【日本の未来】 の記事一覧

2015年10月07日



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【お知らせ】よろしくお願いいたします



みなさま、こんにちは。

In Deep のオカです。

本日の新しい記事から、新しい URL (ブログのアドレス)において書かせていただこうと思います。

新しい URL のドメインは indeep.jp で、アクセス先は、


http://indeep.jp


となります。




  

2015年10月02日



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pink-floyd-top.jpg

▲ ピンク・フロイドの「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール (1979年)」プロモーションビデオより。仮面をつけられ、均一の表情にされた子どもたちがベルトコンベアで運ばれていく様子。






 

ランキングが重要なのではなくとも、そこは「若者」がいる場所だから

昨日、世界大学ランキングというものの報道をやっていて、日本の順位の急落ぶりが報じられていました。



世界大学ランキング 東大 アジア首位から転落
NHK 2015.10.01

イギリスの教育専門誌がことしの世界の大学ランキングを発表し、日本の大学は、東京大学がシンガポールと中国の大学に抜かれて5年ぶりにアジアの首位から転落し、ほかの上位4校も順位を大きく下げました。

アジアで見ますと、東京大学が去年の23位から43位と大きく順位を下げて、5年ぶりにアジアの首位から転落し、シンガポール国立大学と中国の北京大学に抜かれました。

また、去年59位だった京都大学が、ことしは88位となったほか、去年、上位200校に入っていた東京工業大学や大阪大学、それに東北大学は、圏外に姿を消し、日本の大学にとっては厳しい結果となりました。




ということで、記事のタイトルは「アジア首位から転落」ということになっていますが、それよりも、多くの日本の大学がランキングから姿を消し、そして、なんだかんだと日本のトップの大学である東京大学のランキングが、「世界全体の中で」相当な急落をしたということが目立ちます。

世界大学ランキングというのは、いろいろな国のいろいろな機関によって発表されますが、この世界大学ランキングは、タイム誌の、タイムズ・ハイアー・エデュケーション( Times Higher Education )というところが発表した世界大学ランキングです。

下のリンクがそのページです。


World University Rankings 2015-16


見ますと、43位の東京大学の上は、中国の北京大学になっていました。


beijing-tokyo.gif
The Times Higher Education World University Rankings


このタイムズ・ハイアー・エデュケーションでのランキングの直近 10年の東大の推移は、以下のようになっています。


東京大学の世界ランキング

2005年 16位
2006年 19位
2007年 17位
2008年 19位
2009年 22位
2010年 26位
2011年 30位
2012年 27位
2013年 23位
2014年 23位
2015年 43位


ちなみに、京都大学は 10年前の 2015年が 31位で、今年は「 88位」です。

大学ランキングに特に興味があるわけではないですが、100位以内に入った日本の大学が2つだけというのは、何だかあまりにもあれですので、500位までの日本の大学を見てみました。

なお、このランキングは、200位を超えると「201-250位」というような大ざっぱな括り方となります。

500位までですと、ほとんどの主要国の大学がランクアップされてきますが、日本の大学の結果は、


東北大学 201-250位
東京工科大学 201-250位
大阪大学 251-300位
名古屋大学 301-350位
北海道大学 401-500位
九州大学 401-500位
東京医科歯科大学 401-500位
筑波大学 401-500位



だけでした。


ちなみに、日本の大学の数は文部科学省によれば、775校とのこと。

そのうちで、世界ランキングで 10位以内に入ったのは2校、500位以内でも、たった 10校というのは、関係者には厳しい感じかもしれません。

ちなみに、安倍総理大臣は、2012年の「成長戦略第2弾スピーチ」というもので、以下のように述べていました。


abe-speech.png

「今後10年で、世界大学ランキングトップ100に10校ランクインを目指します。同時に、グローバルリーダーを育成できる高等学校も、作ってまいります」

首相官邸ホームページより


途中経過はなかなか厳しいことになっていますが、それにしても、どうして、この 10年間で、日本のランキングは、ほぼ一貫して落ち続けて、そして今年になって特に激しい急落をしたのか・・・とは思います。

上の NHK の報道では「東大がアジア首位転落」とありますが、ここだけを読みますと、「アジアの周辺国の大学が軒並みランキングを上げているから、相対的に、日本が落ちた」ような印象もありますが、そうでもないようです。

たとえば、韓国の大学もランキングが急落しています。


世界大学ランキング、韓日の主要大学がともに急落
中央日報 2015.10.02

『THE世界大学ランキング』で、ソウル大学など韓国の主要大学のランクが大きく落ちたことが分かった。

THEが公開したことしの世界大学ランキングによると、ソウル大学は86位を記録して昨年50位から大きく下落した。POSTEC(浦項工科大学)も昨年66位から116位に落ちたほか、52位だったKAIST(韓国科学技術院)は148位と大きく順位を下げた。


あるいは、台湾も過去10年最低レベルにまで落ちています。


世界大学ランキング 台湾大が12年来で最低水準の167位
フォーカス台湾 2015.10.01

英国の教育専門誌、タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)は9月30日、2015〜2016年版の世界大学ランキングを発表した。台湾大学は前年の155位から大幅に順位を落とし167位。12年来で最低水準となった。


まあ、他の国のことはともかく、なぜ、日本はこのように、どんどんとランキングが下がっているのか。

ちなみに、これは「大学のランキング」というものに価値があると思ってのことではないです。

問題は、大学というところにいるのは「その国の若者」であるということなんです。日本の大学すべてにおいてランキングが下がっていることを見ても(そして、それが中途半端ではなく、激しく下がっている)ここに見られるような「若者の変化」は、これはおそらく確実に、大学という範囲を超えて、

日本の若者全体の問題かもしれない

とも思うのです。





余裕がない上に自発的にも生きられない子どもたちの環境

結論的なことから言えば、このあたりのこともまた、過去記事の、


シュタイナーが「子どもへの詰め込み教育は絶望的な社会を作る」といった100年後に、完全なるその社会ができあがった日本
 2015年04月16日


などに書いたことのある「詰め込み教育の極限」が進んでいることが、多少なりとも関係あるとは思います。

「通塾率」という、どのくらいの子どもたちが塾に通っているかの推移を示したグラフを見ますと、特に「小学生」の通塾率が飛躍的に上がり始めたのは 1990年代からで、2000年代に高止まりします。


tujuk-2002.gif


大学に入る年齢の人たちが小学校に入った頃の年代を考えますと、日本の大学の世界ランクがどんどん下がってきたこの 10年間と、その時代の大学生たちが小学生時代に塾に入った時代と合致していることもわかります。

言い換えれば、「塾に通う小学生の増加と、日本の大学の世界ランキングが落ち始めることに相関性がある」ということが何となくわかります。


塾が頭を悪くする?

・・・とまあ、私はそう思っていますが、それはそれとして、私たちの小学生の頃の田舎では、「小学生が塾に通う」なんてのは狂気の沙汰以外のなにものでもなかったわけですが、今では小学生でも、地域によって半数などが通っている。

私は今でも、小学生を塾に通わすなどは狂気だと思っていますし、あるいは、小学校の授業なんて午前中だけで十分だと思っています。(先生の方にも時間的余裕ができますし)。

私は、子どもというのは遊べば遊ぶほど、その遊びの中で脳も鍛えられるし、感性も鍛えられると信じていますので、これだけで、みんなが飛躍的に頭が良くなるはずです(「成績が良くなる」のではなく、文字通り「頭が良くなる」という意味です)


それなのに、たとえば、私の住んでいる地域の小学校ですと、小学2年生からは1週間のほとんどが6時間授業で、家に戻るのは夕方の4時頃です。

もう今の季節ですと、午後5時近くになると暗くなり始めるので、外で遊ぶこともなかなかできず、それに、まあ、こんなご時世ですと、「暗い中でも子どもに外で遊んでほしい」と思う親もあまりいないでしょうし、必然、帰ってくると、部屋でひとりで遊ぶしかない子がほとんどだと思います。

実際、夕方の町に出ても、歩いている子どもはあまり見かけません。

それに加えて、結構な量の宿題が出され(学校で授業があるのに、どうして宿題が必要なのか昔から不思議です)、ここに塾やら習い事をしている子どもとなりますと、朝起きてから夕飯までが「ほとんど勉強だけ」の毎日


人類史の十数万年の中で、こんな暮らしをしていた日本人は今の数十年間だけだと思います。


異常な光景だとも思います。

そして、何より、そんな環境で毎日を過ごして、勉強を好きになるわけがないです。

あるいは、「考えること」が嫌いになる

人間で最も大事な「考えること」を嫌いになるというのは、人類文明にとっても結構こわいことです。

子どもの頃の詰め込みは、多くの人たちが考えている以上に、社会を荒廃させていると思います。





子どもは何をするべきか

少し前に読んだ中で「切ない気分」になったニュースとして、以下のものがありました。



「友達とあそぶ」に飢える子供たち
産経ニュース 2015.08.31

子供たちの願いは「何をしたいか」ではなく「誰としたいか」−。


全国の小学生に、放課後や夏休みに「何をしたいか」と聞いたところ、4人に1人が「友達と」「みんなで」という言葉を最も多く回答していたことがNPO法人の調査でわかった。

調査は子供たちの放課後の活動を支援する「放課後NPOアフタースクール」が昨年6月〜今年5月、全国の児童約1000人を対象に実施。計1029人が回答した。

「放課後などにやりたいこと」として、最も人気があったのはサッカーで86人。2位ドッジボール(65人)、3位鬼ごっこ(50人)など4位まで外遊びが占め、「やりたいことがない」が5位、ゲームは6位で、塾は一票もなかった。

一方、質問にはあげていなかったものの、回答中で目立ったのは「何を」するかではなく「誰と」するかという希望。4人に1人が「『友達と』海に行きたい」「『クラスみんなで』思い切り遊びたい」など、「誰」の部分を明確に回答し、中でも「友達と」が圧倒的に多かったという。

調査結果の背景について、同法人の平岩国泰代表理事は、「子供は友達と想定外の約束をせず、親が子供の予定を作る傾向にある。いまの子供は(習い事などで)月曜〜金曜まで予定がびっしりだ」と、子供の「多忙」を指摘。

これに伴い、子供同士で遊びを生み出す創造性や喧嘩を解決する人間関係調整力といった「コミュニケーション能力も低下してきているのではないか」と警告する。




私の小学校時代を思い出しますと、ここに書いてある通り、子どもの時は、「何がしたいか」ではなく、「友だちとしたい」と思って行動していたことが思い出されます。特に男の子にその傾向が強かったのかもしれないですが。

学校から帰ったら、すぐ外に出てウロウロして、近所の友だちの家に行って、遊べたらそのまま遊ぶ。

あるいは、数人で虫取り(という名の「虫の大虐殺」)をしたり、草原を歩いたり(という名の「自然の大破壊」)、やることはもう何でもよいのですよ。「誰かとしたい」と。

そして、こういう「誰かと何かをしたい」というのは、遠い古来からの人間の子どもたちに共通した気持ちだったのではないでしょうか。

今の世の中は、その「昔からの気持ち」が最も削がれた時代となっていると思います。別の言い方をすれば、「本来の人間の子どもの生き方ではない時代」といっていもいいかと思います。

子どもたちの健全性が失われやすい原因もこのあたりにあるような気もします。

昔はどこもかしこも、子どもたちがウロウロと歩き回って、「遊ぶ相手」を探していました。

でも、今は表をウロウロとすることも時間的にできない、あるいは、そういうのも何だか危うい世の中になってしまっていますが、やっぱり良くないと思います。

上の記事で、NPO の代表の人が、

> 子供同士で遊びを生み出す創造性や喧嘩を解決する人間関係調整力といった「コミュニケーション能力も低下してきているのではないか」

と「創造性」とか「コミュニケーション能力」などに関して言及していますが、そういうものが低下した人々の社会といいうのも、少し先の日本にとって良くはない思うのです。


ここで大学ランキングに話を戻せば、日本人の学力がどんどん低下し続けているのは、詰め込み教育から始まって、


子どもたちが本来の人間の生き方をしていないので、体も頭も含めて何もかもおかしな状態


となっていることが関係していることは、おそらく間違いないと思います。

遊びの中からの発想「こそ」が、人に想像力を与え、あらゆる発想の根幹となるはずです。

縄文時代の日本人から戦前頃までの日本人の子どもたちは、みーんな、ムチャクチャ遊び続けていたであろうことが想像できます。「素晴らしい日本の文明や発想」は、そこから生まれてきたはずです。

昔からある名だたる大企業などにしても、それを興した人たちにガリ勉の人など聞いたことがありません。宿題を真面目にやって塾に通っていた偉人など聞いたこともありません。

日本の小学生が「学校+宿題+塾」スタイルの子どもたちの急増という「超詰め込み時代」に入ったのは 1990年代のことで、たった 20年間ですが、そのたった 20年で、日本の国力がどのくらい落ちたか

国力なんてものはどうでもいいですが、日本人そのものの質と気力がどれくらい落ちたか。

シュタイナーは、詰め込み教育は、その社会を破壊するほどの害悪を持っていると講演で強く述べていました。





戦後の方式の教育なんて必要ない

今回のことを書いていて、ふと思い出すことがありました。

私が北海道から東京に出てきたのは 1982年頃ですが、東京で喫茶店か何かに入った時に、そこにあるモニターで流れていたのは、英国のロックバンド、ピンクフロイドの大ヒット曲『アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール』という曲のプロモーションビデオでした。

学校システムそのものを否定した歌で、この歌の入ったアルバムは、世界で 3000万枚以上売れて、2枚組のアルバムとしては、いまだに世界一の売り上げを誇っています。

そのプロモでは、子どもたちは、国家のために生産を続ける部品としての理由でのみ社会のシステムに組み込まれる様子が描かれます。


『アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール』プロモより

wall-kids.jpg



そして、教師に従順に従うように調教された子どもたちは、最後は「挽肉となって、食料となるために自分で挽肉マシンに飛び込む」という内容のプロモでした。

この歌の歌詞は、一部ですが、こんな内容です。


アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール(1981年)

教育なんて必要ない
思想管理なんて必要ない
教室で陰湿な説教なんて聞きたくないんだ
教師よ、子どもたちを放っておいてくれ

聞いてるか、教師たちよ!
お前たちの生徒を放っておけと言っているのだ!
所詮、すべては壁の中のレンガに過ぎない
お前たち教師もそのレンガに過ぎない


https://youtu.be/Fa2AhZdjuUc



プロモは、最後に「突然、真実に目覚めた子どもたち」が、学校を破壊し、社会を破壊する光景で終わります。


riot-wall.jpg



この歌は今から 36年も前のものですが、その後も同じような状態で主要国の教育は続いているのかもしれないですが、他の国はともかく、日本人の本質は詰め込みや管理教育のようなところにはないと確信しています。


日本人は本来もっと自由だし、放っておいても十分に賢明で頭のいい人たちで、必要なものはいつでも自分たち自身で学んでいける大変に優秀な民族だと思います。


日本は、不必要な勉強で、自分の国の運命の首を絞めていると本当に思います。


ピンク・フロイドのプロモのように破壊はしなくてもいいですが、日本の子どもたちが、


ある日、突然、真理に目覚める時


を私は待っています。

そして、それは誰に導かれるのでもなく、子どもたちが自身で気づかなければならないはずです。



  

2015年08月29日



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・Japan's Womenomics






 


今日、中東カタールのアルジャジーラの経済欄を見ていましたら、「ウィメノミクス」という言葉が見出しのニュースがありました。

「ウィメノミクス」は、おそらく、アベノミクスとかけた造語なんだろうなあと思っていましたら、調べてみると、そういう英語も、あるいは、カタカナになった日本語もあることを知りました。

VIVA! ウーマノミクス というページによりますと、「 Women (女性たち)+ Economics (経済)」の造語で、「女性の力で経済を元気にする」というような意味があるようです。

言葉の意味はともかく、アルジャジーラが何をそんなに大きく特集しているのかと思いまして、日本の報道を見ていましたら、「女性活躍推進法」という法律が成立していたのですね。

記事には、

日本の労働力人口の減少が想定される中で、経済成長を続けるには女性の社会進出が不可欠だ。

ともあるのですけれど、女性の社会進出については詳しくないですので、わからないですが、そういうこと以前に、「認知症の増加で、日本のビジネスモデルが重大な影響を受けている」ということについて、少し書いてみたいと思います。

結構、大変なことになっているようです。

そういえぱ、それとは違い話ですが、今日、日本人の「健康寿命」が、世界で1番になったというニュースがありました。





「健康寿命」の数字が教えてくれること


日本人の「健康寿命」、男女とも世界でトップ
読売新聞 2015.08.29

日本は男女ともに「健康寿命」が世界で最も長いという調査結果を、米ワシントン大などの国際チームが27日付の英医学誌「ランセット」に発表した。

健康寿命は、病気などで日常生活が制限されることなく、自立的に生活できる期間。世界保健機関(WHO)が健康の指標として提唱。日本もその延伸を健康目標の柱に掲げている。



というもので、2013年の日本の健康寿命は男性 71.11 歳女性 75.56 歳で、男女ともに世界のトップだったそうです。

順位は、下のようになっています。
聞き慣れない「アンドラ」というのは、スペインとフランスの間にある人口8万人ほどの小さな国です。

女性〈1〉日本〈2〉アンドラ〈3〉シンガポール〈4〉フランス〈5〉キプロス

男性〈1〉日本〈2〉シンガポール〈3〉アンドラ〈4〉アイスランド〈5〉イスラエル

ということで、日本は男女ともに1位です。

何ともめでたいことのようにも見えますが、しかし、これを、純粋な数字として眺めてみますと、実は、ここに、これからの「深刻な日本の現実」が現れていることがおわかりでしょうか。

この「健康寿命」というのは、「人の手を借りずに自立して生活できている」ことを示すわけですが、ということは、「日本人の平均寿命」から、この「日本人の健康寿命の平均」を引いた年数は、「自立していない年数の平均」を表すということになると思われます。

日本の現在の寿命は、

女性 86.83歳(世界1位)
男性 80.50歳(世界3位)


