2015年04月25日



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シュタイナーが「愚か者」扱いされた100年前も、あるいはパラケルススが医学界から追放された500年前も西洋医学の問題は現在と同じだった



北海道で起きている「大規模な大地の隆起」

本題とは関係ないですが、今朝、下のニュースが報じられていました。

rausu.jpg
NHK

北海道の羅臼というのは、知床半島にある場所です。

知床半島といえば、森繁久彌が歌った 1960年の『知床旅情』で名高い場所ですが、この年は、東映サラリーマンシリーズの最高峰『サラリーマン忠臣蔵』が発表された年であり、森繁久彌にとっては公私ともに充実した時期だったといえるかもしれません(だからどうした)。

その知床の海岸で、何だか大変なことが起きているようです。下は、北海道新聞からです。


羅臼の海岸線、15メートル隆起? 長さ800メートル、幅30メートル
北海道新聞 2015.04.25

24日午後6時ごろ、根室管内羅臼町幌萌町の住民から「近所の海岸線が隆起しているようだ」との連絡が羅臼町役場に入った。

同町によると、羅臼町幌萌町の海辺が約800メートルにわたり、高さ約10〜15メートル、幅約30メートルの規模で盛り上がっているのを確認したという。



ということで、「 800メートルの範囲」と小さくはないです。

記事には、

> 近所の女性が24日早朝に訪れた際には約30センチの高さで土砂が盛り上がっていたという。

とありますので、「1日で 10〜 15メートル」海底が隆起してきたようです。

まだ起きたばかりで何がどうなるのかわかりませんが、この北海道の大規模な地盤の隆起、高さや広さが、この範囲だけで止まるのでしたらともかく、今後の動向が気になるところです。

昨日の記事でご紹介しました、ロシアの奇妙な大地の現象などもそうですが、いろんなことが起こりますね。

というわけで、今回の本題は、ニュース性があるものではないですが、最近「現代の医学の進んできた道は正しかったのだろうか」と思うことがたまにありましたが、ルドルフ・シュタイナーのいくつかの本を読んでいるうちに、

西洋医学は 500年以上も前から正しい方向ではない方へ歩んできた・・・かもしれない

ということがわかってきたような気がしたのです。



シュタイナーの守備範囲の広さ

Steiner-425.jpg
・ルドルフ・シュタイナー(1861 - 1925年 / 64歳没)

ここ3日ほど、シュタイナーの本が立て続けに届きました。

これらも、Amazon の「この商品を買った人はこんな商品も買っています」に、いろいろと表示されたものを購入してしまったものです。

それにしても、シュタイナーという人は、守備範囲の広い人で、届いたうちの一冊は、『音楽の本質と人間の音体験』というもので、タイトル通り音楽に関してのものです。

私は最初、「ふんふん、ま、音楽ね」と油断して読んでいると、音楽原理主義者ともいえるような、怒濤のごときシュタイナーの「音楽への熱い想い」がぶちまかされていて、圧倒されます。

音楽だけを一生涯研究し続けた音楽学者のごとき熱意が感じられるのです。

たとえば、「なぜ楽器が必要なのか」という、何だか軽くも流せそうな話題も、シュタイナーに語っていただきますと・・・。


『音楽の本質と人間の音体験』音楽教育の基礎より

人間の音楽的発展は、そもそもどのようなものでしょうか。霊的なものの体験から発するものです。音楽のなかに霊的なものが現存することから発するのです。霊的なものは失われ、人間は音の形象を保つのです。

のちに人間は音を、霊的なものの名残としての言葉と結び付け、かつてイマジネーションとして有した楽器を物質的素材から作ります。楽器はすべて霊的世界から取って来られたものです。

楽器を作るとき人間は、もはや霊的なものが見えなくなったことによって空になった場所を満たしたのです。その空の場所に楽器を据えたのです。

音楽においては、唯物論の時代への移行がどのようにおこなわれるかが、ほかの領域よりもよく見てとれます。楽器が響くところには、かつて、霊的な実在があったのです。

その霊的な実在は、古代の霊視力から消え去りました。しかし、人間が音楽的なものを客観的に持とうとするなら、外的な自然のなかにはないものを必要とします。外的な自然は人間に、音楽のための相関物を与えないので、人間は楽器を必要とするのです。



