2015年06月22日



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「革命」(1)



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今日は風邪でまだ療養中というか、「風邪の経過を今ふたたびきちんと感じてみる」ということに没頭しようと思っていますが、ふと気づいた「あること」がありますので、書いておきたいと思います。

ややおおげさなタイトルをつけていますが、それほどおおげさな話ではないです。


「革命の意味」に翻然と気づき

最近の記事の流れ、例えば、

「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認
 2015年06月06日

に記しました概念である「この世は、人間が認識してはじめて存在する」ということ、あるいは、そこから導かれます、

この世も自分も基本的には存在しない

ことが前提となる話です。

その後書きました、

「学ぶのをやめて考えなさい」 - 人間自身の無限の能力を語るジェイコブ・バーネット師 TED講演 全語録
 2015年06月17日

では 13歳の少年バーネットさんが述べました、

考えることがすべての《創造》の始まり

であることをご紹介していますが、そのふたつの記事から辿ることのできる結論のようなことについてを書きたいと思っています。

ジェイコブ・バーネット(1998年 - )
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YouTube


あるいは、前回の記事に書きました、野口晴哉さんの言葉


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世界が変わったのではない。自分が変わったのである。
自分が変われば世界は変わる。



などを、ひとつの流れとして考えてみますと、「革命」という概念が、この一連の流れの中に隠されていることがわかります。

あるいはこの流れは、中村天風さんの以下の言葉がある程度代弁しているのかもしれません。下は中村天風さんの講演集『運命を拓く』の最初の章からです。

中村天風(1876 - 1968年)
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天風会


中村天風『運命を拓く』 朝旦偈辞(ちょうたんげじ) より

どんなことがあっても忘れてはならないのは、心というものは、万物を生み出す宇宙本体の有する無限の力を、自分の生命の中へ受け入れるパイプと同様である、ということである。パイプに穴が開いていたら、洩れてしまう。だから、そっぽを向いていたら何もならない。

今まで気付かずにいたかもしれないけれども、人生の一切は、健康であろうと運命であろうと、肉体も、心も、また環境も、すべてが人の心によって創られているものである。



ここで天風さんが言う「すべてが人の心によって創られている」という「すべて」とは、言葉の通り、「すべて」であると解釈して構わないと思われ、つまり「個人の運命だけではなく、世界全部が人の心によって創られる」ということになるように思います。

ここから辿りつく「本当の革命というものの正体」は、かなり単純なことであることにも気づきます。

革命とは「ひとりひとりが考えること」

であり、それがすべてだと思うのです。

どんなことを考えるかは自由でしょうし、あるいは「自由でなければいけない」のかもしれません。
考える内容は何でもいいのですが、大事なのは「自分の考えに基づいたものである」ことです。
それが最も大事なことだと思います。

学ぶことは大事かもしれないですが、人から学んで習得したことだけを考え続ける限りは、そのことを探究はできても、「完全に新しいもの」は出てこないとバーネットさんは語ります。




一日に5分でも10分でも「真剣に」考える

私たちは日頃、いろいろと考えているようでも、実際には、現代社会では「独自に」考えている時間はそれほどではなく、あるいは、真面目にいろいろなことを考えている人になればなるほど、「学ぶことに気を取られて」考える時間を削られている傾向もあるかもしれません。

あるいは、開いた時間を積極的に娯楽や読書やテレビなどに費やしている方は、それらに身を投じている時間は、「自発的に考えている時間ではない」ということにもなります。

もちろん、娯楽や本やテレビをすべて止めるなどという馬鹿げたことを勧めているわけではないです。そして、そんな必要もないわけで、することは、1日に 5分でも 10分でも、ほんの少し「考える時間」を当てるだけで何かが劇的に変わるはずです。

つまり、


《革命の準備》

毎日の生活の中に「ほんの少しだけ考える時間を作る」



ということになります。

これはある意味、真理だと思われます。
他の「方法」はどう考えても思いつきません。

あらゆる行動も、言動も、革命の意味としては「考えること」以上のものではないと考えられます。

そして、この「革命の準備」が何ヶ月に及ぼうと、何年、何十年に及ぼうと、それは構わないのだと思います。かのニュートンでさえ、「科学の革命」を果たすことはできても、この世の真理には到達できませんでした。

晩年、ニュートンは以下のように述べています。

「私は時折、普通よりすべすべした小石や奇麗な貝殻を見つけて子供のように夢中になってきたけれど、私の目の前には依然として真理の大海が発見されずに横たわっていた」( Wikipedia

晩年のニュートン( 1642 - 1727年)
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THP


仮に、「真理に辿りついた時に、革命の準備が終わる」のだとすれば、ニュートンでさえ準備までで終わったのですから、人生が「革命の準備だけで終わる」のは、ごく普通のことだと思います。人生は基本的には繰り返しますので、あまり気にする必要はないはずです。

なお、考える時には、「理論的に考えて考えて考え抜く」ということが大事な気がします。

徹底した理詰め。

整合性と科学と「常識」を考えの基準として、非常識やオカルトの考えを排除する。

もちろん、考える時以外に、娯楽としてオカルトやスピリチュアルと親しむことには罪はないかもしれないですが、娯楽以上にはあまり必要のないことにも思います。

多くの書や賢人たちの言葉は、迷信や非常識にふれないように教えていたことを、少なくとも「考える時には」思い出すべきです。




旧約聖書『申命記』 18章9-14節

あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。

あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。

これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。

あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。

あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。






そして、考える時には、「考えが次々と変転することは望ましくない」ということもあります。

ひとつのことを考えている時は、それ以外の考えが入り込まないようにしたほうが良いはずです。
参考として、『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』に収録されている 1909年のシュタイナーの講演から抜粋します。


