1897年の京都の嵐山の写真
▲ 過去記事「日本人自らが撮影した 120年前の日本の光景」より。
この20年で急速に異常度が増す日本
昨晩、食事の準備などの時に、うちの奥さんが、
「最近、ヘンな犯罪多いね」
と言います。
私 「まあでも、ここ何年もずっとそうだけど」
奥 「ヘンな人も増えている気がする」
私 「それも何年も同じ気がする」
奥 「最近は特にそう思う」
私 「まあ、確かに、30年 40年前はこんなにヘンじゃなかったかも」
というような会話をしていましたが、確かに、昔から、変だったりする人はいたでしょうし、異常だったりする事件はあったでしょうけれど、今は何だかそれが日常的になっているかなあと、奥さんの言葉を聞いて改めて思います。
数字を見る限りは、実際に特に、この 10年 20年は何だかおかしいです。
10年で48倍!急増する「高齢者の暴力事件」
IRORIO 2014.10.01
65歳以上の高齢者犯罪の検挙数は、ここ10年で、傷害は9倍、暴行はなんと48倍にも増加しているという。
他の世代と比べて極めて高い増加率で、平成11年までは横ばいだったものの、その後一気に急増。しかし、その原因は不明で、警察庁も調査に乗り出しているのだとか。
また、検挙される高齢者の3分の2が初犯で、これまで犯罪に縁がなかった人が高齢になって事件を起こすことが多いそうだ。
この記事に、
> しかし、その原因は不明で
とありますが、他の異常な数字も、おそらくは明確な理由を見出しにくい部分はあるかと思います。
過去記事の、
・私たち人間は太古の昔から「数十億の守護細胞」にガンから守られている…
2015年05月22日
に載せたグラフなども、この 10年 20年の説明のつかない「異常」を示しているように思います。
配偶者からの暴力に関する相談件数の推移
・内閣府男女共同参画局
児童虐待相談対応件数の推移
・児童虐待相談対応件数
これらのグラフを載せました記事で、岩井寛さんという医師が口述筆記により書き上げた、「コトダマの記録」といってもいい『森田療法』という著作の内容をご紹介しました。
そこで岩井医師は、現代の日本の社会について、
「人間は、大きく自由を失いつつある」
と記しています。
「現代」といっても、これが書かれたのは今から 30年ほど前ですので、その時代で、すでに岩井さんは「社会が硬直している」と感じていたようです。
岩井寛『森田療法』より
”人間はこうでなくてはいけない”というような”自己規制”にがんじがらめにされている人が多いが、もっとおおらかに、自由に行動することが許されているはずである。
人生はたかだか七十年か八十年であり、そのなかで窒息するような生き方をするよりも、自由に空気を吸うことが許され、自由に行動することが許されると考えたほうが、人間の本質にそっているはずである。
そして、自分に対する「ゆるし」が拡大されればされるほど、他者に対する「ゆるし」も拡大され、人に対しての「寛容性」も増すはずだと岩井さんは言っています。
この「他の人や、自分とは違う価値観に対しての寛容性」が広がることは、あらゆる「差別」や「排除」や「敵対」といったものも減らしていけることにつながると思われます。しかし現実には、最近の世界は、この「差別や排除や敵対」というものが、むしろ拡大している部分が目につきます。
シュタイナーは、第一次世界大戦下の 1915年 2月の講演『第一次世界大戦の霊的背景』の中で、以下のようなことを述べています。
今から 100年前に言ったことですが、100年後に生きる私たちにはちょっと絶望的な響きも含まれています。
なお、シュタイナーによれば、今(具体的な年代の括りはわかりません)は「第五文明期」(ポスト・アトランティス時代と位置づけられているそう)ということです。これは、『天地の未来―地震・火山・戦争』という著作に収録されています。
・ルドルフ・シュタイナー( 1861 - 1925年)
1915年2月の講演『第一次世界大戦の霊的背景』より
ポスト・アトランティス時代の第六文明期における課題は、精神を自分のなかではなく、周囲に漂うものとして認識すること、精神を元素界のなかで認識することです。
