映画の内容とリンクしない『美しき緑の星』の最初の場面
自分の人生は常に「自死の試行」みたいなものだった
今日、田んぼに行かせていただくのですが、一緒に行くのは、かつて、劇団のようなものを、たまに名前の出てくるジローさん共々、初期の頃から一緒にやっていたヨシハラさんという男性で、今四十代の彼が十代の時からの知り合いです。
「暴走する若者」を演じさせると非常に迫力のある人でしたが、今は私同様、相当な子煩悩(親バカ=バカ親)の父親となっています。
それにしても、この彼との出会い方も「そんな出会い方があるかよ」というような不思議性を持つものでしたが、それだけに気が合って、若いときから中年になるまで、遊ぶのも一緒によく遊びました。
・田植えに一緒に行く人の30年前の舞台。ナイフは本物なので怖かったです。
淡々と「劇団のようなもの」と書いていますけれど、興味本位で入った人たちは、私たちのその団体の本番のあまりにも無茶さに、多くの人たちは2度と戻りませんでした。
それはそうだなと思います。
何しろ、この劇団のようなものがやっていたこと自体が、「まるで自死を目指している無謀な集団」のようなものだった面もあるからです。
もともとが、この劇団のようなものは、私自身の「神への挑戦」でした。
「殺せるものなら殺してみやがれ」
という「宇宙への挑戦状」と、その信念から始めたものだったのですから、自分が生き残れるかどうかの試みだったともいえます。
しかし、とりあえず、このセルフ23 という「生存実験プログラム」では、私をはじめ、全員が生き残り、それどころか、とても生きている実感を体験できる楽しい青春時代を過ごすことができました。
宇宙の消滅プログラムと寄り添って30年
ちなみに、この「殺せるものなら殺してみやがれ」というのは、私が 21歳の時に決心した「神と呼ばれるもの」への宣言でした。
・宇宙の「自殺」を食い止めるべきかそうではないのか?
2011年05月10日
という記事は、震災の後に、
宇宙は自身の自死プログラムを自分の計画そのものに組み入れている
ということに気づいた時に書いたもので、自死というのは、つまり「消滅」のことですが、宇宙の存在の有無を作用しているのは人間かもしれないという考えに基づいています。
これは、最近、
・《特報》「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認
2015年06月06日
という記事を書かせていただいたことがありましたが、量子論などの科学的な面で認識されてきている面はありますけれど、科学はどうでもいいのです。
それを知らなくても、たとえば、何の科学も知らない二十代の私が、「宇宙との関係は、やるかやられるかだ!」と明確に頭にそのヴィジョンを描くという「宇宙への強い認識が宇宙の存在を大きくも小さくもする」というような体験をしています。
しかし、その時点では「否定的な感情」から成立していたのですけれど、これは 2011年の震災以降、少しずつ、「宇宙に同情的」な心境に変化してきました。
さきほどリンクした記事で、私は下のように書いています。
記事『宇宙の「自殺」を食い止めるべきかそうではないのか?』( 2011年05月10日)より
「このまま何もせずにいれば、いつかはその宇宙の自殺プログラムというものは多分、作動するんだろうなあ」。
そうは思います。
その場合、どうするか。
まず、
「宇宙の自殺は、人類存在にとっては、さほど脅威なわけではないはずで、放っておくという選択がひとつ」
つまり、「勝手に消滅しろ」という選択。
なんとなく「宇宙の消滅」というのは人類にとっても一大事に思えるかもしれないですが、「そうでもない」ということは理詰めで説明できるはずです。なので、放っておく(消滅するままにしておく)という選択も一応成り立つように思います。
もうひとつが、「それ(宇宙の消滅)を止めてみる」という選択。
しかし、私は考えたんですが、私には「そのプログラムを止めてみる」気が今はあまりないのですよ。以前何度か書いていますが、私は若い頃に神経症とパニック障害に苦しむだけ苦しんでいる中で、宇宙を模した紙に、
「殺せるものなら殺してみやがれ」
と書いて、そこにナイフを刺し、その方向の生き方を決意したことがあります。
つまり、いまだに宇宙とは対立関係が続いている・・・と、自分では思っていたのですよ。
しかし、今となってみると、どうも「自分と宇宙の立場は思ってきたものとは違うのかも」と今、感じます。
「宇宙の計画に消滅ブログラムが含まれている」というのは何とも悲しい話で、誰もが「万能の宇宙」と呼んでいる存在そのものが、最初から自分の計画とプログラムに疑心暗鬼だったのか自信がなかったのかはわからないですが、「最初から」自分が消滅するための自殺プログラムも同時に埋め込んでいる。
このことに関しては多くの方々にもわかっていただきたいと思います。宇宙は相当に悲しい気持ちを併せ持つ存在として誕生した可能性を感じます。
それも、その消滅プログラムは「人間」の中に入っているはず。
これは、当時、どこまで意識していたかわからないすですが、
「人間が宇宙の認識をやめれば、宇宙は消える」
ということを書いていたのだと思われます。
地球と人間の輪廻転生は永遠ですが、宇宙が消えれば、その永遠性が消えるのかどうかは曖昧ですが、多分、消えるのでしょう。
となると、善は消えますが、悪も消える。
喜びは消えますが、悲しみも消える。
さて・・・。
何だかあれですが、今回のタイトルは「プレアデス人への宣戦布告」などというものになっていますが、まあ、最近、いろいろとご縁がありまして、今まで読んだことのないプレアデス関係の本などを読んだりする機会に恵まれました。
あるいは・・・書き方が難しいのですが、ストレートに書けば、比較的親しい方の関係で、プレアデスの人とおぼしき人と関係を持っているという感じの方がいらっしゃるのですね。
さらにいえば、最近よく話題にするフランス映画『美しき緑の星』ですけれど、これはもう、私はずいぶんと見ているのですが、それらを含めて、今回のタイトルに行き着きました。
「宣戦布告」というのは、単に大げさですが、なぜ、そんな物言いとなったのか。
その人々がみんな、地球の人間を「下」に見ているからです。
見下している。
否定的な態度を露骨にしている。
なるほど、その人たちは、優れた文明、優れた自然との調和、優れた知性と優れた愛の観念などを持っているのかもしれない。
・・・だったら、それを持っていない地球人を下に見てもいいと?
