【人類の覚醒と真実】 の記事一覧

2015年06月15日



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自己「切断プログラム」発動のために:松果体ではなく「目」で見えないものを見ること



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素足の田植えの日

昨日( 6月14日)は、神奈川県の藤野のわりと山奥の田んぼの田植え会に参加させていただきました。渓谷近くのキャンプ場横ということで、子どもたちもそうですが、私たち大人も同心になった気分で遊んでいました。

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あ、違う。
童心に帰った気分で無邪気に過ごしていました。

農業を初めて2年目という真鍋さんは、性格ルックスともども、とても穏やかな感じの方で、田植え会のほうも穏やかに進みました。 In Deep を読んで下さっているという方もいらっしゃいまして、ほんの少しの時間でしたが、お話などもさせていだきました。

そういえば、私は写真とかの記録をあまり残さない人で、場所がとてもいいところでしたので、写真の1枚でも載せたいと思っていたのにすみません。

一緒に行った友人はスマホを持っているので、あとで聞きますと、

「息子が田んぼの前でお尻その他下半身を出している写真ならありますが」

とのことで、ちょっと載せられないようです。

それにしても、田植えは裸足でおこなったのですが、素足で泥の中に足を入れるのが、あんなに気持ちいいとは思いませんでした。うちの子どもも「気持ちいい」と、結構熱心に田植えをしていました。

当たり前といえば当たり前かもしれないですが、自然と直にふれるのは、やはりいいですね。

今は日本はかなりの地方でも、畑など直接土のある場所へ出ていかないと、道路はほとんどアスファルトで舗装されていて、建物もコンクリートだったりすることが多いですから、

「コンクリートの上を延々と移動して生活している」

という生活が日本人の基本の生活となりつつあります。

これはこれで便利な生活ですが、ここにワンクッション「土の上に立つ」とか「木や植物」とふれるなどが加わるだけでも、おそらくは、日本人の体と精神状態は今よりだいぶん良くなるように思います。

いずれにしても、昨日お会いできた皆様はありがとうございました。

ところで、先日の記事、

プレアデスの人たちへの宣戦布告
 2015年06月14日

という物騒なタイトルの記事では、『美しき緑の星』の冒頭シーンの「」の意味にふれてみたりしました。

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これに関して、「見ること」の意味について少しふれてみたいと思いました。




「見ることの意味」と「見る方法」

この話の前提としては、それこそ、自称プレアデスの人たちには、「私たちの見ているものの多くが事実でもなく、幻影かホログラフのように捏造されたもの」というような主張が存在するので、「私たちが日々、目でみているものの意味」を考えたくなるという部分があります。


『プレアデス+かく語りき』より

彼らはホログラフィの挿絵を作り、それは真に迫ったドラマそのものですが、それをポータルを通してあなた方の現実のなかに挿入するのです。

これをやっている宇宙存在は何十万年も生きている存在であり、人類の周波数はコントロールされているために、人間を騙すことは彼らにとってはまったく簡単なことです。

ホログラフィーの挿絵は、三次元の世界とまったく同じように見えます。それは作られた出来事であり、それをあなた方の現実に、現実のつづきであるかのように挿入します。それは見ている者の頭脳に影響をおよぼす目的で使われ、見分けるのはとても困難です。



というような主張です。

上の抜粋は、

『美しき緑の星』の宇宙人たちは私たちの「何から何を」切断しているのか?
 2015年06月08日

に載せたものです。

さて、それはたとえば、具体的にはどのようなものによるのか、というのは、それはもう様々なものらしいですが、上と同じプレアデス本から抜粋いたします。

このように「宣戦布告」しながらも、その主張を大いに利用させていただくという主体性のなさが、私たちの特徴でもあります。




『プレアデス+かく語りき』第8章 究極の暴虐のおよばないところ より

あなた方の感情的な肉体を主食としている存在がいるということは前にもいいました。彼らにとってテレビがいかに巧妙な道具となっているか分かるでしょうか。

世界中で、何十億人という人間が、テレビで何かを見ては感情のジュースを大気圏に吐き出しています。あなた方を怒らせるために、戦争を作り出す必要はもうありません。映画を作ればよいのですから話は簡単です。

テレビを見る必要のある人たちは、彼ら自身の頭脳のなかにある豊かな情報源、そして、また、彼らのまわりにあって、いつでも入手できる情報源を活用していません。

まったくの話、もしあなた方が進化したいと願うのならば、新聞を読まないでください。ラジオを聞かないでください。テレビを見ないでください。

ある一定の期間、マスコミを完全にシャットアウトして、混乱、焦慮、ストレス、多忙、無用なさまざまな誘惑の周波数から自分を解放すれば、明確になり始めるでしょう。

そうすれば、あなた方自身の内部で進行していることに耳を傾けるとができ、この世界のなかで迷子になることなく、この世界をフルに生きることができるようになるでしょう。

あなた方は明確になるでしょう。






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▲ 映画『美しき緑の星』より、未来の地球の「復興前の混乱期」と呼ばれる描写。人々による電気製品や薬などのボイコット運動が始まるとされる時代。


また、こちらは出典はうまく書くことができないのですが、「ある存在」とでも言うのか、そういう人も、やはり、神を見る幻想や、神経症や精神病などが「作られている」ことを述べていましたが、これについては今回はふれません。




見えているものの中にある「見えないものと意志との関係」

さて、前回の記事でふれた「見る」ということについては、自称プレアデスの人たちも、映画『美しき緑の星』の人たちも、あまり語ってはくれません。

ところで、シュタイナーは、『いかにして高次の世界を認識するか』の中で、何度も「見ることの重要性」を述べています。

しかし、彼の言う「見る」ということについては、多くが、

見えないものを見る努力

という、やや難解な事柄について書かれます。

たとえば、「秘儀参入の初段階」というセクションには、

「植物の小さな種を目の前に置いて下さい」

というフレーズから始まる「秘儀参入の前段階の訓練」(本訓練ではない)として、植物の種をどのような心境で観察するか、ということについて、次のように述べています。

シュタイナーにかかると、たかが種を見る行為もおおごとであることがわかります。

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・アサガオの種。丸々太るアサガオの種子 より


シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』より

「植物の種の中には、将来、種から成長してくるものが、すでに隠された形で(植物全体の『力』として)存在している。人工的に本物そっくりに作られた種のなかには、この力は存在していない。しかし『私の目には』本物の種も、人工の種も、同じように見える。つまり本物の種には、それをまねて作られた人工の種のなかには存在していない何かが、『目に見えない形で』含まれているのである」

では、このような目に見えないものに感情と思考を向けてみて下さい、そして次のように考えて下さい。

「このような目に見えないものは、将来目に見える植物に変化する。そのとき私は目の前に、その形と色を見ることになるだろう」

そして、次のような思考の中に没頭して下さい。

「『目に見えないものが目に見えるものになる』。もし私が『思考する』ことができないならば、将来、目に見えるようになるものが、このように予感となって現れることはないだろう」



というように、難解ではありますが、

「目に見えないもの」と「目に見えるもの」と「思考」との関係

をどんなものを見る時にも大事にしなくてはならないというようなことを言っているのだと思います。

他にも、シュタイナーは多くの類例を挙げて、「目に見えないものと、目に見えるものの関係性に着目する」ことを述べています。

そして、シュタイナーは、同書籍の別の部分で、

霊的な真理を知る人は、日常生活において霊的なまなざしの前にかけられているヴェールを取り去らなければなりません。

という、「この世界は真実の上にヴェールがかけられている」とする、自称プレアデスの人などによる主張と同じようなことを、やはり幾度となく述べます。

また、

高次の秘密のなかに足を踏み入れるとき、私たちは、物質体の感覚によって生み出される幻影をとおして、通常の人間には隠されている事物を見ることになります。

と、「見えていなかったもの」も、訓練次第で、「見えるようになる」ということが書かれてあるのが、この『いかにして高次の世界を認識するか』という書籍ですが、ここでシュタイナーの語る「高次の世界を認識する道のり」は、異常に厳しくて遠いことも、この本からわかります。

シュタイナーは、安易な方法によって霊的な世界を認識する方法(そういうものもあるらしいです)危険性に関して多く述べています。

そのためか、シュタイナーのこの本で展開される「修行の方法」は、非常に険しい道です。「書籍の1章をクリアするのに 50年くらいかかる」(まあ、ゲームではないですが)人がいても不思議ではないです。

数十年間の人生程度では少し無理な感じで、何度かの世を経てはじめて近づけるか、あるいは、何百の世とか。

そういう意味で、このシュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』は、実践本としては、私たちにはあまり意味がないかもしれないですが、「この世の真実」を(興味本位でも)知るためには、いいものだとは思います。




自分自身で自分を探しなさい

さて、今回のタイトルの「自己切断プログラム発動のために」というのは、特に具体的なものを示そうと思ってのことではないです。

何というか、いろいろな人たちの主張や考え方の中で「表現上は整合性がありそうな部分」をいくつか掲示しながら、それらが積もり積もって、いつか、自分にも他の方々にも役に立つようなことがあればいいなと思ってのこと、という程度のものではあります。

そういえば、「役に立つ」といえば、自称プレアデスの人は、

あなた方のすべてが、アメリカ・インディアンの教えに触れることができるように意図することを勧めます。

と述べています。

この「アメリカ・インディアンの教え」に関しては、たしかに、普通の生活の中でも大事にしたい内容もあり、

2015年からの未来を考えるために知っておきたい 「アメリカ先住民の倫理の智恵」
 クレアなひととき 2015年01月11日

に載せたものを掲載しておきます。

この3番目に「自分自身で自分を探しなさい」とありますが、最近の私の考え方も、この考え方が芽生えてきているからかもしれません。




The Wisdom of The Native Americans

アメリカ先住民の智恵

1. 祈りのために太陽と共に立ち上がりなさい。1人で祈りなさい。何度も何度も祈りなさい。あなたが話しかける時だけ、大いなる精霊は聞いてくださる。

2. 行き先を見失った人々への寛容さが必要だ。魂を失った人々の無知、うぬぼれ、怒り、嫉妬と強欲。あなたは、彼らが道を見いだせるように祈りなさい。

3. 自分自身で自分を探しなさい。他の人々にあなたの行き先を作ることを許してはならない。その道はあなたの道であり、あなたひとりの道だ。他の人々があなたと一緒にその道を歩くことはできても、誰もその道をあなたのために歩くことはできない。

4.あなたの家の訪問客へのもてなしをおおいに考えなさい。 訪問客には最高の食事と最高の寝床を与えなさい。そして、彼らに対して最大の尊重と敬意を持って接しなさい。

5. あなたのものではないものを自分のものにしてはいけない。他の人々からも、集団からも、大自然からも、そして、文化からもだ。自分で得たものか与えられたものでなければ、それはあなたのものではない。

6. この地球にあるすべてのものを尊敬しなさい。人であろうと、植物であろうと。

7. 他の人たちの考え、希望、言葉を尊重しなさい。決して、その言葉を遮ったり、笑ったり、無礼な態度で接してはいけない。この世のひとりひとりのすべての人間が、その人自身の表現を持つ権利がある。

8. 他人について悪く言ってはいけない。ネガティブなエネルギーがあなたに戻ってくる時には、宇宙に放出されて増殖してかえってくる。

9. すべての人間は間違いを犯す。間違いを許しなさい。

10. 悲観的な考えが心と体と魂の病を引き起こす。楽観を学びなさい。

11. 大自然は私の「ため」にあるわけではない。私たちは「その一部」なのだ。大自然はあなたのこの世界の家族の一部だ。

12. 子どもたちは私たちの未来の種子だ。植物は子どもたちの心を愛し、子どもたちを知恵と人生の教訓で潤わせる。子どもたちが成長する時には、そのスペースを与える。

13. 他の人の心を傷つけることを避けるように。その痛みの毒はあなたにかえってくる。

14. いつでも誠実でいるように。正直であることは、その人が宇宙とひとつであるかどうかのテストなのだ。

15. 自分自身の均衡を保つこと。自己の精神的な均衡、魂的な均衡、感情の均衡、そして、肉体的な均衡。これらはすべて強く、純粋で、健康でなければならない。精神を強くするために身体を鍛えなさい。感情的な苦痛を癒やすために魂的に豊かに成長しなさい。

16. あなたがどのように在るか、あるいはどのように反応するかの意志決定を意識的に行いなさい。あなたの行動のすべてにあなたが責任を持ちなさい。

17. 他の人々のプライバシーと個人的な空間を尊重しなさい。他の人々の財産には決して触れてはいけない。特に、神聖で宗教的なものに関しては。他人のそのようなものに触れることは禁止されている。

18. まず最初に自分自身に対して真実でありなさい。あなた自身があなたを育み、助けられなければ、あなたが他人を育み、助けることはできないのだ。

19. 他の人々の宗教的な信念を尊重しなさい。あなたの信念を他の人々に押しつけてはならない。

20. あなたの幸運を他の人々と共有しなさい。慈愛と関わりなさい。



  

2015年06月12日



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▲ レッド・ツェッペリンが設立したスワンソング・レコード社のロゴとなった元絵。19世紀の画家ウィリアム・リマーが 1869年に描いた、ギリシア神話のアポロの物語をテーマにした「夜」( Evening / The Fall of Day )という作品です。 feelnumb より。











今回の記事は、前置きで何となくバンドのレッド・ツェッペリンのことを書いていましたら、話が複雑化してきて、前置きのレベルの長さではなくなってしまいましたので、その内容だけにしました。


単なる音楽の話になって申し訳ないですが、ただ、途中に貼りましたレッド・ツェッペリンの「限りなき戦い」 432Hz 変換バージョンはとても耳に優しいと思いますので、お聴きいただれば幸いです。




あのアナグラムもマーケティングだったのかも


最近、下のような記事を見ました。


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レッド・ツェッペリンという英国のバンドとオカルトの関係を記事にしたものですが、このレッド・ツェッペリンは、全世界で3億枚のアルバムを売り上げた、世界で最も影響力の強かったロックバンドのひとつですが、何より、私自身が中学1年の時に聴いたツェッペリンの2枚目のアルバムの最初の1曲目に、それまでの人生(小学生でしたが)で最大の衝撃を受けて、音楽観が一変したという経験をしています(邦題で「胸いっぱいの愛を」という曲で、YouTube ではこちらです)。


この「胸いっぱいの愛を」を聴いた時の驚きの違和感は、おそらくは、ギターとベースとのチューニングを意図的に「微妙に」ずらしているように聞こえるところからきていたと思います。


その上、途中からは、テルミン( 20世紀初頭にロシアで発明された世界最初の電子楽器)は使われるわ、コンガのリズムは鳴り響くわ、ミックスは混沌としてくるわで、「何だかやりたい放題だなあ」と思った曲でした。


それにしても、ツェッペリンは、なぜか冒頭の記事のような「オカルトや黒魔術との関係」を書かれることが多いです。


In Deep の過去記事、



 2014年07月23日


も、そういう話を記事にしたものでした。


しかし、あの記事以降、考えたのは、それらも含めて、レッド・ツェッペリンの「イメージ戦略」にも多大な貢献を果たしたマネージャーのピーター・グラントという人の商業的手腕の一貫だったように思います。


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▲ 左からレッド・ツェッペリンのギタリストのジミー・ペイジ、中央がマネージャーのピーター・グラント、右がボーカルのロバート・プラント。Snipview



ピーター・グラント - Wikipedia には、彼が、ツェッペリンのマネージャーとして行った「革新的マネジメント」と「マーケティング手腕」などが書かれていますが、このようにあります。


極力メディア露出を控えると同時に乱痴気騒ぎやスキャンダルの噂を広めることにより、神秘的で危険なロックスターとしてのパブリックイメージを見事に創出し、ツェッペリンファンであることをあたかも危険で刺激的な秘密のクラブに属しているかのように演出して見せたことも、ピーターの功績であったといえるであろう。

これらのマーケティング戦略に、神秘性を高めるための黒魔術的なニュアンスを振りまくイメージ戦略なども入っていたのではないか、と考える方が妥当な気がします。


メンバーを徹底的に「神秘的な集団」とするイメージ戦略。


さきほどの、ツェッペリンの天国への階段の逆回転での「悪魔と666」…も、あるいは「わざと」だった可能性もあると思えてきています。





というのも、上で説明されている「天国の階段」が収録されたアルバム(タイトルなし)は、レッド・ツェッペリンの中で最も売れたアルバムで、全世界で 3700万枚以上売れています。


このアルバムは確かに、収録曲も非常に優れているのですが、それと共に、マネージャーのピーター・グラントは、他のバンドは決してやらないような、巧妙で非常に知的な「販売戦略」をとっています。


上に「タイトルなし」と書きましたが、このアルバムにはタイトルがない上に、


「ジャケットに文字をひとつも載せなかった」


のでした。


表にも裏にも内側にもどこにも。


さきほどの Wikipedia には、以下のような記載があります。



ジャケットに一切の文字の無いレッド・ツェッペリン4枚目のアルバム(便宜的に「IV」と表記する)発売の際、自殺行為であると大反対したレコード会社の重役達をなだめすかし、且つ、「IV」の発売を予めファンの間に提示しておくことで「名前が無い」ことを逆に話題に変えてみせ、商業的にマイナスであったものを見事にプラスに昇華している。


表ジャケットは、薪を背負った老人の絵画が壁にかけられた様子で、見開きのジャケット裏は、その壁の向こうの街が開発されている様子。


レッド・ツェッペリン4枚目のアルバム・ジャケット

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レッド・ツェッペリン4枚目のアルバムの内ジャケット

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内ジャケットは横向きになっていますが、タロットカードの9番のカード「隠者」です。


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文字がないというのは、つまり、バンド名も、アルバム名も、当然、メンバーの名前なども一切なく、メンバーの綴りは「オカルト的なマーク」で描かれました。


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・メンバーの4人の表記(左からペイジ、ジョーンズ、ボーナム、プラント)。



これらのほとんど(あるいはすべて)は、マネージャーのマーケティング戦略の一環で、また、「バンドのイメージ付け」作戦などでもあります。


そして、ツェッペリンはさらにどんどん有名になっていき、この名前のないアルバムは、当時のロックアルバムとしては考えられない、全世界で 3000万枚を超えるスーパーセールスを記録することになります。


アメリカだけで 2300万枚売れたそうですが、1971年当時のアメリカの人口は2億人程度でしたので、「アメリカでは 10人に1人が買っていた」ということになりそうです。


しかし、購買層は若者中心でしょうから、若者に限れば、数人に1人が買っていた、というようなことになっていたかもしれません。


いずれにしても、優れた音楽性と同時に、マネージャーの手腕で、レッド・ツェッペリンのアルバムはトータルで3億枚を売り上げることなるだけではなく、どんな大会場でのコンサートでも、チケットは1時間足らずで売り切れるという超人気状態を解散まで維持できていたのでした。


アルバムが3億枚が売れる、というのは、国によりレコードの価格は違うでしょうけれど、昔の日本では、LP というのは1枚 2500円くらいしましたから、レッド・ツェッペリンはアルバム売り上げだけでも、おそらくは全世界で 7000億円以上のセールスを計上していたと思われます。


今から 40年前の「 7000億円」という金銭表示の破壊力は、しかし、マイケル・ジャクソン(アルバム 10億枚を売り上げる)で完成した、音楽をビジネスへと完全に囲い込む「悪魔の囁き」にもなったと思いますけれど。





