【人類の覚醒と真実】 の記事一覧
2011年03月17日
何日かぶりに吉祥寺まで歩いてみました。
昨日以来、とにかく寒くなり、完全に冬模様となっています。
ここ数日は毎日毎日、いろいろなところの光景を見るためと、物を調達するために一日数時間歩いていますが、しかし、実際はここ2年ほどは実によくこの街を歩いていました。
もともとの私は、夜、飲みに歩く以外はあまり外に出ない人間でした。
しかも、いわゆる移動手段というものが苦手なんです。車に乗るのは嫌いで、もちろん持っていませんし、自転車もあることはありますが、嫌いなので十数年乗っていないのではないでしょうか。電車も乗らないで済むなら済ませたい。幸い外で仕事をしていないので、ツイている時は2カ月くらい何の移動手段も利用しないで終わらせられることもあります。
私にとって、「移動とは歩くこと」で、私が異常に自分の街とその周囲だけで用事を済ませていることにはこの理由があります。
そして、私のような「移動文明に馴染めない人」が今の日本の中で暮らせる場所というのは、実は東京くらいしかないのです。徒歩1時間以内でほとんどの用事を済ませられ、必要なものはほぼ手に入るというような場所は他にはあまりないようです。私は実家が北海道ですが、車のない人が生きていくことは難しいですし、多分、他の大部分の地方はそうでしょう。
なので、やはり私はこの東京から立ち去ろうという気にはならないのです。そして、できればこの東京で死にたいと思っています。
どこの土地よりも、私にとってはこの街はやさしい街でした。
東京というか・・・まあ東京に来てから、ほぼ西荻窪というところにしか住んでいないので、正確には「西荻窪という街は」ということになりそうですが。
なので、この街が地図から消えたり廃墟になったりした時のためにと2年くらい前からいろいろと見てまわっていたのです。今となれば、見ておいてよかったと思います。
そういえば、前回の記事で「お酒でも用意したほうがいいのでは」と書いたのですが、お酒は放射能影響から見ると良くないというメールをいただきました。
私は、いままでさんざんお酒にはお世話になってきましたので(パニック障害だったために、薬とお酒がなければ電車にも乗れない時代がありました。私はお酒に命を救われています)、お酒に殺されるのなら私は嬉しいですが、多くの人は違うと思いますので、気にされる方はお気をつけ下さい。
なお、他の現実的な問題として、ATM を含むすべての金融機関とシステムが怪しくなっています。どうすればいいかというのはわかりませんので、各自考えられる範囲で行動下さい。
神社のこと
私の家から徒歩でいける範囲には神社がいくつかあり、そのうちの荻窪八幡という神社があるのですが、そこの鳥居が先日の地震で崩壊しました。
一昨日それを見に行き、なかなかショッキングな光景で、携帯で何枚か写真に撮ったのですが、それをこのブログなどに掲載しようと、携帯から自分のサーバに送信しようとした時、わりと珍しい現象ですが、携帯がフリーズしました。電源も落とせなくなり、バッテリーパックを取り出し強制再起動して、もう一度送信しようとすると、またフリーズしました。
連続して携帯がフリーズしたのは初めてのことでしたので、「これは載せるなということだな」と素直に諦めましたので、写真は載せませんが、あるいは、最近のコロンビアの記事あたりからの流れを考えると、何かイヤなものが写っていたのかもしれません。
私は信心深くはないですが、神社に行くのはわりと好きで、行ってもお祈りも願い事もしないですが、境内の中で挨拶くらいはして戻ってきます。確かに神社というのは不思議なことが起こりやすいのは確かで、井草八幡宮という神社が近くて、かなり頻繁に行くのですが、以前、そこの長い並木道に入った瞬間に目の前に鳩が降りてきて歩き出しました。
近づくと、飛び立つのですが、2メートルほど先にまた降り立つ歩いて行く。
「お、こいつ、道案内のつもりかよ」
と、面白く感じて、ずっと鳩の後をついていくと、そのまま何百メートルもずっと鳩は私の前を歩き続け、そして、境内に入る門のところまで来ました。そして・・・何と鳩は境内のほうには向かわずに、そのまま出口の道のほうに歩いていくのでした。
「おいおい、それじゃ、オレが境内に入れないじゃないの」
と思いましたが、鳩がそっちに行くなら仕方ないと、結局、鳩の後についてそのまま神社を出ることになりました。そして、鳩は飛び立ちました。
「あの鳩は、オレに境内に入ってほしくなかったのかなあ」
とかいろいろ考えましたが、基本的に私は起きていることに逆らわない人ですので、そのまま神社から去りました。このあたり、神経症の治療法として有名な森田療法の森田博士の言っていた「なすがまま」というようなことを何十年も実行しているからかもしれません。
不思議といえば、井草八幡宮は毎年、初詣に行く場所で、ここではかならず酒を飲むのですが、縁日で売っている単なるワンカップが非常に美味しくて、毎年けっこう飲んでしまいます。
「いやあ、ここのはうまいねえ」と売っていたおにいさんに言うと、「まあ・・・ただのワンカップっスけど」と言われたことがありますが、本当にうまいのです。
それらの神社も震災後にいくつか見てまわりましたが、人もあまりおらず、何となく物寂しいものがありました。こういう時こそ、みんな来るものかと思っていましたが、案外そうでもないようで、ふだんより人がいません。
昨年以来は特によく神社に行くようになりましたが、その理由は「大きな木が見られるから」でした。植物が好きですが、大きなものを見られる場所はこのあたりでは神社くらいしかないのです。
完ぺきな生命
前回までの記事などで書いていることは、正直、すでに私自身が書いているというようにも思えません。書いた後に読み終わって自分で驚く部分があります。
とはいえ、キーボードを打っているのは自分ですので、続けてみます。
今回は余談が長くなりすぎたので、さっき歩いている時に思ったことを短く書いてみます。
前回までに
・人類は宇宙が作り出した最高の生命の形である
ということ、そして、
・そのひとつが「未来を予知しない能力」だ
というようなことを書きました。
その流れの中で、私はある「今までの人類史での決定的な思い違い」に気付いたのです。
ちゃんと書けるかどうかわかりませんが、たとえば、人間以外の他の動物が人間に憧れを持つとしたら、それはこういうことがあると思います。
・人間は夢や希望を持つことができる
これは「未来を予知できない」ことによって人類が獲得した能力です。
これはどんな些細な生活の中での楽しみとも関連していて、たとえば、夜の街へ飲みに行ったり遊びに行ったりする男性なら、「今日、すてきな女の子と知り合って惚れられちゃったりして。ウヒャヒャ」というような希望を持てるのも、私たちが未来を少しも予知できないからです。
世の中を楽しむ行動のほぼすべてがこの「未来を予知しない」という脅威的な能力によってもたらされています。
化粧をする、未来の生活設計をする、会社を興す、オシャレをする、商売でがんばる・・・。
それらのどれもが私たち人類が「未来を予知しない」という能力を持つために獲得したものだと思います。
今日、道を歩いているときに、空を飛んでいるカラスを見て思ったのですが、
