・ヤシンタ( 1910 - 1920年)。amor eterno
聖母の言葉の違和感に気づかされて
以前、
・ファティマの聖母から知る「永遠の地獄」への序章
2015年03月15日
という記事を書いたことがありました。
これは、1917年、ポルトガルのファティマという町で、3人の少女と少年の前に、何度かにわたり、「聖母」と名乗る存在が現れ、いくつかの啓示を子どもたちに授けたとされる出来事で、バチカン(ローマ教皇庁)の公認となっている聖母出現譚でもあります。
バチカンが公認している聖母の出現は Wikipedia によると、歴史上で 12件ありますが、その中でも、ファティマの聖母出現は、最も有名なもののひとつだと思われます。
私は、実は、このファティマの聖母出現の内容を読んだ時に、奇跡ということよりも、むしろ何ともいえない痛々しさと切なさを感じていました。
それは、聖母と複数回の会見をした3人の子どもたち、ルシア(当時9歳)、フランシスコ(8歳)、ヤシンタ(7歳)のうち、特に最も若いヤシンタが、とてつもない苦悩と苦渋の中で亡くなっていった、ということによるところが大きいのですが、いつもヤシンタの苦痛を考えると、暗い気持ちになっていました。
そして、この「苦悩」とか「暗い気持ち」とかいう気持ちを人に抱かせることが神サイドの奇跡…? というような想いはありました。
そして、このところの読書生活の中で、「ふと」気づいたのです。
最近読んでいた本、たとえば、それは、シュタイナーでも中村天風でも、どの人のものでもいいのですが、それらの人々の書く内容は、前回の記事でも書きましたように、「根幹に大体同じ方向性がある」ということがあります。
前回の記事は、健康に関してのものでしたが、どのように同じかといいますと、
・人間は本来、完ぺきな自然治癒能力を持っている
・自然(宇宙 / 神)の法則と人間の関係もまた完ぺき
というようなことです。
そして、健康だけではなく、全体としてのことを言えば、私たち人間の世界は・・・あるいは、これを「自然の法則」といっても、「神の法則」といっても、「宇宙の真理」でも何でもいいのですが、
「すべてが肯定と美と善と真実から成る完ぺきなもので、否定的だったり消極的な部分を持たない」
ということと、
「人間がこの世に存在する目的は、人間が本来持つ完全性を獲得すること」
そして、
「創造すること」
だというようなことです。
この「創造」、つまり、表現や芸術を作り上げるということが、人間がこの世に物質的な存在として生きる上で、どれだけ大事なことかということについて、たとえば、シュタイナーは、以下のような文を書いています。
芸術において人間は、
世界のなかに結びつけられた霊を解放する。
音楽芸術において人間は、
自分自身の中に結びつけられた霊を解放する。
なぜ、人間が創造し続けなければならないかというと 1914年の講演の以下の言葉からシュタイナーの主張がわかります。
シュタイナーの講演『人類の芸術的発展のための変容衝動』より
音楽的創造行為は人間の未来と関係するものです。音楽的創造行為は宇宙のなかでみずからを完成し、深めるために存在するのです。
いくつもの偉大な、天才的な音楽作品が存在するにもかかわらず、それらを試作にすぎないというのは傲慢な感じがすることでしょう。しかし、今日存在する音楽作品は、未来の無限に意味深い音楽的創造行為のための試作なのです。
人間が秘儀参入の本質を知ったとき、未来の音楽作品は意味深い刺激を受けることができるのです。
いつか、秘儀参入の途上で魂が体験する至福と苦悩に満ちた幻滅を通過すると、宇宙の諸事情に関与しているすべての運命を体験し、人間の魂は震撼します。
秘儀参入の途上で体験されるものを音の組み合わせで表現することへと魂を促すものを、震撼のなかで体験します。
こんなに抜粋することもないんですが、要するに、この中の、
> 創造行為は宇宙のなかでみずからを完成し、深めるために存在する
ということで、「自分を完ぺきな存在にするため」に音楽的創造は存在するとシュタイナーは主張しています。音楽以外の創造も同じでしょう。
これは、「苦痛」も同じものとして、シュタイナーは言っています。
