前記事のようなもの:
・「革命」(1)
・資本主義の崩壊と、この文明の崩壊は《「破壊」は「創造」に対しての愛》という観点から私たち人間にとって「最も幸せなこと」だと確信してみる
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京都・三条通りの旅館に宿泊した子どもたち(1897年)
・Japan, Described and Illustrated by the Japanese
参考資料:120年前の日本
『逝きし世の面影』第十章「子どもの楽園」より
エドウィン・アーノルドは 1899年(明治 22年)来日して、娘とともに麻布に家を借り、1年2ヶ月滞在したが、「街はほぼ完全に子どもたちのものだ」と感じた。
「東京には馬車の往来が実質的に存在しない。(略) 従って、俥屋(くるまや)はどんな街角も安心して曲がることができるし、子どもたちは重大な事故をひき起こす心配などはこれっぽっちもなく、あらゆる街路の真っ只中ではしゃぎまわるのだ。この日本の子どもたちは、優しく控え目な振る舞いといい、品のいい広い袖とひらひらする着物といい、見るものを魅了する。手足は美しいし、黒い眼はビーズのよう。そしてその眼で物怖じも羞かみもせずにあなたをじっと見つめるのだ」
子どもたちが馬や乗り物をよけないのは、ネットーによれば「大人からだいじにされることに慣れている」からである。彼は言う。
「日本ほど子どもが、下層社会の子どもさえ、注意深く取り扱われている国は少なく、ここでは小さな、ませた、小髷をつけた子どもたちが結構家族全体の暴君になっている」。
モースは言う。「私は日本が子どもの天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」
冒頭にリンクさせていただきました2つの記事では、「考えること」により自分が変わることにより「世界が変わる」ということについて書いたりしていましたが、考えることとは別に「行動」でも簡単に社会を変えられることがあります。
これは理想論ではなく、かつての日本で完全に実現されていたことですので、とても簡単です。
そのことは、冒頭の、渡辺京二さんの『逝きし世の面影』の抜粋部分と関係します。
社会の最も健全な状態を百数十年前の日本に見る
先日、クレアなひとときに、
・子どもの生命の取捨の選択は、それ自体が否定されるわけではなく、女性自身が賢明に考えること
2015年07月10日
という記事で、1970年代のイギリスのセックス・ピストルズというバンドの、ジョン・ライドンという人が、ふだんはクールで、わりと冷静な彼が、「赤ちゃんの不幸や、赤ちゃんの無慈悲な死」と関係した話になると、「感情をむき出しにして怒りを露わにする」ことについて書きました。
まあ、その内容はいろいろとアレですので、興味のある方は上記の記事をお読みいただければ幸いですが、ジョン・ライドンのその傾向を考えていて、彼はきわめて健全な思想体系をしていることにふと気づいたのです。
彼の根にある思考とは、おそらく間違いなく、
「子どもと赤ちゃんの幸福と生命をこの世の最上位のものと考える」
ということです。
もっと簡単に書けば、「生活や人生の中で、何よりも子どもを愛することを最優先とする」ということで、そして、これが先に書きました、
> 「行動」でも、できること
です。
これだけです。
江戸時代の日本の庶民の生活と価値観が素晴らしいものだったことは否めないですが、それをなしえていた理由がわかったのです。
残念ながら、現代の日本の社会は、「何もかも差し置いても、子どもへの愛をすべてとする社会」には少しも見えません。
日本が変わってしまったのは、近代化だとか、唯物論的価値観とかもありますが、そういうことだけが理由ではないです。「江戸の庶民が、子どもたちへの愛情がすべて」である生活をしていたことが、『逝きし世の面影』の「子どもの楽園」という章には、非常に長く書かれていますが、これが当時の日本を輝かせていた「ほぼすべての理由」だと思います。
冒頭の抜粋部分で、モースという人の言葉の、
「子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」
という部分・・・。
もうずいぶんと前になるのですが、私は、東京のタレント養成所みたいなところで、小学校低学年の子どもたちのいくつかのクラスで演技指導を担当していたことがありました。その時、毎回、何らかの質問を子どもたちにして答えてもらうということをしていたのですが、ある日、
「毎日、みなさんは楽しいですか?」
と質問したら、わりと多くが、
「別に・・・」
というタイプのものだったことに、何となく残念感をおぼえたことがあります。
少なくとも、江戸時代の子どもたちの「子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」というものとは差があります。
