【未来の地球】 の記事一覧

2015年09月07日



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日本の西暦127年の「大洪水」を知り、その時代への突入の可能性を感じる中、エルサレムへ巡礼する外国人を狂気に駆り立てる奇妙な「終末症候群」を考えてみる



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▲ 2015年4月3日のライブサイエンスより。






 

最近は、この9月に関係する噂の数々や、シュミータと呼ばれるユダヤの安息日のことなどを書くことが多いのですが、場合によっては、実生活とも関係する話であるかもしれない部分もありますので、そのことを考えることが多かったりします。

最近は、イスラエルの英字メディア「イスラエル・ブレーキング・ニュース」というのを見ることが多いのですが、このメディアは「聖書の視点から時事報道を見る」というようなスタンスなので、ラビの言葉やら予言めいた事柄やらが満載なんですが、8月下旬以降は、下のような、何とも禍々しい記事が連日のように掲載されています。

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▲ 2015年09月02日の Breaking Israel News より。


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▲ 2015年08月26日の Breaking Israel News より。


それぞれの内容は、ほとんど見出し通りで、最初のものは、シュミータに関係する「数字」などが、今年のイスラエルに関しての「何か大きなできごと」を示唆しているかもしれないというものです。

下のほうは、「未来から啓示を受けている」というイスラエルのラビが、戦争がすぐ近くに迫っていると警告したり、といった「オカルトもの」ですが、状況を考えると、それなりに何となく理解できないでもないような、そうでもないような。

そして、ユダヤとイスラエルも今はいろいろとアレですが、「実生活に関係する」といえば、何だか気候が妙ですよね。

これは関東の話ですが、「とにかく晴れない」のです。

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1888年前の日本で起きていた「ノアの方舟」級の大洪水

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RANDOM


春頃から、朝早く目覚めた時は、なるべく外を歩くようにしているのですが、この2週間くらいの私の住むあたりは、朝からほぼずーっと雨で、小雨とか霧雨とか、そんな朝ばかりとなっていて、さすがにこんなに晴れの日の少ない8月中旬から9月というのは記憶にないです。

しかも、天気予報を見る限りは、まだ1週間くらいはこんな天候が続くというような予報になっていて、週末にかろうじて「天気マーク」がついていましたが、そこに、台風17号と18号が発生しまして、週末の日本を直撃する可能性が高くなっています。

これで、週末の何日かぶりの晴れも見込みが薄くなってきそうで、「いつになったら晴れるんだ?」と思いますが、梅雨時でも珍しいほどの晴天なしの日々はまだ続きそうです。

気温もとても低くて、結局冷夏となりりつつある今年の夏ですが、ここまで太陽の出る日が少ないと、そろそろ関東の農業とかには影響がありそうです。

この台風ですけれど、先日、太平洋で、観測史上で初めてとなる「同時に4つのハリケーンが発生」ということが起きていまして、これは、

史上初:4つの大規模ハリケーンが「同時」に発生という異例の現象
 2015年09月05日

という記事に書きましたが、このうちの「キロ」と名づけられたハリケーンが、台風17号となったようです。


太平洋上に同時に発生した4つのハリケーン

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Mark Tarello


何だかもういろいろな現象が「発生し放題」の感がありますが、気候といえば、先日、子どもがテレビのチャンネルを回していて、 NHKスペシャル「巨大災害 第1集 極端化する気象〜海と大気の大変動〜」という番組を見始めたので、私も一緒に見たのですが、その中に「木の年輪」を解析することにより、過去「数千年間」の日本の気候変動の状態を明らかにする研究プロジェクトが紹介されていて、その解析の結果、

西暦127年の日本で、とんでもない大洪水が起きていた

可能性に言及していました。

日本に文献のない時代ですから、正確な状況はわかりようもないですが、年輪の解析から得られたデータでは、その年に、とにかく「ずーっと雨が降り続けていた」ということが示されて、解析からの雨量では、何もかも流し去るような大洪水が起き続けていた可能性が示されていました。

その番組の再現映像などを見ていて、私は「ノアの方舟」に関してのシュメールの洪水神話などを思い出していました。


シュメールの洪水神話

大洪水が聖地を洗い流すだろう。人類の種をたやすために。これが神々の集会の決定であり、宣言である。

あらゆる嵐、しかもはなはだ強大なのが、ひとたばになって襲ってきた。同時に、大洪水が聖域を洗い流した。七日と七夜、大洪水が国中を洗い流し、大舟は嵐のために大波の上でもてあそばれた。

そののち、太陽神ウトゥがあらわれ、天と地を照らした。



ノアの方舟のこの描写では、8日目には太陽が出るのですが、西暦 127年の日本の洪水は、そんな生ぬるいものではなかったようで、どちらかというと、旧約聖書の『創世記』にあるノアの方舟伝説の、


洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。


というほうに近かったのかもしれません。

沖縄以外の日本には「洪水伝説はない」とされていたと記憶していますが、伝説どころか、明確に、今から 1900年ほど前に大洪水があったということが今になってわかったということのようです。

以前、カルデラ破局噴火の記事を書いた時に、

地球には同じ系統の文明を継続させないメカニズムがある

として、常に「リセット」が繰り返されることを書いたことがありますが、洪水にも同じような意味合いがあるのかもしれません。

昨年の、

水は浄化なのか、それとも単なる害悪なのか…
 2014年05月27日

という記事に、ルーマニアの宗教学者、ミルチャ・エリアーデという人が、『世界宗教史』に書いた記述を掲載しています。


ミルチャ・エリアーデ『世界宗教史』より

洪水の原因は人間の罪であると同時に世界の老朽化であることが確認される。
宇宙は、生存し、生産するという単なる事実によって、しだいに退化し、ついに衰亡するのである。これゆえに、宇宙は再創造されなければならないのである。
言いかえれば、洪水は新しい創造を可能にするために「世界の終末」と罪に汚れた人間の終末を大宇宙の規模で実現するのである。



> 洪水は新しい創造を可能にするために「世界の終末」と罪に汚れた人間の終末を大宇宙の規模で実現する

という、この人の主張が正しいのであれば、今後もなお「洪水の時代」が続くことも不思議ではないです。

過去の洪水に関しては、エベレストの山頂部からアンモナイトの化石が見つかったりもしていて、これが洪水によるものなのか、地層の隆起によるものなのかはわからなくとも、地球の動きがダイナミックであることはわかります。

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▲ 1960年代に、エベレストの山頂に近い地層で発見されたアンモナイトの化石。過去記事より。


なお、ノアの方舟の伝説のほうに関しては、

ノアの大洪水は紀元前 5000年に実際に起きていた: 黒海の放射性炭素測定によるひとつの実証
 2012年12月13日

という記事でご紹介したことがありましたが、黒海周辺に限っていえば、 5000年ほど前に起きていた可能性が高いという主張があります。

その時の状況の予想は、海洋探検者ロバート・バラード氏の描写では、

「あっという間に水が激しくこの場所を突破し、土地を浸水しました。そして、150,000平方キロメートルの土地が一瞬にして沈んだと考えられます」

というようなものでしたが、NHK で再現していた日本の 1900年前の洪水も何となく似た風情を漂わせるものでした。

そして、その NHK の番組では、タイトルが「極端化する気象」というだけあって、今後そういうようなことも増えるかもしれないということを述べているものでもありました。

まあ、もう気象は荒れていますから、そんなに意外感はないですが、「大洪水」ということに関しては、ずいぶんと以前から気にかかる現象ではありまして、In Deep でも、洪水の記事はかなり多く書いています。

そして、それは、さきほどのルーマニアの宗教学者の言葉などからも、「終末」という状況に対応できる概念であるからこそ、たとえば、最近の「2015年9月という「終末」の月」という記事とも関連する部分もなくもないのだという気もしないでもないです。

というわけで、「終末」つながりということで、今回もユダヤ教とかイスラエルとかと少し関係した報道をご紹介します。

冒頭に貼りましたアメリカの科学メディア、ライブサイエンスの記事です。





聖地エルサレムで起きていること

ご紹介するのは最近の記事ではなく、今年の4月の記事で、わりと興味深いものではあったのですが、当時、ご紹介する機会がありませんでした。

そして、最近書いていました一連のユダヤとかイスラエルの記事を書いている中で、この記事のことを思い出したのでした。

記事の内容は、

エルサレムに巡礼に訪れる外国人に、精神に異常をきたす人たちがたくさんいる

ことを説明したものでした。

その数は、1980年から 1993年の間で「巡礼に来た外国人 1200人が精神病院に入院している」という、かなりのものです。

入院ということは、それなりに重い状態だと思いますので、もう少し軽い状態の人たちはさらにいるのではないかとも思いますが、調査は、入院した人たちだけを対象に行われています。

そして、最初のほうに載せました「イスラエル・ブレーキング・ニュース」などの記事のように、今年あたりは、ユダヤ教とイスラエルの過去の歴史に詳しい人であればあるほど、信仰への「畏怖」や「熱狂」は増大しているような感じもありますので、メンタルへの影響も通常より大きくなりそうな気がします。

その記事をご紹介します。

なお、記事中に「トゥルーマン・ショー」という言葉が出てきますが、これは、1998年のハリウッド映画のタイトルで、下のようなストーリーです。

トゥルーマン・ショー - Wikipedia

彼(主人公)は生まれたときから人生の全てを24時間撮影されていた。彼は「アメリカ合衆国公民」ですらなく、人生がそのまま「リアリティ番組」として世界220ヶ国に放送されていた。彼の住む街は万里の長城に匹敵する巨大ドームのセットであり、周囲の人物は全て俳優なのであった。

それでは、ここから記事です。




Bizarre Syndrome Makes Visitors to Jerusalem Go Crazy
livescience 2015.04.03


奇妙な症候群がエルサレムへ巡礼する人々を狂気に駆り立てる


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insightguides


世界中のキリスト教徒とユダヤ人たちは、イースターの休日と過越(すぎこし)の祭を祝うために準備し、多くの人々がエルサレムの街に集まる。

古代から、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教 にとって、エルサレムは世界最大のいくつかの宗教の巡礼者たちを惹きつけ続けてきた。

しかし、これらの訪問者のうちの中には、数が多いわけではないが、エルサレムへの畏敬の念が、病理となっていく場合がある。

言葉を換えると、エルサレムへの訪問が、人々に強迫観念を植えつけたり、妄想にとりつかれたり、他のさまざまな精神疾患の引き金となることがあるのだ。

何人かの精神科医たちは、この現象を「エルサレム症候群」と名づけており、この状態が、それまで精神疾患にかかったことのない人たちに起きると言う。

しかし、一方では、エルサレム症候群という診断に異議をとなえる精神科医たちもおり、彼らは、これは広範囲な部分の精神疾患の一部である可能性があり、エルサレムに原因があるのではないと述べる。

ニューヨークのアルベルト・アインシュタイン医学校の心理学訓練の監督官であるサイモン・レゴ( Simon Rego )氏は、「私は、エルサレム症候群のような症状については、それ以前に聞いたことがありません」と、エルサレム症候群に否定的な見方をする。

「このようなことは、文献の中に定期的に出現します。そこでは、医者たちが、それまでにない症状を発見したと思っているのです」

しかし、このエルサレム症候群は、本来的に持っている根本的な精神疾患の結果である可能性もあるとレゴ氏は述べる。

エルサレム症候群は、西暦 2000年に初めて確認された。

イスラエルの精神科医たちが、1980年から 1993年の間に、エルサレムを訪れた人たちが「エルサレムで深刻な精神的な問題に陥る」ことにより、エルサレム市内にあるクファルシャウル精神保健センターに入院した 1200人の観光客たちを調査した結果を、英国の医学誌ブリテン・ジャーナル・オブ・サカイアトゥリー( British Journal of Psychiatry / 英国の精神医学)誌で報告したのが最初だ。

研究者たちは、3種類のエルサレム症候群を同定した。

エルサレム症候群の第1のタイプは、もともと精神疾患に苦しんでいた人たちが含まれるが、その多くの人々が、それ以前から、「自分は聖書に出てくる人物」だと信じている人たちだった。

たとえば、妄想型統合失調症の持病を持っていた一人のアメリカ人観光客は、自分は聖書に登場するサムソン(旧約聖書 士師記13〜16章に登場)だと信じていた。

そして、彼は「嘆きの壁」で石のブロックのいずれかを移動させなけれはならないという強迫に駆られて、イスラエルを訪問していた。 このアメリカ人は、いくつかの騒ぎを起こした後、警察から病院に移送された。

症候群の第2のタイプの患者たちは、本格的な精神疾患を有してはいないが、いくつかの精神疾患の兆候を示す。

この第2のカテゴリには、たとえば、イエス・キリストの再臨を待つためにエルサレムに定住する非主流派のキリスト教団体の一部の人々などが含まれる。

このタイプとして、研究者たちは、「真の」宗教を見つけることに取り付かれた健全なドイツ人の例も挙げている。このドイツ人は、ユダヤ教を研究するためにエルサレムを訪れたが、聖墳墓教会(エルサレム旧市街にある、イエス・キリストが十字架にかけられ、埋葬されたとされる場所に建つ教会)で、精神病的な状態に陥ってしまう。

第3のタイプは、エルサレムに来る前には、いかなる精神疾患歴もない人々だ。彼らは、エルサレムを訪れて滞在している間だけ、精神疾患の様相を呈したが、イスラエルを出国した後には、全員が自然に回復した。

この第3のタイプのエルサレム症候群の数は、調査した 1200人のうちのたった 42人だけだった。

しかし、このようなエルサレム症候群の分類については、これまで多くの精神科医たちから非難を受けてきた。

同じ医学誌に論文を発表した他の研究者は、このエルサレム症候群の症状の状態の記述に、医学的条件を満たす疫学的データが含まれていないことが「残念」だと述べている。

このような状態を発症する個人のリスクを増加させることができる因子、または過去の有病率などからの要因のデータが不足しているという。

ニューヨークのレノックス・ヒル病院の臨床精神科医、アラン・マネヴィッツ博士( Dr. Alan Manevitz )は、エルサレム症候群は、精神病のリスクを持っている人たちが、他の国に行ってストレスを受けたり、宗教的意味に没頭することにより生じているに過ぎないと考えている。

「精神的に脆弱な人々が、周囲の状況に触発されて、それらの症状が起きているのだと思っています」と、ライブサイエンスに語った。

また、サイモン・レゴ氏は、このような精神病の症候群は、エルサレムに特有のものではないことに同意している。都市に影響を受ける可能性はあるにしても、それが原因ではないと彼は言う。

「エルサレムを訪れることが純粋な原因だった場合、エルサレムを訪れた人が誰でもそうならなければならないはずです」とレゴ氏は語った。

心理学の領域では、伝えられる多くの独特の精神病症候群の例があったと、レゴ氏は述べる。

「文化や環境などからの歴史的要因が、妄想の出現に影響を与える可能性があります」と彼は言う。

例えば、ハリウッド映画『トゥルーマンショー』(1998年)では、その主人公は、彼のすべての生活が実はテレビ番組のショーであることを知らずに生きているという話だったが、映画の公開後、モントリオールの精神科医たちは「トゥルーマンショー的な妄想を持つ患者たち」の症例を報告している。

彼らは、自分の生活は実際の生活ではなく、テレビのリアリティ・ショーで作られたセットの中に自分は住んでいると思い込んでいた。

1940年代には、アメリカの多くの人々が、自分はラジオ電波を通じて、何らかの方法で自分がコントロールされているという妄想に苦しんだ。




  

2015年08月10日



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新約聖書『ルカによる福音書』 17章20-21節

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。

また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。









 




自分の心が生み出す「悪」を消滅させるには

前回の記事などで、『幸せはガンがくれた』に出てくる、ガンを自然退縮させた方々の「言葉」に大変感動したことを書いたのですが、その感動は、当然ながら「病気が治ってよかった」というものではありません。

この本に出てくる人々の言葉は凄絶な「気づき」を私に与えてくれました。

この本の中には、「ガンに感謝し、ガンであることが嬉しくなってきた頃から自然退縮が始まる」というような感じの人の話が多く載せられていますが、ガンが自分の体内で起きている反応であることは事実であると同時に、ガンになる原因も、この本を読む限りは、ほとんどが「原因は自分にある」ことがわかります。

ガンというのは全部が「自分そのもの」です。

その、何もかも自分から始まるガンを悪だと考えること自体が、それは自己否定そのものであり、正しい態度ではないことがわかるのです。

ガンを含めて、体に起きるすべての反応、すべての病気の原因はほとんどが自分にあり、そのすべては「回復」を示しているものなのですから、どんな病気でも症状でも、それは難しくとも、できるだけ感謝し、受け入れるべきだと思うようになったのです。

ガン細胞
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ctjsc.com

私たちの人生で教えられてきた価値観は、大抵の場合は、

「病気は悪いものが侵入して起きる悪いものだから、ひたすら憎んでよし!」

というものだったと思います。

「病気=自然良能」と教えられたことは、少なくとも私はないです。

しかし、今になって知ることは、病気は自然良能であるばかりではなく、病気以外のすべてのものについても、本来の私たちの世界というのは、かつての多くの賢人たちが言うように、

この宇宙に否定的なものや出来事は存在しない

というのが真理だとすると、「悪いものが存在しているように見える」のは、それは「作りだしている」に他ならないはずです。

誰が作りだしているのかということには、いろいろな意見があるでしょうけれど、最も大きな「悪の生産拠点」は「自分」だと思います。

お化けを恐いと思う人と、全然恐くない人がいる。
高いところが恐い人と、全然恐くない人がいる。
残酷なシーンを見て、恐いと思う人と、全然恐いと思わない人がいる。

恐怖の対象が、おおむね人によりバラバラであることを見てもわかるように、恐怖は「その人の中で作られる」もので、この世に絶対的な恐怖はないです。

「不安」も同じで、この世界には本来は不安などないです。

うーん・・・どうもうまく説明できていないですが、たとえば、冒頭に新約聖書『ルカによる福音書』17章の部分を抜粋していますが、イエス・キリストは、この箇所で、「神の国はあなたがたの中にある」と言っています。

つまり、

「神の国は人間の中にある」

と、イエス・キリストは、はっきりと述べているのです。

「神の国」とは、つまり「神々の発生源」ともいえなくはないのではないでしょうか。

人間はその内の中に「神の発生源を存在させている」。

自らの中に神の発生源を内包している存在である人間の中から生じるものに「悪」が入り込む余地があるでしょうか。本来、すべてが「善」のはずです。

あるいは、それらは、

善と悪の正体

という記事で書きましたけれど、「相反するふたつの存在」であるのかもしれず、確かに、私たち人間の中には「悪」と「善」が対立して存在しているものなのかもしれないですが、『幸せはガンがくれた』に出てくるガン自然退縮者の方々の言葉でわかることは、

悪に感謝すれば、悪は(本来の善の姿に戻り)消える

ということです。

そして、この「原則」は、病気だけではなく、「この世のすべて」について当てはまるのではないかと感じたのです。

前回の記事

オカ氏の異常な愛情 または私は如何にして心配するのをやめて恐怖を愛するようになったか

で引用させていだいた、ガンの自然退縮者の沢本さんのお言葉、


「変な言い方だけど、陶酔に変えていったのよ。痛い、だからこれは気持ちがいいというふうにしていった。痛みが気持ちいいんだって、自分に言ってたの。そうしたら、ちょっと言葉で表せないくらいなんだけど、痛みが、単なる痛みじゃなくなったの。通りいっぺんじゃないのよ」

「どう言っていいんだか分からないけど、ともかく違うのよ、痛みが。あっ、今日も来たよ、ありがとう、ありがとうって。本当に心からね、それが思えた日に、スパッと抜けた、痛みが。本当に、見事に、スパッと抜けたのよ」



これが、「宇宙のすべてに当てはまる」のだと確信したのです。

感謝すれば、悪がスパッと消えると。

その記事で私は、

ここに至って気づいたことは、感謝するという思想の本当の意味は「すべてと一体化する」ための実践方法のひとつだということでした。この意味は、つまりは、「感謝」と「この世の正体の把握」には密接な関係があるというようなことだと思うに至ったのです。

というようなことを書いていますが、この意味は、

悪に感謝することができることが、この地球の性質を変化させられる最大の行動かもしれない

と思ったということになります。

私たちがこれから見ていく先の世界、それの呼び方は、新しい地球でも未来の地球でも新しい次元でも何でもいいのですが、地球を「まったく新しい場所」にするためには、「悪に感謝する」という感覚を掴めるまで努力しなければならないということを感じたのです。

そして、たとえば、「未来の地球」が、日月神示にあるような、

第21巻 空の巻 第十帖

此の方 悪が可愛いのぢゃ、御苦労ぢゃったぞ、もう悪の世は済みたぞ、悪の御用 結構であったぞ。早う善に返りて心安く善の御用聞きくれよ。世界から化物出るぞ、この中にも化物出るぞ、よく見分けてくれよ、取違ひ禁物ぞ。

というように「もう悪の世は済みたぞ」という世になるためにも、今こそ「悪を憎む」という概念から、何とか少しずつでも、「悪に感謝する」という方向に転換していければいいなと、少なくとも自分自身は思ったりしています。

