2011年05月27日



In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。




電子は「宇宙に存在するものの中でもっとも丸い存在」だった : 英国の研究者たちの10年間に渡る執念の研究が突き止めた「宇宙の奇蹟」



今回の記事は、「電子が完ぺきな丸だった」という素敵な響きにつられて訳したんですが、翻訳した内容自体は特に後半の反物質のくだりのあたりはよく理解していないです。そもそも、私は「電子って何?」という人ですし。

「電子」というものを説明している中で最もわかりやすかったのはこちらのページでした。

電気とはより。

■電子と電荷

電気を知るには、まず電子と電荷のことを説明しなくてはなりません。いきなり難しい話で恐縮です。

genshi.gif

物質を構成する最小単位は原子ですが、原子は中心となる原子核と、その周囲を回転する電子から成ります。原子核の中にある陽子はプラス、電子はマイナスの電気を帯びています(帯電状態)。この帯電状態の物質は電荷(でんか)を持つといい、その大きさの単位はQ(クーロン)といいます。

jiyudensi.gif

多くの物質では陽子も電子の数は一定で、電子は原子核の周囲を回転するだけですが、何かの拍子に軌道を離れる場合があります。この軌道を離れた電子を自由電子といいます。

電気とはこの自由電子の動きをいうのです。
もう少し突っ込んでいいますと、例えば電線の中を自由電子が移動すれば、それが電気の流れ(電流)となるのです。電流とは電子の移動なのです。



要するに、多分、私たちがふだん気軽に使っている「電気」というものは、「電子が移動している状態」のことを言うようです。

この電子ですが、 Wikipedia によりますと、


電子とは、宇宙を構成する素粒子のうちのレプトンの1つである。


素粒子ということで、多分「ちっちゃい」と。

そのちっちゃい電子の動きが電気ということのようですが、その電子というものが、「宇宙に存在している中でもっとも丸い物質だった」という話です。

その「完全な球形ぶり」は記事の表現では、電子を「太陽のサイズ」にまで拡大したとしても、その円形の誤差の範囲は髪の毛一本の中に収まるほど丸いほどの完全な丸である模様です。

これはつまり、最初っから宇宙にあったもののひとつが「完全な丸だった」と。

宇宙はなんだかやはり奇跡ですねえ・・・。


記事中に、「亜原子粒子」という単語が出て来ますが、これは「物理学や化学において原子よりも小さい粒子である。亜原子粒子は核子や原子などを構成する。」とのこと。

では、ここからです。
英国のテレグラフの記事です。

続きを読む



  

2011年05月25日



In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





ここ1年ちょっとくらいの間、何かの記事を思いつきで書いた後、少し待っていれば、それらのことを補強してくれるニュースが出てきてくれるということが続いています。どんなに適当なことを書いても、わりと直後に、必ずそれと関係したニュースが出るということはありがたいことだと思っています。最近はその出現スピードが早くなっています。

今日は昨日 5月24日の米国のタイム誌のサイトの記事です。

タイトルは「宇宙には私たちが考えている以上の数の " 地球タイプの惑星 "が存在するのか?」というもの。

最近の研究では、太陽系外の惑星のサイズや位置から「大気の生成や気候システムのシミュレーション」が可能となっているそうで、フランスの国立天文学研究所の調査により、太陽系外の「地球タイプの惑星の数」が驚くべき数に達しているかもしれないという発表に関してのものでした。

5月9日に In Deep の「ぼんやりと外を見ていて気付いた「宇宙の計画」」という記事を書いた後に、「この関係の新しいニュースが出ないかなあ」と考えていたら、昨日出たという感じです。

上の In Deep の記事の、

宇宙の全域で似たような面子が似たような宇宙を作っていって、似たような銀河、似たような太陽系、似たような地球が無数に作られていく。


の部分の話です。
この「似たような銀河、似たような太陽系、似たような地球」というのは、もともとは、お釈迦様、つまりブッダが言っていたことです。

ブッダは「宇宙はわれわれの惑星系と似た数十億の小さな宇宙から成り立っている」として、下のように書いていました。フレッド・ホイル博士が自著の結びとして書いた部分を「この世の終わりをみんなで考える新年」( 2011.01.07)という記事に書いたことがありますので、そこから抜粋しますと、


 紀元前六世紀に、ブッダの世界観はすでにコペルニクス革命以後に入っていた。彼は宇宙が、各々がわれわれの惑星系と似た数十億の ”小さな宇宙” から成り立っていると記している。ブッダの対話形式になっている古い仏教の教典のなかに無限の宇宙について述べられている。

「無数の太陽、無数の月、・・・、無数のジャムブディパス、無数のアパラゴヤナス、無数のウッタラクラス、無数のブッダビデバス」

 ジャムブディパスとは当時の北インドの人々が知る限りの人の住んでいる地域を表す単語である。この対話から、ブッダが生命と意識(彼はすべての生命に意識があると考えていた)を宇宙の構造に全体として結びついていて別々にできないものと捉えていたことは充分に明らかである。




実際は、ブッダが生きていた時代はまだ観測科学が進んでいませんでした。
宇宙の観測のために大事な赤外線望遠鏡も、成分の分析と特定に大事な分析法も確立されておらず、(やりたいと思っても)それを果たすことはできなかったと思います。

なので、実は私たち「現代の一般民衆」は、当時の偉人、すなわちブッダやキリストや様々な神がかった人々より、はるかに有利な立場で生きていると最近思えるようになりました。ブッダやキリストたちが地団駄を踏んで悔しがるであろうほど、宇宙を直接見たり、宇宙の構成物質を赤外線望遠鏡などの観測から推測できる。

こう考えて生きると、今の時代に生きることもそんなに悪くないかなあと。

私たちは無理して自分たちの存在を卑下ばかりすることもないように思います。

宗教もなくなり、神もいなくなっても、「オレたち人類が地球にいるから地球は大丈夫」と思って生きればいいかと。


ここからタイムの記事の翻訳です。

記事にある「グリーゼ 581d」という惑星については以前、このブログでも記事にしていますので、記事下にリンク等を掲載しておきます。地球から20光年のところにある星で、地球と極めて似た環境であることが最近の研究でわかっています。

私個人として思うのは、パンスペルミア説から見れば、(時代によるでしょうが)地球とほとんど同じ人間と文明が存在すると思っています。地球から20光年離れたこの星にも、日本や西荻窪が存在するかもしれません。

正直ワクワクしますが、私たち人類がグリーゼ に行ける時は来ないと思います。
20光年は近くて遠い。

それでも、この星の存在を知ることができたということ自体が、「何とオレたちは刺激的な時代に生まれることができたのか」と感激いたします。




続きを読む



  

2011年05月09日



In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





dejavu.jpg


たとえば、何の宗教でもいいですが、唯一神などの存在している宗教を信奉している人に、

神は無駄なものもたくさんお造りになりましたか?

と訊けば、多分、「万能の神がそんなことをなさるはずがない」と答える人が多いのではないでしょうか。

では、そういう神を信じている人々の目にうつる、この世にある様々な無駄に見えるようなものや自分にとって不快なものや、あるいはイヤなものというのは一体何なのかと思うこともあるかと思います。


では、たとえば、「それらのイヤなものに関しては、神がお造りになったものではない」とします。

すると、万能な神なのに、「世界の一部しか造っていない」ということになる。神の創造が不完全なものということになる。


それではいろいろと良くないので、やはり「神は万能だ」という前提に立つとしましょう。しかし、今度は、

この世にその神の計画以外のものは存在するのか

という問題が出てくるように思います。

すなわち、

「それは偶然できたものだから」というものの存在は許されるのか。そういうものが地球や宇宙に存在することは果たして許されるのか。たとえば、地球の生き物は「偶然地球で発生した」というようなことが言われてきましたが、そういうことは許されることなのか。生き物や人間はすべて「神や宇宙の管轄外」ということなのだろうか・・・という疑問が出てきてしまいそうな感じがします。


さてどうしたらいいのだろう?


