2015年07月09日



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資本主義の崩壊と、この文明の崩壊は《「破壊」は「創造」に対しての愛》という観点から私たち人間にとって「最も幸せなこと」だと確信してみる



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前記事のようなもの:
「革命」(1)

 2015年06月22日






 


希望の年に考えるべきこと

最近、あることを毎日するようになって、少しわかったことがあります。

「あること」というのは、大したことではないのですが、日本最初のヨガ行者であった中村天風さんが、ご自身でも毎日していて、また、人々に指導していたという方法で、観念何とか…とかいう、まあ、名前は忘れましたけれど、名前はいいです。

要は「潜在意識を改革する」というような目的のもので、やってみると、思ったよりも効果的な感じですので、書いておきたいと思います。

その前に、今回書くことは、この時代、この世に生きている私たちは、今、非常に幸福な局面に差し掛かっているということについて書きたいと思っています。

たとえば、現在、株式市場や為替市場、商品市場などの金融市場が動揺しています。

短期間でどうなるものではないかもしれないですが、結果的に時間がかかったとしても、この動揺は末期的な動揺、あるいは「最後の動揺」になるはずです。

今後、国債市場も本格的に動揺し始めると、それがひとつの「幸福への転換点」となると思います。

映画『ファイト・クラブ』の主人公が命を賭けてまで達成しようとした、夢の出来事「金融という概念の消滅」への第一歩。あるいはその次への第一歩。

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・肯定的映画『ファイト・クラブ』(1999年)


今の資本主義は、かつて、大恐慌とかリーマンショックとか、いろいろと乗り切ってきましたが、今回の段階はいろいろとちがうものとなるでしょう・・・いや、あとで書きますが、こういう「〇〇でしょう」という消極的な考え方が、私たち人間社会の停滞を招いていました。

「この世は私たち自身が作っている」ということを考えますと、すべては「断定」でなければならないのだと思います。

「金融は消滅する!」

「自然と植物に囲まれた真の人間の生活の時代が来る!」

「新しい地球の時代が始まる!」


強く強く思い、考える

そして、その次に、どんなことが起きても、通常「否定的」とされることが起きても、起きるすべてのことは不幸なことなのではなく、「次の地球の時代」に向かう最も幸せな道なのだということを思い、考える

もちろん、反対に、「今の地球のままでいたい」と思うのならば、それを強く思う。どちらがいいかなんてのは、人それぞれでちがうわけですから「こう考えなさい」という方向はひとつもありません。

この世界は、あるいはこの宇宙はひとつのように見えて、まったくひとつではないのですから、いかようにも人それぞれの「確信した宇宙」を選択できるはずです。

いずれにしても、行動より何万倍も強い「思う」「考える」ということを主体にして生きる。

そして、何年何十年かかるかはわかりませんが、今のすべてのシステムの崩壊という「歓喜の時代」がやってきます。

なぜ、随所に「幸福」とか「歓喜」と入れているのかというと、たとえば私などは、この世の中で、「ひとつのこと」を勘違いして生きていたのです。

その「ひとつのこと」とは、

「破壊」は「誕生に対しての愛」と同義である

ということです。

このことを考えることを私たちは阻害されていたために、私たち人間は、新しい地球を創造できない状態に陥っているように見えます。

しかし、この「破壊が愛であること」は後で書きます。

いずれにしても、今のシステムの崩壊が連鎖的に起きていくはずです。

今のシステムといっても、まあ、いろいろとありますが、たとえば「民主主義」という言葉に代表されるシステムは「不潔」です。「民(人間)がこの世の主体なのは当然のこと」なのに、それが「主義」などと上から目線で制度化されていることは不自然なことです。

もっといえば、すべての「主義」は不潔に感じます。

人間本来の生活に「主義」という言葉は似合いません。

たとえば、朝起きて野菜を作って、昼ごはんを食べて、運動して、また野菜を作って、夜ご飯を食べて眠る・・・という人間らしく、最も進んだ文明の生活に「主義」が必要かどうかということです。

あるいは、そういう生活に株式だとか商品先物市場だとかが必要かどうか。

必要ないものだと思います。

本来の人間の生活に必要のないものが、完全に崩壊・消滅しなければ、地球は、次の高度な文明に進むことはできません。

・・・というようなことを思うことの「断定的信念」の重要性について今回書こうと思っておりますが、まずは冒頭に書きました中村天風さんの「意識の変化訓練」について少し書きます。