たとえば、中村天風さんやシュタイナーなども、「恐怖や不安は無駄なもの」とは何度も言いますが、天風さんやシュタイナーのような方なら、それを捨て去ることは簡単なのかもしれないですが、私のような不安だらけの人間には難しいことなのです。

その私のような人間に「恐怖や不安を消す」ための具体的な示唆をしてくれたのが、本に出てきた沢本さんの言葉であり、あるいは他の方々の言葉でした。

私たちが沢本さんたちから学んだこの気高い智恵を現実の生活に活かすためには、「ガン」というキーワードを他のものに変えればいいのだと思います。

たとえば、私なら、

・恐怖に感謝する
・不安に感謝する


ということを努めて実践するのです。

最初はできないのが当たり前なのですから、それで何の問題もないです。
重要なことは「それらを憎まない」ことだと思います。

もちろん、すぐに何かが変わることはないでしょうが、半年、1年、10年、20年もすれば、少しは何かが変わるかもしれません。

また、これらは「感覚的な作業」に見えるかもしれないですが、沢本さんのご体験を読めば、極めて「理詰め」の方法論であることがわかります。

あの沢本さんの言葉は、数冊の聖典を読むほどの智恵だと思います。





「絶望してはいけない」

ところで、『ルカによる福音書』 17章のワンフレーズをどうして知っていたのかといいますと、1940年のチャールズ・チャップリンの映画『独裁者』の有名な6分間の演説シーンに出てくるのです。

今の時代に見直すと、75年前よりも、むしろ今の時代に対して響く、なかなか良い内容のスピーチですので、記しておきます。

すべてチャップリン自身によって書かれたものです。




チャップリン『独裁者』演説シーンより

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申し訳ない
私は皇帝になりたくない
私は誰も支配したくないのだ
できることなら助けたい
ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も

人類は互いに助け合うべきなのだ
人間とは本来はそういうものなのだ
人間は、他人の幸福を願って生きるものだ
他人の不幸を願ったり、互いに憎み合ったりしてはならない

この世界には全人類が暮らせる場所があり、大地は富に満ちている
人生の生き方は自由で美しく楽しいものであるべきだ
しかし、私たちは生き方を見失ってしまっている
貪欲が人類を毒し、憎悪をもたらし、悲劇と流血へと私たちを行進させた

私たちはスピードを手にしたが、それによって自分たちの意志を孤立させた
機械は貧富の差を作り、知識を得たことにより人類は懐疑的になった
思想だけがあって感情がなく、人間性が失われた

賢さよりも、優しさや愛と思いやりが必要なのだ
思いやりがないと暴力だけが残り、すべてが失われてしまう。

飛行機やラジオが私たちの距離を縮めたが、それらの発明の本質は、人間の良心に呼びかけて、世界がひとつになれることを呼びかける力があることだ

今も私の声は世界中の何百万人もの人々のもとに届いている
その中には、絶望している人たちもいるはずだ
男性たち、女性たち、子供たち、罪のない人たちを拷問し、投獄する組織の犠牲者のもとにも私の声は届いている

私の声が聞こえる人たちに言いたい

「絶望してはいけない」

私たちに覆いかぶさっている貪欲はやがて過ぎ去り、恐怖もやがて消える
それらの貪欲や恐怖は、人類の進化を恐れる者たちの嫌悪なのだ

憎しみは消え去り、独裁者の獣たちは死に絶える
人々から奪いとられた権力は、ふたたび人々のもとに返されるだろう
自由は決して滅ばない!

兵士諸君!
獣たちの犠牲になるな!
やつらは諸君を欺き、見下し、奴隷にし、人生を操り、諸君を家畜のように追い回している
諸君が何をして、何を考えて、何を感じるかさえも指図し、そして、諸君に対して、食べる物まで制限する者たちは、諸君を単なるコマとして扱うのだ!

やつらは人間ではない!
心も頭も機械に等しい!
諸君は、そのような機械の心を持った機械人間たちの犠牲になってはならない

諸君は機械ではない!
諸君は家畜ではない!
諸君は人間だ!
心に愛を抱く人間なのだ!

憎んではいけない
愛されない者だけが憎むのだ

独裁を排し、自由のために戦え!

神の王国は人間の中にある
すべての人間の中にあるのだ!
諸君すべての中に神の国があるのだ!

すべての諸君は幸福を生み出す力を持っている
人生は美しく自由であり、素晴らしいものなのだ!
それを創り出す力を諸君は持っている!

民主国家の名のもとに、その力を集結させよう!
良い世界の実現のために戦おう!
若い人たちには希望を与え、老人たちには安定を与えよう

獣たちも同じ約束をしながら権力を伸ばしてきた
しかし、獣たちは約束を守らないし、これからも同じだろう
やつらは野心を満たし、大衆を奴隷にした!

今こそ戦おう!
約束を実現させるために!
世界に自由をもたらし、国境を取り除き、この世から貪欲と憎悪を追放しよう!

良識のために戦おう
文化の進歩が全人類を幸福に導く世界になるために戦おう

兵士諸君!
民主国家のために団結しよう!





ここまでです。

このシーンの日本語字幕版は、YouTube にもあります。
上の訳とは少し違いますが、意味の流れとしては同じです。




これは、当時のナチス・ドイツの独裁政治を批判したものとされていますが、どうも、今こう眺めていますと、「そういうことではないかもしれない」という気もしないでもないです。

このチャップリンの言葉は、今の私たちの日本も含む「民主主義といわれている社会」そのものに言えることなのではないかという気もしますが、それはともかく、チャップリンもまた、

人生の生き方は本来は自由で美しく楽しいもの

と言っていて、そして、チャップリンは、それが「心も頭も機械のような者たち」によって、変えられてしまったとしています。

しかし、チャップリンは、それと戦うことによって、新しい地球を取り戻すことを説いていますが、先ほどの観念でいえば、「その獣たちに感謝して、獣の存在を消してしまう」というほうが合理的なのかもしれません。

ところで、

「獣」

という「心も頭も機械のような支配者」たちが、今の世の中にもいるとしたら、それは、どんな者たちだと思われますか?

私はこの時期の、終戦や原爆の日などに、繰り返しニュースで流れる「完全に画一の受け答えをする一般の人々」を見ていて、あるいは、「負」ばかりを未来へつなごうとするこことが美化されている光景を見て考えてしまうところがあります。

それはともかく、ごく自然な形で、ずいぶん以前から、常に私たちは「価値観を統一化されてきた」というような部分はあります。知らない間に同じ方向にならわされる。「自主的に考える」ことが認められない。

しかし、そのことは今回の記事とは関係のない話ですので、ふれませんが、この「獣の正体」にしても、私も含めて、他人の意見ではなく、「自分で考える」ことが大事だと思います。

それと、チャップリンは、

> (今の人々は)思想だけがあって感情がなく、人間性が失われた

> 賢さよりも、優しさや愛と思いやりが必要なのだ


と言っていますが、このチャップリンの言葉から 75年経った今は、さらに、「思いやりより知識」、「思いやりより財産」の傾向が激しくなっていますが、これに関しても、『幸せはガンがくれた』に出てくる方々の言葉を読んでわかるのは、

「どんな世の中に住んでいても、その人の心が幸せもその逆も作るのだから、自分の幸せと生きている環境は関係がない」

ことも、より確信できた感じです。




ガンを経て「理想的な人物像」となった女性に想う未来の地球

たとえば、『幸せはガンがくれた』に出てくる片山さんという女性。

小さな頃から優等生で、教室ではいつでも責任のある役割のトップを率先しておこなうタイプで、社会人になってからも、どんなに無理をしてでも頑張り、体も心もボロボロになるまで、トップクラスの営業成績を上げ続けるような人でした。

家庭環境も、厳しい父を憎んでいたりしたこともあるような、いろいろなことがあった方ですが、ガンになった後、ふと、それらの「ガチガチに凝り固まった厳しすぎる生き方がガンにつながった」とことに気づいて、急に肩から力が抜けたそうです。

そして、取材時には体調も良くなり、また、下のような話をするような人に「進化」していました。


『幸せはガンがくれた』 片山紀子さんの話より

「今は、以前の自分とはまったく違う自分を生きているような気がします。本当に、以前の私は、病気をするまでの私は、すごく闘争的だったし、格好はよかったかもしれないけれど、ひどく背伸びして、いつもぜいぜいあえいでいて……」

「今の私は、ボケッとして、のんびりして、自分の、一本一本の手足を、確実に自分のものにして……こうやって、なんにもしないで、ひととき、ひとときをじっくり楽しみながら……もう私はガンになったのだから、こうあるべきとか、こうしなければとか、もうそういう考え方しなくてもいいのよって」

「家族にも、父にも優しくなれて、今はなんか、やっぱりみんな幸せでいてもらいたいと、なんでもいいから幸せでいてもらいたいと、それはすごく思います」



片山さんは他にもたくさん語られていますが、とにかく「何ちゅー悟りの境地なんだ・・・」と思わされます。驚くほどの「安寧の極地」の中にいることも読み取れます。

先ほどのチャップリンの言葉に、

> 人間は、他人の幸福を願って生きるもの

というフレーズがありますが、片山さんもまた、みんなの幸せを明確に願っているという、理想的な人間に生まれ変わっている。

「自分の心」さえ、このようになっていれば、世の中がどんな環境になろうと、やはり幸福なままだと思うんですよ。

この片山さんをはじめ、さまざまな方々は、

「悪(だと思っていたこと)に感謝する」

ということを始めてから、上のような・・・「悟り」としか言いようのない境地で、新しい自分を生きている。

今後、地球や世界の現実的な状況が、カオスに陥ったり、むちゃくちゃなことになったとしても、大事なのは、それら外部での現象ではなく、「自分の内部こそが大事」だということをご理解いただければ幸いです。

すべての人が、片山さんのように、まず自分も幸せで、そして、他人の幸せを望み続ける毎日を送ることができる地球がやってくるかもしれない・・・ということだったら嬉しいですね。

私自身も、世の中ぎりぎり「かもしれない」ところで、この「感謝することの意味」とを知ってよかったと思います。

悪に感謝することは難しいかもしれないですけれど、ひとつの修行だと思っています。



  

2015年07月30日



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人間が先天的に持つ直感力の威力を科学に融合させる試み

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Epoch Times






 


不運なとき、病気のときこそ

最近、興味をひく記事がどうも長いものが多くて、前回の

「私はいかにして病気を愛するようになったか」 : 筋ジストロフィーに対しての…
 2015年07月29日

もわりと長いものでしたが、今日はさらに長いですので、やはり、あまりいろいろ書かないで本題に入りたいと思っています。

ところで、私が前回の 筋ジストロフィーのアメリカ人女性の態度に感心したのは、彼女の症状による現在の状態が不可逆性、つまり、あくまで今の医学ではですが、元に戻らないものだからです。

風邪とかガンとか糖尿病などのように、治ってしまえば、肉体的な後遺症をのこさない病気がある一方で、その状態が不可逆性となってしまうものも多くあります。

彼女の筋ジストロフィーも、あくまで今の医学ではですが、萎縮した筋肉が元に戻ることはないのです。

なので、たとえばですが、アンバーさんの病気の進行が何らかの理由で「完全に止まったとしても」、萎縮してしまった筋肉は、(現在の医学では)元には戻らないものだと思われます。

「現在の医学では」と何度も入れていますのは、たとえば、器官の「石灰化」も、たとえば、血管でも松果体でも、石灰化してしまうと元には戻らないとされていますが、

ソルフェジオ周波数 528Hz に石灰化した松果体を正常に戻す可能性がある?…
 2015年02月07日

という記事に、私のお知り合いの方が、心臓の血管が石灰化していることを指摘された後、528Hz の音叉を胸に当ててから眠るようにしたところ、1年後には石灰化が消えていたという例のことを書いたことがあります。

なので、「それは戻らない」という現代の医学とは別の方法もいろいろとある可能性があります。

そういえば、もう少し詳しくわかれば、いずれ書かせていただくかもしれないですが、何とか細胞とかではない「再生医療」が発見されていまして、

発見、超音波に皮膚の再生を促進する効果。副作用なし、3〜4年後には実用化の可能性も
 engadget 2015.07.18

という記事で日本語で紹介されていますが、「音」で、皮膚の再生を促進させちゃうんです。

医学もこれからが、いろいろな意味での大転換のステージになると思います。

さて、話が逸れましたが、アンバーさんの筋肉の萎縮は、現時点では不可逆性と考えられるわけで、つまり、「自分では立ち上がることも、歩くことも難しい」という状態は、おそらくは(通常の現代医学の概念では)ずっと続くものだと考えていいものだと思います。

肉体は治らない。

つまり、「心と体」の「体」のほうは治らない。

では、どうすればいいでしょうか?

それは、「心と体」のもういっぽうを起動させるしかない、つまり、アンバーさんのように「心を変える」しかないと思うのです。

心を、変化してしまった自分とその原因を愛してみるという究極的な方向に。

動くことがあまりできなくて食べることもできない自分を愛したり、その原因となった病気を愛することは半端な思考ではできないです。

それでも、そのように「心」の方向を持っていかないと、命が続くこれからの人生が一体何であるのかよくわからなくなる。

もちろん世の中には、傍から見れば、非常に苦しい、あるいは厳しい状況や環境の中で「楽しく生きている」という人も実際にたくさんいるはずですが、今の世の中というのは、なぜだか、

「苦しんでい生きてきた人を賞賛する」

ような風潮がずっとあるような気がします。

有名人などの話でも、「こんなような苦労をしまして」という人の話や、涙しながら話をするようなもののほうが人々に受ける面があります。

「苦労とかは感じたことがないですね」

という人の話は、たぶん、テレビなどでは受けないように思われます。

どうも、現代社会というのは、「人にはみな不幸であってほしい。今でなければ、過去でもいいから不幸であってほしい」という気持ちがみんな強すぎるように思います。

これに関して、日本最初の鉄腕アトム・・・じゃないや、日本最初の整体師の野口晴哉さんも、


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いつも希望を持って楽しく生きること。どんな苦しみも避けないで迎えうつこと。余分に苦しまないこと。不幸や苦しみを知らないこと。

それ故養生の人は不幸や苦しみを見ません。

こうして楽々悠々生きておりますと、自ずからその息が深く調って乱れないのであります。


野口晴哉bot


と言っています。

また、日本最初のヨガ行者の中村天風さんは、この「積極的で明るい心を持ち続ける必要性」について「だけ」を語り続けた方といってもいいと思います。

「どんな時にも前向きで、積極的であれ」と。

それが人間の生きている意味だと。


中村天風『運命を拓く』より

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考えてみよう。人間が不運や病気に冒されたとき、それを心配したり悲観したりするのが、真理だとしたら、人間なんて値打ちが少しもなく、人間ほど惨めなものはないと思わないだろうか。

考えてみよう。人間はこの世に悩むために来たのではないだろう。心配するために来たわけではなかろう。悲観するために来たのではないだろう。

つまり、一生を暗く生きるために来たのでは断じてない。まこと尊きかな、人間は進化と向上という偉大な尊厳な宇宙法則を現実化するために、この世に生まれてきたのである。

(略)

よく考えてみよう。人生には、特に病が生じたり、運命が悪くなったときは、ひとしおその生命の力をより強くする必要があるときなのである。

何でもないときは、さもあらばあれ、病や運命が悪くなったときには、そのときこそ、生命を守る戦いを開始しなければならないのだ。そのときに、戦いに勝つものは、力なのだ。

しかも、その力を強くするには何をおいても、第一に心を積極的にしなければならないのだ。それを、悲観したり心配したりして、心を消極的にして、なおかつ、より価値高く活きようとする考え方は、火だねなしに炭から火をおこそうとするのと同じである。





ここで、中村天風さんが言う、

> 人間が不運や病気に冒されたとき、それを心配したり悲観したりするのが、真理だとしたら、人間なんて値打ちが少しもなく、人間ほど惨めなものはないと思わないだろうか。

という言葉と、今の時代に広がっている「不幸を悲しむのが当然だとする世界」は、人間存在の価値を非常に貶めている社会だというこことにも気づきます。

やはり、今の世界は、未来の人類のためになるべく早く破壊されるべきだと思います。

それはともかく、「不運な時や病気の時こそ、強く、前向きで、積極的であれ」という天風さんの言葉を再度、「言葉ヅラではなく」現実的に実践したいですし、実践される方が増えるといいですね。

アンバーさんは、天風さんの言葉の意味のひとつの方向性を具体的に見せてくれたひとりだと思います。

またダラダラとどうでもいいことを書き始めそうですので、今回の翻訳記事に移ろうと思います。

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「直感と科学の融合」を推し進めるアメリカの物理学者

今回の翻訳記事をご紹介する前に、先月の、

《特報》「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認
 2015年06月06日

という記事があるのですが、そちらを読まれていない方は、読まれてから、今回の記事をお読みいただくと幸いです。

上の記事は、

「人間の意識が、科学の観測結果に干渉している」

ことを示すもので、それはすなわち、

「モノと人間の意識がつながっている」という可能性

を示す量子力学の実験をご紹介したものですが、今回は「直感と科学を融合させる」ことを研究し続けているアメリカの科学者のお話です。

直感と科学の融合というのは、すなわち、

「心と科学の融合」

です。

そして、この科学者はおおむね、その試みで成功しています。

さきほどリンクしました量子力学の実験もそうですが、今、科学は大きく変わろうとしているのだと思います。

本当に「大きく」。

科学が変われば、医学も変わります。

コペルニクスやニュートンやアインシュタインの時のような過去の大転換を上回るような大転換が近づいていることを感じます。

記事はここからです。


Major Shift in Science Underway, Intuition Could Play Big Role: Expert Discusses
Epoch Times 2015.07.29


科学の世界で進行中の巨大な変化、「直感が大きな役割を果たし得る」:専門家は語る


直観という存在は、何か曖昧で抽象的なもの……だろうか? 

そして、科学は明晰でしっかりとしたもの……だろうか?

直感と科学という、一見すると相反するこのふたつは、それにもかかわらず、よく混じり合う。

そして、ウィリアム・H・カウツ博士( Dr. William H. Kautz )は、未来の科学は「直感と科学の混合」が起こり得ると考えている。

カウツ博士は、1951年にマサチューセッツ工科大学( MIT )で博士号を受けた後、スタンフォード国際研究所( SRI International )で、34年間にわたり、コンピュータサイエンスと社会科学の研究をおこなった。

1977年に、博士は、いくつかの科学の分野に、直感とその適用の性質について研究するための組織「直観適用センター( Center for Applied Intuition )」をサンフランシスコに設立した。

「今、科学は生みの苦しみのさなかにあるのです。その苦しみとは[心と科学が一体となっていない]という状態ではない中で、心と科学を一体化させようとする苦しみです」

カウツ博士は笑いながら言う。

「それは客観的な手段によって、主観的な領域を探求しようとする試みなんです」



科学の危機、変化の必要性

心(主観)が材料科学実験(目的事象)に重要な役割を果たしているという多くの兆候がある。

量子力学の登場は、観測結果に私たちの意識が物理的な影響を持っていることが示されていることを明らかにした。

また、量子力学は、私たちの科学の全体的な視点が何か根本的に間違っていることをも私たちに示している。

アメリカの理論物理学者ブライアン・グリーンは、1999年に、ピューリッツァー賞にノミネートされた著作『エレガントな宇宙』を書いた。

「これらは両方、現在、公式化されていますが、一般相対性理論と量子力学を両方とも正しいとするわけにはいきません。この 100年のあいだ、物理の基礎の世界に驚異的な発展をもたらした一般相対性理論と量子力学の2つの理論は、相互に互換しないものなのです」


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▲ 「発明は建設的な行為として発生する...本当に価値のある要素は、直感だ。アルバート・アインシュタイン」


科学者たちは、このような非互換性を両立できる「すべてを説明することの出来る理論」を求めていることに対して、カウツ博士は、「直感を使って」科学をより総合的なアプローチに近づけるための研究を続けている。

博士の研究は、私たちが主観によって、「主観的なこと」と「物質ではない領域」を探求することを可能とする可能性がある。

17世紀に、フランシス・ベーコン卿の科学的なアプローチにより、神秘主義者とその直感的な知見は、科学の戦列から離れ現在に至っている。

そして、21世紀の今、カウツ博士の研究は、科学的な方法に直感を追加した場合、それは科学へ大きな利点を追加するかもしれないことを示しているのだ。

博士は、科学の分野でいまだに答えの出ていない問題のいくつかの答えを見つけるために直感を使用することを始めている。

そして、その後に、直感を通して得られたその知識を確認するために、従来の科学的調査を使う。



地震を理解するために直感を使う

1970年代後半、カウツ博士は、強い直感的な能力を持つ8名の人物を集めた。

そして、彼らに個別に「地震の予測をどのようにすると良いかを考えてみてほしい」と尋ねた。
8名は科学者ではなく、一般市民から選ばれた人たちだ。

博士は、地震の前兆についての彼らの回答の中で共通しているものを集め、合意としてまとめた。

2012年に、博士は、その合意を再検討し、科学誌『ジャーナル・オブ・サイエンティフィック・エクスプロレーション( Journal of Scientific Exploration )』に『地震のトリガー:直感的な合意により得られた洞察力の検証』というタイトルの論文を発表した。

博士は論文の中で次のように述べている。

「調査から 30年後にこれらの直感の知見の再検討をおこなったところ、主流の地球物理学誌に報告された多くのその後の発見の中で、専門的な直感は、地震の前兆との関連で、驚くほど正確な情報を提供していたことが明らかになった」

例えば、電離層と上層大気中に起きる地震の前兆の知見が、8名の直感から合意を得られたが、これは当時の地震学者には信じられない概念だった。

しかし、1980年代になり、人工衛星が、大地震が発生する前に高層大気で起きるいくつかのこのような前兆事象を検出したのだ。

近年では、NASA の科学者を含む研究者たちは、人工衛星や他の手段で、電離層の電子や赤外線変化などの地震の前兆を探査すすために、いくつかのモニタリングプログラムを稼動させている。

マサチューセッツ州のイースタンナザレ大学の電気エンジニアであるピエール・リチャード・コーンレイ( Pierre-Richard Cornely )氏は、アメリカ地球物理学連合の 2014年の年次総会で、これらの線に沿った新たな研究を発表した。

科学誌アース・マガジンによると、コーンレイ氏は、マグニチュード7の地震が起きたハイチ上空で人工衛星によって記録された珍しい大気の電子活動を発見した。



古代エジプト語を復元するために直感を使用する

1930年代のイギリスの学校教師アイビー・カーター・ボーモント( Ivy Carter Beaumont )氏は、普通ではない言葉を話し、また、それをたくさん話した。

彼女は、自分の話している言葉は、古代エジプトの言葉であると主張したが、ロンドンのエジプト学者たちは、その時にはそれを否定した。そして、学者たちは、徹底的にそれを研究することを拒否した、とカウツ博士は述べる。


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・古代エジプトの象形文字。


カウツ博士はこのことについて、録音された彼女の実際の音声と、発声の記録が書き記された 44冊のノートと共に、独自の研究を進めた。

また、当時のボーモント氏とエジプト学者の会話で、その学者が母音の位置を挿入した記録もある。

古代エジプトの石碑や文書に描かれた古代エジプト文字には母音が描かれていないので、今は使われていない古代エジプト語がどのような響きを持つものかは誰にもわからないのだ。

ボーモント氏は、エジプト学者が母音を挿入して話したことを完全に理解したところから、彼女は、古代エジプト語を純粋に話すことができたことを示すと、カウス博士は言う。

さらに、カウツ博士がおこなった音声了解度試験によって、ボーモント氏の話した言語と書いた言葉が、エジプトの石碑のものと同一であることを確認した。

「このエジプト語の実験はかなりの経験でした」とカウツ博士は述べる。

「直観というこの人間の先天的な能力を、いかにして統合させて、それをさまざまに異なる方法の上に動いている既存の科学の中に組み入れていくかというのが大きな問題です」

「科学のさまざまな変化は、とても遅い場合があることを私たちは知っています。なぜなら既存の科学を、多くの人々が確信していて、変化させるには確信が多すぎるからです」

「だから、私たちは、証拠となるものが得られるように、ここで何かをやろうと挑んでいます。そして、それを科学の経験的側面から注意深く考えるのです」



直観とは何か?