・アタカマ砂漠に咲き乱れる花に見る「悪から善が生まれる光景」を思えば、極端な少子化も箱根山の群発地震も怖くない・・・かも
2015年05月05日
という記事に、シュタイナーの 1912年の講演を抜粋していますが、その中に、
賢明な者が不完全な私たちのなかにおり、常に私たちを苦痛へと導いていきます。私たちは内的および外的な苦痛によって、自分の不完全さを取り除き、自分を完全にしていけるからです。
といっていて、つまりは、「苦痛を経験することによって、私たち人間は、本来の完ぺきな人間になれる」と。
中村天風さんなども、この「人間は本来は創造的な存在で、そして、人間は宇宙と同様に完ぺきな存在だが、今の人間は完ぺきになることができていない」ということを何度も語っています。
中村天風『運命を拓く』人間の生命の本来の面目より
なぜ、人間の生命の本来の面目が、創造的にできているのか。
それは、進化と向上を現実化するために、人間に、この本来の面目が与えられているのである。
どんな人間でも、「何ものをも完全にあらしめたい。完全に作り上げたい」という気持ちが、誰にでもあるはずである。すなわち、ものや破壊や消滅を好まず、ものの成就や完成を好むという気持ちには、共通的にいわゆる完全を喜ぶという気持ちが、その心の中にあるはずである。
誰しも代償のない破壊を好むものは、ないはずである。
これもやはり、人間の生命の中にある、自然傾向であるからである。いわば、自然に与えられた活動的能力である。
自分では意識していなくても、人間というのは、自然と「完ぺき」を目指していて、なおかつ「創造的」であるということのようです。
これは、まあ、パッと思い出しますと、意識せず鼻歌をうたっているとか、何となくリズムをとっていたりするとか、なんとなく部屋の模様替えをしてみたり、花を飾ろうと買ってきたり、あるいは、お気に入りの皿やカップが割れると、もうくっつくことはなくとも、割れ目をくっつけて「再生の試み」をしてみたりする・・・。
自然な行為の多くが、「実は人間の無意識の行為の中には、破壊よりも創造のほうに向く傾向」というものが潜んでいることを示しているということかもしれません。
その「創造性」の方向を意識して、思考や行動の中で拡大させていけば、私たちは、それまでと少し違う感覚を持つことができるかもしれない・・・というような。
そして、ここまで引用させていただいたシュタイナーも中村天風さんも、
「肯定的で前向きな思考と態度」
の重大性を何度も述べています。
というより、
「否定的で消極的な思考と態度を捨て去ること」
を言っています。
ヤシンタに向けられた「否定的・消極的な思考」
なぜ、ファティマの聖母について、これらのことが関係するかといいますと、
・人間は創造的になるべき
・肯定的・前向きな態度は重要
という大前提をもとにしますと、ファティマの聖母出現の際の、以下の2点に大きな疑問を感じたのです。ヤシンタ・マルト - Wikipdia から抜粋します。
太字はこちらで入れています。
ヤシンタは優しく、少し情緒的であった。彼女は甘い歌声と踊りの才能を持っていたが、ルシアやフランシスコと共にファティマでの聖母の出現を見るようになると、それら娯楽に供することが罪の機会になると考え、音楽も踊りも止めるようになった。
ヤシンタは聖母の三度目の出現時の、地獄の恐ろしい幻視の影響を非常に強く受けた。彼女は、聖母が導いたとして、痛悔と償いを通しての罪な人の回心を願う必要を確信するようになった。三人の子供たち、中でもフランシスコとヤシンタは厳しい苦行をその死まで実践した。
この2点です。
最初は言うまでもなく、
> 甘い歌声と踊りの才能を持っていたが、それら娯楽に供することが罪の機会になると考え、音楽も踊りも止めた
の部分です。
これは、人間の創造性を否定する行動です。とはいえ、6歳か7歳のヤシンタが「地獄の光景」を見せられて、そう思うのは仕方ないかもしれないのですが、しかし、ヤシンタは、ファティマでの聖母出現後も何度も「聖母」と会っています。
1917年のファティマの聖母出現から、ヤシンタが亡くなるまでの2年間は、ヤシンタの前に何度も「聖母」が現れていたようです。ファチマの真実(2)というページには、以下の記述があります。
