2011年04月20日



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「夢」についての補足記事(夢の重要性について)



夢のことをたまに書いていたりして、そのテーマとして「夢は未来を予知しない」ということをあげていたりするのですが、では、どうしてそんなことを書き始めたかというと、それは「私たちは、今よりもっともっと夢の価値を大事にする必要がある」と強く感じているからです。

いろいろと夢のことは語られるわりには、どうも現代人は夢を軽視している感じがします。
「娯楽としての夢占い」の域を出ないと考える人たちさえいるように感じます。

古代の人々や、あるいは多くの先住民族たちは夢をとても大事にしていたと聞いています。そして、それは「夢を現実の生活に活かすため」だったと思われます。現代では、夢というものを、たとえば「漠然と未来を予知する」たぐいの、どちらかというと、曖昧な意味のツールとしてとらえる部分が定着してしまっている感じを受けます。


私は、夢の大きな役割は現実に生きている人間の生命と生活をサポートするための「自分の中に存在するもうひとつの世界からの的確なアドバイス」であると考えています。

まあ・・・そう考えるようになったのはここ数日の話ですが(歴史浅いじゃん)、なんとなく確信めいています。

だって、ちょっと前の記事くらいまでは私のブログにも「夢占い」とか、そういう記述が出ていたじゃないですか。
私自身も夢に対しての認識はその程度のものだったんですよ。

「それは違う」と、それこそ最近、夢の中で教えられて、気付いた感じです。



夢を多くの人と共有する生活へと

私たちが、「現実の中に生きる人間」として、今日や明日をどう暮らしていったらいいのか、どう行動したらいいのか、どう考えればいいのかといったようなことを、多分、夢は日々教えてくれていて、それは、過去数十億年とか、あるいは数兆年かもしれないですが、ともかく、長い年月のあいだにどんどんと記録が蓄積され続けている人類の DNA(しかも、その中の私やあなただけの個別のDNA) の経験則の中から「最良の方法」を教えてくれていると考えます。

だからこそ、古代の人々や、あるいは、先住民族と言われる多くの民族たちは、夢を大事にしていて、かつては「朝起きた後に、家族で夢の内容を語り合う」ということを習慣にしている民族もたくさんあったと言われます。


そういうことを我々はしているだろうかと。

個人個人、後起きた後に、「ああ、こんな夢を見たなあ」と思うことはあるかもしれないですが、それを自分の今日や明日の生き方への具体的なアドバイスと捉えたり(人類は過去の記録が膨大なので、多分、夢のアドバイスがその人にとって、最も正しい方向性だと思われます)、あるいは、他の人と「夢を共有しているか」というと、そういう人たちもいるとは思いますが、少数なのではないかと思うのです。

私もそうでした。
夢を好きなわりには軽視していた。



夢に出てくる現象は「象徴」ではないかも

夢で現れるものが「象徴」的なこととして語られることがあります。

しかし、冷静に考えると、それはやはり不思議すぎると感じる部分があります。

私は基本的に「不思議が大好き」なくせに、不思議を否定したい人でもあって、そういう「モノの姿が他の象徴として変化して現れる」ということが理解できない部分があります。毎日見ている風景の中にある様々なもの、たとえば花や猫やビルや車や交番などが突然、龍とかクジラとか宇宙人とか別のものに変わったりしたことを見た経験は(これまでは)ないわけで、「現実は意外と冷徹に現実である」ということは言えるように思います。

そして、上の「自分の家の隣にあるビルは、いつ見ても隣にあるビル」であるように、「現れているもの、見ているものは、やはりそれそのものだ」と思う部分があります。

夢に体長100メートルの生き物がいたのなら、過去の人類の記憶はそれを実際に見ていたのだと思います。夢で得体の知れない形をした人間と出会っているのなら、それは人類が過去に出会っていたのだと思います。

「記憶を夢の中で思い出している」。

そう考えると、夢の正体はそんなに不思議なものではないと思います。


日常でも、頭の中で「昔のことを思い出したりして」いろいろと考えたりするわけですが、夢では見ている対象(あるいは体の器官)が違うというだけで、やはり思い出して、それについて考えている。

では、その夢が自分に何をアドバイスしているのか。

そのことを、多くの先住民族たちと同じように、日々考えて、生活に活かしていく方向性が見えてくればいいな、と思います。


未来を予知できないことと引き換えに人生の楽しみを享受している現代の人間としては、以下のようなことを常に意識しながら、現実の中で生きていくというようなことになっているのではないかと思ったりいたします。

それは、

・自然
・シンクロニシティ
・夢


です。


いずれにしても、目覚めているとき、そして眠っているとき。
どちらも人間は活動していて、人類という生き物もまた、他の生命と同様に「完全な不眠不休」の生命であることがなんとなくわかります。

今回は具体的なことを書いたわけではないですが、補足として書いておきたいと思いました。まあ、「もっと夢を大事にしてみましょう」と。
タグ:夢の意味



  

2011年04月17日



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昔見ていた海外のいくつかのサイトを見ると、今日も大きく「 Fukushima 」(福島)の文字。また原子炉で何かあったのかもしれないですが、それにしても、この1カ月の間、何度この文字が海外の報道紙上を飾ったことか。

私が今ではまた新聞もテレビニュースも見ていないこともあるのかもしれないですが、パッと見た印象で海外の報道を見ていますと、「日本には福島しか存在していないような印象」さえあります。そして、1カ月くらい前の震災の時と海外での日本に対しての報道の取扱いの大きさはあまり変わっていないようにも感じられます。もちろん、内容は「地震の被害のすごさ」から「放射能関連」へと完全に移っているとはいえ、つくづくと思うことは、

この1カ月でフクシマの地名を知った外国人が何億人増えたのだろう

ということでした。
これだけ日々繰り返し「フクシマ」の文字が紙面や音声で連呼されれば、外国人にとって覚えやすい響きではないとはいえ、さすがに覚えるでしょう。

おおむね、海外の人々の日本の都市に対しての認識というのは、たとえば、これは私たち日本人が他の国に対しての都市の認識を考えると想像できると思います。

たとえば、私などが「知っているイギリスの都市の街の名前をどうぞ」と尋ねられると、

「ロンドン! ・・・あとは、えーと・・・・・・・・・・・・」

という感じになる人が多いのではないかと思います。
今、私が書こうとしましたら、実際上のようになりました。

なので、日本もまあ、

「トーキョー、オオサカ・・・・・あとは・・・・・・」

となるのが普通で、旅行が好きだったり戦争に興味があったりする人によっては、キョートやヒロシマ、ナガサキという地名を知っている外国人もいるかもしれないですが、数は少ないと思います。


そこに突然降って湧いてきた「フクシマ」。

今では、比較的、メディア情報の多い国の人々に「知っている日本の地名は?」と聞くと、「トーキョー」の次には、多分、「フクシマ」と出るように思います。

そして、場合によってはトーキョーとフクシマが逆転する可能性さえあるかもしれません。

もちろん、これは「悪い意味」で報道されているわけで、認知度が上がることがいいとは言えないかも知れないですが(それまで誰も地名を知らなかったチェルノブイリが誰でも知ることになったようなこととも似ているので)、それでも、良いとか悪いとは別の事実として「急速な全世界へのフクシマの名の認知度の拡大」はすでに起きてしまっています。

エルサレムでも何でも最初は聖典などさまざな文献による「徹底した地名の教育と頒布」で近代宗教の歴史は始まりました。


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▲ ふと思って、Google で検索してみた日本の都市の英語表記での検索ヒット数。上から、東京、大阪、福島。東京が約 8100万件、大阪が 2300万件に対して、福島が 2400万件。かなりの検索ヒット数だと言えると思います。大阪の負け(やーい)。



ウイルスと細菌

顔の三叉神経にできた(「できた」でいいのですかね)帯状疱疹も、早めに医者にかかって薬をもらったせいか、まあ、特に悪化はせず、痛くてあまり眠れぬ夜もありましたが、かなりよくなりました。

なじみの医者は、嬉しそうに「目がつぶれるくらいに腫れ上がることもあるよ」と私を脅していましたが(苦笑)、幸い、それは免れたようです。

ちなみに、もらった薬はバルトレックス錠というものなのですが、驚いたのが、「ものすごく高価だった」ということでした。薬局で薬剤師が「このお薬がお高いものでどうにも・・・」と恐縮していたほどの値段だったんですが、多分、保険適用で処方された薬の中では、記憶では歴代で1番か2番の価格だと思います。

このバルトレックスという薬が何をするかというと、こちらによると、


 > 【薬理】ウイルス感染細胞内で活性化し、ウイルスDNA鎖の伸長を停止、ウイルスDNAの複製を阻害します。


「うーむ・・・」と私は唸りました。「ウイルスDNA鎖の伸長を停止」あたりはよくわからないのですが、しかし、一方で、「DNA がどうだこうだというようなことをしてくれているのなら高価なのも仕方ないか」と、わからないなりに納得した次第です。

食後に薬を飲むたびに「ふふふ・・・これでやつらウイルスの DNA が断ち切られていく・・・・ふふふ・・・死ね! ウイルス」と暗い笑顔を浮かべるのでした。


しかし、「死ね」と書きましたが、現実にはウイルスが「死ぬ」ものなのかどうかはよくわかりません。細胞のある生命ではないので、普通の生物の「死」の概念をウイルスには適用できないのです。

昔、微生物のことを調べている時にいつも混同したのですが、「細菌」というものと「ウイルス」というものは、まったく違うものだということでした。細菌というのは細胞を持った生き物であるのですが、「ウイルス」というのはどうもそうではない。

細菌とウイルスは「生命として全然別のもの」なんです。

ウイルスは、「細菌にとっての細菌」みたいなもので、「生物の細胞の中で増殖する」という寄生動物のようなものです。


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雑菌天国「本当のキレイとは?」より。


その違いをそれぞれで簡単に書くと、

ウイルス

・細胞はない(アミノ酸とタンパク質で出来ている)
・細菌よりはるかに小さい
・抗生物質は効かない


細菌

・これ自体が細胞
・ウイルスよりはるかに大きい
・抗生物質が効く



となります。

この「抗生物質が効く」と「効かない」は病気の治療で結構大きなポイントで、たとえば、現在でも「風邪の治療薬はない」というのは、風邪はウイルスですので対症療法(痛みや熱をとったり、鼻水を止めたり)しかなく、根本治療はないことなどを考えるとよろしいかと思います。

なので、今回のバルトレックスのように、ウイルスに対抗する薬というのは、結局、「薬剤による DNA への挑戦」ということになるようで、これらの薬が高価なのもそのあたりに原因があるようです。まあ、ウイルスの DNA への挑戦が進むことが、医学的に是か非かはわからないですが、少なくとも、今回は私はそのお陰でそれほど苦しまずに済みました。


