528Hz周波数が水に描く紋様
・528 hz frequency cymatics in water
ささやかな激動期だったこの1ヶ月
先月、人生最初の講演会をしてから1ヶ月ほどになりますが、その講演会は、何といいますか、私自身にとって、重要な偶然や出会いのキッカケや始まりとなった日でした。
そして、それからの1ヶ月は、私にとって特別な1ヶ月だったといっていいと思います。
講演会の時のことは、
・宇宙の創造…ひも理論…432Hz…528Hz…ライアー…:数々のシンクロの中で、この世の存在は「音そのもの」であるかもしれないことに確信を持てそうな春の夜
2015年03月22日
という記事に書きましたが、講演会の日に、主催のヒカルランドの社長さんから、音の周波数とこの世のなりたちについて記されている『ウォーター・サウンド・イメージ』をいただいたり、あるいは、講演会に来ていただいていた、ライアーの演奏ユニットでらっしゃる、リラ・コスモスさんから演奏 CD をいただき、ライアーの存在と、その音色を知ることができたというのも大きいです。
それ以来、私の BGM には、ライアーの音楽の占める割合がとても多くなっていて、自然とそうなっているということは、体というか心というか、求めている部分があるのだとも思います。
薬の真実も知り
その少し後に、偶然「薬の作用の真実」を知る機会に恵まれます。
昨年以来、どうも、めまいやら胃の不調やら神経症的なものやら、たびたび体調や神経的な問題に見舞われていた際、その度に薬でごまかしていたのですが、
「こんなんでいいのだろうか」
と考えながら道を歩いていた時、ふと目にした「自律神経免疫療法」の研究をされている医師の方々が記したムックを偶然手にして、それによって、薬(西洋薬)が体に及ぼす「負のメカニズム」をはじめて知ることになりました。
その際に知ったのは「抗コリン薬」という、風邪薬を含めた多くの西洋薬について「免疫を落として病気を難事化させる可能性」についてでしたが、その後、
・ベンゾジアゼピン系(抗不安剤や抗うつ剤の一部)
・抗うつ剤
・降圧剤
なども、どれも基本的に「とても体や脳に悪い」ということも知りました。
また、それらのことは、私自身の幼少時からの体験とも合致し、経験上からも「ほぼ間違いない」といえるところにいます。
ここではそのメカニズムには詳しく触れませんが、それぞれ、過去記事の、
・ブラック・フラミンゴが現れた地球。そして、数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本
2015年04月12日
・健康ブームの中でガンが増え続ける理由…
2015年04月10日
に記しました。
皮肉なデータもいろいろと目にしました。たとえば、 1980年代くらいからは健康ブームが盛り上がり、それ以前よりも人々が健康に気を遣うようになりました。
多くの人たちがタバコをやめたり、数多くの健康食品が出現し、あるいは、不調の場合には病院にすぐに行き、すぐ薬を処方されるようになったのですが、その 1980年頃から、
「むしろ病気での死亡者数と認知症の患者の数は急速に増えている」
ということが、厚生労働省のグラフから明らかになっています。
・厚生労働省
これらには、いろいろな要因はあるにしても、その根本には「日本人の自己免疫の低下」があることは間違いないと思われます。そして、その免疫の低下に「薬」と「食品の問題」が、少なからず関係していると確信するに至っています。
特に、「毎日飲むような日常の薬」に問題がありそうです。
それほど気に留めないで飲んでいる睡眠薬や抗不安剤。
まわりもみんな飲んでいるから、と飲み続けている降圧剤。
ちょっと落ち込んだ時に処方されて、漫然と飲んでいる抗うつ剤。
こういうものが、どれだけ私たちの細胞や免疫システムにダメージを与えているかということが、このトシになってやっとわかったのでありました。
私も何も知らなければ、たとえば、医者に「血圧が高いですね。降圧剤でも飲みますか」と言われて、自覚なく、「はあ、そうですか」とか言って飲んでいたかもしれません。
降圧剤のうち、現在使われている「カルシウム拮抗剤」という種類の降圧剤では、体のすべての細胞の「カルシウムが通る穴」を閉じてしまい、免疫細胞の機能まで弱まってしまうことが問題で、それが「ガン細胞が排除されない原因となる」と、関東医療クリニックの松本光正医師は述べています。
あるいは、細胞の機能を弱めるようなものを飲み続けると、いつかは脳細胞に問題が出るのではないか、ということも含めて、脳や認知の働きにも関係するのではないかと私は思っています。