実際の生活に役立つと思います。




潜在意識への働きかけを日常にする

これは天風さんの本に出ていたわけではなく、ネットで偶然知ったのですが、中村天風さんは、不安や恐怖、あるいは、克服したい何らかを自分の潜在意識の中にたたき込むための方法として、

就寝する前に鏡を見て、自分に命令する

という方法を人々に教え、ご自身も毎日されていたそうです。

具体的には、まず、鏡で自分の顔の眉間のあたり(松果体のある位置)を強く見て、あるいは睨んで、たとえば、〇〇ということを恐れたくない時は、鏡の中の自分の松果体のあるあたりに向かって、

「お前は〇〇を恐れない!」

と「本気」で強く命じます。

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家康くん「天下取り」宣言


強迫観念などの強い方なら、

「お前は〇〇を気にしなくなる!」

などでもいいと思います。

ポイントは、

・1回にひとつの項目を1度だけ命じる
・命令したことが現実化するまで、同じ命令を続ける


ということで、つまり、1回に同じことを何度も言ったり、あるいは、いろいろな種類の命令を言ったりしてはダメだということのようです。あくまでも「ひとつが現実化するまでは、それだけにする」ということです。

そして、大事なのは次で、眠る前に上のように命じた後、次は、起きた直後に、昨夜の命令の「結果」を自分に「断定」するのです。

たとえば、上の「お前は〇〇を恐れない!」に対しては、

「お前は〇〇を恐れなくなった」

と、結果を断じるのです。
そうなっていなくても断じるのです。

これを、実際に「〇〇を恐れなくなる」まで続けるというものです。

天風さんは、眠る前と起きた直後にこれを行うというようにしていましたが、日々の、どの局面でも、鏡があるならやって構わない気がします。ただし、その間でも、現実化するまでは「命令はひとつだけ」を徹底した方がいいようです。

さて、ここまでは「こういう方法があります」というだけの話でしたが、この方法を知った時に、私が気づいたことは、この方法には私たちが今まで気づかなかった「2つの特徴」があることです。

それは、

自分に対して命じている

ことと、

「お願いします」口調ではない

ということです。

中村天風さんのこの方法は、

「神様、お願いします」というような他力本願では何もかなわないことを明らかにしている

一方で、

人間は、「自分に対して自分が命令できる存在」である

ことも明らかにしています。

ちなみに、このことから思ったのは、神社などで頭を下げて、「お願いいたします」というのも、単なる行事としてならともかく、本気ならやめた方がいいと思います。

私は昔から、神社でお祈りやお願いをするという意味が分からず、震災後、特にわからなくなってしまい、神社などでは祈りもお願いごともしませんが、あながち間違った行動でもないかもしれません。

そして、神社で頭を下げることは、自分自身の存在を低くするような気がします。

頭を下げている対象の高い低いはともかく、特定の場所やモノを信仰の対象にすればするほど、人間自身の霊性が下がるような気がします。

おそらくですが、宗教的な彫像や宗教的な建物(寺院や教会など)も含めて「偶像崇拝」はすべて洗脳か、あるいは誤った喧伝のように思います。

なぜなら、どの宗教でもその聖典の時点では偶像崇拝を禁じているのに、どの宗教もその教えに反した偶像崇拝になっているのはおかしい。どこかで何かのネジが逆に回された結果のように思います。




破壊は愛であるということ

この天風さんの方法で、さらに大事なことは、この方法が自分に対して「お前」という上から目線で呼ぶことが推奨されていて、まあ、女性の場合は自分に「お前」は不自然感もあるでしょうので、「あなた」とかでいいのでしょうけれど、とにかく、「自分に命じる」こと。

これは、その具体的な願望が成就しなくても、常に自分が自分の潜在意識に命じているという繰り返しをおこなうことで、「信念」が鍛えられる実感をわりとすぐに覚えると思います。