・・・という疑問は歴史的にずっとあったのではないでしょうかね。
特に、科学が進んできた中では常にある軋轢というか問題だったのでは。

でまあ、それらの疑問に対して、もっとも穏やかに解決する答えというのはあるわけで、それは、

この世に無駄なものは一切ない

とすることと、そして、

この世に偶然は一切ない


とすることではないかと思います。

これだと、どんな宗教を信奉している人にとっても、どんな神を信じている人にとっても、まあまあ、そこそこOKな答えなのではないでしょうか。

ということを前提として、今回の記事を書きます。

つまり、「宇宙の発生も人類の誕生もすべて偶然ではなく、また、この世には無駄なものはない」ということが前提ということです。

この前提が崩れれば、今日書くことにも意味がないです。つまり、「宇宙は無駄なものをこの世にたくさん作り、また、宇宙が感知しない偶然の発生物がこの世にはたくさんある」という場合は今回の話は適用できないということです。

それはそれで「あり」な気もしますが、今回は「宇宙は万能」ということで話を進めてみたいと思います。

基本的に前回2回の記事の続きです。


長くなりそうですが、簡単に書くと、「宇宙の計画とは何だったのか」ということに関してです。




続きを読む



  

2011年05月07日



In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





米国の500年に一度の洪水

本題とは関係ないですが、米国の中西部では、現在、大変な洪水の渦中にあり、来週以降さらなる大洪水の発生が確実となっています。昨日あたりでは「アメリカ建国史上で最悪の洪水になる可能性」というような文字も出ていて、ニュースの中には「500年に一度の規模の洪水」という報道もあります。

テネシー州のメンフィスという近辺では、住人約 92万人に対して緊急事態宣言が発令されています。

代表的なニュースをひとつ訳します。




Tennessee Officials Urge Evacuations Ahead of River Flooding
FOX ニュース 2011.05.06

テネシー州当局は住民たちに川の氾濫前の避難を勧告

flooding-0507.jpg

5月6日、テネシー州メンフィスでは、警官たちが約 1000軒の家々をまわり、ミシシッピ川とその支流が洪水の危機に直面しており、大変危険な状態のため、今すぐに避難するよう呼びかけている。

警官たちは、避難を促す英語とスペイン語で書かれた黄色のチラシを配っている。

チラシには、

「今すぐ避難を!!! あなたの家は現在危険に晒されています」

と書かれてあり、現在の事態を緊急作業員たちが人々に知らせている。

今現在すでに川の氾濫レベルは 1930年代以来の水位となっており、また、現在の川の堤防と水流止めが建設されたのは 70年以上前のことで、氾濫を防ぐことは難しいと考えられる。

現在、ミシシッピ川沿いのデルタ地帯の南部すべての地区に洪水が発生する危険が迫っており、それらの町が来週もしくは再来週には浸水する危険性が出ている。

来週水曜日(5月11日)までは、川は氾濫しないと見られており、まだ十分な時間が残されていると考えられるため、避難命令はまだ発令されていないが、当局は、メンフィスを含むシェルビー郡の人々が自主的に事前に避難することが望ましいと語っている。

避難所もすでに用意されており、配られているチラシには避難のために援助が必要な人々のための連絡先の電話番号も記載されている。



最近の世界の気候を見ましても、あるいは最近の米国での竜巻などを見ましても、もはや自然災害が発生した場合、ひとつひとつが生やさしいものでは済まない傾向にありますので、今回の米国の洪水もどの程度になるのかはまだわからないですが、仮にアメリカの該当地区にお住まいの方や、あるいは、お知り合いなどのいる方はお気をつけ下さい。

--
続きを読む



  

2011年05月06日



In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





最近、天候のことを書いたりしていたのですが、しかし、やはり地球の天候のことを考える上で、私は原点に立ち戻らなければならないと感じています。

その原点とはパンスペルミア説です。

原点といっても、知ったのはたかだが昨年のことですが、私がフレッド・ホイル博士のパンスペルミア説のことを知り、そして、そのことに絡めて、クレアなひとときに書き殴っていた頃です。

フレッド・ホイル博士は後年、「宇宙そのものが生物(微生物)自らの手で生成され、膨張させ続けている」という考えにまで至り、もともと高名な学者であったこともあり最後まで英国科学界の最高峰の地位にいられましたが、通常の学者が口にすれば、狂人として扱われた可能性もある話です。

しかし、最近、私が考えている「地球を含めたすべての宇宙のすべての天候は、宇宙の人類個々の感情を反映しているかもしれない」という考えを論理的に考え直すには、フレッド・ホイル博士の考えていたことや、そして昨年私が書いたクレアの文章に立ち戻ってみようと(何せ、自分の書いたものは次の日にはほとんど忘れているので)。


昨日だったか、うちの奥さんが部屋で何か本を読んでいました。

奥さんは私と違って読書が好きですが、京極夏彦とか・・・あと名前はよく知らないですが、ミステリー?か何かわからないですが、そういう作家の人のばかりを読みます。私はいわゆるミステリーを生涯で一冊も読んだことがないので、あまり知らないですが、流行作家というジャンルかもしれません。

ところがふと見ると、昨日、奥さんは本棚に入れてあった私のフレッド・ホイル著「生命はどこから来たか」を読んでいたのでした。
私は「そんなの頭がおかしくなるからヤメなよ。わかりやすい内容でもないし」と言ったのですが、ずいぶんと読んでいるようでした。


私自身、しばらくこれらのことを忘れていたのですが、少なくとも、私の昨年度・・・あるいは人生で知り得た中で最も強烈な学問と価値観がパンスペルミア説であり、そして、そのライン上に浮かび上がる「宇宙は生命自身が作り出して、日々膨張している」という概念です。

これはほぼ間違いないと感じていて、宇宙はすべて微生物自身が(目に見える)宇宙を作り続けていて、宇宙の拡大から恒星システム(私たちでいえば太陽系)、そして、銀河に至るまで、微生物が「自力」で作り出していると思っています。


ただ、このことについては、他人にもそう思ってほしいとは今はもう思っていないですので、パンスペルミア説自体についてはこれ以上はふれないですが、今回は、私たちが日常暮らしている中にありふれている中で最も驚異的なことというのは何か? ということについてのひとつをご紹介してみたいと思います。

それは、

・私たちは有機物に囲まれている

という一点です。

これがどうして驚くべきことかというと、

・有機物は無機物からは生成されないので、有機物は「元々あった」と考える以外にないから

なのです。

このことについて、ちょうど上にフレッド・ホイル博士の著作のことについて書いたので、そこから抜粋します。




続きを読む



  


In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





前回記事の「惑星各々が持つ途方もない影響力」という記事を読み直してみたのですが、文字だけではタイトルにある「途方もなさ」が伝わっていないのではないかと思いました。

その影響範囲はとにかく、「地球がどうのこうの」という範囲を越えているのです。


なので、ちょっと図を作ってみました。
ネットにあった、こちらの太陽系の図を使いました。
3Dのようですので、太陽の大きさなど、惑星の大きさの比率は違いますが、ここでは土星だけを見て下さい。

suns-1200.gif

これを元にして、下のような手順でシミュレーション図のようなものを作ってみました。


・土星の直径は大体 12万キロメートル。

・そして、昨年発見された土星のリンクが、土星から 600万キロメートルの場所から 1200万キロメートルのところまで広がっている。つまり、土星の大きさの約100倍の距離の広さまで広がっている。

・上の図を縮小。

・土星を大体、1ミリくらいに設定。図の中央の真ん中に小さくあるうちの左側の惑星が土星です。

・図に赤い円をふたつ描きましたが、内側の円がリンクの内側。外側の円がリングの外側。

・地球はすでに図ではよく見えないですが、地球の大きさは土星の10分の1くらいですので、それを参考にしていただればいいかと思います。



そしてできたのがこの図です。

saturn-1200man.gif


少なくとも、土星がこのような巨大な影響の範囲を宇宙空間に持っていることが確認されているわけです。
そして、土星がこのようなリング(影響の範囲)を持っているのならば、惑星としての成立の過程にさほど差のないと思われる太陽系の他のすべての惑星もこのような「宇宙への影響の範囲」を持っている可能性は高いのではないかと考えてもいいのではないかと思っています。


ちなみに、昨日載せた今回の惑星直列の図はこれです(太陽系の見価値の角度や縮尺がそれぞれ違いますので、あくまで参考図です)。
上の図との比率を見ていただければと思います。




