2011年04月14日



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どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない



江戸時代の話ですが、1858年に、日英何とか条約のために来日していた英国の使節団の一員で、船艦の艦長だったオズボーンという人が、日本についてこう書いています。

この町でもっとも印象的なのは、男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった。


何だか当たり前のことのように見えるこの短い一文ですが、しかし、イギリス人の彼が「みんな幸せで満足そうに見える」と書いたということは、彼の国、あるいは彼が見てきた国では、少なくとも「みんなが」幸せそうに見えたわけではなかったということなのかもしれません。

今の日本がどうかというのはわかりませんし、当時の日本だっていろいろとあったとは思いますが、少なくとも当時の英国人には日本は「そう見えた」。

その後、彼は日本から英国にいる母親に手紙を書きますが、その内容は、

日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民です。どんな地位にいようととも、私は日本なら喜んで出かけたいと思っています。


というものでした。

こういう例は多く残されていて、たとえば、「逝きし世の面影」という著作にたくさん出ているようです。こちらに内容の紹介があります。



▲ 本自体は楽天にありました。


しかし、ここで勘違いしたくないのは、「だから日本は素晴らしい」という言葉が仮に私たちの口から出てしまうと、それで、もうダメだと思うのです。


江戸時代や明治自体などに来日した外国人の感嘆は、日本人が「これはすごいこと」だと気付かないで淡々と日常的にしていたことで、そして、そのすごさに気付いていなかった日本人がすごかった。気付いてしまった今は不幸とも言える気がします。今の時代は、「だから日本はすごい」と言わなければならなくなってしまった。

本来は「無言」に戻るべきなのでしょうが、この「不幸」の中、もう少し言葉にしてみます。


たとえば、日本では比較的昔から普通のことだと思えるような、

・道にゴミや糞尿がなく、きれいだ
・玄関前に花などが置いてある
・子どもと大人が一緒に遊んでいる


こういうことは当時の西洋では「発想もつかないこと」だったようです。

西洋では古くから「子どもは小さな大人であり、邪魔な存在」という意識がかなり長く続いており、今は違うでしょうが、「道ばたで子どもも大人も遊んでいる」という光景は夢の世界のように見えたのだそうです。まあ、今の日本は治安などの問題で、そういう光景は少なくなってしまいましたが(道ばたに子どもがいない)。

また、一般的に昔の西洋では、道に糞尿を捨てるのは特別なことではなく、「道は汚いところ」という意識がかなり一般的だったと記録されています。


以前、記事に書きましたが、今、日本はどちらかというと、ふたたび鎖国の時代に戻りつつあるかもしれないということがあり、さらには、「国際社会が日本のことを忘れ去ってくれるかもしれない」ということがあります。

これはリスクの大きさを承知で書けば、日本にとってひとつのチャンスだと私は考えています。もともとの日本にあった(そして本来は今でもある)「特別ではない普通の日常」を取り戻すことができるのかの瀬戸際に今の日本はいるように思います。




一蓮托生の宇宙

私は「人類と宇宙から独立した」ということを最近書いていて、以前、「宇宙も自然もすべてが人類を尊敬しているのかもしれない」と書いたのですが、昨晩、ふと考えがさらに進みました。


すなわち、宇宙とあらゆる自然は、ただ人類を尊敬しているのではなく、人類である私たち以上に、宇宙も自然も私たち人類(すなわち、自分たちを認識してくれているもの)を愛してくれているはずです。人類が消えると宇宙も消えるということがほぼ確実となっている以上、「宇宙の最後の存在意味は人類を存在させ続けること」だと思います。


つまり、宇宙も人類も、その他のすべても「何もかも常に一心同体」であり、そこに優劣はないのだと気付いたのです。


これは「人類は尊敬されている」という考えからさらに進化していると自分で思います。なぜなら、もともと私は「尊敬」という言葉が嫌いだからです。

若い頃から「尊敬している」という人はいませんでしたし、今もいません。
あるのは「好きな人」という区分だけで、それはたくさんいます。

このブログに何度もでてくる作家の埴谷雄高さん、パンスペルミア説の生物学者フレッド・ホイル博士、パチプロの田山幸憲さん、昭和天皇、あとは、米国の元プロレスラーのストーンコールド・スティーブ・オースティンといった人たち。

こういう人たちはみんな好きです。でも、尊敬ではない。

大体、埴谷雄高さんなんて何度も何度もここに小説の引用だとか出させてもらってますけど、「死霊」そのものは読んだことないですからね。「死霊」第一巻は持っているのですよ。でも、3ページくらいで挫折して、あとは「すてきな飾り物」となっています。

ただ、埴谷さんの対談はすべて読んでいて、小説の引用もそれらの対談集などに出てくる引用で理解したものです。「死霊」は私程度の頭の人では「漢字すら読めない」ほどの男性性小説で、おもしろいものではないです。

でも、埴谷さんはカッコイイ。素敵だ。
そういうことになると思います。


宇宙と人類が一蓮托生の関係にあることについては、観念的な問題だけではなく、「私たちを取り囲む微生物の働き」などでも多分わかることのように思っています。先日書いた空間をつないでいるものの正体という記事で、私にメールを下さった方の知人の方のお話を紹介したことがあります。
そこにあった、


 > この世界には微生物が隙間なく蔓延している


という一節。

これが宇宙全体を貫いているとすると、「宇宙は繋がっている」ということが物理的にも言えることになると思うのですが、しかし、ここには以前、「ペアである自分」というものを書く原動力ともなった「壁」があります。

それは、「光速の限界」という物理の問題です。

100億光年先の「微生物」と繋がるためには、光速で100億年かかってしまう。
しかも、宇宙はもっともっと果てしなく巨大に広がっている。


「全部の宇宙が一体」であるためには、この物理の法則を打破する必要があるわけで、だからこそ、「自分の中にある宇宙」を考えてみたくなったり、あるいは「今、私たちがいる場所(たとえば地球)が最も大事な場所だ」ということになるのだと思います。

光速で瞬時に移動できる範囲で物事を拡大解釈していけば、きっと何かがそこにあるような気がします。

そして、それはその時に個人個人考えられる範囲でいいのだと思います。

たとえば今なら「東北のことを考える」でもいいし、「日本と日本人を考えてみる」でもいいと思います。そこから考えが宇宙に繋がっていく日がくると思っています。



どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない

1860年に、通商条約の締結のために来日した当時のプロシアという国の使節団の人は、報告書に、日本人についてこう書いています。


「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」。



実際に、 100年前とかそれ以上前に、日本にやってきたほとんどの外国人の共通の意見が上の意見に集約されています。

とはいえ、その後の 100年で日本の状況はかなり変わってしまった。最近の日本と日本人が「どうみても健康で幸福な民族」かどうかは、かなり微妙で、それだけに今の時期は考えてみるいい機会なのではないかとも思います。


今日は最後に、1876年(明治9年)と1899年の二度日本に来日して、日本が大好きだったフランスの画家のレガメという人が書いた「日本素描紀行」という著作からの抜粋です。中略と抜粋なので、このように続いて書かれているわけではありません。

 私は、午後三時から始めた貧しい人々の住む地域の散策から戻って来た。

 魚屋や八百屋の店先は、夕食のため、たいへん賑わっている。この時刻の盛んな活気は、やがて人気のない街の静けさに移っていくのだろう。

 私は、深く感動して、頭をかしげて戻る。たった今見たすべてのことに、心の奥底まで動かされ、あの誠実な人たちと、手まねでしか話せなかったことが、たいへんもどかしい。

 勇気があって機嫌よくというのが、陽気で仕事熱心なこのすばらしい人々のモットーであるらしい。女性たちは慎ましく優しく、子供たちは楽しげで、皮肉のかげりのない健康な笑い声をあげ、必要なときには注意深い。すべての人が、日中は、家の中でと同じように通りでも生活をしている。

 彼らは、私がどんなに彼らが好きであるのか、おそらく知るまい。また、自分たちに、どんなに愛される資格があるのかも知らない。


guimet.jpg

▲ レガメの書いた当時の東京の風景。これは浅草の射的屋。







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2011年04月11日



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先日、近所のたまに行く飲み屋に行きましたら、常連のご老人(若い人が多いこの店では珍しい)が、「私の知り合いがね、予言で、今度○○が××だというんですが、オカさんはどう思われますか?」(私はオカといいます)と言います。この方は80歳近い高齢ですが、誰にでも敬語で接する方なんですが、それはともかく、私は返答につまりました。

そして、うーむ・・・と私は唸りました。

あれだけの現実の災害を前にしても、まだ予言だなんだという人がいるかと。


私は震災後、記事でたまに人類のことについて激情に駆られるままに書きました。

ほとんど書き殴ったものとはいえ、ある程度は、自分の書いたことに同意できる部分はあります。基本的に最近、自分の中でも自分がバラバラなんで、全部同意できるわけではないですが、しかし、以前書いた「人類は未来を予知できないという他の生命にはない能力を獲得したことによって、宇宙史上で最大の進化をした」ということは、今でも全くその通りだと感心しています。


予言というのは「進化する前の人間の機能」の一部であって、現在の人類はそこから脱却することによって、現行の娯楽や楽しみや、あるいは文明に到達することができたと考えています(予言で「実現不可能」とわかってしまった研究をする人はいなくなるというような意味も含めて)。

もちろん、いろいろな人がいるわけで、今でもその昔の人類の特性を持っている人はいるでしょうし、「個性」はあると思います。手で色を見ることができる人とか、人には聞こえない音を聴くことができるとか。

しかし、それらは一般人である私たちの日常生活にはあまり関係のないことです。

そのことを考えているうちに、さらに「予言」ということにについて書きたくなりました。



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2011年04月08日



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さきほど(4月7日の午後11時30分)、多分ここ最近では最大の余震(マグニチュード 7.4)だと思われる地震がありました。

東京でも最近では最も大きな体感の揺れと長さで、「関東に来たのかな」と思い、テレビをつけると、緊急地震速報が報じる震源地は宮城沖で、「まだ東北にこんなでかいのが来るのか」と、やや絶望ぎみにテレビを眺めていました。東京でも揺れは1分近く続いて、地震速報では宮城の各地で震度6強などを観測していました。

最近、「時間がまた動き始めた」というようなことを書きましたが、それはそれとして本当ですが、「止まっていた時のこと」を忘れさせてくれるようなことも、まだまだあり得ないと思いました。


ちょうど、昨日、甚大な被害を受けられている気仙沼に住んでらっしゃる方からメールをいただいていました。その方も以前、私が住んでいる東京の中央線という沿線に住んでらしたということと、あと、私と同じように舞台関係のことをされていたそうです。