そして、その中で私は、ふと、「私自身の信念は何だったのか」に気づいたのです。

あるいは、最近書くことの多かった「肯定的態度」の終着点的なひとつに気づいたのです。

それは、

私は破壊のために生まれてきた

ことと

今の文明の崩壊はこの世の人類にとって、とてつもない「幸せの極地」だという確信

です。

「創造」というものがどのように生まれるかということを、今一度考えみていただきたいのです。

創造のために必要なもの・・・というより、創造の「母」は何か、というと、

創造の母は、破壊

であることに、疑いはないはずです。

赤ちゃんが生まれる前には、一般的には男女の生殖行為があり、そして、一般的には、その場合は男女間の「愛」が介在しています。

その「愛」が赤ちゃん、つまり「次の人間」の誕生につながります。

創造が赤ちゃんならば、破壊は「愛」に相当することがおわかりでしょうか。

破壊は、愛

だという「確信」が生まれます。

「愛」以外の言葉で、当てはまる例えも対象も思い浮かびません。

「破壊というものは悪」だと私たちは何となく思い続けてきましたけれど、これは簡単にいえば、洗脳だと思います。

なぜなら、「破壊は悪」という概念は、人生の永遠性を否定するものだからです。

具体的にいえば、輪廻転生を否定するものだからです。

私たちが最も考えるべきではない観点にあるものだからです。

輪廻転生をベースとして、人生は永遠だと考えますと、創造と現状維持だけでは、どこかで停滞するか行き詰まってしまうことは明白だと思います。

聖書『ヨハネの黙示録』21章05節に、

「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」

という言葉がありますが、このような「すべてのものを新たに」というフレーズから私たちは「創造しか考えない」傾向があります。

しかし、冷静に考えてみれば、すべてを新しくするには、「破壊」がすべての前提となることに思い至ると思います。破壊が既存の存在を打ち消して、やっと、「創造」という赤ちゃんが生まれる

私たちはこの人生の中で、「破壊を悪と見るように教育されてきた」ということは言えると思います。破壊を賞賛する価値観を学んだのは、私の場合は、学校ではなく、十代の頃から親しんだパンクや、気のふれた映画からでした。

そして、拡大して解釈すると、

悪と善は平等である

と「考えること」さえ私たちは阻害されてきた。

「悪という悪いこと」が存在するということと「善という良いこと」が存在するという考え方も洗脳だと思います。悪と善は、植物と人間の関係と同じで、形の違いはあっても基本的に同質のものです。

なぜなら、たったひとつの宇宙の真理というのか、神様というのか、そのあたりの表現はどのようなものでもいいのですが、その「唯一」の存在は「善」そのものであるわけで、そこから考えると、本来は悪いという意味の悪はなく、それでは「どこで嫌悪するような悪が発生しているか」というと、それぞれの「自分の中」だと思います。

これは、恐怖感や不安感と一緒で、「悪」も自分の中で一生懸命作られる。

そして、ついには、

「悪魔は恐ろしい」

とかの考えに至る。

もともとなかったものが次々と人間に「創造」される。

しかし、悪と善は同じなのですから、仮に「悪」が自分の中に生まれても、それを怖がるほうがどうかしているようにも思います。それはつまり善なのですから。

悪は自分の(頭か心かはわかりませんが)中で作られている「自分だけの創造品」なのですから、むしろ悪は嬉しく愛でる対象かと思います。

過去記事の、

ローマ字「 TASUKETE (たすけて)」から偶然導かれた日月神示や神様と悪魔の関係…
 2014年07月26日

などで書きましたけれど、小説エクソシストのメリン神父は「悪と善の平等性」に気づいていた気配もありますが、神父という職業上、彼は悪魔払いを継続して、悪魔に殺されてしまう。

映画エクソシストのメリン神父の役を、中村天風さんにやってもらっていれば、映画のような深刻な悪魔払いにはならず、

「宇宙には真善美しか存在しないので、悪魔は存在できません」

といった瞬間に、リーガンの中にいる悪魔も「悪魔って何だっけ」ということになり、混乱して渋々とリーガンから出ていき、1980年にスウェーデン人女優と結婚し、二児を儲けるが、1996年に離婚することになります(難解な悪魔の人生かよ)。




自分が変われば世界が変わる(世界は自分だから)

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悪魔の複雑な人生はともかくとして、この「悪と善の平等性」を含めて、私たちが、今の人生の中の教育や喧伝の価値観の中で、もっとも封印され続けてきた知見は、