「もしかすると、人類以外のすべての地球上の生物は未来を予知できるかもしれない」
と感じたのです。
つまり、それは人類以外の生物がすべて、いわゆるアカシックレコードといったような記憶と歴史の帯に沿って生活している。なので、未来も過去も現在も彼らにはすべて見えている。未来の予知も、過去の出来事もわかる。
しかし、それだけに、宇宙の歴史がすべてわかってしまう人類以外の彼らには、もうワクワクやドキドキはあまり存在しなくなってしまった。ワクワクや夢や目標のない状態から文明は生まれないし、発展しない。
というより、この世の存在は、本来すべてアカシックレコードのようなものと同居して存在しているような気がします。
人類はそこから脅威的な進化をなしえた。
それは、宇宙でさえ予想し得なかったであろう、「アカシックレコードからの脱却と独立」です。
宇宙に生まれた特別な奇跡。
宇宙の記憶の中にしか存在することができなかった数々の生命や植物や鉱物の中から、「ついにそこから独立した生命が誕生」した。
それが人類だと思います。
さて、しかし、今回書いている最大のテーマはこのことではないのです。
あらゆる存在が人類を尊敬している
私がずっといろいろと引っかかっていたことのひとつに、「食べるものと食べられるもの」ということがあります。「ペアである自分」のこちらの記事に、埴谷雄高さんの小説の引用と共に書いたこともあります。
要するに、人間は何かを食べて生きなければならないのですが、その関係についてです。私は実は1年半くらい前に、あること(説明は難しいのですが「大阪ショック」という事件がありました)を契機として「肉が食べられなくなる」ということを経験したことがあり、その影響はしばらく続いて、1年くらいだったか、肉を食べない(食べられない)生活が続きました。
しかし、何をどのように食べても、食べなくても、それが「食べることへの何らかの意味となるのだろうか」ということは感じていました。ベジタリアンでもビーガンでも、結局何かを食べる。
そして、人間が自然を痛めつけて、環境を悪くしてきたことは書くまでもないことだと思います。
それらへの解決への道のひとつとして、あることに気付いたのです。
それは、上に書いた「他の動物たちが憧れる夢を持つことのできる人類」と関係していますが、結論を書いてしまうと、
・あらゆる生命が人類に憧れ、人類を尊敬している
ということです。
なぜ、この考えが解決へのひとつの道となるかというと、たとえば、「あなたをものすごく尊敬しています」という人があなたの身近にいたとします。
あなたはその人を軽々しく扱うでしょうか。
普通なら、自分を死ぬほど尊敬してくれている人がいるなら、その人のことを大事にしようと思うのではないでしょうか。
私たちは今まで、特にこの数十年は、食べものを食い散らかしてきました。
あなたの目の前に一匹のイワシがいる。
そして、あなたはそのイワシがあなたをものすごく尊敬していることを知る。
この場合、同じ食べるにしても、これまでの食べる対象とは違った考え方になるのではないでしょうか。
そして、これは昔から「お米を一粒も残さないように食べなさい」と言われてきくた日本人なら、比較的わかりやすいのではないでしょうか。
「お米を一粒も残さないように食べなさい」という部分はもちろんその通りですが、そのあとに、「このお米はあなたを死ぬほど尊敬しているのだから」と。本当に、絶対に、残すことなどできない。
よく、私たちは「食べ物に感謝しなさい」と言われることがありましたが、意味なく感謝しろと言われてもできなかったわけですが、それらが「私たちを尊敬している」と考えると、感謝という意味もわかります。
植物もあらゆる多細胞生物も、そして、もしかすると、鉱物たちも、すべての生命存在が人類を死ぬほど尊敬している。
そして、地球は生きている。
なので、地球も私たち人類を死ぬほど尊敬しているはずです。
私たちは私たち人類を尊敬しているものばかりの中で生きることができていたのだということに、これまで気付いていなかったのです。
このことを気付かせてくれたのは、今の東北で被災されている何百万人の神様たちであり、そして、「映像」という新しい媒体の聖書の1ページ目がすでに始まっています。
タグ:アカシックレコード
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人類の覚醒と真実
黒い雲と強風の中で
昨日(3月17日)、子どもの幼稚園の終業式で、この日は私が迎えに行く日でした。
午前11時30分くらいです。
その時、空を見ると、今まで見たことのないような黒い雲が空の中心部に現れていて、それはよく見ると、たくさんの蛇や龍のようなものがとぐろを巻いているように見える雲で、まあ、いわゆる不吉な感じのものでした。
地震当日から翌々日くらいまで、東北もそうだったようですが、東京でもいわし雲のような雲が空全体に出ていました。どうやら、地面での自然現象が空にそのまま表れているような感じがします。
その「黒い雲」をしばらく眺めていて、最初は「また地震でもあるのかなあ」と考えていましたが、しかし、そのうち、「しかし・・・」と考えは別の方向へと動いていきました。まあ、大体次のように考えていました。
「まあ・・・お前みたいな黒い雲も、ずっと不吉だ不吉だと言われてきて、まあ、オレなんかもそう思っていたわけだけど、そのへんはお互いの考え違いという面もありそうだわな。まあ、お互いあんまりトゲのない程度に行こうぜ」。
そんなことを考えながら、幼稚園へと向かいました。
ふだんは迎えに来たお母さん方もすぐ帰っていくのですが、今日はみんなが幼稚園の前で話し込んでいました。「○○が手には入らない」という話題が多いようです。
私はお母さん方と話すのは苦手なので、すぐ帰りましたが、道で幼稚園の先生とすれ違ったので、挨拶がてらに少し話すと、休んでいる子どもが多いようです。
私の奥さんの幼稚園の親仲間でも、地震以来、ストレスで体調を崩している人が多いようです。高層マンションなどの上階での揺れはものすごかったようで、それ以来、寝込んでしまっている人もいます。そういうマンションでは余震も大きく感じられるそうで、なかなか休まる時がないようです。
見だしの「黒い雲と強風の中で」の「強風」は、その黒い雲を見た30分後くらいから始まりました。お昼の12時くらいからではないでしょうか。
すでに自宅に戻っていて、部屋にいたのですが、同じ頃に、千葉で震度5くらいの地震があり、その後に強烈な風が吹き始めました。
強風に気付いたのは「音」でした。「ゴゴゴ・・・」という音が建物の周囲に響き渡り、「地震?」と思ったのですが、ベランダの外から見える大きなヤシの木を見ると、倒れそうなほど煽られている。外でガシャーンと音がするので、出てみると、外にあるいろいろなもの(コンクリートみたいなものまで)飛ばされている。
「なんだこりゃ?」
とりあえず、部屋の窓などを閉めて、外の様子を見ていたのですが、その風の音は台風などの時でもあまりないようなすごいもので、かなり長く続きました。
うちの奥さんからメールが来て、自転車に乗っていたのだが、煽られて飛ばされてしまって、近くのファミレスに避難しているとのことで、その後、帰ってきた時にも体が震えていました。風は2時間くらい続いたのではないでしょうか。