メールは気さくな感じで綴られているものの、気仙沼は現在でも、その惨状はものすごいもののようで、「吐き気」というような表現も入るほどのものでした。さきほどの余震の時にその気仙沼のことを思って、さすがに暗澹とした気分になりましたが、しかし、その方はメールで、たとえ今後、物質的に貧しくなったり、あるいはさらなる苦難があっても、「日本人として恥ずかしくない生き方をしていきたい」と書かれていました。


私も今回の震災での東北の方々の姿を見て、そして、その後の現地の支援を含めた様々なことをされている「個人」の方々の姿を見て、「日本人であるということに喜びを感じられる感覚」を取り戻しています。


これは「日本人の誇り」とか「日本人は偉い」とか、そういう面倒な話ではなく、「自分もこの東北の人たちと同じ日本人なんだ」という嬉しさかもしれません。

今まで、ともすれば「愛国的」などという言葉で語られてしまった「日本人であることを愛する」ということを、もっと自然に、ある意味では女性性的に、ポジティブに考えられるようになりました。


本来はこの「日本人であることを喜ぶ」ということに関しては、言葉で言うことではないことだと思っています。

でも、今は言葉で書いています。



神話が見せてくれた地震への最善の対処

ところで、今日の地震の時にテレビをつけた時、 NHK の仙台支局だと思うのですが、放送局内の様子が映されていたのですが、そこで見た人たちの行動。

多分、仙台も震度は6前後はあった中でしょう。


その中で、そのスタジオに映っている人たちがしていたこと・・・。

髪の長いスリムな女性はホワイトボードが倒れないように支えながら冷静に周囲や天井を見ている。

アナウンサーの方でしょうか、黒いスーツを着た女性スタッフは、揺れが収まった瞬間、動じることなく報道の準備を始める。他にも、落ちそうなパソコンを支えるスタッフ、そして、カメラを持ったカメラマンはその様子を揺れながら撮影している。

もはや、そこには「地震に対しての怖れ」など見えないのです。
起きる事象に対して、淡々と対処し、次に進む。

世界のどこを見回しても、震度6の地震の揺れの中でこれをできる人はいません。
本当にいません。

本来ならトラウマレベルのこの地震に対して、すでに「不要な恐怖心はない」とさえ映ります。

もちろん、余震とは言え、震災クラスのこの地震で、何らかの被害が出ているのは間違いないのでしょうが、「大きな地震では被害が出る」という不可抗力も含めた現実と、「それをむやみに怖れる」こととは大変に違いがあるように感じます。

このあたりにも「地球に生きる人類」が到達した究極の行動が見えてきます。



宇宙も神もすでに人類を脅せない

地震は古来から、「神の怒り」だの「大地の怒り」だの、いろいろと言われてきました。聖書にもコーランにも地震の記述は多数あり、他の様々な聖典でも、それをにおわせるようなニュアンスはさまざまに書かれているようです。

まあ、実際に地震が神の怒りでも大地の怒りでも、それはそれなら構わない。

勝手に怒りなさいといった感じですが、実際には地震は「現象」でしかないことは確かであって、いわゆる「地球は生きている」という概念や太陽などとの関連から考えると、単純な自然現象だと言ってしまうには抵抗があるにしても、それでもやはり「現象」という言い方としては間違っていないと思われます。


そして、原因がどうであれ、この「地震」というものに対しての人類の正しい態度としては、上の NHK 仙台局で映っていた人々の態度が 100パーセント正しいわけで、そして、多分、東北の多くの方のとられたであろう態度が 100パーセント正しいと思います。


それは「不安を先行させずに、起きたことに淡々と対処する」という現実的な態度です。


地震が起きて、「ああ、神様、助けてください」と、住民全員で輪になり手を繋ぎ、空と大地に祈りを捧げるというような人間の姿も、世界での歴史の上ではあったかもしれませんが、それは正しい行動とは思えません。

あるいは、ただ叫び嘆き悲しむだけの連続も正しくありません。

それでは、「次の地震に対処できない」からです。


仮に地震が神や大地の怒りであろうと、太陽と地球の間での磁場的な物理事象であろうと、地質学的な単純なイベントであろうと、理由は何であろうと、対処する行動のすべては、「上の東北の人たちの方法でOK」だと思います。


その理由は、「地震は現実の事象」だからです。
すべては現実。
なので、「対処の方法も現実以外は通用しない」はずです。



「起きていることに対処した後」は、「次の地震や災害への対処を始める」。

これは当たり前のことのように思えるかもしれないですが、こんな単純なことでさえ、今回の震災での東北の人たちの行動を見るまで、私は気付かなかったのですよ。

やはり、以前の私には「意味なく地震を怖れていた部分」があった。
そのままだと、次は東京だ、東海だ、西南海だと、「見えない神や大地」を怖れていたかもしれない
です。

しかし、そんな不安を持つことよりも、「淡々と対処して準備する」ということのほうが、どれだけ大事なことかと気付いたのです。

そして、当たり前ですが、「準備には恐怖心なんてまったく必要ない」ということも言えます。やや不謹慎ですが、「まだ」本格的な地震が来ていない私たちのような人たちは、ある意味では「準備を楽しむ」くらいのほうが効率的な準備が出来るようにさえ思います。


私は今回の NHK の放送局の人たち、特にまったく動じていないようにさえ見える女性たちの姿を見て何だか涙が出て来て、

「人がどんどん宇宙と並んでいく」

という感覚に陥りました。

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2011年04月04日



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私の生まれ故郷である北海道は、ここ何年もの間、観光客の主流は中国や韓国からの人たちが圧倒していて、観光での経済ではそれがほとんどを占めているといっても過言ではありませんでした。


そして、2008年に大々的な北海道ロケを敢行した中国映画「狙った恋の落とし方」(原題:非誠勿擾)が中国で記録的なヒットを作り出し、中国における北海道ブームは「頂点」に達しました。

北海道のどの観光地でも、飛び交う言葉の多くは中国語(と韓国語)となりました。
昨年、札幌の大通り公園に行った時には日本語は聞かれませんでした。

そして、「中国資本による土地や不動産の大々的な購入」が続いていました。
水産資源等も含まれていたと思われます。


現状では、多分、あと数年もすれば、政治的な動向なく(戦争も侵略もなくという意味)、「北海道は経済的には中国の土地」となっていたと思います。これは多くの人が薄々と感じてはいましたが、しかし、その中国のお金がなければ、すでに北海道はほぼやっていけない状態でした。そうしなければ、生きていけないほど北海道経済は追い詰められていたはずです。

あとは「実質的な占領の日を待つだけ」という段階になっていました。


そして、今回。

放射能によりほとんどの外国人観光客と土地購入者が北海道から消えました。
中国の人も韓国の人も消えました。
そして、多分、何年も誰も来ません。

経済的に著しい問題を残す可能性と共に、侵略にも近い土地の買い占めも止まりました。

これについて、どう感じるかは人それぞれでしょうので、いいとか悪いとかはわかりません。


まあ、最近では「社内の言語を英語にする会社」などの例もあるようで、土地や文化が海外に侵略されることに対して、今の日本の人々はあまり抵抗もないのかもしれないですが(自分の国で自分の国の言語の使用を禁止するのは占領下の国以外ではあまり聞いたことがない)、私個人としては、そういうことにはあまり好感の持てるものではないです。

これは「日本だから」というのではなく、他の国でも、その国が他の国から「文化的な侵略を受けている」ことを見るのは好きではありません。



タイの姿と重なって映っていた北海道の未来

私はタイという国が大好きで、ある意味でマイペンライ(いい加減)な性質であるタイ固有のタイ人が大好きですが、しかし、現在のタイという国では、この「もともとのタイ固有のタイ人」は完全に他の国の経済支配により制圧されている状態にあります。

タイでは政治や経済や芸能界までも実質的に牛耳っているのは「中華系」であり、もともとのオリジナルの民族である色の黒いタイ人たちは、多くが肉体労働的な仕事に携わっていることがほとんどです。


タイでの政治騒動だの王室騒動だの様々な「主流のニュース」は、「それは全部、中国人の話」であることは事実で、タイの人口の多くを占める本来のタイ人は、それらの話題の蚊帳の外でした。自分たちの国なのに。

タイ人たちはそのことを知っていますが、もはやどうにもならくなっています。一昨年の暴動も、形の上ではタクシン派がどうのこうのと言っていましたが、あれはあきらかに「タイ人の覚醒」でした。

自分たちの本来のタイを中国人からを取り戻したい」と。


暴動は失敗に終わり、今もまた中華支配はそのままです。

もちろん、仮にタイから中華系の人たちがいなくなれば、実質的に、タイの政治や経済は終わります。考えられないほど貧乏な国へとなっていくでしょう。

それもタイ人はわかっているはずです。
しかし、暴動は起きた。
お金より誇りを選びたい」という書き込みを当時の YouTube のコメントで見ました。


タイは歴史の表面上では「侵略されなかった唯一のアジアの国」となっていますが、現実には経済的にも文化的にも侵略されて、現在のタイがあります。

私はこの現在のタイと同じ姿を、未来の北海道に見ていました。

住んでいるのも仕事をしているのもすべて日本人で、人々は日本語を使っているけれど、実質的に経済を牛耳っているのは中国という図式です。

これは時間の問題だったと思います。


というより、今回のことがなければ、日本は地方により分断された形で、様々な国によっての経済的、文化的な占領下にあったようにも思います。日本の大都市の不動産や大企業の実質的所有の状況というようなものを見ると、それは何となくわかる気もします。


それも今回のことですべてなくなりました。


外国人はほとんど日本から消えました。
そして、これもやはり何年も続くことだと思います。


日本はかつて鎖国ということをやっていたことのある珍しい国です。
それが今回、また事実上始まっている感じがします。

ただし、当時と違うのは、「出て行くのも自由」ということです。

当時は外国人が入ってくるのがダメだったことと同時に、日本人が外国に出て行くこともできませんでした。

でも、今は違います。

出て行きたい場合は、いつでも外国に出て行くことができます。いいも悪いもなく、現実に放射能は日本の多くの地域を覆っているわけで、この状況の中で、日本を出て行く人が責められるということはないでしょう。


なので、「人種は関係なく、日本に残りたい人たちだけが残る鎖国」というような形になっていくように思います。


考えられないような圧倒的な歴史の転換点が、こういう形で来たというのは何とも言えない部分はありますが、しかし、上に書いたように、いろいろな流れが止まった、あるいは変わったことは事実です。

これは「夜の吉祥寺」を歩いてみてもわかりました。



夜の街からも消えた外国人たち

東京の吉祥寺は一見、おしゃれなイメージがあり、それは事実なのですが、夜になると、吉祥寺のある一帯は中国人アンダーグラウンド経済の支配下にありました。


具体的には、吉祥寺駅の北口を出てすぐ右に歩き、交差点を渡り、高架横の歩道を突き当たりまで歩くと、そこに南北に伸びる道があります。この道沿いでは、深夜12時頃を過ぎると、大勢の中国人女性たちが道に立ち、また、あまり知られていないですが、いくつかのマンションが風俗営業のために「建物ごと」買い占められています。

