【人類の覚醒と真実】 の記事一覧

2015年05月08日



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ファティマに現れたのは、おそらく「聖母ではない」ことをヤシンタの霊に気づかされる。さらにそこから導かれた輪廻転生のメカニズム



jacinta-forever.jpg
・ヤシンタ( 1910 - 1920年)。amor eterno



聖母の言葉の違和感に気づかされて

以前、

ファティマの聖母から知る「永遠の地獄」への序章
 2015年03月15日

という記事を書いたことがありました。

これは、1917年、ポルトガルのファティマという町で、3人の少女と少年の前に、何度かにわたり、「聖母」と名乗る存在が現れ、いくつかの啓示を子どもたちに授けたとされる出来事で、バチカン(ローマ教皇庁)の公認となっている聖母出現譚でもあります。

バチカンが公認している聖母の出現は Wikipedia によると、歴史上で 12件ありますが、その中でも、ファティマの聖母出現は、最も有名なもののひとつだと思われます。

私は、実は、このファティマの聖母出現の内容を読んだ時に、奇跡ということよりも、むしろ何ともいえない痛々しさと切なさを感じていました。

それは、聖母と複数回の会見をした3人の子どもたち、ルシア(当時9歳)、フランシスコ(8歳)、ヤシンタ(7歳)のうち、特に最も若いヤシンタが、とてつもない苦悩と苦渋の中で亡くなっていった、ということによるところが大きいのですが、いつもヤシンタの苦痛を考えると、暗い気持ちになっていました。

そして、この「苦悩」とか「暗い気持ち」とかいう気持ちを人に抱かせることが神サイドの奇跡…? というような想いはありました。

そして、このところの読書生活の中で、「ふと」気づいたのです。

最近読んでいた本、たとえば、それは、シュタイナーでも中村天風でも、どの人のものでもいいのですが、それらの人々の書く内容は、前回の記事でも書きましたように、「根幹に大体同じ方向性がある」ということがあります。

前回の記事は、健康に関してのものでしたが、どのように同じかといいますと、

・人間は本来、完ぺきな自然治癒能力を持っている
・自然(宇宙 / 神)の法則と人間の関係もまた完ぺき


というようなことです。

そして、健康だけではなく、全体としてのことを言えば、私たち人間の世界は・・・あるいは、これを「自然の法則」といっても、「神の法則」といっても、「宇宙の真理」でも何でもいいのですが、

「すべてが肯定と美と善と真実から成る完ぺきなもので、否定的だったり消極的な部分を持たない」

ということと、

「人間がこの世に存在する目的は、人間が本来持つ完全性を獲得すること」

そして、

「創造すること」

だというようなことです。

この「創造」、つまり、表現や芸術を作り上げるということが、人間がこの世に物質的な存在として生きる上で、どれだけ大事なことかということについて、たとえば、シュタイナーは、以下のような文を書いています。

芸術において人間は、
世界のなかに結びつけられた霊を解放する。
音楽芸術において人間は、
自分自身の中に結びつけられた霊を解放する。


なぜ、人間が創造し続けなければならないかというと 1914年の講演の以下の言葉からシュタイナーの主張がわかります。


シュタイナーの講演『人類の芸術的発展のための変容衝動』より

音楽的創造行為は人間の未来と関係するものです。音楽的創造行為は宇宙のなかでみずからを完成し、深めるために存在するのです。

いくつもの偉大な、天才的な音楽作品が存在するにもかかわらず、それらを試作にすぎないというのは傲慢な感じがすることでしょう。しかし、今日存在する音楽作品は、未来の無限に意味深い音楽的創造行為のための試作なのです。