今はニュースでも天候のことなどはあまりやらないでしょうから、関東全域でどのような状態だったのかわかりませんが、それはそれはすさまじい風でした。
さっきの黒い雲のことを思い出しましたが、しかし、風が出たころにはすでに空にはあの黒い雲は消えていました。
それにしても、気弱なはずのうちの子どもは相変わらず何だか強く、私がしきりに外を見に行っては、「すごい風だなあ」と言っていると、
「風なんか気にしなくていいんだよ」
と私に言います。
実は私はあまりにすごい風に、どこかの何かの施設が大爆発を起こしたか、あるいは、富士山でも噴火したんじゃないかと本気で考えていました。
その後、子どもとこんな会話をしました。
わたし 「どこかの火山とかが噴火したのかもしれないよ」
子ども 「火山が爆発したら熱い風が吹くんだよ。冷たいから関係ないよ」
わたし 「そうなの?」
子ども 「富士山だとそうだよ」
わたし 「富士山って知ってるの?」
子ども 「知ってるよ」
というような、どっちが親だか子どもだかわからないことになっていますが、このやや予言癖のある彼に対して、「まだまだ、この子はその程度のものだ」と昨日気付いたのです。
何しろ、私たち人類、そして大人は「未来を予知できない」という、宇宙にも例のない能力を獲得している生命であることに気付いたからです。
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タグ:人類
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人類の覚醒と真実
2011年03月16日
震災被害地以外での、つまり東京なども含めての生活上での今後のことなどを書きたいとは思うのですが、その前に書きたいことが多すぎて、やはりそちらに手が回りません。基本的には過大な情報に注意して、むしろあまりふだんとらないような行動を慎むほうがいいのかもしれません。
さて、時間がないですので、今回書きたいことを書きます。
新しい神話
被災地の方々は大変だと思います。
そして、それとは別に、世界中の人たちが、そのあなたがた被災者から「覚醒」を受けています。
多分、次の何千年かの神話がスタートしたのであろうことを感じます。
今の世界には、大洪水の中をひとりで逃げたところから始まるような世界での神話の中で生きてきた人たちもいます。
しかし、これから始まる神話はそうではありません。
その頃には、願わくば、文字で記述された聖典などのない時代であってほしいですが、仮にそういうものがあるとしたら、その聖典の最初のページに出てくるのが、今の東北の災害と、もしかすると、今後、日本の他の地域も襲うかもしれない災害の中の「日本人」だと思います。
その何千万人の神様たちが、世界の人々に言いたいことは、その何千万人の他の何十億人の人々も、全員が同じ神様そのものであることに気付いてほしいと。
いろいろと書きたいことはあるのですが、一気には書けません。
ただ、もし「悪魔」という存在がいたとして、それがこの2000年くらいの間におこなっていた最初の試みがあるとすれば、それは「人類の能力を矮小化して人類に伝えること」だったように思います。そのために、「万能の神」というような概念を作り出すこともする。
しかし、それだけに悪魔という存在は「ある事実」を知っていて、そして、心底恐れているはずです。
その「ある事実」とは、それは、人類は宇宙が作り出した最高の能力と身体能力を持った宇宙の究極的な生命であることです。
人類がそれに気付いた時には、悪魔などは対峙することさえできないはずです。
だから、悪魔は人類にそのことに気付いてほしくなかった。
しかし、今、日本人が気付くことへの口火を切ったのかもしれません。
宇宙が長い間、願いに願っていた「究極の生命」。
そして、その完成型である人類
気が狂うほどの長い年月の末に完成した完ぺきな生命の姿。
それは、すぐれた頭脳と身体能力を持つだけではないのです。
それならロボットにもできる。
ひとりひとりが永遠不滅の DNA で構成され(永遠不滅の物質だけで作ることのできる人工物質は存在し得ない)、そして、ひとりひとりの中に「宇宙と神様」を持っている、考えられない究極の生命、人類。
そのことに人類が気付くことを悪魔は心底恐れていた。
そして、地球や宇宙と連動した言語をあゆつる日本人という存在を死ぬほど恐れていた。
そのことに気付く前に、日本人から「日本性」を消滅させろ! と考えていた。
そのためにおこなわれてきた数々の試み、
それは書くまでもないでしょう。
しかし、悪魔も勘違いしているのです。
西洋では悪魔に対抗するために悪魔払いをして「退治」しようとする。
しかし、日本人は退治などしない。
考えてみてほしいのですが、今までこのブログにも何度も悪魔のことについてふれたことがありますが、それでも、「悪魔を心底恐れている日本人」など、どれくらいいたでしょうか。
「悪魔なんてやだねえ」
くらいで済ませられる人々。
世界でもっとも悪魔など屁とも思っていない人類。
だから、悪魔自体も、すでに人類をおそれる必要はないと思うのです。
「ひとりで逃げない新しい神話」が始まった時、人類は「宇宙の進化の最終形」の手伝いをできることになります。
人類は宇宙を助け、また、その人類を作り出してくれた宇宙に人類は感謝する。
これだけでいい。
他に何もいらない。
そして、新しい世界が始まります。
それはどんな世界か。
その世界はそれは実は今までと同じです。
スーパーがあり、立ち食いそば屋があり、私たちは料理を作り、ゴミの分別をして、挨拶をして、庭で植物をいじる今までと同じ生活が再開されるだけです。
しかし、その頃にはもう何もかも変わっているはずです。
言葉では書けないことが。
まだまだ今後何ヶ月か何年は厳しい状況も続くでしょうし、理想的なだけではないことがたくさかん続くでしょう。犯罪や略奪も部分的には起きるでしょう。
しかし、私たちは日本人は、すでに新しい神話の最初のページに登場していることを意識して生活したいと思うのです。
タグ:日本人
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人類の覚醒と真実
最近は海外の記事の翻訳をしていませんが、海外でのニュースで重要なものはほとんど日本関係ですので、しばらくは自分の周囲の状況を伝えたり、あるいは書き切れなさそうですが、「日本人の意味」とか「人間と生命」などのことを書いてみたいと思います。
タイトルにした「われわれは日本人のようになれるのだろうか?」というのは、海外でいくつかのブログでそのような主旨のものを目にするからです。その多くは米国人だと思います。
それらの意味をまとめて文章にしてみました。
正確には翻訳ではありません。
モダンサバイバルブログなどより翻訳編集。
日本での災害発生からメディアを通じて、日本の光景を見続けていた。
恐ろしくて凄まじい災害の光景と共に、われわれが驚くのが日本人のふるまいだ。どの映像を見ても略奪も奪い合いもない。
人々は恐怖と疲労の頂点の中で冷静な判断で淡々と現状を見つめている。
私たちアメリカ人にこれができるのだろうか?