これらのことで、昨日、私が「惑星直列に何の意味があるというのか」ということを考えた理由がおわかりになれば幸いです。
惑星が支配している空間というのは私たちが考えている以上に巨大なようです。


なお、土星について、ウィキペディアにはこうあります。

土星は太陽系の中で一番密度が低く、平均密度は水よりも低い約0.68 g/cm3となっている。このため、「もし土星を水に入れることができれば、水に浮く」と説明されることも多い。なお、太陽系の中で最も密度の高い惑星は地球である。



密度が高いほうが影響範囲が広くなるということはないのかもしれないですが、そう考える道筋というのは感覚としては「あり」な気もします。なので、もしかすると、地球が宇宙空間に対して持っている影響の範囲というものが、実はとてつもなく大きなものである可能性もあります。


要するに、太陽系の個々の惑星に関しても、影響力の範囲の大きさだけからいっても、すでに太陽系の中だけのレベルで考えるものではないような気がします。

そのことを書きたかったのでした。


ところで、連休前からいただいているメールにほとんどご返信できていなくて申し訳なく思っています。
子どもの幼稚園が長く休みで、ふだん以上に子どもの相手をしなければならない時間が多いです。

続きを読む



  

2011年05月03日



In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





(注)最初の米国の竜巻の話はちょっとふれるつもりだったのが長くなってしまいました。本題ではないです。
--


闇へと続く視点

先日、アメリカの竜巻での災害についてふれたことがありました。

結果として、4月28日前後の約一日で 300人以上の犠牲者を出して、米国史上での竜巻被害としては歴史的なものとなったのですが、その日から2、3日のあいだ、以前よく見ていたビフォー・イッツニュースという米国のニュース投稿サイトを見たんです。
竜巻のことを知りたいなあと。

このサイトには数多くのカテゴリーがあるんですが、ページトップにある「話題のニュース」欄と、その下の「主流のニュース」という2つあたりに、現在このサイト内でもっとも人気のあるニュースや、話題のニュースが取り上げられます。

かなりの話題となるものは、何週間もトップに掲載されていることも珍しくないです。記憶では、昨年あたりで最も長い期間、「話題のニュース」の見だしに掲載され続けていたニュースは、このブログでも「天文写真に写る直径240キロメートルの巨大な物体が地球に向かっている? (2010年09月30日)」という記事でご紹介したことがある記事で、これは1カ月近く掲載されていたような気がします。(現在も「巨大な物体」の関連記事は出ています)。

実際に重要なニュースかどうかというのは別として、米国の人々、あるいはこの投稿サイトを見ている人たちが「最も興味のあるニュース」が載せられているということになるようです。


さて、4月29日。

米国史上2番目の最悪の被害を出した自然災害の翌日。このニュース投稿サイトのトップはどんな感じだったか。

その日のものをそのまま載せて、下に簡単に訳した文章を載せます。

--
話題のニュース(2011年04月29日)

pop-news.gif

上から、

・終末の日。地球の中心部がコントロールを失っている
・6つの惑星が夜明けの空に一直線に並ぶ
・巨大な物体が地球に向かっている
・海岸を洗い流した日本での津波の新しい映像
・米ドルのパニック売りが進行中
・太陽光発電の新発見
・オバマの出生証明書は詐欺だ
・危険なインフレが進行中
・米国人は最悪の生活水準を覚悟すべきだ


となっていました。

見ればおわかりかと思いますが、今現実に起きているほうのニュース、つまり、「数百人が亡くなっている米国史上最悪の自然災害」である今回の竜巻のニュースが、少なくともメインのニュースにはないのです。

ちなみに、メインストリームのニュースのほうにも竜巻のニュースはありませんでした。
福島の放射能のニュースはあっても、自分たちの国で 350人が亡くなったニュースは「ない」のでした。
しかも、その翌日なども含めて、結局一度もトップニュースの見だしには出ませんでした。


これを見て、さすがに・・・おいおい・・・と素直に思ってしまいましたね。

終末の日も日本の震災も重大なことかもしれないですが、「自分たち(米国)の周辺で現実に起きていることは何か?」ということについて、どうも完全にその視点が逸脱しているように感じます。

地球が終末を迎えようが、日本が立ち直ることができない災害の中にいようが、米国の竜巻で亡くなった方や、負傷された人々は現実に存在していて、そこから見れば、将来の地球がどうなるかより先に考えるのは「現実に起きていることへの対処」のように思うのです。

1カ月ほど前に、「もはや神も大地も怒らない」という記事で書いたことがありますが、そこに、


・起きる現実の事象に対して、淡々と対処し、次に進む


ということがどれだけ大事なことかに気付いたことを書いたことがあります。

私たち地球の人類に大事なことというのは、先の不安や恐怖によって自分たちに起きている現実が見えなくなってしまうということではなく、「将来、何が起きるのかは基本的に私たちにはわからないのだから、起きたことに現実的に対処して前に進む」ことなのではないかと。

上の米国人の視点はそこが欠如しているように見えたのです。


そして、米国の人だけではなく、日本にもあるかもしれないですが、共通していることは「闇しか見られなくなっている視点」を感じます。

以前書いた「道路に溜まる花粉を放射能だと思う気持ち」に表されるような視点や、「インターネットでのリンクの行き先は実は自分の精神状態が決めている」という現実が私たちの周囲にはあるわけなんですが、しかし、そのこと自体を否定しようという気もないです。


人の持つ考えというものは、そのあらゆる考えを尊重すべきだと考えます。なので、闇だけを見る視点は間違っているのではなく、「それがその人の世界である」限りは、存在自体は尊重したいと思います。


ただ、私がその「闇の世界」に近づくことはないです。
どちらがいいとか悪いとかではなく、完全なそれぞれの別の世界なのだと最近は思います。



ちょっと前置きのつもりが長くなってしまいました。

ここから本題です。
今日だけでは書ききれないと思いますが、人類の能力についてにさらに思うところがありました。



オカルト小学生の悩みへの回答

ここ数日、以前書いた「人類の進化の中で獲得した能力」についてのもうひとつのことだと最近考えていることについて思いついたことがありまして、それはすなわち、「人間は人間の心を読めない」ということです。

これだけ書くと違和感のある響きだと思いますが、できるだけ順番に書いてみたいと思います。


小学校の頃はテレビでも雑誌などでも今よりはるかにオカルトが人気で、超能力にしろテレパシーにしろ「ブーム」というものにも近いような流行がありました。

子ども同士でも「テレパシーごっこ」とかをやるわけです。

その頃、思っていた疑問について友だちと話し合ったことがあります。

わたし「でもさ、テレパシーがあるとさ、エッチなことを考えていても、相手にわかっちゃうのかな」
友人 「ああ・・・わかるんじゃないかな」
わたし「それじゃ、困るじゃないの」
友人 「でも、わかっちゃうと思うよ」
わたし「秘密とかは?」
友人 「わかっちゃうんじゃない?」


ということで、ふたりで「それはいろいろと困るなあ」と悩んだものでしたが、そのことに関して、基本的な回答をこの数十年前の若い彼らに与えられるような気がしました。


それは、「人は人の心は読めないから安心していい」という答えです。
なので、エッチな心も秘密も守られますので、彼らは心配しなくていいのです。


そして、このことも以前書いた「人間は未来を予知できない能力」というものと共に、人類の文明を発展させるために大変な役割を持っているように感じたのです。


未来に関しては、

・明日を予知できないから人間は人生をワクワクして文明を進めることができた

ということを書いたことがありますが、人の心についてもほぼ同じことだと思っています。

 参考記事: 人類が獲得した「予知できない」能力 (2011年03月17日)


たとえば、「未来を予知できない」ということに関して、恋愛の問題を挙げたことがあります。明日誰と出会って、どんな恋愛をするかは私たちにはわからない。だから外見や趣味や行き先や所属や話し方に気をつけるということがある(気をつけない人もいますが)。

そして、恋愛の存在から経済を含めたあらゆる文明が生み出された。

ファッションやインテリア、あるいは音楽、ドラマ、小説など娯楽のすべては、多分、恋愛がこの世に存在しなかったらすべてなかったものだと思います。恋愛が現在社会の中に生み出した経済価値は「無限」といえるように思います。