シュタイナーの1909年の講演『実践的な思考方法』より

人間が半時間、横になって休憩するとき、たいてい思考を戯れに任せることになります。そうすると、何百、何千という考えが紡ぎ出されます。

あるいは、人生の心配事に関わり合っている人がいるとします。その心配事は意識のなかに忍び込み、その人はその心配事に煩わされます。そうなると、決して正しい時に正しいことを思いつけません。正しい時に正しいことを思いつきたいなら、つぎのように行わなくてはなりません。

半時間休息できるとき、

「自分自身が選んだ対象を、意識のなかに置くことにしよう。以前に体験したこと、例えば二年前に散歩の途中で経験したことについて考えてみよう。当時体験したことを、自分の意志によって思考の対象として、それについて五分間考えてみよう。その五分間は、他のことを一切考えない。思考の対象を、自分で選ぶのだ」

と、思わなくてはなりません。



このように、考えることについては何でもいいようです。

要は、思考の対象を選ぶことによって、「自分の意志を自分で支えることを体得する」ことを学習すれば、最初はその個人の理想に対して、そして、それはついには、社会の理想に結びついていくものだとも考えられます。

もちろん、自分や社会を理想的にしたいのなら、考えることについては、理詰めであると同時に「肯定的」でなければならないことは明白です。中村天風さんは、この宇宙の基本には「美と真と善しかない」とおっしゃっていますが(悪や憎など、それ以外を創り出すのは宇宙霊ではないもの)、それをベースに考えれば、悲しみとか憎しみとかの感情を入り込ませることは無用のようです。

これらの4つのこと、つまり、

1. 独自で考えること
2. 肯定的な方向に考えること
3. 常識的な視点から理詰めで考えること
4. ひとつの考えに集中すること


があれば、その内容はどんなものでもいいと思われます。

1日のうちに考える時間を、ほんの少し設ける。
これだけのことで、個人も世の中も良くなるはずです。

「この世はそんな簡単なものではない」と思われるかもしれないですが、智恵者たちの言葉や、量子力学などから見れば、この世のメカニズムはそのようなものであるというように考えるのが自然です。

野口晴哉さんの、
世界が変わったのではない。自分が変わったのである。
自分が変われば世界は変わる。

という言葉は例えではなく、現実とはそういうことなのだと述べていると感じます。




「存在の革命」への答え

20年くらい前、当時はまったくテレビを見ない生活だったんですが、偶然、夜、NHK教育をつけた際、作家の埴谷雄高さんが 50年間に渡り書き続け、ついに未完で終わった長編小説『死霊』(しれい)に関しての特別番組を5夜連続で放映していたところに出くわしたことがあります。

当時、うちはテレビを録画できませんでしたので、録画できる友人に電話して、放送を録画してもらいました。その中で、埴谷さんは、この『死霊』という小説の最終目的は「存在の革命」だとおっしゃっていました。

埴谷さんは若い時に政治運動をおこなっていて、その経験から「社会革命ではだめだ」という考えになっていきます。

埴谷雄高(1909年 - 1997年)
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NHK教育 ETV特集 埴谷雄高 独白「死霊」の世界(1995年) より

埴谷 それは社会革命だけでは駄目だと思ったからです。マルクス主義と共産党というのは、社会だけ革命すればよいと思った。しかし、それでは駄目だということがよく分かった。

存在の革命、存在自体に向かって「畜生、お前、こういうもんじゃだめだ」というふうにやらなければならないと。人間が食物連鎖で物を食べる以上、そういうものを全部克服しなければ駄目です。食物連鎖も、イワシならイワシが人間に食べられて、恨みがこもっている目で見ている。

そのイワシの恨みもちゃんと受け止めておいて書かなきゃ駄目なんですよ。それを全部超えないと。これは大変なんです。

『死霊』のなかで、三輪与志(よし)というのは、タコを噛んだときに初めて食べるのをやめるんですよ。初めて生き物を噛んだ実感がタコを噛んだときに出た。そして手を自分で握ってみるんですよ。

これは要するに、悪い時代に僕は生まれちゃったんですよ、あなた。

(記者)悪い時代に生まれたというのはどういうことですか?

埴谷 あたかも社会革命ができるかのごとき時代に生まれあわせたということです。社会革命だけでは駄目だと思ったら、存在まで革命しなくちゃならないということになった。

とてもそんなことはできないですよ。できないけれども、文学ならやれると思ったのが運の尽きですよ。文学ならやれると思ったから。






上の埴谷さんの言葉は、NHK から出版された『埴谷雄高・独白「死霊」の世界』に収録されています。

埴谷さんは、「現実にはそんなことはできない」とおっしゃっていましたが、冷静に考えれば、

「存在の革命はできる」

ということに気づいた次第で、埴谷さんのこの独白に衝撃を受けて以来、20年を経て、「存在の革命」への答えのようなものが示すことができたことは嬉しいです。

ちなみに、タイトルに(1)という番号をつけていますが、連続してこのことを書くという意味ではないです。あるいは、「革命」というタイトルの連番は(1)で終わりかもしれません。

それでは、風邪の経過を観察するために休息します。