・人間の持つ力の偉大さ
・人間と植物、動物、鉱物との真の関係


などのように思います。

特に、全世界においては過去数百年、日本においては過去 100年くらいの間は「人間の持つ力の偉大さ」を、私たちに気づかれないようにした教育と喧伝が続けられてきたと思われます。

その洗脳と喧伝をおこなったのが誰かなどわかるはずもないですし、そんな存在には興味を持つべきではありません。

私たちが「現実」に気づけば、その存在自体のすること自体に意味がなくなるわけですから。どんなことでも相手が悪いのではなく、この宇宙の仕組みは「責任も義務も自分にある」ということを強く自覚することです。

自称プレアデスの人などが言うには、この地球には「所有者」(いわゆる神々というようなもの)がいて、その存在たちが、人間にフェイクの世界を見せる一方で、「人間の偉大性」の知見を阻止しているとのことですが、そんな神々のことを私たちは気にすることはないです。

もはや、そんな存在はどうでもいい。
放っておけばいい。

存在を無視すれば、その存在は消えます。

私たちが気にするべきは「たったひとつのだけの神(と呼ばれるもの。呼び方は何でもいいです)」で十分です。

自称プレアデスの人たちも、こまごまとした神々の存在を気にしすぎていて、そんな態度では、あまり肯定的な存在にはなれないよとアドバイスしたいですが、連絡の取りようもないですので、自称プレアデスの人たちも放っておくしかないです。

しかし、この自称プレアデスの人が言うことには、見習うべき点もあります。

たとえば、

「自分以外の何も信用しないこと」

と自称プレアデスの人は何度も言っていますが、これは、特に今の多くの地球の人びとにはとても大事な概念だと思います。

なぜなら、私も含めて、今の多くの人たちが「学ぶ」ばかりだからです、
完全な「自分のオリジナリティの中だけで自分とは何かを考える」時間が少ない。

自称プレアデスの人の言葉を少し抜粋してみます。

ちなみに、最近の私は、過去記事、

ついに登場した私の救世主に気づく:「学ぶのをやめて考えなさい」 - 人間自身の無限の能力を語るジェイコブ・バーネット師 TED講演 全語録
 2015年06月17日

で書きました、まさにそのバーネットさんの講演で「学ぶのをやめなさい」と師に言われて以来、あまり本を読まなくなりました。

ちょうど鬼のように本を購入していた時期ですので、購入して読み切れていない本が山積みになったままなのですが、たまに適当なところを開いて、数行読むというのがほとんどになりました。

不思議なことに、確かにバーネットさんの言うように「学ぶのをやめる」と、次々といろいろな知識を得ることができることに気づきます。

今は本に関しては、ちょっと時間がある時に、積まれている本から適当に一冊手にして、適当にパッと開いて、1ページくらい読むという感じです。

ちなみに、この時、本を開くときに「自分が適当にパッと開いたところには、絶対に、今の自分に役に立つことが書かれてある」と「確信しながら」開くと、必ず自分に有益な情報に辿りつきます。

これは、よろしければ、ぜひやってみて下さい。

本を開く前に、そこに自分に役に立つことが絶対に書かれてあると「本気で」考えるのです。多分その時に適当に開いたページに知りたい情報が書かれています。

どんなことでも、「確信」は大事だと最近思います。

ちなみに、先日の「植物が緑の理由」の記事にしても、植物が緑である理由も最初は、ふと「根拠のない確信」を思いついただけで、そこから植物について学ぶのをやめて、自分の中にあるものだけで後付けで理論を組み立てました。

葉緑素だの遺伝子だのをいくら調べて学んでみても、植物が緑である理由に辿りつくわけもないですので、このことを考えたのが、バーネットさんから教えを受けた後だったのは時期的にラッキーだったと思います。

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さて、では、自称プレアデスの人の言葉からの抜粋です。


プレアデス+地球をひらく鍵』より

地球では、神や女神を疑うのは失礼であるとされています。子供が大人のいうことを疑うのが失礼であると見なされるのと同じことですが。

「子供は見られるだけの存在で、意見を聞く必要はない」というわけです。

神々の子供として、あなた方はこれと同じ劣悪な位置づけを自分に与え、年長者は絶対に正しいという原則を採用しています。

すべてのことを疑って見ることを私たちは推薦します。

私たちが言うことをふくめての話です。

なぜなら、あなた方は疑問を持つ権利があるだけではなく、義務があるのです。あなたが主権者となり、あなた自身の身体を所有し、あなたの好きな現実を実現する鍵はこれです。