人間が秘儀参入の本質を知ったとき、未来の音楽作品は意味深い刺激を受けることができるのです。

いつか、秘儀参入の途上で魂が体験する至福と苦悩に満ちた幻滅を通過すると、宇宙の諸事情に関与しているすべての運命を体験し、人間の魂は震撼します。

秘儀参入の途上で体験されるものを音の組み合わせで表現することへと魂を促すものを、震撼のなかで体験します。

こんなに抜粋することもないんですが、要するに、この中の、

> 創造行為は宇宙のなかでみずからを完成し、深めるために存在する

ということで、「自分を完ぺきな存在にするため」に音楽的創造は存在するとシュタイナーは主張しています。音楽以外の創造も同じでしょう。

これは、「苦痛」も同じものとして、シュタイナーは言っています。

アタカマ砂漠に咲き乱れる花に見る「悪から善が生まれる光景」を思えば、極端な少子化も箱根山の群発地震も怖くない・・・かも
 2015年05月05日

という記事に、シュタイナーの 1912年の講演を抜粋していますが、その中に、


賢明な者が不完全な私たちのなかにおり、常に私たちを苦痛へと導いていきます。私たちは内的および外的な苦痛によって、自分の不完全さを取り除き、自分を完全にしていけるからです。


といっていて、つまりは、「苦痛を経験することによって、私たち人間は、本来の完ぺきな人間になれる」と。

中村天風さんなども、この「人間は本来は創造的な存在で、そして、人間は宇宙と同様に完ぺきな存在だが、今の人間は完ぺきになることができていない」ということを何度も語っています。


中村天風『運命を拓く』人間の生命の本来の面目より

なぜ、人間の生命の本来の面目が、創造的にできているのか。

それは、進化と向上を現実化するために、人間に、この本来の面目が与えられているのである。

どんな人間でも、「何ものをも完全にあらしめたい。完全に作り上げたい」という気持ちが、誰にでもあるはずである。すなわち、ものや破壊や消滅を好まず、ものの成就や完成を好むという気持ちには、共通的にいわゆる完全を喜ぶという気持ちが、その心の中にあるはずである。

誰しも代償のない破壊を好むものは、ないはずである。

これもやはり、人間の生命の中にある、自然傾向であるからである。いわば、自然に与えられた活動的能力である。



自分では意識していなくても、人間というのは、自然と「完ぺき」を目指していて、なおかつ「創造的」であるということのようです。

これは、まあ、パッと思い出しますと、意識せず鼻歌をうたっているとか、何となくリズムをとっていたりするとか、なんとなく部屋の模様替えをしてみたり、花を飾ろうと買ってきたり、あるいは、お気に入りの皿やカップが割れると、もうくっつくことはなくとも、割れ目をくっつけて「再生の試み」をしてみたりする・・・。

自然な行為の多くが、「実は人間の無意識の行為の中には、破壊よりも創造のほうに向く傾向」というものが潜んでいることを示しているということかもしれません。

その「創造性」の方向を意識して、思考や行動の中で拡大させていけば、私たちは、それまでと少し違う感覚を持つことができるかもしれない・・・というような。

そして、ここまで引用させていただいたシュタイナーも中村天風さんも、

「肯定的で前向きな思考と態度」

の重大性を何度も述べています。

というより、

「否定的で消極的な思考と態度を捨て去ること」

を言っています。




ヤシンタに向けられた「否定的・消極的な思考」

なぜ、ファティマの聖母について、これらのことが関係するかといいますと、

・人間は創造的になるべき
・肯定的・前向きな態度は重要


という大前提をもとにしますと、ファティマの聖母出現の際の、以下の2点に大きな疑問を感じたのです。ヤシンタ・マルト - Wikipdia から抜粋します。

太字はこちらで入れています。


ヤシンタは優しく、少し情緒的であった。彼女は甘い歌声と踊りの才能を持っていたが、ルシアやフランシスコと共にファティマでの聖母の出現を見るようになると、それら娯楽に供することが罪の機会になると考え、音楽も踊りも止めるようになった



ヤシンタは聖母の三度目の出現時の、地獄の恐ろしい幻視の影響を非常に強く受けた。彼女は、聖母が導いたとして、痛悔と償いを通しての罪な人の回心を願う必要を確信するようになった。三人の子供たち、中でもフランシスコとヤシンタは厳しい苦行をその死まで実践した。


