「人間はもとより、禽獣虫魚も山川草木もみな成仏して、それぞれに大光明を放っており、昨日まで穢土(えど)と思っていたこの娑婆世界が、そのまま極楽浄土であることに気が付いた。このように開悟すれば娑婆即浄土であり、大調和の世界である」
(仏陀が悟りを得た時に叫んだとされる言葉 / 西光寺 - 極楽浄土より)
ホワイトハウスのダブルレインボウ
少し前に、
・宇宙にも地球にも「虹の現象」が広がっている。そして、その虹はイスラエルの伝説では「地獄の釜」の象徴でもあり
2015年06月24日
という記事で、「最近、いろいろな場所で虹に関しての報道がある」ことや、虹にまつわる伝説の中には、イスラエルのもののように「虹の下には地獄の釜がある」というようなものもあることなどを書きました。
その後、検索してみると、その時にもご紹介した「二重の虹」が、この1週間ほどは各地で見られていたようなのですね。全部がリアルタイムのものではないでしょうけれど、わりと全世界で、「二重の虹」が出現していたようです。
そんな中で、印象的だったのは、アメリカのホワイトハウスの上空に、二重の虹が出現したという投稿を見たことだったかもしれません。6月26日のことです。
・patheos.com
写真はあまりはっきりとしていないので、ダブル・レインボウと書きこまれていないとわからないような淡い二重の虹ですが、いずれにしても、「ホワイトハウスの真上で虹が輝いた」ということは、イスラエルの伝説に従えば、
「ホワイトハウスに地獄の釜が登場した」
というようなことにもなるのかもしれません。
さて、しかし、今日のテーマは、それらのこととはまったく関係なく、前回の記事の、
・世界に溢れる「未来への否定的な態度」から肯定的姿勢を学べるか。ギリシャのデフォルト、中国市場の崩壊、戦争の足音、小惑星衝突…etc
2015年06月28日
などのような世の中を生きていることをどう捉えるかというような話として、資料的にいくつか提示しておきたいと思います。
冒頭に載せましたのは、お釈迦様が悟りを開いた時の言葉だそうで、つまりは、
「今、生きているこの世界こそが極楽浄土だと気づいた」
ということになります。
死後の世界や、他の場所に極楽があるのではなく、この世こそが輝く極楽だと気づいたことが、お釈迦様の悟りとなったようです。
西光寺 - 法話 極楽浄土 より
真如の世界には生前と死後の区別が無いのです。
般若心経の「不生不滅」の意味はそのことを言っているのです。
あの世とこの世の区別が無いということは地獄や極楽はあの世にもこの世にも在るということです。
この世に生きている私たち自身の今のそのままの心が、地獄から最高は極楽浄土まで行ったり来たりしているのです。
地獄も極楽もすべてこの身の内にあるのです。
遠い遠いと思って旅してきました極楽への旅は「ここ」こそ極楽だったのです。
私もおおむねこのことを思って生きています。
もっとも、私の場合は、地獄も大きく同居しているわけですが。
今の時代は恐怖と不安をさえも訓練に活用できる幸福な時代
金融崩壊、経済破壊、戦争、自然災害、環境汚染、食品汚染、人心の荒廃、増え続ける病気、薬害、少子高齢化社会……と、いわゆる懸念とされている問題は山ほどあります。
しかし、冷静に考えれば、これほどネガティブな案件が世に満ち溢れている時代は、そうはないわけで、そこを考えると、肯定的態度の訓練にこれほど適した世の中はないとも言えます。
その観点からは、
「なんて恵まれた時代を生きているんだ」
と思わざるを得ません。
イエス・キリストもシュタイナーも中村天風さんも野口晴哉さんもお釈迦様も、あの人もこの人も、多くの賢人やプロレスラーの(プロレスラーはまあいい)誰もが口を揃えて言うことは、
「すべてを肯定的に考えなさい」
ということだと思います。
それは、肯定的な時代に生まれた時にそう考えるのではなく、どんな険悪な時代、それはたとえば、そこにもここにも核兵器が落ちまくるような時代に生まれても、
「ああ、素晴らしい毎日だなあ・・・と思え!」
と、先の賢人たちは私たちに「命令」しています。
思える、とか、思えない、とかの選択ではなく、前向きに、明るく、楽しく、勇気をもって、肯定的に考え「なければならない」と私たちは命じられているのです。
イエス・キリストやお釈迦様などに関係した宗教に帰依しているのなら、それは、宗教上の義務でしょうし、私のように無宗教なら、自分自身でそれを心に留め置かなければなりません。
根本的に今までの考え方は間違っていたかもしれません。
平和だから素晴らしい。
健康だから素晴らしい。
自然が多くて素晴らしい。
それはそれで良いとしても、では、その逆の状況に放り込まれた時、人はどのように考えるでしょうか。
おそらくは上の「逆」の方向に考え始める。
そして、「思考は現実化する」という概念でいえば、世の中は「素晴らしくない」と感じられる世界になっていく。
さらには、
平和だから素晴らしい。
健康だから素晴らしい。
自然が多くて素晴らしい。
