2015年05月21日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。




『美しき緑の星』で描かれる「どんなものにも良い部分を見いだす」という完全な肯定的な態度について考えてみる



La-Belle-Verte-positive-view.jpg

▲ 映画『美しき緑の星』より。食事中に突然キャベツの美しさに気づき、陶然と見続ける女性。



難しい「肯定的」な態度の実践

最近たまに話題にいたしますフランス映画『美しき緑の星』を見てから、そこに描かれる「肯定的態度」(どんなことからも、その良い面を見ようという心身的態度)に感心したところがありまして、以前よりも、この「肯定的態度」に関心を持っています。

以前から薄々とは思っていたのですが、あるいは、この「肯定的態度」というのは、理想的な人間社会にとって、わりと大事なことではないかとも思ったりもしています。

何だかんだいっても、今の社会は「否定的態度」が良しとされるもの(科学でも政治でも、批判や討論こそが真実へのルートだとしている点や、他も様々の点)ではあり、それはそれで刺激的ではありますけれど、やっぱり「疲れ」が出てきています。

そして、できれば、子どもたちの世代には、こういうネガティブ攻撃が人生の勝敗を決めていくような社会で生きては欲しくないというような希望もあります。

私自身、若い時から、批判や非難の世界は得意ではないです。

かといって、たとえば、サンマの塩焼きにイチゴジャムとイカの塩辛とコンデンスミルクをかけた料理が出されたら、少し否定的な気持ちにはなるでしょうけれど、さてしかし、「そういう時にも肯定的な態度になれるか」ということなんです。

料理屋で、サンマの塩焼きにイチゴジャムとイカの塩辛とコンデンスミルクをかけた料理が出されても、です。

どう考えても否定的な感情しか出ないようなものを「肯定的に」捉える。

肯定・・・肯定・・・肯定ペンギン(うわッ)。

こういう下らないギャグともいえぬ駄洒落に対しても、人は肯定的な態度でいられるのか。
それとも、ここに至っては「もう許さん!」と怒ってもいいのか(いいと思う)。

難しいところですが、先日の記事、

陸地では数千万羽のニワトリが死に、海では「デッドゾーン」の中であらゆる海洋生物が死に続けるアメリカで
 2015年05月20日

の最後の方に、干ばつに見舞われているアメリカのカリフォルニア州で、自然環境に水とエサが不足していることにより、ネズミが家屋を襲っているという報道をご紹介しました。

rodents-001.gif
CBS


そして、ここに以下のように書きました。


ほしいものは消えていき、あまり喜ばしくないものは増えていく・・・いやいや、ここは、シュタイナーのいう、あるいは、フランス映画『美しき緑の星』で表現される「肯定的な態度の重要性」を思い出すべきかもしれません。

あらゆるものを肯定的な面から見てみる。

「ああ、ネズミさん、何と美しい歯なんでしょう」

「さあ、ネズミさん、どんどん襲ってください」


うーん・・・。

やはり、こう素直には思えないなあ。



と書いたのですが、書いた後に、「たとえば、こういうことについて肯定的に考えることができるとすれば、どんなことだろうか」などと考えました。

「ネズミ・・・ねえ。・・・・・そういえば、『トムとジェリー』のジェリーってネズミだな」

なぜかわからないですが、私が小学校の頃(昭和40年代)の北海道では、夕方のテレビで、毎日のように『トムとジェリー』が(何年もの間)再放送されていて、「真ん中アニメ」と呼ばれるものを含めて、ほとんど全部を見ていて・・・というか、それぞれを何十回も見ていて、そして、幼い頃、そのシュールで残酷な世界を心から楽しんだ記憶があります

後に、モンティ・バイソンとかのスラップスティック(即興ではないドタバタ)とか、あるいは、極端なバイオレンス映画などを好きになったのも、トムとジェリーの影響が大きいと思います。

それはともかく、『トムとジェリー』には、ネズミのキャラクターとしては、ジェリーの他に、捨てネズミ(話によっては従姉妹として登場)の「ニブルス」という小さなネズミがいて、彼らが同時に出てくるエピソードは数多くありますが、それなどを思い出すと、ネズミは確かにかわいい。

それなどを先ほどのニュースに当てはめますと・・・。


rodents-002.gif


うん、これならかわいいし、肯定的に受け取れます。

(それは問題の解決ではなくて、単なる問題のすり替えだろ)


そうか、これじゃダメですか・・・。

この方法論のダメさを、たとえとして書いてみますと、たとえば、シュタイナーの『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』に記されている「肯定的な態度」のひとつとして、イエス・キリストが弟子たちに見せた以下の態度があります。


イエスが弟子とともに歩いているとき、彼らは道端に腐敗した犬の死体を見ました。弟子たちはみな、嫌な光景から目を背けました。ただ、イエス・キリストだけが立ち止まって、感慨深く、その犬を見つめました。そして、「なんて美しい歯だろう」と言いました。