となっていて、こちらも世界のトップクラスですが、この寿命から健康寿命を引きますと、

女性の寿命 86.83歳 - 健康寿命 75.56歳=11.27年
男性の寿命 80.50歳 - 健康寿命 71.11歳= 9.39年


となります。

この

女性 11.27年
男性 9.39年


は、平たくいえば、「自立していない」年数の平均ということになり、今の日本人は、これほどの年月を「誰かの世話を受けて生きている」ことになり、多くの人たちが、

女性で平均約 11年間、男性で平均約 9年間、介護が必要な状態となっている

ことがわかります。

どんな人にとっても、10年間というのは決して短い年数ではないと思いますが、今は、子どもの数も少ないですので、今後、つまり、少し先の未来では、このあたりが重くのしかかってくるように感じます。

私も子どもは1人ですが、そのような状態で、介護生活、それも 10年などという介護生活になった場合、ひとりしか面倒を見る人がいない場合は、子どもが仕事をやめて介護をする、などの事例が多く、今、それが日本の社会に重くのしかかっているようです。





経済構造をも直撃しつつある認知症の増加の副作用

2013年の NHK のクローズアップ現代によれば、介護を理由に仕事を辞める人は、年間 10万人だそうで、これは、認知症の人が増えている現状では、今後も増えていくと思われます。

その放送から少し抜粋しますと、「すでに始まっている」新たな日本の姿が見えます。


どうする介護離職〜職場を襲う“大介護時代”〜
NHK クローズアップ現代 2013.10.24

介護を理由に会社を辞める、いわゆる介護離職をする人は、年間10万人。
今後、ますます増えると見られています。

介護の担い手は、40〜50代。
会社にとって、まさに働き盛り。

かつてない事態への危機感から、企業向けの介護セミナーには、人事担当者が殺到しています。

介護に取り組む団体の代表者たちまで、国に対策を取るよう求めています。

介護者を支援する団体 樋口恵子さん
「40代、50代ですから、次の再就職はほとんどできない。
これは本当に、日本経済の根幹を揺るがしかねない。」



そして、東京の大手総合商社「丸紅」が、40代〜50代の社員の実態調査をしましたところ、2013年の時点で、

・すでに介護をしている社員は 11%
・2016年の時点になると、8割以上が介護に直面する可能性があると答えた


という結果になったとあります。

ひとつの会社の 40代から 50代の「8割」が介護に直面するという状態になるのが「 2016年には」とあるのでした。

kaigo-2016.jpg


上のリンクには、放送内容すべてが記されていますので、興味のある方はお読みいただければと思います。

もちろん、これはこの会社だけの問題ではなく、日本の多くの会社の 40〜 50代にいえる問題であると同時に、今だけの問題ではなく、

これから未来にまで、拡大しながら続く問題でもある

ということがいえそうな気がします。

要するに、増えていくことは想定できても、「突然、認知症の人々が減り始める」という図式を想定することは今の時点ではできません。

もっとも、前回の記事、

認知症や精神的苦痛の混沌から未来の地球を救うための「量子力学的な発想の転換」の必要性を「認識や意識の存在する場所」から考えてみる
 2015年08月28日

では、この現状を逆転させる方法はないかと考えたりしていたわけですけれど、急に物事が「神がかって動く」というものでもなさそうですし、この介護問題は予想以上に、「日本の破壊」と関係していることがわかります。

最も働き盛りの人たちが働くことができない。

そして、特に、介護離職に関しての厳しいデータが、2014年に、明治安田生命福祉研究所が行った調査でわかります。

全文は、

「仕事と介護の両立と介護離職」に関する調査

にありますが、

・ 介護専念者の5割以上が、介護開始から1年以内に離職している
・ 女性の介護専念者の3割近くが、親が介護認定を受けていない段階で離職
・ 介護転職をした場合、平均年収が男性で4割、女性で5割下がった


など、特に一人っ子の場合、「自分以外に親の面倒を見られる人はいない」ということで、介護の開始から早い段階で、仕事を辞めざるを得なくなるようです。

ところで、この「認知症患者の急増のペース」ですが、調べるほどに、予想以上に事態が拡大していることがわかってきます。その状況を少し書かせていただきます。




想定をはるかに肥えた激増ぶりを見せている認知症患者

少し前の、

認知症大国・日本の彼岸(1) : 高齢者人口が若者人口の5倍に達する10年後は、減少した若者人口200万人を認知症人口がそっくり埋める構図に
 2015年08月14日

という記事に、今年、厚生労働省が発表した「 10年後」の 2025年の認知症患者の予想数に関するニュースを載せました。


認知症患者は2025年に700万人を突破。65歳以上の5人に1人
認知症ねっと 2015.01.09

厚生労働省は7日、全国で認知症を患う人の数が2025年には700万人を超えるとの推計値を発表した。65歳以上の高齢者のうち、5人に1人が認知症に罹患する計算となる。

認知症高齢者の数は2012年の時点で全国に約462万人と推計されており、約10年で1.5倍にも増える見通しだ。



この記事では、2012年の実際の数と。今年の厚生労働省の予想数として、

・2012年の時点での認知症患者が 462万人
・2025年の時点の認知症患者予想数が 700万人


となっているわけですが、

「数年前は、こんなに認知症が増えるとは誰も予測していなかった」

ことが、昔の調査と推定値を見るとわかります。

下のグラフは 2008年に、厚生労働省がまとめた、認知症患者数の推移です。

2008年に厚生労働省が予測した認知症患者数の推移
fig_nc_n201.gif
メンタルナビ


この時の予測では、

・予測 2010年 251万人
・予測 2015年 302万人


となるものでしたが、現実には、

・実際 2012年 462万人

と、2012年の認知症患者の数は 2008年時点の予測をはるかに上回る数となっています。

そして、圧巻は 2025年の予測の差で、

・2008年の予測 → 2025年 386万人
・2015年の予測 → 2025年 700万人


というように、ほんの7年前の予測の倍の予測値となっているのです。

つまり、それだけ、「予想以上の激しい増加ぶりを見せている」ということになるのだと思います。

ちょっと極端かもしれないですが、7年間の「誤差」を今後にも当てはめるとすると、10年後の 2025年の認知症患者の数は、1000万人を越えていても不思議ではないように思います。

そして、20年後の 2035年(私などが完全な高齢者になる頃)には、高齢者の2人に1人くらいが認知症になっているというようなことも考えられなくもないです。

認知症が劇的に増えている理由は、以前よく書いていましたが、

「多くの日本人が日常的に薬を飲み過ぎている」

ことがひとつの原因であることは最近確信を持っています。

日本は世界で最も降圧剤を処方している国ですが、降圧剤のように、毎日飲む「細胞への影響が強いもの」や、他にも、睡眠薬や抗不安剤、コレステロールの薬、血糖値の薬、抗うつ剤といった毎日飲むようなものが、脳の機能低下と関係していることは、影響の大小はあるでしょうけれど、間違いなく関係しているように思います。

この日本人の「薬好き」の傾向が改善するには、健康保険制度が破綻するくらいしかないでしょうし、まだまだ認知症の増加は続くと思われます。

それでも、日本は長寿国ですし、寿命はまだ延びるかもしれないことを考えると、さきほどの「寿命から健康寿命を引いた年数=自立していない時」は、さらに長くなるのかもしれません。

未曾有の状態です。

こんな時代が、わりとちょっと先にまで来ている。





老いてきている地球

まあ、もっとも、これは日本だけの問題ということではなく、WHO は、2050年には、全世界の認知症が「1億人」を突破すると発表しています。


世界の認知症患者数,2050年には1億人を突破 - WHO の報告書
MT Pro 2012.4.12

現在,約3,560万人いる世界の認知症患者数は2030年には6,570万人と倍増、2050年には1億1,540万人と3倍に増加−世界保健機関(WHO)が4月11日に発表した報告書の中でこのような試算を示している。

WHOは認知症の介護や医療にかかるコストは年間6,040億USドル(72兆円)と莫大で,今後も罹患率の伸びをしのぐ勢いで増加するだろうとしている。



下は WHO が発表した「全世界の 60歳以上の人口」の推移です。

who-age-60.gif


この 50年間で倍増、過去 100年だと、10倍近く高齢者が増加していることがわかります。

高齢化は、地球全体の問題となっているのかもしれません。

「地球が老化している」という表現をしても差し支えない惑星になってきていることがわかります。

思えば、これも昨日の記事に書きました、アメリカの科学者ロバート・ランザ教授が言った、

「空間と時間を物理的なものとして処理することによって、科学は世界を理解するための完全に間違った出発点を拾い上げてしまいました」

と似た概念なのかもしれないですが、私たちは、人間の一種の永遠性よりも、「物理的な年齢」というものだけに着目して、「長寿は無条件に素晴らしい」と、そのことに縛られて長く過ごしてきました。

もちろん、長生きを願うことは間違いではないと思います。

しかし、

「私たちは何のために長生きをするのか」

ということを今ひとつ考えてこなかったような感じもするのです。


「肉体を持って生きる」とは何なのか。


頭では、私なども、人間の永遠性を理解していても、もっと感覚的というか、現実的にそのことを深く理解しないと、「長生き合戦」だけが続いていく。

いずれにしても、現実として、日本はすでに「かつて見たことのない状態」に突入していることは言えるようで、様々な破壊が起きているようです。

自分も含めて、誰でも将来は認知症になるかもしれないですが、認識がしっかりしている間に、どのように日々を生きるか、そして、「生きることとか存在とは何なのか」を考えることが、自分の精神を保つ上でも大事なことなのかもしれないと思います。



  

2015年08月28日



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Epoch Times






 



最近のニュースで思い出すふたりの祖父

私の母方の祖父は、北朝鮮の初代最高指導者の金日成と非常によく似ていた人で、父方の祖父は、山口組の六代目組長の司忍組長とよく似たコワモテの人でした。

金日成似の母方の祖父は、学歴はないながらも、炭鉱夫から市の助役にまで上り詰めたという自力型の出世街道を進んだ人で、このあたりも、やや北朝鮮の初代最高指導者と似た街道だったようです。

下のような絵を見ると、可愛がってくれたおじいちゃんを思い出します。

金日成主席の死を悲しむ人々のイラスト
sun10.jpg
北朝鮮資料館


そして、山口組六代目組長と似た父方の祖父もまた、若くしてテキヤの親分だったというあたりは、うまくできたものだと思います。

そんな二人の祖父の隔世遺伝を受けている私は、できれば、コワモテで生まれたかったのですが、この夏、北海道に帰った時、親戚のおじさんに、

「いやあ、(母方の)おじいちゃんとそっくりになってきたな」

と言われて、私は心の中で、

「だったら、年とったら、金日成になっちゃうじゃないか」

と思いながらも、それなりのファッションなどを今から用意しておいてもいいのかな、とも思い、老後の自分のイメージがだんだんと固まってきた感じもあります。

最近の北朝鮮の台風の被害(地球の記録に記事を書きました)とか、ニュースで山口組の混乱の報道を見まして、自分のおじいちゃんのことを思い出したのでした。

ちなみに、金日成じいちゃんは、30年くらい前、83歳で亡くなったのですけれど、糖尿病だったにもかかわらず、晩年まで酒もタバコもやめることもなく、しかし、他の病気もなく、ぼけることもなく、ある日突然倒れて、そのまま1週間後に病院で亡くなるという感じでした。

今思えば、わりと理想的な亡くなり方をしていました。

そういえば、山口組といえば、先日亡くなった俳優の加藤武さんは、映画『仁義なき戦い 代理戦争』(1973年)の中で、山口組舎弟と兄弟杯を交わすことになる打本会の組長の役をコミカルに演じていたことを思い出します。

この加藤武さんの亡くなり方も見事なものでした。

前日までピンピンしていて、86歳で スポーツジムで突然亡くなっています。産経ニュースに、加藤武さんと親しかったらしい早稲田大学の児玉竜一教授の言葉が載せられています。


スポーツジムのサウナで倒れられたことからも分かるように、直前まで元気そのもの、いつもの快活な大音声は健在だった。

代表を務めておられた文学座でも前日に例会へ顔を出され、9月から主演舞台が予定されていた。

特に、戦後70年のこの夏はインタビューや体験談にも引っ張りだこで、雑誌『演劇界』の8月号で戦中戦後の歌舞伎についてうかがった折も2時間半休みなし、まだまだ話し足りない感じだった。



> 9月から主演舞台が予定されていた。

とありますが、86歳での主演舞台というのはすごい。

ガーッと元気でいて、スッと亡くなったようです。

少し前に書きました「自立した人生(3)…」でご紹介した荘淑キさんという台湾の女性の医術家の方も、その直前まで元気でいられて、「スッ」と消えていくように亡くなっていった様子が伝えられていますが、私も、そして、できれば、みんなが、荘さんや加藤武さんのように、誰の手を煩わせることなく亡くなることができればいいなと思います。

ところで、スッと亡くなった場合でも、長く認知などに問題があった場合でも、あるいは、意識がない状態が続いた場合でも、

「正常な意識が、その人のどこかに存在し続けている」

と感じさせる記事を目にしました。

たとえば、重い認知症といいますと、「亡くなる最期まで、元気な時のような、きちんとした認識を示すことはない」と思われるのが普通かと思いますが、医学用語で「末期意識清明」という状態が存在します。

これは、

「亡くなる最期の最期に、突然、明晰な意識となる」

という状態が稀に観察されることがあるそうで、そのことを指します。

誰にでもあるものではないでしょうが、重度の精神病や重度の認知症で、もう何年も人とのコミュニケーションがとれていなかったような人が、死の直前に、「意識が普通だった頃と同じように家族と話し出す」という例についてのことです。

この「死亡する直前だけ」自分を取り戻すという事例が、多くはないですが、記録されています。

認知症を含む精神疾患で何年もコミュニケーションがなかった人が、死の直前だけ、「昔のその人のように明晰に話し、家族と最期の一時を過ごす」という例。

先日、「臨死研究のための国際協会( IANDS )」という医学者会議で、この末期意識清明について発表されたことについて、エポック・タイムズで記事になっていたのですが、その事例の中には、ある脳腫瘍の男性患者で、

「腫瘍が広がり、すでに正常な脳がない状態」なのに、突然、はっきりとした意識を取り戻して、家族にお礼と感謝を述べて、そして、静かに死んでいった記録も書かれています。

この時に担当していた医師は、その患者の会話は「脳を使ってのものではない」と考えるしかなかったことを述べています。

何しろ、もうその患者には「脳はない」のです。

でも、きちんと家族と会話し、お別れを告げて亡くなっていったのでした。

いったい、「意識」というのはどこにあるのだろうか・・・ということを改めて考えざるをえません。

漠然とはよく考えることはあります。

言葉だけなら、人間というのは「単なる生きる肉塊ではない」ことも理解します。

いろいろな説はありますが、たとえば、シュタイナーの主張なら、人間は、

・肉体
・感受体
・生命体
・自我


から成り立っていて、死ぬ時は、肉体、次に感受体というように亡くなっていくのですが、死んでもなお残る「自分」があり、それは、次の世につながっていくものとなるということになりますが、前世とか来世とかの話は別としても、「末期にだけおとずれる意識の清明状態」の事例を見ますと、たとえ、精神的な重い疾患でも、認知症でも、

明晰な意識はどこかに残っている

と考えるのが妥当で、だったら、「その場所」を探る試みというのは無駄なことではないのではないかという気もするのです。

今回は、そのエポック・タイムズの記事をご紹介しますが、根本的な意識のある場所は、少なくとも、上の例のように「脳」ではないです。





観点を変えれば、何かの打開策があるのかも

どうして、こんなことに興味を持つのかといいますと、最近、たとえば、

認知症大国・日本の彼岸(1) : 高齢者人口が若者人口の5倍に達する10年後は、減少した若者人口200万人を認知症人口がそっくり埋める構図に
 2015年08月14日

のような記事を書きましたけれど、日本ではこれから認知症の人々の数がとんでもない率で増加し続けることがほぼ確定していることについては、懸念というのか、日本の未来には「数人に一人の高齢者が認知症という、かつて見たことのない社会」が待ち受けていることを考えることがあります。

しかし、この末期の意識の明晰状態が「何らかの試みによって」その正常な意識を作用させることができるような概念があるならば、ほんの少しの「認知症への希望」というものが生まれ得るのではないかというような気がしたのです。

どんなに精神を痛めても、認知が悪化しても、

その人のどこかに正常な意識が持続している

という可能性を追求してみると、それは一種、スピリチュアル的なオカルト的な話とも近いものなのかもしれないですが、何かがありそうな気がするのです。

あと 10年で、日本の認知症患者の数は 700万人から 800万人になると予測されています。

そして、おそらく・・・ですが、その時に、介護保険はもはや機能していないようにも思うのです。

うちの奥さんも介護関係の資格を持っていて、そういう仕事をしていますが、多くの事業所は、今でも限界に近いところが多いようで、大手は次々と介護事業から撤退し始めていますし、今のように専門の介護が受けられる時期は、もうそんなに長くはないような気もします。

今のこの現状で、「どうなる、この社会・・・」と嘆いているより、考え方を転換すれば、どこかに何かがあるはずです。

たとえば、「死後の意識」については、

臨死体験についての史上最大規模の調査は「死後も意識は継続する」ことを示した
 2014年10月10日

という記事で、死後も意識が継続している「らしい」ことが、大規模研究で判明したことを紹介したことがあります。

after-death-001.gif
IB Times

あるいは、

量子物理学者が証明しようとする「死後の世界と来世」。そして「宇宙は人間の認識がなくては存在しない」こと
 2013年11月19日

という記事では、アメリカのウェイクフォレスト大学再生医療研究所のロバート・ランザという教授が、量子力学の概念で、「死はリアルには存在しない」というようなことを語っていることをご紹介していますが、この記事では、私たちが見ているものは、実は「単なる光の波長であり、実体ではない」ことに言及していて、私は以下のように書いています。


どうしてその音がそのように聞こえているのか、どうしてそのような肌触りを感じるのか、全部、その理由はわかっていません。

なぜかはわからなくとも、それらの感覚を感じながら、人間はこの世界を経験している。

つまり、光線とか波長とか振動とかの、存在しないようなものを体験している中で私たちは生きているということはある程度の事実だと言えそうです。

私たちの周囲の実態はほとんど「ない」。

そして、この宇宙はその全体がその「ない」もので作られている。

あるのは「人間による認識だけ」というのが、シュタイナーら中世神秘学の人々の考えであり、また、過去の偉大な宗教、例えばキリスト教やイスラム教や仏教、そして神道などの教えとも全体として、あるいは一部が一致していると思われます。