若い時に最も好きだった「限りなき戦い」を


あるいは・・・まあ、これは蛇足ですが、レッド・ツェッペリンが商業的にも音楽的にも成功した理由のひとつとして、もしかすると、「その活動時期が太陽活動とピッタリと一致していた」ということも今でなら言えるかもしれません。


レッド・ツェッペリンの活動時期は、1968年から 実質的には 1979年までとなっていますが、これは実は「サイクル20の太陽活動最大期から、次のサイクル21の太陽活動最大期」と一致することに気づいたんですよ。


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このレッド・ツェッペリンというバンドが、「黒点の数が最も多い年にデビュー」して、「黒点の数が最も多い時に活動を停止させていった」という奇妙な偶然が・・・そう、もちろんこんなことは単なる偶然ですが、それがわかります。


これからバンド・デビューなどを考えている方は、太陽活動最大期にデビューするといいかもしれませんね。まあ・・・次は 2026年あたりになりますが、今なら駆け込み OK かもしれません。


あるいは「次の太陽活動最大期は来ない」という可能性もありますけれど。


太陽の話はともかく、レッド・ツェッペリンのバンドの解散はドラマーの事故死によるものでしたが、ツェッペリンの周辺には確かに事故で亡くなる人なども多く、それが原因でオカルトと結びつけられていた面もありそうです。


しかし、レッド・ツェッペリンの音楽性からオカルトとの関係を見出しにくいのは、彼らの音楽は実際には、黒魔術系のような存在の「反対」にあるようなものが多く、「自由の概念」と「生きている人間の世界」ということを強く認識させられる音楽が多いためです。


実際、彼らがアルバムを作る際に使用した楽器は、ギター、ベース、ドラムというところから、マンドリン、バンジョー、ダルシマーといった生演奏楽器から、テルミン、シンセサイザーなど多岐に渡りました。


私は、特に、ツェッペリンでマンドリンが使われている曲が好きでした。

マンドリンが使われている曲はかなりの数に上ります。


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▲ 今年 71歳になるレッド・ツェッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジが自宅前でマンドリンを弾いている様子。bleakcinema.com



その中でも、レッド・ツェッペリンのすべての曲の中でも数少ない「マンドリンとアコースティックギターだけの演奏」で作られている「ザ・バトル・オブ・エバーモア( The Battle of Evermore )」という曲が、中学生の時に私に驚きをもたらしたと共に、その後もずっとツェッペリンの中で最も好きな曲です。


これは先ほどの4枚目の「タイトルのない」アルバムに収録されています。


邦題は「限りなき戦い」で、特に政治的な意味はないですが、「長く続く戦争」について歌っています。


下は途中から訳したものです。





レッド・ツェッペリン - 限りなき戦い (1971年)/ 途中から

戦争は繰り返し行われ
君に剣を取らせ、その剣を放たせる

空には善も悪もどちらも満ちているが
人間がそれを知ることは決してない

夜は長く、時間の連なりはゆっくりと過ぎる
朝日に眩んだ目で東からの来光を待つ

戦いでの痛みより
戦いを終えた後の悲しみは大きい

太鼓の音は城を揺るがし
指輪の生霊が黒い馬にまたがる

弓をかかげて歌うんだ
以前よりも真っ直ぐに弓を射るんだ

夜の炎は何の慰みにもならない
それは顔を冷たく照らすだけ

夜の闇の中で踊るんだ
朝日に向かって歌うんだ

魔法の呪文が金色で書かれている
均衡を取り戻すために

取り戻すんだ

ついに太陽は輝き
青い雲はちぎれ
闇のドラゴンから炎があがり
太陽の光が彼らの目をくらます





先日の In Deep の記事に載せました、シュタイナーの 1915年2月の『第一次世界大戦の霊的背景』という講演の「長い大きな戦い」の内容を少し思い出してしまいました。


この「限りなき戦い」は、432hz で聴くのにとても適した曲だということを知るに至りましたので、432Hz に変換したものを貼っておきます。


Led Zeppelin - Battle of Evermore ( 432Hz Convert )




これを初めて聴いたのも、私が中学1年の時で、まだ歌謡曲と普通のロックみたいなものしか知らない私は、「この世の中にはこんな曲もあるんだ」と感心した記憶があります。


まあ、この曲自体は、メンバーでふざけている時に偶然できたものらしいですが。



限りなき戦い - Wikipedia

レコーディング・エンジニアのアンディ・ジョーンズが次のような内容の証言をしている。

「ある夜、ヘッドリィ・グランジ(録音に使っていた古邸宅)の暖炉の周りでお茶を飲んでいたとき、ジョン・ポール・ジョーンズのマンドリンを手に取っていたずらしていたペイジが、突然リフを弾き始めた。自分はあわてて手持ちの機材でその演奏を録音した。するとプラントもそれに合わせていきなり歌い始めた。こうして何もない無の状態からあの曲が生まれたんだ」


夢のような話ですが、しかし、それが本当に偶然かどうかは別として、わりとこの世のいろいろは偶然にできたもののほうが良かったりすることは、よくあることのようにも思います。


そして、この曲は、オリジナル( 440Hz)と 432Hz 変換でものすごく違いを感じる曲のひとつです。


もう別の曲といってもいいほど感じ方が変わります。


432Hz にしますと、マンドリンの音がものすごくやわらかく響くようになるのです。

音質はいじっていないのに不思議ですが、確かにやわらかい響きに変わります。


432Hz を聴いた後、オリジナルの 440Hz を聴くと、キンキンした高音が耳につく曲となってしまって、「もう 440Hz のほうは聴けない」というほど変わります。


上の「限りなき戦い」は完全なアコースティック・ソングですが、レッド・ツェッペリンは、ハードロック・バンドとして人気を獲得したわけで、その本筋はハードロック・・・と言いたいところですが、私にとってはやや違う部分があります。


考えてみると、私の好きなツェッペリンの曲にはアコースティックが多いです。


私が若い頃、好きだった上位3は、


1番好きなのは、先ほどの「限りなき戦い」で、

2番目は「フレンズ」という曲( YouTube )、

3番目は「ハッツ・オフ・トゥ・ロイ・ハーパー」という曲( YouTube


というような感じで、これらは全部アコースティックです。


2番目の「フレンズ」は、中学生の時から長く友人でしたが、その後、いわゆる諜報員として海外に行ってしまったコバヤシくん(クレアの過去記事を参照して下さい)と、部屋でよくふたりで演奏したものでした。


3番目の「ハッツ・オフ・トゥ・ロイ・ハーパー( Hats off to Harper )」という曲もやりたい放題の曲で、当時は「理解不能な曲」と言われていましたが、私は大好きで聴きまくってました。


これはイギリスでカリスマ的な支持を得ていた反抗的フォーク歌手のロイ・ハーパーという人に敬意を表した曲なのだそう。





音楽から静寂の世へ


それにしても、若い時にハードロック的な嗜好で聴いていた感が強かったレッド・ツェッペリンも、今は貴重な「 432Hz 適応音楽」のひとつとなったりしているというのは感慨深いです。


そして、そういう人々の多くは年老いてきていまして、リスナーだった私たちのほうも年老いてきていまして、静かにひとつのカルチャー世代が消えていくと。


では、次のカルチャーはどんなものになるかというと、それはもう「音楽」の方向ではなく、「静寂」の方向のカルチャーなのかもしれないと思ったり。


フランス映画『美しき緑の星』のラストは、宇宙人たちが「静寂の集会」というものをおこなっている場面で終わりますが、それは彼等が音楽の時代から静寂の時代に移行したからこそ、のようですが、いわゆる賢人たちには「静寂の重要性」ということを語る人も多いです。


確かに今の世の中は「音」が多すぎますからね。


特に、私の住んでいるあたりなど、空軍基地が近いせいで、


「静かに 528Hz の音叉でも聴こう」


と、チーンと慣らしていると、頭上をゴゴゴ…と軍用の自衛隊機が大音量を残して次々と飛んでいく日常だったりしますので、「明るい中での静寂の獲得」はなかなか難しいです。


まあしかし、現実として、私たちは「音と音楽のある世」に生まれてきたのだから、それを素直に楽しんで消えていくのもいいのかなと思ったりしています。



  

2015年06月11日



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The Twin Powers






 



講演会の打ち上げの席で

3月と5月におこなわせていただきました講演会では、打ち上げもたくさんの方が残ってくださったのですが、実は結構多才な顔ぶれというのか、いろいろな職種や立場の方々が来てくださっていました。

とはいえ、あまりそれらのことを具体的に書いてしまうと、会社や顧客の方などから、

「あのような頭のおかしなブログを毎日読んでいるのは少し困りますね」

と、野口晴哉さんふうの叱責等を受けては申し訳ないと思いまして、具体的なことは極力書きませんでした。

最初の3月の講演会の打ち上げで、その中に、かのライブドアの最初の立ち上げ人のうちのひとりという方がいらしたんですね。

私の前に座られていたので結構いろいろとお話しをしたのですが、私が「今はどんなお仕事をされているんですか?」とお聞きましたら、いろいろと説明してくださったのですが、その時には、私の頭ではどうしても理解できませんでした。

そうしましたら、最近、メディア「トカナ」に、その方のインタビューが掲載されていたのです。それを読みまして、やっと何となくではあっても、その方のお仕事が漠然とわかったのですが、その記事は、

ライブドア立ち上げメンバーが語る「悟りとコミュニケーションの科学」! 大手企業が注目する、石山喜章の最新ビジネスとは?
 TOCANA 2015.05.26

というものです。

この中に出てくる石山さんという方がその方でした。

石山さんは何年も In Deep を読んでくださっているようで、恐縮な限りですが(あと、講演会の打ち上げで知ったのは、震災直後頃から読まれていただいている方が多いということでした。何だか本当にありがとうございます)上の、インタビュー記事の中に、「あ、これ知りたい」と、非常に惹きつけられる内容のことが書かれてあったのです。

そこには、まさに、私にとっての「恐怖から解放」への道筋として模索していることに対しての、何らかの形で提示されていると感じたのです。

今回はその上の記事について少しご紹介したいと思います。

ところで、数日前のスペースウェザーにギョッとするようなデータが掲載されていました。
そのことをちょっと記しておきます。




地球上空の火球に何が?

下は、NASA の全天火球ネットワークNASA’s All Sky Fireball Network )という、地球上空を通過した火球に関しての報告データが毎日掲載されているものですが、2015年06月09日の火球報告が、

148 個

という、ちょっと信じがたいものとなっていました。

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▲ 2015年06月09日の Spaceweather より。

現在は流星群はなく、148個のほぼすべてが「独立した火球」ということになります。

これについては、ふだんはどの程度の数かといいますと、流星群などのない通常では、数個から多くても 20とかその程度のものです。

たとえば、6月に入ってからの火球の報告数は下のようなります。

2015年06月01日から09日までの火球の報告数

6月1日  22個
6月2日  11個
6月3日  13個
6月4日  10個
6月5日   3個
6月6日   5個
6月7日  14個
6月8日   4個
6月9日  148個


そして、翌日の 6月10日の表示は・・・。

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▲ 2015年06月10日の Spaceweather より。


このデータが利用不可になるのを見たことがないですが、現在も表示は上のままです。不思議なのは、スペースウェザーも NASA 全天火球ネットワークも、このことに言及していない点です。

機器の故障等なら一言あってもいいと思うのですが(これは一応 NASA の正式部門です)。

毎日見ているデータだけに、消えてしまうのは寂しいですが、それ以上に、6月9日の 148個の火球について、説明してくれるといいなあと思っています。

通常時の多さとしては異常ですし、それに、6月9日のデータは図と数が一致していないなど奇妙な点が多いですが、これも単に何かの故障などに関する話かもしれません。

まあ、復旧待ち、コメント待ち、ということにしておきたいと思います。




恐怖からの解放メソッドX

何が「メソッドX」なのかわかりませんが、最近、たまにこの「恐怖からの解放」ということをテーマに書いています。

この「恐怖からの解放」シリーズは、最初の記事が、

自分が「今生」に生まれた理由がやっとわかったのは嬉しいけれども、恐怖と不安からの解放の前に立ちはだかる「西洋科学的思考」
 2015年04月17日

というもので、この頃、中村天風さんの講演の本を読んでいるうちに、ふと、

「私が生まれた意味」は「自分の根源的な恐怖と対峙して、これを消し去る」こと

だということに、何となく気づいたことから始まります。

その後、

「恐怖からの解放」についてのメモ
 2015年04月29日

「恐怖からの解放」についてのメモ(2):現在の地球の人間は何によってコントロールされているのか
 2015年05月25日

というようなタイトルで書いていますが、下のほうの「地球の人間は何によってコントロールされているのか」に至っては、自称プレアデス人の方の言葉まで飛び出して、

「私たちが見たり聞いたり感じたりしている現実は本来は存在しないかもしれない」

というような混沌とした段階に突入しています。これはつまり、私たちが恐怖する対象自体が創作されているものであり、現実ではないかもしれないというようなことです。

しかし、いずれにしても、私個人の恐怖からの解放はまだまだであります。

先日もちょっと思うところがありまして、「恐怖からの解放」シリーズを書こうとしていたのですが、その時、タイトルを書いた瞬間にタイプミスで、

「強風からの解放」

と打ってしまい、「強風から解放されてどうする」と、そこでプッと吹きだしてしまい、恐怖やら何やらわからなくなって書くのをやめたということがありましたが、このタイプミスはなかなかの示唆をしめしてくれております。

たとえば、一歩間違えますと、

「京風からの解放」

という、初夏の京都の小旅行からの帰り道、ふと食べた江戸前寿司が美味しくて・・・という風情も醸し出すという何とものどかな初夏であります(何の話だ)。

ともかく、そんな中で、先ほどの石山さんのインタビューを目にしたのでした。




潜在意識を自分の力でコントロールする

それにしても、最近の企業研修はずいぶん変化しているのですね。

先ほどのインタビュー記事の出だしの本文は以下のように始まっていました。


グーグルやインテルなど欧米の大手企業がこぞって社員研修に瞑想を取り入れていることが広く知られるようになってから、日本の大企業でも瞑想を取り入れる流れが進んでいる。

最近では、楽天のグローバル人材育成研修に瞑想プログラムが取り入れられるようになり、日本郵船の幹部研修でも3日目には京都のお寺で一日座禅を組むようになった。



大手企業では研修に「瞑想」を取り入れているところが多いのですねえ。
知らなかったです。

それはともかく、先ほどのインタビューの4ページ目から、下のような文章が続きます。


石山氏は「宇宙のはじまりより前に存在していたサムシング・グレイトや5次元世界のことが、論理とイメージで明確に説明できるようになる」という観術(ノ・ジェス創案)を取り入れ、人材育成や組織開発に活用するようになったという。

石山「認識を次元上昇させて、物の見方を変えるんです」

潜在意識を自分の力でマネージメントできるようになる。そうなれば、うつ病やノイローゼにそもそもかからないし、かかっている人やその恐れがある人は自分で治療できてしまう。それが「心を経営する」というキャッチコピーに込めた想いだそうだ。

石山「自ら潜在意識をマネジメントできる人が増えれば、もっとワクワクする世界が始まると思うんですよね」



これを読んで、「うーむ」と唸りました。

この中の、

> 潜在意識を自分の力でマネージメントできるようになる

について、私が目指したいと思っているのは、まさにここなんです。

また、この概念は、言葉や表現は違いますが、シュタイナーが「自分の意識を完全に自分のコントロール下に置くこと(眠っている間の意識や夢さえもコントロール下に)として非常に大事なこととして語っていることと同一のものでもあります。

私自身は、そのやり方について完全に行き詰まっていた面があります。

私は、

「認識の次元上昇」

という概念とか、あるいは、

「悟り」

という呼び方でもいいのでしょうけれど、これらを「計算的にくくれないもの」として捉えていたわけで、あるいは、これらを「右脳的なもの」として認識しすぎていました。

もちろん、これらは確かに右脳的なものなのかもしれないですが、自称プレアデス人の方の話などにも出てくるのですが、実際には、ある程度、理路整然としているものかもしれないとは思うこともありました。

それは映画『美しき緑の星』での、たとえば、宇宙人たちの高度な通信手段にしても「切断プログラム」などの特殊能力にしても、それらは一見、右脳的に見えたとしても、彼らが「空間数理学」などと呼ぶものなど、高度な学校教育の末に体得しているものであって、自然に身につくものではないとして描かれているあたりにも感じます。

math-01.jpg

▲ 映画『美しき緑の星』より。草原で空間数理学の授業を受ける子どもたち。


あるいは、「洗剤意識」(洗剤に意識持たしてどうする)、もとい、「潜在意識」のコントロールは、中村天風さんや野口晴哉さん、そして森田博士などの本で「頭の中ではわかっている」のですけど、具体的な手段が漠然としかわからない。

イメージとしてはわかるけれども、「ここから先の一歩」のようなものが非常に曖昧な像としてしか描けずに、進むことができないでいるというような面はあります。

なので、上の石山さんがおっしゃっているような、

「サムシング・グレイトや5次元世界のことが、論理とイメージで明確に説明できるようになる」

というようなことができればですね、それは確かに痛快なわけです。

講演会はともかく、いろいろな方とも、「また飲み会はやりたいですね」と、打ち上げの時に話していたりしたので、また石山さんとお会いした時には、何かお聞きできればと思っています。

なお、上との関連で、石山さんは、

theAnswer

というサイトを 2008年にまとめられているようです。

ところで、このインタビューが掲載されたトカナ編集長の角さんも講演会の打ち上げに参加してくれました。角さんはとてもかわいらしい感じの素敵な女性でした(不思議なほど見た目が若いのです)。

いずれにしましても、若い時から長く強迫性の不安神経症やパニック障害を持っていた私は、この「潜在意識のコントロール」を切望し続けていた感もあり、もしかすると 30年来の試みになっている気もするのですが、こういう形で、もしかしたら、何かのキッカケになるかもしれないことと面したのは驚きです。

何だか最近は、自分の行動と周囲、とか、自分の願望と環境、などに比較的良いシンクロが起きている感じが、ほんの少しですが、いたします。このシンクロは素直に嬉しいです。




人類のカルマ

ところで、恐怖や不安を誘発する要素というのは、いろいろとあるわけですが、その傍には多くの場合、「死」という観念があると思います。

本当はそういうように「負」の面ばかりにとらわれることは良くないとはわかっていても、病気にしろ、災害にしろ、この「死」が見え隠れするものはどうしても気になる。そして、そこには恐怖と不安がつきまいやすい。

最近たまにご紹介しますシュタイナーの『天地の未来―地震・火山・戦争』という本ですが、ここに「人類のカルマ」という項目がありまして、もし私たちが自然災害の被害に遭うのだとすれば、その仕組みというようなものが書かれています。

この本は、これからの、もしかすると、やや激しい時代となるかもしれない中では、ためになる部分もありまして、お勧めしたいのですが、現在は Amazon でも価格が高騰しているようでして、ちょっと気軽にお勧めできない感じです。

そんなこともあり、気になった内容はできるだけご紹介したいと思っています。

今回は「人類のカルマと災害」を書いた部分の一部を抜粋しておきたいと思います。

この記述の中にある、アーリマン、アトランティス、レムリアについては、わからない部分もあるかと思いますので、それぞれの説明を Wikipedia から掲載しておきます。

