2015年08月10日



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地球を作り替えるために「悪に感謝する」こと。そして、チャップリンの『独裁者』のスピーチでの理想的な人間像を真剣に想像してみること



新約聖書『ルカによる福音書』 17章20-21節

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。

また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。









 




自分の心が生み出す「悪」を消滅させるには

前回の記事などで、『幸せはガンがくれた』に出てくる、ガンを自然退縮させた方々の「言葉」に大変感動したことを書いたのですが、その感動は、当然ながら「病気が治ってよかった」というものではありません。

この本に出てくる人々の言葉は凄絶な「気づき」を私に与えてくれました。

この本の中には、「ガンに感謝し、ガンであることが嬉しくなってきた頃から自然退縮が始まる」というような感じの人の話が多く載せられていますが、ガンが自分の体内で起きている反応であることは事実であると同時に、ガンになる原因も、この本を読む限りは、ほとんどが「原因は自分にある」ことがわかります。

ガンというのは全部が「自分そのもの」です。

その、何もかも自分から始まるガンを悪だと考えること自体が、それは自己否定そのものであり、正しい態度ではないことがわかるのです。

ガンを含めて、体に起きるすべての反応、すべての病気の原因はほとんどが自分にあり、そのすべては「回復」を示しているものなのですから、どんな病気でも症状でも、それは難しくとも、できるだけ感謝し、受け入れるべきだと思うようになったのです。

ガン細胞
cancer-cell4.jpg
ctjsc.com

私たちの人生で教えられてきた価値観は、大抵の場合は、

「病気は悪いものが侵入して起きる悪いものだから、ひたすら憎んでよし!」

というものだったと思います。

「病気=自然良能」と教えられたことは、少なくとも私はないです。

しかし、今になって知ることは、病気は自然良能であるばかりではなく、病気以外のすべてのものについても、本来の私たちの世界というのは、かつての多くの賢人たちが言うように、

この宇宙に否定的なものや出来事は存在しない

というのが真理だとすると、「悪いものが存在しているように見える」のは、それは「作りだしている」に他ならないはずです。

誰が作りだしているのかということには、いろいろな意見があるでしょうけれど、最も大きな「悪の生産拠点」は「自分」だと思います。

お化けを恐いと思う人と、全然恐くない人がいる。
高いところが恐い人と、全然恐くない人がいる。
残酷なシーンを見て、恐いと思う人と、全然恐いと思わない人がいる。

恐怖の対象が、おおむね人によりバラバラであることを見てもわかるように、恐怖は「その人の中で作られる」もので、この世に絶対的な恐怖はないです。

「不安」も同じで、この世界には本来は不安などないです。

うーん・・・どうもうまく説明できていないですが、たとえば、冒頭に新約聖書『ルカによる福音書』17章の部分を抜粋していますが、イエス・キリストは、この箇所で、「神の国はあなたがたの中にある」と言っています。

つまり、

「神の国は人間の中にある」

と、イエス・キリストは、はっきりと述べているのです。

「神の国」とは、つまり「神々の発生源」ともいえなくはないのではないでしょうか。

人間はその内の中に「神の発生源を存在させている」。

自らの中に神の発生源を内包している存在である人間の中から生じるものに「悪」が入り込む余地があるでしょうか。本来、すべてが「善」のはずです。

あるいは、それらは、

善と悪の正体

という記事で書きましたけれど、「相反するふたつの存在」であるのかもしれず、確かに、私たち人間の中には「悪」と「善」が対立して存在しているものなのかもしれないですが、『幸せはガンがくれた』に出てくるガン自然退縮者の方々の言葉でわかることは、

悪に感謝すれば、悪は(本来の善の姿に戻り)消える

ということです。

そして、この「原則」は、病気だけではなく、「この世のすべて」について当てはまるのではないかと感じたのです。

前回の記事

オカ氏の異常な愛情 または私は如何にして心配するのをやめて恐怖を愛するようになったか

で引用させていだいた、ガンの自然退縮者の沢本さんのお言葉、


「変な言い方だけど、陶酔に変えていったのよ。痛い、だからこれは気持ちがいいというふうにしていった。痛みが気持ちいいんだって、自分に言ってたの。そうしたら、ちょっと言葉で表せないくらいなんだけど、痛みが、単なる痛みじゃなくなったの。通りいっぺんじゃないのよ」