この2点です。

最初は言うまでもなく、

> 甘い歌声と踊りの才能を持っていたが、それら娯楽に供することが罪の機会になると考え、音楽も踊りも止めた

の部分です。

これは、人間の創造性を否定する行動です。とはいえ、6歳か7歳のヤシンタが「地獄の光景」を見せられて、そう思うのは仕方ないかもしれないのですが、しかし、ヤシンタは、ファティマでの聖母出現後も何度も「聖母」と会っています

1917年のファティマの聖母出現から、ヤシンタが亡くなるまでの2年間は、ヤシンタの前に何度も「聖母」が現れていたようです。ファチマの真実(2)というページには、以下の記述があります。

ここでは、ヤシンタはジャシンタと表記されています。


ジャシンタがルシアに語ったところによれば、1919年12月に聖母がジャシンタに御出現になり次のように言われたとのことです。

ジャシンタはリスボンの病院にもう一度入院することになる、ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬと。



1919年は、ファティマの聖母出現から2年ほど経っていますが、このように、ヤシンタの前には、何度も「聖母」が現れていたようです。


しかし。


それはいいとしても、問題は、その「聖母の言葉に漂う気配」です。

「ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬ」

この否定的な響き。

そして、実際に、この「聖母」の言葉通りになるのですが、しかし、「完全の宇宙」の神のグループに属していると思われる聖母が、ほとんど肯定的な言葉を発していないことも気になります。

そして、「人間の完全性を示さず、人間の不完全性ばかりを示す」のです。

まあしかし、それはともかく、このように何度もヤシンタとコンタクトをしていたならば、聖母はヤシンタに、

「歌と踊りはやめなくてもいいのです」

と、どうして言わなかった!

聖母なら、楽しみと創造性がどれだけ人間に大切なことかを知らないわけはないです。

ヤシンタは、スペインかぜ(鳥インフルエンザ)にかかり、壮絶な闘病生活をを続けることになり、


病気は化膿し肋膜炎に発展し、手術で(無麻酔で)二本の肋骨を切断しなくてはいけなくなったが、彼女は痛みに耐え続けた。心臓の状態から麻酔を全く使えず、凄まじい痛みに苦しんだが、彼女はそれを多くの罪人の償い(慰め)へと捧げた。( Wikipedia


というようなことになっていくのですが、もちろん、もはや、この体では踊ることはできないでしょうけれど、歌をうたったり、自分が踊りをしている姿を想像するだけでも、どれだけ気が晴れたことか。

少し前の、

パッチ・アダムス医師の「楽しく人を死なせる」ための真実の医療の戦いの中に見えた「悪から善が生まれる」概念の具体性
 2015年04月19日

という記事で、笑いの治癒効果を医療に取り入れたアメリカの実在のパッチ・アダムス医師について書きましたが、映画化された『パッチ・アダムス』は、人間にとって「楽しい気持ち」がどれだけ大事なことかを描いたもので、また、それは医学的にも正しい(笑うと、多くの体の検査数値が向上し、ガン細胞を殺す NK細胞が増える)といえます。

下は映画『パッチ・アダムス』で、子どもたちを笑わせているアダムス医師(ロビン・ウィリアムズ)です。年の頃が、ヤシンタと同じくらいの女の子です。

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・映画『パッチ・アダムス』

おそらくは、ヤシンタは、入院期間にこのように笑うことはほとんどなかったのではないかと思われます。なぜなら、「楽しんだり笑うことは罪になる」と思いこんでいたからです。