そして、この「恋愛のドキドキ」が成立する最も基本的な条件というのが、「相手の気持ちがわからない」という一点にあると思います。

要するに、こんなことを書いている根拠はこの一点なのですが(笑)、これに関しては、私は「未来を予知出来ない能力」と共に、この「相手の心がわからない」ということの両方を会わせた時に本当に素晴らしい結論に達することができています。

それは、

・私たちには未来がわからないし、相手の気持ちもわからないからこそ、人の安心を願ったり、人のことを気に掛けてあげることができる生活習慣を獲得できた

と。

未来も人の気持ちも全部わかれば、「心配も気遣いも必要ない」のですから、それら「人を思いやる気持ち」が出現する可能性さえなかった(未来と相手の気持ちがわかるなら、その心配自体が成立しない)。


特に、日本人の間に大きく漂う「気」の問題や気配りの問題。震災後に何度かふれた「テレパシーにも近い日本人の心の心の交流」。

これらすべてが、

・未来がわからない
・相手の気持ちがわからない


という二つの現実からスタートした人類史上でも最大級の「人類の社交文明」だと考えています。

仮に、人類が、

・未来がわかる
・相手の気持ちが読める

とした場合、それらの要素が崩壊するという事実があります。


そして、この一連の流れからもうひとつ気付いたことがあります。
それは「人類の意味」についてです。


・未来がわからない
・相手の気持ちがわからない


という二つをどうして人類が持ち得たのかというと、「人類の目的は楽しみを見出すためだから」だということがわかります。


人類以外の他の動物たちは、宇宙の記憶と共に生きている以上は、「未来がわかる」と同時に、多分、「相手の気持ちがわかる」のだと思います。「相手の気持ち」というのは変かもしれないですが、つまり、宇宙の記憶には、多分、存在するあらゆる歴史と感情と思想が含まれているのでしょうから、やはり、人類以外の生き物は未来も相手の気持ちもわかるのだと思います。


だから、日常がつまらない。


何もかもわかっている動物たちは、社交マナーもファッションも、恋愛術も会話もグルメも発展させることをしなかった。あるいはする必要もないし、しても意味がなかった(未来も相手の気持ちもわかっている恋愛のために小道具は必要ないから)。


その上で私は思うのですが、その「本来はつまらないと思って生きている動物たちや、あるいは宇宙そのもの」を退屈から救う方法は、私たち人類が「楽しく生きること」にあるのではないかと考えるようになりました。そう考えるようになったのは、さきほどの話ですが、何となく間違っていない気もします。


他の具体的なことは後日書いてみたいと思います。




  

2011年04月27日



In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





ずいぶんと以前から、「世の中は二分していく」というような概念が様々な部分で言われていました。

それらの概念の中には階級的な、あるいは差別的なニュアンスの漂うものもあり、どちらかというと、私はあまり好きな概念でありませんでした。キリスト教などの宗教にある天国に行くのと地獄に行くという概念などもそうです。本来ならどちらに行こうが他人には関係のないことなのに、言外に(言外でもないでしょうが)、

・天国いい
・地獄悪い


というようになっていて、こういう「ただ、その人が置かれている状況だけでその人の評価がわかれる」という差別的な概念。

これについては、4月の最初の頃に書いた「個人的な「第5世界」に突入している」という記事で、「枠からこぼれ落ちた人間は救済されない日本の国家システム」ということについて書いたことがあります。

高校中退者とか、男性「性」社会からこぼれ落ちること(これは女性も男性もどちらも)、とか、まあそういうよう話だったんですが、その両者の中で、「こぼれ落ちないで上から見ているほう」にいるのがイヤだったので、いつでも、スタンスとして、その逆も見ながら、あるいは完全に逆の世界の上で生きていました。

実際、この生活では、あらゆる既製の宗教を信奉することもできない(宗教には階級概念が強く存在するものも多いです)し、現在の社会体制そのものにも馴染めないし、まあ、いろいろと面倒ではあるんですが、まあ、それでも、「水のようにそれらを避けながら」生きてきました。


そういう意味でも「世の中は二分していく」という概念は理解しつつも納得できない部分はあったのですが、最近、日本だけでも、あからさまに「二分していっている精神的・価値観的な状況」などを見ていると、確かにその「価値観の世界の二分化」というものが相当なスピードで起きていると考えざるを得ないのです。

この場合、ここに差別や階級を交えないで考えてみたいと思った場合、それはこう考えるのが一番だと思っています。

「私のいる世界ではなく、相手側の世界の人にこそ幸せになってほしい」

と。
そして、これは「きれいごとではなく」本心でそう思わざるを得ないということも書きたいのですが、うまく書けません。


今、日本で、「どういう世界」と「どういう世界」が二つに別れていっているかというのかについては具体的には書こうとは思いません。それは多くの人々がすでに強く感じていることだと思います。


私は最近、多分、異常なほどの楽観と安寧の中にいますが、決してそうではない方々も多いと思います。そして、この接点が合っていくことは難しいとも感じないでもないです。


なので、この状況の中での良い方法のひとつというのが、「なるべく互いの世界の接点を断ち切り、しかしそれでも、互いに尊敬する気持ちを忘れず、互いの幸せを願う」ということなのではないかという気もします。


どちらが良いとか悪いとかいう判断も不要に思います。良い悪いの客観的な価値観の判断がつかない上での、「あっちがいい」とか「こっちが悪い」とかいう価値観は単なる「新しい階級の発生」でしかないと思っています。


若い時から「階級」と別れたいと願い続けていました。

生徒と教師
上司と部下
親と子ども
政府と国民
人類と他の生物
神と人類
地球と人類
銀河系と太陽系
宇宙と他の複数の宇宙



こういうものすべてに「階級」を与えてきたのがここ数千年の地球での人間の歴史だったように思いますが、最近になって、たとえば、

神と人類
地球と人類
銀河系と太陽系


このあたりの間には実は「階級は存在しなかった」ということがわかりはじめてきているような感じがしています。

そうなると、「人類と人類の間」にも階級が存在しない(ほうがいい)となった時には、すべての煩わしいものが消えるのかもなあとも思えなくもないです。



贈る言葉

昨日の記事で、日本という国土がいかに「地震と共存した歴史を持っていたか」というようなことを書いて、そして、「それを本当に恐怖に思うのなら日本から出たほうがいいのかもしれないです」ということを書いたのは、そういう中での「物理的な決別も今後あるかもしれない」と考えているからです。

そして、日本から見送る立場の私たちとしては、そのことを今後調べたりして、できるだけ情報面からサポートしたいと思っています。

以前書いたことがあると思うのですが、私自身は、この東京という場所で精神的な意味で命を救われたという実感があって、この街やあるいは東京や日本から出るということは有り得ず、多分、死ぬまでここ(あるいはこのあたり)にいると思います。


そして、私が最近思うことは、日本から出て行く人たちにも幸せになってもらいたいということがあります。これは結構な本心です。出て行った人たちには、その場所があまりにも幸せで、「日本のことなど忘れてしまった」というようなことになってもらえればいいなと思います。

これもきれい事ではなく、実利的な本心なのですが、うまく書けません。

ところで、上のほうに天国とか地獄のことを書いたのですが、以前、2008年くらいだったか、初めて、世の中のことや宇宙のことなどを(生まれて初めて)考えた頃、最初にふと思ったのが「地獄ってなんだろう」ということでした。



資料・地獄とは

もともと、幼い頃から「気高い人とか立派な人ばかりがいるような天国に行くのはイヤだ」とはっきりと思っていて、「地獄に行くとしたら、どのあたりに行くべきか(楽な抜け道はあるはず)」ということを考えたりしたことがあって、ふとダンテの「神曲」のことを思い出したことがあります。

今ではネットでも概略は調べられて、その時に調べてわかりやすい「地獄の系統図」におこしたもの(笑)が手元にあります。クレアなひとときの2008年の10月頃の記事に載せたと記憶しています。


最近の私の考えの流れでは、天国も地獄も存在しているのかどうかはさらにわからなくなっていますが、「人生から次の人生までの DNA の休憩所」的な意味ではあるのかもしれないですね。