ここでは、ヤシンタはジャシンタと表記されています。
ジャシンタがルシアに語ったところによれば、1919年12月に聖母がジャシンタに御出現になり次のように言われたとのことです。
ジャシンタはリスボンの病院にもう一度入院することになる、ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬと。
1919年は、ファティマの聖母出現から2年ほど経っていますが、このように、ヤシンタの前には、何度も「聖母」が現れていたようです。
しかし。
それはいいとしても、問題は、その「聖母の言葉に漂う気配」です。
「ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬ」
この否定的な響き。
そして、実際に、この「聖母」の言葉通りになるのですが、しかし、「完全の宇宙」の神のグループに属していると思われる聖母が、ほとんど肯定的な言葉を発していないことも気になります。
そして、「人間の完全性を示さず、人間の不完全性ばかりを示す」のです。
まあしかし、それはともかく、このように何度もヤシンタとコンタクトをしていたならば、聖母はヤシンタに、
「歌と踊りはやめなくてもいいのです」
と、どうして言わなかった!
聖母なら、楽しみと創造性がどれだけ人間に大切なことかを知らないわけはないです。
ヤシンタは、スペインかぜ(鳥インフルエンザ)にかかり、壮絶な闘病生活をを続けることになり、
病気は化膿し肋膜炎に発展し、手術で(無麻酔で)二本の肋骨を切断しなくてはいけなくなったが、彼女は痛みに耐え続けた。心臓の状態から麻酔を全く使えず、凄まじい痛みに苦しんだが、彼女はそれを多くの罪人の償い(慰め)へと捧げた。( Wikipedia )
というようなことになっていくのですが、もちろん、もはや、この体では踊ることはできないでしょうけれど、歌をうたったり、自分が踊りをしている姿を想像するだけでも、どれだけ気が晴れたことか。
少し前の、
・パッチ・アダムス医師の「楽しく人を死なせる」ための真実の医療の戦いの中に見えた「悪から善が生まれる」概念の具体性
2015年04月19日
という記事で、笑いの治癒効果を医療に取り入れたアメリカの実在のパッチ・アダムス医師について書きましたが、映画化された『パッチ・アダムス』は、人間にとって「楽しい気持ち」がどれだけ大事なことかを描いたもので、また、それは医学的にも正しい(笑うと、多くの体の検査数値が向上し、ガン細胞を殺す NK細胞が増える)といえます。
下は映画『パッチ・アダムス』で、子どもたちを笑わせているアダムス医師(ロビン・ウィリアムズ)です。年の頃が、ヤシンタと同じくらいの女の子です。
・映画『パッチ・アダムス』
おそらくは、ヤシンタは、入院期間にこのように笑うことはほとんどなかったのではないかと思われます。なぜなら、「楽しんだり笑うことは罪になる」と思いこんでいたからです。
多分は、病気にかかってから亡くなるまでの2年ほどを、ほとんど「笑わない生活」で過ごしていたのではないでしょうか。
何度もヤシンタの前に現れた「聖母」が、ひとこと、
「前向きで楽しい気持ちは人間の本性なので、罪にはなりません」
とヤシンタに言っていれば、ほんの少しは気持ちの晴れる時もあったのではないかと。
「人生は苦行と共に生きるものではない」ということは、シュタイナーも 1912年の講演で、「人生の喜び」について、以下のように述べています。
この部分の前に、シュタイナーは「楽しみの危険性」ということについて述べていまして、その後の言葉です。
シュタイナー『運命にどう向きあうか』(1912年の講演)より
私は楽しさに反対する説教をしているのではありません。「楽しさを避けろ」と言っているのではなく、「楽しさを平静に受け取るべきだ」と言っているのです。
楽しさを恩恵として受け取る気分を育てるべきなのです。そうすれば、私たちはますます神的なもののなかに浸っていきます。
私は、苦行を説いているのではありません。「楽しさと喜びに対する正しい気分を目覚めさせよう」と、言っているのです。