この問題点がどこかおわかりでしょうか。
「《自分の存在の素晴らしさ》を一義的な発想としていない」点です。
基本は、この世は、「自分がいるから素晴らしい」ということ以外では語りにくい面があるかもしれません。
やや考えにくいことかもしれないですが、ここは、お釈迦様を信じてみましょう。
先ほど並べましたような「金融崩壊、経済破壊、戦争……」に対して、一般的に抱く感情はどのようなものでしょうか。
それは、
「恐怖」
だと思われます。
そして、今の世の中は、報道でも、病気の喧伝を含めたメディアなどでも、「恐怖を先行させて広める」ということが一般的であるため、自分の頭で理解する前から、「それは怖い」ということになりやすい社会です。
しかし、「恐怖」という観念がどれだけ「本当の恐怖を人にもたらすか」ということに関して、いくつか、他の方の言っていることを載せてみたいと思います。
これに関しては、多くの人が同じようなことを言いますが、自分の持っている資料の中で、特に「まったく同じこと」を言っているおふたりがいます。
ひとりが自称プレアデスの人である方、もうお一方は、日本で最初のヨガの行者であり、現在までも多くの信奉者を持つ中村天風さんです。
おふたりとも、「恐怖の観念を自分の中に持つことによって、そこに実際に恐怖がやって来てしまう」ということを書いています。
では、まず自称宇宙人のほうから(だんだん呼称が大ざっぱになってきてるぞ)。
『プレアデス+地球をひらく鍵』という本からの抜粋です。
『プレアデス+地球をひらく鍵』光体の定着より
恐れる気持ちこそ最大の敵です。あなたに恐れの気持ちが出てきたとき、あなたの力は失われるということを忘れないでください。
あなたが何かを恐れているとすれば、それは頭上に大きな看板をかかげて、「大歓迎! 私はあなたを待っています!」と恐れているものに呼びかけているようなものです。
恐怖心をライフスタイルそのものにしてしまって、人生を恐れているという気持ちを放送しているかのような生き方をすると、あなたの身体は閉鎖され、生命力は殺されてしまいます。
これがストレスを生み、病気を引き起こし、年をとる原因をつくり出します。
あなたの思いがあなたの現実を作り出します。
恐怖心のなかで生活していると、すべてのものを追い払ってしまいます。あなた自身の力をも追い払ってしまいます。
あなたの論理的な考えにとって非常に馴染みのない何かに直面するときには、明確な意図、途方もない勇気、そして自分は絶対に安全なんだという気持ちと、平然とした気持ちを持たなければなりません。
恐れる気持ちこそ最大の敵です。あなたに恐れの気持ちが出てきたとき、あなたの力は失われるということを忘れないでください。
あなたが何かを恐れているとすれば、それは頭上に大きな看板をかかげて、「大歓迎! 私はあなたを待っています!」と恐れているものに呼びかけているようなものです。
恐怖心をライフスタイルそのものにしてしまって、人生を恐れているという気持ちを放送しているかのような生き方をすると、あなたの身体は閉鎖され、生命力は殺されてしまいます。
これがストレスを生み、病気を引き起こし、年をとる原因をつくり出します。
あなたの思いがあなたの現実を作り出します。
恐怖心のなかで生活していると、すべてのものを追い払ってしまいます。あなた自身の力をも追い払ってしまいます。
あなたの論理的な考えにとって非常に馴染みのない何かに直面するときには、明確な意図、途方もない勇気、そして自分は絶対に安全なんだという気持ちと、平然とした気持ちを持たなければなりません。
次は中村天風さんの歴代の講演をまとめた『運命を拓く』からです。
中村天風『運命を拓く』より
どんな精神統一の下手な人でも、「おっかないなあ、怖ろしいなあ」と思ったときは、本人自身は気が付いていないかもしれないけれども、その恐怖の程度が深まれば深まるほど、恐怖観念が発動して、その観念は知らず知らずの間に確実に集中されるであろう。
だから、「おっかないなあ」と思った事柄は、どんな物覚えの悪い人間でも、たとえ思った時間は瞬間であったとしても、終生忘れていないであろう。
さあ、そこで考えてみよう。
一生忘れないような深刻な記憶に出来るくらいに、瞬間的でも、観念が集中されたとすると、それが宇宙霊の力を受け入れる”鋳型”が用意されたことになる。
そのとき出来上がっている”鋳型”というものが、良かろうと、悪かろうと、極めて確実な”すがた”が出来上がったことになる。
そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。否、むしろ、そうなるのが当然である。
何はさておき、有意義な人生を活きるには、どんな場合があろうとも、恐怖観念で物事に応接しないようにすることが、本当に戒むべき人生の鉄則である。
感情というものは、その種類が、いかなるものであろうと、我々の肉体や、人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。