しかし、彼らの毎日の生活を聞いてみると、それも仕方なく、多くの子どもたちは、
学校 → 塾や習い事(親が車で送る) → 帰宅(車) → 勉強など → 就寝
という生活を毎日繰り返していて、中には「週に8つの習い事をしている」という狂気の生活をさせられている子どもなどもいます。親の考えもいろいろとあるのでしょうが、やはりこれは狂気の沙汰です。
確かに、この生活サイクルをずーっと何年も続けていて、
「毎日楽しいです」
と言えるほうがおかしいです。
養成所には、そういう「毎日の習い事で生活を埋め尽くされている」子どもたちが多いことに気づいて、精神的に私の方が落ち込んでしまい、それから少しして、そこをやめました。
デンマークの軍人で、幕末の日本に滞在し、明治政府から勲二等瑞宝章などを受勲した、エドゥアルド・スエンソンという人が書いた『江戸幕末滞在記』には、幕末の日本の子どもたちの様子が下のように書かれています。
「どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほど愛らしく、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる」
・スエンソン。『江戸幕末滞在記』より。
ちなみに、このスエンソンという人は、日本とヨーロッパを結ぶ日本最初の海底ケーブルを敷設したという方でももあり、大変な親日家で、日本の風景と日本人が大好きだったようなんですが、そんなスエンソンが、
「日本には、悪習らしい悪習は2つしかない」
と言っていて、「日本人には(デンマーク人から見れば)悪習と感じられることが2つだけある」というんですが、それは何だと思われますか?
それは、
「すぐに酒に手をだすことと、あまりに女好きなことである」
でした(笑)。
これは、男性に対してということなんだと思いますが、このあたりはあまり変わらないかもしれないですね。
後者はともかく、前者は私がそのタイプで、とにかく、すぐお酒。
これは昔の日本人はさらにすごかったようですが、私などが 120年前に生きていれば、下のような生活をしていたことは間違いないと思われます。
120年前の「すぐ酒に手を出す」人たち
・日本人自らが撮影した 120年前の日本の光景
あと、スエンソンによれば、当時の日本人は男女を問わず、超ヘビースモーカーだったようです。
まあしかし、今の若い人は、特に若い男性は、お酒はあまり呑まないですし、草食系なんて言葉もあって、スエンソンが「日本人はあまりに女好きである」と嘆いたようなこともあまりなくなってきているようです。
死ぬほど愛されて育った子どもは、将来きっと同じように子に接する
まあ、少し問題はあったようですが、それでも、かつての「楽しい日本人たち」によって保たれていた「当時の素晴らしい日本」は、どのように出現したかということがかなり明白になってきます。
それは、単に「子どもを大事にする社会だったから」ということに尽きます。
そこから派生して、あのような情緒ある民衆の社会が「誕生」したことを理解したのです。
少しご説明が必要かと思いますが、たとえば、大事なこととして、
「大人はみんな子どもだった」
ということがあります。
社会は大人によって作られても、「その大人たちも、みんな子どもだった」ということです。
そして、「将来、大人になる」当時のその子どもたちは、スエンソンの言うように、
「どの子もみんな健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており」
というのなら、その数年後、十数年後には、そのような「生きる喜びに輝いている」子どもたちが「社会の中心となっていく」のです。
「生きる喜びに輝いている子どもたち」が大人になり築き上げる社会が良くなるか悪くなるか・・・というと、「悪くなる道理がない」です。
こういう社会が良くなるのは、ある意味当然であって、江戸自体の大衆の社会が素晴らしかったのは、そのためであることに疑う余地はありません。
このメカニズムから、社会を変えるには、「考えること」以外の行動でしなければならないこと、「徹底して子どもたちのための社会にする」ということだけです。
そうするためには、いかなる社会的制度も不要ですし、議論も設備も不要で、必要なのはただひたすら「大人ひとりひとりが子どもたちを愛する」という行動だけです。そして、これは形の上だとか、中途半端なものではダメで、子どもたちのためなら、あらゆることを犠牲にしても、徹底的に、無条件に、子どもたちへの愛だけを考える。
制度や議論はむしろ愛を後退させます。
江戸時代の大衆の子どもたちへの態度を見ていますと、人間社会のすべての基礎は、大人ひとりひとりが、赤ちゃんたちと子どもたちをどれだけ愛せるかにかかっていると思います。
