
▲ 2015年05月03日の南米チリの 24horas より。アントファガスタ県は、アカタマ砂漠を有します。
世界最下位を更新中の日本の子どもの比率
今日は、こどもの日ですけれど、ニュースを見れば、
子どもの数 34年連続の減少
NHK 2015.05.04
5日は「こどもの日」です。総務省の推計によりますと、先月1日現在の15歳未満の子どもの数は、過去最少だった去年よりも16万人少ない、およそ1617万人で、34年連続の減少となりました。
というのが報じられていました。
子どもの数自体も、毎年減り続けているのですが、「人口に占める子どもの割合」がすごい。
全人口に対しての子ども( 12歳まで)の占める比率が、約 60年間で「3分の1」になっています。

・朝日新聞
グラフを見ると、1970年代には、子どもが増えていた時もあったようですが、1980年代からは一直線に「減少のみ」となっています。1980年代からの 30年間で、大体 1,200万人くらい、子どもの数が減っている計算になりますかね。
・日本の未来 : 子どもに関しての、そして、高齢者に関しての統計データから受けた衝撃
2015年01月28日
という記事で、日本は「人口に占める 15歳以下の子どもの率では世界最下位」であることなどもご紹介したことがあります。
子供の人口の割合ランキング(191カ国中)

・WHO 子供(15歳未満)の人口の割合ランキング・国別順位
これは 2010年の時点の調査ですが、ドイツ、日本、カタールの3カ国が 191位の最下位で並んでいました。ししかし、日本の今年の子どもの割合は、NHK によれば、
去年を0.1ポイント下回る12.7%
ということですので、その後のドイツとカタールの人口動勢次第では、単独での最下位になっているかもしれません。
ちなみに、日本は「人口に占める 60歳以上の割合」では、世界一位です。
60歳以上の割合ランキング(191カ国中)

これも、今年はさらに引き離した一位になっていそうです。
ここまでくると、日本は、単なる少子高齢化ではなく、「超少子化」であり、「超高齢化」であるといえそうです。
なんかもう日本すごいですね。
このあたりは、もう行くところまで行くしかないようにも思えてきます。
何しろ、34年間もこの傾向がノンストップで続いているということは、対策も政策も効果がないということでもありそうで、とにかく、「弾ける」ところまで進むしかないのかもしれません。
さてしかし、何事も「良い→悪い」、「悪い→良い」というのは循環しているものなのかもしれないと、最近よく思うのですが・・・というか、「そもそも悪がなければ、善は生まれ得ない」というようなことも含めて、たとえば、過去記事の、
・ローマ字「 TASUKETE (たすけて)」から偶然導かれた日月神示や神様と悪魔の関係…
2014年07月26日
に小説『エクソシスト』に登場する悪魔払い師、メリン神父の悪魔の所業に対しての以下の台詞を記したことがあります。
「このような悪からでさえ、善が生じてくる。なんらかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ。……おそらく、悪こそ、善を生み出す『るつぼ』であるからだろうな」
このような言葉も、最近は別の意味で改めて強く響くのです。
あるいは、日月神示の、
第21巻 空の巻 第八帖
悪も元ただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ
などもそうですが、冒頭に貼りましたアタカマ砂漠の報道と写真もそのような示唆を含んでいます。
アカタマ砂漠の未曾有の災害が生み出したもの
3月の終わりに、
・世界で最も雨の少ないチリのアタカマ砂漠が「1日で7年間分の雨」に見舞われ大洪水…
2015年03月30日
という記事を書いたことがありました。
今年の3月の終わり頃は、南米の天候がカオス化していまして、以下のようなことが立て続けに起きていました。

・Google Map
この中の、「チリのアタカマ砂漠で、半日で7年間分の雨が降り、大洪水」という出来事。
アタカマ砂漠という場所は、アタカマ砂漠 - Wikipediaに、
世界でも最も乾燥した砂漠であり、40年間まったく雨が降らなかった地域もある。
と記載されているような場所なのですが、そこで、記録に残っている歴史の中では起きたことがないのではないかというような、信じられない豪雨と大洪水に見舞われるという出来事が起きたのです。
少なくとも、7名の方が亡くなっています。
3月25日のことでした。
洪水で破壊された町

・euronews
この洪水は、大変な被害をアタカマ砂漠の周辺に残したわけですが、冒頭のチリの報道は、以下のようなものでした。
アントファガスタ(アタカマ砂漠を有する県)では、3月の豪雨の後、植物の芽が出始め、その後、砂漠の丘一面が「花が咲き乱れる砂漠」となり、異常な量の花が咲き乱れ、砂漠一面が緑になった。
ということなのだそうなのです。
つまり、あの壊滅的な洪水が、「花の園と化した砂漠」を導いたのでした。
基本的には年中不毛な、いつもは下の写真のようなアタカマ砂漠。
いつものアタカマ砂漠

・Fodors
それが現在は、どのくらいの範囲の地域でだかは報道に記載されていないのでわからないですが、少なくとも、アタカマ砂漠の一部は下のようになっているのでありました。
現在のアタカマ砂漠