この、イエスが腐敗した犬そのものを見つめて、

「なんて美しい歯だろう」

と言ったことと照らし合わせますと、私が上でおこなった『トムとジェリー』置換法は、死んだ犬を見つけた時に、その犬を直視しないで、「その上にキレイなシーツをかぶせ」た後に

「なんてきれいなシーツだろう」

と言うような、物の本質を見えなくしてしまう方法です。
これではダメですね。

ついでに、そこにエッセンシャルオイルをふりかけて、

「なんていい香りだろう」

と、どんどん物の本質を隠していって、ついには、灯油をかけて犬の死体を燃やして、

「なんて暖かい火だろう」

と、どんどん最初の対象を消していき、燃えてすべてが消えた後に、

「なんて何もないのだろう」

と言って去って行くということになるのです(どうなるというのだ)。

こういう誤った方法は少し困りますね(野口晴哉さん風)。

話が何だか変になってきていますが、対象を直視しなければいけない以上、「好きになれないモノに対しての、完全な肯定的な態度」というのは簡単なことではないともいえます。

そういえば、最近、「圧倒的な肯定的態度」に接することがありました。




野口師の「圧倒的」肯定的態度

先日、本が届きました。

もはや届く本のほとんどを読み切れていない状態になっていて、最近は本が届いた時には、

「なんて滑らかな材質の表紙だろう」

というように、表紙と表紙デザインを見るだけで満足することも増えてきました(ちゃんと読めよ)。

そして、価格なども見て、

「なんてリーズナブルな値段だろう」

と満足して、そのまま読まずに本棚に行くことも増えてきました。

そして、本棚を見回して、

「なんと未読の本が多いのだろう」

と感嘆して、1日が終わります。
そして、ポストにはまた何か本が届いています。

未読の本に対しての肯定的な態度はともかく、この日届いたのは『原初生命体としての人間 ― 野口体操の理論』という本でした。

これは実は、注文した直後に気づいたのですが、「間違って買っちゃった」のでした。

「野口…」と見て、整体の野口晴哉さんの本かと思って、注文した直後に、野口三千三(みちぞう)さんという方の本であることに気づいたのでした。

それにしても、『原初生命体としての人間』という大仰なタイトル。

この野口三千三さんという方は、本のタイトルにもありますように、「野口体操」というものを作り出した方のようなんですね。

野口三千三( 1914 - 1998年)
noguchi-michizou.jpg
野口体操 公式ホームページ

東京芸術大学の教授でもあった方のようで、その「野口体操の理念」は、Wikipedia に以下のようにあります。


野口体操 - Wikipedia

野口体操は野口三千三が指導を開始した健康法、トレーニング法。「人間の潜在的に持っている可能性を最大限に発揮できる状態を準備すること」を目的とする。

野口の身体イメージは

生きている人間のからだは、皮膚という伸び縮み自由な大小無数の穴が開いている袋の中に液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいる

というものである。野口の考えでは、合理的な運動は「重さ」と「はずみ」を活かすことで行える。そのためには無駄な力みを捨てて脱力の感覚を磨くことが肝要であるとしている。



ということなんだそうですが、

> 無駄な力みを捨てて脱力の感覚を磨く

というのは、つまり「見た目にはブラ〜ン、ダラ〜ンとした状態」となるようなんですが、演劇などの肉体訓練では、この「脱力の訓練」はよく行われます。緊張以上に脱力が大事と言われていたような気がします。

しかし、この、バッと見には「単にブラ〜ン、ダラ〜ンとしているようにしか見えない」という地点に至るまでの理論的構築は並大抵のものではなかったことが、この『原初生命体としての人間』のはしがき(はじめに)を読むだけでもわかります。

たとえば、野口さんにとって、「体操とは何か」ということに関して、以下のような記述があります。「体操ねえ」と侮っているとアセります。


『原初生命体としての人間』(1972年)はしがきより

素粒子や素領域の研究が、宇宙の根源を探る手がかりになることを疑う者は少ない。が、一人の人間の中身を探ることが、宇宙を探る手がかりとなることを信ずる者が何人いるだろうか。

私は、自分自身の生身のからだの動きを手がかりに、今ここで直接、体験するからだの中身の変化の実感によって、人間(=自分)とは何かを探検する営みを、体操と呼んでいる。

自分というまるごと全体の生きものが、そっくりそのまま実験研究室(アトリエ)であり、研究材料(素材)であり、研究者(制作者)である、というあり方である。

「自分自身という存在にとってからだとは何か」ということに、無性に興味をもち、それを探検する営みに、あえてこだわって生きてきた私は、今、次のように言い直してみる。

「自分の中にある、大自然から分けあたえられた自然の力により、自分の中にある、大自然から分けあたえられた自然の材料によって、自分という自然の中に、自然としての新しい自分を創造する、そのような営みを体操と呼ぶ」