多分は、病気にかかってから亡くなるまでの2年ほどを、ほとんど「笑わない生活」で過ごしていたのではないでしょうか。

何度もヤシンタの前に現れた「聖母」が、ひとこと、

「前向きで楽しい気持ちは人間の本性なので、罪にはなりません」

とヤシンタに言っていれば、ほんの少しは気持ちの晴れる時もあったのではないかと。

人生は苦行と共に生きるものではない」ということは、シュタイナーも 1912年の講演で、「人生の喜び」について、以下のように述べています。

この部分の前に、シュタイナーは「楽しみの危険性」ということについて述べていまして、その後の言葉です。


シュタイナー『運命にどう向きあうか』(1912年の講演)より

私は楽しさに反対する説教をしているのではありません。「楽しさを避けろ」と言っているのではなく、「楽しさを平静に受け取るべきだ」と言っているのです。

楽しさを恩恵として受け取る気分を育てるべきなのです。そうすれば、私たちはますます神的なもののなかに浸っていきます。

私は、苦行を説いているのではありません。「楽しさと喜びに対する正しい気分を目覚めさせよう」と、言っているのです。

「楽しさと喜びは、自分を麻痺させ、自己を解消させる。だから、私は楽しさと喜びを避ける」と言う人は、神々から贈られる恩恵を避けているのです。それは誤った苦行、自虐が目指すところです。苦行者、修道士、尼僧の自虐は、絶えず神々を避けることになります。

苦痛を「自分の業によってやってきたもの」と感じ、喜びを「神が私たちに注ぐ恵み」と感じるのが適切です。神が私たちの近くにやってきたしるしが、楽しさと喜びなのです。

世界が私たちにもたらす善いもの、美しいものに直面して、私たちはつぎのように感じなくてはなりません。

「神々は、世界は美しく善いものだ、と見た」と聖書が表現しているとき、人間が輪廻の経過のなかで、最初は善いものだった世界をどのようにしてしまったかを認識しなければなりません。そして、苦痛を精力的に担うことによって改善すべきものを認識する必要があります。



シュタイナーは、

> 「私は楽しさと喜びを避ける」と言う人は、神々から贈られる恩恵を避けている

> 苦行者、修道士、尼僧の自虐は、絶えず神々を避けることになります


と述べています。

これは、ヤシンタを含む3人の子どもがその後に行った「楽しさと喜びを避ける」という生活態度こそが、神々から贈られる「楽しさと喜び」という恩恵を避けているということにつながってしまうという、絶望感に満ちた因果関係を見つけてしまうのでした。

しかし、最後のほうに書きますが、どういう生活態度であっても、このシュタイナーが他の著作で述べていることからうかがいますと、ファティマに出現したのが聖母ではなくとも、ヤシンタには「明るい来世」が待っているはずです。




あまりにも「否定的な」聖母の態度傾向

話を「聖母」に戻しますと、そもそも、ファティマでの聖母が、3人の子どもたちに、「地獄の光景」を見せたり、「バチカンの崩壊の光景」を見せたり、といった「与えるものがネガティブなものばかり」であることも気になります。

下は、聖母が「地獄の光景」を子どもたちに見せた時のことを述懐するルシアの言葉です。


永遠の地獄(ファティマの聖母

聖母は、私達に広い火の海をお見せになりました。それはまさに、地の下にあるもののようでした。この火の中に、サタンと人間の形をした魂とが閉じ込められていました。

この魂は、透き通るように燃え上がる燃えさしのようで、全ては黒く、あるいは、光り輝く青銅色をしていて、大きな炎の中に漂っていました。彼らは自分の中から放つ炎によって、巨大な煙の雲とともに空中に吹き上げられ、ぞっとするような、しかも恐怖に震え上がるような苦痛と絶望の悲鳴とうめき声を上げながら、重さもバランスも失って、火花のように大火の中を四方八方に飛び散っていました。

サタンは、見たこともない奇怪な動物の形をしていたのでそれと分かりましたが、戦慄を覚えさせるような気味の悪い形相をしており、透明で黒い色をしていました。



この地獄の光景を見た子どもたちは「死んでしまうような恐怖」に駆られるのです。

聖母が「恐怖で子どもたちを支配」する・・・。

さらに、下は 1918年頃に、「聖母」がヤシンタに見せたビジョンです。


ヤシンタ・マルト - Wikipedia より

ヤシンタ自身は個人的に何度か聖母や出現や近未来、あの世等を目撃している。

初回は1917年夏であり、もうすぐ起こる次の戦争とする第二次世界大戦について気にかけ、大勢の人が死に、その殆どが死後地獄に堕ちる、と物思いに沈んだ。二回目は1918年10月で、自身が一人で苦しんで死ぬことを予言し、一方で聖母が天国に連れて行く約束をしてくれたことに安堵した。