いや、できるかでできないかではなく、私たちはこれらの日本人の態度を学ばなければならない。
これは単なる同情や無意味な賛辞ではないのだ。
災害や大きなアクシデントの際に生き残りたいのなら、もっとも重要なことは、冷静な判断だ。これはとても重要なことだ。
多分、そのことをアメリカ人は忘れている。
ハリケーン・カトリーナの後にどんなひどい略奪や奪い合いが起きたかを思い出しても、今のアメリカ人に、この日本人たちのような態度を期待するのは難しい。
しかし、私たちは学ばなければならない。
アメリカもほぼ必ず同様の困難に見舞われる。
その際に、アメリカに「奇跡」が起きるとしたら、我々が今の日本人のように振る舞えることだけなのだ。
アメリカ人である私たち個人が今の日本人を救うことは難しい。
しかし、私たちはこの日本人の光景を見続ける必要がある。
そしてここから学ぶのだ。
私たちアメリカ人には想像もできないこの日本人の思考を学ぶのだ。
ここまでです。
実際にはこれほど理想的なままではないかもしれないですが、災害そのものよりも、日本人の態度にショックを受けている人たちは多いようです。
私たち日本人はこういう資質を本来は持っていると私は考えています。
その資質とは「言葉を使わずに人に考え方を伝える能力」です。
これは先日書いた「心と心の会話」と同じようなものです。
これからも何が起きるかはわからないですが、仮に、日本人が滅びても、日本人の存在(それが過去形になっても)は、地球の人類の精神的進化を前身させる役割の一部を担っているように感じます。
実はそのことを先日書きたいと思っていましたが、「日本人が地球の人類の精神的進化を担っている」なんてあまりにも日本人バンザイ思考で、書くのがイヤだったのですが、もうあまりそういうことを躊躇している時間はないようです。
そして、次のことも書いておきたいです。
いろいろな精神世界的な最近の話の中では、世界の思考シフトが西洋から東洋へと移行するというようなことが言われていました。そして、それは「中国」が代表になると。
しかし、それは中国ではなく「日本」だと思っています。これは精神的な代表という意味です。
ただし5日前まで(震災前)の経済や国際的立場を誇っていた日本人ではなく、何もいわずに(言葉を使わずに)人々を覚醒させられるという意味でです。
なので、日本人そのものが仮に滅亡しても、その精神的遺産は地球に永遠に残るということです。
そこらへんにどこにでもいるオジサンやオバサンの思考能力は、実は世界を助ける存在だと知って下さい。
もちろん、あなたや私の思考能力もです。
その意味だけでも、まだ日本人は全滅できません。
とりあえず、今はここまでにします。
あとで原発関係なども含めて、また書きます。
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人類の覚醒と真実
2011年03月15日
ふと目覚めました。
1年だか2年くらい前もよくあったのですが、最近また眠っている時も考えているようで、それで目覚めます。起きていても眠っていても、考えのほうは同じように続いているようです。
時間が早朝で、多分もうすぐ停電ですので、短く書きます。
先日書いた記事の最後の方に、「日本人の意味」というものについてふれて、その具体的なことについては、その全体について文字で書きようがないことだと思うのですが、表面的にあらわれていることのひとつに「日本語」というものがあると私は思っています。
私は日本語だけで育ってきて、他にネイティブで理解できる言語がないのですが、もしふたつ以上の言語をネイティブで理解できる方なら、「日本語の異常さ」というものには気付いてらっしゃると思います。
それは、会話における主語の欠落から始まって、場合によっては、目的語も何もかも欠落する言語。
レジのないような店で買い物をする時に、
「私にそのトマトを売って下さい」
という言い方をする人はあまりいないと思われます。
「これ下さい」
というようになると思います。
まあ、これくらいまでなら他の言語でも見られることですが、これが知り合い同士や日常に拡大すると、日本語は野放図になります。
たとえば、入院か何かしていて、そこに予想していたなかったような昔の知り合いかなんかがお見舞い品をもってやってくる。
そこで、
「私はあなたに会えて嬉しいし、こんなお見舞い品をもらったことに大変に感謝しています」
と「正確に気持ちを伝えて」は、むしろ冷たい感じがしてしまいます。
まあ、言い方に決まったものなどなくても、たとえば、私らのような中年の男性なら、
「あー!、来てくれたの? これはもうなんというか、いやいやいやいや」
というような極めて曖昧な言い方になると思いますが、相手に感情は伝わっていると思います。
このような感情の伝えかたをする言語というものは決して多くはないと考えています。
昔・・・、高校生の頃ですから本当に昔ですが、山本七平という作家の戦争体験の本(「私の中の日本軍」か「ある異常体験者の偏見」かどちらか)を読んだ時に、「日本語では戦争はできない」という記述がありました。戦争では、主語、目的語、時間等がきわめて厳密に伝達される必要がありますが普通の会話の日本語ではそれをなしえないために、「軍隊語」というものが使われるようになりました。
軍隊語というとアレですが、今でいうと、街頭での演説などがそうです。
「我々は ○○のために ○○に対して ○○をするのだ!」
と言うもの。
これが軍隊語です。
主語、目的語、対象などがすべて入っている。
しかし、おわかりのように、これは日本語ですが、本来の日本語ではありません。
よく口頭での日本語に出てくる「まあ、それはアレよね」とか、「まあ、それはなんつーか、アレなんじゃないかな」という言い方では戦争の作戦はもちろん、「左脳的に展開するすべてのことはできない」らしいのです。
それだけに、これだけで意志を疎通させて、社会を成り立たせることのできる能力に私たちは驚くべきだと思うのです。
自慢をするとか誇りに思うのではなく、改めて驚いて、そして、この曖昧な言い方を楽しめばいいのだと思うのです。
主語もない、目的語もない言葉でコミュニケーションが成り立っているということは、これは「超能力」以外のなにものでもない。
テレパシーという言葉がありますが、それは何だか大変な能力のように感じますが、私たちは言葉ですでにそれを達成している。
もちろん、地球上のすべての人類は目や表情でそれをおこなっています。
なので、全人類が持つ能力ではあるのですが、日本ではなぜか、言語の中に「言外のコミュニケーション」が介入した。
すごい。
まったくすごい。
ふたりのサラリーマンが昼休みに会社のビルの屋上にいます。
男A 「あー、なんかもうアレだよなあ」
男B 「いやほんとだよな。もうなんつーか本当にねえ」
男A 「まあ・・・しかし、そうでもない部分もあるんだろうなあ」
男B 「まあそういうところだけではないからね」
男A 「いろいろだわな」
俳句を他の言語で正確に現せないのと同じように、このふたりの会話も他の言語で正確に再現することは難しいのではないかと思います。
ふと、思って、 Google翻訳に上の日本語を入れたらこうなりました。
Man A "Oh, I wish arrays Anymore"
Man B "and I'm honestly. Hey, I really like steel ー anymore "
Man A "But I think there is some I wish I would not so much"
Man B "Well, just where I'm not such a"
Man A "trap that is different"
これはこれで何だか哲学的な言い回しですが、しかし、これでは多分、通じないでしょう。
このコミュニケーション能力だけでも、日本語には突出した「異常性」がありそうです。
宇宙人が上のふたりの会話の光景を見たら、「すごい能力だ」と感嘆するかもしれません。
言葉を発してはいても、このふたりのサラリーマンはすでに「心と心での会話」となっていて、驚くことに、毎日の瞬間瞬間に、日本の何千万人もの人々がこの「心と心の会話」を繰り広げている。