『逝きし世の面影』から、もう少し抜粋します。
いろいろな人の名前が出てきますが、説明は省略させていただきます。
皆さん、幕末に来日したり、滞在していた外国人の方々です。
『逝きし世の面影』より
・赤ちゃんをあやす父親の様子。
「日本人が非常に愛情の深い父であり母であり、また非常におとなしくて無邪気な子どもを持っていることに、他の何よりも大いに尊敬したくなってくる」とグリフィスは述べる。
そして、モースもまた述べる。「日本の子どもほど行儀がよくて親切な子どもはいない。また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子どもに尽くす母親はいない」。
グリフィスは横浜に上陸して初めて日本の子どもを見たとき、「何とかわいい子ども。まるまると肥え、ばら色の肌、きらきらした眼」という感想を持った。
「子どもは大勢いるが、明るく朗らかで、色とりどりの着物を着て、まるで花束をふりまいたようだ。彼らと親しくなると、とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないのに気づく」というのはパーマーである。
モラスエによると、日本の子どもは「世界で一等可愛い子ども」だった。
当時の日本の子どもたちが、
> 長所ばかりで欠点がほとんどない
という「スーパー人間」のように外国人に見えていたほど健全で健康だった理由は、冒頭に引用した文章で、モースという人が申す、
> 世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。
という「大人たちが子どもたちを徹底して大事にした社会」ということが前提となっていたと思われます。
自分の子どもに対してだけではなく、社会全体が「子どもを宝物だと認識するシステム」が、誰から命じられたわけでもなく、「自然にできていた」ということが『逝きし世の面影』でわかるのです。
「自然にできていた」のなら、子どもを宝物だと認識することが日本人の「自然な状態」だといって差し支えないはずです。
この『逝きし世の面影』の第十章「子どもの楽園」という章は、本当に泣けます。
私たち日本人が、近代化や合理化と引き換えにして失った最大のものは「子どもたちへの絶対的な愛情」だったことがわかってしまったのです。
当時の日本の大人たちの子どもへの愛情は、それはどの外国人から見ても、「他のどんな国とも比較できないほど強いもの」と、それに応ずるかのような健全さを持った子どもたちで町は満ち溢れていた。
これで悪い国になる道理がないです。
社会を形作るのは大人で、その大人になるのは、かつての子どもなのですから。
当時の子どもたちへの徹底した愛が基盤となっている社会を復活させない限り、日本は、フルメタルジャケット風にいえば、「クソ地獄にとどまる」ことになるのだと思われます。
そして、ここが大事なのですが、「死ぬほど愛されて育った人間が大人になって、自分が親になった時、子どもにどう接するだろうか」というと、絶対ではないだろうにしても、おそらくは、「自分がされたように、徹底的に子どもを愛する」方向に傾く可能性の法が強いのではないかと予想できます。
そして、その子どもまた・・・次の子もまた・・・ということで、
その社会では一代だけではなく、永続的にこの「愛情の連鎖」が未来にまで続くことなのです。
さらには、冒頭の『逝きし世の面影』にあります、
「子どもたちは、大人からだいじにされることに慣れている」
ということも大事です。
「大人から大事にされる」というのは、「人が人を大事にする」ということに他ならないわけで、こういう子どもたちが大人になった時に、「他人に対して、どのように振る舞うか」が決定されると思います。
学校だとか道徳だとかが人と人との関係を教えなくとも、
普通に「人が人を大事にする社会」がそこに現れる
と考えるのは不自然ではありません。
これは理想論ではないです。
現実、120年前までは日本はそういう社会だったのですから。
支配階級が犠牲となり、庶民だけが輝ける国
いろいろ当時の日本について書きましたけれど、江戸時代などは、このような健全な社会と人生を獲得していたのは、あくまで「庶民だけ」で、武士などの上位階級はそうではなかったようです。
江戸末期に来日し、長く滞在したオランドの外交官ドンケル・クルティウスは、1854年に以下のように書いています。
「公職についていない者はかなり自由な生活を楽しんでいますが、支配層に属する日本人はひどい拘束に耐えて暮らしています。ヨーロッパでは国の主権者は国家最高位にある公僕とみなされていますが、日本では掟の奴隷の頭とさえ呼ばれているのです」
「公職についていない者」というのは庶民のことですので、簡単に書きますと、
・庶民や労働者たちは自由に楽しく暮らしている
・武士たちはひどい拘束に耐えて暮らしている