アーリマン(アンラ・マンユ

ゾロアスター教に登場する悪神。善悪二元論のゾロアスター教において、最高善とする神アフラ・マズダーに対抗し、絶対悪として表される。

アトランティス

アトランティスは、古代ギリシアの哲学者プラトンが著書『ティマイオス』及び『クリティアス』の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことである。強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。

レムリア
神智学協会創設者の1人、ブラヴァツキー夫人によって1888年に刊行された著書『シークレット・ドクトリン』において登場した。レムリア大陸における文明が地球上の他の文明より盛んであった時代は、第3根本人種、レムリア時代などと呼ばれるなどと述べた。





シュタイナー『天地の未来』 人類のカルマ より


光輝く善良な存在たちが全世界に幸いをもたらしたころ、地球との関連から押し出された存在に結び付いたさまざまな力が地球に作用しました。

私たちは、かつて人間から取り上げられた火の働きの余韻を、火が引き起こす恐ろしい自然現象のなかに認識できます。

アトランティス時代以来、人類のカルマと関連しているアーリマンのカルマをとおして引き起こされたものに襲われた者たちに何らかの罪があるのだ、と言うべきではありません。それは人類全体のカルマに関連しており、個々人もそのカルマを共に担ったのです。

太古の人類の破局の名残りのように思われるものを、私たちは目にします。レムリア時代に、火に働きかける力が人間から取り上げられました。

それ以前は、人間は火に働きかけることができました。そのため、レムリアは人間の火のような情念によって崩壊しました。今は地下にある火が、昔は地表から下方に退いたのです。

原初の火から抽出されたのが、今日の無機的な火、鉱物的な火です。この火は、空気と水をとおって進む力、人間の情念をとおしてアトランティスの破局を引き起こした力と結び付きます。

これがアトランティスの大災害を呼び起こした、人類全体のカルマです。その名残りが残っています。この名残りが、アトランティスの大災害の余韻を呼び起こします。火山噴火と地震は、アトランティスの大災害の余韻に他なりません。

このような災害に遭った人に向かって、「たとえ一部分であっても、あなたに原因がある。私は同情すべきではない」と言わないようにする必要があります。

その人はみずから運命を招いたのだと考えて、その人を助けないのはよくありません。カルマが私たちに求めるのは、私たちがその人を助けることです。

私たちの助けがその人のカルマのなかに書き込まれ、その人のカルマが好都合な方向に向かうのは確かです。

カルマに基づく世界の見通しが、私たちに同情心を呼び起こすにちがいありません。人類全体のカルマに、個々人が苦しむのです。全人類がそのような出来事を引き起こすのです。

私たちはそのような運命を自分自身の運命と見なす必要があります。

こうして、不幸に苦しむ人々や、災害に見舞われた人々に対する同情的な理解が生まれます。

「私たちは自由意志で行動しているので、人を助けない」と言うのではなく、「私たちは人類のカルマのなかにいる。人類に責任のあることは、私たちにも責任がある」と知るべきなのです。



  

2015年06月06日



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宇宙は、自身の存在を認識してくれる「人間の登場」を待ち続ける

Reality-Doesnt-Exist23.gif
NDTV






 

この世は人間が認識するまでは存在しない

今回ご紹介するニュースは最近の中でも、個人的に非常に大きなものです。

とても簡単に書けば、

1970年代に量子物理学者によって予測されていた説が、実験で証明された

というもので、その予測されていた説とは、

この世は、人間に観測(認識)されるまで存在しない

というものです。

つまり、「そのあたりにあるすべても宇宙も何もかもが、人間が認識してはじめて存在する」ということが証明された実験ということになります。

(何も存在しないという書き方は正しくなく、「原子はある」のですが、いわゆる私たちの生活での、一般的な認識での「存在」という意味にとらえていただくと幸いです)

この実験結果の論文が掲載されたのは、科学誌ネイチャーのオンライン版です。

Wheelers-delayed-choice-gedanken-experiment.gif
・nature Wheeler's delayed-choice gedanken experiment with a single atom


ただ、上のネイチャーの論文タイトルの「単一原子とホイーラーの遅延選択思考実験(ゲダンケン・エクスペリメント)」というのを見ただけでもおわかりのように、今回は内容は本当に難しくて、これを紹介していた報道記事をご紹介しようと思うのですが、何度読んでも意味があまりわかりません。

本当は昨日、今回の記事をアップするつもりでしたが、翻訳が全然できなくて今にいたります。

まあ、一応翻訳したという程度で、内容はおそらくは、物理学的にはまったく間違っていると思いますが、その内容を理解するために、いくつか読みましたサイトをまずご紹介したいと思います。

まず、今回の実験の名称は、すでに 1978年に理論付けされていまして、

「ホイーラーの遅延選択実験」

という、ジョン・ホイーラーという物理学者が提唱したものです。

このジョン・ホイーラーという人は、


ジョン・ホイーラー - Wikipedia

アルベルト・アインシュタインの共同研究者として、統一場理論の構築に取り組んだ。そして、一般相対性理論、量子重力理論の理論研究で多くの足跡を残した。

1960年代には、中性子星と重力崩壊の理論的分析を行ない、相対論的天体物理学の先駆者となった。

宇宙の波動関数を記述するホイーラー・ドウィット方程式は、量子重力研究の先駆的成果の一つである。また、ワームホール(1957年)や、ブラックホール(1967年)の命名者でもある。




と、いろいろとしていた方のようですが、この経歴を見る限り、量子学の足がかりを作った一人であるようです。

ジョン・ホイーラー( 1911年 - 2008年)
John-Wheeler.jpg
John Wheeler's Interview


そして、この物理学者が 1978年に「この実験で、あることが証明されるはずだ」と予測した実験が「ホイーラーの遅延選択実験」というもので、この実験で証明されることは、

「この世は人間に記録(観測)されるまでは存在しない」

ということだというのです。

これに関しては、ホィーラーの遅延選択実験というページに、理論物理学者で、早稲田大学名誉教授の並木美喜さんという方が記した『量子力学入門<』という書籍の内容が記されています。

実験の内容そのものに関しては、その説明にあります以下の記述のようなもので、とにかく、さっぱりわかりません。


da-db.gif

実験(a)では、M1によって二つに分けられた光パルスが通路AとBを通って別々に検出器DAとDBに導かれる。平均光子数一個(以下)のパルスごとの実験だから、DAが光子を検出すれば、DBが光子を捕捉することはない。

という例を見ましてもわかるように、私たちにはまったくわからないといっていいものです。

ですので、実験の内容については省略しまして、その実験の結果として、その後、どんなことが導かれたかということを、並木美喜さんの記述から抜粋させていただきます。


並木美喜著『量子力学入門』(1992年)より

実験の方は1986年頃アメリカとドイツで実行され、ホィーラーの予想通りの結果が出た。

そこで彼は強調する。「”記録”されるまでは”現象”はない」と。

”現象”を「粒子」と「波動」に局限するかぎり、おそらくは彼は正しいだろう。だが、「現象」という言葉を最大限に拡張解釈し、何段階か飛躍してこの言明を言い換えればどうなるか?

あるいは「宇宙は人間の登場と人間による認知を待っていた」という断言すら生まれるかも知れない。

なぜならば、宇宙という「現象」は人間が観測して≪記録≫するまでは存在しないのだから!

この断言を許すと、人間は森羅万象を決定する最高位の存在になってしまう。

話としては大層面白い。決定論的な古典的自然観とはあまりにも違う。

宇宙は人間に合わせて、または人間のためにできているという考えを「人間原理」ということにすれば、これは「人間原理」の極端な姿だ。

読者の皆さんはどのように受け取られるだろうか?



このように、並木名誉教授の文体は、「自分で書きながら、その内容に驚いている」ことを感じさせるものです。

確かに、上の文章にあります様々な記述、

> 宇宙は人間の登場と人間による認知を待っていた

> 人間は森羅万象を決定する最高位の存在になってしまう

> 宇宙は人間に合わせて、または人間のためにできている


という考え方は、現在の自然科学とは相容れないものがあるかもしれません。

しかし、これは、このブログで、過去何度も出てきた概念でもあります。
だからこそ、大きなニュースでもあります。




宇宙は人間の登場を待っていた

かつて、何度か引用させていただいた私宛てのメールがあります。

中世の薔薇十字の理論の実践者であり、また、シュタイナーの研究者でもあった「ねるさん」という方が、 2011年 3月 11日の震災の直後に私に送ってくれたメールです。

それらのことは、過去記事、

量子物理学者が証明しようとする「死後の世界と来世」。そして「宇宙は人間の認識がなくては存在しない」こと
 2013年11月19日

の中など、過去何度か引用させていただきましたが、再度引用させていただきます。

まさに、今回の実験で証明されたことそのものの概念が書かれています。
最初に掲載したのは震災6日後の「人類が獲得した「予知できない」能力」という記事でした。



現代人の知性とその可能性

人間の知性はいまや他の存在たちにとっての希望です。
自然のなかに生きていた神々はもういません。

自然は、もはや自動的に運行する機械に過ぎないのです。科学によって自然を観察しても生命は見つかりません。自分を探してのぞき込んでも、見つかるのはただの影にすぎません。

今や人類はそれ以前とは異なります。神々は人類に運命を委ねたからです。宇宙の知性は、ある時期から人間の側に移行しました。以前のように自然を探すことによって見いだせるのは死んでしまった法則だけです。

人間は、自分が宇宙の意志であるという事実を自覚するとき、やっと宇宙と自分自身の本当の姿を見つけます。それは神々が与えてくれるものではなく、人間の判断行為の中にのみ見いだされるものです。

宇宙は最終的な結論として人間を選びました。

この奇跡の只中にいる人間自身がこのことに気づいていません。空に輝く物質的な太陽とおなじ力が人間の内部にも働いているという事実をです。自分自身の知性がこれから大きく変容する可能性があることに人間は気づかなければなりません。宇宙の命運が掛かっていることを知らなくてはなりません。

過去の光は人間の内部に移行しました。自分の思考が宇宙の意志であることを自覚すると、想像をはるかに超えた数の存在たちが闇から救出されます。動物たちは大気圏の外から人類を見守ってくれます。植物たちはこの地上で人類を助けてくれます。鉱物たちは自らを思考の材料として提供してくれるはずです。

だから宇宙に生きる全ての存在たちのために、人間は、今、行動しなければなりません。




ここまでです。

2011年の震災直後は、私も考えが大きく変化した時でした。

震災3日目に書きました、

決意の涙 : 東京 DAY3
 2011年03月13日

という記事に、圧倒される自然災害を目の当たりにして、私は以下のようなことを書いています。


2011年03月13日の In Deep 記事より

宇宙がどのように生まれたのかは今はわかっていませんが、中世の神秘学などの言葉を借りると、順番としては、

・ことば
・存在
・認識


というように来たように思います。

今、私たちが「宇宙」とか「存在」と考えているものは、実は我々が認識しているために存在しています。

これは難しい話ではないのですよ。

・見ないと見えない
・聞かないと聞こえない


というようにいくと、

・認識しないと存在しない

という流れにはなるように思います。

埴谷雄高さんが言っていた「存在の革命」という言葉を、私なりに究極的な革命として、書けば、

・認識の否定

というものがあると思います。

とても間違ったことであることはわかりますが、ただ単に「宇宙の圧倒」に我々がいつまでも引きずられているわけにはいかない。



ということを書いていまして、今このように読み返してみるとわかりづらいですが、これは何を書いているかといいますと、

私たち人間は宇宙の存在を消すこともできる

ということに震災直後に気づいたことを、やんわり遠回しに書いています。

3.11の理由を宇宙が明確にしない限り、私たちは宇宙の存在を消し去ることができると。

地球も宇宙も消えて、意識と言葉(あるいは音)だけがこの世に残る。

創世のやり直し。

その後も、この 2011年は、「この世は存在しているのかいないのか」ということについて考えることが多かったです。

DNAの存在から見れば「私たちは実際には存在していない」かもしれない
 2011年06月14日

という記事、あるいは、クレアなひとときでも、

覚醒とは何か(2) 意志のある場所とその消滅
 クレアなひととき 2011年11月01日

覚醒とは何か(3) 人類に芽生えたかすかな希望[同一の存在の可能性に向けて]
 クレアなひととき 2011年11月02日

などで、繰り返し、

「宇宙に対しての人類の認識」が、「宇宙が存在するため」の唯一の拠り所かもしれない

ということを書いています。

この 2011年の頃は、何というのか無意識で記事を書いている時も多くて、読み返すまでは覚えていないようなものが多いのですが、少なくとも、そのようなことをどこかで思い続けていたようです。

あるいは、ごく最近の記事、

「恐怖からの解放」についてのメモ(2):現在の地球の人間は何によってコントロールされているのか
 2015年05月25日

などで、自称プレアデスの人が言う、


目、耳、鼻、口、感触は”現実を欺くもの”です。あなた方はこれらの感覚によって現実を知覚していると考えますが、実際には、これらの感覚は現実に対するあなた方の知覚を制限しています。


という内容は、私たちの宇宙に対しての感覚的な把握が、目、耳、鼻、口、感触の「以外」にもあることを示していて、人間と宇宙の関わりについては、人間の方から積極的に変化させることができることを現してもいるような気もします。

最近、書くことのある「肯定的な態度」にしても、それをおこなうのは自分自身であって、つまり、

「自分が変わって、初めて、周囲の風景が変わる」

ということを端的に物語っている気もします。

あるいは、考え方次第で、この世はとても美しいものでもあるし、あるいは、そうではないものであるということも、たとえば、フランス映画『美しき緑の星』などで語られていることでもあります。

この世のすべては不変に見えても、現実としては、人間の感情や認識で、どんどんと変化する

それまで何も感じなかった対象がどんどん変化する。

まあ、 In Deep というブログそのものが、「この世は存在するのか」ということを、ひとつのテーマとして持っているものでもあります。

30年目のエレキな春 : 精神圏へ移行する人類の覚醒後の姿を夢想させてくれた『弥次喜多 In Deep 』と作者への感謝
 2014年04月28日

という記事に書いたことがありますが、ブログの In Deep というタイトルは、しりあがり寿さんの痛快形而上アクション時代劇ギャグ漫画(どんなジャンルだ)である『弥次喜多 in DEEP』の印象からいただいたものです。

この漫画では、生きている弥次さん喜多さんが創造神へと変化し、ついには宇宙へと変化していく長い過程を経た後、ある一人の少年が、

「宇宙って存在しないのではないのか」

ということに気づき、それどころか、

「この世には実は何も存在していないのではないのか」

ということにも気づいてしまい、それでも少年は前へと歩いていくところで物語は終わります。

yajikita-in-deep2.gif

▲ この世には何も存在していないことに気づいた「千年ムスコ」という名前の少年。これに対して、「存在しない宇宙の象徴となっている弥次さん喜多さん」は少年に「そうだ」という旨を述べます。


そんなわけで、この「宇宙は存在しない」ということについては、自分自身の信念は強いままなのですが、今回のように、科学的実験で証明されるというのは、それはそれでひとつの大きなことだと思った次第です。

ここから報道記事ですが、先ほども書きましたように、実験内容はよくわかりませんですが、なるべく自分自身で理解しやすいように、かなり直訳とは遠いものとなっていますので、翻訳内容は参考程度にお考えいただけると幸いです。

特に、後半は自分で書いていても、何語を書いているのかわからないほどでした。




Quantum Experiment Confirms Reality Doesn't Exist Until Measured
NDTV 2015.06.02


観測されるまで現実は存在しないことを量子実験が確認


オーストラリアの科学者たちが、量子物理学での予測を証明するための有名なある実験を行い、その実験は成功した。

その予測とは「観測されるまで、現実は存在しない」というものだ。

オーストラリア国立大学( ANU )の物理学者たちは、ジョン・ホイーラーの遅延選択思考実験と呼ばれる実験を行った。それは粒子のように動く、あるいは、波動のように動く選択権を与えられている移動物体に関しての実験だ。

ホイーラーの実験は、その後、どの時点で物体が「それが波動か粒子か」を決定しているのかを問う。

常識的には、私たちがそれを観測する方法がどのようなものであろうと、その物体が波動のようなものか、粒子のようなものかということは、それぞれ最初から物体として独立していて、測定法と、その物体が何かということは無関係だといえる。

ところが、量子物理学者たちは、あなたたちが、その物体を波動の挙動(干渉)、として観測するか、あるいは、粒子の挙動(無干渉)として観測するかによって、その最終的な実際の観測記録が違ってくると予測してきた。

そして、この予測について、オーストラリア国立大学のチームが実験で証明することに成功したのだ。

オーストラリア国立大学の物理学工学研究所のアンドリュー・トラスコット( Andrew Truscott )准教授は、

「この実験は観測がすべてであることを証明しました。量子レベルでは、あなたがそれを見ていないのなら、それは存在しない、ということになります」

と述べる。

この実験の結果は、非常に小さなものに支配されているとする量子理論の妥当性を確認することになる。そして、この理論は、 LED 、レーザーおよびコンピュータチップ等の多くのテクノロジーの開発を可能にしてきたと研究者たちは言う。

オーストラリア国立大学のチームが成功した今回の実験は、ホイーラーがこの実験を提唱した 1978年には、実験を行うことがほぼ不可能と思われていた。

トラスコット准教授のチームの実験は、最初に「ボース=アインシュタイン凝縮」として知られる停止状態の中で、ヘリウム原子の集合体によって物体が補足され、それらは、最後の単一の原子が残るまで排出された。

単一の原子は、その後、対向伝搬レーザー光を介して落下した。これは、固体の格子が光を散乱するのと同じ方法での格子パターンを形成した。

その軌跡を再結合するために第二の光格子をランダムに加えると、これは、建設的に、あるいは、破壊的な干渉へとつながった。

第二の光格子が加えられなかった場合には、干渉は観察されなかった。それは、あたかも、原子が一つの軌跡のみを選択したかのようだった。しかし、原子が交差点を通過した後、格子が追加されたかどうかを決定する唯一の乱数が生成されたのだ。

トラスコット准教授は、「原子は特定の軌跡を取り、あるいは、将来の記録が原子の軌跡に影響を与えることを受け入れた、ということになります」と語る。

「原子は、AからBへと旅をしたのではないのです。彼らは、その旅の最後に、それらが波動か、あるいは粒子か、どちらかの振る舞いが観測された時に、初めて彼らに、それが波動か、あるいは粒子かという存在がもたらされたのです」と准教授は述べた。

この実験結果は、科学誌ネイチャーに掲載されている。





(訳者注)ここまです。本当に途中からは読んでもまったくわからなくてすみません(苦笑)。

要するに、後半に書かれてあることは、

原子は、観測された結果があった時に、はじめてその物質の特性が決まる

ということだと思います。

ということは、物質は「観測されるまでは特性がない(つまり、存在しない)」ということになることを、この実験は導いたようです。

しかし、今の社会(唯物論的な理論で構築されている社会)で、私たちはこのような見解を信じることは難しいです。

それが変換するためには、シュタイナーが「唯物論的な認識から精神的な人類へと進化しなければならない」と述べていたようなことや、あるいは、チジェフスキー博士が言うように(過去記事「私たちに残されたかすかな「破局の回避」の可能性のために…」)

「人間が精神圏へ移行する」

というような未来があったとする場合、私たちの宇宙への認識もまた変化して、その場合、それはもう想像も絶する素晴らしい宇宙が出現しそうな気もします。

自由な人間の認識に基づいた「変幻自在な宇宙」です。

そして、これが弥勒の世界というものかもしれないということにも気づきます。



  

2015年05月29日



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Anti-Cancer_Drug.jpg
The human immune system is the best “anti-cancer drugs.”