とあり、

>この世にあるのは、人間による認識だけかもしれない

と、私は書いています。

だとしたら、精神的な苦痛や、認知症というような現実も「作りだしている」可能性があるかもしれません。

何がそれらを作りだしているのか。

それは「私たちの今の世界での間違った宇宙の認識」であり、先ほどのロバート・ランザ教授の以下の言葉が答えとなっている気がします。


「空間と時間を物理的なものとして処理することによって、科学は世界を理解するための完全に間違った出発点を拾い上げてしまいました」 - ロバート・ランザ


やはり、私たち現代社会の人間の認識は、その根本が何か間違っているのだと思います。

その間違いの「根源」は何なのか。

どうすれば、それを是正できるのか。

そのことを必死で考えなければ、ただただ日本(あるいは世界)は混沌とした苦痛が膨張するだけの世界になってしまうような気もします。

世界への認識を変えることができれば、これらの苦痛を消滅させることができるのかもしれません。

まだ時間はあります。

考えて、考えれば・・・きっと、何かが(希望的観測では)。

長々といろいろ書いてしまいましたが、「末期意識清明」についての記事をご紹介します。




People With Severe Mental Disorders Mysteriously Become Clear-Headed Just Before Death
Epoch Times 2015.07.23


重度の精神障害を持つ人たちのうちの何人かは、不思議なことに、死を直前にした時に認識が明晰になる


統合失調症や、アルツハイマー病、および様々な深刻な精神機能障害を引き起こす条件を持つ人々は、ときに、死の直前になって、不可解ともいえるほどに、記憶と心の明瞭さを回復する。

その際には、彼らの心は驚くほど完全で、一貫性を示すように見える。実際には、彼らの脳の状態は、それまで以上に悪化しているのに、だ。

自分の名前さえ何年も忘れてしまっている患者たちが、死の直前になり、突然のように、家族を認識して、家族と、過去・現在・未来についての正常な会話を始めるのだ。

どうして、このようなことがしばしば発生するのかはまったくわかっていない。

例えば、医学博士のスコット・ヘイグ( Scott Haig )氏は、タイム誌に、若い脳腫瘍患者のディヴィッドさんについてを記している。腫瘍だらけの脳を持つ彼は、やはり、死ぬ直前に突如として、頭脳が明晰な状態に戻った。

ディヴィッドさんは、死の数週間前から話すことも動くこともできなかった。

ディヴィッドさんの脳を CT で検査した時には、ヘイグ博士によると、

「ほとんど脳は残っていない」

状態だった。

しかし、ディヴィッドさんは、彼が亡くなった晩、死の5分前に明晰な意識を取り戻し、家族にお別れの言葉を告げた。

ヘイグ博士は言う。

「それは、ディヴィッドさんが脳を使って発したお別れの言葉ではないのです。なぜなら、彼の脳はすでに破壊されていました。転移した腫瘍は、単純に脳を圧迫していたのではなく、脳を消し去っていたのです。転移は実際に組織を交換してしまっており、彼の脳はもうそこにはなかったのです」

「私の患者だったディヴィッドさんのあの言葉は…脳が働いたものではなく、単純に彼の「心」そのものでした。脳はすでに破壊されている中で、父親として最期の言葉を家族にかけたかった心……」

ヘイグ博士にとって、心が脳から離れて存在することは明らかだ。

あるいは、他の人々が、「末期意識清明」( terminal lucidity )として知られるこの現象の生理的な理由として考えられる可能性を見る。

2012年に、論文『末期意識清明:レビューと症例収集』をまとめた、バージニア大学とアイスランド大学の研究者たちは、末期意識清明の状態の人々の変化する生理学的状態は、ただひとつのメカニズムだけで説明することは難しいことを示す。

バージニア大学のマイケル・ナーム博士( Dr. Michael Nahm )他の論文の執筆者たちは、次のように述べている。

「現時点では、私たちは、末期意識清明の決定的なメカニズムを策定することはできないと思われます」

「確かに、異なる精神障害においての末期意識清明は、疾患の病因に応じて、異なるプロセスから生じる可能性があります。例えば、脳の慢性疾患患者における悪液質からと考えられる脳組織の収縮原因の場合は、占拠した頭蓋内病変による圧力が緩和されて、限られた脳機能の束の間の復帰を可能にすることがあります」

執筆者たちはまた、

「延命のサポートが打ち切られた患者の一部では、脳内の電気的活動(脳波活動)の原因不明の過渡な急増を明らかに示すことがあります。これは死の直前に、血圧を失う際に見られます。これらの患者は、認知機能の復帰に関しての臨床的証拠は報告されていないながら、これらの知見が示すことは、末期意識清明状態の神経科学は、伝統的に考えられてきたよりも複雑であるということです」

と指摘する。

末期意識清明は、19世紀の医学ではよく知られていたと研究者たちは言う。しかし、20世紀の医学文献にはそれらの症例はほとんど存在しない。

研究者たちは、過去 250年に書かれた医学文献に記載された 83例の末期意識清明を検討・分析した。

この研究は「心と脳」の関係をさらに理解することが期待された。

また、研究者たちは、末期意識清明を理解することが治療法を開発するうえで有用である可能性があるともいう。

例えば、オーストリアの医師ユリウス・ワーグナー・ヤウレック( Julius Wagner-Jauregg / 1857 - 1940年)は、精神錯乱の症状が、高熱の間に時として減少することを観察した。ヤウレックは、この知見から、麻痺性痴呆症(脳に影響を与える神経障害)に対しての発熱療法を開発し、ノーベル賞を受賞している。

ウィーン大学認知科学部の教授アレクサンダー・バクヤニー博士( Dr. Alexander Batthyany )は、この数年、末期意識清明を研究し続けている。

バクヤニー博士の最近の研究の結果が、2014年の「臨死研究のための国際協会( IANDS )」2014年の会議で発表された。

博士は 800人の介護担当者を調査したが、回答を得られたのは、そのうちの 32人だけだった。この 32人の介護担当者は、累積で 227人のアルツハイマー病や認知症の患者の世話をしていた。

これらの患者のうちの約 10パーセントが、突然、意識が明晰に戻ったという。

しかし、バクヤニー博士は、これらは自己回答であり、全体の回答数の少なさ( 800人中 32人)から、末期意識清明の事例が極めて少ないことを示すだろうことに注意を促す。

それにもかかわらず、末期意識清明を目撃したことは、介護者たちの一部に大きな影響をもたらしたという。

調査対象のひとりの介護者が以下のように言った。

「これ(末期意識清明)が起きた前は、私は自分で世話をしている人々を、まるで野菜のような・・・シニカルな感情で接していました。しかし、今はちがいます。私は、永遠に不滅の大事な人々をケアしていることを理解するようになりました」

以下は、バクヤニー博士、およびバージニア大学の研究者たちによって収集されたいくつかのケースだ。

末期意識清明の事例

「ほぼ失語症で、認知症の高齢者の女性で、もはや人々を認識していない…
ところが、ある日、予想外なことが起きる。彼女は、娘を呼び、娘にすべての感謝の心を告げた…
それから、彼女は、孫と電話で会話をし、優しさと暖かさを孫と交換し…
お別れの言葉を口にしたその後すぐに、彼女は亡くなった。」( IANDS 会議でのプレゼンテーションより)

ナーム博士と研究者たちは、1840年に書かれた医学文書の症例を挙げた。

「徘徊憂鬱」( wandering melancholy / melancholia errabunda )と診断された 30歳の女性が入院したが、その後まもなく、彼女は躁になった。4年間ものあいだ、彼女は心の混乱と、他人との非干渉の状態で生きていた。

彼女が病気で発熱したとき、彼女はその薬を服用することを激しく拒否した...

彼女の健康状態は急速に悪化していく。ところが、彼女の体に弱くなっていった時に、彼女の精神状態はきわめて改善した。

死の2日前に、彼女は完全に明晰になった。

彼女は知性と明快さを兼ね備えて会話をした

その会話の内容は、彼女のもともと受けていた教育の範疇を超えるようにさえ見えという。

彼女は、家族の生活について尋ね、涙と共に、かつて薬の服用に関しての自分の態度を後悔した。

彼女はその後まもなく死亡した。

ナーム博士によって再記述された別の症例は、A・マーシャル( A. Marshall )によって 1815年に書かれた著述『病気に起因する躁病と狂犬病の解剖学』( The Morbid Anatomy of the Brain in Mania and Hydrophobia )に書かれてある例からのものだ。

報告されたのは、自分自身の名前さえ覚えていないほどの記憶喪失に苦しみ、怒りと極めて暴力的な態度のひとりの患者の例だ。彼は、10年以上、深刻な病気に陥り続けて入院していた。

ところが、彼は急に穏やかになる。

彼が亡くなった前日、彼は突然、理性的になり、牧師と会いたいと言った。

彼は、牧師の話に聞き入り、そして、神が彼の魂に慈悲をもたらしいほしいという希望を表明した。



  

2015年08月20日



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ガン患者が最も少ない県から学ぶ「健康的」な食生活
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putiya.comjpnsport.go.jpirasutoya.com


上の図は冗談のように見えますが、「冗談とも言い切れない」ということが、最後までお読みになるとおわかりになるかもしれません。






 



さらに食生活と健康状態データを調べ進めてみました

つい先日の記事、

[必見のデータ]砂糖も大量摂取OK、塩も大量摂取OK、食用油も大量摂取OKを示しながら「健康と心の関係」を如実に描き出す「美しき緑の長野県」
 2015年08月15日

では、砂糖も塩分も食用油も大量に摂取しながら、日本の中で、

・平均寿命が1位
・ガン死亡率(全体)が最も低い


という「長野県」の健康の謎に迫りました。そして、どうやら、その理由は「小林さんという名字が多い」ということだということがわかりました(ちがうわ)。

実際には、データを見ると、長野の人たちは野菜をよく食べるということはありましたが、それ以上に、「他人の利益を喜び」、「日常の娯楽と楽しみを忘れない」というような長野県の人たちの「心」が、死亡率を低くしているような気がしました。

その長野県のランキングで目立つのは、下のようなものでした。

長野県でランキング上位の項目

健康関係
平均寿命:女性(1位)
平均寿命:男性(1位)
年齢調整死亡率(47位)
ガン死亡率(47位)
糖尿病患者数(41位)
脳梗塞死亡者数:女性(2位 / 1位は山形県)

と、平均寿命、死亡率、ガン死亡率の低さなどで全国でトップ。

ただ、脳梗塞で亡くなる方は多いです。

そして、「消費」では、長野県は以下がトップでした。

砂糖消費量(1位)
野菜摂取量(1位)
味噌消費量(1位)


以前、記事でも書きましたが、一般的に「悪い」と言われている砂糖の消費量が日本一。味噌も1位。そして、食塩の消費量は全国4位と、長野県の方々は、塩分、糖分共に大量に摂取しているようです。

しかし、長野県は、美術館と博物館の数が日本で1番の率だったり、映画や楽器や園芸を積極的に楽しんでいるというような「心の余裕」を感じるデータを数多く示す県でもあります。

もちろん、これだけでは、実際のところ、どうして長野県の人たちの寿命がこれほど長く、ガンで亡くなる人が少ないのか、その理由はわかりません。

しかし、私たちは健康ということに関して、あまりにも「食べ物」と関連し過ぎて考えることに、どこか縛られてはいないだろうかとは思ったのです。

そんなわけで、もう少し、健康と食べ物について、他のデータを見てみようと思いました。

たとえば、今の世の中では、野菜と共に、

「魚は体に良い」

というようなことがよく言われます。

特に、サバやイワシなどの海の青魚は、DHC だとか EPA だとか、あまり詳しくないですが、いろいろな栄養があるので、体にとても良いというようなことはテレビショッピングの健康食品の番組でも目にします。

「毎日、魚を食べましょう」みたいなフレーズもよく耳にします。

何より、私自身がサバやイワシなどの青魚が大好きで、特に、シメサバは、幼い頃から大好きでした。回転寿司で、青魚だけで終わることなどザラです。そういう青魚好きの私のおこなってきたことはよいことなのか、そうでもないのか。

ということで、都道府県ランキングサイトから、

魚の消費量の多い県と少ない県

の健康に関しての比較をおこなってみました。

ちなみに、今回のランキングでは、わりと厳しいデータが示されてしまっている県(たとえば、青森県など)もあります。データの比較というだけで、他意はないのですが、当該県に住まれている方などで、お気を悪くされた方がありましたら、お許し下さい。

では、まず、「魚をよく食べる県」の上位3位。
数値は年間で食べる魚介類の量です。

果たして、テレビショッピングで言うように、毎日、海の魚を食べることは健康に良いのでしょうか。




魚の消費と健康の関係

魚介類消費量上位ランキング県は、

1位 青森県 (75,261グラム)
2位 鳥取県 (60,356グラム)
3位 秋田県 (58,957グラム)


となります。

青森県が日本で最も魚介類をよく食べる県のようで、2位の鳥取と比べても、突出した数値となっています。

ちなみに、やや意外な感じですが、日本で最も魚介類を消費しないのは、沖縄です。

あとでふれますが、沖縄の魚介類摂取量は、青森県の3分の1以下です。

それでは、魚貝類消費量の上位3県の健康に関するランキングです。

まず、青森県。



魚介類消費量第1位「青森県」の健康関連ランキング
>> ランキング

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青森県


青森県の疾病・健康関係のランキング上位項目

死亡率:女性(1位)
死亡率:男性(1位)
がん死亡率:男性(1位)
がん死亡率 (1位)
卵巣がん死亡率 (1位)
大腸がん死亡率(1位)
大腸がん死亡率:男性(2位)
胆のうがん死亡率:男性(1位)
胆のうがん死亡率(1位)
肺がん死亡率:男性(1位)
肺がん死亡率(2位 / 1位は北海道)
悪性リンパ腫死亡率:女性(1位)
悪性リンパ腫死亡率(1位)
膵がん死亡率:男性(1位)
がん死亡率:女性(1位)
膵がん死亡率(1位)
糖尿病患者数(2位 / 1位は島根県)
前立腺がん死亡率(2位)
女子小中学生肥満率(1位)
男子小中学生肥満率(1位)



と、なかなか厳しい数字が表示されますが、青森県は、平均寿命も、

平均寿命:女性(47位)
平均寿命:男性(47位)


となっています。

そして、何となく意外ですが、青森県は、小中学生の「肥満率」が日本で1番なんですね(最も肥満率が低いのは京都)。

青森県の健康の全般的なランキングは次のようになります。


他の鳥取県の健康に関する項目

平均寿命:女性(47位)
平均寿命:男性(47位)
年齢調整死亡率:女性(1位)
年齢調整死亡率:男性(1位)
がん死亡率 (1位)
脳梗塞死亡者数(9位)
狭心症・心筋梗塞死亡者数 (14位)
糖尿病患者数(2位)



うーん・・・。海や自然も多そうな環境の青森で、このような数値となってしまっている理由はわからないですが、魚介類消費1位の青森県はこのように、やや厳しい結果となったデータでした。

なお、青森県は、魚介類の消費以外に上位の消費となっているものとしては、

青森県の消費上位

ソーセージ消費量(1位)
りんご消費量(1位)
食塩消費量(1位)
炭酸飲料消費量(1位)
インスタントラーメン消費量(1位)

となっています。

青森の人々は、ソーセージとかインスタントラーメンをよく消費しているようです。
とはいえ、これらの消費から何かを推測するのが目的ではないですので、先に進みます。

魚介類の消費量の2位は、鳥取県です。



魚介類消費量第2位「鳥取県」の健康関連のランキング
ランキングデータ

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鳥取県


鳥取県の疾病・健康関係のランキング上位項目

大腸がん死亡率:女性(1位)
胃がん死亡率:(2位 / 1位は秋田県)
悪性リンパ腫死亡率:男性(2位 / 1位は岩手県)
うつ病患者数(2位 / 1位は北海道)
老衰死亡者数(2位 )
熱中症死亡者数(2位)
病院増減率(1位)


鳥取県の健康関係のランキング下位項目

悪性リンパ腫死亡率:女性(46位)
膵がん死亡率:女性(46位)
新型インフルエンザ年間感染者数 [ 2010年 ](47位)



このようになっています。

一部のガンで多いものがありますが、全体として何か突出しているというわけではないようです。

他の項目は以下のようなります。


他の鳥取県の健康に関する項目

平均寿命:女性(36位)
平均寿命:男性(40位)
年齢調整死亡率:女性(16位)
年齢調整死亡率:男性(11位)
がん死亡率 (4位)
脳梗塞死亡者数(11位)
狭心症・心筋梗塞死亡者数 (6位)
糖尿病患者数(32位)



ガン死亡率はやや高いですが、糖尿病の人は少ないです。

そして、魚介類消費量の第3位は秋田県です。



魚介類消費量第3位「秋田県」の健康関連のランキング
ランキングデータ

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秋田県


秋田県の疾病・健康関係のランキング上位項目

ガン患者数(1位)
高齢ガン患者数 (1位)
食道がん死亡率:男性(1位)
食道がん死亡率(1位)
胃がん死亡率:男性(1位)
胃がん死亡率 (1位)
卵巣がん死亡率(2位 / 1位は青森県)
ガン死亡者数:女性 (2位 / 1位は島根県)
がん死亡率:男性 (2位 / 1位は青森県)
脳梗塞死亡者数:男性(2位 / 1位は山形県)
高齢うつ病患者数(1位)
栄養失調死・餓死者数(1位)
自殺者数(1位)


秋田県の健康関係のランキング下位項目

膀胱がん死亡率 (47位)




ということになりまして、秋田県は、膀胱ガンの死亡率が全国で最も低い他は、ガンでの死亡率は比較的高いように見えます。

他の項目は以下のようになります。


他の秋田県の健康に関する項目

平均寿命:女性(39位)
平均寿命:男性(46位)
年齢調整死亡率:女性(10位)
年齢調整死亡率:男性(2位)
がん死亡率 (2位)
脳梗塞死亡者数(2位)
狭心症・心筋梗塞死亡者数 (37位)
糖尿病患者数(5位)