「楽しさと喜びは、自分を麻痺させ、自己を解消させる。だから、私は楽しさと喜びを避ける」と言う人は、神々から贈られる恩恵を避けているのです。それは誤った苦行、自虐が目指すところです。苦行者、修道士、尼僧の自虐は、絶えず神々を避けることになります。
苦痛を「自分の業によってやってきたもの」と感じ、喜びを「神が私たちに注ぐ恵み」と感じるのが適切です。神が私たちの近くにやってきたしるしが、楽しさと喜びなのです。
世界が私たちにもたらす善いもの、美しいものに直面して、私たちはつぎのように感じなくてはなりません。
「神々は、世界は美しく善いものだ、と見た」と聖書が表現しているとき、人間が輪廻の経過のなかで、最初は善いものだった世界をどのようにしてしまったかを認識しなければなりません。そして、苦痛を精力的に担うことによって改善すべきものを認識する必要があります。
シュタイナーは、
> 「私は楽しさと喜びを避ける」と言う人は、神々から贈られる恩恵を避けている
> 苦行者、修道士、尼僧の自虐は、絶えず神々を避けることになります
と述べています。
これは、ヤシンタを含む3人の子どもがその後に行った「楽しさと喜びを避ける」という生活態度こそが、神々から贈られる「楽しさと喜び」という恩恵を避けているということにつながってしまうという、絶望感に満ちた因果関係を見つけてしまうのでした。
しかし、最後のほうに書きますが、どういう生活態度であっても、このシュタイナーが他の著作で述べていることからうかがいますと、ファティマに出現したのが聖母ではなくとも、ヤシンタには「明るい来世」が待っているはずです。
あまりにも「否定的な」聖母の態度傾向
話を「聖母」に戻しますと、そもそも、ファティマでの聖母が、3人の子どもたちに、「地獄の光景」を見せたり、「バチカンの崩壊の光景」を見せたり、といった「与えるものがネガティブなものばかり」であることも気になります。
下は、聖母が「地獄の光景」を子どもたちに見せた時のことを述懐するルシアの言葉です。
永遠の地獄(ファティマの聖母)
聖母は、私達に広い火の海をお見せになりました。それはまさに、地の下にあるもののようでした。この火の中に、サタンと人間の形をした魂とが閉じ込められていました。
この魂は、透き通るように燃え上がる燃えさしのようで、全ては黒く、あるいは、光り輝く青銅色をしていて、大きな炎の中に漂っていました。彼らは自分の中から放つ炎によって、巨大な煙の雲とともに空中に吹き上げられ、ぞっとするような、しかも恐怖に震え上がるような苦痛と絶望の悲鳴とうめき声を上げながら、重さもバランスも失って、火花のように大火の中を四方八方に飛び散っていました。
サタンは、見たこともない奇怪な動物の形をしていたのでそれと分かりましたが、戦慄を覚えさせるような気味の悪い形相をしており、透明で黒い色をしていました。
この地獄の光景を見た子どもたちは「死んでしまうような恐怖」に駆られるのです。
聖母が「恐怖で子どもたちを支配」する・・・。
さらに、下は 1918年頃に、「聖母」がヤシンタに見せたビジョンです。
ヤシンタ・マルト - Wikipedia より
ヤシンタ自身は個人的に何度か聖母や出現や近未来、あの世等を目撃している。
初回は1917年夏であり、もうすぐ起こる次の戦争とする第二次世界大戦について気にかけ、大勢の人が死に、その殆どが死後地獄に堕ちる、と物思いに沈んだ。二回目は1918年10月で、自身が一人で苦しんで死ぬことを予言し、一方で聖母が天国に連れて行く約束をしてくれたことに安堵した。
ファティマの公的出現中も1917年7月13日、彼女はルシア、フランシスコと共に、聖母から、地獄の炎やそこで燃えた炭火のように透き通った姿になって、絶望の叫びをあげながらただ不安定に業火の中を舞うだけの人や悪魔の姿を見せられて、戦慄し、しばしば話題にしていた。
このビジョンに見られる、
> その殆どが死後地獄に堕ちる
> 絶望の叫びをあげながら
> 悪魔の姿を見せられて、戦慄し
などのような「徹底した否定」的傾向。
唯一少しだけ明るい、
> 聖母が天国に連れて行く約束をしてくれたことに