「直観は、知見( knowing /ノウイング)の別の方法として提供されます」とカウツ博士は述べる。

「それはまた先天の知見とも呼ばれます」

「多くの人々は、直感的に情報を受信したとき、通常、すぐそれを拒否します。突然、真実の欠片が登場すると、うろたえてしまうのです。しかし、しばしば、それは真実です」

「あなたがたはそのようにして”知る”のです。これについては疑う余地がありません」

「直感とは何か? それは、人が直接的に知見を得るためにある人間の能力です。その場合、通常の意味での合理性や感覚、あるいは記憶を使わずに得るのです」

カウス博士に、この人間の直感というものはどこから来ているものなのかと尋ねた時、博士は次のように答えた。

「人間のやさしさはどこから来ましたか? それはあなたが生まれた時からあるものです。それと同様に、直感は人間として生まれた時からもたらされているものです」

カウツ博士は、科学者としてのキャリアをスタートさせた時点では「かなりストレート科学者」だったと、彼は言う。そこから博士は新しい地平、熟練した直感力へと導かれた。

熟練した直感を持つさまざまな人々との出会い、直感の科学のための場所を見つけるための探究に彼を導いた。

「というか、私は、直感で科学のための場所を見つけたということです」





(訳者注)この記事の中に出てくる、地震の前兆としての「高層大気の変化」については、2011年の東北の震災時や、今年のネパール大地震の際にも出現していました。そのことは、過去記事、

衝撃のデータ: 3月11日の地震の前に観測された日本上空の赤外線と電子量の急激な変化
 2011年05月20日

ネパール大地震での上層大気圏に変化から見る「地震の原因は宇宙にある」こと…
 2015年05月03日

などに記したことがあります。

今では、常に高層大気の状態がモニタリングされていて、大地震の前には、多くが赤外線や電子数に変化が起きることが明白になっているのですが、これが知られたのは、本当につい最近のことです。この予知方法が、カウス博士の 30年前の実験で、8名の「直感」として一致したということらしいですね。

今回の話の中には、直感が真実を物語ることに関して述べられているのですが、これは私から見ますと、「直感が真実を見出した」のではなく、

直感が新しい現実を造りだしているから、真実となって現れる

のだと思っています。

つまり、これからの科学は、「人間がいかにして世界を形作っているか」ということを研究する方向にシフトしていくといいなと思っています。

人間が物質に縛られて存在しているのではなく、「存在すべては、人間の意志の下にある」ことを明らかにする科学です。

そのような科学と医学になっていく日は遠くないはずです。



  

2015年07月17日



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2015年7月15日夜のギリシャ首都アテネ
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Daily Mail

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The Australian

ギリシャ議会でEUの救済案の原稿を破り捨てる議員
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Daily Mail






 




ギリシャの人々の「神性」が社会を創造の前段階へと駆り立てる

ギリシャの財政問題は何となく決着したかのようですが、首都のアテネでは、ロイター通信によれば、「この2年ほどで最も深刻な暴動」が起きています。

そして、ずいぶん以前から、他の国はともかく、「少なくともギリシャだけでは」強烈な変化が起きなければいけないと思っていました。

それは、現在の地球の文明の「発祥」というものと関係します。

私たちは、とても便利で快適な物質的文明の時代を生きてきました。

この文明には何の不満もないですし、楽しく楽で飢えることもないような時代を生きることができて、とても幸せに思っています。・・・しかし、そろそろ次の文明の時代になってもいいのかなとは思う部分もあります。

そして、その時代、すなわち「近い未来」は、物質的な文明ではなく、「精神的な文明であるべき」ならば、今の文明にはやや不要に思えるものがあります。

ギリシャという存在の問題は、今の私たちの生活を覆っている巨大だけれど「不要に思える」ものたちが「どこで始まったのか」ということと関係します。

たとえば、民主主義・・・というより「主義」という概念は、精神的文明には明らかに不要ですが、この「民主主義」といいうものの最初は?

あるいは、貨幣制度、西洋医学・・・。

あるいは、人間が戦いで優劣を決める(オリンピック)、多神教の神話・・・それらを初期の時代からおこなっていたのはどこか。

むかし、テレビで「まんがはじめて物語」というものがあったように記憶していますが、そのような調子で、「はじめて」を辿っていきますと、厳密な意味ではないものもあるとはいえ、そのどれもがギリシャに行き着く、ことに気づきます。

現代社会を形作っている基本的な概念の「始点として果たした役割」がギリシャにはあります。
ギリシャの変化を私が求めているのは、ここに理由があります。

作ったもの自らが、責任を持って《終了》させる」ということです。

始まりを築いたものが自らで「破壊(破壊は創造の母です)」しなければならないと思っているのです。

次の地球の文明に進むためにくぐらなければならない「門」は、ギリシャから始まる物質的文明の終焉の兆しにあるとさえ考えています。民主主義やギリシャ神話やオリンピックが、あっという間に世界中に広まったように、《その反対》も、ギリシャが「創造」してくれれば、あっという間に世界中に広まるかも知れません

世界中に広がれば、そうすれば、もともと精神性の高い生活をしていた日本人は、精神性を中心とした生活に移行しやすくなる気もします。

「古い価値観と新しい価値観の共存でもいいのでは?」という考えもあるかもしれませんが、しかし、ギリシャの生み出した数々の概念と文明はあまりにも偉大で、残っていては、それに頼り続けることになりそうです。なので、完全に破壊して、新たに創造する必要がありそうです。

新旧は共存はおそらくはできません。

ヨハネの黙示録に

「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」

というフレーズがありますが、望ましい変化はこれであって、共存の道はないように思います。




ギリシャにあった偉大な時間の概念

古代ギリシャには「ふたつの時間の観念」がありました。

クロノス時間とカイロス時間というふたつです。

クロノスは、現在でも使われている時計などで表すことのできる「いわゆる時間」の観念で、カイロスは、一般的な時間とはちがう「主体的な時間」を指します。

ということは、実際には「カイロス時間」には物理的な定義がないですので、「時間は存在しない」という意味にもなります。そういう観念を持っていたということは、古代ギリシャの人たちはきわめて精神的な存在でもあったといえます。

その中で、「物理的な文明発展」も進む中では、主体的な時間だけでは不都合で、それで、現在の「時間」となるクロノス時間というものが発明されたのかもしれません。

ちなみに、このふたつはなかなか覚えにくいですので、私は、「クロノスは苦労の巣」と覚えていますが、まあ、どうでもいいです(そうだな)。

語呂合わせの便利さはともかく、古代ギリシャ人たちは、物質的に生活するために必要なクロノス時間と共に、「真理から見た時間(存在しない時間)」という意味のカイロスのふたつの時間を使っていたという、すぐれた人々だったようですが、このカイロス時間というものは、その幅は、

決められていない点から、決められていない点までの無限

となっているわけで、つまり、カイロス時間から見れば、始点も終点もないといえるわけで、もっというと、

始点と終点はひとつである

という概念になるようにも思います。

ギリシャ文明にしても、その「始点」と「終点」は、カイロス時間の観点からは、実は同じだといえそうです。

「文明の誕生」と「文明の崩壊」は、まるで意味がちがうような響きですが、クロノス時間ではなく、カイロス時間で物事を考えると、「そのふたつは同じ」だということがわかります。

さきほど、聖書のヨハネの黙示録から引用しましたが、ヨハネの黙示録には、

「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである」

というフレーズもあります。

「初めであり終りである」というのは、カイロス時間の概念から見れば、特に不思議なことではなく、そういう意味では、聖書でこれを言っている存在は、精神的な文明の価値観に生きているということがいえそうです。

ギリシャの暴動にしても、これを肯定的にとらえれば、すぐれたギリシャの人たちは、「終点」から「始点」に戻り「ゼロの地点」に戻るべくして動いている。

理性だとかそういうものではなく、 深い精神レベルで突き動かされているようにも思います。

すぐれたギリシャの人たちなら、そんな大層で巨大な変革をいとも簡単になし得てしまえるはずです。
彼らは必ずできるはずです。




2008年以来のギリシャ暴動の特徴

ギリシャでは、この数年、何度も若者たちの激しい暴動が起きています。

2009年1月 アテネ
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クレアなひととき


2011年12月 アテネ
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public intelligence


2012年9月 アテネ
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American Front


このギリシャでの暴動は、他の国での若者の暴動とはちがい、特に若者たちは、むやみやたらに暴れているわけではありません。

たとえば、 2009年の暴動では、若者たちは SNS などを利用して、地図などの情報の共有や、「デモへの参加の際の持ち物」などの情報、たとえば下のような情報を共有していました。

・服装はバーカー(頭を守る、どこでも眠ることができる)
・リュック(水、食料、道具などは自分で持つ)
・ゴーグル(目の保護)と、口はタオルかバンダナで隠す
・用意できるならガスマスク(催涙弾に対応する)
・用意できるならヘルメット(頭部の保護のため)


上の写真を見ても、それらの情報が比較的共有されていることがおわかりかと思います。

つまり、「単なる不満の発散として暴れて破壊する」というものとは少しちがうのです。

2008年から断続的に続いている暴動は、意識的であるか無意識的であるかを別にしても、「目的意識」のようなものが感じられるのです。

その「目的」は何か?

それは実際には、いまだに当事者たちにもわかっていないでしょうが、非常にすぐれた民族であるギリシャの人たちは、いい加減、「物質に抑圧されている日々」はイヤなのかもしれないです。

神話と哲学と医学と数多くの思想と理想を作り出した、たぐい稀なる高貴な意志を持っていたギリシャの人々が、ATM の前にうなだれて並んでいる・・・。自分より上に「お金」が君臨する生活

心の本当の奥では、ギリシャの人たちがそんな生活を嬉しいと感じているとは思いません。

ちなみに、ヨーロッパで、毎年のように「ある程度秩序だった暴動」が起きているのはギリシャ以外ではあまり例がないような気がします。あるいは、他の国で暴動が起きた場合は「系統と秩序」というものがないため、長期間にわたったデモにはならない傾向があります。

フランスでもイギリスでもスペインでも散発的に暴動は起きますが、「短期間暴れて鎮圧されて終わり」という感じです。

ギリシャの場合は、若者たちに計画性と「持続させる意志」があるため、デモが何ヶ月も続くことがあります。

どうして、ギリシャだけがそうなのか。

ギリシャで暴動が多い理由は、一般的には「失業率が高い」などの経済的な理由が挙げられますが、数値だけ見れば、スペインやイタリアもそれほど差はないです。

unemploy-eu.jpg
blog.livedoor.jp/zzcj


上のグラフを見ると、最近では最大の暴動が発生した 2008年の12月の頃の若者の失業率は 30%以下で、現在のフランスあたりと差はありません。

このあたり、私は謎に思っていましたが、謎でも何でもないことだと気づきます。

ギリシャの人は、もはや地球の運命に逆らえるわけもなく、「古代ギリシャ以前」に、あるいは「カイロス時間の世界」に時計を戻そうとしている。

先に書きました、民主主義や、貨幣制度や、西洋医学、競技スポーツ、神話、あるいは、哲学もギリシャが発祥っぽいですが、そういうものは、人間本来の生活には不要なはずです。

「哲学」は意外と思われるかもしれないですが、人間が「真理を知った」場合ですが、「真理」には「解釈」というものが存在しないですので、哲学で解明する意味はないということになり、不要になるはずです。

いずれにしても、きわめてすぐれた文化と文明を地球にもたらしてくれたギリシャ人たちが本人たちの中の隠された霊性で、「ゼロの地点」にまで戻してくれようとしている。

そして、私たち日本人も「ゼロの地点」に戻ってみたい気もするわけで、私たちは、このギリシャの状況を見続けるべきだと思います。

ところで、先ほど、

> 自分より上に「お金」が君臨する生活

書きましたが、これは今ではどこでも同じです。

そして、日本人にしても、本当に「お金が自分よりえらい」なんて生活は楽しくは感じていないはずです。楽しく感じていないものは、誰がどういっても、いつか破綻して、消滅します

日本にしても、ほんの千数百年くらい前ですかね。それくらいまではなかったのですから。

稲作や酒造りや家屋作りはそれよりずっと昔からありましたけど、貨幣なんて何万年も、あるいは何十万年も人間の生活になかったんですから、必要ないということは歴史から見ても明白なわけで。

ちなみに、頻繁に貨幣を使うようになった最初は古代ギリシャかもしれないですが、「本当の最初」は、メソポタミア文明で生まれたのだそうです。




北緯33度線で生まれたものもまた北緯33度に消えていくか

世界で最初の硬貨とは?というページには、

世界で最初に貨幣(硬貨)が使われたのはいつか? どこの誰が作ったのか?……これは今のところ正確にはわかっていません。しかし、硬貨について書かれた最も古い記録といわれるのは、今から4500年も前の古代メソポタミアのものです。
とあります。

その「最初に貨幣制度が作られた」古代メソポタミアの位置は、北緯 33度線上にあります。

古代メソポタミア
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今このあたりは別の意味でも騒がしいです。

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・過去記事「中東のカオスと英国エコノミスト誌の表紙を見て…」より。


貨幣制度も IS も、どちらも 33度線絡みで「発祥」したようです。

アメリカ南北戦争時の南部連合のトップで、フリーメーソンの最高位である 33位のアルバート・パイク将軍は、1871年に書いた手紙に、


第三次世界大戦は、政治的シオニストとイスラム世界の指導者たちとの間で、「エージェント」と「イルミナティ」によって引き起こされる両者の意見の相違を利用することによって助長されなければならない。

戦争はイスラムと、政治的シオニズムが相互に破壊し合うような方法で行われなければならない。



と書いたそうですが、33度線はそういうたぐいの最前線でもあります。

そもそも、このアメリカの「南北戦争」自体が「 33度線での戦闘だった」ことにも気づきます。

下に地図を並べました。


南北戦争(推定死者数63万人)と北緯33度線

北米の北緯33度線
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過去記事


アメリカ南北戦争(1861〜1865年)の対立図
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南北戦争が起きたのは、何で?



33度線から始まった「貨幣制度」だとか、33度線から次々と生まれでる「戦争」だとかは、また33度線の地中深くに戻っていってほしいところではあります。

しかし、それはともかく、ギリシャは、クロノス時間からカイロス時間の中へと「異次元の旅」に入ろうとしているように見えます。

こうなったら、世界の混乱も上等ではあります。




創造の手前のターンで

私たちは今、世界の破壊のターンを見て、その中に生きています。

混乱するかもしれません。

しかし、どんなに世の中が混乱しても、「創造のため」にこの世にいる人たちには大丈夫です。

私のような破壊サイドは、古い地球と共に消滅していくのが理想なわけですが、その他の人々は、新しい地球の中で積極的に、その変化に対応して順応して、変化を完成させていきます。

そういう時まで待てばいいのだと思います。

それまでは、映画『ファイト・クラブ』の台詞、

「これからはすべてよくなる」

と飽きるほど唱えてみるとか。

fight-club-yokunaru2.jpg
・映画『ファイト・クラブ』(1999年)


日本はどうするかも考えてみたり。

「どうなる」ではなく、「どうするかと。

大自然も人間の生活もすべてに変化は襲いかかるはずです。
その中でこそ、「これからはすべてよくなる」と考えてみる。

ギリシャもよくなる。

日本もよくなる。

ベランダのトマトの実もよくなる(意味がちがうわ)。

ところで、ウェブボットのクリフ・ハイは、6年前のエッセイで、カイロス時間のことについてふれています。私は、このエッセイで初めて「クロノスとカイロス」という言葉を知りました。

今回はそのエッセイを締めとしたいと思います。




ウェブボット ALTA1309 パート4
2009年4月4日配信

「いま」という瞬間に生きるとはどういうことであろうか? それは時間が「いま」という一瞬に圧縮されることを意味している。確かに、時計が刻む時間は物理的に一定でありこれが変化することはないかもしれない。だが、われわれが生きる一瞬一瞬の時間の質が最近まったく変化してきていることに気づいているだろうか?