こう見ると、秋田県は、確かに健康面ではややマイナス気味の数値ではあるのですが、ただ、秋田県には以下のような素晴らしいデータがあります

刑法犯認知件数 (47位)
重要窃盗犯認知件数 (47位)
小学校不登校児童数 (47位)
中学校不登校生徒数 (47位)
校内暴力発生件数 (47位)

要するに、秋田県は、

・日本で1番、犯罪が少ない
・日本で1番、不登校の子どもが少ない
・日本で1番、校内暴力が少ない


ということになっている県で、人びとの心や精神面ではとても健やかな感じがとてもします。

それだけに、ガンの死亡率が高いのはなぜかなあとも思います。

こう見ますと、数値だけを見ますと、魚介類消費上位の3県は、健康的な面では数値はあまり高いとは言えない部分があります。もちろん、「魚」だけで比べられるものではないですが。

うーん・・・じゃあ、「魚をあまり食べない県」はどうなのだろう、と思い、こちらも調べてみることにしました。これをやったおかげで、2日がかりの記事となってしまいました。





魚を食べない県の人たちの健康

魚介類摂取量の下位の県は、37位の群馬県とも38位の東京都を除けば、西日本に集中します。そして、最も魚介類を消費しない3県は、以下のようになります。

魚介類消費量下位ランキング県

45位 鹿児島県 (37,550グラム)
46位 熊本県 (35,978グラム)
47位 沖縄県 (24,439グラム)


海に囲まれている沖縄の魚介類の摂取量が「飛び抜けて少ない」のは何となく不思議です。

まず、魚介類消費量 45位の鹿児島県は以下のようになりました。



魚介類消費量45位の「鹿児島県」の健康関連のランキング
>> ランキング

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鹿児島県


鹿児島県の疾病・健康関係のランキング上位項目

白血病死亡率:女性(1位)
白血病死亡率:男性(1位)
白血病死亡率(1位)
悪性リンパ腫死亡率:女性(1位)
悪性リンパ腫死亡率(2位 / 1位は青森県)
胆のうがん死亡率:男性(2位 / 1位は青森県)
胆のうがん死亡率(2位 / 1位は青森県)
喘息患者数(2位 / 1位は岡山県)
精神科病院数 (1位)



というようになっています。

白血病とか、悪性リンパ腫とか胆嚢ガンとか、一部のガンにおいて死亡率が高いですが、健康面での数値は下のように、特別どうだこうだというほどのものではありません。


他の鹿児島県の健康に関する項目

平均寿命:女性(27位)
平均寿命:男性(33位)
年齢調整死亡率:女性(13位)
年齢調整死亡率:男性(14位)
がん死亡率 (17位)
脳梗塞死亡者数(10位)
狭心症・心筋梗塞死亡者数 (19位)
糖尿病患者数(36位)



ちなみに、消費でいえば、鹿児島といえば何と言っても「焼酎」。

鹿児島県の消費の上位にあるものをピックアップしますと、

鹿児島県の消費量の上位

焼酎消費量 (1位)
アルコール消費量 (1位)

となっていて、「他に消費量の上位がない」という、仙人が霞を食べて生きるがごとく、鹿児島の人は「焼酎を食べて生きている」のかもしれません。

私もお酒は、最近は芋焼酎しか飲まないほど焼酎をたくさん飲みますので、近親感があります。

しかも、鹿児島は、ウイスキーの消費量が日本で最も「少ない」にも関わらず、アルコール摂取量では1位なんですから、キミたちはどれだけ焼酎を飲んでるんだ、ということになりそうです。

私も焼酎だけで生きられる鹿児島の人のようになろうと思います。

なお、鹿児島は、コーヒー消費量 47位と、日本で最もコーヒーを「飲まない」県です。

次は、魚介類摂取量が、日本で2番目に少ない熊本県です。



魚介類消費量45位の「熊本県」の健康関連のランキング
>> ランキング

kumamoto-map1.gif
熊本県


そして、熊本県の健康関係のランキング上位項目なんですが、1位と2位の上位項目については、

該当項目なし

となっていて、熊本県は、特に悪いような上位項目が何もないのでした。

ランキング下位は以下のようになっています。


熊本県の健康関係のランキング下位項目

食道がん死亡率 (46位)
胃がん死亡率:男性 (46位)
胃がん死亡率 (46位)



消化器系のガン死亡率が低いということになりそうです。

そして、他の健康に関する項目は下のように、とても良いです。


他の熊本県の疾病・健康関係に関する項目

平均寿命:女性(4位)
平均寿命:男性(4位)
年齢調整死亡率:女性(42位)
年齢調整死亡率:男性(44位)
がん死亡率 (43位)
脳梗塞死亡者数(32位)
狭心症・心筋梗塞死亡者数 (43位)
糖尿病患者数(33位)



さらに、魚をあまり食べない熊本県で消費量が多いものは・・・。

ケチャップ消費量(1位)
まんじゅう消費量(1位)
弁当消費量(1位)

となっていまして、理由はよくわからないですが、弁当やまんじゅうをよく食べるようです。

アルコール消費量は 14位と、やや高いですが、鹿児島にはかないません。

そして、日本で「もっとも魚を食べない」人たちは、沖縄県の人たちなのでした。
その沖縄の人たちは、健康なのか、そうではないのか。





結局は今でもとても健康な沖縄の人びと

魚介類消費量を見ると、沖縄はダントツで低くて、この 47位は今後も変わることはないだろうというくらい、46位と離れた数値となっています。魚介類消費量第1位の青森県とは、比較にならないほどの差です。

その魚をあまり食べない沖縄の人たちの健康の数値は以下のようになります。



魚介類消費量45位の「沖縄県」の健康関連のランキング
>> ランキング

okinawa-map1.gif
沖縄県


沖縄県の疾病・健康関係のランキング上位項目

白血病死亡率:女性 (2位)
白血病死亡率 (2位)
大腸がん死亡率:男性 (1位)
大腸がん死亡率 (2位)
男性肥満率 (1位)


沖縄県の健康関係のランキング下位項目

胃がん死亡率:女性(47位)
胃がん死亡率:男性(47位)
胃がん死亡率(47位)
膀胱がん死亡率:男性(47位)
膵がん死亡率:男性(47位)
膵がん死亡率(47位)
肺がん死亡率:男性 (46位)
肺がん死亡率 (46位)
ガン死亡者数:女性(47位)
ガン死亡者数:男性(47位)
ガン患者数(47位)
高齢ガン患者数 (46位)
脳梗塞死亡者数:女性(47位)
脳梗塞死亡者数(47位)
熱中症死亡者数(47位)
老衰死亡者数 (46位)
糖尿病患者数(47位)



となっていて、ガン患者数が日本で最も少ないことがわかります。

また、男性の肥満率が日本で1番であるにも関わらず、糖尿病患者が日本で1番少ないこともわかります。

白血病と大腸ガンの死亡率が高いですが、他に関しては、特にガンの死亡率は、日本で最も低いクラスで、今の沖縄は以前のような長寿県ということではないにしても、それでも、「飛び抜けて健康な県」であることは言えると思います。

ガン全体の死亡率が最も低いのは長野県ですが、患者数と死亡数となると、その長野県より少ないのですから、

沖縄は日本で最もガンにならない県

であることがわかります。

ただ、ガン患者数、死亡率が日本で最も低い沖縄ですが、大腸ガンの死亡率が突出して高い(大腸ガンが最も少ない滋賀県のほぼ倍)という事実もあります。

なぜ、ほとんどすべてのガン死亡者が少ない沖縄で、大腸ガンだけが多いのかは、生活の中に何か特徴的なことがあるのかもしれないです。

他の沖縄県の健康に関する項目でも、男性の平均寿命がそれほど高くない他は、かなり良い数値だと思います。


他の沖縄県の健康に関する項目

平均寿命:女性(3位)
平均寿命:男性(29位)
年齢調整死亡率:女性(34位)
年齢調整死亡率:男性(21位)
がん死亡率 (38位)
脳梗塞死亡者数(47位)
狭心症・心筋梗塞死亡者数 (32位)
糖尿病患者数(47位)



この「健康県」沖縄ではどんなものが突出して消費されているかというと、

かつお節・削り節消費量 (1位)
ベーコン消費量 (1位)
弁当消費量 (2位)
ハンバーガー外食費用 (1位)
ケンタッキーフライドチキン店舗数 (1位)

というように、沖縄の人たちは、弁当とかハンバーガーとかフライドチキンをよく食べているようです(なんかダメじゃん)。ハンバーガーの外食となると、フライドポテトの消費なんかも高そうです。

上に「ベーコン」とありますが、沖縄では「缶詰肉」が料理によく使われます。

特にスパムと呼ばれる肉の缶詰は、チャンプルーやポーク天ぷらというような料理などでかなり多用されるので、おそらく、「缶詰系加工肉」の消費量も沖縄が日本一だと思われます。

下のような広告を見ても、どれだけ沖縄でこのスパムが食べられているかわかります。

spam1.jpg
琉球本舗


このスパムを使った料理の数々は、泡盛にとてもよく合いますが、スパムは高カロリー、高塩分、高脂質の3点が揃った食品でもあります。

そして、沖縄は魚介類消費量が日本で最も少ない他、体にいいと言われることもある果物も・・・

果物消費量(47位)

と、意外なのですが、沖縄の人は日本で最も果物を食べない

リンゴ、メロン、スイカ、ブドウ、バナナの消費量はすべて 47位です。

野菜の消費量のほうも、

女性 44位
男性 45位

と、沖縄の人は「野菜もあまり食べない」ことがわかります。

あと、これも健康にいいと言われている緑茶ですが、

緑茶消費量(47位)

と、日本で1番、緑茶を飲まない・・・。

そして、アルコール消費量は4位と、お酒はかなり飲む
特に、泡盛とビール(3位)をよく飲むようです。

ただ、沖縄の人たちは、

お菓子消費量(47位)
アイスクリーム消費量(47位)

など、お菓子系はあまり食べないようです。

また、沖縄の喫煙率は「男性 43位、女性 25位」と、タバコをあまり吸わないことや、あるいは、食塩消費量(44位)、醤油消費量(47位)、砂糖(36位)と、塩分や糖分をあまりとらない食生活のようです。

いずれにしても、このような生活で、ガンになる人も死亡する人も日本で1番少なく、糖尿病の人も日本で1番少ない・・・ということは、ガンで死なない、糖尿病で死なないための食生活は、


ハンバーガーやフライドチキンや加工肉類をたくさん食べて、魚は食べない、果物はほとんど食べないで、野菜もなるべく食べないようにして、緑茶も飲まないで、お酒をたくさん飲むこと。


orz… 自分の中で自己崩壊していく健康食神話・・・。

ここで冒頭のイラストにつながるわけです。

まあ、イラストのほうは一種極端化して、面白おかしく書いていますが、データで見る上での「事実の一部」ではあります。





あまり食べる「種類」に神経質になる必要はないのかも…

長寿日本一である長野県の食生活で覆された、砂糖や塩や食用油と健康の関係。

そして、ガン大国の日本で、最もガン患者も糖尿病患者も少ない沖縄県の食生活で覆される、魚、野菜、果物、ジャンクフードなどと健康の関係。

次第に混乱を極めるデータ収集となってきています。

まあしかし・・・たとえば、先日会った人が言ってたんですけど、

「どんなことに対しても感謝、あるいは謝罪することが大事」

というようなことで、それは食べ物に対しても、他人に対してもそうでしょうし、それだけではなく、たとえば、自分の意志とは関係なく自分の体を維持してくれている心臓や肝臓などの臓器や、あるいは、細胞や細菌や血液に関しても感謝することは大事だと。

あるいは、それらを痛めつけるような生活をしているのなら、「臓器にあやまる」、あるいは、食べ物を食べる時に(殺された食品となったそれに対して)罪悪感などを感じるのなら、「食べ物にあやまる」とか、そういうような意味です。

このうちの「自分の臓器に感謝する」という発想は今までなかったですので、目からウナギが落ちてきた感じでしたが、多くの方々が、自分の体や臓器に対して「心配」したりはするけれども、「感謝」はあまりされていないのではないでしょうか。

オカ氏の異常な愛情 または私は如何にして心配するのをやめて恐怖を愛するようになったか
 2015年08月08日

という記事以来、この「どんなことにでも感謝する」という習慣を身につけようとはしていますが、もちろん、たとえば、「悪や病気に感謝する」というのは難しいことですけれど、自分の体や、自分が食べるものに感謝することはそんなに難しいことでもないように思いますので、おすすめしたいです。

どんなに体に良いと言われているものを食べても、そこに感謝や喜びがなければ、多分、その効能は限定的なものになるのかもしれません。

今回の、あるいは、先日のデータが示すことは、機械的に「この食べ物は良い、この食べ物は悪い」とする無機質な選別にはあまり意味がないかもしれないということのようにも思います。

そこに「考え」と「愛情」が伴わなければ、良い食べ物という括りは存在しないのかもしれないと思います。



  

2015年08月15日



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長野県・高遠城址公園の桜
nagano-sakura.jpg
4travel.jp






 



最もガン死亡率が低く長寿の県がどこか初めて知った日

前回の、

認知症大国・日本の彼岸(1) …
 2015年08月14日

で、本題とは関係ないながら、私の出身地である北海道の「うつ病の多さ」、「肺ガンの死亡者数の多さ」に驚いていましたが、その「肺ガンの死者数」の県別ランキングを見ている時に、ダントツで死亡者数が少ない県がありました。

長野県です。

nagano-cancer-001.gif
肺がん死亡率


そして、さらに他のガンを見てみますと、長野県はどれも驚くほど死亡者数が少ないのでした。


長野県のガン死亡率の順位の一部
 
胃ガン  45位
大腸ガン 43位
食堂ガン 43位
胆嚢ガン 44位
肝臓ガン 46位
肺ガン  47位


となっていまして、そして、ガン全体となりますと、

長野県のガン死亡率 47県中 47位

となりまして、何だか、やたらと健康そうな空気が漂います。

しかし、面白いのは、長野県は「ガンでの死亡者」は少ないながら、ガン患者そのものが少ないわけではないのです。ガン患者数の都道府県の比較では、47県中 6位と、ガン患者自体は、むしろ多いのです。

しかも、たとえば、脳梗塞での死亡者数は、47県中 4位となっていて、病気自体が少ないわけではないようなのです。

それなのに、その長野県民たちの「生きること」に関しての実態は・・・。

たとえば、平均寿命の上位3県。

nagano-jumiyou.gif
平均寿命:男性ランキング[2010年]


平均寿命:男性ランキング[2010年]

1位 長野県 80.88歳
2位 滋賀県 80.58歳
3位 福井県 80.47歳

47位 青森県 77.28歳


上は、男性ですが、女性も1位です。

長野県が、かなりダントツの平均寿命1位であることがわかります。

私は、長寿日本一っていうのは、漠然と、沖縄なんかが1番かと思っていましたが、現在の沖縄の平均寿命は 47県中 29位で、今や平均より低いのでした。

さらに、人口10万人あたりの死亡者数を比較した死亡率のランキング。

これは数値が低ければ低いほど、「亡くなる人が少ない」ということになります。


年齢調整死亡率(男性)ランキング

1位  青森県 662.4人
--
45位 福井県 499.9人
46位 滋賀県 496.4人
47位 長野県 477.3人


と、長野県は、死亡率がすべての県の中で最も低いです。

とにかく、「死ににくい長野県民」たち。

ダイ・ハード長野県民。

象が乗っても大丈夫(いや)。

そんなスーパー県民たちはどんな生活をしているのか。

「長野県ねえ」

とイメージしてみましたが、どうもわかりません。
そこで、他のランキングをいろいろと調べてみることにしました。

意外なランキングでは、長野県は、名字が「小林さん」の人の数が日本で1番多いそうで、長野県には 69,000人の「小林さん」がいるのだそうですが、これが関係しているのか(いや)。

では、たとえば、長野県の人たちは、どんなものをどのように食べているのか。

果たして、それは健康的なものなのか。

最近、私は、少し前の、

オカ氏の異常な愛情 または私は如何にして心配するのをやめて恐怖を愛するようになったか
 2015年08月08日

という記事や、あるいは、他にもいくつかの記事の中で、

「健康というものは、食事や健康法だけで作られるものではないかも」

という考えが出てきていまして、つまり、「楽しい心」や「感謝する心」というものがなければ、真の健康には至らない、つまり、「健康は食事から作られるだけではなく、心の持ち方が最も重要」だと思っている部分があるのですけれど、そういう観点からも、この長寿の人たちの食事は気になります。





長寿の国の食べ方は

長野県民の食生活を調べていくうちに驚いたというのか、奇妙に思えたのは、長野県は、体に悪いと言われることの多い「あるモノの摂取量がダントツで多いのでありました。

それは・・・。

nagano-sugar.gif
砂糖消費量[2008年]

砂糖消費量

1位 長野県 9,772グラム
2位 長崎県 8,999グラム
3位 宮崎県 8,953グラム

45位 福井県 5,109グラム
46位 埼玉県 5,030グラム
47位 東京都 4,963グラム

そうなんですね。

砂糖なんです。

この統計は、1年間の世帯当たりの砂糖の購入量を県別に比較したものですけれど、長野県の砂糖の消費量は群を抜いています。

最も砂糖の消費量が少ないのが東京というのは意外ですが、長野は、東京の倍ほどの砂糖を消費しています。

・長野県の人は砂糖をたくさん消費している
・それで、「ガンの死亡者がとても少なくて、とても長寿」


ということになるようです。

うーん・・・。

砂糖に関しては、このブログでも、

米国カリフォルニア大学のチームが過去の膨大な科学論文の研究の結果、「砂糖は毒である」という結論をまとめる…
 2015年02月12日

という記事などで、砂糖の有害性が確認されたことを記したことがあります。

特に、心臓系や生活習慣病などの慢性疾患との関連が示されました。

しかし、どうやら、大量に砂糖を摂取していると考えるしかない長野県の人々は、少なくとも、ガンでの死亡者は、日本で最も少ない。

じゃあ、長野の人は「」はどうか。

塩も、「とりすぎは健康に良くない」とする説はたくさんあります。

長寿の国の人びとは、塩をあまりとっていないのか、あるいは、大量に塩をとっているのか。

下は1年間の食塩の消費量の県別の偏差をあらわしたものです。

nagano-salt.gif
食塩消費量


1位から3位までこそ東北ですが、長野県は、塩の消費量が第4位であり、東北を除けば、ダントツで食塩を消費していることがわかります。

どうも、これを見ているだけでは、

日本で最も長寿で、ガン死亡者の少ない県は「砂糖を大量摂取して塩を大量摂取」している

という生活をしていることになってしまいます。

ちなみに、「味噌」も、長野県が消費ナンバー1です。


seasoning_a30.png
illpop.com

1年間の味噌の消費量ランキング

1位 長野県 11,901グラム
2位 秋田県 10,463グラム
3位 青森県  9,800グラム

45位 兵庫県 4,558グラム
46位 大阪府 4,382グラム
47位 和歌山県 3,258グラム


長野県は、和歌山県の3倍以上、味噌を消費しています。
同じ日本で、この差は結構すごいですね。

長野県は、醤油の消費量も8位で、塩、味噌、醤油と合わせれば、相当な塩分をとっているといえそうです。

ただ、同じ塩分系調味料でも、

・ソース消費量(46位)
・ケチャップ消費量(45位)