まず、前提知識として、七つの大罪というのがあって、

1. 傲慢(高慢)・・・生前、高慢の性を持った者
2. 嫉妬・・・・・・・嫉妬に身を焦がした者
3. 憤怒・・・・・・・憤怒を悔悟した者
4. 怠惰・・・・・・・怠惰に日々を過ごした者
5. 強欲(貪欲)・・・生前欲深かった者
6. 暴食(貪食)・・・暴食に明け暮れた者
7. 色欲(愛欲)・・・不純な色欲に耽った者



となっています。
「神曲」では、これらが地獄に行く対象となるようです。

私の人生でいうと、「4」と「6」と「7」でアウトとなります。
特に「4. 怠惰」は逃れようがなく、確実に地獄行きの人生となっています。

その後、地獄界へは、

「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」

と銘された地獄の門を抜けるところからスタートします。

そして、実はこの地獄の門のすぐのところに「私に絶好な場所」があります。
地獄前域という場所で、ここは、

「無為に生きて善も悪もなさなかった亡者は、地獄にも天国にも入ることを許されず、ここで蜂や虻に刺される」


というところだそう。
ハチやアブに刺されるだけなら、まあイヤといえばイヤだけど、何とか耐えられる感じで、他は何の罰則もないです。

 > 無為に生きて善も悪もなさなかった亡者

は私も含めて、たくさんいそうで、この場所に数十億人溜まっている可能性もあります。


さて、ここから先が地獄となります。

「神曲」では下のように細分化されています。(感想)とあるのは、その地獄に対しての当時(2008年)の私の感想です。
続きを読む



  

2011年04月24日



In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





(※) クレアならぬグレアとは → 「グレアとは、不快感や物の見えづらさを生じさせるような「まぶしさ」のことをいう」(Wikipedia より)
--


最近、「いろんなものが現実の生活の中に現れてきているみたいな感じ」というようなことが、私だけではなく、周囲のいろんな人からも聞くようになりました。

いろんなものというのは、本当にいろんなもので、先日も書いたスズメやクモなどの生き物から、悪魔(みたいなもの)から幽霊(みたいなもの)まで、今までには考えていなかったようなものが現れているような感じです。

自分でも見たり体験する度に、最初は何だかよくわからなくて、疑問だったのですが、「結局なんでもいいや」と考えると、何もかもおもしろおかしく感じられます。


上の幽霊(みたいなもの)がよく現れるのはうちの話で(笑)、悪魔(みたいなもの)は友人のジローさんという人が見たものなんですが、悪魔みたいなものの話は、なかかな面白いので後で書きます。

見たジローさんは「こんなこと周囲の人たちに言っても、気が狂ったと思われるのはイヤだし。オカなら話せるかと」と言っていましたが、4人くらいで飲んでいた時で、話を聞いた後には一同大爆笑となった程度の話ですが、「それが結局何だったのかわからない」という意味では興味深いです。


うちの幽霊みたいなものは一応、「幽霊みたいな」と表現していますが、やっぱりそれが何だかわかりません。ともかく、「なんか家にいる」という話です。こういう話もまともに人に言うと、確かに「ああ、ついにオカさんも頭がイッてしまったか」と思われる感じですが、実際に経験すると、それほど違和感もないことに気付きます。


タイでは幽霊なども含めて、オバケ全般を「ピー」というタイ語で表すのですが、これは日本のオバケと同様に、非常によく使われる言葉であり概念です。たとえば、なんとなく不気味な建物や場所を通る時に、日本なら「なんだかオバケが出そうだねえ」というように、「ピーがいそうだねえ」と人々は頻繁に言います。少なくとも、タイにいると、「オバケと同居してるなあ」とよく感じます。

日本だけでもないですが、最近の先進国の近代生活では、「もののけ」全般を存在から排除するような思想生活になっていたせいか、実際にはもののけたちも「認識されていなかった」というようにこともあるのかもしれません。だから、無用に「こわがるだけ」の存在になりつつあったという感じもあります。まあ、もちろんコワイのもあるのでしょうが、確認してからではないと、それはよくわかんないですからね。


オバケだの幽霊の正体が何なのかは私は知らないですが、この宇宙に存在している限りは、「人類の認識を必要としている」ようには思います。それが悪いものであれ、いいものであれ、認識されることを忘れられた存在というものは確かに可哀想で、「宇宙の認識からこぼれ落ちる」ということになってしまうのかもしれない。

そういう意味では、オバケや幽霊も、その姿や形は見えなくとも、認識されることがいかに本人たちにとっての「存在の充実」に関係することか、ということはあるのかもしれません。


ちなみに、うちにいるのはいわゆる座敷童というような概念と似ているようです。
いたずらするので(笑)。


話は全然変わりますが、前回の春よこいという記事で、「猫とネズミの逃走劇をベランダから 20分間に渡って目撃」というフレーズが出てくるのですが、先日、猫好きの知り合いと飲んでいる時にその話をしたところ、「そんなところを実際に目撃できたのはすごい」と言われたので、ちゃんと書いてみようと思いました。ちなみに、私自身は猫も犬も特に好きではないです。


私は文章で「状況をきちんと再現する」能力がなくて、図を添えてみます。



ネズミがしたこと。猫がしたこと

下の写真は、今回の「猫とネズミの出来事」が起きた私の家の周辺の写真です。ベランダからの様子を携帯で撮影しようとしたのですが、うまく撮れなそうので、グーグルアースの航空写真を利用しました。

cat-1.jpg


屋上が緑色の建物が私の家です。
外は駐車場になっています。

★印のあたりのベランダに私が立って外を眺めていたという感じです。
視線は矢印のとおり。ABCそれぞれの地点は

A 駐車場をはさんだ向かいのアパートのコンクリート塀
B 自転車の駐輪場の屋根
C うちの建物のコンクリート塀


となっています。

ところで、私は東京で「ネズミ」というもの自体をほとんど見たことがありません。
二十数年前に、新宿だったかどこだったか大きな街で走っているのを一度見たくらいで、基本的にあまり目にしたことはないです。まして、この街ではネズミというもの自体を見たことがありません。

なので、先日、ベランダで植物をいじっている時に、視界の横に「何か動くモノが見えた」時にパッとその方向を見て、「それがネズミである」ことがわかった時には、ちょっとビビるのと同時に、時間的に午後2時頃という真っ昼間であり、「ネズミって、白昼から屋外を単独で走り回るよう生き物だっけ?」と、やや疑問に思ったものでした。


・第一ラウンド/見えない追跡ルート

最初にネズミを目撃したのは、「」の地点です。すなわち、駐車場をはさんだ向かいにある塀の上をネズミは走っていました。単独です。

そして、上の写真では「」となりますが、屋根のある駐輪場のようなスペースがあって、その屋根の高さは向かいの塀と大体同じくらいです。

ネズミは塀の上を走った後、そのの駐輪場の屋根を見て止まりました。ネズミはしばらくその屋根を眺めていたのですが、次にその屋根の上、つまりBの上に降りて、走り始めました。

そして、その方向は「うちの建物」のほうに向かっています。

「おいおい、こっち来るなよ、ネズミ」


と私は思いながら見ていましたら、Bの駐輪場の屋根の反対側まで来て、行き止まりになったところで、またネズミは考えていました。

そして、うちのコンクリート塀、ちなわち、「」の上へと飛び乗りました。

さらに見ていると、ネズミはそのコンクリートの塀の上を走って、まさに、「C」のところ、つまり、私の見ているベランダのほとんど真下に来て止まりました。

私の部屋は3階なのですが、その塀から「こっち側」にネズミが飛び込むと、1階の人の庭にネズミが突入することになります。

「あー、1階の人も災難だな」

と思いつつ見ていると、果たしてネズミは「こっち側」、つまり1階の人の庭へと入っていったのです。「あーあ」と思って、それで終わりかと思っていると、1階の人の庭には木や植物がたくさん植えられているのですが、その中の小さな木がワサワサと揺れている。

「ん?」

と見ていると、そのうちの枯れ木にネズミが上ってきて、それから、その木の枝の先端にまで来て、そこで「ピタリ」と動きを止めたのです。しばらく見ていましたが、ネズミはまったくそのまま動かないのです。