しかし、現実として、日本人の成人のうちの4に1人が降圧剤を飲んでいる。
高齢者に限れば、もっと高い比率で飲んでいるかもしれません。
まあしかし、薬のことは今回は関係ないですが、この1ヶ月、
・音にまつわること
・薬にまつわること
のシンクロが次々と起こり、その中で、いろいろな本とも出会ったのですが、たとえば、その中の、
・シュタイナー(神秘思想家、医学研究者、他)
・森田正馬(森田療法を生み出した精神科の医師)
・中村天風(日本最初のヨガの行者)
・野村晴哉(整体の始祖)
あたりの人たちは、共に思想の出発点はまったく違うわけですし、何より、学問や探究の対象そのものがまったく違うものなのにも関わらず、
「ときとして、同じ思想に辿り着いたり、同じ発想の展開を見せる」
ことに、この世の興味深さを知った次第でした。
その中でも、今回は「恐怖」について、自分に向けた内容も含めた記事を書こうと思っています。
恐怖は無価値な観念だとは知ってはいるけれども
これの「恐怖との対峙」に関して、私は、2週間ほど前に、
・自分が「今生」に生まれた理由がやっとわかったのは嬉しいけれども、恐怖と不安からの解放の前に立ちはだかる「西洋科学的思考」
2015年04月17日
という記事を書きまして、私が今の「生」の中でおこなわなければならないことは、
「生まれた時から持つ根源的な恐怖と対峙して、これを消し去る」
ことだということに何となく気づいたことを書きました。
しかし、そこにも書きましたけれど、これほど難しいことはあまりないのです。
大人になってから体験の中で築かれた恐怖ならともかく、まだ何の経験もない幼い頃から、私は「意味のわからない恐怖」を持っていまして、そんな生まれて以来持つものを簡単に消し去ることなど、不可能に近いです。
私がシュタイナーの言う「輪廻転生」的な部分に、やや共鳴できるのは、そのことがありました。
つまり、
「生まれながらに得体の知れない恐怖を持ってるって変だろ」
ということです。
「恐怖遺伝子」なんてのがあるならあれですけれど、まさか胎内で親の持つ恐怖感が伝染するというわけでもないでしょうし、私の根源的な恐怖は「前代(前世)」からの引き継ぎであると考えてもいいのかなと思うこともあります。
しかも、「〇〇が怖い」という理由があったり、ガイコツやモンスターが怖いというような、誰にでもあるような観念なら問題ないのですが、私の場合は「恐怖の対象が何なのだかわからない」のです。
幼稚園に入る頃から「怖い対象が何もないのに、突然、恐怖にとらわれる」ことがよくありました。
道で突然、怖くて歩けなくなる。
あるいは、その後、「夜驚症」というものにもなっています。
夜驚症 - Wikipedia
夜驚症(やきょうしょう)とは、睡眠中に突然起き出し、叫び声をあげるなどの恐怖様症状を示す症状のことである。概ね数分から十数分間症状が続く。
夢とは異なり目覚めた時に本人はそのことを覚えていないのが普通である。小学校入学前から小学校低学年の児童に見られる症状であり、高学年以上では稀である。睡眠中枢が未成熟なために起こる症状であると考えられている。
上には、
> 目覚めた時に本人はそのことを覚えていない
とありますが、私は夜驚症の中のいくつかを覚えています。
というか、妙な書き方ではあるのですが、夜驚症で恐怖に苦しんで叫んで走り回っている自分の姿を「客観的に見ていた」ことを覚えています。
まあ、小さな頃のことなので、そのような思い込みだったのかもしれないですが、今でも恐怖で叫んでいる自分の姿を思い出して切なくなります。
夜驚症は、こちらによりますと、アメリカのデータで、繰り返し起こしている率は、児童全体の 5%くらいということで、特に少ないというわけでもないようです。
私の場合は、8歳くらいまでには収まっていたと記憶しています。
ただ、今でも思い出しますが、発作の前に、眠っている目の前に「針が突き出たような大地」が広がり、それがガーッと広がっていった光景を思い出します。その光景が何だかわからないのに、怖ろしくて怖ろしくてどうにもならない。
夢遊病的なものを想像される方もいらっしゃるかもしれませんが、認識はしっかりしているのです。日常の光景は普通に目に入っています。ただ、その光景が「その前にベールのようにある光景の奥に広がっている」という感じです。恐怖の光景の後ろに、心配そうな父と母の顔や、部屋の様子など日常が広がっている・・・。
まあ、夜驚症はともかく、そのように、いろいろと「恐怖」についての症状は多かったのですけれど、ちなみに、小学校の・・・何年生だか覚えていないですが、「作文」で、この「根源的な恐怖」をテーマにしたものを書いたことがあったんですが、先生からは「書き直したほうがいいのでは」と言われたことを思い出します。
