・Nuclear Receptor
私たちが見ているものはリアルか?
最近はフランス映画『美しき緑の星』のことにふれることも多かったんですが、それあたりから、それまで目にしても、さほど気にも留めなかった表現や言葉の中で、わりと引っ掛かってくるようになったものがいくつもあります。
たとえば下は、ある本からの引用で・・・まあ、タイトル名を書くと、語感から、スピ系っぽく見えたり、先行イメージとかがあるのもアレですので、本のタイトルは書かずに引用したいと思います。ちなみに、こちらの本です。
今から二十数年前に書かれたものだと思われます。
人間はエネルギーの読み取り方を学ばなければなりません。人間は、現実を知覚するのに、ただ、目と、耳と、鼻と、口といった感覚以外のものを使うことを学ばなければなりません。
前にもいいましたが、目、耳、鼻、口、感触は”現実を欺くもの”です。あなた方はこれらの感覚によって現実を知覚していると考えますが、実際には、これらの感覚は現実に対するあなた方の知覚を制限しています。
あなた方は、子どものときから、目、耳、鼻、口、感触にたよることによって体験を解釈するようにとの訓練を受けてきました。
いま、体験がいかなるものかを決定するのに、別なかたちの感覚に頼る必要が出てきたのです。あなた方がこれまで過小評価してきたのは感情という知覚です。
感情、それは、知っている自己であり、直感的な自己であり、霊的な自己ですが、地球にあっては周波数コントロールのために攪乱され、あなた方はそれを見失っています。
もしも、あなた方が自分自身の知識を発見し、自分自身の直感的な考え方を発見すれば、誰にもコントロールされることはありません。
何がコントロールされていて、何がコントロールされていないかはどうすれば分かるのでしょうか。地球上でマスターすべきあなた方の体験の一部は、それを学ぶことです。
あなたという存在のもっとも深い中心部に、何ものも揺るがすことのできない本質があって、あなたはそれを発見し、その本質に基づいて行動を開始できます。
生命を尊重することこそがその本質にほかなりません。”あなたはあなたに対して責任があります”。あなたの光を、あなたの肉体を、あなたの体験をあなたの能力の許すかぎり尊重すること、それはあなたに与えられた贈り物です。
私自身は、もともと他の星の人や、その交流などについてまったく興味がなかった人ですが、ここ数日、やや興味を持って読んでいます。
とはいえ、「外の声」は、それが真実であろうと真実でなかろうと、やはり自分の声ではなく、「外の声」ではあるわけで、全身全霊でこういうことに心を投じるのは良いことではないようにも思います。あくまで、「ある異星人の意見」として、軽めに受け取るのがよろしいかと。
さて、この人が言う「あなた方は」というのは、私たち地球の人間のことなんですが、この中に、
> 目、耳、鼻、口、感触は”現実を欺くもの”です。
とあります。
ややわかりにくいかと思いますが、これはどういう意味かというと、これを言っている人の主張によれば、以下のようなところが「その一部」です。
彼らはホログラフィの挿絵を作り、それは真に迫ったドラマそのものですが、それをポータルを通してあなた方の現実のなかに挿入するのです。これをやっている宇宙存在は何十万年も生きている存在であり、人類の周波数はコントロールされているために、人間を騙すことは彼らにとってはまったく簡単なことです。
ここに「ホログラフィ」(ホログラム)という言葉が出てきますが、このホログラフィーは、この人の主張によれば、
ホログラフィーの挿絵は、三次元の世界とまったく同じように見えます。それは作られた出来事であり、それをあなた方の現実に、現実のつづきであるかのように挿入します。それは見ている者の頭脳に影響をおよぼす目的で使われ、見分けるのはとても困難です。
これからの数年間、あなた方はこれを見分けるための練習をする機会を十分に与えられることになるでしょう。(略)
壮大な出来事の一部は本物ですが、一部はホログラフィーの挿絵で、人類の意識をコントロールしやすいように、一つの世界秩序に向けようとする意図でデザインされるでしょう。
この人の主張では、どうやら、この地球には、「見分けるのはとても困難」なリアルではない「像」が多く存在しているということになるようです。
ちなみに、この人は、「社会における究極の暴虐」として以下のように書いています。
社会における究極の暴虐は戒厳令による支配ではありません。意識を心理的に操作することによって支配することこそ究極の暴虐です。意識を心理的に操作して、現実を規定し、その現実のなかにいる存在は自分が檻のなかに閉じ込められていることすら気がつかないのです。
> その現実の中にいる存在は自分が檻のなかに閉じ込められていることすら気がつかない
というようなことになってくると、
「何がリアルなもので、何がリアルなものではないか」は、実はわからない
ということにもなりかねないのですが、しかし、考えてみれば、この「リアルとそうではないもの」については、昔からテーマとなりやすかったものでもありそうです。
私がとても感銘して、ブログのタイトルの由来にもなった、しりあがり寿さんの長編形而上ギャグ漫画『弥次喜多 in DEEP』のテーマも、途中からは、弥次さんと喜多さんが「存在から非存在」への歩みを始める中で、「何がリアルか?」ということが問答される難しい漫画になっていきます。
ホログラムに関して、科学的な話でいえば、過去記事の、
・日本人科学者が「宇宙はホログラムである」ことを理論的に証明したその地球の中では…
2013年12月16日
などでご紹介したことがありますが、「この世は投影されているホログラムに過ぎない」という学説が、科学誌ネイチャーでまともに取り上げたようなこともあり、科学の検証分野としてば「あり得る」ことになっているようです。
・nature / THP
恐怖によって支配する理由と「支配される」理由