ちなみに、病院に行ったのは4日ほど前でしたが、その時、結構混み合っていて、小一時間くらい待ったのですが、待合室にあった本で漢方の雑誌みたいなのがあったので、それを読んでいました。

個人的には、今後、日本は特に今までの国による健康保険制度を含めて、いろいろとこれまでどおりの医療態勢、あるいは西洋医学一辺倒の方向では難しい部分もあると思っています。かといって、何もかも東洋医療的な部分で病気に対抗することは無理なわけで、東洋医学、西洋医学、共に得意不得意はあります。

思えば、日本とか中国などは、考え方を少し転換すれば、東洋医学と西洋医学のどちらも合理的に混在させられるはずで、それは難しく考えることではなく、たとえば、「国民全員が体のツボをすべて知っている」とか、「民間療法の正しい部分の再検証」とかそういうことでいいのだと思いますが、今後、大事なことは「できる範囲で自力で病気を治していく」という姿勢ではないかと。

特に痛みにはツボはすげー効きますからね。
部位によっては、痛み止めの薬以上に効果があります。


そんなこともあって、待合室で漢方の本を読んでいたら、「五臓六腑」の文字に行き着き、また、「五行を知る」というページもありました。五行とかいうのは、全然知らないのですが、今後知ってもいいなと思いました。

まあ、「五臓六腑」に関しては、以前、酒を飲んでいて、「五臓六腑に染み渡る」とか言っていたら、本当に胃に穴が開いていたことがあったので(笑えないって)、そのあたりも勉強し治したいと思いました。


地獄の夏を回避するために

タイトルに「地獄の夏」とあえて入れたのですが、これは 2008年頃からウェブボットなどで繰り返し出されていたキーワードのひとつで、それは「アメリカ」で起きるとされていたことでした。「地獄の夏」という概念はいろいろとありますが、そこで語られていた具体的な様相としては、大雑把に、

・経済崩壊や自然災害で家を失う人が増える
・それまでの商業施設が住居として利用、転用されていく
・輸送網とインフラの停止により、食糧や電気の供給が途絶える


というようなことでした。
これらの「現実」は今の被災地を襲っていると同時に、また、関東など直接の被災地ではなくとも、今回、私たちは、


・電話、電気、水道などのインフラの災害に対しての弱さ

・在庫を作らない方式の現代式輸送システム(ジャストインシステム)ではあっという間に食糧供給が途絶える



ということを経験しました。


そして、大事なことだと思うのは、「それでも、まだ次への備えはしないといけない」ということはあるのかもしれません。

これらは過度の不安を持つべきことではなく、以前にも書いていますように、たとえば、地震が来た場合、それが大きなものなら、「その被害」というものは避けられないです。建物、あるいは人命。


そこで生き残った場合にはまた次を考える必要がある。
たとえば、上の、


・インフラの問題
・食糧供給が途絶える



などに対処する方法は考えておいてもいいのだと思います。
これは日本のどこの地域に住まれていてもです。


食べものに関しては食べものそのものがないとどうにもならない面はありますが、飲料水に関しては、昨年、いくつか翻訳記事にしています。今は放射能などの問題もありますが、「まったく飲む水がない」と、そのほうが致命的ですので、水道水などが止まって、給水がいつ来るかわからないというような場合などのためにご記憶いただくのもいいかと思い、リンクしておきます。

これから気温が上がってくると、発汗量が増えて喉が乾くだけではなく、雑菌の繁殖などの問題で、水の汚染も進みやすくなると思いますので、飲料水はさらに大事なものとなるように思います。

どちらも、池や川などの水や、あるいは雨水を飲料水にする方法です。

味はともかく、下のふたつ(あるいはそれに煮沸を加える)を併用すれば、化学物質で汚染されていない限り、水なら何でも飲めるようになるはずです。




上の「漂白剤」はゲッと思われる方もあるかと思いますが、アメリカの赤十字社が正式に薦めている水の殺菌方法で、その方法をきわめて簡単に書くと、

・2リットルのペットボトルの水に8滴(小さじ8分の1)の液体漂白剤を入れて、よく混ぜて、30分置いておく

だけです。

使う漂白剤は、キッチンハイターや、あるいは100円ショップで売っているものでよく、成分に「次亜塩素酸ナトリウム」があるものです。次亜塩素酸ナトリウムが健康にいい悪いはともかく、これは給水などが復活するまでの非常時の話です。

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また、「太陽放射の紫外線Aで川や湖の水のバクテリアを滅菌して浄水する方法」の記事は太陽光線の強力な殺菌力を利用するもので、太陽光線だけでも多くの細菌を死滅させることができます。太陽光線だけで、99.999 パーセントの有害なバクテリアが滅菌されるとされています。


紫外線Aに6時間曝露されることによって死滅するバクテリアのリスト

・バクテリア – 大腸菌
・バクテリア – コレラ菌
・バクテリア – サルモネラ菌
・バクテリア – 赤痢菌
・バクテリア – カンピロバクター菌
・バクテリア – エルシニア菌
・ウイルス – ロタウイルス
・寄生虫 – ジアルジア
・寄生虫 – クリプトスポリジウム



太陽が実に「人間の生の味方」だということがわかる一面を見せてくれています。


今回は水のことを書いていますが、それぞれの具体的なことに関してはともかくとしても、今現在の自分の心境などを考えてみても、結論としては、今後の生活の中で、

「地獄の夏と感じるか、それとも感じないかは自分の気持ち次第」

だと思わざるを得ません。

これは「自分の世界観次第」と言い換えてもいいです。

このことは感覚で書いているのではなく、以前、「生きている世界は人によって違うというのは、オカルトではなく存在する」ということを書いていたことがあって、たとえば、あるふたりがいて、違う時に、海外旅行で同じ場所に同じような状況で行き、同じような体験をしたふたりがいたとしてます。

片方が、

「あんな楽しい経験したことがない」

と思って、しかし、もうひとりは、

「あんなイヤな経験はなかった」

と思うというようなことは本当によくあることです。



それでも世の中は楽しい

私ごとですが、以前、タイのある町で、酔っぱらって射殺されそうになったことがあって(私は泥酔状態)、結局、撃たれなかったのですが、その時、銃を向けられていることにえらく感動して、その後もしみじみと「いい経験したなあ」と思い返していますが、その時の旅行は他にもいろんなことがあって、でも、結果として生きて日本に帰ってみると、それは本当に「あれは本当に自分の体験だったのか?」と思えるほど嬉しいものでした。

しかし、上のどうしようもない話でも、「私が生きて帰ってきたから言えた」ということはあります。

人間がいつかは死を迎えることは仕方ないことですが、以前も書きましたが、「そのことに対して、ギリギリまで頑張る」ことも、また生命を持つものとしての、ひとつの正しい生き方だと思います。

そして、多分、ギリギリまで頑張るためには「つらい気持ち」ではなく楽しい気分でいたほうがいい気がするのですよ。


東北の被災地の方々の姿、そしてそれを救援している個人の方々の姿のお陰もあって、今、東京にいる私たちは(全員ではないのでしょうが)とても安心して生きています。

それに関しては、東北の方々、そして Fukushima の方々には本当に感謝しています。


日本の今後はわからないですが、何か起きたら「対処するだけ」。
不安はもはやあまり必要ない気がします。


そういえば、震災直後の「新しい神話の神様たち」という記事にこう書きました。

「ひとりで逃げない新しい神話」が始まった時、人類は「宇宙の進化の最終形」の手伝いをできることになります。

人類は宇宙を助け、また、その人類を作り出してくれた宇宙に人類は感謝する。

これだけでいい。
他に何もいらない。

そして、新しい世界が始まります。
それはどんな世界か。

その世界はそれは実は今までと同じです。
スーパーがあり、立ち食いそば屋があり、私たちは料理を作り、ゴミの分別をして、挨拶をして、庭で植物をいじる今までと同じ生活が再開されるだけです。



今は比較的このような感じになっています。

もっとも、今後、物質的な面(経済と国際流通の関係が大きそう)も大きく変わっていくことは避けられない感じはあります。震災前までに何度も書いていた食糧危機などの問題が沈静化するとも思えません。

それにしても、結局は、個人にとって、「それが地獄の夏かどうか」というのを決めるのは、個人の考え方次第だと考えます。



痛みもだいぶん消えてきたので、こちらの記事で書いた「夢の正体」のことは、今後、書ける時があれば書きたいと思います。

その記事に載せた部分がこちらです。

「人類の宇宙の記憶からの決別」はあらゆる活動と現象に及び、夢も例外ではないのかもしれません。つまり、一般的に言われるように、夢は宇宙の記憶に触れるという現象「ではない」可能性があります。

夢も「宇宙の記憶とは関係のない人類の単独の現象」だという言い方にもなるかもしれません。

なので、夢は基本的に社会全体の未来を予知しないと思われます。

夢の正体は、その人の DNA が何十億年の間に蓄積され、その本人の DNA の中に保存され続けてきた「その人のもつ DNA の中だけの過去のあらゆる歴史」に触れていることだと考えます。なので、その個人の宇宙の中の人生で経験した、あらゆることに毎晩ふれているといってもいいのかもしれないです。



これは、いつもの私の書いていること同様、何の根拠もない話です。私自身が納得すればそれでいいたぐいの内容ではありますので、娯楽話として読み飛ばしていただくとありがたいです。



  

2011年04月15日



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NHK教育の番組で「日本語であそぼ」というのがあって、見るともなしに見ていると、与謝野晶子の

  こよひ逢ふひとみなうつくしき

というフレーズがクローズアップされていて、それが寸劇になっていました。
出典は「みだれ髪」とのこと。


「今宵逢う女性たちがみんな美しく見える」という意味なんでしょうが、道ですれ違う女性たちがみんな美しく見えるときの心情を若い女の子のタレントが演じていました。

それを見て、なるほど、「美しく見える時、という特別な時がある」ということでやっぱりいいんだと改めて思いました。つまり、「いつもいつも同じく美しく見える」というわけではなく、上でいうと、「今夜は特に」というような日があるのだなあと。

私も、女性が(全体的に)とても美しく感じることを突出して感じる日があるので、「日々それ(地上の全体が美しいと感じたり感じなかったりすること)が変化するのは変なことじゃなかったんだ」と安心しました。

これが自分の心理的な問題や、あるいは松果体などの器官的な問題なのか、または現実の偶然に過ぎないのかはわからないですが、一昨年頃から、周囲の風景が日々違って見えるというような感覚を頻繁に感じます。ずっと「気のせい」だと思っていましたが、まあ要するにどちらでもいいのでしょう。



極悪人・与謝野晶子

ちなみに、与謝野晶子といえば思い出すのが、中学生の時の話です。

クラスの女の子が私に本か何かを見せて、「このよしゃの・・・あきこってさ」のようなことを言ったので、なにげなく、私が「あ、それ、よさのって読むみたいだよ」と言いました。