ネズミが何をやろうとしているのか私にはわかりません。


そうすると、そこに、この「A、B、Cのすべてが関係するネズミ劇場」に、「猫」が登場したのです。すでに、ネズミが登場してから、小枝の先端で、「死んだように固まった」まではかなりの時間が経過しており、決して、猫がネズミを追いかけてきたようには見えません。

しかし、猫の登場の仕方を見ると、どうやら、この猫とネズミ追いかけっこは続いていたようにも思います。


不思議なのですが、猫は最初に私がネズミを見た「A」の場所、つまり、向かい側の塀の上に現れました。そして、その後も、Bの駐輪場の屋根の上も猫はネズミが歩いたのと、ほぼ同じルートで歩いてきたのです。

「匂いで追っているのかな」と思いましたが、ただ、確かにルートは同じでも、猫はさらに効率的にそのルートを短縮して移動しており、「正確にネズミの足跡を追っているわけではないのに、結果的に同じ場所に行き着いた」というのが本当に不思議でした。

つまり、猫は「ネズミと違うルートを歩きながら、ネズミの現在の到達点であるCの地点まで確実にやってきた」のです。AからCまでは距離にすれば結構あって、行き当たりばったりで辿り着くものではない感じです。

また、うちの塀の上には防犯用の鉄条網みたいなものがついていて、ふだんはその塀の上に猫が上がることはほとんどないと思います。ちなみに、私の住んでいるあたりは猫自体の数はとても多い地区です。


私も目が話せなくなり、ベランダの上から、真下で繰り広げられようとしている猫とネズミの死闘を眺めることにしました。一階のベランダの塀の上までは距離にして3メートル程度で、何もかもハッキリと観察できます。



・第二ラウンド/死んだ真似とそれを生き返らそうとする試み

その猫が移動している間、ネズミはどうしていたかというと、「まったく動かないまま」で過ごしていました。

これは猫の姿が見える前からやり続けて、後に猫が去った後も相当長い間続けていました。なので、「猫が来る」ということは予測していたのだろうと思いますが、しかし、これほど正確に自分のところまで来ることを予測していたのかと考えると、そのあたりも不思議です。

そして、猫。

ゆっくりとの塀の上を歩いて、まさに、ネズミが「木の枝の先で動かずにいる」目の前まで来ました。猫は確実に「このあたりだ」と看破しているようです。

猫は、ネズミのいる枝の先までは1メートルもない地点までやって来ています。

その距離だと、「見れば見える」はずなのですが、猫はそのネズミのいる方向のあたりを見つつも「それがネズミだ」と正確には確認できないようで、その周囲をずっと見回しています。後で人から聞いたのですが、猫の色彩の判断はかなり曖昧で、要するに「目が悪い」みたいです。そのかわり、色は関係なく「動くもの」には瞬間的に反応するようになっているようで、それが猫の生存本能のひとつのようです。

なので、ほんの1メートル先にいるネズミでも、それが動かないのでわからないようなのです。

「なるほど、ネズミが動かなくなった理由はこれだったのか」

と感心しました。しかし、それにしても、ネズミが猫に対処する方法として「動かない」という方法があることを初めて知りました。猫は鼻もいいし、動くものには敏感に反応できても、「不動なものはあまり見えない」という性質があることをこの観察で学びました。


さて、しかし、猫は匂いによるものなのか気配なのか、「そのあたりにネズミがいる」ことは確信しているようで、そして「そのあたり」がかなり絞れてきているようでした。

しかし、そのネズミがその小枝を選んだ選択の素晴らしさというのもあり、その木は猫が飛び乗るには細すぎて、乗れないのです。

猫は何度か枝に手をかけて、「お、飛び乗るかな?」と思わせるのですが、それはしません。よく猫がいろんなところから落っこちて「フギャーッ」とかいっている様子を目にすることがあるのですが、今回は猫はそういうヘマはしません。

どうやら、猫は「真剣」なようです。

睨み合いが続きます。
しかし、ネズミは決して動かない。

その次に猫がとった行動
このことを飲んでいた時に言うと、猫好きの人に「それはウソだろ」と言われたほどのことです。

猫はまず、「枝に脚をかけて木を揺らし始め」ました。そして、それに効果がないとわかると、枝を噛んだりしはじめました。

小枝が大きく揺さぶられています。

これが、「ネズミを動かして認識したい」ということなのか、あるいは「枝から落とそうとしている」のかはわからないのですが、いずれにしても、「そう出たか」と多少驚きましたが、ネズミはそれでもまったく動かない。

そのまま同じような時間が過ぎていき、また、ずっと同じ光景が続きましたが、約20分後に、猫が諦めたのか、去っていきました。

猫の負けでした。

ネズミというのも相当に用心深いようで、猫の姿が見えなくなった後も、結構な時間そのまま動かずにいたようです。
しばらくしてから見に行くと、ネズミも消えていました。


同時に私は、

一階の人、部屋にいたのかな。ベランダを開けて枝の上にネズミがいたらショックだろうなあ

と苦笑しました。
ちなみに、その部屋の方は女性で、ベランダにはたくさんの花や植物があります。

私が住んでいる集合住宅は住んでいるのが 10世帯程度ということもあるのか、住人のほとんど全員が顔見知りで、世間話などもそこそこします。それだけに、会った時に、「先日、ネズミがお宅のベランダに入りましたよ」と言っていいものなのかどうか(笑)。



第8領域の面々に包まれて

そういえば、上の猫の記事を書いた先日の記事では「クモの大群も見た」と書いたのですが、その場所が上も地図で説明できますので、書いておきます。

」の上のほうに白い車が止まっていますが、その後方あたりの場所にクモの大群がいました。

車を持っていないので、ふだんは駐車場に行くことはないのですが、そこに行った理由は「花」でした。ベランダで子どもと外を見ていたときに、「あの白い花と黄色い花は何?」と子どもに言われて、「黄色いのはタンポポだけど、白いのはわかんないから見に行こうか」と行ってみた次第です。

駐車場の奥まったところにはタンポポと名前はわからない白い花がたくさん咲いていて、その白い花のあたりをよく見ていると、黒いものが動いている。

な・・・なんかがたくさんいるぞ

と不気味に思いつつも、よく見てみると、それはクモでした。「クモって集団行動するんだっけかな」と思いつつも、実際にたくさんのクモが歩いている。そして、私は「こいつら、ここに集団でいたのか」と思って笑っていました。

「こいつら」というのは以前、歓喜する第8領域の生命たち (2011年03月24日)という記事に書いた、クモやキノコなど、西洋神秘学では、「第8領域」の生命と呼ばれているもので、彼らは数千年後から始まる「次の宇宙には存在しない」ことになっているのだそうです。

その記事にはこのように書いていました。抜粋です。

神秘学には「第8領域」という世界が存在するようで、クモやハエといったものがそれに該当して、それらは「次の宇宙からは消えてしまう」ものなのだそうです。

だから、「宇宙からの消滅」を恐れる人たちはそれらの存在を恐れるのだそうです。

キノコもその第8領域にいるのだそうです。
これらを恐れる人たちもいる。

「キノコに宇宙からの消滅に引きずられるかもしれない」と。

しかし、日本人たちは宇宙そのものをあまり怖がっていなかったせいか、食べる食べる。探せば、日本の山にも(本当は世界中の山にも)、キノコはいくらでもあって、食べる食べる。

キノコたちも嬉しかったと思うんですよ。

「消滅する運命を持ったものを嫌悪し、無視する」という恐怖の中にいたハエやクモやキノコたち。まあ、ハエやクモは食べませんが、キノコに関しては、これまで、おびただしい量が日本人の胃の中に入り、吸収されていったはずです。

しかも、「山の宝」と褒め讃えられながら。



というわけで、将来、クモやキノコは宇宙から消えてしまうことになるようですが、それを知って以来、クモのことが気になっていましたが、こうやって「集団」で現れました。

実は、ちょっと前に知り合いと会って飲んでいた時に、私が「そういや、この間、クモの集団見たよ」と言うと、その人も「オレもこの間、クモたくさん見たぞ」と言っていました。
以下、その時の会話。