 


中東呼吸器症候群 / MERS なんて病気は、遠い離れたところのものというようなイメージがあった以上に、何だかもう「過去のもの」として忘れていたような部分もあるのですが、5月27日に「韓国で突然、患者が発生して、患者数が拡大しつつある」ということになっています。

MERS はわりと強力な病気でして、気になるといえば気になりますので、ちょっとそのことを。

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突然、お隣の国へと近づいた中東呼吸器症候群

韓国という国は、以前ほどではないとはいえ、日本との人的な接触を伴う交流が最も大きな国のひとつです。

その「すぐ近くの国」で発生したこの MERS (マーズ)という病気は、致死率が 50%程もある、現在流行している病気の中でも最大の危険性を持つウイルスのひとつです。


MERSコロナウイルス- Wikipedia

2012年9月に初めて報告された(感染者の入院は6月13日、死亡は6月24日。サウジアラビアのジェッダ)。肺炎を主症状としており、死亡率が40-50%前後と非常に高い。

2014年1月17日現在、感染者178人、死亡者75人(うちサウジアラビアでは142人感染、58人死亡)。



という、とて高い致死率を持つ病気で、困るのは、「特別な治療法がない」ことです。

ただ、上の Wikipedia にあります、これまでの世界での患者数の推移を見てもわかる通り、それほど強い感染力はないと私は思っていました。

しかし、今回の韓国での拡大の早さは、以前の MERS と違う感じなのではないのかとも思ったり・・・。

たとえば、韓国の最新のニュースでは、「診察した医師も感染」したようです。

korea-mers-01.gif

▲ 2015年05月27日の韓国 sisaweekly.com より。


そして、こういう状態の中で、最初に発症した患者さんが「広範囲に人と接触した可能性」が出ています。韓国中央日報の記事からです。


8人目のMERS患者、8日間会社・病院に通い数百人接触=韓国
中央日報 2015.05.29

中国に出張に行った40代の男性が中東呼吸器症候群(MERS)感染者だと明らかになる中で、追加感染(3次感染)の懸念が広がっている。

この男性が接触した職場の同僚や同じ航空機に乗った乗客ら数百人に危険範囲が拡大した可能性がある。6人目の患者もいまだに正確な感染経路が分からず不安感を高めている。

このため6人目の患者が感染後に行った首都圏のある大学病院が集中治療室を閉鎖したという変なうわさまで出回っている。



うーん・・・。

感染が広がらなければ、それに越したことはないですが、先ほども書きましたけど、とにかく、日本と韓国は、旅行にしろ、ビジネスにしろ、人と人の交流が強いですから、日本に入ってくるような可能性がなければいいですが。

致死率 50%の伝染性の病気が日本に入ってくるのはさすがに厳しい。

こういうのにかかれば、そりゃ病院に運ばれることになるのでしょうけれど・・・何かこう、以前にもまして、病院というものへの信頼が揺らいでいるところが強くなっていまして。




何がガン患者たちを死に向かわせているのか

何かこう、最近、立て続けに、芸能人の方とかのガンでの訃報を目にします。

それがどなたの訃報記事かというのは別として、読みますと、たとえば、ある方の記事の中には、

> 治療は2週間に1度のペースで、4種類の抗がん剤を2種類ずつ組み合わせる形で行っていた。

とあったり、あるいは、やはり昨日亡くなった別の方の記事では、

> 抗がん剤治療を行うなどして11月5日に退院。抗がん剤治療を継続しながら3カ月後の…

という下りがあったりして、「急激に容体を崩して」亡くなっていく方々の治療が、どれも同じ方向での治療であったことがわかります。

そして・・・この方々は有名人ですので、このように取り上げられていますが、おそらくは、同じようなかたちで、毎日毎日 1,000人ほどが亡くなっていることになると思います。

この「毎日 1,000人」というのは、2014年の日本のガン死亡者の数 36万 7,100人を 365日で割ったものです。

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国立がん研究センター

日本中のガン治療にあたるお医者さんたちは、毎日毎日、3大治療で治らずに死んでいく患者さんたちを夥しく見ているはずなのに、それでも方向性は変わらない。

そして、ガンで亡くなる人の数は、毎年毎年うなぎ登りで増えていて、ここ数十年は減った年がないという。

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厚生労働省


過去記事の、

毎年50兆円が医療費と介護費に消えていく国家の中で「地獄化し続ける老後」…
 2015年05月19日

に、新潟大学名誉教授の安保徹さんの「医学生時代の苦しい経験」を記したことがあります。


安保徹 × 石原結實 対談『体を温め免疫力を高めれば、病気は治る』より

東北大学を卒業した後、青森の県立中央病院で2年間、内科の研修医をやりました。「父のように患者さんを治し、世のため人のために尽くそう」と理想に燃えていました。

でも、夢は無残に打ち砕かれました。

私が勤務していた間、15人のガン患者さんを担当しましたが、一生懸命に手を尽くしても、次々に亡くなっていくのです。生還率はゼロでした。

ほどほど治る患者さんも混じっている環境なら、「たまに亡くなるなら仕方ない」と割り切ることもできるのですが、15人が 15人とも、バタバタと亡くなっていく。強い抗ガン剤を使う結果、あっという間に弱っていくのです。

あまりにも、みんながみんな、具合が悪くなって死んでいくので、「ああ、これはダメだ」と思いました。

自分の無能力にさいなまされ、患者さんへの慰めの言葉も見つからないような状況で、私は絶望し、最後には無気力になってしまいました。

「こんなことを続けて、本当に病人を救えるのだろうか?」と、現代医学に疑問を抱いたのはそのときです。



この若き日の安保医師が思った、

「こんなことを続けて、本当に病人を救えるのだろうか?」

と、今のお医者さん方は思わないのだろうかと・・・。

まあ、別に非難めいたことを書きたいわけではないですが、「本当にこの方法は患者さんに対して効果的なのだろうか」と、ほんの少しだけでも疑問を持つ人たちはいないのだろうか・・・というようなことは、どうしても思ってしまいます。

芸能人の方なら、お金も多少はあるでしょうし、医療関係者の知り合いも多いだろうに、結局は「同じ方向」での治療に進み、そして、ほぼ助からない

今、日本の医師の数は 30万人いて、過去20年間で 50%増えたことが、JB Press の記事に書かれています。

この中で、ガンと向きあう医師の数がどのくらいいるのかはわからないですが、「何万人」に近い単位でいても不思議ではないです。

その「何万人」のほとんどの人たちが、同じ方向でのガン治療を行っている。

しかも、この「3大治療」に固執する傾向は、今では先進国では、おそらくは日本だけではないかと思います。

たとえば、アメリカのガンでの死亡率は、この30年間、劇的に減っていて、ガン患者そのものも減り続けています。

下は、アメリカの死亡率の推移を示すグラフですが、こういう曲線となっていて、今のアメリカのガン死亡率は、1990年代からどんどんと下がり始め、今は 1970年代くらいのレベルまでに戻っています。ガンの死亡率が増え続ける日本とは真逆です。

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アメリカの死因の推移


これは、アメリカが30年くらい前から、放射線治療、抗ガン剤治療、手術などの三大治療から脱しはじめて、食事、健康食品、東洋医学、瞑想、音楽療法などをはじめとした「代替医療」の比重を高くすることを、国家プロジェクトとしておこなったためのようです。

日本の癌治療は、アメリカの20年以上遅れている!」というサイトには、 WHO (世界保健機関)が、医学的根拠があるとして認めている代替え医療、

・栄養免疫学を背景とした食事療法
・機能性食品などのサプリメント療法
・ストレスを減らして免疫力を高める心理療法
・東洋医学(漢方・鍼灸・気功など)
・インド医学(アーユルヴェーダ)


などに関して、現在のアメリカでは、約 60パーセントの医師が代替え医療を推奨しているそうで、その結果は、上のグラフに現れていると思われます。

つまり、抗ガン剤や放射線治療から抜け出したことにより、「ガン死亡者を減らすことにアメリカは成功しつつある」ようなのです。

エビデンスがどうのこうのではなく、三大治療をやめれば、「ガン患者はあまり死ななくなる」ということが、アメリカとヨーロッパの医療で確認されているのに、なぜか、日本では、死にやすくなる方向の医学ばかりになる。

ヨーロッパなどでは、もっと過激で、「ガンには何もしない」という治療法が普通に存在していることが、安保徹さんと船瀬俊介さんの共著『ガンは治るガンは治せる―生命の自然治癒力』(2007年)には書かれています。

スウェーデンのガン治療

早期前立腺ガンの患者 223人を「まったく治療せず」10年間、経過をみた。その間に 124人が死亡しました。しかし、ガン死だったのは、わずか19人。よって、研究者たちは「手術による前立腺全摘は標準的治療とはいえない」と結論付けています。

日本では男性諸兄は前立腺ガンで病院を訪ねると例外なく切られる″。あるいは放射線を浴びせられる。しかし、スウェーデンの医者たちは、これら治療を「必要ない」という。だから、スウェーデンの前立腺ガン治療″は「何もしない」で様子をみるだけ。




カナダのガン治療

肺ガンも、日本では、ほぼ 100%抗ガン剤を盛られ、放射線を当てられ、手術で切られます。ところが、カナダでは、もっとも多い治療法は「何もしない」なのだ。なんと「無治療」が 22%。

最近の研究では、「何もしない患者が、もっとも治りやすい」ことが、わかってきたという。

「手術」は、たったの 6% (日本は 17倍)。抗ガン剤は 5%(日本は 20倍)。「抗ガン剤」と「手術」は 12%(日本は 33倍)。日本では、国際的レベルにくらべて、抗ガン剤は 20倍、手術は 17倍も多い。




アメリカの場合

アメリカ医学界も急激に「三大療法」から代替療法になだれを打っています。まさに 1990年のOTAリポートが、大転換点となったのです。

アメリカ政府の代替療法への予算は、1990年以降の 10年間で、300万ドルから 2億ドルへと、67倍にも激増。すでに六対四で、ガン治療の現場でも代替療法が優位に立っています。

そのためアメリカでのガン死者は年々約 3000人ずつ減り始めています。



また、アメリカついては、以下のような記事もありました。


がん患者の9割強が代替医療を経験〜米国最新がん事情
米国代替医療への道

米国が「がん」に宣戦布告したのは1971年。ヴィクトリーまでの道のりは まだ遠いが、死亡率は年々減少傾向を示している。

がん予防で「納豆」 など日本の伝統食が注目され、既存の西洋医療と代替医療を組み合わせた 治療効果への関心も高まっている。 (略)

がん患者の97%が代替医療を試みる

死亡率減少という朗報に加え、がんと代替医療に関する興味深い調査報告も 最近発表された。フレッド・ハッチンソン癌リサーチセンターの調査報告で、 1997年2月から1998年12月にかけて乳がん、または前立腺がん、大腸がんと診断されたワシントン州西部に住む大人356人を対象に電話でインタビューしたところ、約97%がなんらかの代替医療を利用しており、その結果、ほぼ全員が体調がよくなったと答えたという。



ここで注目すべきは、代替医療によって、

> ほぼ全員が体調がよくなったと答えたという。

部分です。

上の記事によりますと、アメリカの代替医療には、

・マッサージ療法
・バイオフィードバック(体内活動の状態を測定し、その情報を音や形などで示す)
・催眠療法
・イメージ療法(患者の想像力を使った療法)
・クリスタル療法(パワーストーンを使った療法)
・キレーション療法(キレート剤を点滴して行う解毒治療)
・マグネット療法(磁気療法?)
・サプリメント利用
・音楽療法
・瞑想
・ヨガ


などがあるようで、今ひとつわからないものもありますが、アメリカでは、ガン患者の 97%が、これらを利用していたというのです。

ちなみに、上に「音楽療法」というものがありますが、この原点は、聖書にあるようで、新約聖書「サムエル記」というものの中に以下のくだりがあります。

サムエル記上/ 16章 16節

王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。

サムエル記上/ 16章 23節

神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。

竪琴は、最近の話の流れでいえば、ライアーと同系統のものですね。

ライアー(シュタイナーの発案が後に具現化した竪琴)
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リラ・コスモス HP




日本が抗ガン剤市場のターゲットにならざるを得ない事情

しかし、上の欧米の「三大療法からの離脱ぶり」を見て、ふと思ったのです。

「ああそうか。アメリカやヨーロッパでは、抗ガン剤があまり売れていないんだ。・・・とすると、抗うつ剤と同様にターゲットにする国は・・・」

そう、日本です。

あるいは、今のアジアの国は、どこでも西洋薬が大好きなので、中国や韓国も大きな市場になるかもしれないですが、それでも、薬漬け大国の日本は最大のマーケットなのだと思います。

なので、売り手としては、

間違っても、日本というこの特大市場を逃していけない。

間違っても、日本で代替え医療とか食事療法が主流になってはいけない。

間違っても、東洋医学やアーユルヴェーダを行う医者が出てきてはいけない。


・・・ということなのかもしれないですね。

残念ですが、製薬会社にとって、今後も日本はどこまでもターゲットになり続けるような気もします。

下は、2013年の医薬品の売り上げ上位10位です。

2013年度決算・医療用医薬品国内売上高ランキング
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2013年度決算・医療用医薬品国内売上高ランキング


1位のプラビックスというのは、血液をさらさらにして、血栓の治療に使う薬だそうですが、1168億円の売り上げです。

あとは、降圧剤が多数ランクインしています。

降圧剤が、

・寝たきり老人や認知症を増加させている可能性
・脳梗塞を増加させる
・ガンを増加させる可能性


については、それらを提唱している医師たちの主張などを、

健康ブームの中でガンが増え続ける理由…
 2015年04月10日

の中で書いていますので、ご参考下されば幸いです。

私自身は、降圧剤というのは、この世にある薬の中で最も不要なもののひとつだと認識しています。

そういえば、うちの父親が降圧剤を飲んでいることを最近知りましたので、何が何でもやめさせるつもりですけれど、もちろん、こんな「降圧剤はやめなさい」などということは、身内以外には言えないですので、どんな薬でも、飲む飲まないはもちろん自己責任ではあります。

私は基本的に、

「一生飲み続けなければなりませんよ」

と言われて処方される薬には「医療の放棄」を感じます。

つまり、「一生飲み続けなければなりませんよ」というのは、処方した医師が、「私にはその病気や症状を根本的に治すことはできませんよ」と言っているに等しいからです。

上の「売り上げランキング」に戻りますと、DPP-4阻害剤というのは糖尿病の薬で、抗リウマチ、鎮痛消炎剤、抗ガン剤、と続きます。

ちなみに、上の表のページでは、売り上げが 100億円以上あった薬をすべてランキングしていますが、抗ガン剤のアバスチン以外にも、

売り上げ 100億円以上の抗ガン剤は 15種類

もランクインしていました。

ちなみに、抗ガン剤は、2014年はさらに売り上げを伸ばしていて、2013年は8位だったアバスチン(売り上げ 754億円)は、医療ニュースのミクス Online によりますと、2014年は「2位」にまで浮上し、売り上げも 1000億円を突破したそうです。


14年の国内医療用薬市場 抗がん剤アバスチンが売上1000億円突破
ミクス Online 2015.02.13

IMSジャパンは2月12日、日本の2014年(14年1月〜12月)の医療用医薬品市場が薬価ベースで 9兆9834億2600万円、前年比1.4%増だったと発表した。

前回薬価改定があった12年は前年比0.7%増だったが、14年は4月の消費税率引き上げ相当分が薬価に加わったこともあり、前回改定時よりも伸び率が大きく出たものとみられる。

製品別売上をみると、抗がん剤アバスチンが売上1000億円を突破し、国内製品売上ランキングで第2位となった。



日本の1年間の薬の売り上げが 9兆9834億・・・。

貨幣経済か資本主義が崩壊でもしない限り、この輪廻から抜け出すのは容易ではなさそうです。

ところで、西洋医療でガン治療を受けた場合でも「ツイていた時」には、生還できることがあるのだなあという話を最近うちの奥さんから聞きました。




ステージ4の末期ガンが見つかってから15年間元気な女性

うちの奥さんは、介護関係の仕事をしていますが、昨日、以下のような会話をしました。

奥さん 「あなたは抗ガン剤は良くないって言うけど、何となくそう思っちゃうことがあった」
わたし 「どんなこと?」
奥さん 「いつも介護に行く女性の方なんだけどね、この間行った時に、『わたし、末期ガンだったのよ』って言うのよ。驚いて『ガンが見つかったんですか?』って訊いたの」
わたし 「うんうん」
奥さん 「そしたら、笑って、『違う違う、15年も前の話よ』って言うの。何でも、喉頭ガンのステージ4の末期だったらしいの」
わたし 「喉頭ガンの末期から 15年?」
奥さん 「その方はね、『ツイていたのかどうかわからないけど、先生もいい人だったし、15年間、再発も転移もないのよ』って言うのね。それで訊いたら、その時の担当医は、『抗ガン剤も放射線治療も必要ありません』って言って、手術だけして、それで終わりだったんだって」
わたし 「あ、そりゃツイてる」
奥さん 「そして、『そんな経験してるから、ガンはそんなにこわくないと思うようになったのよ』って言ってた」
わたし 「でも、喉頭ガンで手術したら、喉に不自由が残るのでは?」
奥さん 「喋るのに少しだけ不便があるけど、生活は大丈夫だって」
わたし 「そういういいお医者さんに会えるのも人徳かね」


この

> 「ガンはそんなにこわくないと思うようになったのよ」

というだけでも、これは一種の覚醒ともいえるような気もします。

もちろん、ガンはどんな治療をしても、あるいは、治療をしなくとも、それで死んでしまうこともあるでしょうけれど、先ほどのスウェーデンの実験にあった、


早期前立腺ガンの患者 223人を、まったく治療せず10年間、経過を経過をみた。
その間に 124人が死亡しました。
しかし、ガン死だったのは、わずか19人。



というのを見ましても、特に高齢の場合、「積極的治療」の意味とは何なのか、ということも問われているような気がします。ガンになりやすい高齢では他にもいろいろと死因はあるわけで、どうやったって、いつかは人は亡くなるのですから、せめて、抗ガン剤での激しい苦痛など経験なしに、そこに辿りつきたいとは思います。

しかし、先ほどの欧米のガン医療の現状を見ましても、アメリカやヨーロッパでは、抗ガン剤などの使用量が相対的に少なくなっているため、その売り上げを「補う」ために、今後も日本では抗ガン剤での医療はさらに継続、あるいは拡大していきそうです。

今ではガンは身近なものです。なってしまった時にどうするかを決めるのは、最終的には自分の意志であるべきだと考えます。そして、なる前からそのことは考えていいはずです。



  

2015年05月22日



In Deep のトップページは http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





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Fight Cancer With Immunotherapy



魂の叫びで治癒が「開始」されたような

私は気質的に強迫観念的な部分が強く、これは簡単に書けば、「〇〇恐怖症」というものに陥りやすかったり、不安障害とか過剰なトラウマに「とらわれ」やすいタイプといっていいかもしれません。