どうして、唐突にこんなことを考えているかといいますと、先日の記事、
・人工の黙示録 :「奇妙な音(アポカリプティック・サウンド)」は確かに鳴っている・・・ただし「意図的である可能性」が急浮上中
2015年05月23日
を書いた後、何となく釈然としないというか、悶々とした気分が続いたのですね。
それは、この記事やその内容に対してということではなく、「今まで生きてきた社会や、自分を取り囲んでいた人生のメカニズム全般」に対して、「何となく釈然としない」という悶々とした気分が続いていました。
今の世の中はいろいろなことが起きていますが、その中の「何がリアル?」ということも、私たちが五感などの「感覚」に頼っているうちは、その判断は難しいのかなあと。
さきほどの引用から抜粋すれば、
> 人間は、現実を知覚するのに、ただ、目と、耳と、鼻と、口といった感覚以外のものを使うことを学ばなければなりません。
という部分ですね。
先日の「奇妙な音」の記事では、それらの音が「恐怖の感情と関係している」というようなことも書いたのですけれど、
「地球上での恐怖と恐怖心」
というキーワードについて、先ほどの地球人ではないとされる方は、以下のように述べていました。
地球において、恐怖の周波数が減少しはじめると、さまざまな宣伝が行われて恐怖心が増大されることになります。
それは、恐怖の周波数によって滋養をとっている存在たちが食べ物を失うことになるからです。彼らの食べ物を新しい愛の周波数に切り替える前に、恐怖の周波数を強化しようとすることでしょう。
彼らは、地球上で感情的な混乱を宣伝し、拡大するためのさまざまな装置を地球に埋め込んであります。感情的な混乱は彼らのところに送られ、それによって彼らは滋養を与えられます。
ということで、よくはわからないですが、「人間の恐怖(の周波数)を食べている」ような存在がいるようで、人間から恐怖が消えると、その存在たちの「食べるものがなくなっちゃう」(苦笑)ということで、その存在にとっては、
地球から恐怖の感情が消えるのは良くない
ということで、そのために、
地球上に「恐怖が少なくなってくる」と、さまざまな宣伝が行われて恐怖心が増大される
ということになっているようです。
確かに、「恐怖の喧伝」は、どんなジャンルでも多いです。
病気、犯罪、経済、戦争、テロ、自然災害・・・。
これは、過去記事の、
・自分が「今生」に生まれた理由がやっとわかったのは嬉しいけれども、恐怖と不安からの解放の前に立ちはだかる「西洋科学的思考」
2015年04月17日
の最初のセクションの見出しが、「現代の人に蔓延する「不安」と「恐怖」の心」というものでしたが、現代社会は、基本として、「恐怖と不安」が先行していることは事実のように思います。
これは、今の世の中への考え方の「最初が、否定的・消極的な態度から始まっている」ということにもなっているというような気さえします。
そして何よりも、上にリンクした記事にも書きましたが、私自身が、「根源的な恐怖と不安」の中で生きてきたという事実があります。
最近、ほんの少し変わりつつはあるとはいえ、その人生の歴史は否定しようがありません。
しかし・・・。
その自分の経験から、「実は恐怖という観念の発生源は、外側ではなく、自分じゃないだろうか」ということも、薄々とは感じ続けていました。
ふと、最近の、いわゆる「アポカリプティック・サウンド」と同じような音を、そんな概念がなかった 二十数年前に舞台でガンガン流していたことを思い出しました。
それも「恐怖のヴィジョンの極限を再現した舞台」で。
聴き直してみますと、その音の質は、最近の「奇妙な音」と同じ音質の傾向を持っています。
下は、二十数年前の私たちがやっていた劇団のようなものの舞台のラストあたりですが、開始後3秒くらいから入る音ですね。聞き取りにくいですけれど。
self23 - 鬼畜御殿(1990年)
これは、普通に英国のバンドの曲でして、以前、クレアの記事で載せたことのある Coil というバンドの名曲です。
いずれにしても、若い時の私の目に見える「世界」は、いつも上のような悪夢のようなヴィジョンでしたが、その悪夢を徹底して再現して、自分をそこに突入させると「恐怖 vs 恐怖」のぶつかり合いで、どちらも消えてしまっていたことも思い出します。
「恐怖ってのは本当は存在しないのかも」と薄々と思うこともあったのは、そのような経験があったからかもしれません。
中村天風さんは、
神仏と名づけられている宇宙霊なるものの心の中には、真善美以外に、心配や悲観というような消極的な心持ちは、夢にもない。
などというように、恐怖や不安は、「本来的にはこの宇宙に存在しない」というようなことさえ言っているわけですが、しかし、恐怖は現実にあるように思えます。
では、それはどこにある?
というと、やはり、恐怖を生み出しているのは「自分」なのだとしか言えないことにも改めて気づくのです。戦争、自然災害、病気、などのネガティブな現実について、それを恐怖と思うか思わないかは、私たちの中にありそうです。
そういう意味で、先ほどの地球人ではない人の主張する、私たちは外からコントロールされるのではなく、「自分でコントロール」できるようになっていかないといけないというのは本当かもしれないとも思います。というのも、今後の社会では、「恐怖を煽る」局面をさらに数多く目にすることになるような気がするのです。
最近、書くことが多かった、
「肯定的な態度」
への試みは、まさに自分(自我)をコントロールするための最初の一歩なのかもしれません。
おそらくは、今後の世界は、表面上では「恐怖と感じることが自然な出来事」が、派手ではなく、淡々と起きていくような気がしないでもありません。
しかし、それらの恐怖に打ち勝つことさえできれば、先ほどの言葉の主のような、他の星の人などの助言がなくとも、私たち人間は(ほんの少しでも)自由になっていけるものだと思います。