プレアデスの人たちの言葉について書かれた多くの書籍、あるいは、映画『美しき緑の星』の冒頭の中で繰り返し語られる「地球の人間の否定」。
ひどい場面に至っては、集会の場面で、
宇宙人の男性 「(地球の人間は)パソコンばかりいじっているので、脳が萎縮しているんだ」
宇宙人の女性 「もとからでしょう」
群衆 「うひゃひゃひゃ」
宇宙人の女性 「もとからでしょう」
群衆 「うひゃひゃひゃ」
と、地球人が、あからさまに差別的な笑い種にされているシーンもあります。
そりゃ、確かに今の地球は良くないかもしれないけれど、どうして上から目線?
そんな中で、少しずつ、
「地球は地球でやる」
という思いを強くしていった次第です。
ダメならダメでいいです。
地球の進展が何百万年か停滞するかもしれないけれど、それもまた、地球の永遠の歴史の中では大した問題ではないと思われます。
これは、鎖国を夢見る私が、
「日本は日本でやる」
と思い続ける概念と少し似たものかもしれません。
ところで、勘違いされるとあれなのですが、『美しき緑の星』は、解釈が難しいだけで、もちろんいい映画なのです。
どうも謎の『美しき緑の森』のオープニング
なんだかんだと、『美しき緑の星』は、十数回見ているのですが、この映画は、先ほど書きましたように、地球人に対しての「否定的態度」が過度なのですけれど、それでも、そこから想うのは、むしろ、「地球人は自分でしなさい」というメッセージが含まれているのかもしれないな、ということです。
ちなみに、この『美しき緑の星』で、もっとも奇妙な部分がどこにあるかおわかりでしょうか。
普通、映画のオープニングシーンというのは、その映画のストーリーに何らかの関わりを持つか、象徴的な意味で関係する、というのが普通です。
ところが、この映画のオープニングは、
・何かの動物の眼のアップ
・狼のような動物の眼のアップ
・水が流れる
・少女のような人間の眼のアップ
・木の葉が風に揺れる
・馬のような動物の眼のアップ
・少年のような人間の眼のアップ
などが繰り返されるシーンで始まりますが、この中の「動物の眼のアップ」は、本編のストーリーにはまったく出てきません。
そもそも、動物自体がストーリーにほとんど出てこない上に、「眼」について語られることは(医師の奥さんが「自然を見て覚醒する」場面の他は)ないです。
なぜ、動物の「眼」の接写で映画が始まるのかは、最後まで見てもまったくわからないのです。
『美しき緑の星』のオープニングシーン
この映画は、単なる出来損ないであるのでなければ(単に出来損ないの作品である可能性は十分にあります)、おそらくは、「眼」、あるいは「見ること」について何かを語ろうとしていた。
でも、やめた・・・ということのようです。
本編には「眼」の話など出ません。
「眼」の意味。
見る、ことの意味。
松果体とか、そういう話の前に「眼で見る」こと。
話がよくわからないほうに来ましたが、地球が精神的に崩壊することは、宇宙全体に対して強い影響があるのかもしれなくて、それで、プレアデスの人もそうですけれど、いろいろと干渉してくれているのかもしれないですが、大丈夫。
自爆するなら自爆する。
私の「殺せるものなら殺してみやがれ」モードは継続中で、そして、この自死プログラムはこれまで否定的ではなく肯定的に推移してきました。
なので、地球は大丈夫。
助けは不要。
自力で再生できます。
私たちも(他の宇宙の人類と同様に)この宇宙を意識で形成しているメンバーであることは間違いないわけで、その地がどれだけ地獄であっても、他からの干渉で変化する意味はないと思われます。
今の地球の生活は、「一生が戦い」のような感じに思えることもあるかもしれないですが、先日の記事に書きましたように、「限りなき戦い」のように続く戦いもそれはそれでよいです。
遠い未来に、とんでもなく良い来世を私たちは自力で獲得すると確信していれば、それでよいのだと思います。