人生の中で、調子の好不調の「波」のようなものはあるにしても、気質は一貫して変わらないものだと思っていましたが、最近、少し変化しつつある自分に気づいています。

キッカケはかなり明白で、半月くらい前でしたか、また本なんですが、医学博士の岩井寛さんという方が、今から 30年ほど前に書かれた『森田療法』という本をパラパラと読んだ頃から、急速に「変化の兆し」が現れています。

これは、先月の終わり頃に書きました、

「恐怖からの解放」についてのメモ
 2015年04月29日

などでも記しました、私が今の「世」の中でおこなわなければならないこととして、

「生まれた時から持つ根源的な恐怖と対峙して、これを消し去る」

ということに少し近づけるかもしれないということとも関係しています。

何十年もウダウダグダグダと停滞していたことに関して、まったくの急転直下の様相ではありますけれど、もちろん、「兆し」だけであって、まだまだではあるのですが。

この『森田療法』という本は、タイトル通り、神経症治療の森田療法に関しての本で、最初の方は理論的な記述が延々と続く、学術本にも近い新書なのですが、特徴としまして、言葉のひとつひとつが異常に胸の中に突き刺さってきます。

この著者の岩井寛さんという方は、この本を書き終えた翌月にガンで死去されるのですが、実は、書いている時に、すでに、目も見えず、耳も聞こえず、動くこともできない状態であり、すべては「口述筆記」で書かれたものでした。

このあたり、うまく書けないですので、Amazon の書評から載せさせていただきます。

私も大体において、同じような感想です。


魂の書

新書本にありがちな平板な概説書かと思い大して期待せずに読み始めたが、さにあらず、筆者の魂のこもった壮絶な書だった。

筆者は、末期癌の病床で視力をも含む体の機能の過半を失いながら、自己の生きる意味を追求するため、口述筆記によって本書を執筆した。

たとえ不安や恐怖に押しつぶされそうになっても、たとえ絶体絶命の状況に置かれても、それを「あるがまま」に受け入れ、自己実現のために一歩でも踏み出していく、そうした森田療法の精神を本書の執筆それ自体により筆者は具現化して見せたのである。

本書の中で紹介される幾多のエピソードは、筆者の人生の記録そのものである。数度の流産経験を経てやっと授かった我が子が、生後間もなくして死亡する。その際、悲しみに満ち溢れつつ、筆者は赤ん坊の死顔を夢中でスケッチブックに描きとめた。傍目には異常とも思えるこの筆者の行動もまた、筆者流に解釈した森田療法の実践であった。

これほど読み手の心を揺さぶる新書本を私は他に知らない。魂の書である。



この著者の最期がどのような状態だったかは、本書の「おわりに」の最後の部分を読むとわかります。


岩井寛『森田療法』おわりに − 生と死を見つめて

現在の筆者はといえば、昨年九月に手術をし、年が明けて二月に、二週間ばかり退院をしたのも束の間のこと、化学療法のために再び入院することになった。

そして、腫瘍が身体中に転移して神経を圧迫し、下半身がまったく動かない状態でいる。つまり、知覚の他に行動の自由さえもぎ取られてしまったといってもよい。

だが、筆者はこのような状態にあってもなお、口述筆記を行っている。

まだ筆者の人間としての知性は覚醒の状態にある。疼痛がいつ筆者の言葉を奪ってしまうか、癌細胞の転移がいつ筆者の脳細胞をめちゃくちゃに破壊してしまうか、それはわからない。

しかし筆者は、自分が可能な限り、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、身体が動かなくても、”人間としての自由”を守り通してゆきたいのである。(1986年4月)



この翌月、岩井さんは死去されます。

ちなみに、一応書いておきますが、死に際しても書き続けたからすごいのではなく、単純に「内容がすごくいい」のです。

しかし、この著作が、筆者の魂の書であることは事実であるとしても、「どうして、こんなに体の中にまで文字が沁みていくのだろう」と考えました。

死に際して書かれた本はこの世に数多くありますが、そのすべてが人に死ぬほどの感銘を与えるというわけではありません。ところが、この本からはストレートに神経症(質)の人たちの心の中に飛び込んでくるものが多々あるのです。

いろいろと考えてみたのですが、この本が、

口述筆記

だということは大きいのかなという気はしました。

普通、本というのものは、作者が「頭で考えたこと」を「文字として書き写す」という流れになると思います。途中に「言葉」は介入しないはずです。

要するに、書く内容について、「その文字を口にしながら」書くという人は普通はいないと思われます(まあ、いるかもしれませんが)。

ところが、この岩井さんは、すでに目は見えない、耳もほとんど聞こえない。

・音や視覚の感覚を受けることができない
・体が動かない


という絶望的な状況にいたわけですが、しかし、音も光も受けることはできなくとも、口は動く。

つまり、「ことば」は残っていたのです。

そして、自分の頭の中から、そのまま言葉として口から出たものが記録された。

この本は、「言葉の記録」であり、「コトダマの記録」といってもいいものなのかもしれません。

発売から 30年近くを経て、今でも Amazon の「ストレス・心の病気」カテゴリで、ときに1位であり続けていることも、そのせいなのかなと思います。

というか、長く神経症をやっていたのに、29年間もこの本のことを知らなかった私がひどい。まあ、ギリギリで知ることができてよかったです。

神経症、特に「〇〇恐怖症」的な傾向に陥りやすい方には、「聖書」だと思いますが、そういう気質のない方には、何だかわからない本かもしれません。

なお、最初のほうは難しい理論が続きますので、後半の「神経症の治し方」など、興味のありそうなところから読むほうがいいかもしれません。そのほうが引き込まれる部分があるように思います。

さて、この本の内容のことで長くなりましたが、この岩井寛さんの『森田療法』をご紹介しようと思ったのは、この中に、最近話題としています「肯定的態度」と結びつく場所が各所に出て来るのです。

そして、

「肯定的態度に向かうための現実的な方法」

が書かれていることがあります。

もちろん、岩井さんがそのような「肯定的」というようなことを意識して書いた(述べた)ものではなく、自然とその方向に向かっていたということになります。

フランス映画『美しき緑の星』の中などでも随所で示される「肯定的態度」の基本は、私は「他者に対しての寛容性」だと思っていますが、そこに近いことが、岩井さんの著書に様々に書かれています。

その中のひとつをご紹介します。

この部分も、岩井さんの「口から出た言葉」の記録です。


岩井寛『森田療法』「ゆるし」から「あるがまま」に より

「ゆるし」は、自分自身に向けられると同時に、他者にも向けられる。”人間はこうでなくてはいけない”というような”自己規制”にがんじがらめにされている人が多いが、もっとおおらかに、自由に行動することが許されているはずである。

人生はたかだか七十年か八十年であり、そのなかで窒息するような生き方をするよりも、自由に空気を吸うことが許され、自由に行動することが許されると考えたほうが、人間の本質にそっているはずである。

わずか数千年の歴史の間に、人間は自分たちを縛る法律や規則にがんじがらめにされ、さらに、現代では新しいテクノロジーに束縛され、大きく自由を失いつつある。

それぞれの人間が互いに支障なく生きるために、さまざまな制約が必要になるとしても、心の自由はもっと豊かに広げてよいはずである。

そのためには自分に対する「ゆるし」が必要であって、さまざまな物事に行動を通して賭けてみたり、いろいろなアバンチュールに身を挺してみたらよい。

また、自分に対する「ゆるし」が拡大されればされるほど、他者に対する「ゆるし」も拡大されるのであり、つまらないことにいちいちめくじらを立てたり、やたらに人の行動に気をつかったりすることなく、おおらかな目で人を見やり、人の行動をより豊かに許したらよい。

このような「ゆるし」の人間関係においては、両者の思考範囲や活動範囲は、より豊かに拡がるのであって、そこに暖かい人間としての連帯関係が生まれてくる。



これは、今から 30年くらい前に書かれたものですが、私個人が思い返す部分では、その時代のほうが、少なくとも今よりはずっと自由だったと思います。

それでも、岩井さんの感じ方では、その 30年ほど前の時代は、

> 人間は、大きく自由を失いつつある

ということだったようで、岩井さんが 30年後の今の日本を見たら、さらに驚くのではないのでしょうかね。

確かに、30年前より街もきれいになりましたし、あるいは 30年前より殺人事件等も大幅に減っていて、数字だけ見れば「どんどん平和になっている」といえなくもないです。

1947年から2010年までの殺人事件の数の推移
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年次統計


しかし、殺人は減っていても、人々の心の中は・・・。

配偶者からの暴力に関する相談件数の推移
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内閣府男女共同参画局


児童虐待相談対応件数の推移
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児童虐待相談対応件数


データの数字だけ見てどうこう言えるものではないかもしれないですが、それでもあまり健全な状態とはいえないかもしれない現状もあるのかもしれません。

こういう「配偶者間の暴力」にしてもそうですが、

他者に対する「ゆるし」

あるいは、

他者に対しての寛容性

ということと直接関係していることのようにも思えます。

あるいは、上のグラフのような状態の関係の中では難しいことかもしれないですが、

相手の良いところを努力して見つける

ということとか。

いや、確かに、人間関係がこじれた相手に「良いところを見つける」のは難しいかもしれませんが、「相手をゆるす」ということだけで、かなり違うとは思うのですが。

結局、自由でない社会は、寛容性のとぼしい、ゆるしのとぼしい社会になりやすい、ということはいえるのかもしれません。あるいは、その逆で、寛容性のとぼしい社会では、人々は自由になりにくい。

まあ、難しいことをどうのこうのと言うつもりはないですが、30年くらい前と比べましても、「ますます世の中が窮屈な感じになっている」ような気はしています。

ところで、この『森田療法』の岩井寛さんも、ガンで亡くなったわけですが、やはりお医者様でした。「おわりに」にある記述、

昨年九月に手術をし、年が明けて二月に、二週間ばかり退院をしたのも束の間のこと、化学療法のために再び入院することになった。

というのを見ましても、30年前のこととはいえ、医師でもこの「化学療法の呪縛」から逃れられないことに対しての「切なさ」ということについては、少し前に書きました、

「老いることには意味がある」ことを考えつつも…
 2015年05月13日

で、91歳で血液がんとなった元医師の話などがありますが、多くの立派な医者の方々も「3大療法」や「化学療法」を選択し、自らの体にある「ガンと戦う力」に目を向けない傾向にあるように思います。

まずは、お医者さんたち自らが「自分の体を信じる」という方向に進めば、現代医学の根本的な観念の変化にもつながる可能性はあると思うのですが・・・。

私は、このような「おびただしいガンの時代」であるからこそ、「人間が持つガンへの攻撃力」を信じる時代だと考えるようになりました。




ガンなどない時代から私たちはガンと戦える体を持っていた

最近・・・それも 5月19日のことですから、本当にごく最近、YouTune にアップされ、大きな反響を得ている動画があります。

アップしたのは、英国ケンブリッジ大学で、そのタイトルは、

キラーT細胞(細胞傷害性T細胞):ガンの刺客(Killer T Cell: The Cancer Assassin

というもので、白血球のリンパ球の中にある「キラーT細胞」といわれる、ガン細胞を攻撃してくれる細胞の動きが、特殊な撮影方法によって明らかになったものです。

キラーT細胞の役割は、簡単にいえば、

ウイルスに感染した細胞やガン細胞を認識し、その細胞を殺す

ことにあります。

人間の免疫システムの多くは、血液中の白血球にありますが、その中の「リンパ球」と呼ばれるものの一部に、このキラーT細胞があります。

人間の体の中では、毎日、ガン細胞が生まれていますが、同時に、これらキラーT細胞や、ナチュラルキラー細胞と呼ばれる細胞の働きによって、「そのガン細胞たちは毎日毎日殺されている」のです。

たとえば、キラーT細胞は、私たちの体内に数十億という単位で存在していて、全身のいたる場所で「守護」として働いています。

下の動画は、ケンブリッジ大学の動画の一部です。



私たちの体内では、自分で意識せずとも、このように、毎日、「細胞が、体の中でガン細胞と戦っている」のでした。

なので、体の免疫や体温(高いほどいいです)が正常であるならば、ガンは、細胞以上の組織になることはできないというのが人間の体の基本的なメカニズムのようです。

おもしろいと思うのは、大昔の、たとえば縄文時代や弥生時代とか、それ以前の人間にはあまりガンがなかったと思われるのですが、そんな時代の人間でも、白血球の組成は同じだったはずです。

つまり、大昔から、人間は、その後の時代の「過剰にガンが多い時代に対抗する体内のシステム」を持っていたということになりそうです。

おそらくは、化学物質も発ガン物質もほとんどなく、また、ガンという病気そのものもあまりなかったのではないのかと思われる縄文時代とか弥生時代の人間の体内にも、「ガンと戦うキラーT細胞」はあったはずで、ここから考えますと、

「人間はこの地球に登場して以来、その体はガンの時代を生き抜けるように設計されていた」

という驚異に気づきます。

今のような、過剰なストレス、過剰な化学物質の時代の中でもサバイバルすることのできるためのシステムを、自然ばかりの中で生きていた人間も、すでに体に備えていたわけです。

なので、よほどの環境の激変でなければ、自然に従って生きている限り、人間はそうそう滅びるものではないものなのだと思います。

ただし、

> 自然に従って生きている限り

ということが、現代社会では難しいこともまた事実なのかもしれません。

ストレス、生活時間のサイクルの問題、様々な物質、食べ物の問題、そして、薬。

ガンが劇的に増えている原因は、これらのすべてが作用し合っているのかもしれません。そして、ガンになってしまった場合は、本人の希望次第でしょうが、「抗ガン剤治療」なども始まり、「人間の体の自然」はさらに乱されると理解してもいいのかと思われます。




人間の持つ免疫を思うと、うかつに薬には手が出ないかも

キラーT細胞だけではないですが、免疫として働いてくれている細胞も、やはり「細胞」ですので、人間の細胞の働きを弱くするものを体に入れると、免疫細胞も弱くなり、ガンへの抵抗力も弱くなると考えても構わないようにも思います。

西洋薬に関していえば、わりとどんな薬に関しても、細胞の働きを弱めてしまう作用はあるようにも思いますが、たとえば降圧剤に関しては、松本光正医師の『高血圧はほっとくのが一番』に以下のようにあります。


松本光正『高血圧はほっとくのが一番』より

免疫細胞は、体に入ってきたウイルスなどをやっつけてくれる。それだけでなく、体内に出現したガンや、ガンに発展しそうな異常細胞を見つけて、それを消し去ってくれる。

カルシウム拮抗剤は免疫を弱めてしまう。そのため、普通なら摘み取っていたガンの芽を放置してしまうのだ。

1993年の茨城県の調査によると、降圧剤を飲んでいる人は、飲んでいないに比べて、ガンによる死亡危険度が 1.14倍、しかも、男性に限ると 1.3倍大きいという結果が出ている。



また、「薬を使わない神経科医」として知られる心神診療室院長の高木智司医師は、健康冊子の中で、抗アセチルコリン剤(かぜ薬をはじめとして大部分の薬)が、体に良くない理由として、以下のように記しています。


西洋薬の大部分が、神経伝達によって最終的にアセチルコリンの作用を阻害するから、病気が治らないのです。

しかも、アセチルコリンの働きは実に多様です。細胞膜の重要な成分として膜の機能を調整しているし、脳では体の日内リズムの形成や記憶、感情などを司る働きもしています。

アメリカには、「抗アセチルコリン剤を継続的に服用している高齢者の8割に、軽度の認知障害が認められる」との報告があります。これは、弊害のひとつに過ぎません。抗アセチルコリン剤の常用は老化を促進し、脂肪肝、腎臓の壊死、動脈硬化、脳出血、うつ病、統合失調症、発達障害などの発症リスクを高める事実を知るべきでしょう。



ここに、

> (アセチルコリンは)細胞膜の重要な成分として膜の機能を調整している

という記述があります。

西洋薬(抗コリン剤)のほとんどは、このアセチルコリンの作用を阻害するので、「たくさん飲めば飲むほど、飲む期間が長期に渡れば渡るほど」、体はガンへの抵抗力を弱くする可能性があるのだと思われます。

ちなみに、今年1月には、

抗コリン薬3年超服用で認知症1.5倍
 m3 2015.01.30

という医学ニュースもありました。

記事の中に、

> この抗コリン作用は基本的に末梢神経のものですが、脳への作用も皆無ではありません。

とあり、つまり、抗コリン剤は、脳細胞へのダメージも含め、さまざまな細胞に影響を与えることがわかります。抗コリン剤とは特別な薬ではなく、かぜ薬とか鼻炎薬、花粉症の薬から、めまいの薬、抗不安剤、抗うつ剤など、日常的な薬です。

ものすごく簡単に書けば、

・かぜ薬を飲むたびにガン細胞への攻撃力が弱くなり、ガンと、そして認知症へ近づく
・鼻炎の薬を飲むたびにガン細胞への攻撃力が弱くなり、ガンと、そして認知症へ近づく
・抗不安剤を飲むたびにガン細胞への攻撃力が弱くなり、ガンと、そして認知症へ近づく
・抗うつ剤を飲むたびにガン細胞への攻撃力が弱くなり、ガンと、そして認知症へ近づく
・睡眠薬を飲むたびにガン細胞への攻撃力が弱くなり、ガンと、そして認知症へ近づく


etc… etc…

zzz… zzz… (眠ってどうする)


あ、いや、とにかく、薬があまり良くない理由のひとつとして、上のようなことが言えると思えてきています。

いずれにしても、ケンブリッジ大学の動画にあるように、私たちの多くの細胞が、基本的に、私たちを守るように働いています。

その守護者の大きさは下のようなものです。

k-t-1mm.jpg
Cambridge University

ガンを攻撃する細胞は、こんな小さなものですが、これが昼夜、自分たちを守ってくれている。

そして、キラーT細胞たちが守り切れないほど体のバランスが崩れた時に、人はガンになりますが、それでも、その「ガン組織化する」という発症過程さえも、過去記事の、

「ガン発生のメカニズムも、また人間に与えられた優れた機能」だということをほんの少しだけ書かせていただきます
 2015年05月12日

にありますように、「発がんは不利な内部状態を克服するための適応応答」だという安保徹博士の意見を知ったりし、ガンもまた「回復過程としての体の反応」だということを知るにいたります。

もちろん、何をどうしても、人間はいつかは死んでしまいます。

それは仕方ないことですが、やはり、どうも私などもそうですが、「人間」という存在の実相をあまりにも軽視して生きていたようで、その真実はすさまじく強いものであることがわかります。

守護者たちのために私たち本体の方ができることは、適切に食べて、適切に運動をして、適切に楽んでストレスを過度にためない(これは大変に重要だと思います)ことだけのような気もします。

そして、自分の体を信じてみることこそが健康を保つための最大のポイントではないのだろうかと最近やっと気づきました。



  

2015年05月13日



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asteroid-1999-fn5.gif

▲ 2015年05月12日の英国 EXPRESS より。






 


48時間後に通過する地球近傍小惑星 1999 FN53

物騒なタイトルですが、内容を読む限りでは、1999 FN53 」という数百メートル〜1キロメートルほどの大きさの小惑星が 5月14日(日本時間 5月15日)に地球に最接近するという内容です。