「どう言っていいんだか分からないけど、ともかく違うのよ、痛みが。あっ、今日も来たよ、ありがとう、ありがとうって。本当に心からね、それが思えた日に、スパッと抜けた、痛みが。本当に、見事に、スパッと抜けたのよ」



これが、「宇宙のすべてに当てはまる」のだと確信したのです。

感謝すれば、悪がスパッと消えると。

その記事で私は、

ここに至って気づいたことは、感謝するという思想の本当の意味は「すべてと一体化する」ための実践方法のひとつだということでした。この意味は、つまりは、「感謝」と「この世の正体の把握」には密接な関係があるというようなことだと思うに至ったのです。

というようなことを書いていますが、この意味は、

悪に感謝することができることが、この地球の性質を変化させられる最大の行動かもしれない

と思ったということになります。

私たちがこれから見ていく先の世界、それの呼び方は、新しい地球でも未来の地球でも新しい次元でも何でもいいのですが、地球を「まったく新しい場所」にするためには、「悪に感謝する」という感覚を掴めるまで努力しなければならないということを感じたのです。

そして、たとえば、「未来の地球」が、日月神示にあるような、

第21巻 空の巻 第十帖

此の方 悪が可愛いのぢゃ、御苦労ぢゃったぞ、もう悪の世は済みたぞ、悪の御用 結構であったぞ。早う善に返りて心安く善の御用聞きくれよ。世界から化物出るぞ、この中にも化物出るぞ、よく見分けてくれよ、取違ひ禁物ぞ。

というように「もう悪の世は済みたぞ」という世になるためにも、今こそ「悪を憎む」という概念から、何とか少しずつでも、「悪に感謝する」という方向に転換していければいいなと、少なくとも自分自身は思ったりしています。

たとえば、中村天風さんやシュタイナーなども、「恐怖や不安は無駄なもの」とは何度も言いますが、天風さんやシュタイナーのような方なら、それを捨て去ることは簡単なのかもしれないですが、私のような不安だらけの人間には難しいことなのです。

その私のような人間に「恐怖や不安を消す」ための具体的な示唆をしてくれたのが、本に出てきた沢本さんの言葉であり、あるいは他の方々の言葉でした。

私たちが沢本さんたちから学んだこの気高い智恵を現実の生活に活かすためには、「ガン」というキーワードを他のものに変えればいいのだと思います。

たとえば、私なら、

・恐怖に感謝する
・不安に感謝する


ということを努めて実践するのです。

最初はできないのが当たり前なのですから、それで何の問題もないです。
重要なことは「それらを憎まない」ことだと思います。

もちろん、すぐに何かが変わることはないでしょうが、半年、1年、10年、20年もすれば、少しは何かが変わるかもしれません。

また、これらは「感覚的な作業」に見えるかもしれないですが、沢本さんのご体験を読めば、極めて「理詰め」の方法論であることがわかります。

あの沢本さんの言葉は、数冊の聖典を読むほどの智恵だと思います。





「絶望してはいけない」

ところで、『ルカによる福音書』 17章のワンフレーズをどうして知っていたのかといいますと、1940年のチャールズ・チャップリンの映画『独裁者』の有名な6分間の演説シーンに出てくるのです。

今の時代に見直すと、75年前よりも、むしろ今の時代に対して響く、なかなか良い内容のスピーチですので、記しておきます。

すべてチャップリン自身によって書かれたものです。




チャップリン『独裁者』演説シーンより

chaplin-Great-Dictator.jpg


申し訳ない
私は皇帝になりたくない
私は誰も支配したくないのだ
できることなら助けたい
ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も

人類は互いに助け合うべきなのだ
人間とは本来はそういうものなのだ
人間は、他人の幸福を願って生きるものだ
他人の不幸を願ったり、互いに憎み合ったりしてはならない

この世界には全人類が暮らせる場所があり、大地は富に満ちている
人生の生き方は自由で美しく楽しいものであるべきだ
しかし、私たちは生き方を見失ってしまっている
貪欲が人類を毒し、憎悪をもたらし、悲劇と流血へと私たちを行進させた