この状態は10年くらい前から徐々に始まり、警察などから黙認されているのか、今では大っぴらに数多くの女性などが道に立ち、道行く男性たちに声をかけていました。この道の存在を知らない人には非常に奇異な光景に見えると思います。


先日、震災後に何回か深夜そのあたりを歩きましたら、その人々は「全部」消えていました


どれだけ警察が浄化という名目で乗り出しても、決して消えることがなかった中国人の人たちは、地震と放射能で消えました。この10年間くらいで、深夜でそのあたりで中国人女性の姿を見なかったのは、多分、初めてだと思います。


また、以前の記事で、「吉祥寺から消えた外国人」のことを書いたのですが、実際に最も消えたのはアジアからの観光客でした。

とてもたくさんの台湾や韓国、中国の人々が吉祥寺の観光に来てくれていました。彼らはみんなビデオやカメラを持っているのですぐにわかります。しかし、その姿を震災後はまったく見ません。先日、ハイパーインフレーションのことについて、記事でふれたことがありますが、仮にそんなことが起きれば、観光客だけではなく、住んでいる残った外国人もいなくなると思われます。


街中を歩き回っているだけで、本当に変わってしまった日本の姿を目にします。
三分間の地震によって百年分の歴史がひっくり返ったかのようです。



もちろん、住んでいる私たちにしても、不安要因はいくらでもあります。
たとえば、実際には放射能より、「連動した次の地震」というものへの懸念が今は強いのではないでしょうか。これは多くの地震学者がその懸念を持っているけれど、言えないのが現状だと思います。そして、これは「正確な予想はできない」という厳然たる事実があります。


私たち「残る人々」は、これから何が起きても(自然でも経済でも)いいように、ある程度の実際の準備と、そして、「心の準備」というようなものは必要かと思います。


地球の長い午後は終わる

ちょっと暗い話になってしまったので、歌でも(歌かよ)。

私が18歳くらいの時に、はじめて見た東京のバンドで、女性バンドのはしりだった ZELDA (ゼルダ)というバンドの曲とその歌詞です。その時、彼女たちは北海道にツアーに来ており、美唄という小さな町でのライブを見に行きました。

彼女たちの歌です。
もう30年前の歌になるんですね。

音楽サイトに載せた歌詞が一部に好評でしたので、歌詞も載せておきます。
エスケープの意味は、ここでは「新しい世界への扉」のことを歌っているように思います。


ZELDA - エスケイプ(1982年)



教会の鐘が今 旅立ちを告げるよ
長すぎた戦いに 荒れ果てたこの星

廃墟の街をさまよう
うつろな瞳の兵士
地球の長い午後は終わる

絶望の海を越え 誕生のドアを開け
幻の星に向け 心はもう彼方へ

廃墟の街をさまよう
うつろな心の天使
地球の長い午後は終わる

愛を探してさまよう
明日を探してさすらう
地球の長い午後はおわる

暗い宇宙突き抜けて 子どもたちの方舟
暗黒を切り裂いて すべてを解き放つ

愛を探してさまよう
明日を探してさすらう
地球の長い午後は終わる




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2011年04月03日



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先日飲みにいった際、以前から知り合いのお店の女の子に、「最近やっと笑えるようになってきた。○○さん(私)と会うまで笑ったことなかった」と言われて、やや複雑に思いつつも、逆に「でもこれで彼女の人生も始まるかも」と思いました。

これを言った女性の年齢は、まだ 21歳です。

初めて会ったのが2年くらい前ですから、彼女は「20年間笑ったことがなかった」と言っていたことになります。20年間のあいだ、記憶の中から笑顔が消えていた人生


私はこの十数年、かなり夜の街で飲み続けていたことがあり、いろいろな夜のお仕事の女性や女の子と会ってきました。

すごいのは、それだけいろいろな女の子と知り合ってきたわりには、「変な関係(性的なという意味)になったことがない」ということがあり、それだけにまあ、相手からすれば安心感はあるオヤジなのだと思いますが、いろんな女の子たちの話をきいたり、相談みたいなのを受けたりすることがあり、その中でいろんな人生を知ることができました。

私が人生の中で知り得た「他人の人生」という意味では、これほど勉強になることはなかったと思います。


ちなみに、とても素朴な質問なんですが、夜働いている女の子(特に接待業)の多くが、どうして夜働かなければならないかわかりますか? 給料だけなら普通のOLさんなどよりはるかに低い場合もある夜のお仕事をしなければならない理由。それを考えてみたことはあるでしょうか?


ここに「冷たい日本の社会システムの正体」といったものがあります。



枠からこぼれ落ちた人間は救済されない日本の国家システム


「日本の進学率」なんていう言葉があり、それはたとえば、義務教育就学率は100%、高校への進学率も97.5%になどというニュースにもあらわれているように、非常に「無自覚」に数字が使用されます。


上のような数字は本当なのかもしれないですが、しかし、「現実とはそぐわない数字」だということもまた事実です。

たとえば、夜働いている女の子たちにとても多い学歴のひとつが「高校中退」なんです。

この「高校中退者」の潜在数は男性も含めて、ものすごいものがあるはずなのですが、それについては公共では語られない。そして、彼ら彼女たちがどういう学歴を背負わされるかというと、「中卒」、つまり中学校卒業なんです。


中卒という学歴が就職という条件について、どれだけ不利なものかおわかりでしょうか。「私は好きな仕事に就きたいの」などという絵空事が通じる世界ではないんです。「高校中退」という、あまりにも多い現実が、ちゃんと表社会で語られてこなかったために、多くの人々が「社会で何もできない状態」に置かれることになっています。


高校中退にもいろいろな理由はあるにも関わらず、これを救済するシステムは基本的にありません。「大検」という非現実的な受験制度はありましたが(今は廃止されたらしい)、この「大検」も、それ自体は卒業資格でもなんでもなく、「大学を受ける権利を得た」というだけになる何の意味もない「冷たい制度」です。

そして、この「高校中退者」がどれだけ多いことかは、陽の当たらない多くの社会を知ると、いくらでも知ることが出来ます。


日本という国家・・・・・少なくとも多くの人々が完璧な社会システムや高学歴を持つ国だと考えているこの国には、


「ザルからこぼれ落ちたものを助けるシステムはない」


という冷たい現実があります。


しかし、この冷たい現実はあくまで「日本国家が冷たい」ということで、日本人も日本人システムも冷たいわけではないことも私は知っています。

夜の街だけではないですが、多くの「救済」はいわゆる立派な人々が誇りを持って歩いている世界ではなく、「その裏側にある世界」でおこなわれていて、そこにはダメな部分も非常に多いけれど、基本的には「日本国家が標榜している実態」よりは、はるかに暖かくて居心地のいい世界があります。そして、この「裏側にある世界」は、そこにいない人からは見えません


私は、他にも様々なアンダーグラウンドな生き方をしている人々を見てきましたが、立派な人々が眉をひそめるような仕事や生き方をしている人は、「国家に見捨てられた代わりにお互いに救済」していました。

戦後に始まった日本の制度は、「ザルからこぼれ落ちた人たちは日本人ではありません」という国家体制となりましたが、ザルからこぼれ落ちるたくさんの人々たちは、すでに国家から離れて、日本国の日本人ではなく、所属のない「単なる日本人」として生活していたように思います。

もちろん、そんなことを意識していたわけではなく、自然とそうなっていったということでしょうし、そして、私も今やっと、そのことに気付いたのです。



笑った年齢

話が飛びましたが、冒頭に出てきた21歳の女性は、2年前から知り合いだったとはいっても、せいぜい何ヶ月かに一度飲みに行く程度でしたが、たまに相談を受けたりといったことはあり、彼女のその(あまりにも)複雑な人生は知っていましたが、しかし、「笑えるようになった人生をスタートできたのなら、もう大丈夫だ」と私は思いました。


私はそのことを知っています。
実は、私自身が生まれた時から長い間、「まったく笑わない子ども」だったからです。

これは最初は写真で気付きました。

ずいぶん前ですが、帰省した時に、昔のアルバムがあって、それを見ていると、私の赤ちゃんの時の写真がたくさんあったのですが「笑っている写真が一枚もない」のです。

普通、親は赤ちゃんの笑った顔を写したいもので、それを狙ってシャッターを押し続けたのでしょうが、多分、ついに笑わなかったのでしょう。そして、生まれた時から赤ちゃん、1歳、2歳、3歳と進んでも、アルバムの中には私の笑顔の写真がひとつもありませんでした。

そして、4歳、5歳となると、その頃からは記憶もあります。写真でもその頃はまだ笑っていないですが、その頃は毎日、


「なんでぼくは生まれたんだろう」


とずっと考えていました。

5歳くらいの時にはそのことばかり考えていたように思います。

小児喘息で幼稚園にはほとんと行けず、「最初の集団生活である幼稚園」で集団生活を学習するキッカケを失っていたので、基本的にその後も、今でも、「集団行動ができない」という面はありますが、いずれにしても、長男で、当時は両親共に働いていたので、ほとんどひとりで過ごしていたましが、それだけに、考える時間はたくさんありました。

元気な時には、ひとりで外をずっと散歩していて(このあたりは今と同じですが)、近所の子どもが幼稚園や小学校から帰ってくる時間になると、テレビのある子の家に行って、みんなで見ていました。

まあ、喘息は別にして、日々そんなに不満はなかった気はするのですが、それでも、「なんで生まれたのだろう」というようなことと、「なにが楽しいんだろう」ということはわからないままで過ごしたように思います。


私が心の底から笑って生きるようになったのは、いつというハッキリとした年齢はわからないですが、結構大人になってからのことです。

この「生まれた時から笑わない性質」は、実はうちの子どもにも受け継がれていました。赤ちゃんの時から笑わず、以前書いたように発語も大変に遅く(ほぼ3歳まで発語がありませんでした)、ご存じの方はご存じかと思うのですが、これは一種のいろいろな意味での心配もあることでしたが、そのことについてはふれません。

そして、ある児童心理の専門家の医者がおっしゃっていた言葉が多分、うちの子にも、そして私の時にも当てはまっていたように思いますが、それは、

「まだ世の中に生まれたことを受け入れていない」

という言葉でした。

まあしかし、うちの子は3歳くらいには笑顔を獲得し、言葉は最初の発語から、わりとあっという間にほぼ正常の年齢の言語レベルに至りました。まあ、声を出す前からすべてジェスチャーで表現していたので、「言葉を出す出さない」は彼にとって、それほど大きな問題ではなかったのかもしれません。そして、非常によく笑う元気な子となりました。それがいちばん嬉しいことです。