第六文明期の課題は、物質的周囲における精神認識を用意することです。それは、精神を純粋に元素的な生命において認識する古い先祖返り的な力が蓄えられていないと、達成困難になります。
しかし、激しい戦いが生じるでしょう。
白人は、精神をますます深く自らの存在のなかに受け取る途上にいます。黄色人種は、精神が身体から離れていた時代、精神が人体の外に探究された時代を保っています。
そのため、白人がさまざまな地域の有色人類と激しく戦うことで、第五文明期から第六文明気への移行がなされます。
白人と有色人類とのあいだでなされるこの戦いに先行するものが、白人と有色人類とのあいだの大きな戦いの決着がつくまで歴史を動かしていくでしょう。
ポスト・アトランティス時代の第六文明期における課題は、精神を自分のなかではなく、周囲に漂うものとして認識すること、精神を元素界のなかで認識することです。
第六文明期の課題は、物質的周囲における精神認識を用意することです。それは、精神を純粋に元素的な生命において認識する古い先祖返り的な力が蓄えられていないと、達成困難になります。
しかし、激しい戦いが生じるでしょう。
白人は、精神をますます深く自らの存在のなかに受け取る途上にいます。黄色人種は、精神が身体から離れていた時代、精神が人体の外に探究された時代を保っています。
そのため、白人がさまざまな地域の有色人類と激しく戦うことで、第五文明期から第六文明気への移行がなされます。
白人と有色人類とのあいだでなされるこの戦いに先行するものが、白人と有色人類とのあいだの大きな戦いの決着がつくまで歴史を動かしていくでしょう。
この他に、この講演で、シュタイナーは、「ゲルマン世界とスラブ世界の戦い」のことを述べている他「東洋が第六文明期の生成に果たす役割」も述べていて、そのくだりは大変長くて、うまく抜粋できないですが、その軸はどうやら、
東洋が西洋文化を拒絶し始める
ところにあるようです。
基本的に、シュタイナーは、アジアを含む東洋などの人々は、過去の精神性の強い人類の「記憶」が保たれていると考えていたようで(おごった書き方をすれば、それは過去の日本人には顕著だと私は思っています)、過去記事の、
・「頂点の日本」から何が始まる? 地震に関する奇妙なことが続く中で読むシュタイナーの「弥勒の世界の到来」では、地球が助かるかどうかは私たちの「進化」次第だと
2015年06月02日
などでご紹介しました「弥勒の世界」というような概念や、お釈迦様の説法、あるいは、インドのヨガの思想なども長く述べています。
いずれにしても、シュタイナーは 100年前に、その後の社会として、「あらゆる対立と戦いの中で次の時代に進んでいく」というようなことを述べていたということになるようで、確かに、この 100年間は現在も含めて、まったく激しい対立と争いの中を歴史は進んでいます。
ただし、同時にシュタイナーは、これらの混乱を、
「外的な幻影に捉われた混乱」
としていて、このことに「気づけば」無駄な混乱は収まるとも言っていますが、その兆しはどうにもまだのようです。
あるいは、さきほどの岩井寛さんの言葉にある「ゆるし」というものが、周囲に対して適用できればいいのかもしれないですが、「ゆるし」なんてのも、自分に対しても他人に対しても、むしろ薄くなってきているような気もしないではないです。
そして、日本に関しては、記事の最初のほうに挙げました「この 10年 20年のさまざまな異常」というものの原因とか解消とかを考えないと、第六文明も何もあったものではなく、「みんなが異常な精神状態で、異常な行いばかり」の文明に突き進むなことになってしまいかねない面も感じます。
なぜ日本の神経症と精神疾患は増えたか
そういえば、さきほどの岩井寛さんは、精神科、特に「神経症」を専門としていた医師でらっしゃいましたが、シュタイナーの講演で、その「神経症」についてふれられているものがあります。
『神智学の門前にて』にある、1905年頃の講演だと思うのですが、その中に、
「これから、神経症と精神病が激しく増加する」
と述べていたくだりがありました。