クリフ・ハイはかつてのウェブボットでこのように書いています。
非対称型言語傾向分析報告書「来るべき未来の形」0 巻2号要約
2009年9月15日配信 「世界の民衆」カテゴリーより抜粋
・日本では古代の日本文化のいわばルネッサンスのようなことが起こり、お身儀などの伝統的な風習に込められた深いニュアンスや、その象徴的な意味が再認識されるようになる。これは世界に広められる。
・ 「お辞儀」というキーワードは宇宙関連のカテゴリーでも出現する。それはエイリアンとのコンタクトが行われるとき、日本文化の礼儀作法を用いてコミュニケーションが行われるようになるからである。日本文化の礼儀作法を土台に、エイリアンとの間の相互理解が可能となる。これは2011年に起こる。
・ この日本式礼儀作法とその思想は、今後100世代、2000年にわたって異なった種の間でコミュニケーションが行われるための基本的な方法となる。エイリアンの未来のガイドブックには、地球に到着すると、最初に「日本シンボル大学」で教育を受けた人々の出迎えを受けると書かれることだろう。
エイリアンがどうだこうだの問題ではなく、「お身儀などの伝統的な風習に込められた深いニュアンスや、その象徴的な意味が再認識される」ということが「起きなくても」われわれは実際に日々使い、毎日「心と心で話している」。ここには「日本シンボル大学で教育を」というような表現がありますが、教育がなくても成立している。
今、日本は大変で、日本国家自体の存続にも懸念があるかもしれません。
でも、「心と心との会話の人たち」には国家という枠組みは二次的なもののようにも思います。
前回書いた「生との死の真意」はとりあえずわからなくても、すでに、「心と心との会話が成立している超能力」の中で生活している私たちは、本来は言葉では表現できないはずの「生と死の真意」に近づけるはずだと確信しています。
さて、そろそろ停電です。
タグ:日本語
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人類の覚醒と真実
2011年03月14日
最近のは文字通り、「書き殴っている」感じで、特に宇宙だののことを書いていることに関しては、あらかじめ何も考えないで、頭に浮かんでくることをただキーボードを打って、そこに文章があるというだけとなっているようです。怒濤の書き殴りで、よくわからない記述もあるかもしれないですが、ご了承下さい。
3月14日 午後の杉並区の光景
その前に、まず、今日のさきほどの記事をアップした後の街の様子ですが、あの後、午前中に街の中を見ましたら、昨日ともさらに変わっていました。
ついに、「店に何にもなくなりだした」のです。
コンビニはたまに弁当やおにぎりが入るのですが、缶詰やカップ麺といったものはすべて売り切れ。ドラッグストアやスーパーも同じです。
他に、電池、ロウソク、携帯カイロ、ティッシュ、トイレットペーパー、ジュース類などはほとんど消えていました。また、節電営業で、電気もあまりついておらず、薄暗い店内に何の食べ物もないという、以前見たジンバブエのハイパーインフレーション下のスーパーの写真とあまり大差のない状況が出現していました。
若い人は比較的簡単に順応しているように見えましたが、ご老人たちの多くは状況がまだ把握できていない方も多いらしく、つまり、今、あらゆる物資不足が自分たちの街、東京をも襲っていることを想像していなかったようです。
スーパーに入って何もない状況に唖然とする人、店員さんに「これじゃ困るのよ」と言ったりする人は皆さんご老人でした。そして、ついに聞いたのは男性の老人が店員さんに言っていた「戦時中みたいになってきたね」という言葉。
これが午前の状況で、その時には松屋とか吉野家、オリジン弁当などはやっていたのですが、午後2時頃にはオリジン弁当は「材料不足で閉店します」の張り紙、松屋などは「お持ち帰りは中止」、また、多くの持ち帰りの食べ物屋は午後は軒並みシャッターを閉めました。
その後、ホームセンターに行ったのですが、やはりめぼしいものは何もなく、なんとなく意味のないものを買って帰る途中、ペットショップの小鳥をボーッと見ていたら、私がホームセンターの袋を持っていたからでしょうが、犬を散歩させていた上品そうなご婦人が声をかけてきました。
ご婦人 「ホームピックに行かれたんですか?」
わたし 「はい」
ご婦人 「あの・・・まだカセットコンロなどは売ってましたでしょうか」
わたし 「全部売り切れでした。昨日の時点で、懐中電灯、カイロ、電池、カセットコンロ、ボンベなどは全部売り切れてます」
ご婦人 「あらあ、そうですか・・・」
わたし 「なんか大変なことになっちゃってますよ」
ご婦人 「ほんとにそうですわねえ」
と言って去りましたが、考えれば、最近の立派な家では、オール電化なんてのもありそうですし、停電時には炊事も難しいかもしれません。
それにしても、本当に「たった2日」で物資が見事に消えました。
震災後直後はまだ買い物には動いていなかったですので、昨日と今日で壊滅的な物資不足が出現したようです。
そういえば、途中のガソリンスタンドにも「レギュラー、ハイオク売り切れ」と手書きの紙が貼られており、いろいろと不足しているようです。
生命の意味
前回書いた「宇宙と対等である人類」という概念も、さらに拡大解釈すれば、当然、あらゆる人類とあらゆる人類同士も、そして宇宙とそれを取り囲むあらゆるパラレルな宇宙も対等でなければならないということになると思います。
しかし、では、現実に、たとえば、「あなたの恋人を殺した人物」の隣に配置されて、「あなたはこの人と平等を感じて生きてください」と言われて、それができるでしょうか。
できないはずです。
私もできません。
今の地球ではそれは基本的に誰もできません。
どうしてか?
それは「生命の意味の解釈」という大変に重いテーマに突きあたる問題です。
今回の地震の言葉にならない悲惨。
人命があれだけ無造作に消えていく無常。
このあからさまな悲劇を「悲劇と感じなくするような方法」というのはこの宇宙に存在するのか? ということがあります。
たとえば、今回のような壮絶な光景(消滅した文明という意味の)を伴っての大量の犠牲の痛ましさの向こうに、たとえば、毎年数万人が自殺している悲劇や、殺人や事故で亡くなっていく悲劇があります。
それは、すべてがわれわれの目や耳に情報として入るわけではないので、私たちは知らないことが多いですが、では、それは悲劇ではないのだろうか?
「恋人が自殺してしまった」
「子どもが殺されてしまった」
少なくとも当事者の個人には、これらの悲劇は世界のどんな悲劇とも、どんな事象とも比較できない最悪のできごとであるはずです。
しかし、起きている。
毎日毎日、しかも、この数千年に限っては、多分ずっと起き続けている。
他にも様々な「悲劇」はありますが、これら「人の命」という悲劇が最大に重いもの(に感じる)ことは確かであり、そして、今のままの私たち人類の生命の解釈では、今後も何百年も何千年も、いや、人類がいる限り、未来永劫にその「悲劇」が続いていくことになってしまう。
そして、人類が存在している限り、それ(死ぬこと)は必ず起きる。
「悲劇」という概念(もちろん他の様々な概念も)が、宇宙が人類に与えたものだとすると、私たち人類が宇宙との対等に近づくためには、その「真意」、その真意とは、つまり私たちは「生命の生きることと死ぬことの真意」を知らなければならないのだと思うのです。
「人が死ぬことが悲劇ではなくなる」という響きは、一見、むしろ冷たく聞こえるかもしれないでしょうが、それは、私も含めて、その「真意」がわかっていないからなのではないかと考えるようになりました。真意というのは、「肉体の生と死は本来(宇宙の最初)はどういう意味だったのか」という真意です。
私が先日書いた宇宙に向かっての「殺せるものなら殺してみやがれ」という言葉の意味のひとつには、その真意を知りたいという表現が幼く表れたというような部分はあるかもしれません。
人はどうして死ぬのか? ということが言われることがありますが、それは生命の仕組みを見ると当たり前のことで、あらゆる多細胞生物はいつかは死にます。