と、これらのものはあまり摂取していないようですが、塩や味噌に比べて、日常的なものでもないですしね。たとえば、うちなどでは、ソースもケチャップも、月に1度使うかどうかといった感じです。

ところで、最近、牛乳なんかも体に悪いって言われることもありますよね。

私もややそう思っているところがあります。

そうか、きっと、長野県の人は牛乳をあんまり飲まないんだ。

と、見てみますと・・・。


牛乳消費量ランキング

1位 埼玉県 105.87リットル
2位 奈良県 105.14リットル
3位 長野県 101.93リットル
--
47位 高知県 65.12リットル

長野県は第3位。

どうやら「牛乳もがぶ飲み」であります。

最近は「」のことも、よく言われますよね。

腸が体の健康を考える上でとても大切だと。
特にサラダオイルなどの食用油は過剰にとらない方がいいと。

そうか、きっと、長野県の人は油をあまりとらないんだ。


sald-oil.gif
dhaepasupple.com

食用油消費量ランキング

1位 福島県 13,071グラム
2位 山口県 12,920グラム
3位 長野県 12,100グラム


と、ここでも長野県は、1位ではないものの、第3位であります。
油もガブガブ飲んでいるようです(飲んじゃいないだろ)。

ちなみに、食用油の使用量が少ない県は、

45位 千葉県 6,906グラム
46位 香川県 6,802グラム
47位 東京都 6,639グラム

となっていて、日本では東京が最も食用油の消費が少ないのでありました。

東京というところは、砂糖もあまり使わない、油もあまり使わない・・・というより、多分、東京は一人暮らしなども多いですから、自炊自体の率が比較的少なく、東京は食事自体が外食や中食が多いことが理由かもしれません。

それにしても、塩と砂糖、味噌、牛乳、食用油を大量に摂取する長野県の人たちが長寿で、ガン死亡率がとても少ないという事実が浮き彫りになります。

ただ、他の項目を見ますと、たとえば、下のふたつの項目は、かろうじて、いわゆる一般的な健康論に通じる部分はあります。

まず、野菜の摂取量。

nagano-vegitables.gif
・野菜摂取量ランキング

野菜摂取量(男性)ランキング[2010年]

1位 長野県 379グラム
2位 新潟県 360グラム
3位 山形県 352グラム
--
47位 徳島県 245グラム

上は男性のものですが、女性の野菜摂取量も長野県が第1位です。

そして、長野県の人は肉をあまり食べません。

肉全体の消費量も 44位と、肉の消費量は全体として低いですが、特に牛肉となりますと、圧倒的に消費量が低いです。

この「牛肉消費量」は上位3県も意外というのか、興味深いです。


牛肉消費量ランキング[2013年]

1位 奈良県 10,617グラム
2位 京都府 10,415グラム
3位 大阪府 10,380グラム

45位 群馬県 6,628グラム
46位 長野県 3,385グラム
47位 新潟県 2,958グラム


46位の長野県は 45位の群馬県の半分となっていて、長野県と新潟県の2つの県の圧倒的な牛肉消費量の少なさがわかります。

牛肉消費量の上位が、奈良、京都、と続くのは意外な感じですが、奈良県は 47位の新潟県の3倍以上も牛肉を食べているようです。

奈良県は、さきほどの「牛乳消費量」でも全国2位でしたので、「牛に関係するもの」と関係が深いのかもしれません。

この奈良県のランキングもなかなか興味深くて、奈良は、国宝や史跡、重要文化財の数が1位であるということは理解できるのですが、他に、奈良の1位は、

奈良県のランキング上位のいくつか

・コーヒー消費量(1位)
・ピアノ普及率(1位)
・小学生長時間テレビ視聴率(1位)
・パソコン普及率(1位)
・中学生通塾率(1位)
・1世帯あたりの貯蓄額(1位)


などとなっていて、うーん・・・奈良県もイメージと何だか違うなあ。

まあしかし、奈良県の探究はまた今度にしておいて、長野県に戻ります。

まず、長寿県である長野県は「小林」という名字が日本で1番多い(まあ、それはもういい)。

そして、食べ物では、

・砂糖消費量ナンバー1
・塩、食用油、牛乳もガブ飲み


という、一見すると、健康と相反するような食生活をしている一方で、

・野菜摂取量ナンバー1
・肉の消費量がきわめて低い


ということがあることがわかります。

ちなみに、お酒に関しては、長野県のアルコール消費量は 20位と、やや多いといった程度ですが、日本酒となると、全国5位の消費量で、お酒も決して消費量が少ないとはいえないようです。

巷のさまざまな健康論に沿うのは、野菜の摂取量が多いことくらいなのですが、しかし、その野菜の摂取量の県ごとの差というのは、それほど大きな差ではなく、それと比べますと、砂糖や塩、油、牛乳の消費量の差はかなりのもので、野菜だけではどうも理由になりづらい気がするのです。

そして、その後、私は意地になって、長野県のさまざまなランキングを見ていて「ある方向」が見えてきたのでした。

そして、やはり思ったのは、食べ物は健康に関わる「一部」でしかないと。

人間の健康を支えているのは「心」だと。

そして、おそらく長野県の人たちは自然にそれを達成していると。




他人のために生きて、自らも日々を楽しむ人びと

長野県松本市の河童橋
kappa-bashi.jpg
河童橋


長野県のランキングの1位の項目で最初に目についたのは、下のいくつかの項目でした。


小学生地域行事参加率ランキング[2014年]

1位 長野県 89.9%
2位 山形県 86.6%
3位 岩手県 85.0%

45位 徳島県 57.4%
46位 東京都 56.2%
47位 沖縄県 51.1%



ボランティア活動参加率ランキング[2006年]

1位 長野県 3.7%
1位 島根県 3.7%
1位 広島県 3.7%
1位 鳥取県 3.7%

46位 青森県 1.7%
46位 秋田県 1.7%


他にも、たとえば、青年海外協力隊の隊員数でも長野県は第3位で、他のいくつかも見ていますと、どうやら長野県の人たちは、

他人のために何かをすることが好きで、また、地域行事に積極的に参加する

ことがわかります。

そういうような風土というか、雰囲気になりますと、必然的に、殺人などの犯罪は少ないのではないだろうかと見てみますと、


殺人事件被害者数[2012年] 人口10万人あたり

1位  大阪府 0.583人

45位 富山県 0.277人
46位 東京都 0.205人
47位 長野県 0.197人


となっていて、長野は全国で最も殺人事件が少ないようです。

長野の殺人事件の数は、1位の大阪の3分の1程度です。

ちなみに、大阪は、「重要犯罪認知件数」、「「性犯罪認知件数」、「刑法犯認知件数」などがすべて1位ですが、それについての論評は避けます。

そして、長野県の人たちが「自然に沿った生活習慣をしている傾向」が伺えるのが、


中学生早寝早起き率[2013年]

1位 長野県
2位 青森県
3位 宮崎県

47位 大阪府

です。

中学生でこれなら、それ以降もある程度は、早く眠り、早くに起きるという生活が持続している大人も多いような気がします。

この「規則正しい生活」は、健康状態と多少関係ありそうですね。

他にも、長野の若者たちには下のようなデータがあります。


小学生携帯電話・スマートフォン所有率[2014年]

1位  東京都 65.0%

45位 岩手県 40.4%
46位 長野県 40.0%
47位 秋田県 36.2%


そしてですね、以下のそれぞれのランキングが、長野の人びとが、いかに「仕事以外の楽しみを享受しているか」を表しているような気がするのです。

「博物館の軒数」、「美術館の軒数」、「映画館の軒数」のランキングです。


博物館数ランキング[2008年] 人口10万人あたり

1位 長野県 11.53軒
2位 島根県  9.28軒
3位 岐阜県  8.16軒

47位 大阪府  0.96軒



美術館数ランキング[2008年] 人口10万人あたり

1位 長野県 4.92軒
2位 山梨県 3.33軒
3位 石川県 3.00軒

47位 埼玉県 0.18軒

埼玉・・・ orz...


映画館数ランキング[2009年] 人口10万人あたり

1位 東京都 0.86軒
2位 長野県 0.83軒
3位 山梨県 0.82軒

47位 富山県 0.18軒


長野県は、博物館の数が大阪府の 10倍以上、美術館の数が埼玉県の 25倍以上、映画館は東京都と並ぶ率の軒数を誇っている・・・。

もしかすると、長野県人というのは、超「道楽人」の集団なのではないだろうか・・・。

長野県民が楽しみを追求している人びとであることは、次のランキングにも示されています。


楽器購入額ランキング[2011年]

1位 石川県 4,707円
2位 長野県 4,517円
3位 奈良県 4,408円

47位 島根県  371円

girl-guitar.gif
kanohonoka


楽器の購入額って、県によってこんなに違うんですね。

1位と 47位の差は、10倍で済まないですよ。

また、長野の人は植物も好きなようです。


園芸用品購入量[2012年]

1位 三重県 11,203円
2位 長野県 11,154円
3位 茨城県 11,112円

47位 大阪府  3,253円






子どもへの愛はお金で示せるものではないかもしれないけれど

そして、私はひとつのデータを見つけてしまったのです。

私は以前、

「革命」(3) - 革命的行動の最上位は「子どもたちへの無条件の愛」を獲得した社会に戻すこと
 2015年07月12日

という記事で、自分の住む地を理想的な社会にするために真っ先におこなうべきことで、しかも、確実にそれは良い未来に影響することとして、

「子どもたちへの無条件で絶対的な愛を、大人が持つこと」

だというようなことを書いたことがありました。

この長野県のランキングのデータは、お金の絡む話ですので、絶対的な愛ということとは違うとは思いますが、「その一端」を表しているのではないでしょうか。


子どもへの仕送り額[2011年]

1位 長野県 183,984円
2位 山口県 162,898円
3位 徳島県 162,595円
--
45位 兵庫県  28,606円
46位 大阪府  22,758円
47位 京都府  22,758円

上位3県と 45位より下の3県の差!

その中でも長野県はダントツで仕送り額が多く、社会構造的なものもあるににしても、1ヶ月 18万円も子どもに仕送りをしたら、親の方の生活は大丈夫なのか、と心配するほどの額です。

いや、これは平均だから、もっと多く送っている人がいるということになりそうです。

これらの金額の多い少ないは、良い悪いということと関係することではないですが、少なくとも、長野の人たちの多くは、かなりの愛情を子どもたちに注いでいるということは言えそうな気がします。

「そうか、そうか、そういうことか」

と、私はこのあたりで頷きました。

健康や長寿を導くのは、食べ物だけを見ていてもわからない。

長野県がナンバー1か上位である数々、

・映画館の数
・美術館の数
・博物館の数
・楽器購入額
・園芸材料購入量
・ボランティア参加率
・早寝早起き
・子どもの行事参加率


が示すことは、長野県の人たちの生活は、その構造が、

・人生を楽しむ
・他人のことを考え、そのために何かする
・規則正しい生活をする


ことに自然となっているのだと思います。

そして、

・家族(子ども)を徹底的に愛して生活する

という、簡単なようだけれど、今の世の中では少し希薄になっているような気もしないでもない部分を大切にする生き方。

おそらく、そのように生きている長野の人びとは、他と比べて、ストレスの少ない生活をしていると思います。

食べ物にしても、むしろ「自由に楽しく食べる」ということが、塩、砂糖、食用油などの調味料過多に向かっている理由なのかもしれません。

あとは、長野県は、脳梗塞の多さをクリアすれば、「スーバー県民」になれるかもしれないです。

ちなみに、他に、長野県が1位だったのは、

・地震の回数(1位)
・別荘数(1位)
・日帰り温泉の数(1位)
・りんご消費量(1位)
・おそば屋さんの店舗数(1位)


などがあります。

地震は、2014年の1年間で、震度1以上の地震が 67,876回もあったそうで、2014年に関しては、下のようにダントツです。


地震の回数[2014年] 震度1以上

1位 長野県 67,876回
2位 東京都 28,743回
3位 茨城県 16,207回
--
47位 佐賀県   447回


日本で1番地震が多いということは、少なくとも、人が住んでいる場所では、「世界で1番地震が多い場所」が長野県ということもいえます。

これはすごいことですよ。
年間に6万回以上の有感地震があるような、地震のない国の人からみれば想像もできない場所で、精神的に健やかに生活している。

そして、長野県が最も「低い」か、下の方だったものは以下のものがあります。

・生活保護受給者(45位)
・DV保護命令済件数(45位)
・年間雨日数(47位)
・書道教室数(47位)
・キャンディー消費量(46位)


長野県って、日本で1番、雨の日が少ないんですね。

ところで、最近、東洋経済で「「楽観的」というだけで、10年も寿命が伸びる」というタイトルの、オックスフォード大学の教授の研究についての一連の記事を読んだのですが、「心」が人の健康状態や「命」にまで与える影響は、実に計り知れないものであることがわかります。

また、自分の体の状態に対して、常に肯定的でいることがどれだけ大事かも理解できます。

今回の記事の内容とは関係ないですが、そういう意味では、私は、今の医学の「ガンの告知」というものは基本的にやめるべきだと思います。ガンの告知だけで死んでしまう人がいる、という例があることを知るべきです。

それはともかく、今まで長野県に注目したことがなかったですが、いろいろと勉強になる面がある場所なのかもしれないということを今回初めて知りました。



  

2015年08月14日



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見たこともない経験したこともない社会が10年後に現れる

先日、初対面の男性と用事でお会いしていた時、大体、私と同じくらいの年齢のその人も割と長くパニック障害で、薬を飲み続けているとおっしゃっていました。

それで私は、

「精神系の薬はどんなものであれ、長く連用していると、物忘れなんかが結構キツくなる可能性がありますよ」

と言うと、その方は、「いやあ、最近、物忘れがちょっと冗談にならないほどのことがあるんですよ。関係あるのかなあ」とおっしゃっていました。

物忘れに効果のある方法に関しては、手近なところで、

人体を神と同等と見る西洋医学の理想的な未来。そして、抗コリン剤の氾濫でおそらく認知症が増え続ける今後のための「認知症と物忘れの治し方」
 2015年04月03日

という記事の後ろのほうの「物忘れがひどくなった時に」というセクションで、

眠る前に、寝室をエッセンシャルオイル(精油)を噴霧させて、香りが充満した部屋で眠る

という方法をご紹介したことがありました。

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これは、当時、うちの奥さんが、わりと冗談にならないような物忘れをすることが続いていて(手帳に書いてあるのに、仕事の待ち合わせがあることそのものを忘れたり)、私もやや心配になり、偶然ついていたテレビ番組で知った、この方法を試してみたのです。

それで、1ヶ月目くらいから、彼女の物忘れが少なくとも「冗談で済む」程度のものまで改善しまして、効果のある実感がありました。

この治療法の原理は、脳の海馬と「匂い」の関係にあると考えられますが、実は、脳の海馬は、「匂いにだけ反応するのです。海馬と扁桃体は音には反応しないで匂いに反応するという記事には、

においと記憶には密接な関係があり、五感の中で嗅覚だけが海馬や扁桃体と直結しているそうだ。においが記憶力を高める鍵になるということか。

とありますが、「においが記憶力を高める」というのは確かだと今は思います。

就寝前のエッセンシャルオイルを始めて1年半くらいか、それ以上経つと思いますが、今後もずっと続けようと思っています。

とまあ、このことをその時に会った方に言うと、興味深そうにしていました。

まあ、私も若い時からずいぶんと薬を飲みましたが、同じような人が多いと思われる今の世の中は 40代、50代くらいでも「記憶に関して危うくなっている」という人たちが結構いるような気がします。

理由は、下は、ひとつの例ですが、「薬を飲む人がこの 20年ほどで急増した」ことが、大なり小なり関係していることは間違いないと思われます。

抗うつ剤市場規模の推移
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サイエンスジャーナル 治験薬年報 ai Report 2011


上の抗うつ剤の例では 10年ちょっとで、下手すれば 10倍に迫る増え方です。

しかも、他の精神系の薬や、あるいは、あらゆるジャンルの薬の消費もほとんどがうなぎ登りで、アメリカの調査でも、こちらの記事に、アメリカの大規模調査の報道を載せていますが、

認知症およびアルツハイマー病の発症と、抗コリン作用薬の使用状況の関係を調べたところ、抗コリン作用薬を長期間にわたって多く使用するほど認知症のリスクが増していた。

というように、薬と認知症の関係が次第にはっきりとしてきています。

抗コリン作用薬というのは、市販のかぜ薬から、痛み止め、多くの精神薬、あるいは湿布や目薬など、ほとんどの西洋薬が含まれます。

特に、毎日継続して飲むようなものが良くないようです。

私も過去、ものすごくたくさん薬を飲む生活をしていたので、リスク要因を十分に持っているわけですが、私個人のことはともかくとして、日本人全体の、様々な薬の消費が下げ止まらない中、この先、私たちは、

未曾有の認知症大国の中で生きていく

ことは避けられないと思います。

厚生労働省の予測では、10年後( 2025 年)の日本の認知症高齢者の数は「 700万人」とされていますが、それはこれまでの増加を元にした推計で、日本の薬の消費の過去 10年くらいの「激増」ぶりを見ていると、認知症の高齢者の人々の数は上振れすると思います。