いま一瞬の時間は、われわれがかつて経験したことがないほど濃密になり、圧縮されたものとなってきている。この時間の圧縮は、経済や社会、そして地球が変化するにつれ、これから数年間で本格的になると私は考えている。

このような時間の圧縮の体験から、われわれ一人一人が太陽系と変化の瞬間を共有し、また銀河系とも共有していることが実感として分かるはずである。時間の圧縮体験はミクロとマクロで人間に大きな影響を与えるはずなのだ。

古代ギリシャでは時計が刻む日常的な時間の「クロノス」と、なにか特別なことが起こる「カイロス」という2つの時間概念をもっていた。

いまわれわれすべてが「カイロス」の時間をともに生きることになる。おそらくこれは可能性の高い予測として成立するだろう。これは人間自身が望んだものではなく、宇宙が人間に経験することを迫っているものなのだ。





ここまでです。

昔から好きなエッセイですが、6年前には気づかなかったこととして、ここで、クリフ・ハイは、

> これは人間自身が望んだものではなく、宇宙が人間に経験することを迫っている

とありますが、これは、逆だと思っています。

> われわれすべてが「カイロス」の時間をともに生きることになる

ことを望んでいるのは、明らかに、私たち人間自身だと思います。だから、そのようになるのだと。

望めば、何もかも手にすることができるはずです。



  

2015年07月14日



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La-voie-lactee.jpg
・ルイス・ブニュエル『銀河』(1968年)より。






 


今回のタイトルの「神々への宣戦布告」は、最近、私は歩いている時などに常にそのフレーズが頭に浮かび続けていまして、しかし、「それがどういう意味かいまだに曖昧にしかわからない」のです。ということもあり、そのことは具体的に書ける段階ではないです。

それでも、必ずこのタイトルの記事をいつかは書くことになると思いますので、プロローグとしてタイトルに文字として入れさせていただきました。

ちなみに、ここでいう「神々」とは、絶対の存在の単数の「神」ではなく、複数形の「神々」です。
絶対の存在「以外」の神たちのことです。

それが、未来の新しい地球の創造(破壊)のターンでは不要なもの、だということなのですが、まだぼんやりとした姿しか出てきません。

しかし、このことは、私たちを「不自由」の中に縛りつけているさまざまな存在からの解放を意味するということはわかるわけで、真剣に考えなければならないことだと思います。

いろいろと考えているうちに、気づいたら、全然関係ないことなどをつらつらと書いていました。

単なる雑記となってしまいましたが、すみません。

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『美しき緑の星』から流れ着いた「神学カオス」

1996年のフランス映画『美しき緑の星』の監督は、この映画の主演もしていたコリーヌ・セローさんという女性なんですが、掲示板でかって、このコリーヌ・セロー監督の『サン・ジャックへの道』という映画が面白いと教えていただいたことがありました(なお、掲示板は現在は書き込みはできませんが、過去ログはすべて読める状態にしています。パスワードは indeep です。)

『サン・ジャックへの道』は 2005年の映画で、彼女の作品ではもっとも新しいものです。

『美しき緑の星』を監督中のコリーヌ・セローさん
Coline-Serreau1.jpg
pinterest


『サン・ジャックへの道』の日本語の解説はこちらの公式サイトにありますが、まあ、これも『美しき緑の星』と同様、「人々が愛への覚醒」を達成する映画で、人種差別主義者や不仲の兄弟、アル中男性などが、様々な事情により、聖地サンティアゴに巡礼することになり、さまざまなドタバタの中で、ひとりひとりに「真の人間性」が芽生えてくるというような映画です。

特に後半、唐突に映画は面白くなり、『美しき緑の星』を見た後と同じような、一種の「達成感」を感じる映画です。

それで、まあ、この映画は良い映画だったのですが、これを見た後、

「むかし、やっばり、聖地サンティアゴに巡礼するフランス映画を見たなあ」

と思い出していましたら、

「わかった。ルイス・ブニュエルの『銀河』だ」

と思い出しました。

ただ、この『銀河』という映画は、二十数年くらい前に1度だけビデオで見ただけで、しかも、酔っぱらって見ていたので、どんな話だか覚えていません。

それで、手に入れることにしまして、Amazon で購入したのですが(なんと DVD と間違えて VHS を購入するというのをやっちゃいました)、再度見まして、

「こんな面白い映画の内容を忘れていたのか、オレは」

と、やや後悔と反省が入り交じることになりましたけれど、逆にいうと、『美しき緑の星』→『サン・ジャックへの道』という流れで、何十年ぶりかに見ることができたのですから、幸いだったかもしれません。

私は、この世で最も好きな映画は、このルイス・ブニュエル監督の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』という 1972年の映画で、ビデオを含めて、20代の頃から今まで 1000回以上は見ていると思います。

そして、この『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』というのがどんな映画かというと、本当に説明しようもない、わりと何も起きない映画です。ストーリーも説明しようがないのですが、

人の夢と夢が交錯しているうちにどれが現実かわからなくなる

というのと、

食事を始めようとすると、いろいろな理由で食事が始まらない

ということがテーマというのか何というのか、そういう映画ですが、『サン・ジャックへの道』からの連想で見直した、そのルイス・ブニュエル監督の『銀河』という映画(タイトルの由来は、サン・ジャックへの巡礼の方向が天の川銀河の回転の進行方向に沿っているため)は、これも説明が難しいストーリーですが、オール・シネマから解説をお借りしますと、


銀河(1968年)

聖地サンチャゴを目指す巡礼者二人、ピエールとジャン。かつて、ヨーロッパ北部から見てスペインに向かうその道は銀河をたどるのにも例えられた。

現代のパリからこのサンチャックの道を往く彼らを待ち受けるのは、時代を超越した異教徒の群れ、邪宗の誘惑(サド侯爵も登場)。

その上、いよいよ聖地も近い森の中で出会ったキリストは“暴力の必要性”を称える有り様。ブニュエル流の破天荒な展開が刺激的な反神論は、その俗なる激しさにおいて、どこか聖性を帯びてもいるのだ。



この解説には、ややちがうところがありまして、まず、「反神論」とありますが、この映画は、反神論とか反キリストの内容ではありません。

そうではなく、「神学」と「キリスト教」についての、ありとあらゆる概念をぶちこめているので、「神学のカオス」となっているのです。

反神論者や異端者たちもたくさん出てきますが、真摯な神父たちや、キリストの魂の救済や、マリア様との出会いに改心する反神論者たちなど、いろいろな人たちが出ます。

それと、先ほどの解説には、

> キリストは“暴力の必要性”を称える有り様

とありますが、ここもやや映画の意味を間違ってとらえられかねない部分ですので、補筆しておきますと、解説で、「暴力の必要性」とされている、映画の中でキリストが言っている部分は、聖書の一節そのものです。

新約聖書『マタイによる福音書』にある部分です。


マタイによる福音書/ 10章 34-39節

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」



映画『銀河』で、イエス・キリストは、これを語っています。
下がそのシーンで、左から3番目がイエス・キリストです。

Matthew-10-34.jpg
・『銀河』


ちなみに、『マタイによる福音書』のこの部分の肝は、

> 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

にあるのだと思っています。

この部分の意味を正確に理解できれば、最近書いています「死を恐れないこと」に向かえると思っているのですが、どう理解しますかね。

ところで、なぜ、この『銀河』の上のシーンを見た瞬間に、このフレーズが聖書の言葉だとわかったかというと、実は私は、この「マタイによる福音書/ 10章 34-39節」を、聖書のことなどまったく知らなかった 20代のはじめのころから知っていたのでした。




座右の銘が「我が持ち来たれるは平和にあらずして刃なり」だった頃

当時、家にはテレビはなかったのですが、誰かのうちに行ったか何かの時に、その部屋で1人になった際に、ボーッと見ていたテレビで、ビートたけしさん主演の『イエスの方舟』という単発のドラマが始まりました。

最初はボーッと見ていたんですが、次第に、

「おもしろーい」

と感じだして、ちゃんと座って真剣に最後まで見たことを思い出します。

ついでに、録画もしまして、その後も繰り返し見ていました。

TBSチャンネル - イエスの方舟によりますと 1985年ということですので、30年前ですね。この年の文化庁芸術祭芸術作品賞というのを受賞しているようです。

これは、イエスの方舟事件の真実を描いたものでしたが、このドラマは本当にいろいろと考えさせてくれました。

人生であまりテレビドラマを多く見たわけではないですのでアレですが、自分の人生で見たテレビドラマの中で最も面白かったと思います。

この『イエスの方舟』の中で、「マタイによる福音書/ 10章 34-39節」のフレーズが出てくるのです。

Matthew-sengoku.jpg
・TBS『イエスの方舟』


このシーンが何となくよかったこともあり、私はこの部分が気に入りまして、暗記までしてしまいまして、その直後に行った舞台の脚本の中でも使ったくらいでした。

その後もこのフレーズは好きなままで、「我が持ち来たれるは平和にあらずして刃なり」と、ひとりごとを言いながら歩いていることもありました。

自分が「破壊のために生まれた」ということに気づいたのは最近ですが、その気持ちの代弁の台詞というような意味もあったような気もします。

それはともかく、このドラマを見るまで、私は「イエスの方舟事件」というと、何となくカルト的なイメージを持っていたりしたのですが、全然そうではなく、

「本当に聖書に導かれた(あるいはそう信じる)ひとりの男性」

が、

「人々の心を救済しているうちに、事件としてまつりあげられてしまった」

というのが実相でした。

「満たされない心を満たしてくれる存在」というものがこの事件の主軸だったようです。

実際、千石イエスが、ついてきた人々の心を救済していたことがうかがえるのは、イエスの方舟事件 - Wikipediaに、事件の騒動が沈静した後、

> 千石と行動を共にした信者には、一時家庭に戻ったものの、そのほとんどは千石を追って共同生活を再開した。

とあるように(テレビドラマでは 「全員」が戻ったと説明されています)、おそらくは、女性たちにとって、彼女たちの心を「救済してくれる人」は、神々でも宗教でも聖書でもなく、「人間」の千石イエスだけだったのだと思われます。

sengoku-2.jpg
・TBS『イエスの方舟』


「聖書」だけが彼女たちを救ってくれるのでしたら、聖書を読んで1人で生活していても救済はなされるはずですが、そうではなかったと。




自由の幻想

話が逸れましたが、イエス・キリストも多くの人の心や魂を救済したと思うのですが、ルイス・ブニュエルの映画『銀河』でも、イエス・キリストとマリア様が、多くの人びとの心を救済する様子が次々と描かれます。

ただ、ブニュエル監督は、イエス・キリストの愛については肯定的な感じですが、「教会」とか「宗教的制度」に対しては容赦ない攻撃を「笑い」と共に展開しています。

下のシーンは、何の宗派かわかりませんが、キリスト教系の小学校で、壇上で、その宗派の教義に反することを言う者には、「呪いあれ」と生徒たちに言わせるシーンで、そのこと自体もなかなかシュールな笑いとして成立していますが、それ以外に興味深い概念が含まれるシーンが描かれています。

ルイス・ブニュエル『銀河』(1968年)より



ここには、

《特報》「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認
 2015年06月06日

とか、あるいは自プちゃん(自称プレアデス人の最近の略称です)などが語る、

「現実は私たち自身の考えにより創造されている」

というような、最近のブログの記事のテーマになることもある概念の表現が含まれています。

冒頭に貼った「ローマ法王の暗殺シーン」は、巡礼者の頭の中での想像なのですが、その「想像の銃声」が、「現実にとなりの人に聞こえる」という光景が描かれています。

ブニュエル監督の、この「存在しないもの同士がつながり合っていく」という描写はいろいろな映画で見られますが、同じブニュエル監督の『自由の幻想』(1974年)という映画などは、もうやりたい放題で、この映画のストーリーを書くことは無理ですが、こちらのページの解説的なブログ記事にある、

> 価値観、道徳など規則的なことを無視して何でも自由に考えると、本当に錯乱してしまう世界が誕生してしまう事をこの映画で見事に表現している

というようなものです。

しかし、決して「芸術映画」ではないのです。
完全な「娯楽映画」なわけで、だからすごいと思います。

思えば、ブニュエル監督を知ったのは、映画『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』ですが、これも、実家に帰省していた時に、偶然見ていたテレビ( NHK 教育)でやっていたものです。

フランス映画なんて、私は興味なかったですから、その偶然がなければ、見ていなかったと思います。

『イエスの方舟』も、埴谷雄高さんの『死霊の世界』もそうですけど、こう考えると、人生で「テレビの偶然」は多いですね。いつもテレビを見ていたなら偶然とはいえないでしょうが、私は、20代はテレビを持っていませんでしたし、 30代もほとんど見ませんでした。

30代でテレビをつけるのは、日本では、毎週月曜日の午後に放映されていたアメリカのプロレス団体 WWF (現 WWE)の RAW という番組を見る時だけでした。

ストーン・コールド・スティーブ・オースティン大師というプロレスラーに浸水していました(浸水してどうする)。心酔していました。


まあ、何だかよくわからない雑記となってしまいましたが、絶対的存在としての「神」の概念は難しいです。

しかし、「絶対」ではない神、すなわち「神々」というように、複数形のものならば、これから新しい時代に進む中で、造り替えなければならない存在だと感じています。

しかし、最初にも書きましたが、その具体的な意味も、どういうことを自分が考えようとしているのかも今はわかりません。



  

2015年05月26日



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周波数と形の相似
solfeggioo-top.jpg
The Miracle of 528 Hz Solfeggio & Fibonacci Numbers






 



今朝、うちの子どもを起こすために何度か声をかけた後に、子どもが、何だか釈然としない、という様相で起きてきて、怪訝な顔をして周囲を見回しています。

子ども 「あ、そうか。今起きたのか」
わたし 「どしたの?」
子ども 「いや、さっき一度起きたのに、なんで起きているのに、起こされてるのかなと思ったら、そこで目がさめて、本当に起きたのは今だったって気づいた」
わたし 「ああ、夢の中で起きちゃったのね。大人になるとよくあるよ」
子ども 「おとうさんもある?」
わたし 「おとーさんはそんなもんじゃないよ。起きたと思ったら、それが夢の中だったことに気づいて、その後、道を歩いていて、『不思議な夢だったなあ』と考えていたら、そこでまた目がさめたこともある」
子ども 「2回とも夢の中だったの?」
わたし 「・・・と思ったら、また目覚めたりする」
子ども 「なんだかよくわからない」
わたし 「・・・と思ったら、それも夢だったりする・・・ことが大人になると、よくあるよ」
子ども 「ふーん」


この「夢の中で何度目覚めても、現実の目覚めに辿り着かない」というのは、最近は非常に減りましたけれど、以前はよくあることでした。

特に、金縛りというのとは違うと思いますが、「目覚めているのに体が動かない」時などに、つまり、「まぶたを開けることができない」と思ってジタバタしても、まったく体が動かず、しかし、そのうち、フッと体が動いて、目を開けることができるのですが、

「それもまだ夢」

という、この繰り返しが延々と続くことはよくありました。

疲れた時に多かった気がしますので、疲労とか睡眠の質とかが関係しているのだと思います。


ところで、先日の記事、

「恐怖からの解放」についてのメモ(2):現在の地球の人間は何によってコントロールされているのか
 2015年05月25日

では、「他の星の人」の主張としての、この地球の支配構造について、少し書いたのですけれど、実は、その本でやや驚いたのは、そのことではなかったのでした。




「みずがめ座の時代」の概念を知ってから6年経ち

この「他の星の人」というのは、いわゆるプレアデスという星の人なんですが、私は、これまで、プレアデスだとかシリウスだとかの語感はどうにもスビリチュアル過ぎるイメージがあって、何となく近づかなかったですし、興味も湧いたことはあまりありませんでした。

何となく胡散臭い響きのほうが強い。

「大体、そんな遠いところから物理的に地球に来られないし」

とも思っていたのですが(プレアデス星団やその近辺の惑星は、地球から、光の速さで 400年以上かかる距離です)、これに関しては、最近考え方が変わりまして、例えば、過去記事の、

多くの人類の松果体が破壊されようとしている現在に考える「多次元宇宙空間を理解する将来のために松果体を守るべき」時代
 2015年02月22日

などでも書きましたが、

「この宇宙が、多次元宇宙やパラレル・ユニヴァース(平行宇宙)であるとした場合」

は、移動の問題はあまり重要ではなくなることに気づきました。

そして、宇宙が多次元であることや、あるいは無数の平行宇宙が存在していることについては、今では科学的な側面からも、ほとんど否定できなくなっている部分もあるわけで、今後、「宇宙人」とか野口晴哉さんといった概念を考える場合は(野口晴哉さんは関係ないだろ)、何よりも最初に、

多次元宇宙

ということを念頭に置いて、初めて遠い宇宙の存在との接触ということを考えることが可能になるのだと思われます。

それはともかくとして、昨日の記事で抜粋した本は、バーバラ・マーシニアックという人による『プレアデス+かく語りき―地球30万年の夜明け』という本でした。

英語の原題は「 BRINGERS OF THE DAWN 」(夜明けを運ぶ者たち)ですので、語感としてはかなり違う感じもあります。

それで、ザーッと読んでいたのですが、このような本の内容の真偽ということはともかくとして、

「ああ、この本を知るのはタイミング的には今でよかったんだなあ」

と思いました。

なぜかといいますと、この本の中には、

「音」(周波数)は世界のすべてを根本から変えられる

ことや、あるいは、以前たまにテーマにしていました、

男性性社会と女性性社会

についてもかなり長く書かれているのでした。

現在の男性主導型の地球が、今後どのようになっていくかを語っているのです。

このことは、以前の私はずいぶんとよく考えていたものでした。

私がこの「男性性社会と女性性社会」ということを唐突に考えるようになったのは、2011年3月11日の震災の直後でした。

最初に記事にしたのは、震災1週間後の、

人類の大きな希望 : 女性「性」の文明
 2011年03月19日

というものだったと記憶しています。

震災の被災者の方々の姿を拝見しているうちに、

「人間は宇宙の記憶から独立した優れた生き物だ」

ということに気づき、「人類は最強生命」論に突然傾きました。

結局、最近書いているような、野口晴哉さんとか、ヒポクラテスとか、ナイチンゲールや安保徹さんの言うような、「人間は完全な免疫能力を持っている」というようなことも、その「人間が最強である」部分であるわけで、4年前に書いていたことと、それらが結びついていることだとは今まで気づいていませんでした。

「そんなことに気づかないようでは少し困りますね」と野口晴哉さんに言われるかもしれないですが、人間最強生命論はともかく、「女性性の社会」というのは、たとえば、みずがめ座の時代という概念とも多少関係します。

この「みずがめ座の時代」というのは、いわゆる「ニューエイジ」という言葉と繋がっているそうなんですが、私は 2009年頃まで、どちらも聞いたことさえなかったのです。

2009年に、ウェブボットのクリフ・ハイのエッセイで初めて知りました。

私たちに残されたかすかな「破局の回避」の可能性のために(2):平衡を失ったこの魚座の世界のどこかにあるはずの「みずがめ座への意識」
 2013年04月05日

という記事に抜粋したことがあります。


ALTA レポート 1109 パート1 巻末エッセイ
ウェブボット 2009年1月31日

さまざまな人類が住む宇宙はエネルギーの渦が幾重にも重なる円環として見える。当然、われわれの地球もこうした渦を巻くエネルギー場の一つだ。そのエネルギー場は、生命のあるもの、 また、生命のないものそれぞれの小さなエネルギーの渦が織りなす複雑な構造をなしている。

変容はこうした構造で起こる。

変容は人類が生存している宇宙全体で起こっていることだ。その視点からみると一つ一つの惑星は渦を巻くエネルギーの場であり、そこで変容が起こることは花弁が一つずつ分かれて分離するようなイメージでとらえることができる。

実際の変容の過程は、民衆がこれまでの社会の組織や権力に離反し反逆するという形で現われる。変容に抵抗する人々は多く存在する。

次の時代はみずがめ座の時代である。

この星座は水の星座である。したがって、どんなに抵抗する力が強くても、うお座の父権的な組織の崩壊は水と女性的なエネルギーを通して行われるはずだ。



ここには、

・現在の「父権的」な世の中のシステムは崩壊する
・そしてその崩壊は、「女性的なエネルギー」を通して行われる


というようなことが書かれてあります。

そして、私も、その頃から、そうなる時期はわからないながらも、おそらくは、地球は段階的に、女性「性」的なエネルギーが中心の社会となっていくのだろう、と考えていました。

ちなみに、ここでいう「女性性的なエネルギーが中心」というのは、間違っても、今の世の中でいう「女性がたくさん政治家になったり、会社の女性社長や女性役員が増えたり」といったことではなく、そういうこととは、まったく何の関係もないことで、むしろ全然真逆の話です。

「女性政治家や女性首相が増えたり、会社の女性社長や女性役員が増えたり」というのは、典型的な男性型エネルギーの社会の光景です。

「女性性的なエネルギー」というのは、そういう政治だとか企業だとかの概念自体を考えることのない新しい社会へのエネルギーの方向の話です。

でまあ、そのことについても、先ほどの『プレアデス 語りき』には、かなりのスペースを割いて書かれてあったのですね。

プレアデスの人の言うには、女性エネルギー(周波数)が中心の社会ということよりも、

「 5000年前に分裂させられてしまった男性と女性がふたたび統一される」

というような表現をしていました。

男性も女性も、その本来のお互いの意味を取り違えて(そう考えさせるように仕向けられてきた)、この数千年を生きてきていたようなんですね。

いずれにしても、男性「性」と女性「性」が理想的な統一を遂げるというような意味のことを言っていたのだと思います。

また、プレアデスの人は「性意識」、平たくいえば、セックスについても長く持論を述べています。

このプレアデスの人の言う「未来の男性と女性の姿」は大変に面白いものですので、もう少しいろいろと調べてから、記事にしたいと思っています。

さて、さきほど、

「ああ、この本を知るのはタイミング的には今でよかったんだなあ」

と書きましたが、何がいいタイミングだったかというと、「音(周波数)と世界」の関係について、長く語られているのです。私が「音と世界の関係」を知ったのは、つい最近のことです。

「世界は音で作られているのかもしれない」

と初めて思った、あるいは気づいたのは、『ウォーター・サウンド・イメージ』という本を読んだことによるものなのですが、それと同時に 432Hz 調律のことなど知ったりした頃に書きました、

この世の存在は「音そのもの」であるかもしれないことに確信を持てそうな春の夜
 2015年03月22日

という記事の頃でした。

432Hz と 440Hz の音で水に出現する紋様
432-440-05.gif
Collective Evolution

この「音が世界を作る」ことが、『プレアデス かく語りき』には、明確に、それもかなりのスペースを割いて書かれてあるのでした。

これは、私が、音(周波数)が世界を作っているかもしれない、ということを知らなければ、話がまったくわからなかったはずですが、「音と世界の関係」が、今まで思っていたものとは違ったことが理解され始めた時だっただけに、このプレアデスの人の言葉はそれなりに納得できるものでした。

たとえば、その「今まで思っていたものとは違った」のは、

世界ができて音(周波数)が生まれた

のではなく、

音(周波数)があって世界が生まれた(かもしれない)