すると、彼女はしばらく黙った後に涙を流し始めたのです。

私 「え・・・?」
彼女「ひどい・・・。私がちゃんと読めないからって・・・」
私 「いや、あの・・・」


周囲にいた生徒たちが「お?」と気づき、寄ってきます。

周囲「なんか、オカが女の子泣かしてるぞ」
私 「な・・・。違うって」
周囲「ひ ・ ど ・ い!  ひ ・ ど ・ い!」


シュプレヒコールが鳴り響く中でその事情を話すと、その周囲の中の一人が、

「それはやっぱりオカが悪い」

ということになりました。

すなわち、与謝野の「謝」は、どうやったって「しゃ」にしか読めないから、○○ちゃん(女の子)が正しいと。

それを聞いて私が、「オレだけが悪いんじゃない。そんな名前がついているほうも悪い」と言うと周囲も納得し、結局、「この世の中で最も悪い人間は与謝野晶子だ」ということで決着したことで、彼女も泣くのをやめて、みんなで、「よかったよかった」ということになりました(どんな話だよ)。

そんなこともあり、大変悪い人物である与謝野晶子(よしゃのあきこ)ですが、上の「こよひ逢ふひとみなうつくしき」というフレーズを見て、やや評価も持ち直した気配もあります。


ここ数日、東京はものすごい陽気で、日中は初夏っぽい感じも漂っており、若い女性などではノースリーブなどの「夏の格好」の人も増えてきました。上の「みなうつくしき」というような心境の日に、そういう女性たちの姿が目に入ると、「ものぐるおしけれ」というような気持ちにもなります。


ただ、同時にランニング姿のオッサン方の姿も目につき、汗ばんだその姿を見ていると、別の意味で「ものぐるおしけれ」というような気持ちにもなります。

「この世から消えてしまいなさい」

と彼らに対しては心の底から思わずにはいられません。


そういえば、震災直後によく目にしていた「精神のバランスを崩したっぽい中年の男性たち」ですが、最近はそのような人たちを見なくなりました。何日か前に「ジングルベル」を大きな声で歌いながら道で歩いているオジサンを見たのが最後で、震災直後と比べると、街の様子は全体的に非常に健全というか、どことなく安らかな感じが印象的です。

ジングルベルのオジサンにしても、まあ、時期の問題があるだけで、道で歌って歩いていけないということはないわけで、あれはあれでいいのだと思います。


考えてみれば、昔・・・・・具体的には十数年くらい前までは、この街にも「定番の変な人たち」がたくさんいました。それらはこの街に住んでいる人なら誰でも知っていて、話題としても、

「昨日、ポッポッポッのオヤジが西友でレジに並んでたぞ」

というように有名人扱いでした。

ポッポッポッのオヤジは私がたまに舞台の小道具を見るためなどに行っていた古道具屋の店主で、ヒマな時には「鳩と会話」していました。

これだけ書くとロマンティックな響きですが、ただ、「鳩など周囲にいません」でした。架空の鳩と架空の会話を続けていました。

私 「オジサン、これいくら?」
ポ 「ポーッポッポッポッ・・・・・」
私 「オジサン! 聞いてる?」
ポ 「ポーッポポポポ・・・・・」
私 「話聞いてよ!」
ポ 「あ、それ、5000円」
私 「たけー!」


と、商売のほうは大変なポッタクリでしたが、しかし、そういう人たちはこの十数年でどんどんと消えていきました。

進軍ラッパを片手にして、毎日、駅近くの道で行進訓練を日々していた軍人さんもいなくなり、気付けば、楽しい人たちはみんな消えていました。

世の中がつまらなくなっていくのとシンクロして消えていきましたが、まあ、あれらも暇つぶしにこのあたりで遊んでいた、まあ、たとえれば宇宙人とか異次元の人なんかのたぐいの妙な存在だったのかも、と思えば納得もいきます。「つまらない場所にいても仕方ない」と。

「おもしろい場所に移動しましょう」と。


そのつまらない場所に残されてしまった私たち・・・。

まあしかし、あれらの変人たちもそろそろ戻ってきてもいいのじゃないかなあという感じの最近の街の雰囲気もないではないです。


そういえば、昔のヒーローものの映像を見ていて、「あること」を忘れていることに気付きましたので、それを今日の最後に書いておきます。



ウルトラマンに見る「悪だの正義だのはまあどちらでもいいじゃないか」

日本のヒーローものの誕生といってもいい記念碑的な作品「ウルトラマン」。

1966年7月に第一作が放映されていますが、この「第1話」のラストの台詞をご記憶の方はいらっしゃいますでしょうか。日本のヒーローの最初の登場といってもいい物語の最後の隊員たちのやりとり・・・。

さぞや、神格と謹厳に満ちたものだったのではないだろうか・・・。
そう思って見直してみました。


その部分の台詞も全部おこしてみました。

その部分の映像を置いておこうと思ったのですが、著作権の関係でブロックされてしまいました。
第1話は YouTube のこちらにありますので、ご覧下さい。そのラストです。
多分笑います。

ult-1.jpg

▲ 「それはウルトラにいいでしょう」と笑うイデ隊員。ダジャレで終わったウルトラマン第一作。左で笑うのは後の毒蝮三太夫さん。この人たちの仕事は漫談ではなく、なんと地球の防衛なのでした。


「ウルトラマン第1話」(1966年7月17日)より


ハヤタ隊員 「ところでベムラーはどうなりました?」
キャップ  「うん。宇宙人が追っ払ってくれたよ」
ハヤタ隊員 「やっぱり彼が出てきましたか。僕もそうじゃないかと思って、安心していたんですよ」
アキコ隊員 「すると、あなたを助けてくれたのも?」
ハヤタ隊員 「彼だ」
イデ隊員  「ちょっとちょっと。ちょい待ち。彼、彼って親しそうに言うけど、いったい名前はなんていうんだい?」
ハヤタ隊員 「名なんかないよ」
イデ隊員  「よせやい。名無しのごんべえなんてあるもんか」
ハヤタ隊員 「うーん、そうだな・・・じゃあ、ウルトラマンってのはどうだ?」
アキコ隊員 「ウルトラマン?」
ハヤタ隊員 「そう。ウルトラマン。どうだ?」
イデ隊員  「そりゃあ、うーん・・・ウルトラにいいでしょう」
アキコ隊員 「でも、ウルトラマン、どっか行っちゃったんじゃないの?」
ハヤタ隊員 「どこにも行かないさ。彼の宇宙船が爆発して、自分の星には帰れなくなったんだから」
キャップ  「うむ。きみはまったく悪運の強い男だよ」
ハヤタ隊員 「僕は不死身ですよ、キャップ」



行き当たりばったりの科学特捜隊・・・。

よせやい。名無しのごんべえなんてあるもんか」・・・(笑)

当時の日本のヒーローものが神の領域に踏み込んでいることを感じさせる台詞やシーンは他にもいろいろとありますが、ここまで「笑いといい加減」という要素をヒーローものにこめる度量というのは他の国ではなかなか熟成しませんでした。


「まあ、なんかこう・・・大丈夫だろ。よくわかんないけど、すべてOKだ」


というヒーローものの歴史はいまだに終わりを迎えていません。

タグ:科学特捜隊



  

2011年04月14日



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江戸時代の話ですが、1858年に、日英何とか条約のために来日していた英国の使節団の一員で、船艦の艦長だったオズボーンという人が、日本についてこう書いています。

この町でもっとも印象的なのは、男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった。


何だか当たり前のことのように見えるこの短い一文ですが、しかし、イギリス人の彼が「みんな幸せで満足そうに見える」と書いたということは、彼の国、あるいは彼が見てきた国では、少なくとも「みんなが」幸せそうに見えたわけではなかったということなのかもしれません。

今の日本がどうかというのはわかりませんし、当時の日本だっていろいろとあったとは思いますが、少なくとも当時の英国人には日本は「そう見えた」。

その後、彼は日本から英国にいる母親に手紙を書きますが、その内容は、

日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民です。どんな地位にいようととも、私は日本なら喜んで出かけたいと思っています。


というものでした。

こういう例は多く残されていて、たとえば、「逝きし世の面影」という著作にたくさん出ているようです。こちらに内容の紹介があります。



▲ 本自体は楽天にありました。


しかし、ここで勘違いしたくないのは、「だから日本は素晴らしい」という言葉が仮に私たちの口から出てしまうと、それで、もうダメだと思うのです。


江戸時代や明治自体などに来日した外国人の感嘆は、日本人が「これはすごいこと」だと気付かないで淡々と日常的にしていたことで、そして、そのすごさに気付いていなかった日本人がすごかった。気付いてしまった今は不幸とも言える気がします。今の時代は、「だから日本はすごい」と言わなければならなくなってしまった。

本来は「無言」に戻るべきなのでしょうが、この「不幸」の中、もう少し言葉にしてみます。


たとえば、日本では比較的昔から普通のことだと思えるような、

・道にゴミや糞尿がなく、きれいだ
・玄関前に花などが置いてある
・子どもと大人が一緒に遊んでいる


こういうことは当時の西洋では「発想もつかないこと」だったようです。

西洋では古くから「子どもは小さな大人であり、邪魔な存在」という意識がかなり長く続いており、今は違うでしょうが、「道ばたで子どもも大人も遊んでいる」という光景は夢の世界のように見えたのだそうです。まあ、今の日本は治安などの問題で、そういう光景は少なくなってしまいましたが(道ばたに子どもがいない)。

また、一般的に昔の西洋では、道に糞尿を捨てるのは特別なことではなく、「道は汚いところ」という意識がかなり一般的だったと記録されています。


以前、記事に書きましたが、今、日本はどちらかというと、ふたたび鎖国の時代に戻りつつあるかもしれないということがあり、さらには、「国際社会が日本のことを忘れ去ってくれるかもしれない」ということがあります。

これはリスクの大きさを承知で書けば、日本にとってひとつのチャンスだと私は考えています。もともとの日本にあった(そして本来は今でもある)「特別ではない普通の日常」を取り戻すことができるのかの瀬戸際に今の日本はいるように思います。




一蓮托生の宇宙

私は「人類と宇宙から独立した」ということを最近書いていて、以前、「宇宙も自然もすべてが人類を尊敬しているのかもしれない」と書いたのですが、昨晩、ふと考えがさらに進みました。


すなわち、宇宙とあらゆる自然は、ただ人類を尊敬しているのではなく、人類である私たち以上に、宇宙も自然も私たち人類(すなわち、自分たちを認識してくれているもの)を愛してくれているはずです。人類が消えると宇宙も消えるということがほぼ確実となっている以上、「宇宙の最後の存在意味は人類を存在させ続けること」だと思います。