そして、その原因は「唯物論」だと断言しています。
まあ、私自身が神経症であり、長く薬を飲んでいたわけですが、過去記事、
・…数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本(私も危なかったのです)
2015年04月12日
という記事にも書きましたが、神経症や不安症などに「必ず」処方される、ベンゾジアゼピン系と言われる薬をはじめとした精神系の薬の投与量は、うなぎ登りに増え続けています。
・向精神薬の売り上げ
上は 2006年までのものですが、その後も増え続けています。しかし、問題は、このこともまた「この 10年 20年での話」ということのほうでして、たとえば、さきほどの岩井寛さんが「日本は自由を失っている」と書かれた 30年前には、それでもまだ「多くの人が精神系の薬剤とは無縁だった」こともわかります。
私は、このシュタイナーの「唯物論が悪い」という主張は正しいと感じるのですが、抜粋してみます。
ここで「神経質」と書かれているのが、現代の神経症です。
シュタイナー『神智学の門前にて』人間の生活におけるカルマの法則の働き より
今日、百年前にはほとんど知られていなかった病気が広まっている。知られていないことはなかったとしても、広まってはいなかった病気である。神経質(神経症)である。
この独特な病気は、18世紀の唯物論的な世界観の結果である。唯物論的な思考習慣なしには、神経質はけっして生じなかったであろう。
もし、唯物論がまだ何十年もつづくなら、唯物論は民族の健康に破壊的な働きかけをするだろうということを、秘密の導師は知っている。
もし、唯物論的な思考習慣が抑止されないなら、やがて人間は神経質になるだけではなく、子どもも震えながら生まれてくるようになる。
子どもは周囲の世界を感じるだけではなく、どのような周囲の環境にも苦痛を感じるようになる。
特に精神病が非常な早さで広まる。狂気の流行病が、何十年か先に現れるだろう。精神病の流行によって、人類の進化は妨害されようとしている。
このような未来の世界像ゆえに、人類の隠れた導師たち、叡智のマイスターたちは、霊的な叡智を一般の人類に注ぎ込まねばならない必要性に迫られているのである。
今日、百年前にはほとんど知られていなかった病気が広まっている。知られていないことはなかったとしても、広まってはいなかった病気である。神経質(神経症)である。
この独特な病気は、18世紀の唯物論的な世界観の結果である。唯物論的な思考習慣なしには、神経質はけっして生じなかったであろう。
もし、唯物論がまだ何十年もつづくなら、唯物論は民族の健康に破壊的な働きかけをするだろうということを、秘密の導師は知っている。
もし、唯物論的な思考習慣が抑止されないなら、やがて人間は神経質になるだけではなく、子どもも震えながら生まれてくるようになる。
子どもは周囲の世界を感じるだけではなく、どのような周囲の環境にも苦痛を感じるようになる。
特に精神病が非常な早さで広まる。狂気の流行病が、何十年か先に現れるだろう。精神病の流行によって、人類の進化は妨害されようとしている。
このような未来の世界像ゆえに、人類の隠れた導師たち、叡智のマイスターたちは、霊的な叡智を一般の人類に注ぎ込まねばならない必要性に迫られているのである。
この中の、
> 子どもも震えながら生まれてくるようになる。
> 子どもは周囲の世界を感じるだけではなく、どのような周囲の環境にも苦痛を感じるようになる。
という世界は、まるで現代の日本のようで、多少切なくなります。
「震えながら生まれてくるようになる」というのとは違うことですけれど、
・「そのうち日本から子どもが消えちゃうんじゃないか」と思わせる日本をめぐる統計グラフと、それと同じ曲線を描くいくつかの統計
2015年01月30日
では、日本の子どもや赤ちゃんに関する、やや暗いデータを載せていますが、この10年 20年は、世界の中でも、子どもに関するデータでは日本の悪化が著しいです。
逝きし世の面影
思えば、日本という国は、
「世界でもっとも唯物論とか西洋的価値観とは長く離れて生きてきた民族のひとつ」