ということなどです。




「音」は世界も人間もすべてを変えられる

音に関しての記述は長いですが、下の引用だけでも、多少は、書かれてあることがわかるかと思います。ここには音が世界を形作ることだけではなく、周波数が、身体に影響を与えることも書かれてあります。

たとえば 432Hz の調律などを思い出すと、周波数と人間の身体の関係が非常に密接であることなども思い出せるかと思います。


『プレアデス かく語りき』 第18章 意識の交響曲 より

音が自らを絵に描くという表現も存在します。あなた方も手や身体を動かすとき、音の動きと音の言語を感じます。

音が自らを表現するのを感じることによって、音によるコミュニケーションの豊かさを感じ、すべてのものが、いかに多次元的であるかを感じるのです。音には独自の言語があり、独自のかたちがあります。

音は一定の周波数をもっていて、身体はそれを感じとります。身体は周波数の受容性に反応するように仕かけられています。ベートーベンやモーツァルトのような偉大な音楽家は、安定した性質の情報をもたらすようにコードされていました。

というのは、彼らは地球全体が大きな闇に覆われていたときに音のハーモニックスを受けとったからです。人類の心にある種の記憶を保っておくために、音の低い周波数がこれらの音楽家たちの心で翻訳されたのです。

音は進化するでしょう。

いま、人間はある波長に合わせて声を出すことによって音楽を出す楽器になることができます。人間は、フルート、ピアノ、ハープ、オーボエ、チューバになります。

人間はエネルギーが身体を使って、さまざまな音を出すことを許し、その音を自分でコントロールしたり、音域のコントロールをすることもありません。神が演奏し、人間は皆で一緒に演奏する交響曲を聞いている人々を観察すればよいのです。それはきわめて深遠な経験です。

これらのハーモニックスは、信じられないようなかたちで活用することが可能です。というのは、ハーモニックスは、数多くのことを進化させることができるからです。



とあり、それは人間をどの程度変化させるかというと、


あなたが音によって何を達成しようと意図するかが、もっとも大切なことになるでしょう。もしも、あなたが自分の意図に関して明確でないと、音は自らを包み込んで、本来の能力を超えて成長するという可能性があります。

音は、それ自体がもっている力によって、自分自身を倍にし、さらに四倍にもすることが可能です。音によって何を達成しようと意図するかがきわめて重要です。



のように、

> 自分自身を倍にし、さらに四倍にもする

というようなことが書かれてあったりしますが、何が4倍になるんでしょうか。
体重でしょうか(怖いわ)。

さらに、たとえば「訓練された音」で何ができるかというと、「何でもできる」ということも述べています。

例として、下のようなことを言っています。


原住民の踊り、ラトリング(早口で声を出すこと)、身を震わせたり、サークルを描いて移動する行為は、この波のエネルギーを作り出します。輪になって一緒に音を出したり、光の柱のまわりで音を出すと、あなた方は創造もできないようなことが可能なエネルギーの柱を作ることができます。

それは爆発を引き起こすこともでき、多くの現実を破壊したり、創造することができます。



このプレアデスの人の言葉を野口晴哉さんが聞いたら、「そんなに簡単に爆発を起こされては少し困りますね」と言う気もしました。

最近は、道を歩いていて、「振り返ると、そこに野口晴哉さんが立っていたらどうしよう」という強迫観念が消えません(形而上的な強迫観念かよ)。

野口晴哉さん(1911-1976年)
noguchi-haruchija-02.jpg
野口晴哉公式サイト




ロシア宇宙主義の理想ととプレアデスの理想

それにしても、さらに思うのは、さきほどリンクしました過去記事「私たちに残されたかすかな「破局の回避」の可能性のために(2)」の中に、アレクサンドル・チジェフスキー博士(1897 - 1964年)などの、20世紀初頭のロシアの科学者たちが展開した哲学と自然科学を融合させたロシア宇宙主義について書いたことがあります。

そのロシア宇宙主義の概念の「地球の人間が目指す理想」が、プレアデスの人が言うところの「地球の人間の理想」と、よく似ていることに気づきます。

このロシア宇宙主義の科学者たちが到達を目指していた最終目標の中には、以下のようなものがありました。

・宇宙の現象と人類の感情の関係を物理的に把握すること
・精神的社会の意識での新しいタイプの社会組織を作ること
・生きている人間も死んだ人間もこれから生まれてくる人間もつながっていることを把握すること


これを平易にあらわしますと、

・人間と宇宙がつながっていることを科学的に把握する
・新しい意識での人間社会を作る
・輪廻転生を科学的に把握する


ということになると思うのですが、これはプレアデスの人が言っている理想の地球の未来の光景とさほど変わらないような感じもしたのでした。

話が逸れてしまったかもしれないですが、プレアデスの人が、その真偽ともかくとして、「音の重要性」を熱く語っていたことがとても印象的でした。

ただ、あれなんですよ。

プレアデスの人は地球の人ではないですので、具体的な方法論への言及には乏しい面があります。

つまり、どうすれば具体的な音をそのように活用できるのか、ということです。

たとえば、音の調律を 440Hz ベースではなく、 432Hz ベースにする、とかそういう具体性、あるいは、どのような音色、音階、訓練、が必要かというような具体性については、あまり記されていない気もします。

この点において、宇宙人ではなく地球人であるシュタイナーは、もう少し具体的に「音の訓練」についてふれています。

ただ、シュタイナーの言うことは、宇宙人の言うことよりも難解ですが。




実は難解な音の意味

シュタイナーの本で、音楽と音楽教育について書かれた『音楽の本質と人間の音体験』という著作があります。

これはですね、少なくとも私が持っているシュタイナーの本の中で、最も難解で、もうまったくわからないものの筆頭となっています。

たとえば、ちょっと適当に書き出します。


シュタイナー『音楽の本質と人間の音体験』 音楽教育の基礎 より

事物をありのままに受け入れると、「精神生活に関する古い伝統を受け入れると、いたるところで、人間の七重の本性について語られているのが見出される」と、いうことができます。

身体と心魂と精神のそれぞれが、さらに三つの部分に細分され、その九分節から七分節が導き出されました。

一、 物質体
二、 生命体
三、 感受体  四、 感受魂
        五、 悟性魂
七、 霊我   六、 意識魂
八、 生命霊
九、 霊人

六(意識魂)と七(霊我)は重なっており、三(感受体)と四(感受魂)は重なっています。こうして神智学では人間の七重の本性について語られているのです。

この本は、五度の時代にはけっして書かれなかったでしょう。五度の時代には、七つの音節のなかに惑星の数があり、十二の五度のなかに黄道十二宮の数があることによって、あらゆる霊的体験が与えられたからです。

人類進化は、ほかのなによりも音楽の生成のなかに明瞭に表現されています。ただ、概念を形成することは断念しなければなりません。既にいいましたように、概念によってはうまくいかないのです。



私には、この部分の、

> 人類進化は、ほかのなによりも音楽の生成のなかに明瞭に表現されています。

以外は、どこをどう読んでも、意味もわかりません。

つい、

「シュタイナー君、音楽の話をしたまえ、音楽の話を」

と言いたくなりますが、これが音楽の話なんですよ。

ただ、このシュタイナーの著作には、音階や年齢ごとの音楽教育について、細かく記されていて、人によっては役に立つものなのでしょう。

この優れた音楽教育の著述に、唯一の難点があるとすれば、「その内容がまるで理解できない」ということくらいでしょうか。




自力で辿り着くしかないという

まあしかし、結局、プレアデスの人の意見の示唆にしても、シュタイナーの難解な理論展開にしても「手助け」的なものではあっても、最終的には、自力で何とかしていかなければならないはずです。

その「強力な音のハーモニクス」を自分で生成するための手段も、あるいは、周波数を獲得する方法にしても、最後は自力で得なければならないのだと思います。

参考になるところでは、映画『美しき緑の星』の中で、唯一、「自力で覚醒」した人がいまして、その人などの変転は心の支えになりそうです。

その唯一の人は、「冷めた心」だった産婦人科医の奥さんです。

最初は、夫婦生活の心の営みが破綻した状態で登場し、産婦人科医の男性と、

医者 「どうして、僕と結婚したんだい?」
奥さん「お金のためだったわ」


というような絶望的な会話を交わしたりしていたような冷え切った人間関係と心の中で生きていた女性が、しだいに、自然の世界と、この地球の営みに「美しいもの」だけが見えてくる。

基本的には誰の援助もなく、「1人で」ランチの野菜の美しさに感動し、授乳している母ネコと子ネコたちの姿に感動し、どんどん彼女は変化していきます。場面はどれも大変に短いのでわかりにくいかもしれません。

そして、ついには冷えていた心が解け、旦那さんの産婦人科医を含めて、すべてを美しいものとして受け入れて、人生の再出発が始まるのです。

これを自力で達成した人は、映画では、彼女だけだと思います。

ラスト近く、捨て子の赤ちゃんを嬉しそうに抱きしめる彼女の姿が現れた時点で、この映画は完結したと思いました。

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・美しき緑の星

そして、多分、この奥さんは、宇宙人などと出会わなくても、自力で覚醒する道の上にいたのだということを描きたかったようにも思います。そういう意味で、この奥さんのエピソードは、自力で覚醒した地球人という意味で、『美しき緑の星』の裏のメインストーリーです。

私たちが参考にできることとしては、この奥さんが最初に「目覚めた」、ランチの時を真似して、キャベツを眺めてみるとか・・・。

しかし、居酒屋で千切りのキャベツを眺めていると、店主に「食べもせずに、キャベツを眺められていては少し困りますね」と言われて、まさか背後に野口さんが! と思わず振り返ると・・・。

何だかよくわからない締めとなってしまいましたが、とにかく今回は「音」について再認識したことについて書かせていだきました。



  

2015年05月25日



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Nuclear Receptor






 


私たちが見ているものはリアルか?

最近はフランス映画『美しき緑の星』のことにふれることも多かったんですが、それあたりから、それまで目にしても、さほど気にも留めなかった表現や言葉の中で、わりと引っ掛かってくるようになったものがいくつもあります。

たとえば下は、ある本からの引用で・・・まあ、タイトル名を書くと、語感から、スピ系っぽく見えたり、先行イメージとかがあるのもアレですので、本のタイトルは書かずに引用したいと思います。ちなみに、こちらの本です。

今から二十数年前に書かれたものだと思われます。


人間はエネルギーの読み取り方を学ばなければなりません。人間は、現実を知覚するのに、ただ、目と、耳と、鼻と、口といった感覚以外のものを使うことを学ばなければなりません。

前にもいいましたが、目、耳、鼻、口、感触は”現実を欺くもの”です。あなた方はこれらの感覚によって現実を知覚していると考えますが、実際には、これらの感覚は現実に対するあなた方の知覚を制限しています。

あなた方は、子どものときから、目、耳、鼻、口、感触にたよることによって体験を解釈するようにとの訓練を受けてきました。

いま、体験がいかなるものかを決定するのに、別なかたちの感覚に頼る必要が出てきたのです。あなた方がこれまで過小評価してきたのは感情という知覚です。

感情、それは、知っている自己であり、直感的な自己であり、霊的な自己ですが、地球にあっては周波数コントロールのために攪乱され、あなた方はそれを見失っています。

もしも、あなた方が自分自身の知識を発見し、自分自身の直感的な考え方を発見すれば、誰にもコントロールされることはありません。

何がコントロールされていて、何がコントロールされていないかはどうすれば分かるのでしょうか。地球上でマスターすべきあなた方の体験の一部は、それを学ぶことです。

あなたという存在のもっとも深い中心部に、何ものも揺るがすことのできない本質があって、あなたはそれを発見し、その本質に基づいて行動を開始できます。

生命を尊重することこそがその本質にほかなりません。”あなたはあなたに対して責任があります”。あなたの光を、あなたの肉体を、あなたの体験をあなたの能力の許すかぎり尊重すること、それはあなたに与えられた贈り物です。



私自身は、もともと他の星の人や、その交流などについてまったく興味がなかった人ですが、ここ数日、やや興味を持って読んでいます。

とはいえ、「外の声」は、それが真実であろうと真実でなかろうと、やはり自分の声ではなく、「外の声」ではあるわけで、全身全霊でこういうことに心を投じるのは良いことではないようにも思います。あくまで、「ある異星人の意見」として、軽めに受け取るのがよろしいかと。

さて、この人が言う「あなた方は」というのは、私たち地球の人間のことなんですが、この中に、

> 目、耳、鼻、口、感触は”現実を欺くもの”です。

とあります。

ややわかりにくいかと思いますが、これはどういう意味かというと、これを言っている人の主張によれば、以下のようなところが「その一部」です。


彼らはホログラフィの挿絵を作り、それは真に迫ったドラマそのものですが、それをポータルを通してあなた方の現実のなかに挿入するのです。これをやっている宇宙存在は何十万年も生きている存在であり、人類の周波数はコントロールされているために、人間を騙すことは彼らにとってはまったく簡単なことです。


ここに「ホログラフィ」(ホログラム)という言葉が出てきますが、このホログラフィーは、この人の主張によれば、


ホログラフィーの挿絵は、三次元の世界とまったく同じように見えます。それは作られた出来事であり、それをあなた方の現実に、現実のつづきであるかのように挿入します。それは見ている者の頭脳に影響をおよぼす目的で使われ、見分けるのはとても困難です。

これからの数年間、あなた方はこれを見分けるための練習をする機会を十分に与えられることになるでしょう。(略)

壮大な出来事の一部は本物ですが、一部はホログラフィーの挿絵で、人類の意識をコントロールしやすいように、一つの世界秩序に向けようとする意図でデザインされるでしょう。



この人の主張では、どうやら、この地球には、「見分けるのはとても困難」なリアルではない「像」が多く存在しているということになるようです。

ちなみに、この人は、「社会における究極の暴虐」として以下のように書いています。


社会における究極の暴虐は戒厳令による支配ではありません。意識を心理的に操作することによって支配することこそ究極の暴虐です。意識を心理的に操作して、現実を規定し、その現実のなかにいる存在は自分が檻のなかに閉じ込められていることすら気がつかないのです。


> その現実の中にいる存在は自分が檻のなかに閉じ込められていることすら気がつかない

というようなことになってくると、

「何がリアルなもので、何がリアルなものではないか」は、実はわからない

ということにもなりかねないのですが、しかし、考えてみれば、この「リアルとそうではないもの」については、昔からテーマとなりやすかったものでもありそうです。

私がとても感銘して、ブログのタイトルの由来にもなった、しりあがり寿さんの長編形而上ギャグ漫画『弥次喜多 in DEEP』のテーマも、途中からは、弥次さんと喜多さんが「存在から非存在」への歩みを始める中で、「何がリアルか?」ということが問答される難しい漫画になっていきます。

ホログラムに関して、科学的な話でいえば、過去記事の、

日本人科学者が「宇宙はホログラムである」ことを理論的に証明したその地球の中では…
 2013年12月16日

などでご紹介したことがありますが、「この世は投影されているホログラムに過ぎない」という学説が、科学誌ネイチャーでまともに取り上げたようなこともあり、科学の検証分野としてば「あり得る」ことになっているようです。

hologram-02.gif
nature / THP




恐怖によって支配する理由と「支配される」理由

どうして、唐突にこんなことを考えているかといいますと、先日の記事、

人工の黙示録 :「奇妙な音(アポカリプティック・サウンド)」は確かに鳴っている・・・ただし「意図的である可能性」が急浮上中
 2015年05月23日

を書いた後、何となく釈然としないというか、悶々とした気分が続いたのですね。

それは、この記事やその内容に対してということではなく、「今まで生きてきた社会や、自分を取り囲んでいた人生のメカニズム全般」に対して、「何となく釈然としない」という悶々とした気分が続いていました。

今の世の中はいろいろなことが起きていますが、その中の「何がリアル?」ということも、私たちが五感などの「感覚」に頼っているうちは、その判断は難しいのかなあと。

さきほどの引用から抜粋すれば、

> 人間は、現実を知覚するのに、ただ、目と、耳と、鼻と、口といった感覚以外のものを使うことを学ばなければなりません。

という部分ですね。

先日の「奇妙な音」の記事では、それらの音が「恐怖の感情と関係している」というようなことも書いたのですけれど、

「地球上での恐怖と恐怖心」

というキーワードについて、先ほどの地球人ではないとされる方は、以下のように述べていました。


地球において、恐怖の周波数が減少しはじめると、さまざまな宣伝が行われて恐怖心が増大されることになります。

それは、恐怖の周波数によって滋養をとっている存在たちが食べ物を失うことになるからです。彼らの食べ物を新しい愛の周波数に切り替える前に、恐怖の周波数を強化しようとすることでしょう。

彼らは、地球上で感情的な混乱を宣伝し、拡大するためのさまざまな装置を地球に埋め込んであります。感情的な混乱は彼らのところに送られ、それによって彼らは滋養を与えられます。



ということで、よくはわからないですが、「人間の恐怖(の周波数)を食べている」ような存在がいるようで、人間から恐怖が消えると、その存在たちの「食べるものがなくなっちゃう」(苦笑)ということで、その存在にとっては、

地球から恐怖の感情が消えるのは良くない

ということで、そのために、

地球上に「恐怖が少なくなってくる」と、さまざまな宣伝が行われて恐怖心が増大される

ということになっているようです。

確かに、「恐怖の喧伝」は、どんなジャンルでも多いです。

病気、犯罪、経済、戦争、テロ、自然災害・・・。

これは、過去記事の、

自分が「今生」に生まれた理由がやっとわかったのは嬉しいけれども、恐怖と不安からの解放の前に立ちはだかる「西洋科学的思考」
 2015年04月17日

の最初のセクションの見出しが、「現代の人に蔓延する「不安」と「恐怖」の心」というものでしたが、現代社会は、基本として、「恐怖と不安」が先行していることは事実のように思います。

これは、今の世の中への考え方の「最初が、否定的・消極的な態度から始まっている」ということにもなっているというような気さえします。

そして何よりも、上にリンクした記事にも書きましたが、私自身が、「根源的な恐怖と不安」の中で生きてきたという事実があります。

最近、ほんの少し変わりつつはあるとはいえ、その人生の歴史は否定しようがありません。

しかし・・・。

その自分の経験から、「実は恐怖という観念の発生源は、外側ではなく、自分じゃないだろうか」ということも、薄々とは感じ続けていました。

ふと、最近の、いわゆる「アポカリプティック・サウンド」と同じような音を、そんな概念がなかった 二十数年前に舞台でガンガン流していたことを思い出しました。

それも「恐怖のヴィジョンの極限を再現した舞台」で。

聴き直してみますと、その音の質は、最近の「奇妙な音」と同じ音質の傾向を持っています。

下は、二十数年前の私たちがやっていた劇団のようなものの舞台のラストあたりですが、開始後3秒くらいから入る音ですね。聞き取りにくいですけれど。

self23 - 鬼畜御殿(1990年)



これは、普通に英国のバンドの曲でして、以前、クレアの記事で載せたことのある Coil というバンドの名曲です。

いずれにしても、若い時の私の目に見える「世界」は、いつも上のような悪夢のようなヴィジョンでしたが、その悪夢を徹底して再現して、自分をそこに突入させると「恐怖 vs 恐怖」のぶつかり合いで、どちらも消えてしまっていたことも思い出します。

「恐怖ってのは本当は存在しないのかも」と薄々と思うこともあったのは、そのような経験があったからかもしれません。

中村天風さんは、


神仏と名づけられている宇宙霊なるものの心の中には、真善美以外に、心配や悲観というような消極的な心持ちは、夢にもない。


などというように、恐怖や不安は、「本来的にはこの宇宙に存在しない」というようなことさえ言っているわけですが、しかし、恐怖は現実にあるように思えます。

では、それはどこにある?