たった3年間でこの世に生まれたことを受け入れた彼は大したものだと思います。私はものすごく時間がかかりましたから。一度笑ってからはずっと笑って生きていますが。




太陽活動と共に人生の大きな変化を経験していた

そういえば、この「自分が変わった年齢の節目」が、面白いように「太陽活動」とリンクしていることに以前気付きました。

太陽活動というのは、11年周期くらいで変動するものですが、その11年前後をひとつのサイクルとして、太陽黒点観測が始まった時から番号づけられていて、今は観測が始まってから 24回目の太陽活動(サイクル24)の渦中にあります。

そして、「太陽活動と社会的な人の心理状態が連動している」ことは 1920年代にロシアの科学者によって、はじめて突き止められており、その後も地球の人間の活動はほとんどそれに沿った動きを見せています。

これは、そのロシアの科学者がまとめたグラフです。

sun-human.gif


黒点活動の観測が始まった1749年から1922年までのグラフで、上の細い線と下の太い線との相関関係を示すグラフです。

何の相関関係のグラフかというと、

・下の太い線のほうが太陽の黒点数

・上の細い線のほうは世界で起きた軍事と政治暴動の数


となっています。

その連動は一目瞭然で、その後もほとんど同じです。

こちらに英語ですが、オリジナルの論文があります。


近代史の中の大きな出来事はそのほとんどが「太陽活動のピークの渦中」(2年から3年の間)に起きています。フランス革命もアヘン戦争も南北戦争も日清戦争も第二次世界大戦もソ連崩壊もアメリカ同時多発テロも、すべて太陽活動のピークに起きています。


今現在は 24回目の太陽活動(サイクル24)のピークの渦中にいます。
なので、社会的に大きな変動が起きることはほぼ間違いないと思うのですが(自然災害などとは関係なく、人の心理が動き出す)、それよりも私としては、世の中がどうなるかということ以上に、「私がどうなるか」に興味があります。

今まで太陽活動のピーク時には心理的なものを含めて大きな変化を経験しているからです。

この「黒点」と「太陽活動」というものを知ったのは2年くらい前なんですが、その時、その太陽活動ピークの時と「自分にものすごい変化が起きた時」と、すべて一致していることに気付いたのでした。


例えば、今回の震災で何かご自分の中で「変わった」と感じられている方は多いように思います。
むしろ、あれだけのことを経験して、何も変わらないのなら変にも思います。


これと同じくらいの衝撃的な変化が、過去の太陽活動のピーク時に、自分の人生で起きています。

私が生まれた 1963年以降の太陽活動は、まあ大体ですが、

第20太陽活動周期(1967年前後がピーク)
第21太陽活動周期(1978年前後がピーク)
第22太陽活動周期(1988年前後がピーク)
第23太陽活動周期(1999年前後がピーク)
第24太陽活動周期(2012年前後がピーク) 


となっていて、それぞれの時に「人生が一変するほど」の環境的、精神的、価値観的な変化を体験しています。

そして、今回の震災も同じように私に変化とショックを与えているとすると、これは人生で「5回目の変化」ということになり、自分にとっての「第5世界」が始まったのかもしれないなあと思います。


そして、これは、もしかすると、私が政治や経済のことなどには何の興味もなく、また、他の国の政治などにも何の興味もなかった 1990年代まで戻れるのかもしれないという可能性を感じます。

私は二十代の頃、年代にして、1980年代の終わりから1990年代の終わりくらいまでの間、テレビも見ない、新聞も読まない、雑誌も買わないという生活が普通でした。仕事はしていましたが、雑誌などのリライトやデザインがなどをやっていて、それは家でできるものでしたし、内容もご時世とはまったく関係のない浮き世じみたものでした。

インターネットは登場していませんでした。
その時の首相さえ知らない日々が自分にとっては普通でした。


結局、私も1番上に書いた例でいえば、「日本国家のシステムのザルから落ちてしまった人」だったために、その国家システムからは相手にされないことを知っていたので、「こちらも知らないでおこう」と。それは憎しみや否定とは全然違う「相互不干渉」ということで、なので、今でも政治や日本のシステムを冷たいとは思いますが、文句も恨みもまるでありません。多分、ブログにもそういうこと(日本の政治への文句など)を書いたことはないと思います。

「個人と国家はお互いに干渉しない領域だ」と本気で思っていました。


今は当時よりさらに強く思います。
早く「現在の政党も首相も知らないような生活」に戻りたいし、自分の国籍も忘れてしまいたいです。

国籍は関係なく、私は「ごはん粒を残さず食べる日本人」というだけで、まあ嬉しいのです。日本国が好きなのではなく、日本人であることが好きなのです。


もちろん、一般的にはこのような考えはされない方がいいと思います。
国家と決別して生きることは気楽ではあるけれど、大変な面もありますから。


ただ最近思うのは、以前からウェブボットに出ていた「飛び地の文明(中央集権的な政治と離れた生活システム)」という概念がありますが、これは案外、日本から始まるような気もしないでもないです。

現在の被災地の救済や、それを取り囲む状態の中にはすでに「日本国家」という概念は見えないように感じます。

そこには懸命に頑張ってらっしゃる多くの「個人」の方々の姿だけが印象に残ります。

前に書いたいわゆる「今回の神話」では、「世の中は人と人である」いう、実に単純な構造が社会のすべての始まりであることを示しているような気がします。



今しばらくのことについて

震災前まで、翻訳で記事を紹介させてもらったり、宇宙関係などの記事などいろいろと書くことができて、また同時に私もたくさんの知識を得ることができました。
いろいろな情報などを下さった方々にも本当に感謝しています。

そして、長い目で見ればわからないですが、今しばらくは、それまでのような記事のご紹介や翻訳はしないというか、できないようにも思います。

そもそも、最近また「英語がわからなく」なりました。
昨年突然のようにわかり始めた英語力も、また突然元に戻ったようです。
昨年たくさん単語を覚えたので、単語の羅列では読めそうですが、それ以上のことはもはやできそうにありません。


そんなわけで、今でもすでにそうですが、このブログは今後「情報サイトとしてはあまり役に立たないもの」になっていくと思います。

今でも、他の様々なサイトやブログでは多くの役立つ情報や見識があると思いますので、そのような良サイトや良ブログをご参照いただければと思います。
タグ:太陽黒点

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2011年04月02日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





復興という概念につきものの懸念

ニュースで「復興」とか「財源」とかいうような文字を目にする度に、今回のすさまじい規模の破壊にあてるそれらの調達の方法の様々を考えると、どうしても「ハイパーインフレーション」(急速に物価が上昇していくこと)というような言葉が頭をよぎります。

確かに今後、いろいろな避けがたい困った状況というものは様々な分野で生まれやすい可能性というのはあるようで、それは仕方ないようにも思います。

そして、その「実際」を予測して対処するのは難しいようにも思います。なので、仮にハイパーインフレというようなものが発生した場合、どのような過程を経るのかを予測することはできないでしょうが、以前、 ハイパーインフレーションの2つの資料という記事を書いた時に、 2007年から始まったジンバブエでのハイパーインフレーションの様子が、マゾエというジュースの価格で示されています。

これは国家の発表ではなく、店頭での表示価格ですので、もっとも実際に近い価格を示しています。

その物価上昇をわかりやすく大体の日本円にして、半年ぐらいごとの値段の価格として掲載してみますと、こうなりました。


2006年 10月 130円
2007年 03月 2万円
2007年 10月 90万円
2008年 02月 1,900万円
2008年 04月 2億1,000万円
2008年 05月 4億2,000万円



1本100円くらいの値段だったジュース。それが1年半で店頭表示価格が 4億円を突破したというような感じかと思います。冗談みたいですが、これは現実ですし、最悪の形のハイパーインフレーションのひとつの形です。


mazoe-2.jpg

▲ そのマゾエというアフリカのジュース。ジンバブエでは最終的に価格は 400万倍に上昇。


しかも、これでハイパーインフレが止まったというわけではなく、この 2008年5月以降は、「ジンバブエドルでの販売は停止」され、米ドルだけでの販売となったので、事実上、「自国の通貨では買えなくなった」という感じでしょうか。

1946年にハンガリーで発生したハイパーインフレはこのジンバブエの時よりさらに悪いもので、物価上昇率が最高で 1京3,600兆パーセントに達したそうです。これは上のジンバブエのジュースの例でいうと、 130円のジュースが 9000兆円持っていっても買えないものになったということかもしれません。


それでも、その時に、それぞれの国で人々は生きていたわけで、今後、日本の紙幣価値というようなものが「仮に」なくなったとしても、あるいは、あらゆる金融資産的な価値が大きく変わったとしても、現実の準備というより、「心の準備」というのか、今、震災の後、やっと時間は動き出し始めた感じはするものの、現実的にこれから対峙する問題はものすごく大きいはずで、その激動の中で「精神的に正気を保ち続ける」ということは大事に思います。


ちなみに、福島にいる奥さんのお姉さんも、千葉にいる私の妹の家族の家も、どちらも比較的最近になってから買ったばかりの家で、そのあたりでも途方に暮れている面はあるようです。

そういういろんなことはあると思います。


そういうこと(先がまったくわからないこと)もあり、いろいろと急いで書いているというような部分はあるかもしれません。突然書けなくなる可能性はいつでもあります。


ここで書いていることは先に考えて書いているというわけではないし、毎日適当に思い浮かんでいるだけという部分もあるし、思いついた時には書きたいとは思いますが、いつまでこうやっていられるかどうか・・・。

正直よくわかんないですね。


まあ、それでもやっと自分の中の時間が少し動き始めて、また飲みに行ったりもすることもたまにできるようになっています。

先日、初めて入った飲み屋さんがあったのですが、そこのメニューに「ナマコ酢」があり、最近ではこれを置いてある店は少ないので、思わず注文したところ、うまいうまい。

久しぶりに食べたナマコはよく噛むと、ホヤを彷彿とさせる部分もあります。「同じ仲間なのかもしれないなあ」と、しみじみ思いました。今回、被害に遭われた宮城の三陸はホヤの主産地だったと記憶しています。
ホヤも日本人の食べものとしては語るところはたくさんあるものだと思っています。

ここから最近のテーマにうつります。



続きを読む

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2011年04月01日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





三週間

何日とか何週間とかいう感覚がようやく日常的に感じられるようになり、しかし、逆にそう考えると、今日が震災から3週間目というのは早いのか遅いのかがまるでわからなく、あの日は何だか遠い昔のような気もするし、あるいは現実のような気さえしなくなってくるような、いろいろとわからなくなってくる感じもします。

震災後の「時間が止まっていたあいだの時間の流れ」が、少なくとも私自身の中では人生では経験したことのない「異常な時の流れ」だったのだと感じます。


今日も用事も兼ねて、街を歩いていたのですが、1週間くらい前まではたくさんいたマスクをかけて歩く人の姿はめっきりと減って、若い人の多い吉祥寺ではさらに極端に少なくなります。今の時期はそもそも放射能より「花粉症」が問題の季節で、そういう意味では、例年よりもマスクの人が少ない気さえします。