というように、

> 自分という自然の中に、自然としての新しい自分を創造する、そのような営みを体操と呼ぶ

とまで言われては、「ははあ、恐れいりましたッ」と頭を下げざるを得ません。
体操をここまで表現できるのはすごい。

この本はですね、見出しなどを見ていてもですね、「ヒトの乳房はなぜそこに二つあるのか」とか、「丹田・子宮から新しい脚が生まれる」とか、「ことばの誕生で得たもの・失ったもの」など、いろいろな面でおおごとになっていることがわかります。

これはもう、「野口さん」とか呼んではいけないですね。

「師」がふさわしい。

野口師。

私は「先生」という言葉があまり好きではないので、この「師」という言葉は助かります。やや位が高い方には、本当によく合います。

また、ジャイアント馬場師、松田聖子師、おすぎ師とピーコ師などのように、どのような敬称がいいのかわかりにくい方にもよく合います。

さて、その野口さんの(いきなり忘れてるぞ)、野口師の著作の中に、

「見事なほどの肯定的態度」

の記述があるのを目にしたのです。

ちょっと尾籠な話とも関係するのですが、「便」の話です。
いや、これを「尾籠」とかいっているあたりで良くないわけですが、とりあえず、その部分をお読み下さい。


野口三千三『原初生命体としての人間』 息と「生き」 より

大便の臭いについていうならば、どうして、大便の臭いをひとつの括弧でくくって「悪臭」と決めつけてしまわなければならないのか。

いま新しく先入観なしに、ほんとうにそんなに悪臭であるのかを確かめてみる必要があるのではないか。

(略)

いずれにしても、私は、大便そのものが、生きもの特有の親しみのある大変よい香りをもっていることや、柔軟性に富み、なめらかでボリュウムのある線や形、そして動きの美しいものである、ということを強調したい。

今すぐ他の人に共感されるとは思っていないが、なぜそんなに不潔で嫌なものだと憎まれなければならないのであろうか。

私は、私の中からすんなり素直に新しく生まれでたものに対して、ほほえましくて可愛らしく思い、暖かい愛情を感ずるのだが、そしてこれを変態的感覚とは思っていないのだが・・・、どうであろうか。



恐れいりましたッ。

この圧倒的な肯定的態度。

「便」も、人間社会でここまで褒められたことはあまりないのではないでしょうか。ジャパネットたかたの創設社長が商品を褒めるがごとき、対象への賞賛と愛情。

ベン・・・といえば、ディストピア映画の傑作、1987年の映画『バトルランナー』で、主演のアーノルド・シュワルツネッガー師が演じる人物は、ベン・リチャーズという名であることを思い出しました。 ・・・と、これを書いていて、

「なんて意味のないことを書いているんだろう」

と、意味のなさに感嘆しますが、いずれにしても、野口師のような、一種悟った人物から飛び出す肯定的態度に感嘆した次第であります。

running-man-1987.jpg

▲ 映画『バトルランナー』(原題: The Running Man )より。この映画のディストピア世界観は、私自身の舞台美術に大きく影響しました。




肯定的態度の実践として

やや違うかもしれないですが、「肯定的であるべき」ということについては、同じ野口さんでもある日本最初の整体師の野口晴哉さんも著作『風邪の効用 』の中で、「観念の方向性」ということで、何度もふれています。

その部分とは、たとえば、以下のような記述です。

ちなみに、野口晴哉さんのほうは、何となく自分と似ている部分が多くあるように感じていまして、「さん」というように記させていただいています。


野口晴哉『風邪の効用』より

観念はヒョッとした時に確立してしまう。空想が確立するというが、本当は未来の方向が確立するのです。

子供が何かし損ねた時に、「お前はなんて頭が悪いの」と言う。そうすると「ああそうだ」と思ってしまう。「頭が悪いから試験に落ちたのよ、しっかり勉強しなさい」と親は言う。

けれども、すでに頭が悪いと方向づけてしまって、だからしっかり勉強しろと意志の努力を強いるのは、人間の心の構造を知らない人である。

人間は自分のごく小さな動作でも、一旦空想に方向づけられてしまうと、意志では訂正できないのです。だから「頭が悪い」と方向づけて、「しっかり勉強しろ」と言うと、成績が落ちるとか、机に向かうと居眠りばかりするとか、そのうち勉強が嫌いになるというようになっていくわけです。