つまり、10年後の日本の認知症の高齢者の数は 800万人以上になっていても不思議ではないと考えます。

10年後は、私の子どもが成人を迎える年ですが、なかなかエキサイトな時代に突入する中で大人になっていくということのようです。

そんなわけで、終始一貫したテーマはないかもしれないですが、認知症と高齢化を突き進む日本のいくつかの報道やデータを見ながら、日本の未来を想像したいと思います。





北海道出身の私が考え込んでしまったデータ

ところで、先日、いろいろとグラフなどを見ていましたら、北海道出身の私には、少し興味深いデータを見つけました。

下は「人口1万人あたりのうつ病の患者数の県別の順位」を色で示したものです。赤くなればなるほど、うつ病の患者数が多く、青くなればなるほど、少ないことを示します。

人口1万人あたりのうつ病の患者数の県別の順位
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都道府県別統計とランキングで見る県民性


北海道がダントツで真っ赤です。

正確には、人口1万人あたりのうつ病患者数(小数点以下は省きました)が、

1位 北海道 138人

となり、2位が鳥取県、3位が島根県となっています。

その逆に、もっともうつ病患者数が少ないのが岡山県で、人口1万人あたりのうつ病患者数は 41人。
北海道は、岡山県の3倍以上のうつ病患者率を有しているということになります。

どんな病気にしても、同じ国の中で「3倍」の差があるというのはすごいです。

北海道のうつ病患者の割合は、人口の約 1.38%だというところから単純に計算すると、たとえば、札幌の人口は 191万人ほどですが、札幌だけで2万6千人ほどのうつ病患者がいるということになってしまいます。

うーん、なぜ、北海道に多いのか。

北海道出身の私にも、ここまで他と差がある理由が想像できません。

「日照や雪の多さと関係あるのでは」という意見もあるそうですが、しかし、上の地図の分布を見ていますと、同じような気候の青森は特に多くはないし、うつ病の多い地域は全国バラバラに広がっていて、気候や日照が関係あるとは思えません。

そして、

「うつ病だけではなく、精神疾患全般ではどうなんだろう?」

と、厚生労働省の統計を見てみますと・・・こちらもなんですね。

これは、精神疾患での入院患者の数ですが、精神疾患に関しても、北海道は何もかも上位で、特に精神科の病院の数は全国第1位なのです。

全部の県を載せるのはサイズ的に難しいですので、上位の県だけですが、下のグラフがそれを示しています。

精神科の入院形態別患者数
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厚生労働省 平成20年度 入院形態別患者数


「うーん」と私は唸りました。

北海道は、好きな部分もそうでもない部分もそれぞれありますが、うつ病とか精神疾患がこんなに高いレベルで広がっているとは考えたことがなかったです。

あと、北海道って、何だか空気も良くて、何かこう、みんな肺とかもきれいな感じがするじゃないですか。そこに下みたいな統計もあります。赤ければ赤いほど、高い死亡率を示します。

人口10万人あたりの肺ガン死亡率の県別統計:男性(2012年)
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都道府県別統計とランキングで見る県民性


ここでは、1位こそ青森県(人口 10万人あたり 29人)ですが、北海道は第2位で、以下、鳥取、和歌山、大阪と続きます。

最も少ない長野県は 18人ですので、かなりの差があります。

理由については、時事通信などによれば、

塩分の多い食事、喫煙率の高さなどが関係している可能性があるという。

とのことですが、塩分はよくわからないにしても、喫煙率は、確かに北海道は日本で1位で、国民生活基礎調査(2014年)によれば、喫煙率の県別上位は、

1位 北海道 27.7%
2位 青森県 25.9%
3位 福島県 25.0%


となっていますけれど、しかし、タバコと肺ガンの関係は怪しいですからねえ。

なんといっても、この数十年、「喫煙率が下がれば下がるほど、肺ガンの死者は増えている」という現実があります。

1950年代からの喫煙率と肺ガン死亡者数の推移
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喫煙率と肺がん死亡数


これは、タバコが良いとか悪いとかを表していることではないですが、肺ガンとタバコは「無関係」ということを示しているように見えてしまうのですが、どうなんですかね。

まあしかし、肺ガンの話はいいとして、うつ病や、精神疾患で入院している人の数が北海道に極めて多いという理由は、今ひとつ、その原因となりそうなものを想像しにくいです。

そもそも、冒頭のような図を見つけたのは、「認知症が多い県はどこなんだろう」と、ふと思って調べていましたら、このようなことになってしまった次第です。

そして、冒頭に書きましたように、「薬の服用と認知症の関係は強い」ということを考えてみますと、現時点で、うつ病にしても精神疾患にしても、あるいは他の様々な病気も含めて、そういう人々が多い地域は、将来の認知症の増加とも関係してしまうはずです。

東京都健康長寿医療センター研究所の 2012年の資料に「2035年におけるわが国の都道府県別認知症高齢者数」という予測値の分布図が出ていましたが、これもやはり北海道が高いのですね。

2035年の都道府県別の認知症の高齢者の予測値
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認知症の総合アセスメント


東京が一番となっていますが、実数の予測ですので、人口が多い東京が一番になるのは自然で、しかし、東京の4割ほどの人口(約 547万人)の北海道の認知症率が高いというのは目立っています。

まあ・・・北海道の話が長引いてしまいましたが、たとえば、「 10 年」なんてのはあっという間だったりするものですけれど、今から 10年後の 2025年には「壮絶な人口構成」が現れるという予測が出ているのです。




圧倒的な人口構造の日本の未来

10年後の 2025年の日本の認知症の高齢者の数については以下のように予測されています。


認知症患者は2025年に700万人を突破。65歳以上の5人に1人
認知症ねっと 2015.01.09

厚生労働省は7日、全国で認知症を患う人の数が2025年には700万人を超えるとの推計値を発表した。65歳以上の高齢者のうち、5人に1人が認知症に罹患する計算となる。

認知症高齢者の数は2012年の時点で全国に約462万人と推計されており、約10年で1.5倍にも増える見通しだ。



となっていて、厚生労働省などの予測値では、今後の日本の人口構造がどのようになっていくかということに対して、日本の人口は、 2013年に 1億 2730万人だったのが、2025年には、1億 1662万人になるとしています。

今より 1000万人くらい減るということでいいのですかね。

そして、14歳以下の若者の数は、2025年には、今より 200万人くらい減っているということのようなんです。もちろん、出生率がさらに下がれば、さらに減ると思いますが、まあ、そういうことになりそうであると。

その間に、認知症の高齢者の数は、200万以上増えると予測されていますから、

若者が減った部分を認知症の高齢者が人口比として埋める構図

が浮き彫りになります。

これはですね、肯定的に考えれば、お年寄りがたくさんいる社会ということで、とてもいいことなのかもしれないですが、そういう方面の肯定的というよりは、もう

社会の破壊へと向かう人口比

が 2025年、今からたった 10年後には出現することになるようです。

そして、2050年(という年まで辿りつくかどうかは別として)という頃になると、全体の日本の人口は、今より 4000万人減少して、65歳以上の人口(予測 3460万人)が、14歳以下の人口(予測 791万人)の5倍近くに達する<
ということになります。

この「若者と高齢者の人口比」の過去 65年に関しては、厚生労働省のグラフを見ていると、切ない気分になる部分があります。

どんどんどんどん若い人たちは減り続け、どんどんどんどん高齢者人口は増え続ける。

しかも、10年後には、その高齢者の5人に1人が認知症です。

戦後のたった70年くらいでこうなっちゃったんですよね。

何がこんなことにさせたかの理由は様々でしょうが、高齢者問題は仕方ない面もあるとはいえ、認知症がこんなに増えるほうに関しては「自然ではない」ということはいえます。

日本でこんなにも認知症が増えた理由に関しては、ある程度言えるのは、

・薬
・慢性的な運動不足を含む「気」と血流の滞り
・松果体の石灰化


などが関係しているのは間違いないと思います。

これらに共通するのは「文明化によって生じたもの」という点です。

人々は歩かなくなり、動かなくなり、病気は薬で症状だけ取り去り、多大な化学物質は松果体を石灰化させて、土とふれる機会が減り、ストレスは溜まり続ける。

ガンも認知症も文明病だと思います。

この世から今の文明が消えれば、大半は消失するタイプの病気だと思うのです。

そして、やはり先ほど書きましたけれど、薬の消費が下げ止まる気配はない・・・という現状を考えますと、これから認知症がさらに増えるのは確実だと考えられそうです。

さらに、分子標的薬など(免疫の親である白血球のマクロファージをやっつけてしまうような)新しい薬が次々と発売されていますので、細胞へのダメージは今後も増加すると思います。

ですので、認知症の高齢者の方の増え方もさらに上放れし、あるいは「指数関数的」に増えていく可能性もあるのではないでしょうか。

なお、松果体とアルツハイマー病の関係は、

多くの人類の松果体が破壊されようとしている現在に考える「多次元宇宙空間を理解する将来のために松果体を守るべき」時代
 2015年02月22日

ソルフェジオ周波数 528Hz に石灰化した松果体を正常に戻す可能性がある?
 2015年02月07日

などに書いたことがあります。

また、今回のような記事を読まれましても「暗い気持ちになってはいけない」ということに関しましても、「幸せな記憶とうつ病の関係」に関しての米国マサチューセッツ工科大学の研究について、

「肯定的記憶」の役割 : ノーベル賞受賞学者・利根川進 MIT 教授が発表した「幸せな記憶を呼び起こすことがうつ病を好転させる」こと
 2015年06月30日

に記したことがあります。

日本にもたらされた、もうじきやってくる「壊滅的な人口構成」も、逆に見れば、「創造のための破壊」という未来の地球への最終段階ともとらえられる面もあるかもしれません。

そして、この状態を作りだした元凶が、戦後から始まった現代文明であることは間違いないと確信できる中で、それでも、今のこの文明を存続させる意義はあるのかどうかという、ひとりひとりの「考え」を促すことにもつながることではないかとも思うのです。



  

2015年08月12日



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風邪は自分自身が必要のために引き入れているのだから

毎年決まったように 8月7日が私の誕生日なのですが(毎年違ったらこわいわ)、その翌日あたりから風邪を引いて今にいたります。

これが引き始めは、過去数十年で最強クラスの「喉の痛み」で始まりまして、最初は水を飲むのもやっとのほどでした。

「ああ、こういう喉の痛みは子どもの時以来だなあ」

と、感慨深く思いながら、前回の記事「地球を作り替えるために「悪に感謝する」こと。そして…」を思い出し、

「この痛みにも感謝しなきゃならんのかねえ。難儀じゃのう」

と呟く日々でした。

ただ、最近は「風邪を引く」ということの意味の中に、「穏やかに治す楽しみ」というものも加わりまして、どうせ、ここまで症状の激しい風邪(口惜しいことに熱は大した出ませんでしたが)は、そうそうケロッと治るものでもないでしょうし、どのようにしようかと考えるのはなかなか楽しくはあります。

それに加えて、何だかいろいろやることも多く、なかなか思うようにならないうちに、あっという間に1日が終わります。

「風邪がはやっているのかなあ」と調べてみても、子どもの病気では、手足口病など大流行しているものもあるようですが、普通の風邪が特に、はやっているようなものもないようですが、ただ、何よりも、風邪も含めて、ウイルスというのは、ウイルスが人間に侵入するのではなく、

「人間のほうがウイルスを体に取り入れている」

というものである限り、風邪は必然で引いているというか、「自分から積極的に引いている」という生きるための作業であることは言えるかもしれません。

この「人間のほうがウイルスを体に取り入れている」については、過去記事の、

21世紀のパンデミック: ウイルスが人を選ぶのか? 人がウイルスを選ぶのか?
 2013年04月08日

の中で、フレッド・ホイル博士の著作『 生命(DNA)は宇宙を流れる』から抜粋したことがあります。

下はその一部です。


フレッド・ホイル著『 DNA は宇宙を流れる』 進化のメカニズム より

われわれが「ウイルスは宇宙から来た」と言うと、決まって、「地球外からやってきたウイルスが、どうして地球の宿主を知っているのか?」と反論される。

ウイルスが増殖するには宿主となる生きた細胞が必要不可欠だが、インフルエンザ・ウイルスをはじめとする一部のウイルスは、特定の動物の特定の細胞や器官にしか感染しないという、きわめて気難しいところがあるからだ。

したがって、彼らが言っているのは、「地球外からきたウイルスが、地球で見つけるべき生物、あるいはその細胞を知っているのは、なぜか?」ということなのだ。

この問いに対しても、われわれは答えを用意している。ウイルスが宿主を選ぶという彼らの前提が間違っているのだ。

われわれは、宿主のほうがウイルスを選んでいるのだと考えている。

地球にはじめて落ちてくるウイルスが、あらかじめどんな宿主に遭遇するか知るよしもないことは当然だ。けれども、宿主たるわれわれは、もともと宇宙からやってきたバクテリアから進化した存在であり、このような事態に備えた機構を持っているはずなのだ。それが免疫機構なのだとわれわれは考えている。

これは、ウイルスについての従来の見方を、根本からくつがえす考え方だ。



ということで、ウイルスに関しても「人間が主体」ということで、たとえば、風邪、あるいは「熱」は体を治している(参考過去記事)ということを最近知るに至り、「病気の症状は本来は、体を回復させている良い現象」であることがわかったわけです。

こういう面から考えますと、人間が(意識レベルではないですけれど)自分でウイルスを取り込むということには、それほど違和感がない気もします。

私も、何らかの「必然」で風邪を引いたわけで、そのあたりの必然の源を考えたりしています。

そういえば、風邪関係で検索していたら、医療系の情報サイトに下のような記事が出ていました。
アメリカでも、風邪に対しての抗生物質の処方が増加しているようです。


風邪に無駄な抗生物質を処方? 減らそうと努力しても年々増加 より
Medエッジ 2015.08.11

研究グループは、2005年から2012年の間に、急性呼吸器感染症と診断を受けた人のうち細菌の感染率が低く、主にウイルスを原因とする症状の軽い人を対象として、どのような薬が処方されていたのか傾向を調査した。

抗生物質を処方された人の割合を調べたところ、結果として2005年67.5%から2012年において69.2%となっており増えていた。マクロライド系の抗生物質の処方は特に増えており36.8%から47.0%となっていた。

マクロライド系抗生物質は、副作用も少なく幅広い細菌に使用できることから使用が広まっているが、最近では子どもへ多く処方され過ぎることに心配の声も上がっている。



これは、文中の

> 主にウイルスを原因とする症状の軽い人を対象として

とあるのが肝で、抗生物質はウイルスには効きません。
それなのに出しているという不毛性の話です。

抗生物質は細菌を相手にしているものですので、ウイルスでの風邪に抗生物質を投与しても意味がない・・・だけならいいのですが、意味がないだけではなく害があります。ウイルスを相手にできない抗生物質が体内に入った場合、「人間がもともと持つ細菌や微生物を殺していく」ということになってしまうようなのですね。

どのように考えても、風邪に抗生物質は無駄なのですが、しかし、たとえば、日本でも、医者もそうかもしれないですが、「親が、風邪の子どもに抗生物質を欲しがる」例が多いようです。


にしむら小児科「乳幼児の抗生物質投与について」より

当院の外来にも様々な患者さんが来ます。
熱が出たから抗生物質を下さい、というお母さんもいます。

こちらは戸惑います。なぜ? 抗生物質など飲んでも良いことは一つもないのに?

だけど、お母さんの意思は固く、抗生物質を出さないと、他の病院に行ってもらいに行く始末です。

いかなるカゼも自然治癒するのです。

カゼ⇒自然治癒 は普通の経過ですね。

しかし カゼ⇒抗生物質⇒治癒 としたらどうでしょう?

誰でも抗生物質を飲んだから治った、、と思いますよね。

これは“関連性の錯誤”という心理的エラーです.カゼを引いたときにいつでも抗生物質を飲んでいると、心理的エラーを繰り返すことになり,カゼが自然に治るというのを信じられなくなるのです。



このお医者さんは、抗生物質というより、子どもに対しての風邪薬全般を否定されていますが、それでも、親は欲しがる傾向にあるようです。




子どもや赤ちゃんへの医療が未来に落とす影

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philanews.com


日本でも、かなりの割合で、風邪に対して抗生物質が処方されるのが現実ですが、少し調べてみますと、最近では、先ほどのように、小児科のお医者さんなどで「風邪に抗生物質の投与はダメです」と述べている方々は多いです。

さきほどの、にしむら小児科のサイトでは、「乳幼児への抗生物質投与がいかに有害なものか」を、大変長く丁寧に説明してくれていますが、その最も大きな理由は、

人の体は、もともとが細菌によって守られている

ということです。

抗生物質は、その人体にもともとある細菌を攻撃してしまうのです。

この小児科のお医者さんの文章が気に入って、他のページも見てみますと、下のような記述に辿りつきました。


食物アレルギーが増えたわけ

食物アレルギーが増えています。昨年末に大規模な調査を行ったのですが、なんと1歳のお子さんの4名に1人は卵を制限しています。その他の牛乳や小麦、大豆などを制限している子どももたくさんいました。中にはアレルギーの原因になるものは一切食べてないという子も。

もちろん、親御さんの判断でアレルギーが怖いから食べさせていないわけです。

この状況はあまりにもおかしいですね。なぜこうなってしまったか、できるだけわかりやすく解説します。



これが書かれたのは最近のことのようで、つまり、昨年というのは 2014年のことだと思うのですが、

「1歳のお子さんの4名に1人は卵を制限」・・・?

4人に1人の子どもがアレルギーで卵を制限されている?
小麦、大豆などのアレルギーの赤ちゃんがたくさん?