つまり、宇宙も人類も、その他のすべても「何もかも常に一心同体」であり、そこに優劣はないのだと気付いたのです。


これは「人類は尊敬されている」という考えからさらに進化していると自分で思います。なぜなら、もともと私は「尊敬」という言葉が嫌いだからです。

若い頃から「尊敬している」という人はいませんでしたし、今もいません。
あるのは「好きな人」という区分だけで、それはたくさんいます。

このブログに何度もでてくる作家の埴谷雄高さん、パンスペルミア説の生物学者フレッド・ホイル博士、パチプロの田山幸憲さん、昭和天皇、あとは、米国の元プロレスラーのストーンコールド・スティーブ・オースティンといった人たち。

こういう人たちはみんな好きです。でも、尊敬ではない。

大体、埴谷雄高さんなんて何度も何度もここに小説の引用だとか出させてもらってますけど、「死霊」そのものは読んだことないですからね。「死霊」第一巻は持っているのですよ。でも、3ページくらいで挫折して、あとは「すてきな飾り物」となっています。

ただ、埴谷さんの対談はすべて読んでいて、小説の引用もそれらの対談集などに出てくる引用で理解したものです。「死霊」は私程度の頭の人では「漢字すら読めない」ほどの男性性小説で、おもしろいものではないです。

でも、埴谷さんはカッコイイ。素敵だ。
そういうことになると思います。


宇宙と人類が一蓮托生の関係にあることについては、観念的な問題だけではなく、「私たちを取り囲む微生物の働き」などでも多分わかることのように思っています。先日書いた空間をつないでいるものの正体という記事で、私にメールを下さった方の知人の方のお話を紹介したことがあります。
そこにあった、


 > この世界には微生物が隙間なく蔓延している


という一節。

これが宇宙全体を貫いているとすると、「宇宙は繋がっている」ということが物理的にも言えることになると思うのですが、しかし、ここには以前、「ペアである自分」というものを書く原動力ともなった「壁」があります。

それは、「光速の限界」という物理の問題です。

100億光年先の「微生物」と繋がるためには、光速で100億年かかってしまう。
しかも、宇宙はもっともっと果てしなく巨大に広がっている。


「全部の宇宙が一体」であるためには、この物理の法則を打破する必要があるわけで、だからこそ、「自分の中にある宇宙」を考えてみたくなったり、あるいは「今、私たちがいる場所(たとえば地球)が最も大事な場所だ」ということになるのだと思います。

光速で瞬時に移動できる範囲で物事を拡大解釈していけば、きっと何かがそこにあるような気がします。

そして、それはその時に個人個人考えられる範囲でいいのだと思います。

たとえば今なら「東北のことを考える」でもいいし、「日本と日本人を考えてみる」でもいいと思います。そこから考えが宇宙に繋がっていく日がくると思っています。



どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない

1860年に、通商条約の締結のために来日した当時のプロシアという国の使節団の人は、報告書に、日本人についてこう書いています。


「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」。



実際に、 100年前とかそれ以上前に、日本にやってきたほとんどの外国人の共通の意見が上の意見に集約されています。

とはいえ、その後の 100年で日本の状況はかなり変わってしまった。最近の日本と日本人が「どうみても健康で幸福な民族」かどうかは、かなり微妙で、それだけに今の時期は考えてみるいい機会なのではないかとも思います。


今日は最後に、1876年(明治9年)と1899年の二度日本に来日して、日本が大好きだったフランスの画家のレガメという人が書いた「日本素描紀行」という著作からの抜粋です。中略と抜粋なので、このように続いて書かれているわけではありません。

 私は、午後三時から始めた貧しい人々の住む地域の散策から戻って来た。

 魚屋や八百屋の店先は、夕食のため、たいへん賑わっている。この時刻の盛んな活気は、やがて人気のない街の静けさに移っていくのだろう。

 私は、深く感動して、頭をかしげて戻る。たった今見たすべてのことに、心の奥底まで動かされ、あの誠実な人たちと、手まねでしか話せなかったことが、たいへんもどかしい。

 勇気があって機嫌よくというのが、陽気で仕事熱心なこのすばらしい人々のモットーであるらしい。女性たちは慎ましく優しく、子供たちは楽しげで、皮肉のかげりのない健康な笑い声をあげ、必要なときには注意深い。すべての人が、日中は、家の中でと同じように通りでも生活をしている。

 彼らは、私がどんなに彼らが好きであるのか、おそらく知るまい。また、自分たちに、どんなに愛される資格があるのかも知らない。


guimet.jpg

▲ レガメの書いた当時の東京の風景。これは浅草の射的屋。





  

2011年04月11日



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先日、近所のたまに行く飲み屋に行きましたら、常連のご老人(若い人が多いこの店では珍しい)が、「私の知り合いがね、予言で、今度○○が××だというんですが、オカさんはどう思われますか?」と言います。この方は80歳近い高齢ですが、誰にでも敬語で接する方なんですが、それはともかく、私は返答につまりました。

そして、うーむ・・・と私は唸りました。

あれだけの現実の災害を前にしても、まだ予言だなんだという人がいるかと。


私は震災後、記事でたまに人類のことについて激情に駆られるままに書きました。

ほとんど書き殴ったものとはいえ、ある程度は、自分の書いたことに同意できる部分はあります。基本的に最近、自分の中でも自分がバラバラなんで、全部同意できるわけではないですが、しかし、以前書いた「人類は未来を予知できないという他の生命にはない能力を獲得したことによって、宇宙史上で最大の進化をした」ということは、今でも全くその通りだと感心しています。


予言というのは「進化する前の人間の機能」の一部であって、現在の人類はそこから脱却することによって、現行の娯楽や楽しみや、あるいは文明に到達することができたと考えています(予言で「実現不可能」とわかってしまった研究をする人はいなくなるというような意味も含めて)。

もちろん、いろいろな人がいるわけで、今でもその昔の人類の特性を持っている人はいるでしょうし、「個性」はあると思います。手で色を見ることができる人とか、人には聞こえない音を聴くことができるとか。

しかし、それらは一般人である私たちの日常生活にはあまり関係のないことです。

そのことを考えているうちに、さらに「予言」ということにについて書きたくなりました。




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2011年04月08日



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さきほど(4月7日の午後11時30分)、多分ここ最近では最大の余震(マグニチュード 7.4)だと思われる地震がありました。

東京でも最近では最も大きな体感の揺れと長さで、「関東に来たのかな」と思い、テレビをつけると、緊急地震速報が報じる震源地は宮城沖で、「まだ東北にこんなでかいのが来るのか」と、やや絶望ぎみにテレビを眺めていました。東京でも揺れは1分近く続いて、地震速報では宮城の各地で震度6強などを観測していました。

最近、「時間がまた動き始めた」というようなことを書きましたが、それはそれとして本当ですが、「止まっていた時のこと」を忘れさせてくれるようなことも、まだまだあり得ないと思いました。


ちょうど、昨日、甚大な被害を受けられている気仙沼に住んでらっしゃる方からメールをいただいていました。その方も以前、私が住んでいる東京の中央線という沿線に住んでらしたということと、あと、私と同じように舞台関係のことをされていたそうです。

メールは気さくな感じで綴られているものの、気仙沼は現在でも、その惨状はものすごいもののようで、「吐き気」というような表現も入るほどのものでした。さきほどの余震の時にその気仙沼のことを思って、さすがに暗澹とした気分になりましたが、しかし、その方はメールで、たとえ今後、物質的に貧しくなったり、あるいはさらなる苦難があっても、「日本人として恥ずかしくない生き方をしていきたい」と書かれていました。


私も今回の震災での東北の方々の姿を見て、そして、その後の現地の支援を含めた様々なことをされている「個人」の方々の姿を見て、「日本人であるということに喜びを感じられる感覚」を取り戻しています。


これは「日本人の誇り」とか「日本人は偉い」とか、そういう面倒な話ではなく、「自分もこの東北の人たちと同じ日本人なんだ」という嬉しさかもしれません。

今まで、ともすれば「愛国的」などという言葉で語られてしまった「日本人であることを愛する」ということを、もっと自然に、ある意味では女性性的に、ポジティブに考えられるようになりました。


本来はこの「日本人であることを喜ぶ」ということに関しては、言葉で言うことではないことだと思っています。

でも、今は言葉で書いています。



神話が見せてくれた地震への最善の対処

ところで、今日の地震の時にテレビをつけた時、 NHK の仙台支局だと思うのですが、放送局内の様子が映されていたのですが、そこで見た人たちの行動。

多分、仙台も震度は6前後はあった中でしょう。


その中で、そのスタジオに映っている人たちがしていたこと・・・。

髪の長いスリムな女性はホワイトボードが倒れないように支えながら冷静に周囲や天井を見ている。

アナウンサーの方でしょうか、黒いスーツを着た女性スタッフは、揺れが収まった瞬間、動じることなく報道の準備を始める。他にも、落ちそうなパソコンを支えるスタッフ、そして、カメラを持ったカメラマンはその様子を揺れながら撮影している。

もはや、そこには「地震に対しての怖れ」など見えないのです。
起きる事象に対して、淡々と対処し、次に進む。

世界のどこを見回しても、震度6の地震の揺れの中でこれをできる人はいません。
本当にいません。

本来ならトラウマレベルのこの地震に対して、すでに「不要な恐怖心はない」とさえ映ります。

もちろん、余震とは言え、震災クラスのこの地震で、何らかの被害が出ているのは間違いないのでしょうが、「大きな地震では被害が出る」という不可抗力も含めた現実と、「それをむやみに怖れる」こととは大変に違いがあるように感じます。

このあたりにも「地球に生きる人類」が到達した究極の行動が見えてきます。



宇宙も神もすでに人類を脅せない

地震は古来から、「神の怒り」だの「大地の怒り」だの、いろいろと言われてきました。聖書にもコーランにも地震の記述は多数あり、他の様々な聖典でも、それをにおわせるようなニュアンスはさまざまに書かれているようです。

まあ、実際に地震が神の怒りでも大地の怒りでも、それはそれなら構わない。

勝手に怒りなさいといった感じですが、実際には地震は「現象」でしかないことは確かであって、いわゆる「地球は生きている」という概念や太陽などとの関連から考えると、単純な自然現象だと言ってしまうには抵抗があるにしても、それでもやはり「現象」という言い方としては間違っていないと思われます。


そして、原因がどうであれ、この「地震」というものに対しての人類の正しい態度としては、上の NHK 仙台局で映っていた人々の態度が 100パーセント正しいわけで、そして、多分、東北の多くの方のとられたであろう態度が 100パーセント正しいと思います。


それは「不安を先行させずに、起きたことに淡々と対処する」という現実的な態度です。


地震が起きて、「ああ、神様、助けてください」と、住民全員で輪になり手を繋ぎ、空と大地に祈りを捧げるというような人間の姿も、世界での歴史の上ではあったかもしれませんが、それは正しい行動とは思えません。