しかし、たとえば、他の生き物では「死は不幸と結びついているのか」ということを思うのです。死の意味はそれとは違うところにあるのかもしれないと。
もし、私たち人類が、この「宇宙が人類に突きつけた生と死の真意」を知ること、あるいは気付くことができれば、この世の多くに覆い被さる「悲劇」というもののクリアに一歩近づく気もするのです。
まあ・・・実際ですね。
もうイヤなのです。
人が死んで悲しいというのは。
私は結構弱い人間なんで、人一倍、死のニュースにはメソメソするんですよ。
今日も、道を歩きながら、あまり意味はないんですが、途中で涙が止まらなくなって、うつむいて、あくびをするふりなどしていたのですが、最近はこういうことも多く、もう「そろそろ何とかならないのか」と思うこともあるのです。
今回の地震についても、こう書くだけでもう涙が止まらないのです。
昨日も書きましたが、それは悲しいということではないのです。
もうイヤなのですよ。
この宇宙が示す「生と死の真意」が私の時代や世代でわかるということが無理なのは仕方ない。
しかし、たとえば、私の子どもの世代。
それは下手をすると、今よりもさらに人の死を見て生きていく可能性がないと、どうして言えましょうか。
死体だらけの中から生き延びた子どもたちによる未来の再生の可能性だってある。
今の人類感情のままだと、それは幸せな精神的な未来世界にはならない気がするのです。
「生と死の真意」。
宇宙は知っている(知っているというか、そこに存在するものだから)のかもしれないですが、私たち人類はあくまで対等に近づくために、誰にも教えられずに、少なくとも自分の宇宙の仕組みくらいは自分で気付かなければならないのかもしれません。
とはいえ、どうしたらいいものやら・・・。
殴られた私は今はボーッとそれを考えるだけです。
タグ:生命の意味
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人類の覚醒と真実
今日あたりから計画停電が始まるとか始まらないとかで、始まれば、私の地域は朝と晩の一日に6時間近く停電することになりそうです。なので、ブログの更新などもできるときにやっておかないと。
昨日書いた中の「圧倒」ということに関しては、同じように感じている人は多いようで、メールも頂きましたが、同じ表現ではなくとも、そのような雰囲気を頻繁に感じました。つまり、災害に対しての「形容がない」のです。言葉で何も表現できない。
昨日は街中をずいぶんと歩いて見て回りましたが、いろいろなところで、おばさんたちなどが「がんばりましょうね」と言っているのを耳にしました。
今朝はニュースで駅の混雑のことを言っており、午前9時頃、駅まで見に行ってみると、人だかりができており、入場制限がおこなわれていました。
まあしかし、予想できていたせいもあるのか、みんなそれほど深刻な感じではなく、隣に立っていた男性は苦笑しながら携帯の相手に、「ホームにも入れねーのに、会社になんか時間通りにつくわけないから、何とかさんに言っといて」と話していました。
反対側に立っていた2人組の女性は、「でもさ、池袋まで行っても、そこから電車動いてないみたいよ。どうしようか」とか話していて、「それは行かないほうがいいのでは」と思うような人たちもいましたが、なんとなく普通に諦めてる感じがありました。
話によると、隣町の吉祥寺駅は修羅場になっているとのことでしたが。
平等の理想形
昨日書いた宇宙へのことに関してですが、今日はあまり長く書けないですが、勘違いしていただきたくないのは、「宇宙を憎む」いうことではないということです。
最も大事なことは、
「私たち人類ひとりひとりは本来は宇宙と対等な立場だ」
ということを私たち人類も理解し、また宇宙にも理解してもらう。
私は実は最終的には、いわゆる「悪魔」と呼ばれるものにもこのことを理解してほしいと思っています。
悪魔のことを書いた時にも私は「憎む」という概念を書いたことはないですが、今回の不幸を経験して、さらに思いましたが、今、私の中で増大している意識は、「憎しみの対極にあるもの」であることを実感しています。
人類自身がそのことを理解し、そして、宇宙にも悪魔にもそのことを理解してもらえば、少し宇宙は進化すると思っています。
もちろん、それは私の中の宇宙の話で、他にもいろいろとあるのでしょうけれど、「ペアである自分」の中に書いた、「宇宙は自分の中にある」というのなら、そのペア(「自分」と「自分の中にある宇宙」のこと)が対等でなければ、バランスが悪いことになります。
今後・・・まあ、書ける時までですし、少しずつになるかもしれないですが、
「宇宙と対等である人類のこと」や、そして、「本来、誰でも人類はきわめて優れた能力を持つ生き物であること」を書きたいと思っています。
それがいい悪いではなく、鳥や蟻から見れば、文字を書いたり、じゃんけんができたり、料理をしたり、そして顔で笑ったり泣いたりできる「人類」というのは、とんでもない高度な能力の持ち主のはずです。
それら多くの人々が持っている「単純な人間の特徴」こそが宇宙で最高に近い生命のひとつの姿だと私は最近思います。
それを越えた能力、つまり、様々な超能力や不思議な力、それは「個性」なのだと思います。
足の速い人やたくさん食べられる人がいるように、未来を見られたり、前世を見られたり、宇宙人と交信できる人たちがいる。
それらを優れているとして、ただ崇拝するのではなく、「キミは足が速くていいよね」というのと同じように、対等に平等に楽しく自分と同じ地平で生きて過ごすのがいちばん気楽だし、それは楽しい生き方のように思います。
そういうことを断片的に書いてみたいと思っています。
書ける時までですが。
インターネットだっていつまで繋がっているかわからないですし。
それにしても、停電が始まりそうですので、今日は電池を探しに行きたいですが、どこにあるやら。
タグ:ペアの宇宙
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人類の覚醒と真実
2011年03月13日
人生で二度目の決意
私もそこそこトシではありますし、国内も国外も含めて、これまで結構いろいろな災害の報道やニュースを見てきました。
しかし、今回ほどやたらと涙が止まらなくなることはなかったのです。
恥ずかしい話ですが、今は本当によく涙が出ます。子どもの前でも止まらなくなることがあります。
とはいえ、この涙が「悲しみの涙」ではないことは明らかです。
私はそんなに心温かい優しい人間ではありません。
理由・・・。
いろいろとあると思いますが、まずは「圧倒」があります。
あの津波の被災地の光景。
そこに人命があるとかないとかの生死の問題を越えて、その前にそこには文明があった。そして、生活の痕跡があった。
私は以前、「宇宙を憎むか憎まないか」で少し悩んだことがあります。それはもともと私がひねくれ者だからでしょうが、誰もかれも、この世に悪い者や悪いことはあるけど、「宇宙だけはいい」、「宇宙だけは絶対だ」と言う。
それがどうも気に入らなかった。
以前、ペアである自分の何回かめに書いたように、パニック障害で苦しんでいる時に、その苦しみの吐露をどこに向けていいのかわからなくなり、対象を宇宙全般にしたことがあります。
「殺せるものなら殺してみやがれ」と書いた紙を壁に貼り、そのことで「宇宙に向かって暴言を吐き続けることを確認して」生きていたことがあります、
しかし、特にそれらしき報復はなかった。
「死ねや、宇宙が!」
と呟いても、少なくともその場でバチなどは当たらなかった。
さて、その過去はともかく、今回の災害だけではないですが、もともと私は「人類の苦しみや災難が何のために存在するのか」が理解できなかったということはあります。
私が若い頃にパニック障害等で苦しんでいた中で、「宗教にでも入ろうかな」と考えて、いくつかの教会に行ったり、聖典を読んだりしたものの、やはりすぐに「この役立たずのクズ聖典どもが!」と叩きつけることになったわけで、上の「人類の苦しみや災難が何のために存在するのか」の答えは少なくとも、私が知ろうとした宗教の中からは見いだせなかった。「それなら」と、22歳だったか23歳の私は思ったわけです。
「オレはオレだけでいいじゃないか」と。