ファティマの公的出現中も1917年7月13日、彼女はルシア、フランシスコと共に、聖母から、地獄の炎やそこで燃えた炭火のように透き通った姿になって、絶望の叫びをあげながらただ不安定に業火の中を舞うだけの人や悪魔の姿を見せられて、戦慄し、しばしば話題にしていた。



このビジョンに見られる、

> その殆どが死後地獄に堕ちる
> 絶望の叫びをあげながら
> 悪魔の姿を見せられて、戦慄し


などのような「徹底した否定」的傾向。

唯一少しだけ明るい、

> 聖母が天国に連れて行く約束をしてくれたことに

という部分は、後述しますが、キリスト教で信じられていない「人間の宿命」を語っています。

しかし、この「聖母」の見せたビジョンの多くは、その後、現実化していますので、「未来を見せた」という不思議なことが起きたことは間違いありません。

しかし、「ビジョン」というのは、あまりにも非現実的で、また、オカルトに近い性質を持つと思うのですが、そもそも、こういうオカルトってのは、キリスト教的というか、「聖書」的にはダメなことなのでは。


旧約聖書『申命記』18章 9-12節

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなたは異邦の民の忌みきらうべきならわしを、まねてはならない。

あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。

これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。



これに関しまして、クリスチャンはそれを信じないというページによりますと、


聖書は、占いや心霊現象、オカルト現象を「神の忌みきらわれること」として禁じているのです。なぜなら心霊現象にかかわっているのは、悪霊の力だからです。

聖書は、悪霊も不思議なことをすることがあると認めています。そのため私たちが心霊現象に興味を持つことは、きわめて危険です。

それは、気づかないうちに私たちを神の道からそらせ、悪霊の支配下に導くでしょう。クリスチャンは、占い、心霊現象、オカルト現象などが、私たちの幸福に対して何らかの寄与をするという考えを、信じないのです。



ということだそうです。
太字は原文ママです。

そして、上のサイトには別の項目のところに、以下のような記述があります。


神は人の人生の決定権を、個人の自由意志におゆだねになっておられます。

人が自分の人生で刈り取るものは、多くの場合、自分が過去に蒔いたものです。
もしくは、人類全体が蒔いたものです。

神は決して、人の主体性を破ってまで、人の人生を支配しようとはなさいません。

人生を決めているのは、やはり自分です。

神は、人の人生を「宿命」で縛ろうとはなさいません。
キリスト教には、「宿命」という考えはないのです。



私はクリスチャンではないですので、これが本当かどうかはよくわからないですが、聖書を引用してのものですので、ある程度はそのようなものだとすると、ファティマの聖母は、明らかに3人の子どもたちの「宿命」を提示しています。

様々な点から見て、ファティマの聖母の、

・否定的な面だけを強調する言動
・恐怖で子どもたちを支配していること
・天国ではなく地獄だけを見せている
・主の導きではなく、宿命を述べていること
・ビジョンや太陽の異常などオカルト過ぎるやり方


などから、ファティマに出現した存在は「聖母ではないように思えて仕方ない」という思いが強まっています。

神でも主でもいいのですが、その根底は「完全」であり、また、その宇宙の私たちも「完全」である以上、否定的な方向へ人を導くというのは、本筋ではないような気がするのです。

もちろん、聖母でないのならば、ファティマに出現したものが何なのかはわかりません。

仮に見当がついたとしても、うまく書けません。

まあ・・・ファティマに現れた「聖母」の正体はわからないですが、その正体とは無関係に、苦しんだヤシンタは、天国に行く以上に、「とても完全な人間」となって、いつの世にか、おそらくは、あと 900年後くらいに素晴らしい来世を送ることができるだろうことは信じます。