実際、東京都が 2014年におこなった、アレルギー疾患のある子供に関する調査をしました〜3歳児全都調査と保育施設等を対象とした施設調査〜には、

> 3歳までに何らかのアレルギーの症状が有り、かつ診断されている児は約4割であった

という記述があり、非常に高いアレルギー率となっているのですが、これは、さきほどの小児科のお医者さんが、「なぜこうなってしまったか、できるだけわかりやすく解説します」と書いてありますように、実は文字通りの話とは少し違うようです。

花粉症の人などが行う RAST 検査というアレルゲンを調べる検査があるそうなのですが、大人はともかく、赤ちゃんで「検査で高い反応が出る」ことは特別なことではないそうなのです。

それでも、親は、赤ちゃんのアレルギーを気にしているわけですから、検査した結果、高い数値などが出た場合、医師から「では、その食べ物を制限していきましょう」と言われれば、そういう「〇〇を食べさせない」という育て方をすることになる。

ところが、このやり方は、どうやら「その子に一生に及ぶ間違いを歩ませてしまう」可能性があるのかもしれないのです。

RAST検査
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にしむら小児科


いずれにしても、このように RAST 検査が赤ちゃんに広がった結果が先ほどの現状、つまり、

「4人に1人の乳幼児が卵を食べない。あるいは、多くが小麦と大豆を食べない」

という異常事態につながっているようです。

しかし、上の文書を書いたにしむら小児科の医師によれば、赤ちゃんの時からの食事制限は間違った方法で、赤ちゃんの時だからこそ、赤ちゃんには「少量ずつ食べさせて慣れさせること」こそが大事だと述べています。

しかし、現実は下のようなことになっていると医師は書きます。

まれに、子どもをアレルギーにしたくないからと、原因となりそうな食物を多種類除去している保護者がいます。

しかし、それは逆にアレルギーを作っているようなものです。免疫システムは生後6ヶ月から2歳くらいまでがもっとも活発に活動します。この時期に不要な除去をすることは,赤ちゃんの生涯にまで影響してしまうかもしれません。

> それは逆にアレルギーを作っているようなものです

というようなことになり、一番大事な免疫システムの構築段階の赤ちゃんの時代に「その免疫の構築ができなくなってしまう」ということにつながる可能性があるようです。

赤ちゃんの食物アレルギーを防ぐもっとも確実な方法は、結局は「食べさせる」ということだそうです。

文書のシメは、

保護者は不安感からアレルギー検査を求める、医師の方もリスクを避けるために除去食を勧める。しかし、本当に考えてあげなければいけないのは、子どもの未来です。健全な成長と発達のために、何をしなければいけないのか、良く考える必要がありますね。

さて、そろそろ結論です。食物アレルギーが増えたのは、多くの人がRAST検査を希望し、除去しなさいという指導が普通になってしまったからです。“子どものため”と熱心にアクションすることは、かえって子どもを苦しめることも多いのですが、食物アレルギーはその典型例です。

となっていました。

最近の小学生などで、重度の食物アレルギーがものすごく増えている原因もそのあたりにあるのかもしれないですね。赤ちゃんの時に行った「除去食」で、正常な免疫システムが作られなかった、という部分はあるかもしれません。

先の文章は、全体として、かなり専門的で長いですが、小さなお子さんをお持ちで、アレルギーが気になる方は読まれるとよろしいかと思います。こちらがリンクです。

もちろん、子どものアレルギーに関しても、いろいろな医学的なさまざまな考えがあると思いますが、いかにも西洋医学的な「不要なものは除去すればいい」という発想は、あまりいいとは感じません。


ああ・・・気づくと・・・これは、自分の風邪のことを、ちょっと余談として書こうとしたら、えらい長さになってしまいました。


それにしても、乳幼児の4人に1人がタマゴを食べていないというのも、何だか大変ですが、「小麦と大豆を制限している」って子どもたちも、やっぱり、それらは慣れさせていかないと、世の中で生きていけないですよ。

医療は、もちろん、良い面もたくさんあるでしょうけれど、先ほどの「子どもへの抗生物質投与」にしても、RAST検査の反応で、赤ちゃんの時から食事制限を始めることで免疫力の構築に問題を発生させ、一生をアレルギーで過ごすことになるかもしれないことをしてしまっている、ということもそうですが、こういうことが起きている根源は、悪意というより、

人間の本質的な強さを信じていない医療

という根源から、

人間の自己治癒力より「薬」と「検査」の方が優れている

という現代医療が「何を神様としているか」ということの問題でもありそうです。

主軸は薬ではなく人間(人間自身が自己治療マシン)であり、ヒポクラテスの言うように、「人間の自己治癒力を高めるのが医療」という方向がやはり正しいと確信します。

ちなみに、風邪薬以外でも、精神系の薬に関しても、厚生労働省の医師への調査では、「小学校入学前でも精神薬を処方する」と答えた医師が「全体の3割ほどもいる」というような統計もあります。

子どもへの精神薬投与に関する医師へのアンケート
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子どもの薬物療法


大人でさえ大きな副作用と強烈な依存性に陥る精神薬を幼稚園の子どもにも出すと平気で答える人たち・・・。

このような現実とかもありますが、これを避けることができるのは、基本的には親の考えと行動だけです。

参考記事:ブラック・フラミンゴが現れた地球。そして、数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本(私も危なかったのです)

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子どもが薬をいやがる事実を考えてみると

思えば、私は幼児の頃から小児ぜんそくでしたが、薬は嫌いでした。

うちの子どもも、ほとんど飲んだことはないとはいえ、薬が嫌いで、ほぼまったく受けつけないので、諦めたことがありました。

今思えば、こういう「赤ちゃんや子どもが病院の薬をいやがる」というのは、実はとても自然な反応かもしれないということもわかります。苦いとかそういう以前に(というか、最近の子ども用の薬というのは苦くないものが多いはずです)、

「それは体に入れたくない」

という人間的な本能の反応なのかもしれないですね。

たとえば、下みたいな記事があります。

子どもが飲み薬を嫌がる 約6割の親が経験 散剤で最も多く 日本調剤まとめ
ミクス online 2015.07.27

日本調剤はこのほど、乳幼児を持つ親の約6割が、子どもが飲み薬を嫌がったり、飲まなかったりした経験があるとの意識調査結果を公表した。薬を嫌がる子どもは年齢が上がるほど多い傾向で、3歳以上で嫌がったケースは7割近くとなった。嫌がった薬で最も多いのが散剤(84%)、次いでシロップ(38%)だった。

> 薬を嫌がる子どもは年齢が上がるほど多い傾向

とあり、自我の確立と共に本格的に薬をいやがるようになっていく。

・・・ですが、多くの日本人が、かつての私のように大人になったら薬漬けになりますが。

まあ、まだ5歳くらいまでの子どもたちは、社会的教育を受けていないので、「病院という権威」などないですし、「人間として必要な本能だけで生きている」のだとすると、子どもが薬をいやがるというのは、とても重要なことかもしれないです。

それが、大人になるにつれて、平気で薬を大量に飲むようになるのは、社会で生きていく上で、「病院は権威である」とたたき込まれて、

「病院にいけば病気は治る」という幻想

を植えつけられてしまうからかもしれません。

最近の記事もそうですけど、「病気は自分で治すもの」だという、これが幻想でも構わないですが、この意識を持つこと持たないことでは、人生に対しての見方が本当に違いますよ。

子どもと本能といえば、安保徹さんの『著作』の中に、

なぜ、子どもはピーマンが嫌いなのか」

ということが書かれてある部分がありました。

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ピーマン


安保徹『人が病気になるたった2つの原因』より

子供がピーマンや人参のようなクセのある野菜を苦手にするのは、解毒作用を司るミトコンドリア系がまだ未熟なために、クセのある野菜に含まれるポリフェノールを上手に処理できないからです。

無理やり好き嫌いを改めさせようとしても、子供が嫌がるのは、わがままだからではなく、本能的な反応とともにミトコンドリア系が整っていくので、放っておいても自然にクセのあるものも食べられるようになる。このことがわかっていれば、お母さんのストレスも軽減するでしょう。



ということで、この下りから考えると、好きで食べているのであれば問題はないでしょうが、小さな子に、嫌がっているのを無理やりピーマンなどを食べさせることは、むしろ健康にも良くなさそうです。

私自身、小さな頃は野菜なんか全然食べなかったですが、成長するにつれて、嫌いものはひとつもないというふうになりましたので、放っておけば問題ないと私も思っています。

あるいは、かつて、知り合いでいた過度な偏食の人たちは、むしろ小さな時に無理やり食べさせられていたようなことが多かったそうで、何事も自然がいいとは思います。

うわあ、何だか余談のままここまで来てしまいました。

まあしかし、風邪を引いている時くらい、余談で突っ走るのもいいかなと。

次回あたりから普通の更新に戻ることができると思います。



  

2015年06月29日



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budda-satori-clare.jpg「人間はもとより、禽獣虫魚も山川草木もみな成仏して、それぞれに大光明を放っており、昨日まで穢土(えど)と思っていたこの娑婆世界が、そのまま極楽浄土であることに気が付いた。このように開悟すれば娑婆即浄土であり、大調和の世界である」

(仏陀が悟りを得た時に叫んだとされる言葉 / 西光寺 - 極楽浄土より)







 




ホワイトハウスのダブルレインボウ

少し前に、

宇宙にも地球にも「虹の現象」が広がっている。そして、その虹はイスラエルの伝説では「地獄の釜」の象徴でもあり
 2015年06月24日

という記事で、「最近、いろいろな場所で虹に関しての報道がある」ことや、虹にまつわる伝説の中には、イスラエルのもののように「虹の下には地獄の釜がある」というようなものもあることなどを書きました。

その後、検索してみると、その時にもご紹介した「二重の虹」が、この1週間ほどは各地で見られていたようなのですね。全部がリアルタイムのものではないでしょうけれど、わりと全世界で、「二重の虹」が出現していたようです。

double-rainbow.jpg
Google


そんな中で、印象的だったのは、アメリカのホワイトハウスの上空に、二重の虹が出現したという投稿を見たことだったかもしれません。6月26日のことです。

white-house-rainbow.jpg
patheos.com


写真はあまりはっきりとしていないので、ダブル・レインボウと書きこまれていないとわからないような淡い二重の虹ですが、いずれにしても、「ホワイトハウスの真上で虹が輝いた」ということは、イスラエルの伝説に従えば、

「ホワイトハウスに地獄の釜が登場した」

というようなことにもなるのかもしれません。


さて、しかし、今日のテーマは、それらのこととはまったく関係なく、前回の記事の、

世界に溢れる「未来への否定的な態度」から肯定的姿勢を学べるか。ギリシャのデフォルト、中国市場の崩壊、戦争の足音、小惑星衝突…etc
 2015年06月28日

などのような世の中を生きていることをどう捉えるかというような話として、資料的にいくつか提示しておきたいと思います。

冒頭に載せましたのは、お釈迦様が悟りを開いた時の言葉だそうで、つまりは、

「今、生きているこの世界こそが極楽浄土だと気づいた」

ということになります。

死後の世界や、他の場所に極楽があるのではなく、この世こそが輝く極楽だと気づいたことが、お釈迦様の悟りとなったようです。


西光寺 - 法話 極楽浄土 より

真如の世界には生前と死後の区別が無いのです。
般若心経の「不生不滅」の意味はそのことを言っているのです。
あの世とこの世の区別が無いということは地獄や極楽はあの世にもこの世にも在るということです。

この世に生きている私たち自身の今のそのままの心が、地獄から最高は極楽浄土まで行ったり来たりしているのです。
地獄も極楽もすべてこの身の内にあるのです。

遠い遠いと思って旅してきました極楽への旅は「ここ」こそ極楽だったのです。



私もおおむねこのことを思って生きています。

もっとも、私の場合は、地獄も大きく同居しているわけですが。



今の時代は恐怖と不安をさえも訓練に活用できる幸福な時代

金融崩壊、経済破壊、戦争、自然災害、環境汚染、食品汚染、人心の荒廃、増え続ける病気、薬害、少子高齢化社会……と、いわゆる懸念とされている問題は山ほどあります。

しかし、冷静に考えれば、これほどネガティブな案件が世に満ち溢れている時代は、そうはないわけで、そこを考えると、肯定的態度の訓練にこれほど適した世の中はないとも言えます。

その観点からは、

「なんて恵まれた時代を生きているんだ」

と思わざるを得ません。

イエス・キリストもシュタイナーも中村天風さんも野口晴哉さんもお釈迦様も、あの人もこの人も、多くの賢人やプロレスラーの(プロレスラーはまあいい)誰もが口を揃えて言うことは、

「すべてを肯定的に考えなさい」

ということだと思います。

それは、肯定的な時代に生まれた時にそう考えるのではなく、どんな険悪な時代、それはたとえば、そこにもここにも核兵器が落ちまくるような時代に生まれても、

「ああ、素晴らしい毎日だなあ・・・と思え!

と、先の賢人たちは私たちに「命令」しています。

思える、とか、思えない、とかの選択ではなく、前向きに、明るく、楽しく、勇気をもって、肯定的に考え「なければならない」と私たちは命じられているのです。

イエス・キリストやお釈迦様などに関係した宗教に帰依しているのなら、それは、宗教上の義務でしょうし、私のように無宗教なら、自分自身でそれを心に留め置かなければなりません。

根本的に今までの考え方は間違っていたかもしれません。

平和だから素晴らしい。
健康だから素晴らしい。
自然が多くて素晴らしい。


それはそれで良いとしても、では、その逆の状況に放り込まれた時、人はどのように考えるでしょうか。

おそらくは上の「逆」の方向に考え始める。

そして、「思考は現実化する」という概念でいえば、世の中は「素晴らしくない」と感じられる世界になっていく

さらには、

平和だから素晴らしい。
健康だから素晴らしい。
自然が多くて素晴らしい。


この問題点がどこかおわかりでしょうか。

「《自分の存在の素晴らしさ》を一義的な発想としていない」点です。

基本は、この世は、「自分がいるから素晴らしい」ということ以外では語りにくい面があるかもしれません。

やや考えにくいことかもしれないですが、ここは、お釈迦様を信じてみましょう。

先ほど並べましたような「金融崩壊、経済破壊、戦争……」に対して、一般的に抱く感情はどのようなものでしょうか。

それは、

「恐怖」

だと思われます。

そして、今の世の中は、報道でも、病気の喧伝を含めたメディアなどでも、「恐怖を先行させて広める」ということが一般的であるため、自分の頭で理解する前から、「それは怖い」ということになりやすい社会です。

しかし、「恐怖」という観念がどれだけ「本当の恐怖を人にもたらすか」ということに関して、いくつか、他の方の言っていることを載せてみたいと思います。

これに関しては、多くの人が同じようなことを言いますが、自分の持っている資料の中で、特に「まったく同じこと」を言っているおふたりがいます。

ひとりが自称プレアデスの人である方、もうお一方は、日本で最初のヨガの行者であり、現在までも多くの信奉者を持つ中村天風さんです。

おふたりとも、「恐怖の観念を自分の中に持つことによって、そこに実際に恐怖がやって来てしまう」ということを書いています。

では、まず自称宇宙人のほうから(だんだん呼称が大ざっぱになってきてるぞ)。

プレアデス+地球をひらく鍵』という本からの抜粋です。




『プレアデス+地球をひらく鍵』光体の定着より

恐れる気持ちこそ最大の敵です。あなたに恐れの気持ちが出てきたとき、あなたの力は失われるということを忘れないでください。

あなたが何かを恐れているとすれば、それは頭上に大きな看板をかかげて、「大歓迎! 私はあなたを待っています!」と恐れているものに呼びかけているようなものです。

恐怖心をライフスタイルそのものにしてしまって、人生を恐れているという気持ちを放送しているかのような生き方をすると、あなたの身体は閉鎖され、生命力は殺されてしまいます。

これがストレスを生み、病気を引き起こし、年をとる原因をつくり出します。
あなたの思いがあなたの現実を作り出します

恐怖心のなかで生活していると、すべてのものを追い払ってしまいます。あなた自身の力をも追い払ってしまいます。

あなたの論理的な考えにとって非常に馴染みのない何かに直面するときには、明確な意図、途方もない勇気、そして自分は絶対に安全なんだという気持ちと、平然とした気持ちを持たなければなりません。






次は中村天風さんの歴代の講演をまとめた『運命を拓く』からです。




中村天風『運命を拓く』より

どんな精神統一の下手な人でも、「おっかないなあ、怖ろしいなあ」と思ったときは、本人自身は気が付いていないかもしれないけれども、その恐怖の程度が深まれば深まるほど、恐怖観念が発動して、その観念は知らず知らずの間に確実に集中されるであろう。

だから、「おっかないなあ」と思った事柄は、どんな物覚えの悪い人間でも、たとえ思った時間は瞬間であったとしても、終生忘れていないであろう。

さあ、そこで考えてみよう。

一生忘れないような深刻な記憶に出来るくらいに、瞬間的でも、観念が集中されたとすると、それが宇宙霊の力を受け入れる”鋳型”が用意されたことになる。

そのとき出来上がっている”鋳型”というものが、良かろうと、悪かろうと、極めて確実な”すがた”が出来上がったことになる。

そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。否、むしろ、そうなるのが当然である。

何はさておき、有意義な人生を活きるには、どんな場合があろうとも、恐怖観念で物事に応接しないようにすることが、本当に戒むべき人生の鉄則である。

感情というものは、その種類が、いかなるものであろうと、我々の肉体や、人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。

だから、常に感謝と歓喜という積極的な感情を持っていれば、肉体や人格に積極的な、非常に大きな、良い影響を与えるけれども、反対に、怒ったり、怖れたり、悲しんだりする、消極的な感情や情念は、実に悪い影響を持っている。

中でも、この恐怖というものは、恐ろしいほどの印象力を持っている。印象力を持っているのであるから、早晩、その怖れている事柄が、現実になって、形象化されるのが当然である。





自称宇宙人と中村天風さんは、「上から目線」という点でも共通していますが、それはともかく、特に中村天風さんの言葉というのは、この他にも、いろいろな部分で、よく考えさせてくれます。

中村さんは、「人間は形としては存在しない」ということも喝破されていて、


中村天風『運命を拓く』より

繰り返していうが、人間の生命の本体というものは、形ある肉体ではない。ちょっと考えると、形のある肉体であるかのごとく見えるが、実は形の見えない気の中にあるのである。

だから、完全に、生命を活かす計画の成就は、生命の本体たる霊という気を、完全なる姿で、この生命を確保しなければならない。



ということを何度もおっしゃっています。

中村さんのいう、

> その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる

というのは、生まれつき不安と恐怖観念の強い私は何度も経験しています。

そして、逆の「恐怖がなければ恐怖はやって来ない」ということも、これも、具体的に書くと長くなりますので、今は省略しますが、何度も経験しています。

考えてみれば、私の若い時・・・まあ今も多少そうですが、その趣味傾向といえば、パンクやノイズなどのアンダーグラウンド音楽に、前衛だったりグロテスクだったりするアンダーグラウンド・アートだったり、映画にしても、妙な映画や恐怖映画、グロテスク映画を山ほど見たりといったように、私は、