その後、この「自分教」への信奉(何もしないことが信奉ですが)はますます強くなり、今を迎えています。
今回、東北の地震の「圧倒的な光景」を目にしている中で、また、その23歳の時と同じような気持ちが涙と共に出てくるわけですよ。
「貴様ら宇宙は何でもできる。調子にのりやがって!」
と思ったあの頃の気持ちがそのままとなりつつあります。
偉大な力を尊敬し崇拝する人々がいる一方で。私のように「偉大な力を持つものが好きではない」という人々も少なからずいます。
多分、今度はあっちの勝ちで私は殺されるでしょうが、昨日の今日の決意でもないし、これはもう仕方ない面はあります。
ちなみに、たとえば、こういう現実の災害の圧倒の前には、私たちは異常に現実的になる必要があると思っています。
すなわち、あらゆる宗教、あらゆる神様、あらゆるオカルト(ここでいうオカルトとは信憑性を多方面から実証できないもの)を排除しながら進む他はないように思います。
そして、現実の中から、こんなあからさまに悲惨な状況を軽々しく作ることのできる「宇宙の存在そのもの」を否定していく方向。
宇宙がどのように生まれたのかは今はわかっていませんが、中世の神秘学などの言葉を借りると、順番としては、
・ことば
・存在
・認識
・存在
・認識
というように来たように思います。
今、私たちが「宇宙」とか「存在」と考えているものは、実は我々の「脳」が認識しているために存在しています。
これは難しい話ではないのですよ。
・見ないと見えない
・聞かないと聞こえない
・聞かないと聞こえない
というようにいくと、
・認識しないと存在しない
という流れにはなるように思います。
埴谷雄高さんが言っていた「存在の革命」という言葉を、私なりに究極的な革命として、書けば、
・認識の否定
というものがあると思います。
とても間違ったことであることはわかりますが、ただ単に「宇宙の圧倒」に我々がいつまでも引きずられているわけにはいかない。
前に書いたことがありますが、私はいろいろな意味で「23」という数字、つまり獣の数字に完全に支配されて生きてきたわけで、正確には私はオカルトの定義では人間ではありません。
なるほど、昔から宇宙も神も悪魔もどれも怖くありませんでした。
(お化けは怖い)
前置きだったのに、何だか変なことを長々と書いてしまいましたが、もうそろそろ涙も尽きると思います。
ところで、今日のタイトルにした「決意の涙」の「決意」というのは、私のこの「変な決意」のことだけではありません。
ビギニング
私は今日(日曜日)、地元のいくつかのコンビニと、大手家電、100円ショップ、ホームセンター、そして、隣町の吉祥寺の大手家電、大手スーパーなどを回って歩きました。
実際に欲しいものもあったからだったのですが、最初に結論的なことを書いておきますと、以下のものはすべて売り切れており、「入荷未定」となっていました。
・単一電池
・単二電池
・災害用ラジオなど(ラジカセはまだありました)
・懐中電灯
・その他、安価な携帯用の照明のほとんど
・カセットコンロ、ボンベ
これらは一切なかったです。
電池は大手家電では単三が多少あったので買えましたが、コンビニや100円ショップでは電池がほぼない状態でした。
吉祥寺のヨドバシカメラで買い物をした時に、店員さんに聞いたのですが、「ラジオは昨日からものすごい売れて、今日はほとんど売り切れなんです」とのこと。これがまだ午前中の話でしたので、その後はさらにいろいろと棚から消えたのではないかと思います(日曜は午後から買い物に行く家族が多いでしょうから)。
食糧も、相変わらず枯渇気味の店が多く、カップラーメン以外がほぼない店も多かったです。
そして、ホームセンター。
ここはもう「戦争前夜」でした。
いつもそんなに混んでいるわけではない店なのですが、長蛇の列となっていて、みんないろいろと淡々と買っている。
店で携帯で話していた中年の女性の人が、「お父さん? ガスマスクはないって」と話していて、想定している状況も壮絶な人たちもいるようですが、まあ、原発などの報道からの連想なんでしょう。
大きな災害が起きると、かわいそうだとか、その人たちを助けようとか、そういうことや気持ちが起きるのは当然なのでしょうが、それに加えて、「次は自分たちだ」という意識が非常に見えます。
もはや、自然災害はどれひとつとっても他人事ではないという「決意」。
それでも、パッと見た光景は普通の買い物光景であり、淡々と買い物をしている。
ただし、いつもとは買うものが違う。
たった3日間ですが、「3日前とは違う世の中になった」という感じがうかがえます。
変わったのです。
準備する日本人
これらの一連の風景を見た時、以前のウェブボットのくだりを思い出しました。
2010年3月のもので、ここにはすでに過ぎた日付や「2012年」などの単語が出てきますが、それらを無視して読まれて下さい。
非対称型言語傾向分析報告書「来るべき未来の形」0 巻4号
2010年3月12日配信 「古代の復活 (日本に関して)」より抜粋
・ 日本における「革命」は、自分の国にプライドをもちたいという日本人の意識を背景に、経済的な混乱と将来への不安、そして食料価格の高騰と食糧不足、さらに2012年の情報のリークが重なって起こってくることだ。これらの重なりは、「革命」への絶好の機運を形成する。
・ また、2010年8月の終わりには、多くの日本人が2012年を恐怖し、突然と準備を開始する。2012年への準備は日本における「革命」の伏線を形成する。
「突然と準備を開始する」。
そのキッカケがあれだけひどい災害だというのは苦しいですが、しかし、私もそうですし、日本人だけの話ではないでしょうが、私たちは「殴られなければわからない状況」になっていたようにも思います。
今、私たちは「殴られた」のかもしれません。
私も含めて、多くの人々は先行き、どのくらい生き残っていけるのか不確かではありますし、私本人などは、そもそも生き残ろうという意志すら昨年あたりからはあまりありません。
しかし、私は最近、「日本人が地球に存在した意味」が(自分なりに)少しわかってきた気がしています。
さらりと書ける話でもないですので、書かないかもしれないですが(それにどうしても「日本人賛歌」的な匂いは漂いそうで、それは自分でもイヤですので)、地質的に巨大プレートの込み入ったすぐ横の、「通常なら文明など築いてはいけないような立地(文明が芽生えても地質的にすぐ滅びる宿命)」に国家が立ち上がり、それなりに存続し、それなりに(悪い面でも、良い面でも)周囲にそれなりの影響を与えてきた「日本」。
外国人たちから見れば、奇妙な習慣、奇妙な意志表示、奇妙な挨拶、そして、奇妙な食生活(キノコと海草を毎日のように食べる人々)に奇妙な言語(文法が基本的に孤立化している)に綾取られた日本人。
どうして、私たち日本人が、地球のこんな歴史に登場しなければならなかったのか。
これは今まで書いたこともあるような「人類の意味」ではなく、「日本人」とその文明の意味です。
今はそれがほんの少しわかるような気がします。
(間違っているのでしょうけれど)
これは、言葉として表現すること自体が違うような気もしますので、書かないで済むなら書かないで終わりたいです。
タグ:宇宙との対決 第2部
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人類の覚醒と真実
2011年01月23日
(管理人注) タイトルの3つには全然関連性はないですが、それぞれ、 In Deep の最近の記事を補足する資料として記しておきます。
聖書外典「ヨハネ行伝」は、
・ペアである自分(資料編2)「死霊」 よりイエスと釈迦の弾劾 (2011年01月21日)
の資料として。
ナショナルジオグラフィックの「ガンマ線バースト」の解説は、
・「2012年ベテルギウス超新星爆発の予測」に関しての大騒動 (2011年01月22日)
の補足資料です。
また、「マタイによる福音書 24章」は、最近起きている災害において、「 In Deep で取り上げるものとの関連性を感じる」と教えていただきまして、読むと、なんとなくそんな感じもいたしましたので、記しておきました。
マタイによる福音書は部分的には有名なフレーズも多いですが、ひとつの章を全部通して読んだのは初めてかも。