それは、シュタイナーの『神智学の門前にて』という著作の中に、

「輪廻転生の具体的なメカニズム」

が書かれていまして、それを少し読むことで感じたのでした。




死後の人間

もちろん、これはあくまでシュタイナーの主張であり、この世がそのようになっているのかどうかは、死んでみなければわかりません。

死から再受肉までのあいだ、人間はどのような生活を送るのであろうか」というフレーズから始まる「欲界における魂の生活」という章にそのことが書かれてあります。

全体として文章構成が複雑で、うまく抜粋できないですが、死後に人間がまず行くところは「欲望の場所(欲界)」というところだそうです。


シュタイナー『神秘学の門前にて』欲界における魂の生活より

肉体的な器官がなくなったあと、魂に活力を与えるもの、日常の意識を満たしていたもの、身体に負っているもののうち、なにが残るのであろうか。

このことが明らかになったとき、物質体とエーテル体(生命体)を死体として捨てたあとの死後の人生の状態が、どのようなものであるかがわかる。

この状態を欲望の場所、欲界と呼ぶ。しかし、それはどこか外にある場所ではない。わたしたちがいまいるところも欲界であり、死者の霊は絶えず、わたしたちのまわりに漂っている。



ということらしいのですが、人が死ぬと、人間を構成する4つの要素(肉体、生命体、感受体、自我)のうち、肉体と生命体と呼ばれるものは、肉体の「死」と同時に死んでしまうけれど、他のものは残るのだそう。

特に、感受体(アストラル体)は、死後もしばらくは生きている。

これは欲望も司るものですので、「欲望」は、死後も残ると。

ところが、おいしい料理を食べたくても、それを味わう口も舌もない、美しい光景を見たくとも、それを見る目はない。音楽を聴きたくとも、聴く耳がない・・・ということで、「欲望を充たす器官がない状態」となっていて、死後、人々はこれで大変に苦しむのだそうです。

これが、いわゆる「地獄」というものとして語られているものと似たものだとしてもいいのかもしれないですが、シュタイナーによれば、

この欲界の苦しみは、その人の生きていた時の欲望の度合いに応じる

となっていて、また、その「滞在期間」についてもふれられていて、

人生の3分の1の長さ

だけ滞在するのだそうです。

たとえば、75歳で亡くなった人なら、25年間。

ヤシンタは 10歳で亡くなっていますので、3年ほどですね。

しかも、ヤシンタは、自分の課した禁欲的生活で、多分、物質的な欲望も、生への失着の欲望もあまりなかったと思いますので、少なくとも「生きていた時よりはずっと苦痛の少ない状態」で、3年と少しを欲界で過ごした後、つまり、1923年の夏頃には、その欲界を抜け出していたはずです。

ただし、次の世に生まれる、すなわち、シュタイナーの言う「再受肉」の時期はその時期というわけではないようです。

このあたりは、何だかいろいろ難しいのですが、「地球の状態は 2160年で大きく変化する」とのことで、その 2160年の中で「2回受肉をする」とのこと。

つまり、次に生まれかわるまで千年くらいかかるということのようです。

「苦痛の中で人間は完全に近づく」ということがあるのなら、ヤシンタは、相当、完全に近い人間として、次の世で、彼女は素晴らしい人生を過ごすことになると思います。

その時には歌と踊りを忘れないでほしいですが(ただし、シュタイナー説から見ると、ヤシンタは次は男性として生まれます)。

この欲界を通過した後に、いわゆる私たちが「天国」というような概念でとらえている場所に行くらしいのですが、面白いのは、シュタイナーは、

「天国」とは、「人間として誕生する瞬間」

だとしている点です。

つまり、来世に生まれた瞬間が天国に至った瞬間だと。

ただ、このシュタイナーの「誕生の瞬間」という言葉は、少し気になるところがあって、

「じゃあ、誕生しなかった子たちは?」

とも思ったのです。

ファティマの聖母から知る「永遠の地獄」への序章(2) - 毎年5千万人の赤ちゃんが「生まれてこない」現代社会の中のロシア由来のカタストロフ
 2015年03月16日