近いところを通過するといっても、距離を見ましたら、地球から 1000万キロメートル近くも距離があり、何か地球が影響を受けるという可能性はほとんどゼロだと思います。

しかし、上の記事を少し読んで、

「何かおかしいな」

と思うのでした。

というのも、私は毎日、地球に接近する軌道を持つ小惑星(地球近傍小惑星)の表をスペースウェザーで見ています。そこには、通過する軌道を持つ天体や小惑星がすべて表示されています。

しかし、スペースウェザーの表には、この 1999 FN53 という小惑星は出ていないのです。

2015年5月13日のスペースウェザーより
may-14-asteroid2.gif
Spaceweather


英国エクスプレスは通常のメディアではありますが、娯楽要素が強い傾向がありますので、もしかして、エクスプレスのこの記事はジョーク記事のたぐい? とも思いましたが、NASA 小惑星レーダー・リサーチ( ASTEROID RADAR RESEARCH )には、1999 FN53のページが存在していて、そこには「最接近 2015年05月14日」と書かれていますので、エクスプレスの記事は確かに正しいようです。

下は NASA の該当ページです。

nasa-1999-fn53.gif
NASA

どうして、スペースウェザーはこれを載せなかったのかなあという点においては不思議な気もしますが、いずれにしましても、NASA のデータの最接近距離の計算が正しければ、先ほども書きましたが、地球への影響はまったくないです。

ちなみに、地球近傍天体の最接近距離は「 LD 」という単位を使い、これは 1LD が 月までの距離( 384,401 キロメートル)となりますので、今回の小惑星 1999 FN53 の最接近距離は、

26.5LD × 384,401 キロメートル=10,186,626キロメートル

となり、約 1000万キロという遠い場所を通過していく小惑星で、計算に間違いがないのなら、何の問題もないと思います。

とはいえ、このサイズのものが、いつの日か、地球に衝突するようなことがあれば、それはまあ確かに大惨事ではありますが。

以前、フレッド・ホイル博士の『生命はどこからきたか』にある「彗星の大きさとその衝撃」の表を載せたことがあります。

tnt-1-b1.jpg
・過去記事「良い時代と悪い時代」より。

今回の 1999 FN53 は上の表での 700メートルのものと近いサイズですが、このサイズですと、広島型原爆の5万倍の破壊力があるとしています。

このようなものはどこに落ちても大変でしょうが、特に、「海」に衝突すると、深刻なことになりそうで、たとえば、過去記事の、

高さ1メートルの津波を起こすかもしれない西之島。そして、かつて高さ「100メートル」の津波を起こしたエル・イエロ島。さらには高さ「500メートル」の津波を起こす可能性のあるキラウエア火山
 2014年08月21日

で、今から 13万年前に、カナリア諸島の南西端にあるエル・イエロ島という海底火山の山体崩壊によって、高さ 90メートルの津波がかつて起きた可能性があるということなどを記しました。

地球は海の面積のほうが広いわけですから、大昔の地球でもあったように、衝突する時があれば、衝突する場所は海である可能性も高そうです。

まあ、それはともかく、なぜスペースウェザーが、小惑星 1999 FN53 の情報を載せなかったのかの謎は残ったままでした。

「うっかり記載ミスかな」とも思いましたが、スペースウェザーの記事を書いているのは、NASA の科学者であるトニー・フィリップス博士( Dr. Tony Phillips )という方で、うっかりミスは考えにくいです。

しかし、小惑星のことについては、気にしても仕方ないといえば仕方ないことですので、そういうことがあったことについてのご報告でした。


ところで、話は全然関係ないですが、最近になって

「老いることには意味がある」

ということに気づきはじめまして、今まで、年をとるのは一方的に良くないことだとして、「イヤだなあ」とか思っていたのですが、老いとはそういうものではないようです。




人間の老いというシステムの意味

昨日の、

「ガン発生のメカニズムも、また人間に与えられた優れた機能」だということをほんの少しだけ書かせていただきます
 2015年05月12日

という記事で、「ガンも自然良能」だということを書きましたけれど、「人間に与えられた機能に無駄なものはない」ということが、さらにはっきりと実感されるところです。

ということは、老いるというのは、ただ人が弱っていくことではなく、

「老いることには人間としての意味がある」

ということになりそうです。

ところで、昨日の記事の内容については、新潟大学名誉教授の安保徹さんと石原結實医師との対談本『安保徹×石原結實 体を温め免疫力を高めれば、病気は治る』がわかりやすいと思います。

2005年のもので、それほど新しいものではないですが、お二人の主張はこの頃から今に至るまで、まったく主軸がぶれていませんので、年代は関係ないと思います。

この本には、本当に、目からウロコやらウロボロスやらが落ちまくる(怖いわ)内容が随所で語られています。

さて、この「老いる意味」ということに関して、ちょっと視点を「精神科学」の方から見てみたいと思います。たとえば、シュタイナーの見解は、「老い」ということについて、またひとつ別の側面を見せてくれます。

人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』に収録されている 1907年のベルリンでの講演「人生設計」で、シュタイナーは、老年期について以下のように述べています。




1907年のシュタイナーのベルリンでの講演「人生設計」より

三十五歳から、人間はますます内面に引きこもります。もはや青年の期待、青年の憧れを持ってはいません。その代わりに、自分自身の判断を有しています。公的生活における力と感じられるものを持っているのです。エーテル体(生命体)に依存している力と能力、記憶がいかに衰え始めるかもわかります。

そして、およそ五十歳頃、物質原則も人間から退きます。骨が弱くなり、組織が緩んでくる年齢に入ります。物質原則はだんだんエーテル原則と結び付きます。

骨、血液、神経が行ったことが、独自の活動を発展させはじめます。人間はますます精神的になります。もちろん、以前の教育が正しくなされていることが、その条件です。

後半生になって、私たちは初めて未来に向かって活動します。人間が高齢になってから自分の内面に形成するものが、未来の器官と身体を形作ります。

内面に形成されたものは、その人の死後、宇宙にも寄与します。その成果は、来世における私たちの前半生において観察できるはずです。





ここに

> 後半生になって、私たちは初めて未来に向かって活動します。人間が高齢になってから自分の内面に形成するものが、未来の器官と身体を形作ります。

とあり、シュタイナーの主張する輪廻転生の観念では、

「高齢になって、はじめて人は次の世(来世)に向かっての活動を始める」

ということらしいのですね。

あんまり関係ないかもしれませんけど、みんなではないでしょうが、若い時に、たとえば、性の問題なども含めて、いろいろな意味でギラギラしていた人でも、年を取れば、どんどんと欲も得もなくなっていくというのが普通ではないでしょうかね。

たとえば、ビートたけしさんは 68歳ですが、先日の芸能ニュースで、

「ここ半年、女性に興味がなくなった。40代は凄かった、最近は女性には興味ない。仲間と飲んでいる方がいい。もっと何十年前にそういう状態だったらもっといい仕事ができた」

というようなことを言っていたりしますが、私などもそうです。

ところが、

> もっと何十年前にそういう状態だったら

というのは、望んでもそうはならないのが人間でもあります。
これは、私自身を考えても、そういうように思います。

多くの高齢者は、次第に、いわゆる「仙人」のような心持ちになっていく。

仙人といえば、昨日の記事でご紹介した安保徹さんの講演会の中でも、「仙人」という言葉が使われていました。

mit-sen-nin.gif


上の図のように、人生の最期は「仙人」となっていますが、これは冗談ではなく、「解糖系」と「ミトコンドリア系」ということに関しての大変に難しい話の流れで、人間は年齢と共に、どんどんと食べなくてもいい体質(ミトコンドリア系)となっていくので、死ぬ直前の頃には「何も食べなくて生きられる時が来る」というようなことを、冗談を交えながら語られていました。

そして、シュタイナーによれば、人間の高齢期という時は、

> 未来の器官と身体を形作る

という時期でもあるようで、人間の最晩年というのは、物質的に仙人のようだったり、精神科学的には来世に足をかけていたりという、どうにも「霊的な存在」として死んでいくものなのかもしれません。




いろいろと悟ることが自然と出てくる老いの世界

少し前に、京都新聞の、

わらじ医者、がんと闘う 死の怖さ、最期まで聞いて
 京都新聞 2015.04.26

という記事を読む機会がありました。

テレビドラマのモデルにもなったことがあるという元医師で、91歳になる早川一光さんという方が、自身が血液がんの一種である多発性骨髄腫にかかり、「医師から患者へ」となったことに関しての話です。

早川さんは、抗がん剤治療を続けながら、在宅医療を受けているのだそう。

少し抜粋します。


「わらじ医者、がんと闘う 死の怖さ、最期まで聞いて」より

多くの人をみとり、老いや死について語ってきたはずだった。しかし、病に向き合うと一変、心が千々に乱れた。布団の中では最期の迎え方をあれこれ考えてしまい、眠れない。食欲が落ち、化学療法を続けるかで気持ちが揺れた。

「僕がこんなに弱い人間とは思わなかった」。

長年の友人である根津医師に嘆いた。

根津医師には時に患者としてのつらさを、時に医師の視点から治療への疑問を率直にぶつける。ある日、こう投げかけた。「治らないのに鎮痛剤で痛みを分からなくするのが今の医療か。本当の医療とは何や」。

根津医師が迷いのない口調で切り返す。

「在宅医療では痛みや苦しみを取ることしかできない。でも、それは生活を守ること。患者のつらさを少しでも和らげる。早川先生自身もやってきた医療ではないのですか」

診察のたびに繰り返される問答。いつしか早川さんはそこに、主治医のあるべき姿を見いだした。「10分でいいから患者の悩みを聞いてほしい。患者の最期までともに歩んでほしい」。患者になったからこそ、たどり着いた答えだった。



というような部分がありまして、まあ、昨日の記事などから、いろいろと思う部分はありますが、治療法についてはともかく、

「治らないのに鎮痛剤で痛みを分からなくするのが今の医療か」

と、かつての同僚でもある医師に言って、返される答えが、

「早川先生自身もやってきた医療ではないのですか」

であること。

医者の立場からも「自分たちがしている医療はガンに有効ではない」とわかっている

この問答は、早川さんが元お医者さんだけに切ないものがありますが、しかし、上の記事では、最後のほうの下りに、

3月19日。診察が終わった後の客間で、早川さんは吹っ切れたようにつぶやいた。

「どうせ避けられないさんずの川や。上手な渡り方を勉強し、みんなに評価を問う。それが僕のこれからの道やないか」

とあり、ここにおいて、この方が一種の「悟りへの道」へと入っていっていることに気づかされます。

> 三途の川の上手な渡り方

というのは、過去記事、

パッチ・アダムス医師の「楽しく人を死なせる」ための真実の医療の戦いの中に見えた「悪から善が生まれる」概念の具体性
 2015年04月19日

で書きましたパッチ・アダムス医師の考え方のひとつである「死ぬ人すべてに短くても楽しい生を」とも、おそらくは通じるところがあるわけですが、しかし、早川さんは「三途の川の上手な渡り方」と、諦観が先に立っていて、すでに「死だけを見ている」感じなのですが、そんなことはないと思うのです・・・。早川さんご自身が「西洋医学はガンに無効」だということを認識しているのなら、他の治療法に目を向けられることを祈っています。

何しろ、せっかく、早川さんが「患者の目線になることができた」ということは、「患者にとって最高の医者になれる可能性」が 91歳になって見えてきたということですから、生きるほうに目を向けて、お元気になっていただきたいです。

ところで、上の早川元医師は、91歳とご高齢ですが、安保徹さんの講演会で、安保さんは以下のように述べられています。


安保徹さんの講演会より

80歳、90歳台の人を解剖すれば、体の中に 5個や 10個のガンの組織が必ず見つかるんですね。お年寄りの人は、(ガンを)見つける必要も何もないんです。勢いがもうないから。

せいぜい、病院に行かないようにして、体を温めていればそれでいいわ。

早く見つけたほうがいいというのは真理なんですけど、やっぱり、今のように、治療が間違っている時は、見つけたほうが不利なんですね。



年を取る、ということは、そのままでいれば、病気も拡大しにくかったりするわけで、生の勢いもなくなるけれど、対抗する病の勢いも弱くなる。

ところが、自然のままでいれば問題ないのに、今の高齢者の方々は薬漬けになっている人があまりにも多く、本来の人間身体の自然の機能がうまく働いていないと思うのです。

それどころか、薬による免疫低下や細胞機能の低下で、本来なるはずのなかった病気や、うつや認知症などをも発症させてしまう。

薬に頼らず、そのままの姿で生きていれば、もちろん苦しい症状などにも見舞われることがありますでしょうけれど、体の免疫は「死ぬ」まで自分たちの見方となってくれるはずです。

そして、最終的には、人は食べなくても生きられる「仙人」の状態で少しの間生きた後に死んでいき、その時の自我が、次の世に直接つながっていく・・・と考えると、穏やかに年をとり、弱っていって自然に死んでいくという「老いのシステム」はとても素晴らしいことなのかもしれません。

50年以上生きて、はじめて「老いることは悪くない」と思えたことに感謝したいと思います。



  

2015年05月12日



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時間や太陽や病気

なんだかこう、いろいろとゴタゴタとするような感じのこともあったりなかったりで、まとまった記事を書く時間がとれません。

いろいろと重なる時は重なるものですが、そんなこともあり、昨日は更新できませんでしたが、今日も短い記事になるかもしれません

体調やメンタルのほうも、なんだかんだといろいろあったりなかったりなんですが(どっちだよ)、まあ、この心身面に関しては、太陽の黒点状況がものすごいことになっていて、ついに 188個にまで増加したという状況になっています。

ss2015-05-12.gif
Spaceweather


上の数字が重なっている黒点活動領域 2339というのは、かなり大きな黒点群となっていて、それぞれの活動領域が、地球の大きさを上回っています。

ar2339.jpg
Spaceweather

それに加えて、大きなコロナホールとよばれる領域が通過していて、地球の地磁気も多少乱れていまして、体調や、メンタルも、なんとなく不安定になりやすい状態かもしれないですね。

ところで、最近、

「ガンもまた、人間に備えられた優れた仕組みである」

というようなことを知り得ました。







 



ガンもまた自然良能だった

以前、

人間にとって最も日常的で慈悲深い治療者は「風邪ウイルス」かもしれないこと。そして、薬漬け幼児だった私がその後の十数年経験した「免疫回復戦争」の地獄体験記
 2015年04月21日

という記事で、「風邪は体を治すためにかかる」ということを知り得たことを記したことがありますが、今度は「ガン」です。

このことは、なかなか複雑な話でもありまして、またいずれ、きちんとした形でも書きたいと思いますが、新潟大学医学部の名誉教授であり、日本自律神経免疫治療研究会の理事長の安保徹さんいう方が述べられていたものです。

キッカケは、偶然 YouTube で、安保さんの講演会を短くまとめたものを目にしたのです。
その中に、以下の文字がスクリーンに映し出されていたのですね。

ガンの仕組.png


ここには、

発がんは不利な内部状態を克服する解糖系への適応応答である

とあり、つまり、安保さんは、ガンは体を守る反応だと言っているのでした。

もう少し正確に書きますと、「ガンは遺伝子の失敗ではなく、人間が過酷な内部環境に適応するための現象」とおっしゃっています。

ちなみに、この安保名誉教授は、サイトのプロフィールにあります通り、過去において、「ヒトNK細胞抗原CD57に関するモノクローナル抗体」というものを作製したり、「胸腺外分化T細胞を発見」したりといった、よくはわからないですが、超エリート医師で、英文論文も 200以上発表している方です。

そして、研究の中で、次第に、

白血球の自律神経支配のメカニズム

というものを解明していき、少しずつ「病気と免疫の関係」を明らかにしていく中で、どうやら、「ある日、悟っちゃった」みたいなんですね。

講演会の中で、

「夜中、15分くらいの間に、ガンのできる仕組みが全部わかっちゃたんです」

というようなことを言われています。

ちなみに、この超エリート医学者である安保名誉教授の現在の、「最善のガンの治療法」というのは、

・病院に行かない
・体を温める(体温を上げる)


と、これだけでした。

また、早期発見の重要性について、早期発見はいいかもしれないけれど、現代のガン医療の治療法そのものが間違っているので、早く見つけないほうがいいとしています。

ところで、私が、この安保名誉教授をとても好きになったのは、講演会でのしゃべり方なんですね。下が私の見た講演会の光景です。




安保さんは青森出身だそうですが、その青森弁を丸出しにして、ゆっくりと話し、また、各所に脱力した笑いを散りばめていまして、話を聞いているだけでも、ストレスがやわらぐような方です。

とにかく「緊張感がまったくない人」なのです。

緊張感のない人が好きなんですよね。
私も緊張感がないので。

こういう方から、

「ガンになったら、病院には行かないで、体を温めていればいいわ」

と青森弁で言われると、「ガンってそんなもんか」と、妙な安心感が与えられるのでありました。

この「人に安心感を与えられる資質」というのは、治療者として大切なことだとも思います。

でも、その講演の内容には、

人類にとって生殖の意味は、20億年前の生命の歴史をやり直している。

というような、難しい話も含まれていまして、うまく説明できないのですが、とてもいい話が後半に多く語られています。10分過ぎからの後半5分間あたりの内容は、単なる医学演説にはとどまらず、「人類とは何か」ということにも踏み込んでいるようなものです。

ちなみに、ガンに対して、(西洋医学の)病院には行かないほうが良くても、「何もしない方がいい」とは言っていません。

安保さんが理事長をつとめる日本自律神経免疫治療研究会に所属する医師たちの治療は、「原則として薬を使わない」となっていて、その方向性は、日本や中国の東洋医学などの概念で免疫を上げるということに主眼が置かれているようです。

抗がん剤や、あるいは他のさまざまな薬剤が免疫を落とすことは、こちらのリンクににあります、「薬」に関しての過去記事などで最近書くことがありましたが、抗がん剤を含めて、薬は人間の免疫を落とす作用があるわけで、人間の自然治癒力を著しく削ぐものだと思われます。

多くのガン患者が抗がん剤で助からない原因は、人間の免疫システムを考えてみれば、当たり前のことなのかもしれません。

日本のガンの死者数の増加が止まらないのも、「早期発見」にも関係があるかもしれません。早期に見つけられて間違った治療(三大療法など)を受けることで、本来なら簡単に治るはずのガンに対抗する免疫力を、患者が失ってしまうというメカニズムで理解できます。

それにしても、今回の「ガンも人間が持つ病気を治すシステム」だということを知って、人間の持つ免疫能力の優秀さをさらに知ります。

人間の身体には無駄な機能はひとつもない、とは以前から思っていたわけですが、まさか「ガンまでも」と思うと、感慨深いものがあります。

同時に、現代医学の本質的な問題も再び浮かび上がります。

現代医学は、病気と症状を、「すべて悪いものとして排除する方向」だけで進んできたわけですが、野口晴哉さんやナイチンゲール(過去記事)が言うように、

「病気とは回復過程なので、自然による回復過程の邪魔をしないことが大事」

という原則の「反対」を、現代医学は進んできたといえます。

紀元前5世紀のギリシャの医師のヒポクラテスも同じことを言っていました。こちらのサイトには、ヒポクラテスの言葉として、


古代ギリシャの医学祖『ヒポクラテス』の言葉に、治療においては『人間は自ら治す力をもっている。真の医療とは自然治癒力を発揮させることであり、医者はこの自然治癒力が十分発揮される条件を覚えるだけである。』と言っています。