だから、常に感謝と歓喜という積極的な感情を持っていれば、肉体や人格に積極的な、非常に大きな、良い影響を与えるけれども、反対に、怒ったり、怖れたり、悲しんだりする、消極的な感情や情念は、実に悪い影響を持っている。
中でも、この恐怖というものは、恐ろしいほどの印象力を持っている。印象力を持っているのであるから、早晩、その怖れている事柄が、現実になって、形象化されるのが当然である。
どんな精神統一の下手な人でも、「おっかないなあ、怖ろしいなあ」と思ったときは、本人自身は気が付いていないかもしれないけれども、その恐怖の程度が深まれば深まるほど、恐怖観念が発動して、その観念は知らず知らずの間に確実に集中されるであろう。
だから、「おっかないなあ」と思った事柄は、どんな物覚えの悪い人間でも、たとえ思った時間は瞬間であったとしても、終生忘れていないであろう。
さあ、そこで考えてみよう。
一生忘れないような深刻な記憶に出来るくらいに、瞬間的でも、観念が集中されたとすると、それが宇宙霊の力を受け入れる”鋳型”が用意されたことになる。
そのとき出来上がっている”鋳型”というものが、良かろうと、悪かろうと、極めて確実な”すがた”が出来上がったことになる。
そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。否、むしろ、そうなるのが当然である。
何はさておき、有意義な人生を活きるには、どんな場合があろうとも、恐怖観念で物事に応接しないようにすることが、本当に戒むべき人生の鉄則である。
感情というものは、その種類が、いかなるものであろうと、我々の肉体や、人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。
だから、常に感謝と歓喜という積極的な感情を持っていれば、肉体や人格に積極的な、非常に大きな、良い影響を与えるけれども、反対に、怒ったり、怖れたり、悲しんだりする、消極的な感情や情念は、実に悪い影響を持っている。
中でも、この恐怖というものは、恐ろしいほどの印象力を持っている。印象力を持っているのであるから、早晩、その怖れている事柄が、現実になって、形象化されるのが当然である。
自称宇宙人と中村天風さんは、「上から目線」という点でも共通していますが、それはともかく、特に中村天風さんの言葉というのは、この他にも、いろいろな部分で、よく考えさせてくれます。
中村さんは、「人間は形としては存在しない」ということも喝破されていて、
中村天風『運命を拓く』より
繰り返していうが、人間の生命の本体というものは、形ある肉体ではない。ちょっと考えると、形のある肉体であるかのごとく見えるが、実は形の見えない気の中にあるのである。
だから、完全に、生命を活かす計画の成就は、生命の本体たる霊という気を、完全なる姿で、この生命を確保しなければならない。
ということを何度もおっしゃっています。
中村さんのいう、
> その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる
というのは、生まれつき不安と恐怖観念の強い私は何度も経験しています。
そして、逆の「恐怖がなければ恐怖はやって来ない」ということも、これも、具体的に書くと長くなりますので、今は省略しますが、何度も経験しています。
考えてみれば、私の若い時・・・まあ今も多少そうですが、その趣味傾向といえば、パンクやノイズなどのアンダーグラウンド音楽に、前衛だったりグロテスクだったりするアンダーグラウンド・アートだったり、映画にしても、妙な映画や恐怖映画、グロテスク映画を山ほど見たりといったように、私は、
「ほぼ完全なネガティブ傾向を持つ人間」
であります。
では、世の中から見れば、ネガティブにしか捉えられない、それらの文化や表現が、私たち自身にとってネガティブだったかというと、そんなことは全然ないわけです。
ムチャクチャな表現や音楽を聴いて、心から幸せな気分になったり、「明日も何とか生きよう」と思って過ごせたりしたのです。
人は誰でも、ちゃんと「その人に対応した幸せと肯定的なコトやモノ」が自然と与えられるようになっていると思いましたし、あらゆる人は、目指さなくとも、それぞれが自然とその方向に導かれていくはずです。
それを見逃さないことと、自然に受け入れることが大事だと思います。
思えば、人生というのは、悲観的になっている部分以外では、実に素晴らしいものだったということが今となってわかります。
「悲観的になっている部分」として、私の「壁」となっていたのは、いつも「病気」でした。
若い時は、
・…薬漬け幼児だった私がその後の十数年経験した「免疫回復戦争」の地獄体験記
2015年04月21日
に書きましたように、小児ぜんそくや、風邪の連続。
青年期からは、「メンタル」のほうも加わり、今でも継続中ですが、神経症と強迫症をずっと持っています。