しかし、放射能という問題ではなく、たとえば、ウイルスや様々な有害物質を本当に遮断しようとした場合、あの耳にかけるタイプのマスクでどれほど効果があるのかは疑問にも思わないでもないです。2年くらい前だったか、鳥インフルエンザのパンデミックを恐れて、CDC (アメリカ疾病予防管理センター)が推奨しているタイプのマスクを購入したことがあります。
これはその現物ではないですが、形としては大体こんな感じのものです。

mask.jpg

ひもは耳にかけるのではなく、頭から通して、首と頭で固定して、鼻のところに金具がついているのも特徴で、ここで鼻の形に合わせて密閉します。こういうタイプの遮断率は 95%〜 99.99%くらいまであるようですが、さらにマスクと皮膚の間をクリームなどですき間を埋めると密閉できます。


でまあ、こういう遮断率の高いタイプで完全に口と鼻を密閉すると、どうなるかというと、ただただ「苦しい」んですよ(苦笑)。部屋でじっとしているならともかく、街を歩いたり、あるいは何かするというのは大変で、結局今では、これらのマスクは薬箱の奥に眠っています。

まあ、結局は苦しいくらいでないと、大気中の有毒物質への対処のものとしては使い物にならないのかもしれません。


「息が苦しい」ということで、2つのことを思い出しました。

ひとつは、私は生まれてすぐに小児喘息になって、小学生になるまで続いたのですが、ぜんそくというのは、つまり「発作の時に息ができなくなる」と考えてもいいもので、それだけに「息が出来ない」というニュアンスは何だか切ないものがあります。

あともうひとつは、何年か前に、「息が止まった経験」をしていて、そのことを考えていましたら、「自分は、あるいは人間はどうして生きているのか」ということに対して、非常に素朴な結論・・・というか、考えに至りました
本当に素朴なものですが。



自分の行動を認識しながら死ぬ時に

あれは子どもが1歳になったばかりの頃だったと思いますので、5年くらい前だと思いますが、どういうものかというのはともかく、「突然の大量の出血」で、深夜に救急車で搬送されたことがあります。


救急車でただちに、新宿にある国際医療センターという緊急医療病院に搬送され、輸血、人工呼吸器の装着と共に、深夜から手術が開始されました。この国際医療センターは総理大臣だった橋本龍太郎さんが亡くなった病院だと思います。

意識は半分以上亡くなっていましたが、意識のある時には頭の中では通常とそれほど変わらない考え方をしていたと記憶しています。


どんどん意識は失われていくのですが、その過程で、「呼吸が止まる瞬間」というのを何度か経験しました。人工呼吸器をつけているので、実際には酸素の摂取は行われているのですが、「自力では息ができなくなる瞬間」があるのです。

息を吐いても吸うことができない、あるいはその逆かどちらかの状態になり、朦朧とはしつつも、「ああ、これが息が止まるって状態なんだ。へええ」と、初めて望む臨死体験みたいなものに、いろいろと考えながらいたのですが、少し意識が戻っては、また意識が飛ぶ。


その繰り返しの中で、たまに「あ、次に意識失った時に死ぬな、これは」と予測しているんですよ。


そして、「へえ、死ぬ時ってこんな感じなのかあ」と、やっぱり考えている。

巷で言われているような臨死体験の光景は見なかったですが、意識を失うと、毎回、緑色の草原をトロッコに乗って走っていました。意識が戻った瞬間、「また次の死に臨む」という繰り返しでした。結局、死ななかったんですが、生きるか死ぬかは五分五分くらいの確率だったようです。


手術は数時間くらいに及び、それから2日間の輸血と、1週間の入院をしました。

ちなみに、私は実は本格的な入院というのはそれが初めてのことでした。

国際医療センターには大きな入院病棟があり、おびただしい入院患者が入院しています。
当たり前なのですが、病気の人ばかりがいます。
「病と死」に覆われている場所。

少しその話を書きます。



死に囲まれて

手術の日の最初の一日くらいは緊急治療室みたいなところでひとりだったのですが、単なる大量出血ですので、「その時、死ななかったのなら、あとはもう大丈夫」ということで、すぐ6人部屋に移りました。少し日が経った頃から周囲の入院患者さんとも少し話をするようになりましたが、話すまではその人たちが何の病気かはわからないんですね。


隣のベッドの人は60代くらいに見える立派な感じの男性で、入れ替わり立ち替わり、部下らしい人が来ていたので、ある程度の何かの立場を持っている人のようでした。

その人は末期の膵臓ガンでした。
どのくらいの病状なのかはわからなかったんですが、

「あと1カ月くらいみたいでね」
「え?」
「もって1カ月くらいらしい」
「・・・・・」


その後どうなったかわからないですが、1カ月後くらいには亡くなっていたかもしれないというその人は、特にりきむでも絶望するふうでもなく、見舞いに来た客と淡々と話し、相撲などを見て過ごしていました。


私の向かいのベッドにいた人は、五十代くらいのとても話し好きで、爽やかな感じのする男性でした。ある朝、その人が服を着替えていました。

私 「退院されるんですか」
男性「ええ。・・・まあ、この繰り返しなんですよ」
私 「というと?」
男性「クローン病ってご存じですか?」
私 「クローン病・・・聞いたことはあるような気がしますが」
男性「そういう病気があるんですよ。若い時からなんです。だから、この十何年は入院と退院の繰り返しで」


その男性のベッドの横には段ボール箱が5、6個積まれていました。

私 「それはお持ち帰りになる私物ですか?」
男性「ああ、この箱ですか。これ全部、薬なんですよ」
私 「え?」
男性「もう普通の食事はほとんどできないんです。薬を食べて生きているようなもんで。困ったものです。ハハハ」
私 「・・・・・」


退院後にインターネットで調べて、クローン病というのが原因も治療法もない難病だということを知りました。彼は笑っていましたが、その生活の壮絶さを想像すると何とも考えるものがありました。ちなみに、その人には奥さんも子どもいて、仕事も自分で何か持っているそうです。

部屋の入り口に近いベッドで横になっている老人は、私が入院していた1週間の間、ついに一度も起き上がりませんでした。目を開けている姿も見たことがありません。寝ているというだけの状態。その老人のベッドの横にはいろいろな機械やら装置やらがついていて、デジタルの数字が常に何かの数値を表示し続けていました。

「何かの装置で生命を維持しているように見える人たち」は、他にもたくさんいるようで、「停電とかあったら、あれだよなあ・・・」と思いましたが、今回の地震の時にもこの時のことが思い浮かびました。


私なんぞは「搬送時にだけ死ぬか生きるか」だったですけど、助かった後は放っておけばそれでいいようなものでしたが、多くの入院患者は違いました。「その後が」死ぬか生きるかという人たちをたくさん見ました。


ところで、入院時に、看護婦さんともずいぶん話をしました。担当の女医さんともよく話たんですけど、救急医療をやっている病院のスタッフたちの毎日は本当に地獄のようです。特に看護婦さんたちは、給料的なことから考えると、あまりにも苛酷な勤務態勢で、医療システムというのも・・・なんだか根本的に何かこうおかしい。「こんなシステムがいつまでも続くわけないじゃん」と思いました。

ぼくとデートもできやしないですね、そんな出勤シフトじゃ」と、ひとりの看護婦さんに言ったら妙にウケたようで、深夜の病室でその看護婦さんはずっと笑っていました。まあ、それはまだ私が緊急治療室にいる時で、緊急治療室でくだらない冗談を看護婦さんに言う人はあんまりいないのかもしれません。私は意識が朦朧とした中でも冗談を結構言ってました(笑)。


横道に逸れた上に長くなりましたが、この「息が止まって死にそうになる瞬間」の体験と、「死に囲まれた日常」ということは、自分にとっては記憶に残るものとなっています。



経験の蓄積の中で

その後、普通の生活に戻ったわけですが、わりと頻繁に「あの時、どうして死ななかったのだろう」と考えることはありました。

まあ、自分の生死に意味を見出したいというのは誰にでもあることで、私も他の人の生や死なら大した考えなかったでしょうが、「生死が五分五分の確率」の中で、どうして死ななかったのかなあと。

その時ですでに 40歳を越えているわけで、人生的に考えれば、劇団のようなものを含めて、その時点ではもう「自分の人生でやることは終わっていた」と自分では考えていたわけで、そういう流れだと、死んでいて不思議ではなかったわけですが、そうではなかったことをよく疑問に思っていました。

子どもが生まれてはいたので、それに関しては生き残ったことは良かったかもしれないですが、それとはまた別の自分の人生の問題としてはどうなのだろうかと。


そして、最近(というか今日ですが)、ふと気付いたんですが、それは「その時の生と死自体に意味などなかったんだ」ということでした。「どうして死ななかったんだろう」という質問は存在せずに、あるのは単に、「死ななかった」という現実だけで、あの時に死ななかった場合と死んでいた場合の違いというのは、「その後の人生の経験があったかなかった」というだけだと。


私は最近、DNA が人類に科していることのひとつとしてあることが、「経験を蓄積していく」ことだと考えています。


「考えています」などと書くと、ずっとそういう考えを持っていたようですが、今日、吉祥寺を散歩していて気付いたんですよ(笑)

駅前の道で、(最近は頻繁にあることですが)ものすごい美しい女の子とすれ違った時に、


「今の人とすれ違うことはもうないかもしれないし、さっきの瞬間にさっきの人とすれ違ったという体験はさっき世界でオレひとりが体験しているわけなのだなあ」


と考えていると、つまり、今の体験そのものが「宇宙で(その瞬間としては)自分だけが持つ体験だった」ことに気付くわけです。

そうなると、「日常」というものは、世界中の人たちがこの「宇宙で唯一の体験」を繰り返しているわけで、そして、それは少なくとも、人たちの「意識」の中には残っていく。


さて、その「意識」というものはどこにあるのか


そういう様々なことの役割を持っているのは、一般的には「脳」だとされていますが、しかし、脳は「機能を持つ器官のひとつに過ぎない」と私は思っています。

人間のあるゆる臓器や器官は、様々な人種間であっても見分けがあまりつかないほど似通っている。なので、「脳」というものも基本的には、その機能にはそれほど差はないと思うのです。もちろん、「足が速い」とか「たくさん食べられる」というように、脳の働きに個性や特性はあるわけですが、少なくとも脳は個人の意識の格納場所ではない。

そのもっとも大きな理由は、「脳は人が死んだら腐敗してこの世から消滅してしまう」からです。

死んだら消滅する場所が人間の「意識」や「個性」の格納場所だとすると、あらゆる神秘やオカルトは否定されてしまう。たとえば、前世や無意識といったものまでもが否定されてしまいます。