なんとなく、「ふーん、楽器ねえ」と、いい加減な気持ちで読み始めたところに、この得体の知れない情熱と迫力。

「この紋所が目に入らぬか!」

というような、水戸黄門が正体を明らかにした時のような圧倒感も感じます。

言っていることに関しては、

・楽器の音色の部分は、かつて「実際に霊的な何かが存在した」空間
・今はその霊的存在はないので、その空間を楽器(の音?)で満たしている


ということなのでしょうけれど、言っていることは、さっぱりわからないのですが、熱い部分は感じます。「熱血霊学教師」というような言葉も浮かびます。

今回は音楽の話を書くわけではないですが、このシュタイナーの音と音楽への執念というのは、

宇宙の創造…ひも理論…432Hz…528Hz…ライアー…:数々のシンクロの中で、この世の存在は「音そのもの」であるかもしれないことに確信を持てそうな春の夜
 2015年03月22日

という記事あたりから記していたこともあるような、

この世界そのものが音である

というような概念をくすぐる感じもあります。

音や「音楽の意味」については、私自身の考え方なども多少はありますので、また別の機会に書かせていただくとしまして、話をシュタイナーに戻しますと、「医学」についても生涯研究し続けていたようで、1923年にシュタイナーがイギリスでおこなった「人体と病気の過程」(『病気と治療』に収録)の中で、

「医学についてわたしは三十数年研究してきて」

と述べています。

1923年となりますと、シュタイナーの晩年にあたり、62歳くらいだと思いますが、それでも、三十数年ということは、二十代から医学を研究し続けていたことになります。

精神科学(霊学)、音楽、哲学、教育、芸術、建築… と、いろいろと幅広くやっていたシュタイナーですが、「医学も真剣かよ」と、その活動の多方面ぶりには驚かざるを得ません。



「異端」が作り出した道

そんなシュタイナーですが、その思想の根幹(霊学的な思想)にはいろいろと逆風があったようで、講演の内容の中には、「現状の科学界への不満」のような言葉が垣間見られます。

たとえば、1909年1月18日に行われた講演「実際的な思考方法」(『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』収録)の中で、シュタイナーは、「前世の存在」について述べた後に以下のように語っています。シュタイナーが 48歳の時です。


1909年のシュタイナーの講演「実際的な思考方法」より

「人間の存在の核は、前世に由来する」と見なす時代が、いずれやってくるでしょう。「人間存在は前世の成果である」と、認識するようになるでしょう。

「生物は泥などの無生物から発生する」という昔の学者たちの意見が克服されたように、輪廻思想に対する抵抗は克服されるにちがいありません。三百年前まで、「動物は泥などの無生物から発生する」と、自然科学者は信じていたのです。

イタリアの自然科学者フランチェスコ・レディ( 1626 - 1697年)が初めて、「生物は生物から発生する」と主張したのです。そのように主張したために、彼は攻撃されました。自然科学的な宇宙観を唱えて火炙りにされたイタリアの修道士、ジョルダーノ・ブルーノ( 1548 - 1600年)のような目に遭ったのです。

今日では、もはや火炙りは行われません。今日では、「心魂 - 精神は、心魂 - 精神に由来する」という新しい真理をもたらす者は、火炙りにはされませんが、愚か者と見なされます。

しかし、「人間は一度だけ地上に生きるものだ。祖先から遺伝される特質と結び付く永続的な心魂 - 精神など存在しない」という考えが否定される時代が、やがてやってくるでしょう。



と、シュタイナーは、その 1909年当時の、前世を含めた精神科学を認めない科学界の考えをやんわりと批判しています。

ジョルダーノ・ブルーノについては、私は3年ほど前に初めてその存在を知り、その頃、「現代のジョルダーノ・ブルーノを作り出さないためにという記事を書いたことがあります。

ブルーノは、無限の宇宙を主張し続け、そして、異端として焼かれて死んでしまいました。

ところで、シュタイナーは、「生物は同種の生物からしか生まれない」という、現在では科学的な常識とされていることを証明した自然科学者フランチェスコ・レディを他の講演でも引き合いに出していまして、そして、レディを「偉大な科学者」として賞賛していますが、このことからも、シュタイナーが、真実の科学の探究の道筋を大事にしていたことがわかります。

前世とか輪廻転生とかの概念は、今の世の中では、どちらかというと、正当な科学ではなく、オカルトやスピリチュアリズムのような捉えられ方をされますが、シュタイナーの言う霊学は、自然科学と同じ土俵上の科学だというとらえ方で良いのかもしれません。

そういう意味では、現代でも、前世や輪廻転生を語る人たちは、スピリチュアリズムに偏ることなく、正しい自然科学、正しい宇宙物理学などを学ぶほうが良いような気もします。その時点での正当な科学の智恵が根幹にないままに輪廻転生を語り始めると、それもまた霊学を誤った方向に導きそうな気がします。