ということで、江戸時代は、私たちの一般的な想像とはちがい、武士が時代の犠牲者として、ひたすら苦しんでいたといえそうです。
また、当時の庶民たちは、他の権威、たとえば僧侶とか宗教に対してもまったく尊敬の念を持ちませんでした。
『逝きし世の面影』より
1871年に来日したヒューブナー。「私はこの国の有力者たちに信仰を持っているかどうか幾度も尋ねてみた。するといつも判で押したように、彼らは笑いながら、そんなことは馬鹿らしいと答えるのだ」。
バードは1878(明治11)年の東北地方縦断の際、久保田(現秋田)の師範学校を見学したが、校長と教頭に対して生徒たちが宗教について教えられているかどうか尋ねると、二人は「あからさまな軽蔑を示して笑った」。
「われわれには宗教はありません。あなたがた教養のおありの方々は、宗教は偽りだとご存じのはずです」というのが教頭の答だった。
リンダウは、「宗教に関しては、日本人は私の出会った中で最も無関心な民族である」と言う。日本には数多くの寺社があるにもかかわらずそうなのである。
僧侶は「いかなる尊敬も受けていない」。仏教と神道の区別もはっきりしない。民衆は「宗派の区別なく、通りすがりに入った寺院のどこでも祈りを捧げる」。しかし彼らは信仰からそうするのではなく、神聖とされる場所への礼儀としてそうしているのである。
当時の日本人の庶民たち姿がおぼろげながらわかってきます。
それは、
・武士や僧侶などの、あらゆる権威や上位階級をほとんど気にしない。
・子どもたちへの無条件の愛を第一義的に生きている。
・庶民の中では身分による生活の楽しみの差が存在しない。
というもので、それに加えて、庶民たちは「死も恐れていなかった」という、非常に「強い人たち」であったことがわかります。「死を恐れない」ことに関しては、
・日本式ファイト・クラブ:この世こそ極楽であることに感謝し、激動でも素晴らしい時代を死ぬまで生きる
2015年06月29日
に、やはり、『逝きし世の面影』から抜粋したことがあります。
彼らにはいつでも死ぬ用意があった。侍の話ではない。ふつうの庶民がそうだったのである。
カッテンディーケは言う。「日本人の死を恐れないことは別格である。むろん日本人とて、その近親の死に対して悲しまないというようなことはないが、現世からあの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ」。
私自身も階級とか権威とかは気にしたことがないのですが、もっと大事なことは「権威とか支配階級という存在自体を忘れてしまう」ことかもしれません。そして、江戸の庶民たちのように「死をおそれない」ようになるためのことを「考え」続けることも。
ところで、今回出てきた「日本人の特性」ですが、中国の歴史書『三国志』の中に出てくる今から大体 1700年前の日本の様子が書かれた「魏志倭人伝」を見ても何となく似ているんですよね。
みんな酒が大好きだったり、集会では父子・男女の区別がないような「平等な社会」というようなところとか、身分の高い人にもそれほど敬意を示さないとか(あと、どうやら男性は、無類の女性好きだったフシもうかがえます)。
その前の時代、たとえば、縄文時代とかもそある程度は同じようなものだったような感じもしますので、日本人というのは、明治時代くらいまでの「この数万年」はずーっと同じような価値観で生きてきて、
「戦後に強制的に価値観を変えることになった」
ということのような気がします。
数万年に対して、たった 70年ですよ。
その数万年も続いたかもしれない価値観こそが日本人に合っているならば、それを「本来の日本人の価値観ではない方向」に強制的に変えられれば、そりゃ日本人がおかしくなっても仕方ないです。
そして、明治までの価値観こそが、日本で何万年も続いた価値観なら、そちらの方が日本人には合っているという気もしますし、戻るのは意外と簡単だったりして。
いや、簡単ですし、日本は戻る。
絶対に戻ります。
100円賭けてもいい(安ッ)。
それはともかく、「小さな者たちへの無条件の愛」が、革命的「行動」のすべての最上にあります。
「社会を子どもたちに返還する」ということがなされる日が日本の転換点となりそうです。子どもの数は少なくなりましたが、『逝きし世の面影』のような日本に戻すことのできるチャンスはまだあるはずです。
そして、その劇的な変換(回帰)がおこなわれるためには、今の日本のシステムか文明そのものが終焉する必要があります。なので、これは「愛」の話ですが、ゆるい話ではなく、ある程度の決意が必要な厳しい話でもあります。
そして、その日はそう遠くない日にやって来ます。
なお、今回の「子どもたちへの無条件の愛」については、セックス・ビストルズの「ボディーズ」という曲の歌詞を訳していて気づいたことでした。日本の未来への道筋への啓示をくれたジョン・ライドンに感謝します。