だったように思います。
そういえば、ずいぶん前の記事ですが、震災後1ヶ月くらいの時に書きました、
・どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない
2011年04月14日
という記事で、『逝きし世の面影』という本をご紹介したことがありました。
これは、逝きし世の面影というサイトから説明を借りれば、
この本の内容をひとくちに言えば、「幕末・維新の時代に訪れた外国人が見た古きよき日本の姿」と言うことができます。しかし、それは単に近代化される前の遅れた社会に見られる素朴さということではなく、世界的にも著しく文化の発達した国家、国民が作り上げた希有な文明と呼ぶべきものなのです。
当時の日本の社会が、いかに世界の目から見て異質のものであり、また汚れのない美しいものであったかが忍ばれる内容となっています。
その文明は、明治維新後の西欧化の荒波によって、いまや完全に崩壊させられ、まさに過去の幻影となってしまいましたが、私たちはこの国がかつて有していた素晴らしい社会の姿を胸に焼き付けておく必要があります。
というものです。
あるいは、このような概念は、当時、日本を訪れた多くの外国人たちの感想にも現れています。
1860年に、通商条約の締結のために来日した当時のプロシアという国の使節団の人物は報告書に、日本人についてこう書いています。
「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」
先ほどの『逝きし世の面影』のAmazon のレビュー には以下のような書き込みがあります。
日本は先進国の仲間入りを果たし、国際的には一流の国になったが、果たして欧米の尺度で動いている今日のこのシステムを今後も続けていくことが、日本人にとって幸せなのか、考えさせられてしまう。
また、私はさきほどの記事でこのように書いています。
その後の 100年で日本の状況はかなり変わってしまった。最近の日本と日本人が「どうみても健康で幸福な民族」かどうかは、かなり微妙で、それだけに今の時期は考えてみるいい機会なのではないかとも思います。
震災後に感じた、この「西洋文明化の違和感」は、消えていません。
100年、あるいは 150年以上前の日本の感覚に戻れるなら戻る・・・。
そして、このことは、西洋人であるシュタイナーの 100年前の言葉によって、それが曖昧な願望のレベルではなく、私たち、あるいは私たちの一部は、積極的に唯物論的思考と西洋的価値観から脱却していくことが必要なのかもしれないと今は観念します。
西洋文明と西洋的な価値観が雪崩を打って流入してして百数十年。
もはや、日本人は限界に見えます。
ところで、先ほどリンクしました過去記事「どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない」のタイトルの由来は、1876年(明治9年)と1899年の二度、日本に来日したフランスの画家のレガメという人が「日本と日本人への思い」を書いた『日本素描紀行』という著作にあるもので、今回の締めは、その抜粋をご紹介したいと思います。
140年前の日本の姿です。
レガメ「日本素描紀行」(1876年)より
私は、午後三時から始めた貧しい人々の住む地域の散策から戻って来た。魚屋や八百屋の店先は、夕食のため、たいへん賑わっている。この時刻の盛んな活気は、やがて人気のない街の静けさに移っていくのだろう。
私は、深く感動して、頭をかしげて戻る。たった今見たすべてのことに、心の奥底まで動かされ、あの誠実な人たちと、手まねでしか話せなかったことが、たいへんもどかしい。
勇気があって機嫌よくというのが、陽気で仕事熱心なこのすばらしい人々のモットーであるらしい。
女性たちは慎ましく優しく、子供たちは楽しげで、皮肉のかげりのない健康な笑い声をあげ、必要なときには注意深い。すべての人が、日中は、家の中でと同じように通りでも生活をしている。
彼らは、私がどんなに彼らが好きであるのか、おそらく知るまい。また、自分たちに、どんなに愛される資格があるのかも知らない。