どうも、最近の世の中で語られる「前世」という言葉の響きの「軽さ」には、何となく、やや問題があるような気もしています。

ところで、このフランチェスコ・レディという人ですが、フランチェスコ・レディ - Wikipedia には、


フランチェスコ・レディ(1626 - 1697年)は、イタリアの医師。

一連の実験を行ったことでよく知られており、1668年に発表した「昆虫の世代についての実験」は、自然発生説と呼ばれる学説への反駁の第一歩となった。当時優勢だった自然発生説では、肉を腐敗させるとそこから自然に蛆がわくとしていた。



とありますが、この実験は、文字で読むより、イラストで見てみますと、

「あー、この実験は子どもの頃、なんかで聞いた」

と思い出します。

当時の科学は「虫はモノから自然に発生する」とされていて、例えば、蛆は「肉から自然に発生する」と考えられていたことに対して、疑問を感じていたレディは、下のように、ふたをした瓶と、ふたをしない瓶で、その発生を確かめたのでした。

redis-experiment.gif
FRANCESCO REDI'S EXPERIMENT

この実験で、「生物は異物からではなく、同種の生物からのみ発生する」ということを実証したのですが、今では当然とされるこの結論を導き出したレディは当時は「異端」とされてしまったのでした。

シュタイナーもまた当時の科学界で、レディのように「異端」されていた部分が少なからずあったのではないか、ということが、さきほどのシュタイナーの講演で少しわかる気がします。

さて、そして、シュタイナーの医療に関しての講演をまとめた『病気と治療』に、16世紀の医者であり、錬金術師であったパラケラススという人の言葉が述べられています。

それを読むと、「医学はすでに 500前には誤った方向で固定されつつあった」かもしれないことが何となくわかってくるのです。

医学の本質のズレの問題はなかかなに根深いものであるのかもしれません。




パラケラススの時代の医学

パラケルスス(1493 - 1541年)は、パラケルスス - Wikipedia によりますと、


1515年にイタリアのフェラーラ大学医学部を卒業した後、医療を施しつつ旅を重ね(略)1525年にバーゼル大学の医学部教授に就任したが、その翌年には大学から追放され、以後放浪の身となる。追放の理由は諸説あり、現在も明らかになっていない。

パラケルススは医者であるが、錬金術師としても有名である。錬金術師としては「ホムンクルス(錬金術師が作り出す人造人間)を創り出すことに成功した」「賢者の石(霊薬)を持っていた」「常に持ち歩いている剣には賢者の石が入っている」といった伝説がある。



という人ですが、このパラケラススの考え方では、人間というものは、

・身体(地上界 / 目に見える世界)
・精気(天上界 / 目に見える世界)
・魂(霊的世界 / 目に見えない世界)


というものから成り立っているとしたものだったようです。

シュタイナーは、人間は、

・肉体
・生命体(エーテル体)
・感受体(アストラル体)
・自我


の4つの要素から成り立っているとしていて、多少の違いはありますが、パラケルススもシュタイナーも「人間は単なる肉体が生きていたり死んだりするもの」という考え方はしていません。

生きて動いている自分という存在と関係している「正体」は極めて複雑で、それが人間個人を形作っているとしているわけです。

そのパラケルススが語ったとされる言葉を、シュタイナーは、そのまま講演で述べました。

Paracelsus.gif
・1625年に描かれた錬金術的構成のパラケルススの肖像。
 Portraits of Paracelsus



シュタイナーの1908年の講演『病気と治療』より「パラケルススの言葉」を述べたもの

南欧の医者たち、モンペリエ、サレルノ、パリの医者たちは栄光にあこがれ、人を軽蔑したいと思っている。それなのに、医者たち自身はなにもものを知らないし、なにもできやしない。これはおかしいんじゃないか。

医者のおしゃべりな口も、豪奢な服装も、患者をごまかす技術にすぎない。浣腸したり、下剤をかけたり。

それでも死んでしまったら、あらゆる手段を尽くしたんだから仕方ない。医者たちは偉大な解剖学に通じているという。それなのに、酒石が歯に引っ掛かっているのを見落とす始末。

医者は、なにを解剖し、なにを見ているのか。

医者は、糞尿と付き合うけれど、目が二つしかないので、目のまえの体がよく見えない。ドイツの医者は一生懸命、カッコウみたいに覗く。

そうやって、いろんなものを見るけれど、昔のほうがかえってよく見えていた。糞尿と腐肉に囲まれて窒息しそうだ。医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ。