その人 「クモが突然出ると何かあるのかな。地震とか」
わたし 「そういう時は出るんじゃなくて、いなくなるんじゃないの?」
その人 「なんか、クモって意味あんの?」
わたし 「オカルトの話では次の宇宙で消えるんだと」
その人 「クモが?」
わたし 「他にもそういう生き物がいるらしい」
その人 「へえ。じゃあ、挨拶に来てんじゃないかね?」
わたし 「なんの?」
その人 「お別れの挨拶」


というような話をしていました。



ジローさんの見た悪魔

これは実際には1カ月ほど前のことで、震災後2週間ほどしてから、久しぶりにみんなで会った時に出た話でした。

このジローさんという人は、学生時代からの知り合いで、劇団のようなものを始めた時に最初に声をかけた人です。この数十年の間には、お互いに何度か所在不明になっているにも関わらず、どこかで偶然会ったりしてしまう、「腐った縁」という意味では腐れ縁といえます。

彼は、大学を卒業した後、テレビ製作会社でドキュメンタリーを中心に作っていたのですが、その会社を辞めた後、しばらくパチプロをやっていて、その後、所在不明になりつつ、どうやって生きていたのかは知らないですが、今は東京都内の劇場の責任者をやっています。「いい加減な生き方」という点では私と似ています。


その彼は今、西日暮里という東京都内の街に住んでいるのですが、ある日の夕方、本人いわく、「薄暗くなり始めるくらいの時間」に、その街のネットカフェにいて、トイレに行ったのだそうです。

トイレの窓は開いており、ビルの三階だか四階のその高さからは、ちょうど電線が平行くらいに見える場所なのだそう。その窓から見るともなしにボーッと外を見ていると、「電線に何かが止まっている」ことに気付いたのだそうです。


大きさでいうと、50センチから1メートルくらいの間の大きさのものが電線に止まっている。

「カラス?」と思って見てみると、それは真っ黒ではなく、そしてカラスより大きい上に、「顔みたいな丸い部分」が頭部のほうにある。さらに、じっと見ていると、その電線に止まっていたものの顔が「こっち」を向いたらしいのです。そこには目があり、耳も見えたのだそう。


その姿はジローさんいわく「ゴシックって映画あったじゃん。あのポスターだよ。あれそのものなんだよ」。


それを聞いて、その場にいた私を含めた3人は大爆笑に陥りました。

「さすがジローさん。アーハッハッハッ」。

どうして笑ったかというと、その「ゴシック」という映画の公開当時(多分、まだ学生だったと思う)、その映画のポスターを見て「こんな気味の悪い人には一生会いたくないな」と言っていたのは、他ならぬジローさんその人だったからです。

なのに会ってやんの(笑)。


その「ゴシック」という映画のポスターはこれです。


gothic-2.jpg


ケン・ラッセルという監督の映画で、1980年代のものだと思います。

こんな感じの何かが、西日暮里の電線の上に止まっていたということのようです。

とはいえ、「それが何である可能性があるのか」は考えたいわけで、みんなで酒を飲みながら話しました。誰が何を言ったかよく覚えていないので、周囲ということで適当に書きます。

周囲 「ワシじゃないの? タカとか」
ジロー「西日暮里にいないよ。それに顔の比率が鳥より大きかった」
周囲 「巨大なフクロウ」
ジロー「それのほうがコワイわ」
周囲 「小さなオジサン」
ジロー「電線に止まれないだろ」


そして、ジローさんは「まあ・・・アレなんだよ。ルックス的に、いわゆる悪魔っぼいんだよね」と言いました。

わたし 「そう思ったんなら、悪魔じゃないの?」
ジロー 「どうして悪魔が西日暮里の電線に止まってんだよ」
わたし 「ジローさんを怖がらせるため(笑)」


このジローさんがどうして動揺したかというと、彼が「もっともオカルトに興味のない人」のうちの一人だからです。

それだけに、こういうものを見たことにややショックを受けていたようです。
ちなみに、ジローさんはオカルトなんかが書かれてあることもある私のブログもあまり読まないはずですが、最近の内容にふれてこのように私は言いました。

わたし 「まあしかし、こういうものでも何でもね。見られるというのはいいことだと思うよ」
ジロー 「そうか?」
わたし 「最近、オレのブログでさ、人間が認識して初めて宇宙があるとかないとかって話が出てるんだよ」
ジロー 「あるのかないのか、どっちだよ」
わたし 「いやまあ、だから、あるとかないとかなんだけどさ」
ジロー 「どっちもかよ」
わたし 「それもよくわかんないんだよ」
ジロー 「全部わかんないのかよ」
わたし 「そうなんだよ。でも、見ればとりあえずオレらのほうからは視覚なんかで認識できるじゃん。宇宙なんてのはそれでいいんじゃないかって話でさ」
ジロー 「うーむ・・・。よくわかんないけど」
わたし 「今度は、ゴシックが大群でジローさんの部屋に出たりして」
ジロー 「わー、やめろ! それはコワイ」



ところで、そのジローさんも、最近、スズメが増えたことに気付いたと先日言っていました。

つまり、なんかというかこう・・・うちの座敷童(笑)も、ジローさんの見た悪魔(あるいは小さなオジサン)も、大群のクモも、あるいはスズメや猫やネズミも、基本的に「似たような存在なのかも」と思った春でした。

あるいは、全部が一種の「宇宙劇場」なのかも。
タグ:座敷童



  

2011年04月22日



In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





最近の日本の話題といえば、メインは放射能や放射線ということになってしまいそうですが、放射線といえば、以前読んだ記事で記憶に残っているものがあります。

読売新聞の 2011年 02月 11日の記事で、「宇宙帰りのサクラ異変…なぜか発芽・急成長」というタイトルのものです。オリジナル記事はすでにウェブ上からはなくなっていますが、丸ごと保存していたので転載します。

内容は、「発芽するはずのない種が宇宙から戻ってきた後に、相次いで発芽した。あるいは異常に早いスピードで成長している」という話です。

宇宙帰りのサクラ異変…なぜか発芽・急成長
読売新聞 2011年02月21日

 地上350キロメートルの国際宇宙ステーション(ISS)で2008年11月から8か月半、保管した桜の種を、地上へ持ち帰って植えたところ、発芽しないはずの種が芽を出すなど、異変が相次いでいることがわかった。

 原因は不明だが、無重力で放射線の強い宇宙環境で、遺伝子の突然変異や、細胞が活性化したなどの見方もある。

sakura-2.jpg 宇宙を旅した桜の種は、北海道から沖縄まで13地域の子供たちが集めた名木14種類。このうち岐阜市の中将姫(ちゅうじょうひめ)誓願桜(せいがんざくら)は、樹齢1200年と言われるヤマザクラの一種で、米粒ほどの小さな種は、地元の保存会などがまいても発芽せず、接ぎ木でしか増やせなかった。

 保存会が種265粒を宇宙に送り、248粒をまいたところ、昨年春に2粒が発芽した。このうち、10センチの苗木に成長した1本は、葉の遺伝子の簡易鑑定で「他の桜の種が混入したのではなく、誓願桜の可能性が高い」と判定された。

 岡山県では、通常は1年に50センチ程度しか伸びない真庭市の醍醐桜(だいござくら)10本が、昨年春に発芽して、今は90センチ以上。うち1本は160センチを超えた。高知県佐川町では、1年に約30センチしか伸びないはずの稚木桜(わかきのさくら)が、約1年で最高135センチに成長した。



というニュースでした。

記事にある通りに原因はわからないですが(わかったらむしろ大変)、宇宙空間から帰ってきた後に起きた異変ということで、「地球の空間には存在しないが、宇宙空間には存在するもの」が影響したのは間違いないようです。


地球は自身の持つ磁場を含めて、さまざまなシールド(防御)によって、宇宙や太陽から降り注ぐ宇宙線や放射線を遮っています。それは一般的には「人体に害のあるものが遮られている」とされていますが、上の例に見るように、あるいは「生命に有用な宇宙線か放射線も遮っている」という可能性もあるのかもしれません。

何しろ、上の桜は「死んでいたもの」が「生き返った状態となった」わけですので、あるいは、本当に宇宙空間にはいろいろなオカルトな光線が飛び交っているのかもしれないですね。