「ほぼ完全なネガティブ傾向を持つ人間」

であります。

では、世の中から見れば、ネガティブにしか捉えられない、それらの文化や表現が、私たち自身にとってネガティブだったかというと、そんなことは全然ないわけです。

ムチャクチャな表現や音楽を聴いて、心から幸せな気分になったり、「明日も何とか生きよう」と思って過ごせたりしたのです。

人は誰でも、ちゃんと「その人に対応した幸せと肯定的なコトやモノ」が自然と与えられるようになっていると思いましたし、あらゆる人は、目指さなくとも、それぞれが自然とその方向に導かれていくはずです。

それを見逃さないことと、自然に受け入れることが大事だと思います。

思えば、人生というのは、悲観的になっている部分以外では、実に素晴らしいものだったということが今となってわかります。

「悲観的になっている部分」として、私の「壁」となっていたのは、いつも「病気」でした。

若い時は、

…薬漬け幼児だった私がその後の十数年経験した「免疫回復戦争」の地獄体験記
 2015年04月21日

に書きましたように、小児ぜんそくや、風邪の連続。

青年期からは、「メンタル」のほうも加わり、今でも継続中ですが、神経症と強迫症をずっと持っています。

しかし、「風邪」に関しては、上の記事にも書きましたように、風邪は、ただ私をいじめるために引かせていたのではなく、

「風邪のウイルスは幼い私を助けるために一生懸命、風邪を引かせていた」

のです。

多分、今思えば、ぜんそくの薬は強烈な「遮断薬」ですから、子どもの時から私は平熱が低い状態だったように思います。度重なる発熱がなければ、もっと大きな病気をして、おそらくは若くして死んでいたと思います。

風邪ウイルスが二十代までの私を救ってくれたことに、野口晴哉さんの『風邪の効用』を読んで知るに至り、

「病気というのは完全に肯定的な存在だった」

ことを知ります。

この風邪の効用について知ったのは、ほんの2ヶ月ほど前のことです。

最近、私が社会の急変の可能性について妙に述べるのは、「最近の自分自身に起きることの量とスピードがこの3ヶ月間ほどで極端になってきている」こともあります。

良い意味とか悪い意味とかではなく、「最終局面」を感じます。

それはともかく、病気が肯定的なものだというのならば、若い時から関わりあっている神経症も「肯定的以外の何ものでもない」とは思います。

しかし、これはそう完全にそう思うわけにも感じるわけにもいかない段階で止まっていますが。インストタントな方法はない、ということもわかっています。

メンタル系の病気にとっては、その最終的な治療法は、さきほどの中村天風さんの言葉の、

繰り返していうが、人間の生命の本体というものは、形ある肉体ではない。

という観念を「論理的に」獲得することにありそうです。

これは「何となく」では駄目だと思います。

この世というのは、どんなことも極めて論理的であり、理性的な道筋でのみ、すべてが解決すると最近の私は思っています。

まあしかし、これはまた私個人の話となってしまいましたので、それはいいです。

自分の病気のことは、いつかは自分で何とかなるはずです。
何しろ、「病気はすべて肯定的なもの」なのですから。

何の記事だかわからなくなってきましたが、とにかく、こんな否定的な世の中に生きていられることは、まさに肯定的思考の訓練の場としては最高なのですから、私たちは今の世の中に生きられることを死ぬほど感謝しなければいけないと思った次第です。




混乱の中でも日本人の庶民は死を恐れなかった

締めに、ふたつの文章を載せておきたいと思います。

ひとつは、先ほども登場しました自称宇宙人が語る「地球の混乱」の話。

「これからの混乱にはいかなる準備も役に立たない」と言っています。

もうひとつは、1857年(安政3年)から、長崎で海軍の教官として、幕臣たちに教えたオランダの海軍軍人のカッテンディーケ( 1816 - 1866年)という人の文章です。私たち日本人はもともとは「死をまったく怖れず、死さえも笑い飛ばす」人たちだったことが示されます。


『プレアデス+地球をひらく鍵』より

エネルギーが加速されると、あなた方の惑星にさまざまな破壊がもたらされ、一夜にして起こる急激な変化ともあいまって、非常な混乱が生じることになるでしょう。

あなた方の記録に残る歴史において、これほどのエネルギーが地球に満ちたこともなければ、現在あるような意識が地球に存在したこともありません。

したがって、これから訪れるものに対していかなる準備もすることはできません。まったく何もできません。さまざまな出来事によって引き起こされる急激な変化は、あなた方の想像力をはるかに超えたものです。

あなたの最善のあり方に焦点をしぼり、あなた自身が周囲のさまざまな蓋然性に影響をおよぼすということを知ってください。あなた自身にとっても、これは大きな変化を引き起こす機会となるだろうことを知ってください。

あなたの松果体は、光のエネルギーの注入によって活性化されつつあり、これによって新しい可能性のヴィジョンが解放されるでしょう。このヴィジョンにおいては、平和と自由が心のなかで感じられ、認識されるでしょう。



150年前の日本人の死生観

1897年の葬儀の様子
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日本人自らが撮影した 120年前の日本の光景

逝きし世の面影』より

彼らにはいつでも死ぬ用意があった。侍の話ではない。ふつうの庶民がそうだったのである。

カッテンディーケは言う。

「日本人の死を恐れないことは別格である。むろん日本人とて、その近親の死に対して悲しまないというようなことはないが、現世からあの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ」。

「彼らはその肉親の死について、まるで茶飯事のように話し、地震火事その他を茶化してしまう。……私は長崎の町の付近で散歩の途次、たびたび葬儀を見た。中にはすこぶる著名の士のそれさえ見たが、棺は我々の考えでは、非常に嫌な方法で担がれ、あかたもお祭り騒ぎのように戯れていた」。

ヴェルナーも長崎で葬列に出会い、参列者が「快活に軽口を飛ばし、笑い声をたてて」いるのを見た。

「死は日本人にとって忌むべきことではけっしてない。日本人は死の訪れを避けがたいことと考え、ふだんから心の準備をしているのだ」と、彼は思わずにはいられなかった。



  

2015年06月20日



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着物を洗濯する女性たち(1897年 / 箱根村)
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Japan, Described and Illustrated by the Japanese






 



久しぶりに風邪を引きまして

実に軽いものなんですが、ひさしぶりに風邪を引きましたところ、夢枕に野口晴哉さんが現れ、こちらを見ています。

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・野口晴哉(1911年 - 1976年)

そして、

「風邪を引きましたね」

と言った後に、空中で爆発して消えました(どんな派手な消え方だよ)。

4月に、野口晴哉さんの『風邪の効用』という本を読んで、初めて、「風邪をひくということは、人間に備えられた偉大な治癒メカニズムである」ことを知り、

「風邪の症状は、人体の日常的で最大の治療者」

という認識を初めて得て、

人間にとって最も日常的で慈悲深い治療者は「風邪ウイルス」かもしれない…
 2015年04月21日

などの記事を書きました。

しかし、それ以来、自分自身が風邪を引く機会に恵まれませんでした。

というより、最近は本当に風邪を引かなくなっていたのですが、『風邪の効用』には以下のようにあります。


風邪をひかない人は身体が鈍くなっている人です。 身体が鈍くなると病気や異常なども感じなくなり自分は健康だと思っている。 そういう人は得てして大病で突然倒れるというようになるそうです 。


と、野口さんに脅されていたこともあり、「風邪を引きたいなあ」と思っていたので、風邪を引いたことは嬉しいのですけれど、ただ、熱が出てくれません。

風邪を引く場合は、熱が出ることが最も大事なことであるようなんです。

ガンの自然療法をしているドイツ医科大学のイセルス教授という方などは、

「世界には二人の名医がいる。それは食欲不振と発熱だ」

とまで言っていて(渡部昇一・石原結實共著『東洋の智恵は長寿の智恵』より)、熱をしばらく出していない私はアセるわけでした。しかし、いろいろと発熱を促したのですが、熱には至りませんでした。

ところで、先ほど、野口晴哉さんで検索していましたら、野口さんの語録を「ツイート」しているページを見つけまして、もちろん、亡くなったご本人がされているわけではないでしょうが、それは、

野口晴哉bot

というページです。

そこを眺めていましたら、先日の記事、

本来の日本はすべての人々に「切断プログラム」で愛と覚醒を与えられる国だったことを思い出し…
 2015年06月18日

という記事に書きました

不可能に思える未来像でも、ひとりひとりが「考える」ことで実現できる

という概念に近いことが語られている言葉がたくさんあることに気づきました。

いくつか抜粋してみたいと思います。


野口晴哉さん語録


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世界が広くとも、
一人一人の覚悟がきまれば、
そのようになる。
今、実現しなくとも、
いつかは必ずそうなる。




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自分でつくった観念のため、不可能なことだと決めてしまってはならない。
一箇のパンを百人で食べても余ることは、百箇のパンを一人で食べてしまうことより実現し易い。




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世界が変わったのではない。自分が変わったのである。
自分が変われば世界は変わる。
自分の世界の中心はあくまでも自分であり、自分以外の誰もが動かせないものなのだ。



それにしても、野口晴哉さんは、他にも、いろいろなことをおっしゃっています。


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電球を割って光源を探しているのが
今までの病理学と解剖学だ。
しかし、体は影、実在してはいない。
無いものが病んでいる訳が無い。
体にこだわっていてはいのちは見えない。
いのちは体にあるのではない。



というように、

「体というものは存在していないのだから、ないものが病むはずがない」

ということを言っていて、このことについては、拡大していけば、

日本も含めて「これは壮大なディストピア社会化実験」の進行中なんじゃないかと思いつつ、それもまた仏陀の言う幻想かもしれないし
 2015年05月31日

という記事に書きました、お釈迦様の至った見解である、


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世界は幻影である。
世界は現実のものである、とは考察できない。
世界を現実のものと思うのは、大きな幻想である。
人間は元素の領域からの解放に向けて努力しなければならない。
そうすると、もはや名前も事物もない領域、涅槃にいたる。
そこで、人間は初めて幻想から解放される。
幻の世界は苦痛である。
生老病死は苦である。



や、あるいは、「人間によって観測されるまでは、この世の現実は存在しない」という記事に書きました量子力学などにも通じるものなのかもしれません。

それらの境地は、なかなか体得はできませんけれども。

あとは、教育についても、野口さんは、


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人間の価値は、その自発的行動にある。
教育の目標は、自発性を養うことにある。
自発の行為だけが、人間の自然の動きである。



と、「まったく、そうなんだよなあ」と納得させられることを述べられています。

今の教育は全般としてこの逆(基本が詰め込み教育なので、子どもたちの自発性が養われない)ですから、なかなか健やかな心身の状態になりにくいような気はして、「ああ、困ったことだなあ」と思ったりしていたのですが、しかし、このような否定的な考え方も、野口さんに言わせれば、


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希望せよ 実現してもしなくても希望しつづけよ
活力の源泉として必ず働く



というように、肯定的な態度を、各所で勧めています。

勧めています、というより、「肯定的であること以外に真実はない」ということを述べています。

整体の大師である野口さんと共に、格闘の大師といえるアントニオ猪木師も、


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不安だらけの人生だから
ちょっと足を止めて自然に語りかけてみる
「元気ですかーっ!」
自然は何も言わないけれど
ただ優しく微笑みかえしてくれた
元気が一番
今日もサンタモニカの一日が始まる

アントニオ猪木語録



と、なぜサンタモニカなのかは今ひとつわからないですが、肯定的な態度を勧めてらっしゃいます。

そして、このアントニオ猪木師が「自然が、ただ優しく微笑みかえしてくれた」という状態を体感できたことは、猪木師が肯定的態度を獲得していることを、野口さんの言葉から知ることができます。


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この世にどんなことが起ころうと、どんな時にもいつも楽々悠々息しつづけよう。
そしてこの心ができた瞬間から、小鳥は楽しくさえずり、花は嬉しそうに咲き、風は爽やかに吹きすぎる。



ここに、日本の整体のチャンピオンと、日本のプロレスのチャンピオンが精神的タッグを組むという歴史的な快挙を見せるのであります。




かつて、世界で最も人々が自由だった日本という国

最近たまに引用させていただく『逝きし世の面影』という本の中に、江戸末期から明治中期くらいの日本が、外国人から見て、どれだけ自由な国だったかということを示すものがいくつも語られています。

1820年から 1829年まで、出島のオランダ商館に勤務していたフィッセルという人は、著書に以下のように書いているそうです。


フィッセルの著作より

日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。

専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない。

自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。

勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している。

日本では、上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう。



また、日本や東洋の宗教や美術を研究したエミール・ギメという人は、当時の日本について、

「なぜ主人があんなに醜く、召使いがこれほど美しいのか」

と記していたり、他の多くの外国人たちの言葉からも、当時の日本は、身分の高い人たちではなく、

身分が低い人たちや庶民が生き生きとして輝いていた国

であったことがはっきりとわかります。

これは先日の記事に書きました、メアリー・フレーザー英国大使夫人の、

「この国の下層の人々は、天が創造し給うたさまざまな下層の人間たちのなかで、もっとも生き生きとして愉快な人々」

という言葉からも伺えます。

そして、人の数としては、今も昔も圧倒的に上流階級より「大衆」が多いわけで、つまり、人口の大多数である大衆の人たちが豊かに生き生きと暮らしていたのですから、国全体が生き生きとしていたのも、ある意味では当然なのかもしれません。

そして、ここには、

「ひとりひとりの考え方」で、その国全体の方向付けができあがる

という意味が含まれていることにも気づきます。

『逝きし世の面影』には、「子どもの楽園」という章があるのですが、このように、当時の日本は「子どもにとって楽園のような国」だったことや、当時の日本での「女性の存在感の大きさ」について語られているように、もう、本当にいい国だったようです。

当時、日本にやって来た多くの外国人(というか、白人)たちは、日本の大衆の生き生きとした様子に、一様に感動し、また、「奴隷という言葉のない国」の在り方に驚きました。

だったのなら、本来なら、当時の日本人の生き方と考え方のほうこそ、当時の彼ら白人たちの文化のほうに伝えるべきだったのが、それが本末転倒となって現在に至ってしまっています。

これはネイティブ・アメリカンの文明と西洋文明の関係など、世界中のあらゆる文明に言えることだとは思いますが、つまり、

「西洋の文明と価値観が、東洋に伝わってしまった」という、間違いが起きた

ということに今となって気づくという感じですかね。

私はそれが明治維新の頃かと思っていましたが、実際には、その転機は「戦後」だったようです。




和服のこと

掲示板で、「着物」についての歓談のスレッドがありますが、それを最初に書いた方によりますと、


最近沢村貞子さん(明治41年-平成8年)の随筆を出版されているだけ全部読んで思ったのは、第二次世界大戦が終わる頃までは、江戸らしさは残っていたということです。

もちろん、鹿鳴館で貴婦人がドレスを着たり、大正デモクラシーの頃は女学生が袴にブーツで闊歩したりしていましたが、庶民はふだんは着物を着ていましたし、日本髪も今ほど特別な髪型ではなかったのです。



とのことです。

確かに、考えてみますと、戦後ずいぶんと経ちました私が子どもの頃でも、つまり、昭和 40年代くらいでも、母方も父方もお祖母ちゃんたちは普段着は着物や割烹着でした。お祖母ちゃんたちの洋服姿は、多分見たことがないです。

その世代がいなくなったあたりから、着物文化は途絶したのかもしれません。

着物を着たからどうだということではないでしょうけれど、「服装」はその民族を語る上で、ある程度は大事ですしね。

シュタイナーは、1924年2月13日に、

「なぜ服を着るか」

というタイトルの講演をおこなっています。

そして、シュタイナーは、その講演で服飾は本来、「民族の集団的心魂」を表していると語っています(『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』に収録されています)。

それはともかく、今は、全世界が、ほぼ洋服というような感じですし。

ちなみに、私は 10年くらい前から、家の中では寒い冬以外は、甚平や作務衣などの和服で過ごしていて、夜はほぼ毎日、和服です。

なので、夜、お酒を飲む時は下のような感じになっています。

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日本人自らが撮影した 120年前の日本の光景

そして、この格好のまま寝ます。

また、あまり関係ないかもしれないですが、私は椅子とテーブルの生活ができず、この数十年、ずっと床に座る生活です。食事はちゃぶ台、パソコンも座卓です。床に座る生活は、洋服より和服が楽なんです。

実際、これらの生活に慣れると、部屋で洋服で過ごすのは難しいです。

本当は近場の外出などは甚平か作務衣にしたいのですが、今住んでいるあたりでは、和服で外出している男性をほとんど見ません。

かつて住んでいた西荻窪は、若者もご老人も結構、和服で歩いていたので、甚平や浴衣で歩くことに、それほど違和感のない街でした。

下のは、検索して出てきました、西荻窪のかつて私の住んでところからすぐのところにあった民家を改装したカフェです。このあたりには、下のようなお若い和服の女性も和服の男性もわりといました。

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着物ライフ愉しみまくり♪

先ほど書きましたような、シュタイナーが言う「服飾は「民族の集団的心魂」を表している」ということがある程度正しいのだとすれば、第二次世界大戦が終わるまで長く続いた「和服時代」と、上に書きましたような「世界で最も生き生きとした国だった日本」との関係も、完全に無関係とは言えない気も少しだけします。

もし、よろしければ、過去記事で何度か取り上げました「 120年前の日本」の写真のすべてが、

Japan, Described and Illustrated by the Japanese
(日本人によって撮影され彩色された日本)

というページにありますので、ご覧いただければと思います。

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どの写真も、被写体の多くが庶民ですが、きわめて穏やかな顔立ちを見ることができると思います。

今の写真撮影でありがちな「カメラを向けられた時に作る恣意的な笑顔」などもなく(白人文化のように、笑顔を強迫する文明は実は戦闘的だと思います)、淡々としていて、穏やかとしか言いようのない表情を見て取れるのではないでしょうか。

おそらくは気持ちの安定は、「見かけ」にも影響するのだと思います。

そして、私たちがこの時代に回帰することは、野口さんの言葉をお借りしなくとも、決して不可能ではないはずです。

まずは、ひとりひとりが「必ずそうなる」と心底思うことからすべてが始まるはずです。