上記の資料については、どれもメールでお教えいただいたものですが、私など聖書外典「ヨハネ行伝」にある外典(がいてん)というものを知らなかったのですが、外典とは「ユダヤ教・キリスト教関係の文書の中で、聖書の正典に加えられなかった文書のこと」なのだそうです。
Wikipedia を見ても、大変な数の聖書外典があるようで・・・いやあ、どうにもすごいな、聖書の世界。
この中の「ヨハネ行伝」というものの中に、先日の埴谷雄高さんの「死霊」で、イエスが「自分で食べた魚から指弾される」場面について、「イエスはこのことを知っていた可能性がある」というご指摘でした。
いろいろな方にいろいろとお教えいただいていることを、この場をお借りしてお礼させていただきます。
どうしても返信させていただくのが遅れがちになりまして申し訳ないです。
--
[資料1]聖書外典「ヨハネ行伝」に見るイエスが感じていた食物連鎖への懸念
・ヨハネ行伝 第95章より
(注)講談社文芸文庫の「新約聖書 外典」から抜粋したもののようで、全部ではないようです。
--
私は救われたい そして救いたい
私は傷つけられたい そして傷つけたい
私は生まれたい そして生みたい
私は食べたい そして食べられたい
私は笛を吹こう 君たち全ては踊れ
私には家がない そして私には家々がある
(注)講談社文芸文庫の「新約聖書 外典」から抜粋したもののようで、全部ではないようです。
--
私は救われたい そして救いたい
私は傷つけられたい そして傷つけたい
私は生まれたい そして生みたい
私は食べたい そして食べられたい
私は笛を吹こう 君たち全ては踊れ
私には家がない そして私には家々がある
そして、ここにはないですが、30節に、「そしてわたしの行うことを見終えたならわたしの秘儀については黙しなさい」
という部分があるようです。
この悩みは、埴谷雄高さんの悩みであった「同一律の不快(AがAであることがイヤだ)」にも似た感じを受けます。「死霊」ではガラリヤ湖の魚に弾劾されたイエスですが、「その魚にイエスが食べられる」というひとつの概念も存在していたのかもしれないと感じたりいたします。
--
[資料2]ガンマ線バーストと地球の関係
(注) この2009年4月6日のナショナルジオグラフィックの記事の
新しいコンピューターモデルでシミュレーションしたところ、6500光年以内で発生したガンマ線バーストが地球に届けば、オゾン層を破壊して酸性雨を降らせ、地球寒冷化を引き起こす恐れがあることが示された。
を読んで軽くショックを受けたので、抜粋して転載することにしました。
昨日ご紹介したベテルギウスは、地球から 640光年程度の距離しかありません。HR8210 に至っては 150光年・・・。
ただ、ガンマ線バーストは、その発生原因もよくわかっておらず、超新星で生まれるガンマ線との関係も確定しているようなことはあまりないように思います。なので、過度に気にしても仕方ない思いますが、「全然気にしない」というのも個人的には無理っぽいです。
大量絶滅の原因はガンマ線バーストか
ナショナルジオグラフィック 2009.04.06
最新の研究によると、まぶしい光を放つガンマ線バーストは4億4000万年前に地球で起きた大量絶滅の原因だった可能性があり、同様の天災に再び見舞われることもあり得るという。
ガンマ線バーストのほとんどは、非常に質量が大きい星の核が崩壊したときに発生する高エネルギーの放射線と考えられている。
新しいコンピューターモデルでシミュレーションしたところ、6500光年以内で発生したガンマ線バーストが地球に届けば、オゾン層を破壊して酸性雨を降らせ、地球寒冷化を引き起こす恐れがあることが示された。
オルドビス紀(4億8800万〜4億4300万年前)の終盤、繁栄していた海洋生物の70%が大量絶滅したのはこういった天災が原因だったかもしれない。
「現在、いて座方向に8000光年の距離にある大質量星WR104が潜在的な脅威だ」とトーマス氏は指摘する。しかし、他の天体物理学者たちにこれといった動揺はない。「この研究は、近距離でガンマ線バーストが起きたらどうなるかを示しているわけだが、科学者はよくそのような考え方をするものだ」と、 NASAの天体物理学者デイビッド・トンプソン氏は言う。同氏はフェルミ・ガンマ線天文衛星のプロジェクト副責任者でもある。
また同氏は、将来ガンマ線バーストが地球にもたらす危険を次のように例えている。「自宅の物置きでホッキョクグマと出くわすようなものだ。可能性がないわけではないが、限りなく小さいので心配しても意味がない」。
(略)
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人類の覚醒と真実
2010年12月13日
▲ 12月09日に黒点と磁気フィラメントによってできた「顔」。
▲ アステカ神話の太陽神トナティウ。神話では現在の太陽そのものの存在で、この神の舌(黒曜石のナイフ)が宇宙を形作る4つの要素と一致する時、現在の第5の太陽滅亡の日となるのだそう。その日はアステカ文明の暦では2011年12月24日。
--
(筆者注) 今回は訳記事ではないです。
12月09日に書きました記事「「太陽が笑った」: 目は黒点で口は磁気フィラメント」は、このタイトル通りに、黒点と磁気フィラメントによって太陽の表面に顔のようなものが出たという話でした。その時にはそれだけの話で、だからどうしたというような展開ではなかったです。
その後、記事を読まれた方からメールをいただきました。
「あの顔はトナティウと似ている」と。
・・・トナティウ・・・。
うーむ、知らない。
最近だけじゃないですが、とにかく私は何も知らないので(実は極めて詳しく知っているジャンルを持ってはいるんですが、そのジャンルは一般にはまるで役に立たないものであります)、何でもかんでも初耳のことが多く、それだけに翻訳にしろ何にしろいろいろと知ることができるのは楽しいことです。昔書いたことがあるのですが、「無知の快感」というのがあって、知らないことを知っていく快感はかなりのもので、中毒性があります。
そういうわけで、今回、トナティウについて調べてみますと、これがなかなか印象深い話でしたので、少し書いておこうと思いました。簡単にいうと、トナティウというのはアステカ神話に出てくる太陽神のことで、「現在の太陽そのもの」なのだそう。
神精妖名辞典より抜粋。
トナティウ
メソアメリカ中央部における太陽神。
トナティウは生命の供給者であり、神話の中で五回変わった太陽のうち現在天上にある第五の太陽そのものであり、アステカの20ある暦日の19日目であるキアウィトル(雨)の守護神であり、さらにトナルテウクティン(夜の神々)の4番目でもある。
トラルテクートリやウィツィロポチトリと同様に人間の生贄を頻繁に要求する神であり、多くの心臓と血がこの神に捧げられた。
またトナティウ自身もテクシステカトルとナナウトツィンの犠牲によって生まれた神である。生まれたトナティウ=第五の太陽はそのままでは動かず、生贄の血を要求した。これをなだめるために神々はケツァルコアトルを呼び、彼の黒曜石のナイフで自分達の心臓を取り出させた。
アステカ文明などについて何か一気に分かるのはないのかなと、さらに探していたましたら、雑誌「ムー」の「アステカ・カレンダー」特集ページをそのままアップしてくれているページがありました。
アステカのカレンダーは中心に今回の話題の太陽神トナティウが描かれているもので、マヤカレンダーなどと同じように数十億年前の地球誕生から第7の時代が終わり、人類が進化するところまでが描かれているのだそう。
下の抜粋記事はムー NO.15 「総力特集=大洪水伝説と地球大異変の驚異」という刊からのもので、発行されたのは何と1982年2月。30年近く前です。
元記事はかなり長く、要点だけを抜粋して編集しましたので、全文をお読みになりたい方は下のリンクからお読み下さい。
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タグ:トナティウ
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人類の覚醒と真実