あるいは、ただ叫び嘆き悲しむだけの連続も正しくありません。

それでは、「次の地震に対処できない」からです。


仮に地震が神や大地の怒りであろうと、太陽と地球の間での磁場的な物理事象であろうと、地質学的な単純なイベントであろうと、理由は何であろうと、対処する行動のすべては、「上の東北の人たちの方法でOK」だと思います。


その理由は、「地震は現実の事象」だからです。
すべては現実。
なので、「対処の方法も現実以外は通用しない」はずです。



「起きていることに対処した後」は、「次の地震や災害への対処を始める」。

これは当たり前のことのように思えるかもしれないですが、こんな単純なことでさえ、今回の震災での東北の人たちの行動を見るまで、私は気付かなかったのですよ。

やはり、以前の私には「意味なく地震を怖れていた部分」があった。
そのままだと、次は東京だ、東海だ、西南海だと、「見えない神や大地」を怖れていたかもしれない
です。

しかし、そんな不安を持つことよりも、「淡々と対処して準備する」ということのほうが、どれだけ大事なことかと気付いたのです。

そして、当たり前ですが、「準備には恐怖心なんてまったく必要ない」ということも言えます。やや不謹慎ですが、「まだ」本格的な地震が来ていない私たちのような人たちは、ある意味では「準備を楽しむ」くらいのほうが効率的な準備が出来るようにさえ思います。


私は今回の NHK の放送局の人たち、特にまったく動じていないようにさえ見える女性たちの姿を見て何だか涙が出て来て、

「人がどんどん宇宙と並んでいく」

という感覚に陥りました。

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2011年04月04日



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私の生まれ故郷である北海道は、ここ何年もの間、観光客の主流は中国や韓国からの人たちが圧倒していて、観光での経済ではそれがほとんどを占めているといっても過言ではありませんでした。


そして、2008年に大々的な北海道ロケを敢行した中国映画「狙った恋の落とし方」(原題:非誠勿擾)が中国で記録的なヒットを作り出し、中国における北海道ブームは「頂点」に達しました。

北海道のどの観光地でも、飛び交う言葉の多くは中国語(と韓国語)となりました。
昨年、札幌の大通り公園に行った時には日本語は聞かれませんでした。

そして、「中国資本による土地や不動産の大々的な購入」が続いていました。
水産資源等も含まれていたと思われます。


現状では、多分、あと数年もすれば、政治的な動向なく(戦争も侵略もなくという意味)、「北海道は経済的には中国の土地」となっていたと思います。これは多くの人が薄々と感じてはいましたが、しかし、その中国のお金がなければ、すでに北海道はほぼやっていけない状態でした。そうしなければ、生きていけないほど北海道経済は追い詰められていたはずです。

あとは「実質的な占領の日を待つだけ」という段階になっていました。


そして、今回。

放射能によりほとんどの外国人観光客と土地購入者が北海道から消えました。
中国の人も韓国の人も消えました。
そして、多分、何年も誰も来ません。

経済的に著しい問題を残す可能性と共に、侵略にも近い土地の買い占めも止まりました。

これについて、どう感じるかは人それぞれでしょうので、いいとか悪いとかはわかりません。


まあ、最近では「社内の言語を英語にする会社」などの例もあるようで、土地や文化が海外に侵略されることに対して、今の日本の人々はあまり抵抗もないのかもしれないですが(自分の国で自分の国の言語の使用を禁止するのは占領下の国以外ではあまり聞いたことがない)、私個人としては、そういうことにはあまり好感の持てるものではないです。

これは「日本だから」というのではなく、他の国でも、その国が他の国から「文化的な侵略を受けている」ことを見るのは好きではありません。



タイの姿と重なって映っていた北海道の未来

私はタイという国が大好きで、ある意味でマイペンライ(いい加減)な性質であるタイ固有のタイ人が大好きですが、しかし、現在のタイという国では、この「もともとのタイ固有のタイ人」は完全に他の国の経済支配により制圧されている状態にあります。

タイでは政治や経済や芸能界までも実質的に牛耳っているのは「中華系」であり、もともとのオリジナルの民族である色の黒いタイ人たちは、多くが肉体労働的な仕事に携わっていることがほとんどです。


タイでの政治騒動だの王室騒動だの様々な「主流のニュース」は、「それは全部、中国人の話」であることは事実で、タイの人口の多くを占める本来のタイ人は、それらの話題の蚊帳の外でした。自分たちの国なのに。

タイ人たちはそのことを知っていますが、もはやどうにもならくなっています。一昨年の暴動も、形の上ではタクシン派がどうのこうのと言っていましたが、あれはあきらかに「タイ人の覚醒」でした。

自分たちの本来のタイを中国人からを取り戻したい」と。


暴動は失敗に終わり、今もまた中華支配はそのままです。

もちろん、仮にタイから中華系の人たちがいなくなれば、実質的に、タイの政治や経済は終わります。考えられないほど貧乏な国へとなっていくでしょう。

それもタイ人はわかっているはずです。
しかし、暴動は起きた。
お金より誇りを選びたい」という書き込みを当時の YouTube のコメントで見ました。


タイは歴史の表面上では「侵略されなかった唯一のアジアの国」となっていますが、現実には経済的にも文化的にも侵略されて、現在のタイがあります。

私はこの現在のタイと同じ姿を、未来の北海道に見ていました。

住んでいるのも仕事をしているのもすべて日本人で、人々は日本語を使っているけれど、実質的に経済を牛耳っているのは中国という図式です。

これは時間の問題だったと思います。


というより、今回のことがなければ、日本は地方により分断された形で、様々な国によっての経済的、文化的な占領下にあったようにも思います。日本の大都市の不動産や大企業の実質的所有の状況というようなものを見ると、それは何となくわかる気もします。


それも今回のことですべてなくなりました。


外国人はほとんど日本から消えました。
そして、これもやはり何年も続くことだと思います。


日本はかつて鎖国ということをやっていたことのある珍しい国です。
それが今回、また事実上始まっている感じがします。

ただし、当時と違うのは、「出て行くのも自由」ということです。

当時は外国人が入ってくるのがダメだったことと同時に、日本人が外国に出て行くこともできませんでした。

でも、今は違います。

出て行きたい場合は、いつでも外国に出て行くことができます。いいも悪いもなく、現実に放射能は日本の多くの地域を覆っているわけで、この状況の中で、日本を出て行く人が責められるということはないでしょう。


なので、「人種は関係なく、日本に残りたい人たちだけが残る鎖国」というような形になっていくように思います。


考えられないような圧倒的な歴史の転換点が、こういう形で来たというのは何とも言えない部分はありますが、しかし、上に書いたように、いろいろな流れが止まった、あるいは変わったことは事実です。

これは「夜の吉祥寺」を歩いてみてもわかりました。



夜の街からも消えた外国人たち

東京の吉祥寺は一見、おしゃれなイメージがあり、それは事実なのですが、夜になると、吉祥寺のある一帯は中国人アンダーグラウンド経済の支配下にありました。


具体的には、吉祥寺駅の北口を出てすぐ右に歩き、交差点を渡り、高架横の歩道を突き当たりまで歩くと、そこに南北に伸びる道があります。この道沿いでは、深夜12時頃を過ぎると、大勢の中国人女性たちが道に立ち、また、あまり知られていないですが、いくつかのマンションが風俗営業のために「建物ごと」買い占められています。

この状態は10年くらい前から徐々に始まり、警察などから黙認されているのか、今では大っぴらに数多くの女性などが道に立ち、道行く男性たちに声をかけていました。この道の存在を知らない人には非常に奇異な光景に見えると思います。


先日、震災後に何回か深夜そのあたりを歩きましたら、その人々は「全部」消えていました


どれだけ警察が浄化という名目で乗り出しても、決して消えることがなかった中国人の人たちは、地震と放射能で消えました。この10年間くらいで、深夜でそのあたりで中国人女性の姿を見なかったのは、多分、初めてだと思います。


また、以前の記事で、「吉祥寺から消えた外国人」のことを書いたのですが、実際に最も消えたのはアジアからの観光客でした。

とてもたくさんの台湾や韓国、中国の人々が吉祥寺の観光に来てくれていました。彼らはみんなビデオやカメラを持っているのですぐにわかります。しかし、その姿を震災後はまったく見ません。先日、ハイパーインフレーションのことについて、記事でふれたことがありますが、仮にそんなことが起きれば、観光客だけではなく、住んでいる残った外国人もいなくなると思われます。


街中を歩き回っているだけで、本当に変わってしまった日本の姿を目にします。
三分間の地震によって百年分の歴史がひっくり返ったかのようです。



もちろん、住んでいる私たちにしても、不安要因はいくらでもあります。
たとえば、実際には放射能より、「連動した次の地震」というものへの懸念が今は強いのではないでしょうか。これは多くの地震学者がその懸念を持っているけれど、言えないのが現状だと思います。そして、これは「正確な予想はできない」という厳然たる事実があります。


私たち「残る人々」は、これから何が起きても(自然でも経済でも)いいように、ある程度の実際の準備と、そして、「心の準備」というようなものは必要かと思います。


地球の長い午後は終わる

ちょっと暗い話になってしまったので、歌でも(歌かよ)。

私が18歳くらいの時に、はじめて見た東京のバンドで、女性バンドのはしりだった ZELDA (ゼルダ)というバンドの曲とその歌詞です。その時、彼女たちは北海道にツアーに来ており、美唄という小さな町でのライブを見に行きました。

彼女たちの歌です。
もう30年前の歌になるんですね。

音楽サイトに載せた歌詞が一部に好評でしたので、歌詞も載せておきます。
エスケープの意味は、ここでは「新しい世界への扉」のことを歌っているように思います。


ZELDA - エスケイプ(1982年)



教会の鐘が今 旅立ちを告げるよ
長すぎた戦いに 荒れ果てたこの星

廃墟の街をさまよう
うつろな瞳の兵士
地球の長い午後は終わる

絶望の海を越え 誕生のドアを開け
幻の星に向け 心はもう彼方へ

廃墟の街をさまよう
うつろな心の天使
地球の長い午後は終わる

愛を探してさまよう
明日を探してさすらう
地球の長い午後はおわる

暗い宇宙突き抜けて 子どもたちの方舟
暗黒を切り裂いて すべてを解き放つ

愛を探してさまよう
明日を探してさすらう
地球の長い午後は終わる






  

2011年04月03日



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先日飲みにいった際、以前から知り合いのお店の女の子に、「最近やっと笑えるようになってきた。○○さん(私)と会うまで笑ったことなかった」と言われて、やや複雑に思いつつも、逆に「でもこれで彼女の人生も始まるかも」と思いました。

これを言った女性の年齢は、まだ 21歳です。

初めて会ったのが2年くらい前ですから、彼女は「20年間笑ったことがなかった」と言っていたことになります。20年間のあいだ、記憶の中から笑顔が消えていた人生


私はこの十数年、かなり夜の街で飲み続けていたことがあり、いろいろな夜のお仕事の女性や女の子と会ってきました。

すごいのは、それだけいろいろな女の子と知り合ってきたわりには、「変な関係(性的なという意味)になったことがない」ということがあり、それだけにまあ、相手からすれば安心感はあるオヤジなのだと思いますが、いろんな女の子たちの話をきいたり、相談みたいなのを受けたりすることがあり、その中でいろんな人生を知ることができました。

私が人生の中で知り得た「他人の人生」という意味では、これほど勉強になることはなかったと思います。


ちなみに、とても素朴な質問なんですが、夜働いている女の子(特に接待業)の多くが、どうして夜働かなければならないかわかりますか? 給料だけなら普通のOLさんなどよりはるかに低い場合もある夜のお仕事をしなければならない理由。それを考えてみたことはあるでしょうか?