の後半に記した、「毎年、世界で 5000万人ほどの赤ちゃんが生まれてくることができない」というのが現代の社会でもあるのですが、この子たちは? とかは思います。

それでも、シュタイナーのこの輪廻転生のメカニズムを信じるならば、たとえば、生まれてすぐに亡くなってしまった赤ちゃんたちは、「(欲望がないから)苦痛もなく」、「時間的にあっという間に」この欲界という地獄を抜けられるのだろうということは、何となく救いを感じました。

生前のヤシンタの苦悩を思い、落ち込んでいたりした私でしたが、まあ、そう落ち込むことでもないのかなと思えただけでも、今回はシュタイナーに感謝しておきたいと思います。そして、もちろん、ヤシンタにも。

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2015年05月07日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





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▲ クリミア戦争で兵舎病院で負傷者たちを看護するナイチンゲール。Wikipedia より。


今日はまた病気の話になると思うのですが、先日の、

着々と「太陽黒点ゼロ時代」へと進んでいく中、この先の時代はどのようなものになるかをチジェフスキー博士の研究に求めてみました
 2015年05月01日

という記事に、「着々と太陽黒点が少なくなり、活動も低下し続けている」というようなことを書いたのですが、それどころではなく、太陽活動がまた大きくなってきましたので、そのことに少しふれておきます。



太陽は休まない

どうやら、直近では、太陽黒点は上の記事を書いた日が「底」だったようです。

下の赤丸で囲んだ「太陽黒点数 13 」という日が上の記事を書いた日です。

ss-13-0501.gif
NICT

その翌日から、下のように、次々と新しい黒点が発生したり、太陽の裏側から回り込んできたりで、結局、5月5日には黒点数は、「 100個目前」という、またも大変活発な動きとなっているのです( 5月6日には 110個になりました)。

ss-99-0505.gif


しかも、その 5月5日には、黒点群 2339で、Xクラスの太陽フレア( X2.7 )が発生しています。

x2-0505.jpg

▲ 2014年05月06日の Spaceweather より。


この大きなフレア自体は、地球方面に向いていませんので、特に影響はないですが、この黒点群は、「これから地球方面に回り込んで来る」ものですので、今度は、しばらくは太陽フレアと CME (コロナ質量放出)を気にしなければならないこととなってしまいました。

すでにXフレアを発生させた活動領域なら、今後も大きなフレアを発生させる可能性が高いですし、今後1週間くらいは、またいろいろと混乱に陥らなければいいですが。

黒点が多くなると、やはり社会が荒れるのですよね。

さて、ここから今回の本題です。




病気の本質

最近、いろいろと本を読んだりしている中で、多くの人たちが言うことが、「大体同じ方向にある」ことを知ります。

それは、「病気も健康もどちらも自然の働きである」というようなことと関係しているのですが、最近、ナイチンゲールという看護の始祖が自著に書いていた内容を知りました。

そこにある一節が、日本最初の整体師である野村晴哉さんや、あるいは、生涯にわたり医学の研究も続けていたシュタイナーや、あるいは、中村天風や森田正馬博士や、他にもいろいろな方がいますが、その方々の言っていたこととほとんど同じであることに気づいたのでした。

ナイチンゲールは、『看護覚え書』( 1860年)の中で、あとで、ちゃんと抜粋いたしますが、

「病気というものは、回復過程である」

としていて、病気は自然の法則(彼女は「神の法則」と言っています)であるから、看護というのは、

「自然による回復過程の邪魔をしないこと」

だと述べているのです。

これはまさに、

風邪の因果で思い出した「高熱と成長」のこと
 2015年04月22日

という記事などでふれた、野村晴哉さんの『風邪の効用』( 1962年)にある、

病気が治るのも自然良能であり、病気になるのも自然良能です。

という概念と同じです。

「良能」という言葉は「生まれながらに持っているすぐれた能力」(コトバンク)ということですので、野村さんは、「病気になることは、人間が生まれながらに持っている自然の優れた能力である」と言っていることになります。