というと、やはり、恐怖を生み出しているのは「自分」なのだとしか言えないことにも改めて気づくのです。戦争、自然災害、病気、などのネガティブな現実について、それを恐怖と思うか思わないかは、私たちの中にありそうです。

そういう意味で、先ほどの地球人ではない人の主張する、私たちは外からコントロールされるのではなく、「自分でコントロール」できるようになっていかないといけないというのは本当かもしれないとも思います。というのも、今後の社会では、「恐怖を煽る」局面をさらに数多く目にすることになるような気がするのです。

最近、書くことが多かった、

「肯定的な態度」

への試みは、まさに自分(自我)をコントロールするための最初の一歩なのかもしれません。

おそらくは、今後の世界は、表面上では「恐怖と感じることが自然な出来事」が、派手ではなく、淡々と起きていくような気がしないでもありません。

しかし、それらの恐怖に打ち勝つことさえできれば、先ほどの言葉の主のような、他の星の人などの助言がなくとも、私たち人間は(ほんの少しでも)自由になっていけるものだと思います。



  

2015年04月19日



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ブラジルを訪問し、病気の子どもたちと遊ぶ本物のアダムス医師

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自殺未遂を繰り返していたひとりの青年が導いた来世のヘブン


昨日、ものすごく感動する映画を見ました。

震えるほど感動した、といっても構わないです。


この感動は、最近、私が興味を持ついくつかのことのうち、


真実の医療とは何なのだろう


ということと、輪廻転生という観念から見た際の、


死ぬ時点で獲得すべき人間の意識や感覚


というふたつのことと、映画の内容が一致していたためということもあるのかもしれないですが、深夜にひとりお酒を飲みながら泣きながらその映画を見続けていたのでした。


そして、この映画は、とにかく、何がなんでも「医師や医療関係者、あるいは、これから医学を目指す人たちすべてに見てもらいたい」と思います。


映画は、昨年亡くなったロビン・ウィリアムズさん主演の『パッチ・アダムス』という 1998年の映画で、アメリカの実在の医師であるパッチ・アダムスの伝記映画です。


このパッチ・アダムスという人は、私はこの映画を見るまで知りませんでした。 パッチ・アダムス - Wikipedia という項目もありますが、この伝記映画の内容を箇条書きにした方がわかりやすそうです。


patch-adams-01.jpg

・映画『パッチ・アダムス』





『パッチ・アダムス』


・若い時に何度も自殺未遂を繰り返し、任意で精神病院の閉鎖病棟に入院する


・精神病院で患者が薬漬けにされ、医者や看護師たちに威圧的に扱われる現実を患者として味わう


・精神病院の入院患者たちを笑わせている時に、彼らの心が開き、状態がよくなることに気づく


・精神病院の中で「人を笑わせて治癒する医者になる」ことを決意


・米国ヴァージニア医科大学に入学。映画は、実質的には、この医学部での3年間ほどを描いたもの。


・大学付属の病院を研修中に、病棟の人たちに笑顔がないことを知り、(本当は1年生は病棟に勝手に訪問してはいけないのに)病室を回り、日々、患者たちを笑わせる


・医学部での成績は常にトップだったが、アダムスの行為を快く思わない医学部の医学部長から病棟訪問の禁止の勧告を受けながらも、それでも、患者たちを笑わせる行動をやめない。


・実際に「笑う」ことにより、病棟の患者たちへの薬の投与量はどんどんと減り、症状が改善する人たちも増えていくうちに、最初は怪訝だった病棟のナースや、一部の医者たちもアダムスの支持者となっていく


・自分の目指す「笑わせる医療」ができて、さらに完全無料の医療サービスを提供する病院「ゲズントハイト・インスティテュート」を設立(この時点では学生なので、無免許医)


・学部長はついにアダムスに大学の退学の命令を出すが、アダムスは、ヴァージニア州医師会に判断を要請し、公聴会での判断に委ね、退学命令は却下される。





文字では、その感動がうまく伝えられないですが、医療関係の方でなくとも、たとえば、「真実の医療とは何だろう」というようなことを考えていらっしゃる方には、ぜひとも観ていただきたいです。


レンタル店にあるかもしれないですし、なくても、ヤフオクや楽天などでいくらでも売られていると思います。私は、ヤフオクで 700円くらいで買いました。


何だか、「笑いで患者の元気を出す」というような話のイメージからは「愛と優しさの物語の映画」というような感じでとらえられそうですが、本人が映画の通りなら、この人は極めて過激な人です。


行うことのすべてが過激で極端です。


末期のガンで、ナースたちに怒鳴りまくり手に負えない男性患者の病室に、アダムスは「天使」の格好で訪問し、その男性に「死ぬ」ということを意味する単語を何度も繰り返すシーンがあります。


正確に台詞を書きますと、「将来の予告編を見せよう」と言い、「死」「死ぬ」「息が絶える」「果てる」「くたばる」・・・など、他にもいくつも、「死ぬことを意味する単語」を延々とその男性に対して語り続けます。


最初は怒りを示していたその患者は、しかし、次第に何事かを考えだし、自分でも「死ぬこと」に関連する言葉をつぶやき、それから、アダムスと「死を意味する言葉の掛け合い」を始めて、ついに患者は笑いだします。


「なるほど、自分はもうすぐ確実に死ぬ」ということを自分で始めて受け入れ、患者は、そこではじめて治療者に心を許したのでした。


patch-angel.jpg

・映画『パッチ・アダムス』


この患者は、最期の時もアダムスに立ち会ってもらい、死の瞬間まで、アダムスはその男性患者にキツい冗談を言い続け、男性は「冗談を言われている中」で安らかに息を引き取ります。


これがなければ、彼は「人に怒鳴り散らしたまま」死んでいったはずです。

次の世に「怒り」を運んでいっていたわけです。





最高の終末医療とは


医学生アダムスの行うことは基本的に常軌を逸していて、それは(自身が精神病院に入っていた時の記憶も含めて)大学医学部と医療システムという「権威の場所」との「戦争」であるかのようにも見えました。


当然、医学部の学部長はアダムスのことを快く思わないのですが、学部長らが最も許せなかったのは、アダムスが「患者と同等の目線で接するから」でした。


学部長や多くの医師たちは、


「医師は患者より上の立場でいるべきで、同じ目線でいてはいけない」


という考えに立脚していたのです(これは日本も同じ部分があるかもしれません)。


その点、パッチ・アダムスは「医者と患者は同等」として、徹底的に患者の心に入り込もうとします。これが、医学部の立場からは許せなかったもののようです。この部分については、アダムスは絶対に意見を曲げませんでした。


しかし、実際のパッチ・アダムスは、映画以上に過激な人であるのかもしれないと思う面もあります。


冒頭の写真は、本物のアダムス医師で、治療中には、いつもこのような格好をしているということなんですが、ふだんの格好も「どこでそんなシャツ売ってんだ?」というような派手なのをいつも着られているようで、そんな写真ばかりです。


テレビに出演した際の本物のアダムス医師

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ところで、どうも、私は映画から、このパッチ・アダムスは「無意味な延命治療をするべきではない」と考えているのではないかと思う部分がありました。


下は映画での公聴会のシーンですが、かなりはっきりと「医者は死を遠ざけることが努めではない」と言っています。


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・映画『パッチ・アダムス』


「パッチ・アダムスの本はないのかな」と探してみると、『パッチ・アダムスと夢の病院』という本があったのです。さっそく注文はしまして、まだ内容はわからないですが、 Amazon のレビューに、以下のようなものがありました。



現実のパッチは、映画の中よりも厳しいかもしれない。ユーモアが人の心や病気を癒す、と言う一方で、「すべての人に楽しい死を」と高らかに謳うのだ。

人は生まれ落ちた瞬間から死へと突き進む。100年先か、50年先かは分からない。

だから生きていける。限りある命だから今を精一杯生きよう。楽しみを見つけよう。痛みや苦しみを抱えていても、没頭できる何かに夢中の間、忘れることはできなくても、痛みが和らぐかもしれない。そんな瞬間をつないでいけば人生は楽しい。

でも、身近な者の死期を医者に宣告されたら? 残された時間はわずか。不安になるといつもこの本を読み返していた。

明日をも知れぬ身と言われた父は、それから2カ月を生きた。会えば少しでも笑って欲しかった。安心した顔が見たかった。赤い付け鼻は無かったけれど、「それでいい。がんばれ」とパッチに励まされているような気がした。


「ああ、やっぱり」と思いました。


アダムス医師は、治療と共に「最高の終末医療」を目指しているのだと思います。自身が精神病院の中で確信した「笑いは人を治して癒やす」ということの信念を、現在に至るまで曲げずにいるということのようです。


現代の医療は、


「とにかく少しでも長く生きていればいい」


という観点からのものが多く、その「状態」がどうであるとかには、あまり気をかけない面があることは否定できません。


しかし、アダムス医師は、同じ死を迎えるにしても、


「死ぬ人すべてに短くても楽しい生を」


と考えている。


これですよ、これ。


これが現実世界の話だけではなく、シュタイナーなどの輪廻転生の概念などと合わせてみても、「楽しい気持ちで迎える最期」が次の世にどれだけ素晴らしいものをもたらすかということも思います。


極端にいえば、「楽しい死を迎えることができた人が増えれば増えるほど、来世に控える無数の地球は少しずつ良くなっていく」ともいえるのではないでしょうか。


また、亡くなる方ではなく、見送る方にしても、亡くなった方が「最期まで笑顔でいられた」というのと、そうでないのとでは、残った方に与える影響も違いそうです。


ちなみに、映画の予告編に字幕をつけてアップされていた方がいました。

貼っておきます。


『パッチ・アダムス』(1998年) 予告編




ちなみに、このパッチ・アダムスという人は、想像を絶するほど、いわゆる頭のいい人だったようです。映画にも出てきますが、医学部で「まったく勉強しないのに、常に成績はトップ」であったことが描かれます。医学部なんてのは学業的に優秀な人の集まりなわけで、その中でまったく勉強せずにトップというのは、何か「異常な頭脳」を感じます。





悪から善が生まれる


それにしても、こんな人がいたんだなあ、と改めて思います。


イエスとかお釈迦様とか、この世には、たまに本当にすごい人間が生まれ出てくるわけですけれど、多くの人たちは「何らかのキッカケ」で、人生の力強い変転を迎えるわけで、例えば、日本最初のヨガ行者、中村天風なら、そのキッカケは「重い結核」にかかったことですし、パッチ・アダムスなら、「自殺未遂を繰り返して精神病院に入ったこと」です。


天風の悪性結核、アダムス医師の精神病院入院、と、これらは、どれもネガティブなことばかりです。しかし、


そのネガティブな出来事がなければ、彼らは後世に何かを残すような考えに辿りつかなかったし、そのような人間にもなれなかった。

ということがわかります。


すなわち、それらはネガティブなことでありながら、まったくネガティブな要因ではなく、それどころか、彼らの人生に絶対必要だったことで、つまり、これらのことは「良い出来事よりはるかに重要なことだった」ことがわかります。


ここに、


この世の中に否定的な出来事は存在しない。

という真理を見ます。


あるいは、私自身の人生もそうです。


私も、病気を中心として、いろいろとネガティブなことを体験してきていますが、それこそが、その後の私のいろいろなことにつながっている。そういう意味では、それらはネガティブなことではあっても、必要なことでもあったと。


それに、私は何度か死にかけたことがありますけれど、気づいたのは、天風さんの


「死んでないだろ」


という言葉です。


死ぬ時は人間は死ぬのです。

しかし、私は過去の「死にかけた出来事」のどれでも死んでいない。


これは説明が難しいですが、とにかく死ぬ時は死ぬのです。

怖れるとか怖れないとかではなく、その時は来るのです。


この「死んでないだろ」を真に理解することが「悟る」ということなのだと思います。

私はもちろん理解していないですけれど。


そういう意味では、パッチ・アダムスは、精神病院の中で悟りを得たように見えます。


結局、人間は、様々な「悪い経験」で、少しずつ目を覚まさせられるという部分がありそうで、あまり悪いことが何もないまま過ぎていく人生は、その人を成長させないかもしれません。


そういう意味では、


悪こそ善

という、エクソシストのメリン神父の言葉も理解できるような気もします。


これは、



 2014年07月26日


という記事に、長編小説『エクソシスト』の中の登場人物、メリン神父の言葉を載せました。


少女リーガンに取り憑いた悪魔について、



このような悪からでさえ、善が生じてくる。なんらかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ。……おそらく、悪こそ、善を生み出す『るつぼ』であるからだろうな。


と語っています。


> 悪こそ、善を生み出す『るつぼ』であるからだろうな


という意味が、今は少しわかります。


それにしても、パッチ・アダムスのような人の映画が作られてよかったなあ、と心から思います。これがなければ、私はこのような人の存在を知り得なかったです。


どんな人の存在も活動も、何らかの形で記録に残らないと私たちは知ることができません。


イエス・キリストの活動が 2000年も残り続けているのは記録があるからですし、あるいは、さまざまな宗教家や思想家の考えを私たちが知ることができるのも、記録があるからです。


このアダムス医師のことも、映画があったからこそ知ることができました。


ちなみに、この映画のことを知ったのは、天風に師事していた松本光正医師の『高血圧はほっとくのが一番』の中で、「笑いの重要性」について書かれていたセクションに記されていたものでした。


ちなみに、「笑い」はかなりストレートに体に作用することが、日本の医学実験で確かめられていることが書かれています。





笑いの現実的な治癒効果は実はかなり高い


最初に、笑いが医療に応用されるキッカケとなったのは、1970年代のアメリカだったようです。松本医師の本から抜粋します。



笑いが医療に取り入れられるようになったのは、1976年、ある医学雑誌に掲載された一人の患者の手記に端を発する。強直性脊髄炎という難病におかされた、アメリカの雑誌編集者、ノーマン・カズンズ氏が、笑いを取り入れた治療で病を克服するまでの記録である。

カズンズ氏は、ユーモア小説を読んだり喜劇を観たりして大笑いすると、痛みが和らいでぐっすり眠れるようになったという。難病を克服したカズンズ氏は、その後、カリフォルニア大学医学部教授に転じ、笑いの治癒力を説いた。


さらに、実験について記載されていますので、抜粋します。



松本光正『高血圧はほっとくのが一番』より

日本でも笑いの効用を科学的に解き明かそうとする研究が始まった。

中でも有名なのは、1991年に、大阪ミナミの演芸場で行われた実験だろう。

ガン患者 19人に吉本新喜劇を3時間見て大笑いしてもらい、その前後でガン細胞を直接攻撃するナチュラルキラー細胞(NK細胞)の活性度を調べたものだ。

その結果、最初から低かった人、基準内だった人のいずれもが、活性度が上昇した。つまり、笑いはガンに対する抵抗力を高めることが判明したのだ。

その後の研究により、NK細胞はたった5分笑うことで活性化することが分かった。NK細胞は、注射で活性化させようとすると3日はかかる。

それだけ、笑いは体に大きな影響を与えるのだ。


その実験のグラフがネット上にありました。


お笑いを見る前と後のNK細胞の変化

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全員が上がっているわけではないですが、程度の差はあれ、笑っている間は、ナチュラルキラー細胞が活性化され続けるので、ガンの人は「とにかく笑っているのがいい」ということになりそうで、極論で言えば、「笑い続けることで、ガンが抑えられたり、ガンが治癒される可能性もあるかもしれない」ということも言えそうです。


ガンだけではなく、他に、笑うことにより、


血糖値をとても下げる(2003年の国際科学振興財団の実験)

脳の働きが活性化(笑うと脳の海馬の容量が増えるため)

血行の促進や血圧の安定(笑うことが深呼吸と同じ状態のため)

自律神経のバランスが整う(笑うと副交感神経が優位になるため)

幸福感と鎮痛作用(脳内にエンドルフィンが分泌されるため)


などの作用があることがわかっているそうです。


しかし、これだけ効果があることはわかってはいても、たとえば、実際に、ガンや糖尿病の患者さんが、病院で医師から、


「今日から笑うようにして下さい」


と言われることがほとんどないというのが現実です。


それに、上に書きました「笑いが免疫を高める医学実験」も、その後は継続的におこなわれている感じがしないというのも・・・。


理由はいろいろでしょうけれど「医療の現場で笑いは不謹慎」という部分もあるのかもしれないですね。


たとえば、末期ガンの患者と共に「ウヒャヒャヒャヒャ」と笑うのは、現代の意識での図式では不謹慎に見えるということかもしれません。


私は以前、一度入院したことがあります。


東京新宿にある国際医療センターという大きな病院で、1週間ほど入院していましたが、入院病棟という場所は本当に「笑いのない場所」でした。


私の向かいのベッドの男性は、クローン病、隣のベッドのご老人は末期の膵臓ガンで、見舞いに来た人ごとに「もうダメらしい」と話していました。部屋の隅にいたご老人は、私がいた1週間の間ずっと寝たままで、体中にいろいろな器具やチューブがつけられていました。何の病気かはわかりません。


そんな雰囲気で笑いが出ないのは当然かもしれないとも思いますけれど、しかし、今だからこそ思うと、むしろ、「あれではダメ」なのです。


笑いがあれば、自己免疫力も上がるし、何より、もう治らない患者さんでも、パッチ・アダムスの意志である「すべての人に楽しい死を」という観点からは、末期の膵臓ガンの人にいかに笑ってもらえるかを考えることが、本当は重要なのだと今は思います。


いつか笑いと治癒の関係が科学的に証明されたり、あるいは、病院に「笑い指導員」とかが常駐するような時代になればいいな、とか。


笑い指導員といえば、2011年の記事ですが、



 2011年11月22日


で、「ケロッグ博士」(原題: The Road to Wellville)という、20世紀のはじめに、アメリカで富裕層向けの診療所(バトルクリーク診療所)を開設していたケロッグ博士という実在の人物を描いた映画の話を書いたことがありましたが、その診療所に「笑い治療」が出てきます。


このバトルクリーク診療所では、1918年に世界中で流行した、非常に致死率が高かったスペインかぜ(鳥インフルエンザのパンデミック)で死者を出さなかったのですが、この際、ケロッグ博士は「医薬品を一切使わない治療法」で、患者の死亡ゼロという奇跡的な成果をあげています。


そのケロッグ博士の診療所では、「笑う治療」というものがおこなわれていて、リズムに合わせて「集団で無理矢理笑う」という治療法なのですが、この治療法の良いところは、無理矢理笑っているうちに、「馬鹿馬鹿しくなって本当に笑い出す」という集団心理につながるところです。


これは映画でも描かれていて、わりと有名なシーンとなっています。

下の30秒ほどのシーンです。


ケロッグ博士(1996年)




ケロッグ博士は、古い時代の医療者ですが、笑いの効能を見抜いていたのかもしれません。


そういえば、最近、「薬が喜びの感情を抑える」というニュースがありました。「笑いの効能」という意味では、これも薬による別の弊害なのかもしれないなあと思います。


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米オハイオ州立大学の研究チームは16日までに、市販の多くの鎮痛剤に含まれるアセトアミノフェンに、痛みだけでなく喜びの感情を抑える効果があることがわかったと発表した。

論文によると、アセトアミノフェンに心理的な苦痛を和らげる効果があることは以前から知られていたが、今回の研究で、喜びの感情を弱めるなど、感情の幅を狭める効果があることがわかったという。





シュタイナーが解熱鎮痛剤の出現に絶望したとき


上のニュースにある「アセトアミノフェン」というものは、市販されている多くの風邪薬や解熱鎮痛剤に入っているものですが、人間の感情を抑えるという「副作用」を持っていたようです。


この解熱鎮痛剤というものについては、その出現の時に、シュタイナーは以下のように述べていました。



1908年のシュタイナーの講演「人体リズム」より

医学において私たちは、今日まだ手探りをしています。病理学と治療の堅固な度台は、太古に遡るものです。解熱鎮痛剤フェナセチンの試験がなされたとき、私は知性と感情の殉教を体験しました。

道しるべもなく実験するのは、科学が精神とともに真面目さも失ったことを示しています。


と嘆いていましたが、このフェナセチンは、日本でも 1999年まで使われていて、非常に多く処方されていた解熱鎮痛剤です。


また、解熱鎮痛剤は、痛みを弱めると共に熱を下げる薬ですが、シュタイナーは「熱を下げてはいけない」として、以下のように述べています。



生体はその損傷に反抗し、防御力を用います。この反抗が通常、熱なのです。熱は、人間のなかの治癒力の呼び声なのです。熱は病気ではありません。損傷を直すために、人間が自分の生体全体から力を呼び集めているのです。損傷に対する生体全体の反抗は、一般的に熱として表現されます。

病気において、熱は最も慈善的で、最も治療的です。損傷を受けた個々の部分は、みずから治癒できず、他の側から力を得なくてはなりません。それが熱として表現されるのです。


として、「熱はすぐれた治療者だ」としているのです。

「熱」という存在がなければ、身体は回復できないとしています。


続けて、


「熱が抑えられるとき、生命は危険な状態になります」


とまで言っています。


松本医師の言う「人体の働きに無駄なものは一切ない」という言葉を思い出します。


この「熱」もまた人体の重要な作用であることになりそうで、その重要な作用を強制的に抑えてしまう解熱鎮痛剤の登場に、シュタイナーは「知性と感情の殉教を体験しました」というほどの絶望を受けたようです。


私も数年に一度、「不明熱」に襲われることがあります。

昨年もありました。

その時は 40度を越えたと思います。


そこまで熱が上がると、病院に行くわけですが、昨年も熱の原因はわかりませんでした。しかし、原因はわからなくとも、当然のように解熱鎮痛剤を投与されて、飲んで熱を下げる、ということになるわけですが、良くなかったのかもしれません。


私の中で、「体温を 40度以上にしなければならない何かが起きていた」と考えるのが妥当なようです。とはいえ、大人で 40度を越えてくると、さすがに不安感はありますが。


いずれにしても、医学は少しずつ変化してきているのだと思います。あとは、私たちが「どの治療法を選ぶか」ということだけのような気がします。


今日は「笑いと治癒」の話でしたけれど、あるいは、私はあまりテレビは見ませんけれど、テレビにお笑いが蔓延しているのも、一種の社会の自己治癒作用的な部分もあるのかもしれないですね。「病気を治癒するために熱が出る」ように、「今の人々を治癒するために笑いがある」というような。


何か夢中で書き続けていたら、エライ長くなっている気がします。

どうもすみません。




  

