(5)は、人生のさまざまな現象に対する「とらわれがある」から不安になったり恐怖する。

つまり、自分の思考の流れを「完全に」支配できている人(1ができている人)は、頭の中にある何らかの不安や恐怖をコントロールできるので、どんな時にも「不安も恐怖の心も抱かない」という人間だと言えると思います。

そして、たとえば、災害、犯罪、天変地異などに直面した時でも、「そういう現象にとらわれない」心がある人(5ができている人)は、恐ろしいと考えられているどんなことも「恐ろしくはない」という人間だということになります。

もちろん、これは非常に難しいことです。

そういう境地で生きている人はものすごく少ないでしょうが、「まったくいないわけではない」とも思います。

そして、私が「今生の責務」として目指さなければいけないのはそこなんです。

これが大変に難しいことはわかります。

私自身の感覚では、自分がそこに行くのは、9割がた無理だと思っています。
いや、可能性はもっともっと低いと思います。

ただし、これからあと何年生きるのかわからないですが、あと 20年とか生きる機会があるのであるとすれば、時間はまだ結構あるのかもしれないですけれど。

生きる時間が長ければ長いほど、「不安や恐怖と直面することが増える」かもしれません。

そして、それがいいのです。

私が、神経症からパニック障害になった意味は、「私に、自分の中にある根源的な恐怖の存在を知らしめるためだった」と今は思います。

そういう意味では、神経症を発症して本当に良かったと思います。

そして、最近の薬のことなどいろいろな知識や考えに行き着いた背景には、最近、繰り返し起きていた「激しいめまい」が関係しています。

これがなければ、薬のことも西洋医学のことも考えもしなかったし、何より、一連のめまいがなければ、私は中村天風さんの存在さえ知らずに生き続けたと思います。

そういう意味で、本当に良いタイミングで、めまいに襲われたのだと思います。
ありがたいことだと思います。

ところで、「めまい」に悩まれている方は、Amazon などで、横浜市立みなと赤十字病院の耳鼻咽喉科部長である新井基洋さんが書かれた本を読まれてみるとよろしいかと思います。

新井さんは、たくさんの本や冊子を出されているので、どの本がいいとかはわからないですが、上のリンクの中のレビューなどを参考にして選ばれるといいかと思います。

めまいの原因は様々でも、「方向感覚を統括しているのは小脳」ですので、その小脳を「めまいに慣らしていく」という方法しか根本的な方法はないことがわかります。

どうするかというと、運動(リハビリ体操)しかないと悟りました。

めまいに薬はほとんど効きません。

そして、めまいが怖いからと長く安静にしていては、悪化していくだけです。
ある程度は自分(の小脳を)をいじめるしかないです。


話が逸れましたが、いずれにしても、私は人生 50年ちょっとにして、やっと「生まれてきた意味がわかった」のでした。

それは先ほども書きましたが、

今の人生の中で、自分の根源的な恐怖を消し去り、次の来世に生まれる人に、私より楽に幸せに生きてもらいたい。

ということです。

もちろん、その意味と責任を達成できる可能性は極めて低いと思います。

多分できないと思います。

そもそも、シュタイナーの言う、

「自分自身の思考の流れを支配すること」

を達成するだけで、何十年かかるものだか。

さらに「人生のさまざまな現象に対するとらわれない」ことについては絶望的な感じがします。

何が起きても平気でいられるなんて。

道を知人と雑談をしながら歩いている時に、知人が突然射殺される。

外で食事をしている時、震度7の地震が起きる。

そういう時でも、「とらわれない」。

難しいと思います。


そして、最も難しいことは、これらには「手っ取り早い方法は存在しない」し、そもそも、「基本的に、方法論というものが存在しない」のです。

いかなるインスタントな方法も存在しないと思います。
手探りしかない。

自分自身で、そのように思って生きるしかない。
だから、時間がかかるのですね。

黙って待っていれば訪れるものではないです。
考えられない苦痛が伴うことが目に見えています。

10年20年で行き着けるものでもないかもしれません。

そして、それは他人が一切介入できるものではなく、いつの時代でも、どんな状況でも、自分1人だけしか、問題の解消はなし得ないものだと思います。

ただ、その難しさはともかくとしても、やっと「生きている意味」がわかったのですから、そのことについては喜ぶべきことだと思っています。

長々と自分のことを書いてしまいました。

ところで、冒頭に「人間の頭部移植 2年以内にも実施? イタリアの医師が計画」という CNN の記事を載せましたのは、今の人々に「不安」や「恐怖」を大きくさせている原因は、「現代の西洋的科学思考」なのではないかと思ったのです。