私たちはスピードを手にしたが、それによって自分たちの意志を孤立させた
機械は貧富の差を作り、知識を得たことにより人類は懐疑的になった
思想だけがあって感情がなく、人間性が失われた

賢さよりも、優しさや愛と思いやりが必要なのだ
思いやりがないと暴力だけが残り、すべてが失われてしまう。

飛行機やラジオが私たちの距離を縮めたが、それらの発明の本質は、人間の良心に呼びかけて、世界がひとつになれることを呼びかける力があることだ

今も私の声は世界中の何百万人もの人々のもとに届いている
その中には、絶望している人たちもいるはずだ
男性たち、女性たち、子供たち、罪のない人たちを拷問し、投獄する組織の犠牲者のもとにも私の声は届いている

私の声が聞こえる人たちに言いたい

「絶望してはいけない」

私たちに覆いかぶさっている貪欲はやがて過ぎ去り、恐怖もやがて消える
それらの貪欲や恐怖は、人類の進化を恐れる者たちの嫌悪なのだ

憎しみは消え去り、独裁者の獣たちは死に絶える
人々から奪いとられた権力は、ふたたび人々のもとに返されるだろう
自由は決して滅ばない!

兵士諸君!
獣たちの犠牲になるな!
やつらは諸君を欺き、見下し、奴隷にし、人生を操り、諸君を家畜のように追い回している
諸君が何をして、何を考えて、何を感じるかさえも指図し、そして、諸君に対して、食べる物まで制限する者たちは、諸君を単なるコマとして扱うのだ!

やつらは人間ではない!
心も頭も機械に等しい!
諸君は、そのような機械の心を持った機械人間たちの犠牲になってはならない

諸君は機械ではない!
諸君は家畜ではない!
諸君は人間だ!
心に愛を抱く人間なのだ!

憎んではいけない
愛されない者だけが憎むのだ

独裁を排し、自由のために戦え!

神の王国は人間の中にある
すべての人間の中にあるのだ!
諸君すべての中に神の国があるのだ!

すべての諸君は幸福を生み出す力を持っている
人生は美しく自由であり、素晴らしいものなのだ!
それを創り出す力を諸君は持っている!

民主国家の名のもとに、その力を集結させよう!
良い世界の実現のために戦おう!
若い人たちには希望を与え、老人たちには安定を与えよう

獣たちも同じ約束をしながら権力を伸ばしてきた
しかし、獣たちは約束を守らないし、これからも同じだろう
やつらは野心を満たし、大衆を奴隷にした!

今こそ戦おう!
約束を実現させるために!
世界に自由をもたらし、国境を取り除き、この世から貪欲と憎悪を追放しよう!

良識のために戦おう
文化の進歩が全人類を幸福に導く世界になるために戦おう

兵士諸君!
民主国家のために団結しよう!





ここまでです。

このシーンの日本語字幕版は、YouTube にもあります。
上の訳とは少し違いますが、意味の流れとしては同じです。




これは、当時のナチス・ドイツの独裁政治を批判したものとされていますが、どうも、今こう眺めていますと、「そういうことではないかもしれない」という気もしないでもないです。

このチャップリンの言葉は、今の私たちの日本も含む「民主主義といわれている社会」そのものに言えることなのではないかという気もしますが、それはともかく、チャップリンもまた、

人生の生き方は本来は自由で美しく楽しいもの

と言っていて、そして、チャップリンは、それが「心も頭も機械のような者たち」によって、変えられてしまったとしています。

しかし、チャップリンは、それと戦うことによって、新しい地球を取り戻すことを説いていますが、先ほどの観念でいえば、「その獣たちに感謝して、獣の存在を消してしまう」というほうが合理的なのかもしれません。

ところで、

「獣」

という「心も頭も機械のような支配者」たちが、今の世の中にもいるとしたら、それは、どんな者たちだと思われますか?