しかし、人間には未来永劫に消滅も腐敗もしない機能がひとつだけあります。
それは DNA です。

多分、人間のほとんどの意識と個性と記憶と体験と感情はそこに収められて、そして、人の死後にそれは地球や宇宙に拡散していくと思います。それが、「宇宙の歴史を作る」という現象そのものであり、そこから考えると、人間の日々の生活は、それそのものが「宇宙の歴史を作ることに荷担している」ということになるようにも思います。



このことは以前から「そうじゃないかなあ」とは曖昧には思っていましたけど、今日確信したのです。それも、上の吉祥寺の美しい女性を見ることができたおかげでした。その美しい人は脚も綺麗で(いろいろ見てんのかよ)、それを目にして、「こういう記憶が永遠に残らないのはおかしい」と、つくづく思いまして、そして、この強い記憶が格納される場所は、「人間の生と共に消滅していく脳ではない」と私は強く思いました。


「あの美しい人の光景は DNA の中に永遠に刻まれて、そして、それは宇宙に永遠に残るのだ。うっひゃっひゃっ」


と考え、そして、それからクックックッと笑って歩いていました(あーあー・・・もうもう)。



DNA の残された領域は「個性として起動」する

ところで、この DNA には現在の医学や科学などでの、「ジャンク DNA 」というような概念があり、つまり、「DNA の大半(97%と言われている)はガラクタで、機能していない」と。

私は以前、記事で、「人類は宇宙の歴史の中でもっとも優れた生命として存在しているはずだ」というようなことを書いたのですが、その「優れた生命」が持つ DNA がほとんどゴミだ・・・ということはないと思っているばかりか、「人類の持つ機能や器官や構成物質に無駄なものはまったくない」と思っています。

これは、人類の機能が本来は「完璧なもの」という意味でもあります。


脳もほとんど使われていないとか、脾臓も盲腸も松果体も退化した器官だとか、あるいは今の宇宙理論では、宇宙の構成要素も97%近くわかっていない(暗黒物質)とされて、いろいろと分かっていないのが現状です。DNA の場合は 97%の機能について「機能がわからないからガラクタだろう」ということで、現在の学問は進んできたようです。


しかし、幸いなことに、何度かふれていますが、私たちは今、既成の学問の崩壊の入り口にいます。新しい学問が生まれるのかどうかはわからないですが、新しい学問が生まれなくても、古い学問システムの崩壊の中では、少なくとも自由に考えられる領域は増える。 DNA が 100%機能していたとしても、そのすべての機能を知ることなどできないでしょうし、知る必要もあるかどうかわかりませんが、「想像はできる」。


すべての人のすべての考えが真実でいいという時代なら、 DNA の機能も、「それは統一した機能ではないかもしれない」ということはあるわけで、あるいは、この 97%のわからない領域が「人の個性」と結びついている可能性だってあるかもしれません。

ひとりひとり機能が違うから、その個々の役割は永遠にわからないという可能性。あるいは、「そもそも DNA は統一した機能を持たない」という可能性。

または、これからその 97%の領域が起動する時代に入る(個性の時代)というようなことだってあるのかもしれない。


そんなわけで、少なくとも「私にとっての5年前の生と死の意味」。
それは生と死に意味があるのではなく、生きたことにより、体験は続き、それは日々、DNA に蓄積されている。


次に今度は本当に死ぬ時に、 DNA は次のいつかの時代へと伝承され、そして、記憶が次に繋がれていくと。
この「伝承方法」については、これまでの科学での発見で説明できるものですが、これら DNA のことはまた書いてみたいと思います。
まったく宇宙は現実的な存在だと思います。


さて、また、きれいな女性を見ましたら報告したいと思います(メインはそっちかよ)。


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2011年03月28日



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6歳児たちの「恋の奴隷」


私は 1963年に生まれているのですが、大体、私が生まれた数年後くらいから一般の家庭にもテレビが普及し始めます。今の若い人向けの流行ソングはほぼひとつも知らないですが、当時のものは今でもよく覚えていて、口ずさめます。

もちろん、当時も童謡や子ども向けの歌はたくさんあったと思うのですが、どう考えても、町のどこかで流れている流行歌のメロディのほうが頭に入ってくる。

また、当時のヒットソングの多くはきわめて「脳に刻み込まれる」ように頭に入ったメロディで、一度聴いただけで頭に入るという曲はたくさんありました。


その結果として、どういう現象が起きるかというと、幼稚園児たちが道で並んで、

「あなたがかんだ〜小指がいたい〜♪」

小指の思い出 - YouTube


とか歌いながら歩くというような光景が見られるようになるのでした。

意味はもちろん知らないわけですが、そのうち「フルで歌詞」などを覚えるようになり、遊びに疲れた5歳くらいの子どもたちが畑の横で、

「そっと唇 おしあてて あなたのことを偲んでみるの」

とかつぶやいているというような状況になっていくわけです。


しかし、ふと、「なんで小指を噛まれたのか?」というような疑問はもちろん湧くのですが、「ま、いいか」と、つまらないことは考えない子どもたちのたくましさが、辛うじて真意の追究から免れることとなっていたりしました。

この頃の1960年代後半から1970年代くらいまでの歌謡曲は子どもたちには一種、苛酷な世界で、「ものすごく覚えやすいメロディなのに、内容は完全に大人向け」だったんですよ。


私がいちばん口ずさんでいた歌は、森山加代子さんという人の「白い蝶のサンバ」という曲で、当時、「コンプリート」で歌えた記憶があります。




やっぱり、小学生が、


「恋は心も命もしばり 死んでいくのよ 蝶々のままで」


と、道で歌いながら歩く光景というのは、今にして思えば「変」なわけで、この1960年代の前半くらいに生まれた人たちが「どうもおしなべて頭がおかしい」と感じるのは、こういう幼少期の「異常体験」も関係しているかもしれません。まあ、本当に楽しかったですが。

童謡とか子どもの歌なんて馬鹿馬鹿しくて歌えなかったです。
それほど流行歌にはいい歌が揃っていました。

それにしても、森山加代子さんは今見るとかわいいですね。当時の私たちにとっては、こういう歌手の人たちは全部「大人の女の人」という括りだったので、こういう「かわいい」とかいう視点で見たことがなかったですね。なるほど、当時の青年やオヤジたちは、こういう別の視点でも見ていたわけか・・・。


さらに、小学生に入ったばかりだったか、「恋の奴隷」という曲もヒットして、やはり即覚える私たち。

畑で父親が栽培したトマトなんかをかじりながら、「あなたと遭ったその日から、恋の奴隷になりました」とか、暗い目をして呟いている。

6歳くらいの男の子にとって「恋の奴隷」という概念を理解するのはあまりにも厳しい(今でもよくわからないですが)。なのに、「歌詞は覚えちゃった」と。

多分、この頃はこういうような「知識に先行して」結構いろんなことを覚えてきたという経緯は多くの人にあったような気がします。


テレビなんかも、男の子は特撮ばかり見ていたわけですが、その後に知ったオカルト的な知識は関係なく、少なくとも、小学校に入る頃までは、

「人類は宇宙で私たちひとりではない」

と、多分、ほとんどみんな考えていたと思われます。



文明の崩壊を見ながら悲観しないために

そのあたりの様々な「洗礼」を受けた後、小学校や中学校から「教育」というものが始まるわけですが、「教育」の歴史というのは、否定的な言い方をしてしまえば、私たちからそれまでに学んだことや自由な発想を消す作業だったようにも思わないでもないです。

子どもたちから「恋の奴隷」を奪い去り、「メトロン星人」を奪い去る。


子どもは女の子の小指なんかを噛んじゃダメだ(そりゃまあそうだ)、宇宙からは宇宙人なんか来ない。

そういうのが「教育」というものだったわけですが、しかし、やはり1960年代前半の私たちの多くは「完全に気が狂った世界」で過ごし始める人は多かったように思います。

私もそうでした。


世界はまあ・・・6歳までの自分が知ったくらいのもんでいい」と。


なんとなく、今、ちゃんとした会社や企業の上のほうにいられるような人たちも、内心はそんな感じで生きている人は多そうな気がします。


さて、そこで、私たち日本人は、今回の文明の崩壊の兆しという現実に直面したわけです。

「文明の崩壊」という言葉は否定的に響くかもしれないですが、私はほとんど反対の意味として使わせていただいています。


第二次大戦後、日本は「復興した」というような言い方を私たちは教わってきたわけですが、しかし、そうではないことは何となくわかっていました。

この正体は、

物質文明が肥大しただけ

だと。

前回の記事にも書きましたように、「子ども」というのはその時代や状況のあらゆるものを娯楽にしてしまう才能を持っているわけで、私たち1960年代生まれあたりは、「物質的な繁栄の極限」を見てきました。

それは特に娯楽に見てきました。

スペースインベーダーに始まるアーケードゲームのブームは、私はずっとその渦中にいました。ワープロが一般の人に購入できる価格になった時には真っ先に買いました。ビデオ、パソコン、そして、インターネット。

どんどん肥大する。

娯楽といえば、北海道の田舎で「あなたがかんだ〜小指がいたい〜♪」くらいしかなかった時代から、たった20〜30年で、とんでもない速度で物質文明と、それに伴う情報文明は肥大していき、それらの多くを体験して利用してきました。

「どこまで進むんだろう」という思いの一方で、常に「限界なのではないか」という思いもありました。


そして、今回、その文明の一部分が崩壊しようとしています。


これは(最近は他のブログなどを見ないので)多くの人はどう言っているのかわからないですが、現在の「文明だと考えているもの」が、実際には資本主義の経済の中でないと機能しないものであり、娯楽もインフラまでも、現在の経済のサイクルが消滅した時には同時に消滅してしまうことが明かで、そして、「元の経済体制へと復興する」という可能性を考えるのが夢物語にも近いということは多くの方が感じているのではないでしょうか。

しかし、「元に戻ることができない」という退行思考ではなく、「次に進むチャンス」という考え方は当然あると思っています。もちろん、被災の状況が進行中である中でそれは口に出すべきことではないと思いますが。



次のジェネレーションへ

外で見る子どもや若者たちが、なんとなくウキウキしたように見えなくもないのは、無意識では現在の「システムの崩壊」に希望を抱いている部分もあるのではないかなあと思います。

私は、以前、ほんの少しの間やっていた仕事の関係で、現在の教育主義の中の子どもたちの置かれている極めて苛酷な心理状態の子どもたちの姿を知って、かなり絶望したことがあります。学校とは別に、週にいくつものも習い事をさせられる子どもたちというのは、今では特別ではなく、ありふれています。