ここに「冷たい日本の社会システムの正体」といったものがあります。



枠からこぼれ落ちた人間は救済されない日本の国家システム


「日本の進学率」なんていう言葉があり、それはたとえば、義務教育就学率は100%、高校への進学率も97.5%になどというニュースにもあらわれているように、非常に「無自覚」に数字が使用されます。


上のような数字は本当なのかもしれないですが、しかし、「現実とはそぐわない数字」だということもまた事実です。

たとえば、夜働いている女の子たちにとても多い学歴のひとつが「高校中退」なんです。

この「高校中退者」の潜在数は男性も含めて、ものすごいものがあるはずなのですが、それについては公共では語られない。そして、彼ら彼女たちがどういう学歴を背負わされるかというと、「中卒」、つまり中学校卒業なんです。


中卒という学歴が就職という条件について、どれだけ不利なものかおわかりでしょうか。「私は好きな仕事に就きたいの」などという絵空事が通じる世界ではないんです。「高校中退」という、あまりにも多い現実が、ちゃんと表社会で語られてこなかったために、多くの人々が「社会で何もできない状態」に置かれることになっています。


高校中退にもいろいろな理由はあるにも関わらず、これを救済するシステムは基本的にありません。「大検」という非現実的な受験制度はありましたが(今は廃止されたらしい)、この「大検」も、それ自体は卒業資格でもなんでもなく、「大学を受ける権利を得た」というだけになる何の意味もない「冷たい制度」です。

そして、この「高校中退者」がどれだけ多いことかは、陽の当たらない多くの社会を知ると、いくらでも知ることが出来ます。


日本という国家・・・・・少なくとも多くの人々が完璧な社会システムや高学歴を持つ国だと考えているこの国には、


「ザルからこぼれ落ちたものを助けるシステムはない」


という冷たい現実があります。


しかし、この冷たい現実はあくまで「日本国家が冷たい」ということで、日本人も日本人システムも冷たいわけではないことも私は知っています。

夜の街だけではないですが、多くの「救済」はいわゆる立派な人々が誇りを持って歩いている世界ではなく、「その裏側にある世界」でおこなわれていて、そこにはダメな部分も非常に多いけれど、基本的には「日本国家が標榜している実態」よりは、はるかに暖かくて居心地のいい世界があります。そして、この「裏側にある世界」は、そこにいない人からは見えません


私は、他にも様々なアンダーグラウンドな生き方をしている人々を見てきましたが、立派な人々が眉をひそめるような仕事や生き方をしている人は、「国家に見捨てられた代わりにお互いに救済」していました。

戦後に始まった日本の制度は、「ザルからこぼれ落ちた人たちは日本人ではありません」という国家体制となりましたが、ザルからこぼれ落ちるたくさんの人々たちは、すでに国家から離れて、日本国の日本人ではなく、所属のない「単なる日本人」として生活していたように思います。

もちろん、そんなことを意識していたわけではなく、自然とそうなっていったということでしょうし、そして、私も今やっと、そのことに気付いたのです。



笑った年齢

話が飛びましたが、冒頭に出てきた21歳の女性は、2年前から知り合いだったとはいっても、せいぜい何ヶ月かに一度飲みに行く程度でしたが、たまに相談を受けたりといったことはあり、彼女のその(あまりにも)複雑な人生は知っていましたが、しかし、「笑えるようになった人生をスタートできたのなら、もう大丈夫だ」と私は思いました。


私はそのことを知っています。
実は、私自身が生まれた時から長い間、「まったく笑わない子ども」だったからです。

これは最初は写真で気付きました。

ずいぶん前ですが、帰省した時に、昔のアルバムがあって、それを見ていると、私の赤ちゃんの時の写真がたくさんあったのですが「笑っている写真が一枚もない」のです。

普通、親は赤ちゃんの笑った顔を写したいもので、それを狙ってシャッターを押し続けたのでしょうが、多分、ついに笑わなかったのでしょう。そして、生まれた時から赤ちゃん、1歳、2歳、3歳と進んでも、アルバムの中には私の笑顔の写真がひとつもありませんでした。

そして、4歳、5歳となると、その頃からは記憶もあります。写真でもその頃はまだ笑っていないですが、その頃は毎日、


「なんでぼくは生まれたんだろう」


とずっと考えていました。

5歳くらいの時にはそのことばかり考えていたように思います。

小児喘息で幼稚園にはほとんと行けず、「最初の集団生活である幼稚園」で集団生活を学習するキッカケを失っていたので、基本的にその後も、今でも、「集団行動ができない」という面はありますが、いずれにしても、長男で、当時は両親共に働いていたので、ほとんどひとりで過ごしていたましが、それだけに、考える時間はたくさんありました。

元気な時には、ひとりで外をずっと散歩していて(このあたりは今と同じですが)、近所の子どもが幼稚園や小学校から帰ってくる時間になると、テレビのある子の家に行って、みんなで見ていました。

まあ、喘息は別にして、日々そんなに不満はなかった気はするのですが、それでも、「なんで生まれたのだろう」というようなことと、「なにが楽しいんだろう」ということはわからないままで過ごしたように思います。


私が心の底から笑って生きるようになったのは、いつというハッキリとした年齢はわからないですが、結構大人になってからのことです。

この「生まれた時から笑わない性質」は、実はうちの子どもにも受け継がれていました。赤ちゃんの時から笑わず、以前書いたように発語も大変に遅く(ほぼ3歳まで発語がありませんでした)、ご存じの方はご存じかと思うのですが、これは一種のいろいろな意味での心配もあることでしたが、そのことについてはふれません。

そして、ある児童心理の専門家の医者がおっしゃっていた言葉が多分、うちの子にも、そして私の時にも当てはまっていたように思いますが、それは、

「まだ世の中に生まれたことを受け入れていない」

という言葉でした。

まあしかし、うちの子は3歳くらいには笑顔を獲得し、言葉は最初の発語から、わりとあっという間にほぼ正常の年齢の言語レベルに至りました。まあ、声を出す前からすべてジェスチャーで表現していたので、「言葉を出す出さない」は彼にとって、それほど大きな問題ではなかったのかもしれません。そして、非常によく笑う元気な子となりました。それがいちばん嬉しいことです。

たった3年間でこの世に生まれたことを受け入れた彼は大したものだと思います。私はものすごく時間がかかりましたから。一度笑ってからはずっと笑って生きていますが。




太陽活動と共に人生の大きな変化を経験していた

そういえば、この「自分が変わった年齢の節目」が、面白いように「太陽活動」とリンクしていることに以前気付きました。

太陽活動というのは、11年周期くらいで変動するものですが、その11年前後をひとつのサイクルとして、太陽黒点観測が始まった時から番号づけられていて、今は観測が始まってから 24回目の太陽活動(サイクル24)の渦中にあります。

そして、「太陽活動と社会的な人の心理状態が連動している」ことは 1920年代にロシアの科学者によって、はじめて突き止められており、その後も地球の人間の活動はほとんどそれに沿った動きを見せています。

これは、そのロシアの科学者がまとめたグラフです。

sun-human.gif


黒点活動の観測が始まった1749年から1922年までのグラフで、上の細い線と下の太い線との相関関係を示すグラフです。

何の相関関係のグラフかというと、

・下の太い線のほうが太陽の黒点数

・上の細い線のほうは世界で起きた軍事と政治暴動の数


となっています。

その連動は一目瞭然で、その後もほとんど同じです。

こちらに英語ですが、オリジナルの論文があります。


近代史の中の大きな出来事はそのほとんどが「太陽活動のピークの渦中」(2年から3年の間)に起きています。フランス革命もアヘン戦争も南北戦争も日清戦争も第二次世界大戦もソ連崩壊もアメリカ同時多発テロも、すべて太陽活動のピークに起きています。


今現在は 24回目の太陽活動(サイクル24)のピークの渦中にいます。
なので、社会的に大きな変動が起きることはほぼ間違いないと思うのですが(自然災害などとは関係なく、人の心理が動き出す)、それよりも私としては、世の中がどうなるかということ以上に、「私がどうなるか」に興味があります。

今まで太陽活動のピーク時には心理的なものを含めて大きな変化を経験しているからです。

この「黒点」と「太陽活動」というものを知ったのは2年くらい前なんですが、その時、その太陽活動ピークの時と「自分にものすごい変化が起きた時」と、すべて一致していることに気付いたのでした。


例えば、今回の震災で何かご自分の中で「変わった」と感じられている方は多いように思います。
むしろ、あれだけのことを経験して、何も変わらないのなら変にも思います。


これと同じくらいの衝撃的な変化が、過去の太陽活動のピーク時に、自分の人生で起きています。

私が生まれた 1963年以降の太陽活動は、まあ大体ですが、

第20太陽活動周期(1967年前後がピーク)
第21太陽活動周期(1978年前後がピーク)
第22太陽活動周期(1988年前後がピーク)
第23太陽活動周期(1999年前後がピーク)
第24太陽活動周期(2012年前後がピーク) 


となっていて、それぞれの時に「人生が一変するほど」の環境的、精神的、価値観的な変化を体験しています。

そして、今回の震災も同じように私に変化とショックを与えているとすると、これは人生で「5回目の変化」ということになり、自分にとっての「第5世界」が始まったのかもしれないなあと思います。


そして、これは、もしかすると、私が政治や経済のことなどには何の興味もなく、また、他の国の政治などにも何の興味もなかった 1990年代まで戻れるのかもしれないという可能性を感じます。

私は二十代の頃、年代にして、1980年代の終わりから1990年代の終わりくらいまでの間、テレビも見ない、新聞も読まない、雑誌も買わないという生活が普通でした。仕事はしていましたが、雑誌などのリライトやデザインがなどをやっていて、それは家でできるものでしたし、内容もご時世とはまったく関係のない浮き世じみたものでした。