2015年04月03日



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医学は「次の段階」に入ることができるか

昨日の記事、

基本的に「すべての薬」は人間に良くないという理由の理論的なメカニズムがわかったのです
 2015年04月02日

の中に書き忘れていましたが、昨日の記事は「西洋医学の否定」ではありません

むしろ、私が感動したのは、

西洋医学の持つ矛盾を、西洋医学の知識により自らでそれを暴き、その矛盾を正せるところにまで辿り着こうとしている西洋医学が存在する。

という点です。

その到着点は東洋医学と似たものかもしれないですが、そこに辿り着いた「過程」が東洋医学とは違うのだと思います。






 



西洋医学は、解剖の歴史などからも、「人間の各部を機械の部品のようにバラバラして探求してきた」という歴史があります。そういう意味では「人間というひとつの生命体として全体的に見ることについての考えは欠落していた」という面はあるかもしれません。

そして、医学や生物学は次第に、細胞だとか、遺伝子だとかさえもバラバラに調べるまでに進んできて、医学も生物学も「極限まで進んだ」というような感覚はあったのかもしれませんが、そこで優秀な医師たちに見えてきたものが、

「壁」

であり、そして、

「途方もないほど緻密で優れている人体の仕組み」

であったような気がします。

人間の体をどこまで細かく調べていっても、そこには「まるで何もない」かのようにゴールは見えない。

西洋医学の起源は、たとえば、手術や対症療法などに見るように「人間の治癒を、機械を修理するようにおこなう」ことにあったような気もします。

つまり、悪い部分は切除したり、痛みがあれば、薬などで痛みを感じるシステムを遮断する。血圧が高いなら降圧剤で下げる、というように、「悪い部分に対抗する」という医学だったように思います。

それは、「人体はもともと弱いものなので、外部の力(薬など)で補佐してあげなければならない」という思想とも言えます。

そこには、異常なほど発達した人間の持つ自己免疫システムの存在への概念が欠如していたようにも思います。

そして、最近になって、お医者さんたちの中のいくばくかの方々は「悪い部分に対抗する」という治療法ではなく、

人間自身の自分の力で治すことを補佐する。

という方法論に気づきだしているのだと思います。

最近、これまでの西洋医学の方法に限界を感じている医師の方々も多いと聞きますが、そのような方々は、東洋医学やアーユルヴェーダといった思想、あるいは、音叉療法など、それまでオカルトだとさえ言われていたような方法論を治療に積極的に取り入れている状況をよく見聞きすることがあります。

そして、この今の状況が「医学の分岐点」になるのではないかとも思います。
どちらの方法論が主流になっていくか。




医学も物理学も進めば進むほど「存在」に突き当たる

少し話は逸れますが、医学と物理学の「進み方」には似た部分を感じます。

つまり、「突きつめれば突きつめるほど、そこに巨大な存在(のようなもの)があることがわかってくる」ということです。

たとえば、

聖書 vs 日月神示:「神の怒り」と「地獄」は存在するのかしないのか? 「宇宙の知性」の真意を知りたくて
 2015年03月20日

という記事では、アメリカの物理学者ミチオ・カクさんの『パラレル・ワールド』 の記述を紹介していますが、以下のような下りがあります。


私をはじめ一部の物理学者が考えているように、いずれ現実世界を支配する究極の法則が式一本で表せたとしても、次にはこんな疑問がわく。

「この式はどこから得られたのか?」



あるいは、1981年に宇宙のインフレーション理論、つまりビッグバン理論の礎となる理論を発表したアラン・グースというアメリカの宇宙物理学者は、1997年の『なぜビッグバンは起こったのか―インフレーション理論が解明した宇宙の起源』という本の中で、


宇宙の創造が量子過程で記述できれば、一つの深い謎が残る。何が物理法則を決定したのか。


と述べています。

「この式はどこから得られたのか?」
「何が物理法則を決定したのか?」


このふたつはまったく同じ疑問であって、これが物理学の「壁」です。

優秀な物理学者になればなるほど、突きつめた先の「壁」あるいは「存在」と対峙しなければいけなくなる。

フレッド・ホイル博士は、晩年の著作の中で、これを「宇宙の知性」という表現であらわしていました。そして、フレッド・ホイル博士は同時に、

「人間という存在自体の不思議さ」

を、晩年になって、さらに強く感じているようでした。

これは、医学においても同じでしょうが、人間を考えていくと、そこにも突きつめて研究が進めば進むほど、「壁」とか「存在」が現れます。

「こんな精緻な人体と能力を持つ人間とは一体、なにものなのだ?」

これについては、フレッド・ホイル博士の著作『生命(DNA)は宇宙を流れる』の中に興味深い記述があります。

それは、ダーウィンと同じ頃に、ダーウィンと同じような「自然淘汰による進化論」を唱えた生物学者のアルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823 - 1913年)の著作の記述を抜粋している箇所です。

ウォレスが、自分は自然淘汰による進化論の強力な推進者で、「人間は動物からの進化の最終段階で登場した」と確信しているにも関わらず、自身で、「生存競争(自然淘汰)と関係のない数学的能力や、芸術的能力などを人類が持つに至った理由や、その能力には人それぞれ著しく差がある理由は何か?」ということに考えこんでいる記述でした。

フレッド・ホイル博士の記述を抜粋します。


フレッド・ホイル『生命( DNA )は宇宙を流れる』より

ウォレスを悩ませた問題が、読者諸氏にも見えてきただろうか? しつこいほど提出される具体例の背後には、進化の先端にいるとされるヒトが、他の動物とは明らかに異質な「人間らしい」能力を獲得するに至った過程が、自然淘汰では説明できないということに対するウォレスの当惑があるのだ。

動物としての能力は、生存競争に直接かかわってくるため、これを備えていない人間はいない。

これに対して、数学的能力も、絵画的能力、音楽的能力も、ヒトが動物的な意味で生きてゆくうえで何ら本質的な能力ではないから、自然淘汰とは関係ない。

もし、人間の高い能力が、それらを用いたり必要としたりする前に突然変異として現れたのだとしても、自然淘汰の過程で選ばれ、人間という種を特徴づけるような能力になることはありえない。

これらの「非ダーウィン的」な能力が、未来の必要性を見越して生じたのだとすれば、それらは、はるかに高所にある知能が、人類の発展をある一定の方向に、そして特別の目標に向かって導くために直接、作り出したものであるとしか考えられない。

われわれが存在しているということ自体が、コズミック・インテリジェンスの存在を暗示しているのだ。



そして、巻末では、次のように記しています。


人類を他の動物と区別する最も大きな特徴は、自らの起源と究極的な運命を知りたいという切実な願いを持っていることだとも言える。現在までに現れたあらゆる宗教は、われわれがそのために生き、そして死ぬための究極の目標を探そうとする努力、あるいはすべての生き物を作った創造主を知ろうとする努力と見ることができるだろう。

これらの基本的な宗教的な願いは、われわれ科学者が宇宙を理解し、生命の起源を知ろうとする合理的な努力に受け継がれている。(略)

生物にこんな意識を持たせるのは、遺伝子のはたらきである。ひょっとすると、その「存在」が、われわれの部品を創造するにあたって、自らの起源についての真実を本能的に悟るように、遺伝子に細工しておいたのかもしれない。



ちょっと引用が長くなりましたが、晩年のホイル博士は、「私たち人類は、巨大な知性に創造された」と考えるようになっていたようです。

あるいは、ホイル博士の、

> その「存在」が、遺伝子に細工しておいたのかもしれない。

という記述で思い出すのは、1967年にノーベル生物学・医学賞を受賞したジョージ・ワルドという生物学者の次の言葉です。


宇宙の原子は、物理学者がいなければみじめなものだろう。そして物理学者もまた原子でできている。物理学者は、原子が原子について知るための手段なのである。


この、

> そして物理学者もまた原子でできている。

というのは、インパクトのある表現で、その「原子でできた物理学者」が「原子を調べている」というのが物理学というものだと。

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・ジョージ・ワルド氏(1906年 - 1997年)peoples

物理学の研究も、突きつめて突きつめたところで「存在」が登場して、たとえば、ホイル博士は、むしろ反キリスト的な考えをずっと持っていたわけですが、ついには「創造主の存在」までを確信する。

医学も似たような感じで、人体の仕組を突きつめて突きつめていくと、そこにも「存在」が登場しそうな感じがある。別の言葉でいえば、「人間の中にも創造主の意図を感じる」というような。





分岐点にあるかもしれない現代医療

何だか話がずれてしまいましたが、医学に話を戻しますと、これからの医学が、この「壁」や「存在」を認識するような方向、つまり、

創造主が作った人間の体は宇宙で最高の作品であり、人間は自分自身の中にある力で多くを治癒することができる。

という基本発想を医学が獲得すれば、ずいぶんと違ったものになっていくのではないでしょうか。

検査などに関しては、進化しようがないほど進化はしているのですから。

たとえば、現代医学での医療機器は、中には不要なものもありそうですが、私自身は、内視鏡にしても、 CT や MRI にしても、便利な医療機器だと思います。

今の世の中は、特に体に悪いことをせずとも、普通に暮らして普通に売られているものを食べているだけでも、誰でもいろいろな病気になる可能性の高い時代です。

なので、病気なのかどうなのかビクビクしているより、何か調子が悪いのでしたら、今のように気軽に検査できる時代は便利だと思います。病気そのものはどうしても存在しているのですから、病気になってしまった場合に、西洋医学式の検査をおこなうことは理に適っていると思います。

問題は「病気が見つかった後の対処」です。

それが今までの「ほとんどが投薬オンリーの治療」の路線のままでは、もはやいけないところにまで来ていると思うのです。

これらの面において、この数十年以上おこなわれていたような、投薬と手術が主体の「取り除いたり、対抗しようとしたりする医療」がメインの状態から、人間の自己治癒能力を高める方向の治療へシフトできれば、もちろん、それだけでは治らない病気はたくさんあるでしょうけれど、それでも、少しでもそうなれば、今のような過度な薬漬けの高齢者ばかりのような状態の社会から、ほんの少しでも抜け出せるのではないでしょうか。

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今後、認知症はさらに増加する

私は、「認知症の増加」と「薬漬けの高齢者たち」の関係性は「ある」と、以前から思っていましたが、昨日の記事でご紹介した「なぜ、薬は体に悪いのか?」という中に、


アメリカには、「抗アセチルコリン剤を継続的に服用している高齢者の8割に、軽度の認知障害が認められる」との報告があります。


という記述があり、この抗アセチルコリン剤(抗コリン作用薬)については、医療サイト Med エッジに以下の記事があります。


風邪や花粉症など、身近な薬がアルツハイマー病を増やす、飲むほど影響、米国グループ報告


米国シアトルのワシントン大学を中心とする研究グループが、内科分野の国際誌であるジャマ(JAMA)インターナル・メディシン誌オンライン版で、2015年1月26日に報告した。

問題になるのは、抗コリン作用を持つ薬だ。抗コリン作用を持つ薬剤は多く、総合感冒薬や鼻炎薬、胃腸薬、一部の抗精神病薬、抗うつ薬などが知られている。

研究グループは、抗コリン作用薬を使った蓄積と認知症リスクの関連を明らかにする研究をより大規模に行った。

研究開始時に認知症がなかった65歳以上の参加者3434人を対象に、2年ごとに状況を調査、平均7.3年間の追跡を行った。追跡したところ、参加者のうち2割強が認知症を発症。認知症の8割はアルツハイマー病だった。

認知症およびアルツハイマー病の発症と、抗コリン作用薬の使用状況の関係を調べたところ、抗コリン作用薬を長期間にわたって多く使用するほど認知症のリスクが増していた。



抗アセチルコリン剤には、普通のカゼ薬なんかも含まれますが、「どの程度使用したら危険なのか」ということに関しては、何と、

1年間当たり9日くらい関係した薬を飲むとしたら注意した方がいいだろう。風邪薬のほか、アレルギーで鼻炎の薬を使ったりすると長期に及ぶこともありそうで一般の人でも関係はありそうだ。

とあり、「1年間のうちに9日で注意」というほどの影響なのです。

繰り返しますけど、単なるカゼ薬や、単なる鼻炎薬ですよ。

1年間で9日くらい使う人はものすごくたくさんいそうな気もするのですが。
それだけで、認知症リスクが高まる。

今の時代の認知症の多さの原因のひとつに「薬を安易に処方し過ぎる」という現在の医療の方法が関係していることは否めないのではないでしょうか。

過去記事で記したことがありますが、アメリカでアルツハイマー病が異常に多いのも、日本以上に薬漬けの傾向がありそうな国だからかもと思ったりもします。

世界のアルツハイマー病等の患者数の推移
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アルツハイマー病とは?

そして、やはり過去記事で、世界中でうつ病患者が劇的に増えていることをご紹介したことがありますが、抗うつ剤の一部を含めて、メンタル系の薬は多くが抗アセチルコリン剤です。

つまり、メンタル系の薬剤の多くが、昨日の記事でいう「人間の自己免疫能力」を下げ、さきほどのアメリカでの研究のように「認知症に結びつく」タイプの薬です、

私も若い頃かなりの期間、継続的に服用していたので、完全な危険予備軍だと思われます。

そして、抗うつ剤もそうですが、メンタル系の薬の大きな問題が、

・長期間に渡り
・大量に服用する


という傾向が極めて強いということです。

そして、抗うつ剤に関していえば、何よりも「抗うつ剤でうつ病が治ったという話を聞くことがない」ということが問題のように思います。治らないのに、あるいは、治らないから「永遠のように薬を服用し続ける」ことになってしまう。

メンタル系の薬は 10年、20年飲み続けている人はいくらでもいると思います。

うつ病に関しては、すべての患者がそうだというわけではないですが、うつ病は「作られた病気」であるという側面も強く、それは、新しい抗うつ剤が発売されるたびにうつ病患者が増えるという奇妙な現象を見てもわかります。

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抗うつ剤とうつ病患者

どんな病気であっても、効果的な新薬が発売されたのなら、「その病気は減っていく」のが普通なのに、抗うつ剤とうつ病患者の関係は、上のように「共に増えていく」となっています。

ガンにもこのような「相互増加」の関係は見られます。

いずれにしても、現在、薬漬け状態の人が非常に多いことと、アメリカの研究を見た限りでは、今後さらに「認知症とその予備軍」の人たちが次々と出てくることになりそうです。

そういえば、私の両親などは、そろそろ 80歳も近いですが、認知症の気配がまったくありません。それは本当にありがたいことなのですが、考えてみると、ふたり共「常用している薬がない」のでした。

健康食品は結構採っていますが、長期に服用している西洋薬はないです。

それにしても、今後、認知症が増えていくのだとしたら……と思いまして、唐突な感じがしますが、認知症というか、物忘れに関して、

物忘れに実際に効果のあった私の家での体験談

シュタイナーが講演で語った「物忘れを防ぐ方法」

をそれぞれ記しておきたいと思います。

どちらも、ある程度は実際的なものだと思います。
私の体験談は大したものではないながらも、知って良かったと思えるものです。



物忘れがひどくなった時に

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実は、私ではなく、うちの奥さんが昨年あたりから、どうもひどく物忘れをするようになりました。

彼女は私より 10歳ほど年下ですから、まだ 40代前半で、いくら何でも認知症にはちょっと早いとは思うのですが、仕事でも、忘れて結構大きなミスをするようなことがあるほどだったのです。

最近は若年性の認知症の話もよく聞きますし(若年性も薬が関係していそう)、あと、うちの奥さんは鼻関係が良くなかったり、花粉症だったりで、耳鼻科系の薬を飲むことが多く、今思えば、それらの薬は抗アセチルコリン剤ですから、関係あるのかないのかわからないですが、とにかく物忘れが顕著になってきていたのですね。

「あんまりひどいようなら、専門の病院で見てもらう?」とかいう話も出ていたほどだったんですが、昨年の、いつ頃か覚えていないのですが、夕食の時、子どもがテレビをつけましたら、健康番組をやっていました。

昨年のことで、番組名も覚えていないですが、それがちょうど「認知症」に関しての番組でした。

検索しましたら、こちらのブログの記事にあるものが、それと同じ番組かどうかはわからないですが、方法が同じです。

番組では、現場で認知症の治療に当たっている医師の方が出ていて、その方が、

「これが一番効果がありました」

という治療法が紹介されていました。

それは、どんな治療法かというと、

眠る前に、エッセンシャル・オイル(精油)をディフューザーで噴霧させる。

というだけのものだったのです。

ディフューザーというのは噴霧器のようなもので、アロマオイル用に売られています。
つまり、「香りで治す」というものです。

番組では実際の治療効果を数値などでも示していましたが、確かに効果があるようです。

同時に、私はそれを見た時に、7年くらい前に見た記事を思い出したのです。


イスラエルの研究者:特定のにおいは脳に刻まれて消えない
大紀元 2009.11.09

イスラエルのワイツマン科学研究所のYaara Yeshurun氏が、科学誌「カレント・バイオロジー」で発表した論文によると、初めて認知する物体とそのにおいとの関係性は、人間の脳に非常に深い印象を残す。(略)

そのほか、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)の実験も行なわれた。提示された物のにおいの変化に対して、人間の脳の海馬(かいば)と扁桃体(へんとうたい)という記憶や感情に関わる器官は、においに直ちに反応を示すが、音の変化に対しては全く反応しないという結果が示された。

においと記憶には密接な関係があり、五感の中で嗅覚だけが海馬や扁桃体と直結しているそうだ。においが記憶力を高める鍵になるということか。



この記事の、

> においと記憶には密接な関係があり、五感の中で嗅覚だけが海馬や扁桃体と直結している

という部分を思い出したのです。

匂いが脳の海馬と直結しているのなら、記憶障害などに効果があるのも納得できます。

「この方法行けるかもしれないね」

と、私は翌日、ディフューザーを買いまして、番組で紹介されていた通りの配合で、眠る前にエッセンシャル・オイルをディフューザーに入れて眠るようにしたのでした。

テレビでは「昼の香」と「夜の香」とわけられていましたが、昼は家にいないので、夜だけです。

配合は、「ラベンダーとオレンジを2:1の割合でブレンド」ですが、まあ適当にやっています。ラベンダーを何滴か、オレンジを何滴か、というような感じです。

そして、もうどのくらいやっているかわからないですが、半年以上は、毎日やっていると思いますが、その結果、

奥さんの物忘れが「ほぼ完全に治った」

のです。

どのくらいの期間で効果が出てきたとかはわからないですが、本人も「物忘れを本当にしなくなって嬉しい」と言っています。

もちろん、今後もずっと続けると思いますが、「匂いは脳を刺激する」という原則が大事なだけで、オイルの種類はそんなに厳密でなくとも、本人が「いい匂い」だと思うものでいいと思います。

この「海馬と香りの関係」を突き止めたのも、明らかな西洋医学であり、この場合は、その対応として「人間が自分で改善していく手助けをする治療法」という意味では、上のほうで書きました中の「理想的な治療法」のひとつだと思います。

もちろん、効果があるかないかは人にもよるとは思いますが。

ちなみに、大事なこととして、使うのは「精油」と書かれた、100%純粋ななエッセンシャル・オイルでなければいけません。100円ショップなどにあるようなものは、人工的に香りを作っているもので、精油ではありません。人工的に香りがつけられているようなものは、すべてこのような治癒で使うものではありません。

でも、今ではヤフオクとか、あるいは Amazon などでも、純粋なエッセンシャル・オイルが、かなり安い価格で提供されていますので、そんなに負担になるものでもないと思います。オレンジやラベンダーなら数百円からあります。

ちなみに、エッセンシャル・オイルの中には、フランキンセンスというような、人間の自己治癒能力を高めると言われているものなどもあり、なんだかんだと、私は 10種類ほど常備していますが、まあ、効果はともかく、悪いものではないですよ。

認知に不安のある方は「良い香りは脳を直接刺激する」という原則を思い出して、なるべく自分にとって気持ちのいい匂いの中で生活するということをするというだけで、かなり改善される可能性があると思います。

これはオカルトではなく、西洋医学が「脳の研究」で見出した最先端医学だといっていいと思います。




シュタイナーによる「物忘れをなくす方法」

以前買っていた読んでいなかった本に、ルドルフ・シュタイナーの『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』というものがあります。

これは、1900年代初頭におこなわれた、いくつかの講演の内容をまとめたものです。

買おうと思ったのは、目次がちょっと面白かったんです。

シュタイナーというと、難解なイメージがありますが、目次には、

「もの忘れを直す方法」

とか、

「なぜ服を着るか」

とか、

「何を食べるとよいか」

など、日常生活と密接に関係したことが述べられているのです。

その中に「神経質」(今でいう神経症のことだと思います)の治療のためのセクションの部分に、「物忘れを治す方法」が書かれてあるのです。

具体的に書かれている部分だけを一部抜粋します。




もの忘れを直す方法
ルドルフ・シュタイナー
1912年1月11日 ドイツ・ミュンヘンでの講演

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自分がもの忘れをすることに気づいた人が、もの忘れを治すためには、まず「必要なものを、私はいろいろな場所に置くことにしよう」と思うのです。そして、「私はそれをここに置いた。その周囲の様子や形や色をイメージして覚えておくように努めよう」と考えながら、そのものを置くのです。

安全ピンをテーブルの角に置くとします。「私はこのピンを、この角に置く。そして、ピンが置かれたテーブルの角を、イメージとして心に刻印づけよう」と考えながら、ピンを置きます。そうして、落ち着いて立ち去ります。一度行っただけでは、すべてのものをすぐに見つけられるようにはならないでしょう。