「習い事なんてしたい子どもがひとりでもいるか?」

というのは、本当は大人も知っているはずです。

でも、動き始めてしまったこの狂ったシステムを止める方法も、大人たちも子ども本人たちもわからなかった。


今、「止まるかもしれない」という感じはあるのかもしれません。

もちろん、それは経済的な意味も含めて、苦痛を伴う可能性はありますが、今の子どもや教育の周辺に漂う「教育の狂ったシステム」が止まる可能性というのは、あるいは、本当に起こり得るかもしれません。



ここで時間切れとなってしまいました。

こんなに余計な話ばかり書き続けていては、散らばったテーマがまとまるのには、100年くらいかかりそうです(あ、放棄するつもりだ)。


それでも、やっと・・・本当にやっと時間がまた少し動いている気がします。
以前とは違う時間の進み方ではありそうですが、とりあえず動いているような気がします。
タグ:文明

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2011年03月27日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





関東や東北では子どもたちの不満が高まっているんだろうなと思っていました。
すなわち、多くの地域で、

・家から出ないような感じの習慣
・節電や停電でほぼ営業が停止している娯楽施設


がおこっています。

そして、震災後しばらくは NHK教育を含む多くのチャンネルは非常時放送で、子ども番組もなかなか再開されませんでした。

情報から受ける精神的なダメージもあるだろうかと思っていました。

たとえば、今の多くの子どもたちにとっては、生まれた時からあり「日本にあって当たり前」だったディズニーランドも閉鎖され、少なくともかなり当分は開くことはない。動物園なども多くが休園しているというような「ダメージの多い情報」は多いです。私は遊園地が好きではないなので、ディズニーニーランドにも他の都内の遊園地にも行ったことはないですが、好きな子どもは多いと思います。

しかし、では、街の子どもたちの様子は暗いかと、それはまったくない。


震災の二日後だったか、私がホームセンターの様子を見るために歩いていた時に、交差点の信号のところで、自転車に乗った小学生の男の子三人が大声でこんなようなことを話していました。何か特定の商品を探しているようでした。


「サミットは全滅〜ッ。ガラクタばっかり」
「加藤たちは久我山のほう回ってみるって言ってた」
「どこで落ち合うか決めた?」
「西荻と青梅街道の交差点」
「今何時よ?」
「4時」
「ちー、あと1時間か。時間ない。じゃ、宮前のほうまわろーぜ」
「ひゃっほー!」



と叫びながら自転車で走り去りました。
嬉しそうでした。


この頃はまだ、とにかく騒然としていた頃で、大人たちで「ひゃっほー!」とか言っている人はいない頃でしたが、子どもたちは「生まれて初めて見るスーパーに何もない状態」に興奮していたらしく、とても高揚していた。

生まれて初めて見る様々な光景・・・。


もっとも、今回のことは、老人たちでも「初めての体験」。
しかし、うろたえる大人を尻目に子どもたちは強いというのが実感です。

そういえば、第二次大戦中の手記などを読んでも、戦争中でも娯楽を探し続ける少年少女の姿の記述を目にします。東海林さだおさんのエッセイの中に、戦闘機のガラスは「独特の匂いがした」ために、「においガラス」と呼んで、子どもたちは先を争って戦闘機の残骸をあさっていたというような記述があったと記憶しています。

子どもというのは、「そこがどんな地獄であろうと楽しくないとイヤだ」という面というか、そういう資質はありそうです。

なので、ディズニーランドがなくなり、節電や停電などで娯楽施設や、家でのゲームなども損なわれていき、これまでの物質的な楽しみがほとんど消えても、子どもたちは「絶対に」娯楽を見つけていくはずです。


昨日また井の頭公園にひとりで行ったのですが、若い人たちの表情から、私はそこに憑きものが落ちたような気配を感じていました。一応、今はまだ非常時なわけですが、力が抜けきった、非常にリラックスした人たちの姿がありました。

まあ、そういう人たちばかりが公園に来ていたということなんでしょうが。


ところで、井の頭公園は大変混み合っていましたが、地元の西荻窪の公園は、今日のような暖かい日中ならいつもは混み合う公園でも、どこもガラガラで、やはり基本的には外出は控えているという感じになっているようです。

「そんなの、もーいいや」という人たちの集団が昨日の井の頭公園にいた人たちなのかもしれません。

アベックたちが話している内容といえば、

鯉にエサをやっているふたりは、

「エサをね、こっちに投げようとしてフェイントかけて、逆のほうに投げたのよ。そうしたら、鯉がさ、先にそっち回ってんの。鯉ってさ・・・頭いいよね。」

とか話しており、その横のふたりは、

女 「ここの池にいる鳥ってアヒル?」
男 「アヒルじゃね?」
女 「飛ぶの? アヒルって」
男 「鳥だから飛ぶんじゃね?」
女 「ここであの鳥が飛んでんの見たことある?」
男 「あー・・・そういえば、ないなあ」


と真剣な顔で話しあっていたり、「脱力にも程があるだろ」というような人々が多かったのですが、それだけに私が安心できる場所になりつつあります。


ちなみに、ガイガーカウンター(放射能測定器)を持っている知人が言っておりましたが、東京都内の放射能値は、通常に比べると、数値的にはかなり高いです。これは厳然たる事実です。

でも、「じゃあこうしよう」という行動指針が存在しないのが今の私たち東京の人たちの毎日です。

何しろこれだけ広範囲の都市が「放射能に囲まれながら日常生活を送る」なんてのは、世界で初めてのことですしね。



見ていなかった自然の風景

今日は、子どもが「もう外に出たーい!」と言い始めたので、小一時間ほど奥さんと子どもと三人で散歩しました。

前述したように、公園にはあまり人はおらず、住宅街そのものにも人の姿があまりありません。


歩いている時に、わりと大きな敷地の家の門のところで、やや高齢の女性が、「じゃあ、ちょっと行ってきますね」と、外出するところで、その後ろに立っていた、多分ダンナさんと思われる高齢の男性が、

「放射能、気をつけて」

と声をかけているのを見て、私は自分の奥さんに苦笑気味にこう言いました。


「なんだか、モンティバイソンの世界だよなあ。まさか生きている間に、実際の生活の中で、『放射能に気をつけて』なんて声をかけながら生活することになるとはねえ。それに、言っていたあのオジイサンもわかっていると思うんだけど、『気をつけて』って言ってもどうにもならないことはみんな知ってんだよね。でも言う。風邪がはやっているから気をつけて、泥棒に気をつけて・・・。挨拶だよね。放射能という言葉が日本の挨拶に組み込まれた日だよなあ」。


ところで、そのオジイサンの姿を見たすぐ後に、住宅街の中に、ものすごく大きな木が立っているのが住宅の屋根越しに見えました。

私は指をさして、

「なんだあのでかい木は?」


すると、奥さんは、「何言ってんのよ。いつもここ来てるじゃない」と言いました。
木のところに行ってみると、そこは小さな公園で、その公園の面積よりも広いのではないかというくらいに上部で枝が周囲に大きく広がっているケヤキの木があるのでした。

奥さんによると、「ここは、この木を残すためにわざわざ公園にしたみたい」のことでしたが、しかし、住宅街の中にあるとは考えられない大きな木でした。


このあたりは私は今まで何年もの間、歩いていた場所です。


しかし、このでかい木を知らなかった。つまり、「認識していなかった」。

これは先日の記事の「黄色い付着物」と同様に、今まで「普通にそこにずっとあった光景」だったのに、私は「見て」いなかった。見ていると自分では思っているけど、実際には見ていないのと同じ。


最近書いているように、「宇宙や自然の法則はすでに死んでいて、人類の認識によって起動する」というようなことがあるのならば、私はこのケヤキの生と存在を「殺し続けていた」ということになり、何とも無念な気持ちになりました。


その後、善福寺公園というところを歩いたのですが、見れば自然の姿のなんということか! この「なんということか」というのは「美しくて」とか、そういう形容が入るものではないのですが、「なんということか!」と、見入っていました。


1998年のアメリカの戦争映画で「シンレッドライン」というのがあるのですが、アメリカの戦争大作ではベトナム戦争の映画などが多い中では珍しい太平洋戦争を題材にしたもので、ガダルカナルでの米軍と日本軍の戦いを描いています。

結構好きで何度か見ましたが、この中で、主人公が今日の私とほとんど同じ心境に陥るシーンがあります。YouTube を見てみたら、映画の予告の最初のシーンに入っていましたので貼っておきます。

この予告の最初の10秒くらいです。





日本人と戦う米軍の主人公がガダルカナルの自然の姿に「圧倒」され続けるシーンが映画の中で何度も描かれます。

上の動画には字幕等入っていないのですが、この森林のシーンでの主人公がつぶやくイメージ(台詞ではなく感じ)と、今日の善福寺公園で感じた心境とわりと似ている感じでした。


「好きな映画のワンシーンを体験できるとは」


とちょっとご満悦でした。


ところで、先日本棚を見ていましたら、大岡昇平の「野火」がありました。

奥さんのものだと思うのですが、この「野火」は中学だか高校だかの時に読んで、極めてショックを受けた小説で、震災後の In Deep での一連の記事を書いている時に、何度かこの小説のことを思い出していたのですが、私は大人になってからは「小説」というものをはほとんど読まなかった人で(ここ20年はほぼまったく読んでません)、「野火」も手元にはないと思っていて、わざわざ買い直すのもなあと思っていたところでした。それが奥さんの本棚から見つかったのでした。


「野火」は第二次大戦中に、フィリピンの戦場での殺人経験と人肉食いの光景(主人公は人肉を食べなかった)の中で発狂していく「私」の姿を描いた日本の戦争小説の代表作のひとつです。教科書などにも取り上げられていそうなものですが、後半は「あまりに狂った心象描写」が続くので、あるいは教科書にも載せづらいかもしれません。


後半の章である「狂人日記」や「人類」といった名前のつけられた章あたりからの展開は異常であり、若かった私にはむしろ「パンクな小説だねえ」とかっこよく思えたものでした。


たとえば、これは戦場でひとり戦場を彷徨う主人公が次第に「あらゆる草木が自分に語りかけてくることが始まる」シーンです。


(30章 「野のゆり」 より)

 万物が私を見ていた。

 草の間から一本の花が身をもたげた。直立した花梗の上に、硬く身をすぼめた花冠が、音楽のように、ゆるやかに開こうとしていた。その名も知らぬ熱帯の花は芍薬に似て、淡紅色の花弁の畳まれた奥は、色褪せ湿っていた。匂いはなかった。

「あたし、食べていいわよ」

と、突然その花がいった。私は飢えを意識した。その時、再び私の右手と左手が別々に動いた。

 手だけではなく、右半身と左半身の全体が、別もののように感じられた。飢えているのは、確かに私の右手を含む右半身であった。

 私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それ等は実は、死んだ人間よりも食べてはいけなかったのである。生きているからである。