インターネットは登場していませんでした。
その時の首相さえ知らない日々が自分にとっては普通でした。


結局、私も1番上に書いた例でいえば、「日本国家のシステムのザルから落ちてしまった人」だったために、その国家システムからは相手にされないことを知っていたので、「こちらも知らないでおこう」と。それは憎しみや否定とは全然違う「相互不干渉」ということで、なので、今でも政治や日本のシステムを冷たいとは思いますが、文句も恨みもまるでありません。多分、ブログにもそういうこと(日本の政治への文句など)を書いたことはないと思います。

「個人と国家はお互いに干渉しない領域だ」と本気で思っていました。


今は当時よりさらに強く思います。
早く「現在の政党も首相も知らないような生活」に戻りたいし、自分の国籍も忘れてしまいたいです。

国籍は関係なく、私は「ごはん粒を残さず食べる日本人」というだけで、まあ嬉しいのです。日本国が好きなのではなく、日本人であることが好きなのです。


もちろん、一般的にはこのような考えはされない方がいいと思います。
国家と決別して生きることは気楽ではあるけれど、大変な面もありますから。


ただ最近思うのは、以前からウェブボットに出ていた「飛び地の文明(中央集権的な政治と離れた生活システム)」という概念がありますが、これは案外、日本から始まるような気もしないでもないです。

現在の被災地の救済や、それを取り囲む状態の中にはすでに「日本国家」という概念は見えないように感じます。

そこには懸命に頑張ってらっしゃる多くの「個人」の方々の姿だけが印象に残ります。

前に書いたいわゆる「今回の神話」では、「世の中は人と人である」いう、実に単純な構造が社会のすべての始まりであることを示しているような気がします。



今しばらくのことについて

震災前まで、翻訳で記事を紹介させてもらったり、宇宙関係などの記事などいろいろと書くことができて、また同時に私もたくさんの知識を得ることができました。
いろいろな情報などを下さった方々にも本当に感謝しています。

そして、長い目で見ればわからないですが、今しばらくは、それまでのような記事のご紹介や翻訳はしないというか、できないようにも思います。

そもそも、最近また「英語がわからなく」なりました。
昨年突然のようにわかり始めた英語力も、また突然元に戻ったようです。
昨年たくさん単語を覚えたので、単語の羅列では読めそうですが、それ以上のことはもはやできそうにありません。


そんなわけで、今でもすでにそうですが、このブログは今後「情報サイトとしてはあまり役に立たないもの」になっていくと思います。

今でも、他の様々なサイトやブログでは多くの役立つ情報や見識があると思いますので、そのような良サイトや良ブログをご参照いただければと思います。
タグ:太陽黒点



  

2011年04月02日



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復興という概念につきものの懸念

ニュースで「復興」とか「財源」とかいうような文字を目にする度に、今回のすさまじい規模の破壊にあてるそれらの調達の方法の様々を考えると、どうしても「ハイパーインフレーション」(急速に物価が上昇していくこと)というような言葉が頭をよぎります。

確かに今後、いろいろな避けがたい困った状況というものは様々な分野で生まれやすい可能性というのはあるようで、それは仕方ないようにも思います。

そして、その「実際」を予測して対処するのは難しいようにも思います。なので、仮にハイパーインフレというようなものが発生した場合、どのような過程を経るのかを予測することはできないでしょうが、以前、 ハイパーインフレーションの2つの資料という記事を書いた時に、 2007年から始まったジンバブエでのハイパーインフレーションの様子が、マゾエというジュースの価格で示されています。

これは国家の発表ではなく、店頭での表示価格ですので、もっとも実際に近い価格を示しています。

その物価上昇をわかりやすく大体の日本円にして、半年ぐらいごとの値段の価格として掲載してみますと、こうなりました。


2006年 10月 130円
2007年 03月 2万円
2007年 10月 90万円
2008年 02月 1,900万円
2008年 04月 2億1,000万円
2008年 05月 4億2,000万円



1本100円くらいの値段だったジュース。それが1年半で店頭表示価格が 4億円を突破したというような感じかと思います。冗談みたいですが、これは現実ですし、最悪の形のハイパーインフレーションのひとつの形です。


mazoe-2.jpg

▲ そのマゾエというアフリカのジュース。ジンバブエでは最終的に価格は 400万倍に上昇。


しかも、これでハイパーインフレが止まったというわけではなく、この 2008年5月以降は、「ジンバブエドルでの販売は停止」され、米ドルだけでの販売となったので、事実上、「自国の通貨では買えなくなった」という感じでしょうか。

1946年にハンガリーで発生したハイパーインフレはこのジンバブエの時よりさらに悪いもので、物価上昇率が最高で 1京3,600兆パーセントに達したそうです。これは上のジンバブエのジュースの例でいうと、 130円のジュースが 9000兆円持っていっても買えないものになったということかもしれません。


それでも、その時に、それぞれの国で人々は生きていたわけで、今後、日本の紙幣価値というようなものが「仮に」なくなったとしても、あるいは、あらゆる金融資産的な価値が大きく変わったとしても、現実の準備というより、「心の準備」というのか、今、震災の後、やっと時間は動き出し始めた感じはするものの、現実的にこれから対峙する問題はものすごく大きいはずで、その激動の中で「精神的に正気を保ち続ける」ということは大事に思います。


ちなみに、福島にいる奥さんのお姉さんも、千葉にいる私の妹の家族の家も、どちらも比較的最近になってから買ったばかりの家で、そのあたりでも途方に暮れている面はあるようです。

そういういろんなことはあると思います。


そういうこと(先がまったくわからないこと)もあり、いろいろと急いで書いているというような部分はあるかもしれません。突然書けなくなる可能性はいつでもあります。


ここで書いていることは先に考えて書いているというわけではないし、毎日適当に思い浮かんでいるだけという部分もあるし、思いついた時には書きたいとは思いますが、いつまでこうやっていられるかどうか・・・。

正直よくわかんないですね。


まあ、それでもやっと自分の中の時間が少し動き始めて、また飲みに行ったりもすることもたまにできるようになっています。

先日、初めて入った飲み屋さんがあったのですが、そこのメニューに「ナマコ酢」があり、最近ではこれを置いてある店は少ないので、思わず注文したところ、うまいうまい。

久しぶりに食べたナマコはよく噛むと、ホヤを彷彿とさせる部分もあります。「同じ仲間なのかもしれないなあ」と、しみじみ思いました。今回、被害に遭われた宮城の三陸はホヤの主産地だったと記憶しています。
ホヤも日本人の食べものとしては語るところはたくさんあるものだと思っています。

ここから最近のテーマにうつります。




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2011年04月01日



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三週間

何日とか何週間とかいう感覚がようやく日常的に感じられるようになり、しかし、逆にそう考えると、今日が震災から3週間目というのは早いのか遅いのかがまるでわからなく、あの日は何だか遠い昔のような気もするし、あるいは現実のような気さえしなくなってくるような、いろいろとわからなくなってくる感じもします。

震災後の「時間が止まっていたあいだの時間の流れ」が、少なくとも私自身の中では人生では経験したことのない「異常な時の流れ」だったのだと感じます。


今日も用事も兼ねて、街を歩いていたのですが、1週間くらい前まではたくさんいたマスクをかけて歩く人の姿はめっきりと減って、若い人の多い吉祥寺ではさらに極端に少なくなります。今の時期はそもそも放射能より「花粉症」が問題の季節で、そういう意味では、例年よりもマスクの人が少ない気さえします。


しかし、放射能という問題ではなく、たとえば、ウイルスや様々な有害物質を本当に遮断しようとした場合、あの耳にかけるタイプのマスクでどれほど効果があるのかは疑問にも思わないでもないです。2年くらい前だったか、鳥インフルエンザのパンデミックを恐れて、CDC (アメリカ疾病予防管理センター)が推奨しているタイプのマスクを購入したことがあります。
これはその現物ではないですが、形としては大体こんな感じのものです。

mask.jpg

ひもは耳にかけるのではなく、頭から通して、首と頭で固定して、鼻のところに金具がついているのも特徴で、ここで鼻の形に合わせて密閉します。こういうタイプの遮断率は 95%〜 99.99%くらいまであるようですが、さらにマスクと皮膚の間をクリームなどですき間を埋めると密閉できます。


でまあ、こういう遮断率の高いタイプで完全に口と鼻を密閉すると、どうなるかというと、ただただ「苦しい」んですよ(苦笑)。部屋でじっとしているならともかく、街を歩いたり、あるいは何かするというのは大変で、結局今では、これらのマスクは薬箱の奥に眠っています。

まあ、結局は苦しいくらいでないと、大気中の有毒物質への対処のものとしては使い物にならないのかもしれません。


「息が苦しい」ということで、2つのことを思い出しました。

ひとつは、私は生まれてすぐに小児喘息になって、小学生になるまで続いたのですが、ぜんそくというのは、つまり「発作の時に息ができなくなる」と考えてもいいもので、それだけに「息が出来ない」というニュアンスは何だか切ないものがあります。

あともうひとつは、何年か前に、「息が止まった経験」をしていて、そのことを考えていましたら、「自分は、あるいは人間はどうして生きているのか」ということに対して、非常に素朴な結論・・・というか、考えに至りました
本当に素朴なものですが。



自分の行動を認識しながら死ぬ時に

あれは子どもが1歳になったばかりの頃だったと思いますので、5年くらい前だと思いますが、どういうものかというのはともかく、「突然の大量の出血」で、深夜に救急車で搬送されたことがあります。


救急車でただちに、新宿にある国際医療センターという緊急医療病院に搬送され、輸血、人工呼吸器の装着と共に、深夜から手術が開始されました。この国際医療センターは総理大臣だった橋本龍太郎さんが亡くなった病院だと思います。

意識は半分以上亡くなっていましたが、意識のある時には頭の中では通常とそれほど変わらない考え方をしていたと記憶しています。


どんどん意識は失われていくのですが、その過程で、「呼吸が止まる瞬間」というのを何度か経験しました。人工呼吸器をつけているので、実際には酸素の摂取は行われているのですが、「自力では息ができなくなる瞬間」があるのです。

息を吐いても吸うことができない、あるいはその逆かどちらかの状態になり、朦朧とはしつつも、「ああ、これが息が止まるって状態なんだ。へええ」と、初めて望む臨死体験みたいなものに、いろいろと考えながらいたのですが、少し意識が戻っては、また意識が飛ぶ。


その繰り返しの中で、たまに「あ、次に意識失った時に死ぬな、これは」と予測しているんですよ。


そして、「へえ、死ぬ時ってこんな感じなのかあ」と、やっぱり考えている。

巷で言われているような臨死体験の光景は見なかったですが、意識を失うと、毎回、緑色の草原をトロッコに乗って走っていました。意識が戻った瞬間、「また次の死に臨む」という繰り返しでした。結局、死ななかったんですが、生きるか死ぬかは五分五分くらいの確率だったようです。