これらに関しては、じゃあ、人間も宇宙空間で試してみましょうか・・・とはできないわけで、それが地球上であきらかとなる時があるとすると、

・地球の磁場を突破して、今までにない宇宙線か放射線が地上に降ってくる時

ということになると思います。

これまで地球に入れなかった宇宙線か放射線が地球の磁場を突破してくるためには、地球のシールドが崩壊することが必要となりますが、それは磁場の異常という点からいえば、ポールシフトがもっとも早い時期での原因となりそうです。

昨年来、ポールシフトの記事は何度か取り上げています。

加速するポールシフト: この100年間での極の移動の距離はすでに1100キロに
2010年10月09日

米国フロリダのタンパ国際空港が磁極の移動(ポールシフト)の影響で滑走路の閉鎖へ
2011年01月08日

などです。

タイトルしか読んでいないのですが、先日、米国のモダンサバイバルブログに、「ポールシフトで北米の南東地域に最悪の影響」というタイトルの記事がありましたので、多分、ポールシフトは現在もなお加速していると考えるのが妥当なようです。


そういう意味では、数年内に完全な磁極の移動か反転によって、磁場が崩壊する可能性もありますが、上の読売新聞の記事を読んでいると、それは悪い方向だけとは限らない可能性もあるようです。まあ、宇宙の宇宙線も放射線も結局、基本的にほとんど解明されていませんので、何も予測できないし、想像もできないことですけれど。



2001年以前へ

震災後、1カ月を過ぎて、気持ち的にも平常に戻りつつある中で、日々気付いていることが、

元に戻れたかもしれない

という私自身の内面での喜びです。

この「元」というのは、今年の3月11日の震災前のことではなく、「2001年9月11日」以前のことです。
アメリカ同時多発テロより前の日々の私のことです。


私は以前も書いたような気がしますが、もともと世の中の動きとか、政治とか世界の政治とかには何も興味がなく(テロの歴史とか各国の処刑方法とかには多少興味があって調べていましたが)、音楽や表現関係、あとはプロレスやギャンブルなど、自分の好きないくつかの対象だけが自分の世界でした。


同時多発テロが起きたのは三十代の中盤過ぎくらいでしたが、その頃までは、「自分のペース」そのもので生きていた感があります。すなわち、テレビも新聞も「年に何度か見ることもある」というような生活をしており、そんな私が「突然、世界の政治に気をもつようになってしまったキッカケ」が同時多発テロだったんです。

当時、一人暮らしで、テレビはあり、ケーブル放送も映りましたが、その目的はアメリカのプロレス団体 WWF の番組を見るためのだけのものでした。

ところが、同時多発テロが起きたことを知ったその日から、ずっとテレビをつけっぱなしにするようになり、当時のケーブルチャンネルは日本語の字幕つきの CNN ニュースを24時間放映しており、眠る時にもテレビを消しませんでした。

その後の炭疽菌騒動やら、イラクへの侵略やら、いろいろなニュースを見るようになり、気付けば、私は「アメリカに洗脳されて」いました。

もともと、私にとってのアメリカという国は、「ストーンコールド・スティーブ・オースティンという偉大なレスラーと、カート・コベインという偉大な音楽家がかつていた」という国であり、それだけで実に立派な国でした。

それ以上に好きになる理由も、そして嫌いになる理由もなかったのです。
ところが、911以来、アメリカの大統領は誰だとか、どこと戦争をやっているとか、そんなことを知らなければならなくなった。

なんだか次第に「アメリカが特別」になってきてしまった。

思えば、他の「価値観」もいじられていたかのような感じで、2003年くらいからは、株式投資なんていうことまでやっていた。
それで経済のことまで知るようになってしまいました。

無駄ではなかったかもしれないですが、精神的には実に不毛な10年でした。


その 911によって落ち込んでしまった「人生の地獄」を、3月11日以来の日々を過ごすことで、元に戻せつつある。
正直、救われたと実感しています。

毎日毎日戻っていく自分を感じています。



戻ってきたスズメ

最近、早朝ベランダに出ると、ここ数年途絶えていたスズメの声がものすごくたくさん聞こえてくることに気付きました。

スズメに関しては、昔は「朝からうるせー!」というくらいに声がしたものが、3年くらい前から朝のスズメの声が聞こえなくなっていることに気付いて、調べてみると、実際に「世界中でスズメが極端に減っている」ことを知りました。その頃に書いていたブログに資料として載せたイギリスのインディペンデント紙の記事を下に載せておきます。

いずれにしても、昨年あたりは「まったく聞こえなくなっていた」スズメの声が、またうるさいほどに響き渡っています。

何か具体的な理由があるのかもしれないし、そんなものないのかもしれないですが、今年は、(春が来たので当然とはいえ)様々な生き物や植物が周囲に登場しています。

昨年よりあきらかに多い蝶々や蜂、そしてなぜかクモの大群というのまで見ました(消える世界のやつらが群れでやって来た ← 歓喜する第8領域の生命たちという過去記事をご参照ください) 。

最近、特筆するべきことは、なんと猫とネズミの逃走劇をベランダから 20分間に渡って目撃できたという(野生ドキュメントになるくらいものすごいドラマでした)、人生でも初めて目撃することがあったりと、いろんな生き物を見ることができています。

「ただし、ゴキ先生は来ないでね」と多少思う部分もありますが、急に暖かくなったせいか例年よりはるかに「春」を感じます。


そういえば、昨日、子どもを幼稚園に迎えに行く時、バスに乗って帰宅する子たちが、並んで歩いていて、その中の女の子の何人かが大声で、

「はーるよこい。はーやくこい」

と歌っていました。

ただ、その後のフレーズはみんなわからないようで、

はーるよこい。はーやくこい。・・・・・(ザワザワザワザワ)・・・・・

と、曖昧にお茶を濁して前に進みながら、また、誰ともなしに「はーるよこい!」と歌っては、また「・・・・・」と、次のフレーズの部分で沈黙を守るということを繰り返しながら何度も何度も彼女たちは歌うのでした。

実際には時期的にはもう少し前の歌なんでしょうが、彼女たちの心境が代弁するように、西荻窪の春が今やっと来た感じです。



資料 - スズメの消滅

First they disappeared from Britain. Now Europe's house sparrows have vanished
インディペンデント(英国) 2007年11月20日

最初はイギリスで、そしてついにヨーロッパ全土でスズメは消滅した

スズメは、フランスでも他の欧州諸国でも、今ではもはやありふれた鳥ではなくなってきている。

かつてはいくらでも飛び回っていたスズメだが、今ではパリを始めとするフランスの都市部で急激に減少しており、また、ドイツ、チェコ、ベルギー、オランダ、イタリア、フィンランドの都市部ではさらに減っている。

イギリスでは、過去 15年間でスズメの数が 90パーセント減ったとされているが、鳥類学者たちは、この突然のスズメの激減に対しての合理的な理由を見出すことができていない。また、フランスのパリでは、 20万羽のスズメが消滅したとされ、これは謎としか言いようがないとされている。

ひとつの理由として、「他の種類の鳥が増えて、スズメの生活域が浸食されたのではないか」というものがある。また、車の移動電話や携帯電話の電磁波に原因を求める専門家たちもいる。

しかし、どんな理由にしても、なぜ、その影響が「鳥」全般ではなく、「スズメ」に限定されるのか。鳥全体ではなく、スズメだけが突出して減っているのだ。


類似パターンは、ヨーロッパの各地で報告されている。ハンブルクでは、過去 30年間でイエスズメの 50パーセント、プラハでは、60パーセントのスズメを失ったと見られている。

フランスの鳥類の専門家はこれを「危険な徴候だ」と言う。

「イエスズメは、1万年間、人間と同棲してきた。スズメは人間にとって非常にシンボリックな鳥なのだ」と、生態系への懸念を表している。

このもっとも身近な鳥であるスズメの衰退の問題は6年前から議題に載せられていて、その原因を、カササギ、猫、殺虫剤、ピーナッツ、気候変動、および家の改良などに求めつつも、今でも根本的な原因は謎のままだ。

タグ:911 311 放射能