この自称プレアデスの人は「自分のことも信じるな」と言ってくれているので、ご好意に甘えて、私はこの自称プレアデス人の言うことをまったく信用しないことにしました。

ということは、このプレアデス人の言葉が書かれている本(そして、他のすべての本も)、その記述に感心したり感動したり気に入ったりする部分は、すべて自分の責任においての選択となるということになります。

つまり、いわば、このプレアデス人の言葉が書かれている本(そして、他のすべての本)は「すでに自分の書いた本と同じ意味になっている」ことがわかります。

どんな本でも、気に入った部分があるならば、それは、その人が「選択」としたものである限り、その世界は、あなたや私自身のものですので、つまりは、自分たちで記したものと同じと考えていいのだと思います。

ついでに、先ほどの自称プレアデス人(もはや信用度ゼロ)の記述の少し前にある記述もよいものですので、抜粋します。これは私が「よい」と感じたものですが、そんな私と、その意見を絶対に信用してはいけません。選択することと「疑問を持つ」権利と義務は各自にあります。

自称プレアデス人(信用度ゼロ)と私(信用度ゼロ)が書いたものではなく、読んでいるあなたが書いたものだと考えるといいのかもしれません。


『プレアデス+地球をひらく鍵』(信用度ゼロ)より

あなた方は現実を自分でつくり出しているのですから、どんな現実をつくるか注意する必要があります。また、自分がいろいろと考えるとき、いくつぐらいの次元に自分を存在させるのかも監視する必要があります。

ただぶらぶらして何かが起きるのを待っているふりをしている自分をどうにかしなければなりません。

さまざまな考えが次から次へとあなたの頭のなかを駆けぬけ、あらゆる情報がもたらされますが、そうしているあいだにも常に現実を創作していることに気づいていません。

あなた方は自分自身の信念を自分に隠しています。
あなたの力を自分に隠しています。

思い出してください。人間という種全体がテレビと教育体制によって、自分自身の無力さを信じるようにプログラムされているのです。

自分の現実を自分で創作するのはめずらしいことで、それ以外の場合はそんなことはできないし、ある種の状況にあっては自分ではどうにもならない、と考えたりする罠にはまり込まないでください。



私はこの中の、

> ただ、ぶらぶらして何かが起きるのを待っているふりをしている自分

という言葉に打たれたのでした。

これはまさに今までの私の姿そのものであります。

そして、バーナンキ・・・じゃないや、えーと・・・。

ジェイコブ・バーネット(1998年 - )
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…ジェイコブ・バーネット師 TED講演 全語録


このバーネットさんからの教えを得るまでは、

「行動しないと始まらない」という「洗脳」

に強く浸かっていたんですね。

しかし、この世を変えるのは、「考えること」、あるいは「強い信念を持つこと」だということに気づけば、そこからは早いです。

「必ずこの世は変わる」と確信する。

「自分が変われば世界は変わる」という信念を持つ。

あるいは信念はそんな大層なことではなくとも、何でもいいのだと思います。

「私は必ずチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星の名前をソラで言えるようになる」

でも何でもいいんです。
確信が確信だと認識できれば。

ほら、もうソラで言えます。

チュ……(だめじゃん)。

そして、実現しなかったら、また確信して自分に命じればいいだけです。




自分の人生を強く肯定する

自称プレアデス人は、テレビと教育体制を批判していますが、テレビなんてのも本と同じで「自分がテレビをつけた瞬間には絶対に自分に有益な情報が流れている」と考えていれば、テレビも有益なツールになります。

私は若い頃からの習慣で、基本的にテレビを見ない生活をしていましたが、最近は、うちの子どもが見る番組などを一緒に見ています。

うちの子どもは、NHK教育の『すイエんサー』とか、NHK の『ためしてガッテン』とか、日テレの『ザ! 鉄腕! DASH!!』あたりが好きで、どれも大変に生活上の参考になりますし、ついでに最近は TOKIO の山口達也師のファンになったりもしていて、NHK 教育で夜7時からやっている『Rの法則』という山口師が司会の番組も毎日見ています。これも子どものお気に入りです。