という部分は、後述しますが、キリスト教で信じられていない「人間の宿命」を語っています。
しかし、この「聖母」の見せたビジョンの多くは、その後、現実化していますので、「未来を見せた」という不思議なことが起きたことは間違いありません。
しかし、「ビジョン」というのは、あまりにも非現実的で、また、オカルトに近い性質を持つと思うのですが、そもそも、こういうオカルトってのは、キリスト教的というか、「聖書」的にはダメなことなのでは。
旧約聖書『申命記』18章 9-12節
あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなたは異邦の民の忌みきらうべきならわしを、まねてはならない。
あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。
これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。
これに関しまして、クリスチャンはそれを信じないというページによりますと、
聖書は、占いや心霊現象、オカルト現象を「神の忌みきらわれること」として禁じているのです。なぜなら心霊現象にかかわっているのは、悪霊の力だからです。
聖書は、悪霊も不思議なことをすることがあると認めています。そのため私たちが心霊現象に興味を持つことは、きわめて危険です。
それは、気づかないうちに私たちを神の道からそらせ、悪霊の支配下に導くでしょう。クリスチャンは、占い、心霊現象、オカルト現象などが、私たちの幸福に対して何らかの寄与をするという考えを、信じないのです。
ということだそうです。
太字は原文ママです。
そして、上のサイトには別の項目のところに、以下のような記述があります。
神は人の人生の決定権を、個人の自由意志におゆだねになっておられます。
人が自分の人生で刈り取るものは、多くの場合、自分が過去に蒔いたものです。
もしくは、人類全体が蒔いたものです。
神は決して、人の主体性を破ってまで、人の人生を支配しようとはなさいません。
人生を決めているのは、やはり自分です。
神は、人の人生を「宿命」で縛ろうとはなさいません。
キリスト教には、「宿命」という考えはないのです。
私はクリスチャンではないですので、これが本当かどうかはよくわからないですが、聖書を引用してのものですので、ある程度はそのようなものだとすると、ファティマの聖母は、明らかに3人の子どもたちの「宿命」を提示しています。
様々な点から見て、ファティマの聖母の、
・否定的な面だけを強調する言動
・恐怖で子どもたちを支配していること
・天国ではなく地獄だけを見せている
・主の導きではなく、宿命を述べていること
・ビジョンや太陽の異常などオカルト過ぎるやり方
などから、ファティマに出現した存在は「聖母ではないように思えて仕方ない」という思いが強まっています。
神でも主でもいいのですが、その根底は「完全」であり、また、その宇宙の私たちも「完全」である以上、否定的な方向へ人を導くというのは、本筋ではないような気がするのです。
もちろん、聖母でないのならば、ファティマに出現したものが何なのかはわかりません。
仮に見当がついたとしても、うまく書けません。
まあ・・・ファティマに現れた「聖母」の正体はわからないですが、その正体とは無関係に、苦しんだヤシンタは、天国に行く以上に、「とても完全な人間」となって、いつの世にか、おそらくは、あと 900年後くらいに素晴らしい来世を送ることができるだろうことは信じます。
それは、シュタイナーの『神智学の門前にて』という著作の中に、
「輪廻転生の具体的なメカニズム」
が書かれていまして、それを少し読むことで感じたのでした。
死後の人間
もちろん、これはあくまでシュタイナーの主張であり、この世がそのようになっているのかどうかは、死んでみなければわかりません。
「死から再受肉までのあいだ、人間はどのような生活を送るのであろうか」というフレーズから始まる「欲界における魂の生活」という章にそのことが書かれてあります。
全体として文章構成が複雑で、うまく抜粋できないですが、死後に人間がまず行くところは「欲望の場所(欲界)」というところだそうです。