親は発奮させるつもりで「馬鹿だ」と言うのだけれども、その「馬鹿だ」と言われたことで子供が空想して思い浮かべることは、「俺は馬鹿か、俺の頭のはたらきは悪い、しかし、いくら考えたって、親父が悪いのに俺が良いわけがない、おふくろだって鈍いのだから俺が良いわけない」とか、それを自分で確認してしまう。

もうそうなると、今度はしっかり勉強しようとしても、努力するほど逆になってしまう。



これは、昭和37年( 1962年)に書かれたものですが、それから 53年後の今年、このことがわりと正しいことが、国立青少年教育振興機構という国の機関の調査で明らかになっています。

5月2日の朝日新聞からです。


親「もっと頑張れ」→子の生活力向上せず 調査結果発表
朝日新聞 2015.05.02

「もっと頑張りなさい」と保護者が子どもを叱って励ましても、自立した生活を営む力は向上しない――。そんな結果を国立青少年教育振興機構が発表した。

調査は2012年9〜10月、全国の公立校の小学4〜6年生、中学2年、高校2年と、小4〜小6の保護者を対象に実施。子ども約1万7千人、保護者約7800人から回答を得た。

「自分と違う意見や考えを受け入れる」「ナイフや包丁でリンゴの皮をむく」「上手に気分転換する」などを「生活力」と位置づけて、体験活動や保護者の関わりとの関係を見た。

その結果、小4〜小6では「よく『もっと頑張りなさい』と言う」など、保護者が叱咤激励する度合いが高くても、生活力に違いは見られなかった。

一方、保護者が自分の体験を話したり、「山や森、川や海など自然の中で遊ぶ」といった自然体験や家の手伝い、読書などをしたりする子どもほど生活力が高かったという。



これは要するに、少なくとも小学生の子どものさまざまな能力を伸ばすためには、「やりなさい」とか「頑張りなさい」という言葉にはまったく効果がなく、そうではなく、

・自然の中で遊ぶ
・親が自分の体験を子どもに言う
・家事や読書をする


などが最も子どもの基本的な能力を伸ばすことだということだと思います。

もちろん、他にもいろいろとあるでしょうけれど、野村さんの言うことも、国立青少年教育振興機構の調査も、一種の「肯定的態度の生活の中での実践」という意味では示唆的な気がします。

この調査では生活力のことを言っていて、勉強のことにはふれていませんが、同じだと思います。

1ヶ月くらい前に書きました、

シュタイナーが「子どもへの詰め込み教育は絶望的な社会を作る」といった100年後に、完全なるその社会ができあがった日本…
 2015年04月16日

という記事では、「子どもに対しての詰め込み勉強は、あらゆる方向に悪い作用を及ぼす」ということについて書きました。

その悪い影響は、むしろ大人になってから出るものだと思われます。

記事では、シュタイナーの講演の内容の一部を抜粋しました。


シュタイナーの 1912年の神智学協会会員に向けての講演より

小学校でも詰め込み教育が行われるようになると、その害は想像を絶するものになるでしょう。詰め込み教育の本質は、心魂つまり存在の最奥の核と、詰め込まれるものとの結びつきが、まったくないことです。

心魂が詰め込まれる内容に、関心を持てないからです。

習得したものをしっかりと自分のものにしたい、という気持ちがないのです。人間の心魂と自分が習得するものとのあいだに、興味の絆がわずかしかないのです。

その結果、活動的に公的生活に関わることができなくなります。詰め込まれたものが、自分の職業の課題と内的に結びつかないからです。心魂が、頭の活動から遠く離れているのです。

人間にとって、頭の活動と心魂が遠く離れていること以上に悪いことは、他にありません。


シュタイナーはいつも難しい言い方をしますが、これは簡単に書きますと、

「心底から興味のないことを無理矢理教え込んでも、身につかない」

ということだと思います。

これは、たとえば、受験を経験したすべての方々が「今」を思い返してみると、わかるかと思いますが、受験で無理矢理覚えた項目は忘れていることが多いのではないでしょうか。

今回の話は「肯定的態度」ということから始まったことですが、生活全般において、これらのことを思い出すことは無意味なことではないと思います。

やはり、『美しき緑の星』を見てから、いろいろと思うところはあるようで、細かく自分を変えようとしているようです。

最近は電柱に抱きついて(やめろ)。

映画によって、私も多少、『切断』されたのかもしれません。



掲示板

少し前の記事で少し書きました掲示板を設置しました。

Deep BBS

よくある掲示板ですが、フリーのものではなく、簡単なセキュリティはあるものだとは思います。使い勝手次第では別のものにするかもしれません。

まったく関係のない方が検索などで訪問されても、内容的に訳が分からないかもしれないですので、パスワード認証にしています。パスワードは indeep (半角)です。

何かの際に活用されるようなことがあればいいなと思います。

Sponsored link


・ In Deep も» 人気ブログランキングに登録しました。よろしければクリックして下さると幸いです。