というものが紹介されています。

2500年前にはすでにあった医学的見識が、2500年かけて「後退してしまった」のかもしれません。そして、私たちの医療概念は、再び 2500年前へと進化しなければならないところまで来ているような気がします。

というわけで、中途半端な記事となってしまいましたが、今回のことはぜひ書きたいと思ってましたので、書かせていただきました。



  

2015年05月08日



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jacinta-forever.jpg
・ヤシンタ( 1910 - 1920年)。amor eterno







 



聖母の言葉の違和感に気づかされて

以前、

ファティマの聖母から知る「永遠の地獄」への序章
 2015年03月15日

という記事を書いたことがありました。

これは、1917年、ポルトガルのファティマという町で、3人の少女と少年の前に、何度かにわたり、「聖母」と名乗る存在が現れ、いくつかの啓示を子どもたちに授けたとされる出来事で、バチカン(ローマ教皇庁)の公認となっている聖母出現譚でもあります。

バチカンが公認している聖母の出現は Wikipedia によると、歴史上で 12件ありますが、その中でも、ファティマの聖母出現は、最も有名なもののひとつだと思われます。

私は、実は、このファティマの聖母出現の内容を読んだ時に、奇跡ということよりも、むしろ何ともいえない痛々しさと切なさを感じていました。

それは、聖母と複数回の会見をした3人の子どもたち、ルシア(当時9歳)、フランシスコ(8歳)、ヤシンタ(7歳)のうち、特に最も若いヤシンタが、とてつもない苦悩と苦渋の中で亡くなっていった、ということによるところが大きいのですが、いつもヤシンタの苦痛を考えると、暗い気持ちになっていました。

そして、この「苦悩」とか「暗い気持ち」とかいう気持ちを人に抱かせることが神サイドの奇跡…? というような想いはありました。

そして、このところの読書生活の中で、「ふと」気づいたのです。

最近読んでいた本、たとえば、それは、シュタイナーでも中村天風でも、どの人のものでもいいのですが、それらの人々の書く内容は、前回の記事でも書きましたように、「根幹に大体同じ方向性がある」ということがあります。

前回の記事は、健康に関してのものでしたが、どのように同じかといいますと、

・人間は本来、完ぺきな自然治癒能力を持っている
・自然(宇宙 / 神)の法則と人間の関係もまた完ぺき


というようなことです。

そして、健康だけではなく、全体としてのことを言えば、私たち人間の世界は・・・あるいは、これを「自然の法則」といっても、「神の法則」といっても、「宇宙の真理」でも何でもいいのですが、

「すべてが肯定と美と善と真実から成る完ぺきなもので、否定的だったり消極的な部分を持たない」

ということと、

「人間がこの世に存在する目的は、人間が本来持つ完全性を獲得すること」

そして、

「創造すること」

だというようなことです。

この「創造」、つまり、表現や芸術を作り上げるということが、人間がこの世に物質的な存在として生きる上で、どれだけ大事なことかということについて、たとえば、シュタイナーは、以下のような文を書いています。

芸術において人間は、
世界のなかに結びつけられた霊を解放する。
音楽芸術において人間は、
自分自身の中に結びつけられた霊を解放する。


なぜ、人間が創造し続けなければならないかというと 1914年の講演の以下の言葉からシュタイナーの主張がわかります。


シュタイナーの講演『人類の芸術的発展のための変容衝動』より

音楽的創造行為は人間の未来と関係するものです。音楽的創造行為は宇宙のなかでみずからを完成し、深めるために存在するのです。

いくつもの偉大な、天才的な音楽作品が存在するにもかかわらず、それらを試作にすぎないというのは傲慢な感じがすることでしょう。しかし、今日存在する音楽作品は、未来の無限に意味深い音楽的創造行為のための試作なのです。

人間が秘儀参入の本質を知ったとき、未来の音楽作品は意味深い刺激を受けることができるのです。

いつか、秘儀参入の途上で魂が体験する至福と苦悩に満ちた幻滅を通過すると、宇宙の諸事情に関与しているすべての運命を体験し、人間の魂は震撼します。

秘儀参入の途上で体験されるものを音の組み合わせで表現することへと魂を促すものを、震撼のなかで体験します。

こんなに抜粋することもないんですが、要するに、この中の、

> 創造行為は宇宙のなかでみずからを完成し、深めるために存在する

ということで、「自分を完ぺきな存在にするため」に音楽的創造は存在するとシュタイナーは主張しています。音楽以外の創造も同じでしょう。

これは、「苦痛」も同じものとして、シュタイナーは言っています。

アタカマ砂漠に咲き乱れる花に見る「悪から善が生まれる光景」を思えば、極端な少子化も箱根山の群発地震も怖くない・・・かも
 2015年05月05日

という記事に、シュタイナーの 1912年の講演を抜粋していますが、その中に、


賢明な者が不完全な私たちのなかにおり、常に私たちを苦痛へと導いていきます。私たちは内的および外的な苦痛によって、自分の不完全さを取り除き、自分を完全にしていけるからです。


といっていて、つまりは、「苦痛を経験することによって、私たち人間は、本来の完ぺきな人間になれる」と。

中村天風さんなども、この「人間は本来は創造的な存在で、そして、人間は宇宙と同様に完ぺきな存在だが、今の人間は完ぺきになることができていない」ということを何度も語っています。


中村天風『運命を拓く』人間の生命の本来の面目より

なぜ、人間の生命の本来の面目が、創造的にできているのか。

それは、進化と向上を現実化するために、人間に、この本来の面目が与えられているのである。

どんな人間でも、「何ものをも完全にあらしめたい。完全に作り上げたい」という気持ちが、誰にでもあるはずである。すなわち、ものや破壊や消滅を好まず、ものの成就や完成を好むという気持ちには、共通的にいわゆる完全を喜ぶという気持ちが、その心の中にあるはずである。

誰しも代償のない破壊を好むものは、ないはずである。

これもやはり、人間の生命の中にある、自然傾向であるからである。いわば、自然に与えられた活動的能力である。



自分では意識していなくても、人間というのは、自然と「完ぺき」を目指していて、なおかつ「創造的」であるということのようです。

これは、まあ、パッと思い出しますと、意識せず鼻歌をうたっているとか、何となくリズムをとっていたりするとか、なんとなく部屋の模様替えをしてみたり、花を飾ろうと買ってきたり、あるいは、お気に入りの皿やカップが割れると、もうくっつくことはなくとも、割れ目をくっつけて「再生の試み」をしてみたりする・・・。

自然な行為の多くが、「実は人間の無意識の行為の中には、破壊よりも創造のほうに向く傾向」というものが潜んでいることを示しているということかもしれません。

その「創造性」の方向を意識して、思考や行動の中で拡大させていけば、私たちは、それまでと少し違う感覚を持つことができるかもしれない・・・というような。

そして、ここまで引用させていただいたシュタイナーも中村天風さんも、

「肯定的で前向きな思考と態度」

の重大性を何度も述べています。

というより、

「否定的で消極的な思考と態度を捨て去ること」

を言っています。




ヤシンタに向けられた「否定的・消極的な思考」

なぜ、ファティマの聖母について、これらのことが関係するかといいますと、

・人間は創造的になるべき
・肯定的・前向きな態度は重要


という大前提をもとにしますと、ファティマの聖母出現の際の、以下の2点に大きな疑問を感じたのです。ヤシンタ・マルト - Wikipdia から抜粋します。

太字はこちらで入れています。


ヤシンタは優しく、少し情緒的であった。彼女は甘い歌声と踊りの才能を持っていたが、ルシアやフランシスコと共にファティマでの聖母の出現を見るようになると、それら娯楽に供することが罪の機会になると考え、音楽も踊りも止めるようになった



ヤシンタは聖母の三度目の出現時の、地獄の恐ろしい幻視の影響を非常に強く受けた。彼女は、聖母が導いたとして、痛悔と償いを通しての罪な人の回心を願う必要を確信するようになった。三人の子供たち、中でもフランシスコとヤシンタは厳しい苦行をその死まで実践した。


この2点です。

最初は言うまでもなく、

> 甘い歌声と踊りの才能を持っていたが、それら娯楽に供することが罪の機会になると考え、音楽も踊りも止めた

の部分です。

これは、人間の創造性を否定する行動です。とはいえ、6歳か7歳のヤシンタが「地獄の光景」を見せられて、そう思うのは仕方ないかもしれないのですが、しかし、ヤシンタは、ファティマでの聖母出現後も何度も「聖母」と会っています

1917年のファティマの聖母出現から、ヤシンタが亡くなるまでの2年間は、ヤシンタの前に何度も「聖母」が現れていたようです。ファチマの真実(2)というページには、以下の記述があります。

ここでは、ヤシンタはジャシンタと表記されています。


ジャシンタがルシアに語ったところによれば、1919年12月に聖母がジャシンタに御出現になり次のように言われたとのことです。

ジャシンタはリスボンの病院にもう一度入院することになる、ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬと。



1919年は、ファティマの聖母出現から2年ほど経っていますが、このように、ヤシンタの前には、何度も「聖母」が現れていたようです。


しかし。


それはいいとしても、問題は、その「聖母の言葉に漂う気配」です。

「ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬ」

この否定的な響き。

そして、実際に、この「聖母」の言葉通りになるのですが、しかし、「完全の宇宙」の神のグループに属していると思われる聖母が、ほとんど肯定的な言葉を発していないことも気になります。

そして、「人間の完全性を示さず、人間の不完全性ばかりを示す」のです。

まあしかし、それはともかく、このように何度もヤシンタとコンタクトをしていたならば、聖母はヤシンタに、

「歌と踊りはやめなくてもいいのです」

と、どうして言わなかった!

聖母なら、楽しみと創造性がどれだけ人間に大切なことかを知らないわけはないです。

ヤシンタは、スペインかぜ(鳥インフルエンザ)にかかり、壮絶な闘病生活をを続けることになり、


病気は化膿し肋膜炎に発展し、手術で(無麻酔で)二本の肋骨を切断しなくてはいけなくなったが、彼女は痛みに耐え続けた。心臓の状態から麻酔を全く使えず、凄まじい痛みに苦しんだが、彼女はそれを多くの罪人の償い(慰め)へと捧げた。( Wikipedia


というようなことになっていくのですが、もちろん、もはや、この体では踊ることはできないでしょうけれど、歌をうたったり、自分が踊りをしている姿を想像するだけでも、どれだけ気が晴れたことか。

少し前の、

パッチ・アダムス医師の「楽しく人を死なせる」ための真実の医療の戦いの中に見えた「悪から善が生まれる」概念の具体性
 2015年04月19日

という記事で、笑いの治癒効果を医療に取り入れたアメリカの実在のパッチ・アダムス医師について書きましたが、映画化された『パッチ・アダムス』は、人間にとって「楽しい気持ち」がどれだけ大事なことかを描いたもので、また、それは医学的にも正しい(笑うと、多くの体の検査数値が向上し、ガン細胞を殺す NK細胞が増える)といえます。

下は映画『パッチ・アダムス』で、子どもたちを笑わせているアダムス医師(ロビン・ウィリアムズ)です。年の頃が、ヤシンタと同じくらいの女の子です。

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・映画『パッチ・アダムス』

おそらくは、ヤシンタは、入院期間にこのように笑うことはほとんどなかったのではないかと思われます。なぜなら、「楽しんだり笑うことは罪になる」と思いこんでいたからです。

多分は、病気にかかってから亡くなるまでの2年ほどを、ほとんど「笑わない生活」で過ごしていたのではないでしょうか。

何度もヤシンタの前に現れた「聖母」が、ひとこと、

「前向きで楽しい気持ちは人間の本性なので、罪にはなりません」

とヤシンタに言っていれば、ほんの少しは気持ちの晴れる時もあったのではないかと。

人生は苦行と共に生きるものではない」ということは、シュタイナーも 1912年の講演で、「人生の喜び」について、以下のように述べています。

この部分の前に、シュタイナーは「楽しみの危険性」ということについて述べていまして、その後の言葉です。


シュタイナー『運命にどう向きあうか』(1912年の講演)より

私は楽しさに反対する説教をしているのではありません。「楽しさを避けろ」と言っているのではなく、「楽しさを平静に受け取るべきだ」と言っているのです。

楽しさを恩恵として受け取る気分を育てるべきなのです。そうすれば、私たちはますます神的なもののなかに浸っていきます。

私は、苦行を説いているのではありません。「楽しさと喜びに対する正しい気分を目覚めさせよう」と、言っているのです。

「楽しさと喜びは、自分を麻痺させ、自己を解消させる。だから、私は楽しさと喜びを避ける」と言う人は、神々から贈られる恩恵を避けているのです。それは誤った苦行、自虐が目指すところです。苦行者、修道士、尼僧の自虐は、絶えず神々を避けることになります。

苦痛を「自分の業によってやってきたもの」と感じ、喜びを「神が私たちに注ぐ恵み」と感じるのが適切です。神が私たちの近くにやってきたしるしが、楽しさと喜びなのです。

世界が私たちにもたらす善いもの、美しいものに直面して、私たちはつぎのように感じなくてはなりません。

「神々は、世界は美しく善いものだ、と見た」と聖書が表現しているとき、人間が輪廻の経過のなかで、最初は善いものだった世界をどのようにしてしまったかを認識しなければなりません。そして、苦痛を精力的に担うことによって改善すべきものを認識する必要があります。



シュタイナーは、

> 「私は楽しさと喜びを避ける」と言う人は、神々から贈られる恩恵を避けている

> 苦行者、修道士、尼僧の自虐は、絶えず神々を避けることになります


と述べています。

これは、ヤシンタを含む3人の子どもがその後に行った「楽しさと喜びを避ける」という生活態度こそが、神々から贈られる「楽しさと喜び」という恩恵を避けているということにつながってしまうという、絶望感に満ちた因果関係を見つけてしまうのでした。

しかし、最後のほうに書きますが、どういう生活態度であっても、このシュタイナーが他の著作で述べていることからうかがいますと、ファティマに出現したのが聖母ではなくとも、ヤシンタには「明るい来世」が待っているはずです。




あまりにも「否定的な」聖母の態度傾向

話を「聖母」に戻しますと、そもそも、ファティマでの聖母が、3人の子どもたちに、「地獄の光景」を見せたり、「バチカンの崩壊の光景」を見せたり、といった「与えるものがネガティブなものばかり」であることも気になります。

下は、聖母が「地獄の光景」を子どもたちに見せた時のことを述懐するルシアの言葉です。


永遠の地獄(ファティマの聖母

聖母は、私達に広い火の海をお見せになりました。それはまさに、地の下にあるもののようでした。この火の中に、サタンと人間の形をした魂とが閉じ込められていました。

この魂は、透き通るように燃え上がる燃えさしのようで、全ては黒く、あるいは、光り輝く青銅色をしていて、大きな炎の中に漂っていました。彼らは自分の中から放つ炎によって、巨大な煙の雲とともに空中に吹き上げられ、ぞっとするような、しかも恐怖に震え上がるような苦痛と絶望の悲鳴とうめき声を上げながら、重さもバランスも失って、火花のように大火の中を四方八方に飛び散っていました。

サタンは、見たこともない奇怪な動物の形をしていたのでそれと分かりましたが、戦慄を覚えさせるような気味の悪い形相をしており、透明で黒い色をしていました。



この地獄の光景を見た子どもたちは「死んでしまうような恐怖」に駆られるのです。

聖母が「恐怖で子どもたちを支配」する・・・。

さらに、下は 1918年頃に、「聖母」がヤシンタに見せたビジョンです。


ヤシンタ・マルト - Wikipedia より

ヤシンタ自身は個人的に何度か聖母や出現や近未来、あの世等を目撃している。

初回は1917年夏であり、もうすぐ起こる次の戦争とする第二次世界大戦について気にかけ、大勢の人が死に、その殆どが死後地獄に堕ちる、と物思いに沈んだ。二回目は1918年10月で、自身が一人で苦しんで死ぬことを予言し、一方で聖母が天国に連れて行く約束をしてくれたことに安堵した。

ファティマの公的出現中も1917年7月13日、彼女はルシア、フランシスコと共に、聖母から、地獄の炎やそこで燃えた炭火のように透き通った姿になって、絶望の叫びをあげながらただ不安定に業火の中を舞うだけの人や悪魔の姿を見せられて、戦慄し、しばしば話題にしていた。



このビジョンに見られる、

> その殆どが死後地獄に堕ちる
> 絶望の叫びをあげながら
> 悪魔の姿を見せられて、戦慄し


などのような「徹底した否定」的傾向。

唯一少しだけ明るい、

> 聖母が天国に連れて行く約束をしてくれたことに

という部分は、後述しますが、キリスト教で信じられていない「人間の宿命」を語っています。

しかし、この「聖母」の見せたビジョンの多くは、その後、現実化していますので、「未来を見せた」という不思議なことが起きたことは間違いありません。

しかし、「ビジョン」というのは、あまりにも非現実的で、また、オカルトに近い性質を持つと思うのですが、そもそも、こういうオカルトってのは、キリスト教的というか、「聖書」的にはダメなことなのでは。


旧約聖書『申命記』18章 9-12節

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなたは異邦の民の忌みきらうべきならわしを、まねてはならない。

あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。

これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。



これに関しまして、クリスチャンはそれを信じないというページによりますと、


聖書は、占いや心霊現象、オカルト現象を「神の忌みきらわれること」として禁じているのです。なぜなら心霊現象にかかわっているのは、悪霊の力だからです。

聖書は、悪霊も不思議なことをすることがあると認めています。そのため私たちが心霊現象に興味を持つことは、きわめて危険です。

それは、気づかないうちに私たちを神の道からそらせ、悪霊の支配下に導くでしょう。クリスチャンは、占い、心霊現象、オカルト現象などが、私たちの幸福に対して何らかの寄与をするという考えを、信じないのです。



ということだそうです。
太字は原文ママです。

そして、上のサイトには別の項目のところに、以下のような記述があります。


神は人の人生の決定権を、個人の自由意志におゆだねになっておられます。

人が自分の人生で刈り取るものは、多くの場合、自分が過去に蒔いたものです。
もしくは、人類全体が蒔いたものです。

神は決して、人の主体性を破ってまで、人の人生を支配しようとはなさいません。

人生を決めているのは、やはり自分です。

神は、人の人生を「宿命」で縛ろうとはなさいません。
キリスト教には、「宿命」という考えはないのです。



私はクリスチャンではないですので、これが本当かどうかはよくわからないですが、聖書を引用してのものですので、ある程度はそのようなものだとすると、ファティマの聖母は、明らかに3人の子どもたちの「宿命」を提示しています。

様々な点から見て、ファティマの聖母の、

・否定的な面だけを強調する言動
・恐怖で子どもたちを支配していること
・天国ではなく地獄だけを見せている
・主の導きではなく、宿命を述べていること
・ビジョンや太陽の異常などオカルト過ぎるやり方


などから、ファティマに出現した存在は「聖母ではないように思えて仕方ない」という思いが強まっています。

神でも主でもいいのですが、その根底は「完全」であり、また、その宇宙の私たちも「完全」である以上、否定的な方向へ人を導くというのは、本筋ではないような気がするのです。