・24horas


ちなみに、この現象は、フラワーリング・デザート( Flowering Desert / 花咲く砂漠)と呼ばれるものだそうです。
洪水は確かに大きな災害なのですけれど、その後に、ふだんそこにはない美しい光景が現れる、という出来事に何となく思うところがあったのでした。
苦痛に満ちているように見えるところでも、世界は叡智に満ちている
ところで、最近は、日々の出来事の中に、
「悪の中に善を見出すことができるかどうか」
ということを意識したりしますが、シュタイナーは「心魂の調和を築く方法」として、その中に、「肯定的な態度の練習」というものを挙げています。
つまり、「あらゆる存在や事物、経験に対して、善いところや優れたところ、美しいところ、つまり肯定的なものを探し出す練習」ということで、たとえば、シュタイナーは『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学
この心魂の特性は、イエス・キリストに関するペルシアの伝説に、最もよく述べられています。
イエスが弟子たちとともに歩いているとき、彼らは道端に腐敗した犬の死体を見ました。弟子たちはみな、嫌な光景から目を背けました。ただイエス・キリストだけが立ち止まって、感慨深く、その犬を見つめました。
そして、「なんて美しい歯だろう」と、言いました。ほかの者たちが醜いもの、嫌なものを見たのに対して、イエスは美しいものを探したのです。
というものです。
この「肯定的な態度」は、ものごとだけではなく、すべてのこと、すなわち、経験、感情、出来事などに対しての練習だそうです。
この「肯定的態度」は、さきほど書きました、
・悪こそ、善を生み出す(メリン神父)
・悪憎むでないぞ(日月神示)
というようなところとも基本としては似たものだと思います。
そして、たとえばですが、最初に書きました、「日本の少子化」の中に、何か善いところや優れたところや美しいものを見いだせるか・・・というようなことでもあります。
あるいは、今、箱根山( 3000年噴火していません)の群発地震がえらいことになっていて、この1ヵ月で、そろそろ「 1000回の群発地震」というようなことになっていますが、こういうことに肯定的な見方をすることはできるのかな、と。
1000回の群発地震の渦中の箱根山

▲ 2015年05月05日の 神奈川県温泉地学研究所 最新の震源分布 より。
特に、ここ数日の増え方はかなりのもので、昨日 5月4日が下のように 762回でしたので、昨日から今日で 214回も地震が発生していたことになります。

これが噴火と関係しているものなのかどうかはわからないですが、何にしても、私たちは昨年の御嶽山の噴火を経験したばかりです。つまり、「突然噴火する」ということを見ているわけで。
そして、このような箱根山の群発地震にも、不安や心配ではなく、何か善いところや優れたところや美しいものを見いだせるか・・・ということです。いや、見いださなければならないというのが、シュタイナーの主張なのでしょうね。
というわけで、また話が逸れてしまっていますが、先日の、
・ネパール大地震での上層大気圏に変化から見る「地震の原因は宇宙にある」こと。そして、恐怖からの解放について「倉田百三氏との苦痛の同体験」
2015年05月03日
という記事の最後のほうに書きました、シュタイナーが「苦痛」に関して述べた講演を抜粋して、今回は締めたいと思います。
この中に、
私たちの中にいる賢明な者が、常に私たちを苦痛へと導いている。
という内容があり、ちょっと圧巻だったと同時に、目からウナギが落ちた感じでした(こわいわ)。
では、ここからです。
シュタイナー『運命にどう向きあうか』(1912年の講演)より
業に向かい合うと、「私たちが出会う苦痛は、すべて私たちの不完全さが求めたものだ」という確信にいたります。すなわち、私たちが前世から持ち越してきた不完全さが、苦痛を求めたのです。
そのような不完全さが私たちのなかに存在するので、私たちよりも賢明な者が私たちの内におり、苦痛への道を探し求めるのです。「私たちよりもずっと賢明な者が私たちの内にいる」というのが、人生の秘密です。
私たちが通常の生活で、「私」と言っているものには、賢明さが欠けています。この「賢明さの欠けている者」は、放っておくと、苦痛を求めたり、快楽を求めたりします。
「賢明な者」は、私たちの通常の意識が入っていけない、意識の深みに安らいでいます。この賢明な者は、軽々しい快楽から私たちの目をそらせます。
そして、私たちが知らぬ間に、苦痛への道を進む不思議な力を、私たちの内に燃え上がらせます。「私たちが知らぬ間に」とは、どういうことでしょう。
賢明な者は、賢明さの欠ける者よりも力が大きいのです。
賢明な者が不完全な私たちのなかにおり、常に私たちを苦痛へと導いていきます。私たちは内的および外的な苦痛によって、自分の不完全さを取り除き、自分を完全にしていけるからです。
人生の特別な瞬間なら、
「外部の騒がしさ、および騒いでいる私を度外視しよう。私の苦痛に目を向け、内なる賢者が不思議な力によって私を苦痛に導いたのを感じよう。私が不完全さを克服していないので、苦痛が課せられたのだ」
と、私たちは思うことができます。
そうすると、「苦痛に満ちているように見えるところでも、世界は叡智に満ちている」と、感じるようになるでしょう。
このようなことを、繰り返し訓練すると、私たちの心魂のなかに種子のようなものが撒かれるのが分かります。
そして、私たちの内にある陰鬱な感情、虚弱な気分が、明朗な気分、力の感情に変化します。人生の特別の瞬間から、調和的な心魂と力強い人間が現れてきます。