教師さえも目を背けるイヤな内容だったのかもしれません(笑)。
でも、その時は「書き換えません」とお断りしました。
そして、大人になってからは、不安神経症とパニック障害という「恐怖の権化」のようなものにも囚われまして、二十代の私を「ベンゾジアゼピン薬漬け」としていきました。
そういう長い付き合いのある「恐怖」ですから、そう簡単に、どうこうできるものではないのは確かなのですが、最近読んだどの人の本にも、
恐怖観念ほど無価値で無意味なものはない。
という主旨が述べられています。
シュタイナーは、恐怖心や臆病な心は「克服しなければならないこと」としています。
著作『いかにして高次の世界を認識するか』の中で、シュタイナーは、不安や恐怖を持つ人は、常に下のように考えることが重要だとしています。
「あらゆる観点から見て、私が不安を抱いても、何の役にも立たない。私は一切不安を抱いてはいけない。私は、自分は何をするべきなのか、ということだけを考えなくてはならない」
しかし、こう言われて、これだけで「はい、これで私は不安や恐怖を克服しました」と言える人は、多分、元々がすごい人であり、私のような人間には、このような言葉だけではどうにもならない面があります。
そこで、今回は、日本の賢者ふたりによる「不安と恐怖」についての文章をご紹介したいと思います。
不安や恐怖への対処
ここでは、薬を使わない強迫神経症の治療方法のひとつである森田療法の創始者である医学博士の森田正馬さんが昭和2年(1927年)に書かれた『神経質の本態と療法』からの抜粋です。
「神経質」というのは、今でいう神経症と、大体は同義だとしていいと思われます。
私は森田療法を受けたことはないですが、二十代の時に森田療法の本を読んで、ずいぶんと気が楽になった記憶があります。
・森田正馬( 1874 - 1938年)
今回抜粋するのは、「恐怖」に限定したことではなく、様々な想念や出来事についてのことで、また、最近悩まされていた「めまい」という言葉も出ていたので、その部分を抜萃することにしました。
ちなみに、この抜萃部分は「神」という言葉から始まりますが、森田医師は基本的に、宗教的な意味での神という存在を信じません。森田医師は、神というのは「自然法則そのもの」だと考えています。
『神経質の本態と療法』 宗教的および哲学的説得 より
神、仏、真如とかいうものは、宇宙の真理、すなわち「自然の法則」であって、法そのものにほかならない。
真の宗教は、自己の欲望を充たそうとする対象ではない。神を信じるのは、病を治す手段でもなければ、安心立命を得る目的としてもいけない。神仏に帰命頂来(きみょうちょうらい)するということは、自然の法則に帰依、服従するということである。
因果応報を甘んじて受け入れ、周囲の事情、自己の境地を喜んで忍受(にんじゅ)することである。
われわれの血行も、心の中に起こる感情や観念連合も、みな法性(ほっしょう)であって、常に必ず自然の法則に支配されている。
夢も偶然の思いつきも、忘却も、執着も、みな必ずそれに相応する事情があってはじめて、そのようになるのである。頭痛、眩暈も、必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。
われわれはこの自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能として、それに服従することを正信(しょうしん)といい、因果の法則を曲げて不可能を可能にしようとし、我と我が心を欺き、弥縫(びほう)し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。
梨を「有りの実」といって金が儲かるかと思い、消化薬を呑んで大食し、一銭の賽銭で相場を当てようとするのはみな迷信である。
迷信と宗教とは、同一の起源から発生した双子であって、迷路と悟道とに分かれ生育したものである。生老病死の畏怖に対する「自己欺瞞」が「迷信」であり、自己没却が正信(しょうしん)である。瀆神恐怖、縁起恐怖等の強迫観念は、迷信の発生をほとんど典型的に示したものである。
神、仏、真如とかいうものは、宇宙の真理、すなわち「自然の法則」であって、法そのものにほかならない。
真の宗教は、自己の欲望を充たそうとする対象ではない。神を信じるのは、病を治す手段でもなければ、安心立命を得る目的としてもいけない。神仏に帰命頂来(きみょうちょうらい)するということは、自然の法則に帰依、服従するということである。