しかし、そのように考えながらものを置くことを、習慣のようにしばしば行うなら、もの忘れは次第になくなっていきます。

「私はピンをここに置く」としっかり考えて、自我を自分の行いと結び付け、さらにイメージを付け加えます。思考における明瞭なイメージ。自分の行いのイメージ表象、自分の行為を、自分の精神的 − 心魂的な核、つまり自我と結びつけるのです。そうすると、私たちの記憶力は根本的に強くなります。

ものを置くときに、このように思考する習慣が付くと、それだけで、エーテル体(生命体)の力が呼び出されます。このような習慣をとおして、人間のエーテル体はますます強化されていきます。私たちは人智学をとおして、「エーテル体はある意味で記憶の担い手である」と、学びます。





ここまでです。

この場合は「見えている状態と、それをおこなっている自分を客観的に把握する」というようなことになりますでしょうかね。

つまり、何をおこなう時でも「意識して行動する」ということを言っているかもしれません。確かに、何かするたびに、その行動に注意をしていると、そのことを忘れることはなさそうですが、なかなか大変な日常にもなりそうです。

シュタイナーは「自分自身を客観的に見ることの重要性」をよく語りますから、その関連ともいえるかもしれません。

それにしても、何だかものすごい長い記事になってしまってすみません。
気づいたら、こんなに書き続けておりました。



  

2015年02月12日



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▲ 2015年1月14日の THE WATHCERS より。






 

砂糖の有害性の科学的確認

私たちの口に入るものの中で、「有害(かもしれない)」物質として、少し前の記事、

胎内で200種類以上の汚染物質に包まれながら成長して生まれてくる赤ちゃんたちのサバイバル。そして、生まれてからはフッ素で松果体を破壊される子どもたちのサバイバル
 2015年02月01日

には「フッ素」(あるいはその化合物)が出てきましたけど、今回は「砂糖」であります。

「白砂糖が悪い」と言われていることは、ずいぶんと昔から聞いたことがあるのですが、それは何となく曖昧な感じでした。

このことは、砂糖 - Wikipedia にも書かれています。


砂糖 - 健康問題

マクロビオティックなど、科学にもとづかない食餌にまつわる信仰を主張する者たちなどによる、砂糖は多くの病気・疾患の原因になる食品として問題視すべきだという主張が後を経たない。

日本における古い例としては、マクロビオティックの提唱者として有名な思想家桜沢如一が1939年に『砂糖の毒と肉食の害』を著している。

また砂糖は「毒」であるとして、ロバート・ラスティグら米国の小児科医師たちが、健康への悪影響を挙げ、砂糖の害はたばこや酒と共通しているとして、同じように税を課すべきであるとの指摘を英国の科学雑誌ネイチャーに発表した。砂糖を有害物質として規制すべきと一部の専門家たちは指摘している。



上に「科学にもとづかない」と書かれているように、これまでどちらかというと、砂糖が人体に有害であるということについて、科学や医学的な「統一見解」が存在しなかったような感じがあったような気もするのですが、冒頭にあるように、最近、アメリカのカリフォルニア大学の研究者チームが、過去の 8,000あまりの科学論文を精査したのでありました。

その結果、

砂糖は毒である

とする結論を導き出したという報道をご紹介しようと思います。

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▲ カリフォルニア大学のカーステン・ビビンズ-ドミンゴ( Kirsten Bibbins-Domingo )教授が率いる「シュガーサイエンス」ウェブサイトのトップページ。


今まで曖昧だった「砂糖=有害」説が実証された可能性があると思います。

そして、私も今まで曖昧だったのが、これでやっと「ああ、やっぱり有害なんだ」と認めたような感じもありました。

私自身は、どちらかというと、甘いものはどうでもいい人で、ふだん甘いものを食べることはあまりないのですが、しかし、後で報道に出てきますカリフォルニア大学の「シュガーサイエンス」という研究プロジェクトの調査では、アメリカの話ですが、

「パッケージ食品の 74%に砂糖が添加されている」

ということなどが明らかになっていて、また、その量も予想以上に多いのです。
そんなこともあり、甘いものが好きではなくとも、私たちは知らない間に多くの砂糖を摂取している可能性がありそうです。

それと共に、今回もっとも意外に思ったのは、

白砂糖だけではなく、精製糖は全部が有害

いう結論です。

要するに、精製された白砂糖だけではなく、黒砂糖もハチミツもメープルシロップも同じく「毒」だと。

これには「うーむ」と思ってしまいましたね。

砂糖の種類は、後でいくつか記しますが、61種類もあります。

甜菜糖、コーンシロップ、ココナッツシュガー、蜂蜜、黒砂糖、メープルシロップ……他いろいろ全部が毒……というのはちょっとショッキングな感じがしまして。

それでご紹介しようと思いました。

ところで、ちょっとだけ余談を書いていいですか。
砂糖とは関係ないんですが。




久しぶりの胃の検査で思い出すこと

今朝、胃の検査をしてきました。
内視鏡(胃カメラ)です。

私は 10年くらい前に、胃潰瘍になったことがあるんです。

その時は自分が胃潰瘍になっているとは知らずに、「何だか最近胃が痛いなあ」と、しばらく過ごしていましたら、大吐血しまして、緊急搬送→手術→入院ということを経験したことがあり、そのトラウマ以来、胃にはやや神経質になっています。

今年は、年末あたりの暴飲暴食……いや、私は暴食はしないですので、「暴飲」だけですが、それ以来、胃の調子が非常に悪い日々が続いていて、それで、何年かぶりに内視鏡を受けてみたのでした。

ま、何ともなかったので、精神的なものかもしれません。

胃の病気の問題点というか、厄介なところは、

・胃炎
・胃潰瘍
・胃がん
・ストレス等での胃の痛み
・機能性胃腸症


などの症状が、時によって同じであることで、場合によっては、上の中で胃炎が最も激しい症状を示したりすることもあるというようなところにあります(上で「死」に至る可能性があるのは、胃がんと胃潰瘍だけです)。

あるいは、いろいろと他の人の体験談などを読みますと「胃がんなのに何の症状もない」なども普通のことで、胃の病気は症状と深刻度が釣り合わないものが多いです(私は他の方のブログを読むことはあまりないのですが、胃の病気の方の体験談だけは熱心に読むことがあります)。

現代の医療全体としては進歩しているのか、進歩していないのかわからないような面はあるにしても、「胃潰瘍」の分野に関しては劇的に進んだ面はありまして、過去の私のように極端に悪化させない限り、ほとんどの場合、治療は薬だけ(H2ブロッカーという、かつては病院だけでの処方でしたが、今はガスター10など市販薬でもあるもの)で良くなることがほとんどです。

胃潰瘍の原因は、感覚的には、ピロリ菌7割、鎮痛剤( NSAIDs )2割、その他といったところだと思いますので、その原因さえ取り除けば、そもそも胃潰瘍になる理由が消えます。

かつては胃潰瘍は恐ろしい病気だったことは知られています。

昔住んでいた東京の西荻窪で行きつけだった個人医院の院長さんは、かつて東京の有名な大学病院の外科部長をやっていた方ですが、私に「昔の胃潰瘍患者の話」をし始めたことがあります。

「昔はね、あなたくらいの吐血をした場合は、死ぬ場合も多かったんですよ。何しろ、内視鏡での処置ができないから胃を見るには開腹するしかない。大出血をしているのに、開腹でまた出血ですからね。死んじゃうんですよ。昔は胃潰瘍って大変だったんですよ。夏目漱石も胃潰瘍の吐血で亡くなりましたよね」

というようなことをニコニコと嬉しそうに(苦笑)私に話していました。
「死んじゃうんですよ。ハハハハ」みたいな感じで。

その夏目漱石は、胃潰瘍で苦しむ日々の中で、生前述べていたこととして、

死ぬ時は苦しみに苦しみ、『こんなことなら生きているより死んだ方が良い』と納得してから死にたい。

と言っていました。

現在の「胃潰瘍」とは、程遠く感じる苦悩を語っていますが、現在は、夏目漱石のこの苦悩も、H2ブロッカーで確実に進行は止められて、そして、ピロリ菌(胃の中に住む細菌)の退治でほぼ完全な予防となるのです。

ガンの直接的な原因は、ほとんどがわかっていないものばかりですが、ピロリ菌は胃がんの要因としてわかっていて、 Wikipedia にも、

細菌の中でヒト悪性腫瘍の原因となり得ることが明らかになっている唯一の病原体である。

と記されているように、(間接的な要因を一応除外して)胃がんの直接的な原因はこのピロリ菌であることはほとんど疑う余地はなくなっています。

ただ、胃がんは別として、胃が荒れたり、胃潰瘍になる原因として、ピロリ菌に加えて、NSAIDs(どこにでもある普通の鎮痛剤のほぼすべて)があります。これは胃をムチャクチャ荒らして、場合によっては死に導きます。実は、私も経験者です。

NSAIDs は非ステロイド系消炎鎮痛剤の略ですが、薬局で買う鎮痛剤、病院で処方される鎮痛剤のほとんどがこれに該当します。

アメリカでは、この種類の鎮痛剤による消化器の疾患(潰瘍など)での被害の統計が明らかにされていて、非ステロイド性抗炎症薬 - Wikipedia には、


アメリカでは年間に10万人以上が入院し、1万6500人が死亡している。また、薬剤が原因の救急患者の43%をNSAIDsが占めている。


とあります。

くどいようですけど、NSAIDs は特別な薬ではないです。

アスピリン、バファリン、ロキソニン、ボルタレン、カロナール、すべて NSAIDs です。このような NSAIDs だけで、(上のアメリカの例から計算すれば)世界で毎年何十万人が消化器の潰瘍などで死亡していることになるのかもしれません。

私も胃潰瘍で吐血する前にボルタレンを服用していて、間接的にはピロリ菌、直接的には鎮痛剤で胃潰瘍を発症したものと思われます。私の場合は「胃の4カ所から同時に出血」という水芸のような状態だったのですが、 NSAIDs には、そのような状態をもたらす可能性は常にあります。

ですので、「痛み止め」というのは、確かにとても有効なものですが、「気をつけて服用する」必要があると思います。

話がそれましたが、NSAIDs を除けば、胃の病気の大半はピロリ菌ですので、ピロリ菌が胃からなくなるだけで、胃の疾患の可能性は劇的に少なくなります。

ただ、ピロリ菌の除菌は、極めて大量の抗生物質を1週間服用し続けるというもので、副作用も人によっては大きいです。なので、問題もあるでしょうが、わりと長く胃で苦しんで、私のように死にかけた人たちにとっては「血を吐いて死ぬよりはマシ」ということで、大変にありがたいものではあります。

このあたりは、胃で苦しんでいた私は特に、医学の進歩として認めたいところでもあります。



夏目漱石の苦悩も理解できたり

ちなみに、夏目漱石は 42歳で胃潰瘍を発症して、49歳で胃潰瘍の出血で亡くなっていますが、日経メディカル 「病と歴史への招待」の 2007年3月号「夏目漱石の胃潰瘍はピロリ菌の仕業」に、夏目漱石の病状が書かれています。


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・夏目漱石(1867-1916年)


明治43年6月、42歳のとき東京・内幸町の長与胃腸病院で胃潰瘍と診断され、6週間の入院治療をした。

退院後は修善寺温泉ヘ療養にいったものの、宿に入って 8日目の 8月17日に 100gの吐血、そして、 19日に 180gの吐血をみた。 24日にはゲエーと無気味な音を立て 500gの血を吐き人事不省となり(略)

鏡子夫人によれば、度重なる胃病のため晩年は痩せが目立ち、髪や髭もすっかり白くなって老け込んだという。

大正5年秋、4度目の胃病が生じた。 12月2日の午後、排便の際自ら腹圧を試みた瞬間、また急に倒れて昏睡状態に陥った。絶対安静をはかるも 12月9日午後 6時に危篤状態となり、不治の客になった。享年49。

翌日、病理解剖が行われ、胃潰瘍からの大量出血による失血死と判明した。



この中の、

> 大量出血による失血死

の「感じ」については 10年前に私は経験しているのですが、上の中で、夏目漱石が、

> 晩年は痩せが目立ち、髪や髭もすっかり白くなって老け込んだ

とあるのは、「またいつ血を吐くかもしれない」という恐怖からのストレスでしょうね。胃潰瘍そのもものに、このように人を衰えさせる症状はなく、ストレスからの精神的衰弱だと思います。

今なら、

「そんなあなたにガスター10!」

とお勧めしてくれる人も出てくるでしょうけれど、当時はそのような環境はなかったわけで、かつては胃潰瘍でたくさんの人たちが亡くなっていたと思います。 作家の永井荷風も、胃潰瘍の吐血で亡くなっています。

えーと、長々と逸脱した話を書いてしまいましたが、そういえば、夏目漱石は「甘いものが大好き」だったことが有名です。当時、「甘い物は胃に悪い」とされていたようで、甘いものが大好きな漱石は、家族に隠れてでも甘いものを食べていたのだそう。

というわけで、砂糖と話が結びつきました(そうか?)。

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白砂糖だけではなく、精製されたすべての砂糖は有害だという結論

砂糖の話に戻りますが、その内容の大まかなものは、今回ご紹介する報道でもおわかりかと思います。

そして、その「シュガーサイエンス」と命名されたカリフォルニア大学の研究プロジェクトのページには、アメリカでの分類でしょうが、「砂糖」に属する 61種類の名称をすべて挙げています。

全部挙げるのは、意味がないでしょうし、一部を挙げてみます。

これらも含めて、すべて「砂糖」となっています。

アガベシロップ、バルバドス糖、大麦モルト、大麦麦芽シロップ、甜菜糖、ブラウンシュガー、サトウキビ汁、キャラメル、ココナッツシュガー、コーンシロップ、デキストリン、ブドウ糖、フルクトース、フルーツジュース、濃縮果汁、グルコース、マルトデキストリン、マルトール、マルトース、マンノース、メープルシロップ、糖蜜、黒砂糖、パーム糖、粗糖、サッカロース、ソルガムシロップ、蔗糖

全部ダメと。

フルクトースは果糖のことで、グルコースはブドウ糖のことです。

あと、マルトールとかマルトデキストリンとかは、食品添加物に使われる甘みや甘い香りの成分です。

それにしても、「ダメ」な項目にフルーツジュースと濃縮果樹があるのには驚きます。

何か翻訳でも間違っているのかなと思ったりしましたけど、やはりいくら見てみても、 Fruit juice の訳はフルーツジュース以外はなさそうと思います。

そして、アメリカの基準(アメリカ心臓協会の基準)では、1日に摂取が好ましいとされている砂糖の量は、

・成人男性 ティースプーン9杯( 38グラム)以下
・成人女性 ティースプーン6杯( 25グラム)以下
・子ども  ティースプーン3杯から6杯( 12-25グラム)以下


となっているのですが、その中で、たとえば、市販されている食品にどのくらい砂糖が添加されているかというものの例として、これもアメリカですが、

・あるトップメーカーのヨーグルトには1食あたりティースプーン7杯の砂糖
・「本物の果実」と「全粒穀物」で作られた朝食スティックには砂糖 15グラムが添加
・クランベリー果汁製品には 220ml(コップ一杯)に 30グラムの砂糖


など、シュガーサイエンスには、他にいろいろと例が挙げられていますけれど、ある種のヨーグルトなどは、1食分だけで、女性や子どもの1日の砂糖摂取量としては「リミット越え」してしまう、というほど砂糖が加えられているようです。

これは「自分で思っていないところで大量に砂糖を摂取している」とことが多いことを示唆します。

いわゆる「健康系の食品」でも、多くがかなりの砂糖を含んでもいるようです。

何だかまあ、いろいろと「病気の時代」であることは否定できないのですけれど、病気の増大の原因のひとつが「現代の文明」であるということも次第にはっきりしてきた感もないではないです。

ただ、私はそんなに砂糖を悪者にしたくはないです。

甘いものは今も昔も多くの人を幸せな気分にする力はあると思っています。

私の小さな頃は「甘いお菓子」、特に洋菓子なんてものは滅多に食べられませんでした。そして、たまに甘いお菓子やアイスクリームを食べられた時の幸福感は大変なものだった記憶があります。今でも子どもにとって甘いものは嬉しいもののひとつだと思います。

結局、何でもあまりにも簡単に格安に手に入りすぎることになってしまったことが原因なのかも。

何でも大量に食べてしまう。

たまーに、ほんの少し食べる砂糖に、それほど深刻な有害性があるとも思えません。

現代は確かに便利な時代ですけれど、「時代の便利さと、ガンや認知症などの病気の増加が比例している」というように見えるわけで、ほんの少しだけ「不便な時代」に戻った方が、健康的にはよかったりして(でも、お酒が手に入らない時代はいやだなあ)。

しかし、「今は私たちはとにかく病気になりやすい時代に生きている」ということを自覚したり、あるいは、子どもたちの世代にどう伝えるかということは大事かもしれません。うちの子どもも甘いものは大好きですし。

そんなわけで、シュガーサイエンスに関しての報道です。

この報道のタイトルは「精製白砂糖」とありますが、上にも書きましたように、シュガーサイエンスでは「精製白砂糖」に限らないことが書かれています。




8000 scientific papers link refined white sugar to chronic disease
THE WATHCERS 2015.01.14


8,000に及ぶ科学論文が、慢性疾患と精製白砂糖との関連を示す


あなたが、自分の体に対しておこなうことのできる「最も悪いこと」のひとつは、砂糖を摂取することだ。これは果実などに含まれる天然の糖分のことではなく、精製された砂糖のことになる。

米国カリフォルニア大学の科学者チームは、砂糖の摂取が身体に対してどのような影響を与えるかに関して、これまで発表された 8,000以上におよぶ科学論文を精査した。

その結果、科学者チームは、砂糖は肥満につながるということだけなのではなく、慢性的な疾患につながるという結論を出した。

この研究プロジェクトは、シュガーサイエンス( SugarScience )と呼ばれている。

シュガーサイエンス・プロジェクトは、代謝性疾患の形成における主要な要因が砂糖であることを暴き出し、また、心臓病及び、2型糖尿病の発症の条件をもたらす可能性を明らかにした。

プロジェクトの主執筆者であるローラ・シュミット( Laura Schmidt )教授は、カリフォルニア大学医学部の教授だ。シュミット教授のチームの調査結果は、砂糖が、身体、そして肝臓を含む重要な臓器に対して、極めて有毒であることがわかりやすく示している。

砂糖は通常、61の異なる名前の下に表示されており、そこには、高果糖、コーンシロップ、ブドウ糖、サトウキビジュースやショ糖を蒸発させたものも含まれる。

しかし、これらの付加的な糖を識別することはしばしば困難であり、また、現在の規制用件(アメリカの食品規制用件)では、自然の砂糖と、これらの精製された砂糖両方において、それらの日々の摂取量の規制値は定められていない。

砂糖の 61種類共通の名称の完全なリストは欄外に示してある。(訳者注 / さきほど上に記したものがその一部です)

研究の結果が示すことは、現在の(アメリカの)何千万人もの人々が、必要量をはるかに上回る砂糖を消費しているということだ。

現在のままの状態は、代謝症候群(メタボリック・シンドローム)や慢性疾患の危険因子に分類される要因の誘発へとつながり、それは、肝不全や心疾患、血塊の原因となったり、他の様々な生命を脅かす条件からの早期の死亡につながる可能性を持っている。




シュガーサイエンス・プロジェクトは「カロリーはすべて平等である」という神話が科学的欺瞞であることを明らかにする

砂糖の問題の一部は、多くの人びとが、実際に自分たちがどのくらいの砂糖を消費しているかに気づいていないということだ(どんな商品にどれだけの砂糖が含まれているかを知らない)。

医学雑誌メディカル・エクスプレスによると、平均的なアメリカ人は、毎日、ティースプーン 20杯、あるいは 75グラムもの砂糖を摂取している。これは、アメリカ心臓協会( AHA )が推奨する最大レベルよりもはるかに多くの量だ。

350ml の缶ソーダには、ティースプーンで9杯に相当する砂糖が添加されている。グラムでいえば 36グラムとなり、これはアメリカ心臓協会が成人男性に推奨される1日の砂糖摂取量の最大値だ。

成人女性で推奨される砂糖の最大値は、ティースプーン6杯、あるいは 24グラム以下。子どもの場合は、さらに砂糖を制限する必要があり、ティースプーン1日3〜6杯、グラムで 12から 24グラム以下となる。

このように、市販の食品・飲料だけで容易に砂糖の最大摂取量をオーバーする。

砂糖を摂取する最良の方法は当然ながら、果物、野菜、未処理の乳製品から摂取することだ。

野菜や果物には植物繊維などの栄養素が含まれており、それらは、膵臓のような器官がインスリンを生産するために過剰に働くことから守ってくれることにより、砂糖が早く処理される手助けとなる。

シュガーサイエンスの研究は、一般的に考えられている「すべてのカロリーは同じである」という考え方を改めた。カロリーはカロリーであるということではなく、そのカロリーの源を決定し、それぞれがどのように代謝されるかを説明している。