もちろん、聖母でないのならば、ファティマに出現したものが何なのかはわかりません。

仮に見当がついたとしても、うまく書けません。

まあ・・・ファティマに現れた「聖母」の正体はわからないですが、その正体とは無関係に、苦しんだヤシンタは、天国に行く以上に、「とても完全な人間」となって、いつの世にか、おそらくは、あと 900年後くらいに素晴らしい来世を送ることができるだろうことは信じます。

それは、シュタイナーの『神智学の門前にて』という著作の中に、

「輪廻転生の具体的なメカニズム」

が書かれていまして、それを少し読むことで感じたのでした。




死後の人間

もちろん、これはあくまでシュタイナーの主張であり、この世がそのようになっているのかどうかは、死んでみなければわかりません。

死から再受肉までのあいだ、人間はどのような生活を送るのであろうか」というフレーズから始まる「欲界における魂の生活」という章にそのことが書かれてあります。

全体として文章構成が複雑で、うまく抜粋できないですが、死後に人間がまず行くところは「欲望の場所(欲界)」というところだそうです。


シュタイナー『神秘学の門前にて』欲界における魂の生活より

肉体的な器官がなくなったあと、魂に活力を与えるもの、日常の意識を満たしていたもの、身体に負っているもののうち、なにが残るのであろうか。

このことが明らかになったとき、物質体とエーテル体(生命体)を死体として捨てたあとの死後の人生の状態が、どのようなものであるかがわかる。

この状態を欲望の場所、欲界と呼ぶ。しかし、それはどこか外にある場所ではない。わたしたちがいまいるところも欲界であり、死者の霊は絶えず、わたしたちのまわりに漂っている。



ということらしいのですが、人が死ぬと、人間を構成する4つの要素(肉体、生命体、感受体、自我)のうち、肉体と生命体と呼ばれるものは、肉体の「死」と同時に死んでしまうけれど、他のものは残るのだそう。

特に、感受体(アストラル体)は、死後もしばらくは生きている。

これは欲望も司るものですので、「欲望」は、死後も残ると。

ところが、おいしい料理を食べたくても、それを味わう口も舌もない、美しい光景を見たくとも、それを見る目はない。音楽を聴きたくとも、聴く耳がない・・・ということで、「欲望を充たす器官がない状態」となっていて、死後、人々はこれで大変に苦しむのだそうです。

これが、いわゆる「地獄」というものとして語られているものと似たものだとしてもいいのかもしれないですが、シュタイナーによれば、

この欲界の苦しみは、その人の生きていた時の欲望の度合いに応じる

となっていて、また、その「滞在期間」についてもふれられていて、

人生の3分の1の長さ

だけ滞在するのだそうです。

たとえば、75歳で亡くなった人なら、25年間。

ヤシンタは 10歳で亡くなっていますので、3年ほどですね。

しかも、ヤシンタは、自分の課した禁欲的生活で、多分、物質的な欲望も、生への失着の欲望もあまりなかったと思いますので、少なくとも「生きていた時よりはずっと苦痛の少ない状態」で、3年と少しを欲界で過ごした後、つまり、1923年の夏頃には、その欲界を抜け出していたはずです。

ただし、次の世に生まれる、すなわち、シュタイナーの言う「再受肉」の時期はその時期というわけではないようです。

このあたりは、何だかいろいろ難しいのですが、「地球の状態は 2160年で大きく変化する」とのことで、その 2160年の中で「2回受肉をする」とのこと。

つまり、次に生まれかわるまで千年くらいかかるということのようです。

「苦痛の中で人間は完全に近づく」ということがあるのなら、ヤシンタは、相当、完全に近い人間として、次の世で、彼女は素晴らしい人生を過ごすことになると思います。

その時には歌と踊りを忘れないでほしいですが(ただし、シュタイナー説から見ると、ヤシンタは次は男性として生まれます)。

この欲界を通過した後に、いわゆる私たちが「天国」というような概念でとらえている場所に行くらしいのですが、面白いのは、シュタイナーは、

「天国」とは、「人間として誕生する瞬間」

だとしている点です。

つまり、来世に生まれた瞬間が天国に至った瞬間だと。

ただ、このシュタイナーの「誕生の瞬間」という言葉は、少し気になるところがあって、

「じゃあ、誕生しなかった子たちは?」

とも思ったのです。

ファティマの聖母から知る「永遠の地獄」への序章(2) - 毎年5千万人の赤ちゃんが「生まれてこない」現代社会の中のロシア由来のカタストロフ
 2015年03月16日

の後半に記した、「毎年、世界で 5000万人ほどの赤ちゃんが生まれてくることができない」というのが現代の社会でもあるのですが、この子たちは? とかは思います。

それでも、シュタイナーのこの輪廻転生のメカニズムを信じるならば、たとえば、生まれてすぐに亡くなってしまった赤ちゃんたちは、「(欲望がないから)苦痛もなく」、「時間的にあっという間に」この欲界という地獄を抜けられるのだろうということは、何となく救いを感じました。

生前のヤシンタの苦悩を思い、落ち込んでいたりした私でしたが、まあ、そう落ち込むことでもないのかなと思えただけでも、今回はシュタイナーに感謝しておきたいと思います。そして、もちろん、ヤシンタにも。



  

2015年05月07日



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▲ クリミア戦争で兵舎病院で負傷者たちを看護するナイチンゲール。Wikipedia より。









病気の本質


最近、いろいろと本を読んだりしている中で、多くの人たちが言うことが、「大体同じ方向にある」ことを知ります。


それは、「病気も健康もどちらも自然の働きである」というようなことと関係しているのですが、最近、ナイチンゲールという看護の始祖が自著に書いていた内容を知りました。


そこにある一節が、日本最初の整体師である野口晴哉さんや、あるいは、生涯にわたり医学の研究も続けていたシュタイナーや、あるいは、中村天風や森田正馬博士や、他にもいろいろな方がいますが、その方々の言っていたこととほとんど同じであることに気づいたのでした。


ナイチンゲールは、『<看護覚え書』( 1860年)の中で、あとで、ちゃんと抜粋いたしますが、


「病気というものは、回復過程である」


としていて、病気は自然の法則(彼女は「神の法則」と言っています)であるから、看護というのは、


「自然による回復過程の邪魔をしないこと」


だと述べているのです。


これはまさに、



 2015年04月22日


という記事などでふれた、野口晴哉さんの『風邪の効用』( 1962年)にある、


病気が治るのも自然良能であり、病気になるのも自然良能です。

という概念と同じです。


「良能」という言葉は「生まれながらに持っているすぐれた能力」(コトバンク)ということですので、野口さんは、「病気になることは、人間が生まれながらに持っている自然の優れた能力である」と言っていることになります。


ナイチンゲールの場合は、その 100年前に同じことを言っているのでした。


野口晴哉さんの『風邪の効用』によって、はじめて私は、「風邪は体を治しているかもしれない」ということに気づいたのですけれど、「病気全体」となると、なかなか壮観です。


風邪については、実は、若い時から自分で何度もそのこと(風邪を引くたびに体が強くなっていく)を経験しているのに、野口さんの本を読むまで、そのことに気づいていなかったのでした。


病弱だった私自身が、「病気は悪い」という観念だけでグリグリになっていた。


ところで、この「ナイチンゲール」という人について、私は何となく勘違いしていまして、彼女のことにふれておきたいと思います。





ナイチンゲールという人の「天性」


この「ナイチンゲール」という人については、子どものころに、多分誰でも読まされるような「伝記」みたいなので知った記憶はあります。


しかし、それよりも男の子たちの間では「ナイチンゲールは無いチン・・・」で始まる駄洒落のほうが印象深いものかもしれませんし、あるいは、「ナイチンゲールは内藤陳ゲ・・・」というような駄洒落を言って、理解できない周囲の子どもたちから糾弾を受ける子どもたちもいました。


そもそも、ナイチンゲールの伝記の内容を、よくは覚えていなくて、「最初の看護師さん?」くらいの印象しかなかったのですが、ナイチンゲール - Wikipedia を見ますと、


東京都出身。プロレタリア文学作家内藤辰雄を父に持つ。7-8歳の頃には高円寺駅の前でゴザを敷き、父と共に読み古しの本の叩き売りをしていた。

高円寺? ああ、これは、内藤陳 - Wikipedia でした。


こういう間違いをそのままにしておくのは少し困りますね(野口晴哉さん風)。


さて、ナイチンゲールですが、1853年に始まるクリミア戦争で、英国軍に看護師として従軍し、そこでの活躍により有名になるのですが、何となくあるイメージ「白衣の天使」というようなイメージとは少し違い、Wikipedia によれば、ナイチンゲールという人は、



超人的な仕事ぶりと必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢により、交渉相手となる陸軍・政府関係者はナイチンゲールに敬意を示し、また恐れもした。

オールド・バーリントン通りにあったナイチンゲールの住居兼事務所は関係者の間で敬意と揶揄の双方の意味を込めて「小陸軍省」とあだ名された。


というような人だったようです。


そして、実際、彼女の手腕は、具体的な数値として達せられます(ナイチンゲールは、イギリスにおける統計学の基礎を築いた人でもあります)。たとえば、まだ細菌学が確立していなかった時代なのに、「感染症対策」において、他に類を見ない抜群の効果のある看護対策をとっていたこともわかります。


ナイチンゲールが従軍する前の 1855年までは、兵舎病院での死亡率は 42パーセントに達していたそうなのですが、



新陸軍省は、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。

兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。


この「死亡率を 42パーセントから、3ヶ月間で 5パーセントにまで減らす」というのは、看護の領域というより、これこそ医学だと思います。


というか、その時のお医者さんは何をしていたのかということにもなりますが。


「医学に最も必要なのは愛だけれども、そこに知恵と技術が伴わないと、人を助けることはできない」と言っていたのはシュタイナーですが・・・というか、誤った引用になると良くないですので、抜粋します。



1907年のシュタイナーの講演「病気と治療」より

だれかが脚を折って道路に倒れているとき、愛情に満ちた人々がその人のまわりに立っていても、その人を助けることはできません。

しかし、骨折の治療法を知っている医者がやってきて、知恵によって同情を行為へと移すことができると、骨を折った人は助けられます。

ものごとを認識し、何かをできる能力を持った賢者であることが、人を助けるために必要な基盤なのです。

かつて賢明な存在者たちが知恵を注ぎだしたので、世界には常に知恵が存在しています。知恵は頂点にいたると、すべてを包括する愛になります。愛が未来の世界で、私たちを照らすことでしょう。

知恵は愛の母なのです。知恵に満ちた精神は、偉大な治療家です。ですから、キリストつまり愛は、聖霊つまり治療する霊から生まれたのです。


最後のほうは、キリストなどという単語も出てきて、大変な展開となっていますが、いずれにしても、「愛に満ちているだけでは治せない」ということを言っていると思います。


ナイチンゲールは、「衛生と感染症の関しての知恵があった」ので、英国軍兵舎病院の死亡率を 42パーセントから 5パーセントに下げることができたということなんでしょうけれど、それにしても、まだ、微生物学が確定していなかった 1855年に、なぜナイチンゲールが、「衛生の方法」ということを知り得ていたのかは、なかなかの謎です。


微生物学の歴史 - Wikipedia を見てみますと、


1857年 - ルイ・パスツールが「すべての発酵過程は微生物活動に基づくものである」ということを発表した。

1876年 - ロベルト・コッホによって炭疽の原因となる細菌(炭疽菌)が分離され、その病原性が証明された。

とあり、ナイチンゲールが英国陸軍省に兵舎病院の衛生改善を申し出た 1855年頃は「感染症が細菌から起きる」という観念は一般的ではなかったと考えるのが妥当です。衛生状態をよくすることが死亡率の低下につながるという概念も一般的ではなかったように思います。


また、医者にもその概念がなかったから、医者は死亡率を下げられなかったとも考えられます。しかし、ナイチンゲールは気づいた、と。


いろいろと立派な人はこの世にいますけれど、偉人としてあげられる人たちには、何らかの「天性」があるのかもしれないですね。


ただ、ナイチンゲールは、晩年は苦しかったようです。



37歳(1857年)の時に心臓発作で倒れてしまい、その後は慢性疲労症候群に由来すると考えられる虚脱状態に悩まされた。死去するまでの約50年間はほとんどベッドの上で過ごし、本の原稿や手紙を書くことが活動の柱となった。


さて、そのナイチンゲールの『看護覚え書』からです。





ナイチンゲール『看護覚え書』( 1860年)より

およそ病気というものは、その経過のいずれの期間においても、多かれ少なかれ回復過程であり、それは必ずしも苦しみを伴わない。

つまり病気とは、何週間、何ヶ月、時には何年も前から起こっていながら気づかれなかった病変あるいは、衰弱の過程を修復しようとする自然の努力のあらわれであり、その病気の結末は、病気に先行する過程が進行している間にすでに決定されている。

自然によってすすめられる病気という回復過程は、「新鮮な空気、陽光、暖かさ、静けさ、 清潔さ、食事を与える際の規則正しさや世話」が欠けることによって、「妨害され」、その結果「痛みや苦痛、あるいは過程そのものの中断」 がおこる。

看護としてなすべきことは、自然によってすすめられる回復過程を邪魔している要素を取り除くことである。

自然による回復過程の「邪魔をしないこと」、それは回復を促す自然のはたらきに従うということを意味する。自然のはたらきに従うということは、自然法則、われわれの身体と、 神がそれをおかれたこの世界との関係について神が定めた法則に従うことを意味する。





ここまでです。


ちなみに、


> 自然によってすすめられる回復過程を邪魔している要素


とありますが、現代で当てはまる最大のものが「薬」だと私は考えます。


ナイチンゲールは、つまり、「回復過程=症状を無理に抑えてはいけない」と言っているわけですが、現代医学はその逆の方向にあります。




「病気」に関してのナイチンゲールから後藤艮山までの系譜


看護師の始祖であるナイチンゲールは、


> 病気とは、衰弱の過程を修復しようとする自然の努力のあらわれ


であると言っています。


そして、日本の整体の始祖である野口晴哉さんは以下のように語っています。



野口晴哉『風邪の効用』( 1962年)より

病気が治るのも自然良能であり、病気になるのも自然良能です。

新陳代謝して生きている人間に建設と破壊が行われるのは当然ですから、建設作業だけを自然良能視しようとするというのは、破壊を恐れ、毀(こぼ)れた体のまま無事を保とうと考える臆病な人間です。

生命を保つためには自然のはたらきを活かすことの方が、人智をつくすより以上のことであるということを考えてみるべきでしょう。


シュタイナーも、1928年の講演で、ほぼ同じことを述べています。



シュタイナーの 1928年のイギリスでの講演『病気と治療』より

今日、すでに人間は、医学においての認識の限界にいたっています。「病気とは、何なのか」という問いに、今日の科学的認識は、どのようなものでしょうか。

それは頭の先から足の先まで、自然のプロセスです。

では病気のとき、肝臓、腎臓、頭、心臓で生じるプロセスはどのようなものでしょうか。自然のプロセスです。健康なプロセスは自然のプロセスです。病気のプロセスも自然のプロセスです。


また、江戸時代の医者に、後藤艮山(こんざん)という人がいたそうなのですが、この人は、


「瞑眩せざれば病は癒えず」


と言っていたそう。


瞑眩(めんげん)というのは、一般的な意味では「めまい」となりますが、日本や中国の医学では、「好転反応」のことだそうで、つまり、熱が出たり、発疹ができることです。


また、今では「毒出しの際の反応」という意味でも使われているようです。


後藤艮山の「瞑眩せざれば病は癒えず」というのは、つまり、高熱や症状があれば、病は治るという意味でよいのだと思われます。


と、ここで、これは、ナイチンゲールの「病気は回復である」と同じ意味であることに気づきます。


まあしかし、この「瞑眩」という言葉、めまいそのものの意味でもあるわけで、私も、相変わらずめまいはそのままなんですが、これも「回復である」というようにとらえるのがいいのでしょうかね。


野口晴哉さんは、「健康も病気もどちらも自然良能である」と言っていましたが、森田療法の森田正馬博士も『神経質の本態と療法』の中で、


頭痛、眩暈も、必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。

と言っています。


「自然に従う必要性」を、森田博士は強く述べます。


あるいは、ジャイアント馬場師も以下のように言っています。


「成り行きと言うと無責任なイメージを持つけど、これほど強いものはない。つまり、自然の流れに逆らわずに正直に生きるってこと」Naver


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ついに、稀代の看護師であったナイチンゲールから、稀代のプロレスラーであったジャイアント馬場という「二大師」がつながったようです。


ちなみに、江戸時代の後藤艮山のことを知ったのは、免疫療法をおこなっていた福田稔医師(昨年亡くなられました)の以下のブログででした。「熱は最高の治療者」であることがここでも書かれます。



高熱は急激に治癒力を上げる最強の反応
薬のいらない人生 2015.03.19

「瞑眩(メンゲン)せざれば病は癒えず」これは江戸時代の名医・後藤艮山が残した言葉であり、私の座右の銘の一つです。

一般に好転反応と呼ばれることの多い瞑眩は、血流が回復する際に生じる、毒だし反応を示します。体内にたまった毒が排泄される過程にでは、多かれ少なかれ発熱、湿疹などの不快な症状を伴います。

しかし、そこを乗り越え、体が浄化されないと、持ち前の治癒力(免疫力)を発揮できません。瞑眩が起こらなければ、病気は治らないのです。

体は、毒出しを助ける治療を求めています。しかし、体に備わる治癒力を軽視してきた現代医学には、瞑眩という概念はありません。

そこで、湿疹や発熱などの瞑眩を悪者として不要な治療をくり返し、逆に体の毒を増やして、治るはずの病気を治らなくしているわけです。

今、私たちに必要なのは、こうした過剰な医療からの自律です。


この福田稔医師は「医学は薬からの脱却が必要」ということを強く主張していた方で、亡くなったことは残念ですが、今は同じような主張を持つお医者さんがわりとたくさんいることも最近知りまして、それが全体のムーブメントになるかどうかはわからないですが、少しずつでも変わればいいと思います。


ナイチンゲールさんの言っていた「病気は回復である」という概念を無視して、「とにかく症状を消せばいい」と走ってきた西洋医学の結末は、下のグラフでも一目瞭然だと思います。


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このグラフが示す事実の意味を考える時期ではないでしょうか。


医療技術は日々進んでいるのに、病人と病死が増え続けている」という意味をです。


このグラフは、今の医学が「基本的には病気を治していない」ことをよく示していると思いますし、そしておそらくは、「現代の医学がむしろ病気を増やしている面もある」ことは、先月の、



 2015年04月10日


などでも書きましたように、ある程度は間違いのないところのようにも思います。


なお、私は「治療しないのがいい」とは、まったく思っていません。


最近は、「病気は放置するのがいい」というような主張もあるらしいのですが、今回の記事に出てきたナイチンゲールやシュタイナー、野口晴哉さんたちのように「治療」を一生懸命考えていた人たちを見ますと、「治療」は大事なことだと思います。


現代の西洋医学には、その「根本」に過ちにも似た考え方がありそうで、そこを修正することができれば、日本には素晴らしい設備と、高度な医療技術と、あるいは人により残っている「医道」の精神が、きっとあるのですから、治療をとんでもなく良い方向に軌道を変えられる可能性はあるのではないでしょうかね。


今、上のグラフを下向きに変えられるかどうか、ギリギリのところにいるような気がしています。