この『Rの法則』のお陰で、7時のニュースなどという暗い番組を見ないで済んでいることも効果大です。7時のニュースは最後の天気予報だけ見ると、とても美しい天気予報士の方の姿を見られたりして、一挙両得であります(なんか日本語の使い方がちがうぞ)。

山口達也師の偉大さは語りきれない部分がありますが、それはともかく、「必ず〇〇となる」と確信する際に考えなければならないのは、私も含めた、皆さんそれぞれの人生を「強烈に肯定する」ことだと思っています。

まずは「過去」。これを否定的に捉えていては、未来への確信はあやふやなものになります。

ですので、

「自分の人生はここまで非常に素晴らしかった」

と「過去を確信する」。

いや、これは私自身に置き換えてみれば、最近はいろんな賢人たちの言葉などを知ったり、植物の意味を知ったりと、いろいろと嬉しいことがあるわけですけれど、ここに至る自分の人生での出来事の「すべて」が今に至る道の中で有効だったということに気づきます。

無駄な出来事や無駄な日々というものは「ひとつ」もなかった。

病気がちな子どもで生まれたことも、学校制度に馴染めなかったことも、神経症やパニック障害になっていたことも、何もかも無駄ではなかったし、中学でパンクと出会い、東京では演劇と出会ったりして、その中で出会ったバカ友たちや気の狂ったアートの数々も、すべてが今に結びつくものだと気づきます。

何年間かの間、毎日、一日中ギャンブルをして過ごしていた時期もありましたし、放浪みたないことや、女の子のいる飲み屋にハマりまくっていたことなども、すべてが今に結びつくものだと思います。

特に、飲み屋の女の子たちの言葉からは多くを学びました。
私の人生の中で、彼女たちは集合体として最大の先生のひとりだったと思います。

もうそういう所に飲みに行くこともなくなっちゃいましたけど、素晴らしい記憶として残っています。

こんな人生をまとめたような書き方をしていると「今がゴールなのか」というような感じに伝わってしまいかねないですが、「今がゴールか」というと、人生の永遠性を考えると、ゴールという概念はウソであることに気づきます。「何かにゴールがある」という概念は洗脳です。

ここまで読み返しますと、混沌とした感じですが、とにかく、

「世界を変えるには、世界に働きかけるのではなく、自分に働きかける」

という原則を「確信する」ことが大事なのだと思います。

過去記事、

過去同様の美しき日本の未来を実現することは「必ずできる」ことを野口晴哉さんの言葉で確信する
 2015年06月20日

で書きました、野口晴哉さんの言葉、


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世界が変わったのではない。自分が変わったのである。
自分が変われば世界は変わる。
自分の世界の中心はあくまでも自分であり、自分以外の誰もが動かせないものなのだ。



は象徴的な言葉ではなく、この宇宙の「物理的原則」だと思います。

この世は、野口さんのこの言葉のように創造されて運営されている、ということを「強く」確信するのです。

基本は「そう考える」だけですので、そういう意味では、自分の表面上の生活を変える必要は少しもないですし、人と意見を交わす必要も、議論する必要もないです。

あるいは、こんな私のようにベラベラと書いたり喋ったりするのも無意味ですが、私の場合、書いている時しかあんまり考えないので、書くことが「信念ボケ防止」になっているようです。

ふだんは相変わらず何も考えていません。

雨が降り続けているので、本当はもっと歩きたいです。
運動、運動、また運動。

締めに中村天風さんの言葉を記しておきたいと思います。
戦後の講演を収めた『運命を拓く』からの抜粋です。




座右箴言

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私はもはや何事をも恐れまい。それはこの世界ならびに人生には、いつも完全ということの以外に、不完全というもののないよう宇宙真理ができているからである。否、この真理を正しく信念して努力するならば、必ず何事といえども成就する。

だから今日からはいかなることがあっても、また、いかなることに対しても、かりにも消極的な否定的な言動を夢にも口にするまい、また行うまい。

そしていつも積極的で肯定的の態度を崩さぬよう努力しよう。

同時に、常に心をして思考せしむることは、”人の強さ”と”真”と”善”と”美”のみであるよう心がけよう。

たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい。否、一切の苦しみをも、なお、楽しみとなすの強さを心にもたせよう。宇宙霊と直接結ぶものは心である以上、その結び目は断然汚すまいことを、厳かに自分自身に約束しよう。