しかし、「風邪」に関しては、上の記事にも書きましたように、風邪は、ただ私をいじめるために引かせていたのではなく、
「風邪のウイルスは幼い私を助けるために一生懸命、風邪を引かせていた」
のです。
多分、今思えば、ぜんそくの薬は強烈な「遮断薬」ですから、子どもの時から私は平熱が低い状態だったように思います。度重なる発熱がなければ、もっと大きな病気をして、おそらくは若くして死んでいたと思います。
風邪ウイルスが二十代までの私を救ってくれたことに、野口晴哉さんの『風邪の効用』を読んで知るに至り、
「病気というのは完全に肯定的な存在だった」
ことを知ります。
この風邪の効用について知ったのは、ほんの2ヶ月ほど前のことです。
最近、私が社会の急変の可能性について妙に述べるのは、「最近の自分自身に起きることの量とスピードがこの3ヶ月間ほどで極端になってきている」こともあります。
良い意味とか悪い意味とかではなく、「最終局面」を感じます。
それはともかく、病気が肯定的なものだというのならば、若い時から関わりあっている神経症も「肯定的以外の何ものでもない」とは思います。
しかし、これはそう完全にそう思うわけにも感じるわけにもいかない段階で止まっていますが。インストタントな方法はない、ということもわかっています。
メンタル系の病気にとっては、その最終的な治療法は、さきほどの中村天風さんの言葉の、
繰り返していうが、人間の生命の本体というものは、形ある肉体ではない。
という観念を「論理的に」獲得することにありそうです。
これは「何となく」では駄目だと思います。
この世というのは、どんなことも極めて論理的であり、理性的な道筋でのみ、すべてが解決すると最近の私は思っています。
まあしかし、これはまた私個人の話となってしまいましたので、それはいいです。
自分の病気のことは、いつかは自分で何とかなるはずです。
何しろ、「病気はすべて肯定的なもの」なのですから。
何の記事だかわからなくなってきましたが、とにかく、こんな否定的な世の中に生きていられることは、まさに肯定的思考の訓練の場としては最高なのですから、私たちは今の世の中に生きられることを死ぬほど感謝しなければいけないと思った次第です。
混乱の中でも日本人の庶民は死を恐れなかった
締めに、ふたつの文章を載せておきたいと思います。
ひとつは、先ほども登場しました自称宇宙人が語る「地球の混乱」の話。
「これからの混乱にはいかなる準備も役に立たない」と言っています。
もうひとつは、1857年(安政3年)から、長崎で海軍の教官として、幕臣たちに教えたオランダの海軍軍人のカッテンディーケ( 1816 - 1866年)という人の文章です。私たち日本人はもともとは「死をまったく怖れず、死さえも笑い飛ばす」人たちだったことが示されます。
『プレアデス+地球をひらく鍵』より
エネルギーが加速されると、あなた方の惑星にさまざまな破壊がもたらされ、一夜にして起こる急激な変化ともあいまって、非常な混乱が生じることになるでしょう。
あなた方の記録に残る歴史において、これほどのエネルギーが地球に満ちたこともなければ、現在あるような意識が地球に存在したこともありません。
したがって、これから訪れるものに対していかなる準備もすることはできません。まったく何もできません。さまざまな出来事によって引き起こされる急激な変化は、あなた方の想像力をはるかに超えたものです。
あなたの最善のあり方に焦点をしぼり、あなた自身が周囲のさまざまな蓋然性に影響をおよぼすということを知ってください。あなた自身にとっても、これは大きな変化を引き起こす機会となるだろうことを知ってください。
あなたの松果体は、光のエネルギーの注入によって活性化されつつあり、これによって新しい可能性のヴィジョンが解放されるでしょう。このヴィジョンにおいては、平和と自由が心のなかで感じられ、認識されるでしょう。
150年前の日本人の死生観
1897年の葬儀の様子
・日本人自らが撮影した 120年前の日本の光景
『逝きし世の面影』より
彼らにはいつでも死ぬ用意があった。侍の話ではない。ふつうの庶民がそうだったのである。
カッテンディーケは言う。
「日本人の死を恐れないことは別格である。むろん日本人とて、その近親の死に対して悲しまないというようなことはないが、現世からあの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ」。
「彼らはその肉親の死について、まるで茶飯事のように話し、地震火事その他を茶化してしまう。……私は長崎の町の付近で散歩の途次、たびたび葬儀を見た。中にはすこぶる著名の士のそれさえ見たが、棺は我々の考えでは、非常に嫌な方法で担がれ、あかたもお祭り騒ぎのように戯れていた」。
ヴェルナーも長崎で葬列に出会い、参列者が「快活に軽口を飛ばし、笑い声をたてて」いるのを見た。
「死は日本人にとって忌むべきことではけっしてない。日本人は死の訪れを避けがたいことと考え、ふだんから心の準備をしているのだ」と、彼は思わずにはいられなかった。