と、16世紀の時点で、当時の医学を徹底的に批判しています。

まあ、この「医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ」という部分に関しましては、パラケルススから 500年経った今でも、そういうような部分もないではないと思える部分もあるような・・・ないような・・・。

今はともかくとして、当時の医師というのは、パラケルススの言葉からは、あまり慈愛のある職業ではなかったのかもしれません。

中世ヨーロッパの医者の服装の例
medival-doctor.jpg
LHS-CanterburyTales


そして、このパラケルススの言葉を引用した 100年前ほど前の講演でも、シュタイナーは基本的な意味で当時の医学を批判しています。

何だか、どうやら、500年前から 100年前に至る間には「本質的な意味」での医学の発展はなかったのかもしれないことが伺えます。そして、その後の 100年もまた・・・。

「本質的な意味」と書いたのは、進んだ部分では大変に進んだからです。

解剖学的な意味で人間の器官やパーツを把握したり、化学物質の発見が対症療法に効果を発揮する西洋薬に結び付いていったり、放射線など医療への応用ができる発見があったり、医学は部分的には大きく発展しました。

しかし、先日のパッチ・アダムス医師の記事でもふれましたように、やはり、それは医の「本質」ではない気がします。

そして、これは「愛」とか何とかいう曖昧な話ではなく、実際的な話です。

うつといわれて、すぐに抗うつ剤が処方され、ガンと診断され、ただちに抗がん剤が処方される現在。

しかし、抗うつ剤でうつが完治した人は(ほとんど)いないし、抗がん剤で生きのびた人も(ほとんど)いない現実を見ると、愛だの何だのという言葉以前に「単に手法が間違っているのでは?」ということです。

実際、うつ病もガンも「治療するより、むしろ何もしないのが最も効果的」だとさえ言えるデータも数多く存在します。もちろん、「何もしない」は極論としても、ここから考えなければならないことはたくさんあると思います。

WHO によるうつ病治療の追跡調査
who-1998.gif
過去記事より


抗がん剤を使った場合と使わない場合の生存率
cancer-lancet2.gif
・医学誌ランセット掲載データ。過去記事より

そして、今のようになってしまった原因の大きなものは、実は「医者」のほうだけではなく、「私たちにもある」のではないだろうかとも私は最近思い続けていました。

特に、私のように、小さな頃から体が弱かった人は「症状=薬」という条件反射ができあがっていて、何かと薬を頼りにする傾向があります。

そのようなことはあまり正しい傾向ではないということを、私たち自身が真剣に考える時なのかもしれません。

今回は、やはりシュタイナーの言葉で締めたいと思います。

今から 100年ほど前の人々も、最近までの私のように、「病気に対して真剣に考えていなかった」ことがうかがえ、それに対してのシュタイナーの言葉です。自分に対して言われている気もしましたので、その部分を抜粋します。



1908年のベルリンでのシュタイナーの講演「病気の本質」より

きょうは、精神科学の観点から、病気の本質についてお話します。一般に人間は、病気になってはじめて病気のことを気にかけるものです。

そして、病気になったとき、なによりも病気が治ることに関心を持ちます。病気が治ることが問題なのであって、「どのように」癒やされるかということはどうでもよいと思っています。現代人の多くは、そのように考えています。

今日では、宗教よりも医学の領域に、権威への信仰が見られます。医学的な権威者の有する権限は大きく、将来さらに大きくなっていくでしょう。

このような現状は、一般人に責任がないとはいえません。病気で苦しんでいないと、このようなことについて真剣に考えないからです。

医学的な権威者がさまざまなことがら、たとえば子どもの教育や学校生活について語るのを、人々は平静に聞いています。その背後にどのようなことがらが存在するのかを、気にかけていないのです。

病院がどのような法律によって作られるかというようなことを、人々は傍観しています。人々は、そのようなことに真剣なまなざしを向けようといません。

通常の唯物論的な医学では治らない人々も、なぜそうなのかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。霊的な方法によってものごとの基盤を見極めようとはしないのです。

今日のような唯物論の時代には、病気についての教義が唯物論的な思考方法の大きな影響を受けています。ある方法を特別なものだとすれば、道を誤ります。

人間は複雑な存在であり、人間に関するものはすべて、その複雑さと関係するということを、なによりも明らかにしなくてはなりません。

もし、人間がたんに肉体からなる存在であると見るなら、治療をすることは不可能になります。健康と病気は、肉体だけに関することではなく、人間の心と精神にも関係しているのです。

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