手術は数時間くらいに及び、それから2日間の輸血と、1週間の入院をしました。

ちなみに、私は実は本格的な入院というのはそれが初めてのことでした。

国際医療センターには大きな入院病棟があり、おびただしい入院患者が入院しています。
当たり前なのですが、病気の人ばかりがいます。
「病と死」に覆われている場所。

少しその話を書きます。



死に囲まれて

手術の日の最初の一日くらいは緊急治療室みたいなところでひとりだったのですが、単なる大量出血ですので、「その時、死ななかったのなら、あとはもう大丈夫」ということで、すぐ6人部屋に移りました。少し日が経った頃から周囲の入院患者さんとも少し話をするようになりましたが、話すまではその人たちが何の病気かはわからないんですね。


隣のベッドの人は60代くらいに見える立派な感じの男性で、入れ替わり立ち替わり、部下らしい人が来ていたので、ある程度の何かの立場を持っている人のようでした。

その人は末期の膵臓ガンでした。
どのくらいの病状なのかはわからなかったんですが、

「あと1カ月くらいみたいでね」
「え?」
「もって1カ月くらいらしい」
「・・・・・」


その後どうなったかわからないですが、1カ月後くらいには亡くなっていたかもしれないというその人は、特にりきむでも絶望するふうでもなく、見舞いに来た客と淡々と話し、相撲などを見て過ごしていました。


私の向かいのベッドにいた人は、五十代くらいのとても話し好きで、爽やかな感じのする男性でした。ある朝、その人が服を着替えていました。

私 「退院されるんですか」
男性「ええ。・・・まあ、この繰り返しなんですよ」
私 「というと?」
男性「クローン病ってご存じですか?」
私 「クローン病・・・聞いたことはあるような気がしますが」
男性「そういう病気があるんですよ。若い時からなんです。だから、この十何年は入院と退院の繰り返しで」


その男性のベッドの横には段ボール箱が5、6個積まれていました。

私 「それはお持ち帰りになる私物ですか?」
男性「ああ、この箱ですか。これ全部、薬なんですよ」
私 「え?」
男性「もう普通の食事はほとんどできないんです。薬を食べて生きているようなもんで。困ったものです。ハハハ」
私 「・・・・・」


退院後にインターネットで調べて、クローン病というのが原因も治療法もない難病だということを知りました。彼は笑っていましたが、その生活の壮絶さを想像すると何とも考えるものがありました。ちなみに、その人には奥さんも子どもいて、仕事も自分で何か持っているそうです。

部屋の入り口に近いベッドで横になっている老人は、私が入院していた1週間の間、ついに一度も起き上がりませんでした。目を開けている姿も見たことがありません。寝ているというだけの状態。その老人のベッドの横にはいろいろな機械やら装置やらがついていて、デジタルの数字が常に何かの数値を表示し続けていました。

「何かの装置で生命を維持しているように見える人たち」は、他にもたくさんいるようで、「停電とかあったら、あれだよなあ・・・」と思いましたが、今回の地震の時にもこの時のことが思い浮かびました。


私なんぞは「搬送時にだけ死ぬか生きるか」だったですけど、助かった後は放っておけばそれでいいようなものでしたが、多くの入院患者は違いました。「その後が」死ぬか生きるかという人たちをたくさん見ました。


ところで、入院時に、看護婦さんともずいぶん話をしました。担当の女医さんともよく話たんですけど、救急医療をやっている病院のスタッフたちの毎日は本当に地獄のようです。特に看護婦さんたちは、給料的なことから考えると、あまりにも苛酷な勤務態勢で、医療システムというのも・・・なんだか根本的に何かこうおかしい。「こんなシステムがいつまでも続くわけないじゃん」と思いました。

ぼくとデートもできやしないですね、そんな出勤シフトじゃ」と、ひとりの看護婦さんに言ったら妙にウケたようで、深夜の病室でその看護婦さんはずっと笑っていました。まあ、それはまだ私が緊急治療室にいる時で、緊急治療室でくだらない冗談を看護婦さんに言う人はあんまりいないのかもしれません。私は意識が朦朧とした中でも冗談を結構言ってました(笑)。


横道に逸れた上に長くなりましたが、この「息が止まって死にそうになる瞬間」の体験と、「死に囲まれた日常」ということは、自分にとっては記憶に残るものとなっています。



経験の蓄積の中で

その後、普通の生活に戻ったわけですが、わりと頻繁に「あの時、どうして死ななかったのだろう」と考えることはありました。

まあ、自分の生死に意味を見出したいというのは誰にでもあることで、私も他の人の生や死なら大した考えなかったでしょうが、「生死が五分五分の確率」の中で、どうして死ななかったのかなあと。

その時ですでに 40歳を越えているわけで、人生的に考えれば、劇団のようなものを含めて、その時点ではもう「自分の人生でやることは終わっていた」と自分では考えていたわけで、そういう流れだと、死んでいて不思議ではなかったわけですが、そうではなかったことをよく疑問に思っていました。

子どもが生まれてはいたので、それに関しては生き残ったことは良かったかもしれないですが、それとはまた別の自分の人生の問題としてはどうなのだろうかと。


そして、最近(というか今日ですが)、ふと気付いたんですが、それは「その時の生と死自体に意味などなかったんだ」ということでした。「どうして死ななかったんだろう」という質問は存在せずに、あるのは単に、「死ななかった」という現実だけで、あの時に死ななかった場合と死んでいた場合の違いというのは、「その後の人生の経験があったかなかった」というだけだと。


私は最近、DNA が人類に科していることのひとつとしてあることが、「経験を蓄積していく」ことだと考えています。


「考えています」などと書くと、ずっとそういう考えを持っていたようですが、今日、吉祥寺を散歩していて気付いたんですよ(笑)

駅前の道で、(最近は頻繁にあることですが)ものすごい美しい女の子とすれ違った時に、


「今の人とすれ違うことはもうないかもしれないし、さっきの瞬間にさっきの人とすれ違ったという体験はさっき世界でオレひとりが体験しているわけなのだなあ」


と考えていると、つまり、今の体験そのものが「宇宙で(その瞬間としては)自分だけが持つ体験だった」ことに気付くわけです。

そうなると、「日常」というものは、世界中の人たちがこの「宇宙で唯一の体験」を繰り返しているわけで、そして、それは少なくとも、人たちの「意識」の中には残っていく。


さて、その「意識」というものはどこにあるのか


そういう様々なことの役割を持っているのは、一般的には「脳」だとされていますが、しかし、脳は「機能を持つ器官のひとつに過ぎない」と私は思っています。

人間のあるゆる臓器や器官は、様々な人種間であっても見分けがあまりつかないほど似通っている。なので、「脳」というものも基本的には、その機能にはそれほど差はないと思うのです。もちろん、「足が速い」とか「たくさん食べられる」というように、脳の働きに個性や特性はあるわけですが、少なくとも脳は個人の意識の格納場所ではない。

そのもっとも大きな理由は、「脳は人が死んだら腐敗してこの世から消滅してしまう」からです。

死んだら消滅する場所が人間の「意識」や「個性」の格納場所だとすると、あらゆる神秘やオカルトは否定されてしまう。たとえば、前世や無意識といったものまでもが否定されてしまいます。


しかし、人間には未来永劫に消滅も腐敗もしない機能がひとつだけあります。
それは DNA です。

多分、人間のほとんどの意識と個性と記憶と体験と感情はそこに収められて、そして、人の死後にそれは地球や宇宙に拡散していくと思います。それが、「宇宙の歴史を作る」という現象そのものであり、そこから考えると、人間の日々の生活は、それそのものが「宇宙の歴史を作ることに荷担している」ということになるようにも思います。



このことは以前から「そうじゃないかなあ」とは曖昧には思っていましたけど、今日確信したのです。それも、上の吉祥寺の美しい女性を見ることができたおかげでした。その美しい人は脚も綺麗で(いろいろ見てんのかよ)、それを目にして、「こういう記憶が永遠に残らないのはおかしい」と、つくづく思いまして、そして、この強い記憶が格納される場所は、「人間の生と共に消滅していく脳ではない」と私は強く思いました。


「あの美しい人の光景は DNA の中に永遠に刻まれて、そして、それは宇宙に永遠に残るのだ。うっひゃっひゃっ」


と考え、そして、それからクックックッと笑って歩いていました(あーあー・・・もうもう)。



DNA の残された領域は「個性として起動」する

ところで、この DNA には現在の医学や科学などでの、「ジャンク DNA 」というような概念があり、つまり、「DNA の大半(97%と言われている)はガラクタで、機能していない」と。

私は以前、記事で、「人類は宇宙の歴史の中でもっとも優れた生命として存在しているはずだ」というようなことを書いたのですが、その「優れた生命」が持つ DNA がほとんどゴミだ・・・ということはないと思っているばかりか、「人類の持つ機能や器官や構成物質に無駄なものはまったくない」と思っています。

これは、人類の機能が本来は「完璧なもの」という意味でもあります。


脳もほとんど使われていないとか、脾臓も盲腸も松果体も退化した器官だとか、あるいは今の宇宙理論では、宇宙の構成要素も97%近くわかっていない(暗黒物質)とされて、いろいろと分かっていないのが現状です。DNA の場合は 97%の機能について「機能がわからないからガラクタだろう」ということで、現在の学問は進んできたようです。


しかし、幸いなことに、何度かふれていますが、私たちは今、既成の学問の崩壊の入り口にいます。新しい学問が生まれるのかどうかはわからないですが、新しい学問が生まれなくても、古い学問システムの崩壊の中では、少なくとも自由に考えられる領域は増える。 DNA が 100%機能していたとしても、そのすべての機能を知ることなどできないでしょうし、知る必要もあるかどうかわかりませんが、「想像はできる」。


すべての人のすべての考えが真実でいいという時代なら、 DNA の機能も、「それは統一した機能ではないかもしれない」ということはあるわけで、あるいは、この 97%のわからない領域が「人の個性」と結びついている可能性だってあるかもしれません。

ひとりひとり機能が違うから、その個々の役割は永遠にわからないという可能性。あるいは、「そもそも DNA は統一した機能を持たない」という可能性。

または、これからその 97%の領域が起動する時代に入る(個性の時代)というようなことだってあるのかもしれない。


そんなわけで、少なくとも「私にとっての5年前の生と死の意味」。
それは生と死に意味があるのではなく、生きたことにより、体験は続き、それは日々、DNA に蓄積されている。


次に今度は本当に死ぬ時に、 DNA は次のいつかの時代へと伝承され、そして、記憶が次に繋がれていくと。
この「伝承方法」については、これまでの科学での発見で説明できるものですが、これら DNA のことはまた書いてみたいと思います。
まったく宇宙は現実的な存在だと思います。


さて、また、きれいな女性を見ましたら報告したいと思います(メインはそっちかよ)。