私はこの時期の、終戦や原爆の日などに、繰り返しニュースで流れる「完全に画一の受け答えをする一般の人々」を見ていて、あるいは、「負」ばかりを未来へつなごうとするこことが美化されている光景を見て考えてしまうところがあります。

それはともかく、ごく自然な形で、ずいぶん以前から、常に私たちは「価値観を統一化されてきた」というような部分はあります。知らない間に同じ方向にならわされる。「自主的に考える」ことが認められない。

しかし、そのことは今回の記事とは関係のない話ですので、ふれませんが、この「獣の正体」にしても、私も含めて、他人の意見ではなく、「自分で考える」ことが大事だと思います。

それと、チャップリンは、

> (今の人々は)思想だけがあって感情がなく、人間性が失われた

> 賢さよりも、優しさや愛と思いやりが必要なのだ


と言っていますが、このチャップリンの言葉から 75年経った今は、さらに、「思いやりより知識」、「思いやりより財産」の傾向が激しくなっていますが、これに関しても、『幸せはガンがくれた』に出てくる方々の言葉を読んでわかるのは、

「どんな世の中に住んでいても、その人の心が幸せもその逆も作るのだから、自分の幸せと生きている環境は関係がない」

ことも、より確信できた感じです。




ガンを経て「理想的な人物像」となった女性に想う未来の地球

たとえば、『幸せはガンがくれた』に出てくる片山さんという女性。

小さな頃から優等生で、教室ではいつでも責任のある役割のトップを率先しておこなうタイプで、社会人になってからも、どんなに無理をしてでも頑張り、体も心もボロボロになるまで、トップクラスの営業成績を上げ続けるような人でした。

家庭環境も、厳しい父を憎んでいたりしたこともあるような、いろいろなことがあった方ですが、ガンになった後、ふと、それらの「ガチガチに凝り固まった厳しすぎる生き方がガンにつながった」とことに気づいて、急に肩から力が抜けたそうです。

そして、取材時には体調も良くなり、また、下のような話をするような人に「進化」していました。


『幸せはガンがくれた』 片山紀子さんの話より

「今は、以前の自分とはまったく違う自分を生きているような気がします。本当に、以前の私は、病気をするまでの私は、すごく闘争的だったし、格好はよかったかもしれないけれど、ひどく背伸びして、いつもぜいぜいあえいでいて……」

「今の私は、ボケッとして、のんびりして、自分の、一本一本の手足を、確実に自分のものにして……こうやって、なんにもしないで、ひととき、ひとときをじっくり楽しみながら……もう私はガンになったのだから、こうあるべきとか、こうしなければとか、もうそういう考え方しなくてもいいのよって」

「家族にも、父にも優しくなれて、今はなんか、やっぱりみんな幸せでいてもらいたいと、なんでもいいから幸せでいてもらいたいと、それはすごく思います」



片山さんは他にもたくさん語られていますが、とにかく「何ちゅー悟りの境地なんだ・・・」と思わされます。驚くほどの「安寧の極地」の中にいることも読み取れます。

先ほどのチャップリンの言葉に、

> 人間は、他人の幸福を願って生きるもの

というフレーズがありますが、片山さんもまた、みんなの幸せを明確に願っているという、理想的な人間に生まれ変わっている。

「自分の心」さえ、このようになっていれば、世の中がどんな環境になろうと、やはり幸福なままだと思うんですよ。

この片山さんをはじめ、さまざまな方々は、

「悪(だと思っていたこと)に感謝する」

ということを始めてから、上のような・・・「悟り」としか言いようのない境地で、新しい自分を生きている。

今後、地球や世界の現実的な状況が、カオスに陥ったり、むちゃくちゃなことになったとしても、大事なのは、それら外部での現象ではなく、「自分の内部こそが大事」だということをご理解いただければ幸いです。

すべての人が、片山さんのように、まず自分も幸せで、そして、他人の幸せを望み続ける毎日を送ることができる地球がやってくるかもしれない・・・ということだったら嬉しいですね。

私自身も、世の中ぎりぎり「かもしれない」ところで、この「感謝することの意味」とを知ってよかったと思います。

悪に感謝することは難しいかもしれないですけれど、ひとつの修行だと思っています。