因果応報を甘んじて受け入れ、周囲の事情、自己の境地を喜んで忍受(にんじゅ)することである。
われわれの血行も、心の中に起こる感情や観念連合も、みな法性(ほっしょう)であって、常に必ず自然の法則に支配されている。
夢も偶然の思いつきも、忘却も、執着も、みな必ずそれに相応する事情があってはじめて、そのようになるのである。頭痛、眩暈も、必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。
われわれはこの自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能として、それに服従することを正信(しょうしん)といい、因果の法則を曲げて不可能を可能にしようとし、我と我が心を欺き、弥縫(びほう)し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。
梨を「有りの実」といって金が儲かるかと思い、消化薬を呑んで大食し、一銭の賽銭で相場を当てようとするのはみな迷信である。
迷信と宗教とは、同一の起源から発生した双子であって、迷路と悟道とに分かれ生育したものである。生老病死の畏怖に対する「自己欺瞞」が「迷信」であり、自己没却が正信(しょうしん)である。瀆神恐怖、縁起恐怖等の強迫観念は、迷信の発生をほとんど典型的に示したものである。
ここに出てくる「法性」という言葉の意味は、辞書によりますと、
すべての存在や現象の真の本性。
ということだそうで、ここに「身」がつき、「法性身」という言葉になりますと、
仏陀の肉体に対して、その悟った真如の法を本性とする色も形もない仏。
という意味になるのだそう。
森田医師は、
> 必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。
として、
> われわれはこの自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能として、それに服従する
という心境に至ることが不安や恐怖の克服への道だというように説きます。
これは「苦しいことを無理矢理、楽しいと思え」ということではなく、
「苦しいことを苦しいこととして受け止め、それ以外の何ものでもない」という状態を作り出す。
ということでして、まあ、つまり、森田医師は自らの患者に「悟り」に近い境地へと導いていたということにもなりそうです。
ちなみに、森田医師は別にヘンな出所の医師ではなく、現在の東京大学医学部出身の、完全なエリート精神科医で、森田療法に行き着くまでは、化学療法を含むさまざまな療法をおこなっていました。
しかし、それらのどれにも一時的な効果しかないことを体験し、その中で、森田療法に行き着いたのは、宗教的動機でも何でもなく、「医学的実験と医学的な試行の末」に行き着いた完全な「西洋医学」的なアプローチから生まれたものです。
それはともかくとして、森田医師の言う、
> 煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるもの
ということを理解するためには、過去記事の、
・中村天風師の語る「極微粒子=気=創造主」の概念で 25年間持ち続けた「神様の正体のモヤモヤ」が少し晴れた日
2015年04月14日
でご紹介した、日本最初のヨガの行者であった中村天風さんの、
たったひとつだけの宇宙の本源が森羅万象のすべてを生み出した
という言葉、つまり、「何もかもが、自然法則の支配の下にある」ということを、根源的に知る、あるいは「体全体で知る」ことができれば、少しは「恐怖」と対峙するための姿勢として、前に進めそうな気もするのですけれど。
・中村天風( 1876 - 1968年)
中村天風さんの講演をまとめた『運命を拓く』から、宇宙の法則から見て、恐怖観念を持つことがいかに無意味なことかを語っている部分を抜萃します。
『運命を拓く』 恐怖への戒め より
恐怖観念、詳しくいえば、病はもちろん、人事世事一切の出来事に対して、物を怖れるという気持ちくらい、価値のない結果を人生にもたらすものはない。
ところが、今までのあなた方は、ちよっとでも体が悪いと、すぐおののき、怖れている。わずかな運命に見舞われても、それが、とてもどえらい運命になってしまうように怖れてしまう。毎日の人生一切の出来事に対して、この恐怖観念で応接しているという場合が多い。
このくらい、人生というものを哀れな状態にするものはない。なぜかというと、恐怖すればするほど、価値のない結果が人生にくるからである。