 空からも花が降って来た。同じ形、同じ大きさの花が、後から後から、空の奥から湧くように夥しく現われて、光りながら落ちて来た。そして末は、その地上の一本の花に収斂された。

 その空間は広がって来た。花は燦々として私の上にも、落ちてきた。しかし私はそれが私の体に届かないのを知っていた。

 この垂れ下がった神の中に、私は含まれ得なかった。その巨大な体躯を大地の間で、私の体は軋んだ。

 私は祈ろうとしたが、祈りは口を突いて出なかった。私の体が二つの半身に別れていたからである。

 私の身が変わらなければならなかった。




その後、主人公の体は、「生命などの有機物を食べる」ということに対して、「右半身」と「左半身」がバラバラとなっていき、狂人と化したまま、捕虜となり、日本へ帰還した後もそれは続くというようなことになります。


興味深いのは、今から 70年前に書かれた小説に「右脳と左脳」という概念とほぼ同じような概念が描かれていることです。小説では、主人公は、「右脳と左脳の整合性が崩れることによって」発狂しました。


ヤスの備忘録のこちらの記事にコルマン博士の 2009年の論文の翻訳がありますが、コルマン博士は一貫して、新しい時代は右脳と左脳が統合することによって、人類に新しい価値観が生まれることを書いています。




大阪ショックを越えて

今はほぼ回復しましたが、「食べることの悩み」に関しては、ちょっと前に私も経験したことがあります。

それは、前回の記事でふれた、「大阪ショック」の翌日から肉が食べられなくなったのでした。あの記事を書いたのが、2009年の9月頃で、それから1年2カ月くらいの間、肉を噛むことができなくなったのでした。この心理的な経緯は複雑なのですが、まあ、起きた事実としては「肉が食べられなくなった」のでした。


これなんかは「右脳と左脳のバランスが崩れた」いい例でなのかもしれません。

そして、これは昨年の12月頃に、「ふと」回復しました。

回復したのは、「焼き鳥」のおかげでした。
行った飲み屋でメニューに「チレ」があり、「そういやチレ好きだったなあ」と注文してみたのです。

チレとは動物の脾臓です。そして、食べた時に、あまりのおいしさに感動して「そういえば、昔はこうやって焼き鳥をおいしく食べていたんだ」と思い直したのでした。脾臓というのは不思議な触感で、「モチ」みたいな食感なんです。ネッチリとしている。他の内臓のどこにもない食感で、置いてある店は少ないかもしれないですが、昔はメニューにあれば、ほぼ注文していました。

「久しぶりに食べた脾臓」によって、肉をまた噛めるようになりました。

とはいえ、1年以上も肉を食べない生活が続くと、普通の生活では肉は基本的に食べないような感じにはなってしまいましたが、食べた時にはおいしく感じます。


いずれにしても、これから出現する未来が本当に「右脳と左脳が統合した世界」で、そして、もしかすると、それを開始するのが「日本」と「日本人」である可能性があるとするならば、なるほど、今日の森林の風景も理解できるかも、と思ったりしたのでした。

それは、今まで「左脳で見ていた風景を右脳でも見始めた」気がしたからです。


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2011年03月26日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





震災から2週間経っていることを知り、少し動き始めた気もしていた自分の中の時間は実はほとんど動いていないことを知りました。

テレビも映像もすでに見ていない現在では、当初の「災害の映像から受けた圧倒」からは解放されているはずで、それでもなお時間が止まり続けている意味には別の意味が、あるいは新しい意味があるのかもしれません。


ところで、震災後、あまりにも思っただけのことをその場で書き殴っていて、ほとんどの流れが支離滅裂になっています。

この2週間の中で、おおまかには、

・生と死とは何か
・宇宙における人類の位置
・日本人の意味
・食べるという行為の意味
・女性性である地球(あるいは宇宙)の中の男性性システムの意味
・男性性の消滅と人類の進化



などのことを断片的に書いていて、それぞれが自分の頭の中では展開し続けていることでも、実際に書く作業の時間(物理的な時間)は限られているわけで、バラバラになったままです。

ある程度はそれぞれに整合性を持たせたい気もするのですが、しかし、考えてみれば、これらの結末は「多分、言葉にならないもの」であるようにも思えて、つまりは、現在のバラバラの断片のまま進んで、ある時、突然終わるというようなものなのかもしれません。

いずれにしても、「思いついたままに書く」という方向性は変わらない(変えることができない)気もしますので、この「無秩序な断片化」というものが肥大する可能性もあります。

いまだに混乱した気持ちの中にいる方も多いかもしれない中、このような混乱した内容になっていることは申し訳ない気もしますが、あるいは、この、止まった時間の中での混乱こそが現在の状況というか心境というか、それそのままなのかもしれません。

ただ、基本的には現在、気持ちは平穏であり、ある意味では前向きとも言えるかも知れません。



放射能の意味

これはずいぶんと前から感じていて、原発の放射能問題に展望が見えないうちは書いていいものかどうかわからなかったのですが、しかし、どうやら、いろいろな意味で、そう簡単に解決するようなことではないという「良いも悪いもわからない展望」が見えている(しばらくはどうにもならない)ようにも思いますので、書いてみたいと思います。

今、私のいる東京も含めて、日本のかなりの広範囲が放射能の影響下にあると思われますが、これもまた前述した「止まったままの時間」と関係しているように思います。


これまで、日本でも世界でも、どんな大きな自然災害が起きても、それが自分たちの生活環境に影響を及ぼさない場合、そのショックは続いても数日、そして、あとは時間と共に「忘れて」いくのが普通でした。今回の東北の地震は日本全土を「呆然」とさせるほどのショックに叩き込みましたが、しかし、たとえば、私のいる東京が「もし」放射能などの影響がまったくなかった場合、今のように「私たちの意識が被災地の方向に向けて、これだけ強く留まり続けていたかのだろうか」ということはあると思うのです。


以前の記事に書きましたが、東京の若い人たちは震災後、数日後にはもうデートや行楽を楽しみ始めており、精神的なサバイバルを始めていました。今では街の様子も比較的落ち着いていて、人々は元へと戻ろうとしています。

これらは、「日常へ戻ることにより正気を保とうする精神的な生存本能」だと私には感じられ、大きなショックの後には必要なことだと思います。


しかし・・・。

日常に戻ろうとする私たちの周囲に「厳然」と存在する「見えない」放射能。

これにより、私たちは日常を送りながらも「今回のことが起きた方向」への意識が途切れることはありません。言い換えれば、困った代償といはいえ、「私たちは被災者たちと放射能でつながっている」と言えそうな気さえするのです。


ともすれば、日々勝手だった私たちは、これほどのショックを伴う災害でも「忘れてしまったかもしれない」宿命にあった可能性さえあります。しかし、放射能はそれを許してくれません。今回の出来事を忘れることを許してはくれない


今の状態が何ヶ月、何年続くのかよくわからないけれど、次第に頭の中に、東北のあのあたりの一帯の地図というのか概念というのかが、完全に頭の中に焼き付けられ続けていくような気がします。


そして、もしかすると、いつか私たちは「新しい私たちの人生はこのあたりと共に始まった」と思うようになるのかもしれません。


tohoku-2011.gif


新しい日本の意識的な中心地となった日本の東北(最初、「聖地」という言い方で書きましたが、この宗教じみた言い方は合わないので、「意識的な中心地」ということでいいと思います。意味は聖地と同じです)。

このことには意外感もありましたが、しかし、実はよく考えると、私が一昨年あたりからずっと抜けきれないでいた「大阪ショック」の答えが、「東北の人たち。すなわち東北の日本人の人たち」の中に見出せたのかもしれないと思います。

この「大阪ショック」というのがどういうものかは説明しづらいので、当時の記事をリンクしておきます。この後、何週間にもわたり、私はこの「大阪ショック」の意味を自問し続けていたのです。当時は自分でも下らないと思っていましたが、今振り返ると、意味のあるショックだったと思います。


大阪人はいかにして最強の宇宙兵器を倒したのか (2009年10月11日)


このことと「東北の人々」との関連は書ける時があれば書きたいと思いますが、要するに、大阪人が「なすがままに状況を受け流す方法として」使った言葉である「かめへん」。しかし、東北人はその「かめへん」さえ言わなかった。つまり、「なすがまま」を無言のうちに行っていた人たちだった。最強の人類の中の最強の「無言」の強さをそこに見出したということです。

ちょっとわかりにくい展開ですみません。

いつか、もっとわかりやすく書きたいです。



この時をどう過ごす

先日、災害関係の方からメールをいただきました。
災害関係の方からというと、さぞや緊迫したものかと思ったのですが、そこにはこのようにありました。

お仕事がら「人より情報が飛び交い、危機(の状況)はわかるのですが、なんとも静かで落ち着く街を感じます」とあり、そして、


この 「なんだかわからないけどせっかくの世界」を1日でも長く静かに見ていたいです。

最後の最後にすべてがうまくいくとは思っていますが、もしうまくいかないのであれば、「最後の日」に聞こうと思う音楽だけがまだ選べていません。



これが正しいのかどうかではなく、私本人は納得して読ませていただきました。

この2週間で見てきた「これまで経験したことのない世界」。

それはこの2週間で変化しています。
最初はそれがどうなるのか見当もつかなかったけれど、「どうもすべてが悪いという」だけでは済まない現在の方向があるようにも思わないでもない。


ちなみに、私は私自身に対しては「最後の最後にうまくはいかないだろう」とは思っていますけれど、でも、「うまくいかないことが人生で悪いことだったかどうか」もまたわからないとも思っています。

「最後にうまくいかないだろう」という考え方はネガティブに響くかもしれないですが、しかし、逆に、「最後の前に人生の途中でいろんなことをやっておこう」という生きる気力にも繋がることで、「やることやったんなら、もう最後がダメだろうが、宇宙から消滅しようがしったこっちゃない」という考え方は幼い時からあったようにも思います。


・・・うまく言えていないかも。

そんなわけで、今日はこれから外出ですが、あとでまた書けるかもしれません。
際限のない「テーマのぶつ切れ」は続きそうですが、お許し下さい。


ところで、昨日の記事で、震災当日の3月11日に吹いた「氷のような風」のことに少しふれたのですが、メールをいくつかいただき、あの時のことを覚えてらっしゃる人の多さを知りました。


そして、気温は相変わらず上がりません。
今日の東京の寒さはまた格段で、これは震災の頃の3月初旬よりも寒い感じがしており、普通なら「東京の3月の後半2週間」となると、日々春を感じていくような感じがしますが、その気配はまったくありません。


この「寒い気温」も、震災の日から時間が止まっていることを実感させてくれます。

そして、この異常な寒さが、すべてが悪い方向だけに作用しているわけではないことは、誰も口にはしないですが、なんとなく多くの人たちがわかっていることのように思います。
タグ:聖地

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