シュタイナー『神秘学の門前にて』欲界における魂の生活より
肉体的な器官がなくなったあと、魂に活力を与えるもの、日常の意識を満たしていたもの、身体に負っているもののうち、なにが残るのであろうか。
このことが明らかになったとき、物質体とエーテル体(生命体)を死体として捨てたあとの死後の人生の状態が、どのようなものであるかがわかる。
この状態を欲望の場所、欲界と呼ぶ。しかし、それはどこか外にある場所ではない。わたしたちがいまいるところも欲界であり、死者の霊は絶えず、わたしたちのまわりに漂っている。
ということらしいのですが、人が死ぬと、人間を構成する4つの要素(肉体、生命体、感受体、自我)のうち、肉体と生命体と呼ばれるものは、肉体の「死」と同時に死んでしまうけれど、他のものは残るのだそう。
特に、感受体(アストラル体)は、死後もしばらくは生きている。
これは欲望も司るものですので、「欲望」は、死後も残ると。
ところが、おいしい料理を食べたくても、それを味わう口も舌もない、美しい光景を見たくとも、それを見る目はない。音楽を聴きたくとも、聴く耳がない・・・ということで、「欲望を充たす器官がない状態」となっていて、死後、人々はこれで大変に苦しむのだそうです。
これが、いわゆる「地獄」というものとして語られているものと似たものだとしてもいいのかもしれないですが、シュタイナーによれば、
この欲界の苦しみは、その人の生きていた時の欲望の度合いに応じる
となっていて、また、その「滞在期間」についてもふれられていて、
人生の3分の1の長さ
だけ滞在するのだそうです。
たとえば、75歳で亡くなった人なら、25年間。
ヤシンタは 10歳で亡くなっていますので、3年ほどですね。
しかも、ヤシンタは、自分の課した禁欲的生活で、多分、物質的な欲望も、生への失着の欲望もあまりなかったと思いますので、少なくとも「生きていた時よりはずっと苦痛の少ない状態」で、3年と少しを欲界で過ごした後、つまり、1923年の夏頃には、その欲界を抜け出していたはずです。
ただし、次の世に生まれる、すなわち、シュタイナーの言う「再受肉」の時期はその時期というわけではないようです。
このあたりは、何だかいろいろ難しいのですが、「地球の状態は 2160年で大きく変化する」とのことで、その 2160年の中で「2回受肉をする」とのこと。
つまり、次に生まれかわるまで千年くらいかかるということのようです。
「苦痛の中で人間は完全に近づく」ということがあるのなら、ヤシンタは、相当、完全に近い人間として、次の世で、彼女は素晴らしい人生を過ごすことになると思います。
その時には歌と踊りを忘れないでほしいですが(ただし、シュタイナー説から見ると、ヤシンタは次は男性として生まれます)。
この欲界を通過した後に、いわゆる私たちが「天国」というような概念でとらえている場所に行くらしいのですが、面白いのは、シュタイナーは、
「天国」とは、「人間として誕生する瞬間」
だとしている点です。
つまり、来世に生まれた瞬間が天国に至った瞬間だと。
ただ、このシュタイナーの「誕生の瞬間」という言葉は、少し気になるところがあって、
「じゃあ、誕生しなかった子たちは?」
とも思ったのです。
・ファティマの聖母から知る「永遠の地獄」への序章(2) - 毎年5千万人の赤ちゃんが「生まれてこない」現代社会の中のロシア由来のカタストロフ
2015年03月16日
の後半に記した、「毎年、世界で 5000万人ほどの赤ちゃんが生まれてくることができない」というのが現代の社会でもあるのですが、この子たちは? とかは思います。
それでも、シュタイナーのこの輪廻転生のメカニズムを信じるならば、たとえば、生まれてすぐに亡くなってしまった赤ちゃんたちは、「(欲望がないから)苦痛もなく」、「時間的にあっという間に」この欲界という地獄を抜けられるのだろうということは、何となく救いを感じました。
生前のヤシンタの苦悩を思い、落ち込んでいたりした私でしたが、まあ、そう落ち込むことでもないのかなと思えただけでも、今回はシュタイナーに感謝しておきたいと思います。そして、もちろん、ヤシンタにも。