私たちは「西洋科学的思考」から少し離れた方がいいのでは

天風さんの言葉によれば、人生を「1+1=2(完全に証明できるもの)」としてとらえてしまうのが今の世の中ですが、人生は「1+1=2」の理論だけではとらえきれないことが多く、そのため、天風さんは、


そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。


という言葉にもありますように、また、最近になって書かせていただくことが多くなっている、「薬(西洋薬)」や、西洋医学的手法にしても、

「何かが違っている」

ということが最近になって、理解されてきました。

「間違っている」とは言わないですけど、「何となく違っている」でもいいかもしれません。

たとえば、一般的に、頭痛には痛み止めは効きますし、下痢には下痢止めは効きます。
それは「間違っては」いません。

しかし、その西洋医学の方向そのものが「何かが違っていた」のではないかということも、最近の薬に関しての研究でわかり始めているような気がします。

西洋の医学や科学は、人間を機械として、その部分部部を「部品」のように考え続けてきました。

シュタイナーの言っていたような、人間というものが、

・肉体
・生命体
・感受体
・自我


からなっていて、それが人間であるという考え方とは違うものです。

あるいは、谷口雅春が、以下のようにストレートに西洋医学を批判していたことも思い出します。


医学がますます発達し、いろいろの健康法が数えきれぬほど案出され、それによって癒やされる、あるいは癒やされるように見える病気もたくさんあるにもかかわらず、病者の数がずんずんふえてゆきますのは、医学というものが一方では病気を治しながら、他方では人間の霊的自覚を奪ってゆき物質のまえに人間を無力にしてしまいますから、差し引き計算してみると病気を治す数よりも、病気の起こりやすい精神状態を伝播する範囲の方が広いからです。

(『生命の実相』)



しかし、つい最近まで、「西洋医学的アプローチ」に対しての合理的な反証はなかったこともあり、「違和感」だけで進んできたものが、ここに来て「西洋医学的アプローチのおかしさ」が露呈してきている感があります。

昔の多くの人びとが言っていたことが今になり、現実だとわかる。

現代になって、薬治療は「脳の作用を阻害する」ことが多いため、霊的という言葉は使わなくとも、「多くの薬は、人の認知と思考を衰えさせ続ける」ことがはっきりしてきています。

特に、脳の中でも松果体は血流が多いですので、大きな影響を受けると思います。

そして、冒頭の「頭部の移植手術」などというのは「人間を部品として考えている行為の最たるもの」だと思ったのです。

CNN の記事によりますと、この頭部の手術は、

首から下がまひした患者の頭部を切り離し、脳死と判定された他人の体に移植する――。イタリアの医師が、そんなSFのような移植手術の構想を描いている。米国で6月に開かれる学会で講演して協力者を募る考えだ。

とあり、

・首から下が麻痺した患者の頭部を切り離す
・脳死と判定された他人の体に移植する


ということをしようとしているのですが、何か違和感がある。

そもそも、頭部の神経組織を繋ぐほどの技術があるなら、麻痺そのものを治せるのでは、とか(頭部のすげ替えは動物でも成功したことがありません ← 過去に何度もサルでおこなわれています)。

考え方がもう本来の「医学」とは違う方向に進んでいる。現代の医学は、頭部のすげ替えなんてことができるレベルには到達していないのに、それでもやろうとする。

この状態は、「医学が人々に希望を与える」というより、むしろ「不安と恐怖を与えている」気がするのです。

人間という存在と、まして、その人生や健康は「1+1=2」では語ることはできないという視点が西洋科学的思考にはない・・・あるいは、「失ってしまった」気がするのです。

なお、「科学」、あるいは「哲学」を基本にするのは、相変わらず大事なことです。
科学を基盤にしなければ、何も進まないです。

でも、今の西洋科学思想は、医学も宇宙学も含めて、科学ではなく、むしろオカルトであることが、冒頭の頭部の手術のニュースでもわかるわけで、世界中で大量に使われている抗がん剤が「オカルト」(延命効果がないのに、延命治療として使う)であることも、すでに周知だと思われます。

いわゆるオカルトと科学の立場が逆転している気がします。

風邪を引いて風邪薬を飲むという滑稽さは、確実なオカルトなのに(風邪薬は風邪を治さず、むしろ根本治癒を長引かせます)、でも、みんなそれが「科学のように」思ってきた。

そういう意味から、あくまで、私自身の問題として、「恐怖を取り除く最初の関門は、この西洋的思考から抜け出すこと」だと思った次第です。

そして、真実の科学や医学の感覚を取り戻すこと。

ここで書いたことは、個人的なこととはいえ、日本全体も、そろそろこのあたりに移行してもいい時なのかもしれないなとは少し思います。

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