ベーコンという哲学者がいった言葉に、
「人の大いに怖るるところのものは必ず、遂に襲い来るべし」
というのがある。
これはまさに、このコンペンセーション(報償)の法則を、必然的のものであるという信念で、人生を考えている偉大な哲学者の言葉である。
何度も言っているとおり、宇宙霊という生ける大きな生命は、常に我々人間の心で思ったり、考えたりする事柄の中で、特に観念が集中し、深刻な状態の時に、その観念が、その事柄に注がれると、咄嗟にそれを現実の「すがた」に表現しようとする自然作用があるのである。
さあそこで考えてみよう。一生忘れないような深刻な記憶に出来るくらいに、瞬間的でも、観念が集中されたとすると、それが宇宙霊の力を受け入れる「鋳型」が用意されたことになる。
そのとき出来上がっている「鋳型」というものが、良かろうと、悪かろうと、極めて確実な「すがた」が出来上がったことになる。そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。
否、むしろ、そうなることが当然である。
いずれにしても、感情というものは、その種類が、いかなるものであろうと、我々の肉体や、人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。
恐怖観念、詳しくいえば、病はもちろん、人事世事一切の出来事に対して、物を怖れるという気持ちくらい、価値のない結果を人生にもたらすものはない。
ところが、今までのあなた方は、ちよっとでも体が悪いと、すぐおののき、怖れている。わずかな運命に見舞われても、それが、とてもどえらい運命になってしまうように怖れてしまう。毎日の人生一切の出来事に対して、この恐怖観念で応接しているという場合が多い。
このくらい、人生というものを哀れな状態にするものはない。なぜかというと、恐怖すればするほど、価値のない結果が人生にくるからである。
ベーコンという哲学者がいった言葉に、
「人の大いに怖るるところのものは必ず、遂に襲い来るべし」
というのがある。
これはまさに、このコンペンセーション(報償)の法則を、必然的のものであるという信念で、人生を考えている偉大な哲学者の言葉である。
何度も言っているとおり、宇宙霊という生ける大きな生命は、常に我々人間の心で思ったり、考えたりする事柄の中で、特に観念が集中し、深刻な状態の時に、その観念が、その事柄に注がれると、咄嗟にそれを現実の「すがた」に表現しようとする自然作用があるのである。
さあそこで考えてみよう。一生忘れないような深刻な記憶に出来るくらいに、瞬間的でも、観念が集中されたとすると、それが宇宙霊の力を受け入れる「鋳型」が用意されたことになる。
そのとき出来上がっている「鋳型」というものが、良かろうと、悪かろうと、極めて確実な「すがた」が出来上がったことになる。そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。
否、むしろ、そうなることが当然である。
いずれにしても、感情というものは、その種類が、いかなるものであろうと、我々の肉体や、人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。
というように、天風さんは、
「不安になるから、現実の不安がやってくる。恐怖するから、現実の恐怖がやってくる」
ということを言っています。
これは道徳的な道理に基づくのではなく、天風さんがインドの山奥で修行して行き着いた「宇宙の摂理」に基づく信念でもあります。
反対にいえば、
「不安にならなければ、現実の不安はやってこない。恐怖しなければ、現実の恐怖はやってこない」
ということにもなりそうですが、まあ、言葉としてはわかりますが、これはやはり難しいところです。
しかし、どんなことでもそうなんですが、「思考」や「思想」というのは、何だかあっけないほどの理由で気づかされることになるようなことも多いです。
そして、何より実は、私は、十代の時に「恐怖の解消」を1度経験しているのですよ。
だから、あの時の感覚はわかるのですが、年齢を重ねますと、体に染みついた恐怖の元型はさらに屈強に複雑になっている感じでして、「難治性の恐怖」ともいえるものはあります。
しかし、やはり、ここを越えなければならない、あるいは、「越えようとしたけどダメだった」という努力だけでもいいので、なにがしかを考えなければならないようです。
そして、できるだけ多くの方が、「不安と恐怖への呪縛」から解放されることが、多分、世の中的にも現実に良いことなのだと思います。