ナイチンゲールの場合は、その 100年前に同じことを言っているのでした。

野村晴哉さんの『風邪の効用』によって、はじめて私は、「風邪は体を治しているかもしれない」ということに気づいたのですけれど、「病気全体」となると、なかなか壮観です。

風邪については、実は、若い時から自分で何度もそのこと(風邪を引くたびに体が強くなっていく)を経験しているのに、野村さんの本を読むまで、そのことに気づいていなかったのでした。

病弱だった私自身が、「病気は悪い」という観念だけでグリグリになっていた。

ところで、この「ナイチンゲール」という人について、私は何となく勘違いしていまして、彼女のことにふれておきたいと思います。




ナイチンゲールという人の「天性」

この「ナイチンゲール」という人については、子どものころに、多分誰でも読まされるような「伝記」みたいなので知った記憶はあります。

しかし、それよりも男の子たちの間では「ナイチンゲールは無いチン・・・」で始まる駄洒落のほうが印象深いものかもしれませんし、あるいは、「ナイチンゲールは内藤陳ゲ・・・」というような駄洒落を言って、理解できない周囲の子どもたちから糾弾を受ける子どもたちもいました。

そもそも、ナイチンゲールの伝記の内容を、よくは覚えていなくて、「最初の看護師さん?」くらいの印象しかなかったのですが、ナイチンゲール - Wikipedia を見ますと、

東京都出身。プロレタリア文学作家内藤辰雄を父に持つ。7-8歳の頃には高円寺駅の前でゴザを敷き、父と共に読み古しの本の叩き売りをしていた。

高円寺? ああ、これは、内藤陳 - Wikipedia でした。

こういう間違いをそのままにしておくのは少し困りますね(野村晴哉さん風)。

さて、ナイチンゲールですが、1853年に始まるクリミア戦争で、英国軍に看護師として従軍し、そこでの活躍により有名になるのですが、何となくあるイメージ「白衣の天使」というようなイメージとは少し違い、Wikipedia によれば、ナイチンゲールという人は、


超人的な仕事ぶりと必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢により、交渉相手となる陸軍・政府関係者はナイチンゲールに敬意を示し、また恐れもした。

オールド・バーリントン通りにあったナイチンゲールの住居兼事務所は関係者の間で敬意と揶揄の双方の意味を込めて「小陸軍省」とあだ名された。



というような人だったようです。

そして、実際、彼女の手腕は、具体的な数値として達せられます(ナイチンゲールは、イギリスにおける統計学の基礎を築いた人でもあります)。たとえば、まだ細菌学が確立していなかった時代なのに、「感染症対策」において、他に類を見ない抜群の効果のある看護対策をとっていたこともわかります。

ナイチンゲールが従軍する前の 1855年までは、兵舎病院での死亡率は 42パーセントに達していたそうなのですが、


新陸軍省は、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。

兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。



この「死亡率を 42パーセントから、3ヶ月間で 5パーセントにまで減らす」というのは、看護の領域というより、これこそ医学だと思います。

というか、その時のお医者さんは何をしていたのかということにもなりますが。

「医学に最も必要なのは愛だけれども、そこに知恵と技術が伴わないと、人を助けることはできない」と言っていたのはシュタイナーですが・・・というか、誤った引用になると良くないですので、抜粋します。


1907年のシュタイナーの講演「病気と治療」より

だれかが脚を折って道路に倒れているとき、愛情に満ちた人々がその人のまわりに立っていても、その人を助けることはできません。

しかし、骨折の治療法を知っている医者がやってきて、知恵によって同情を行為へと移すことができると、骨を折った人は助けられます。

ものごとを認識し、何かをできる能力を持った賢者であることが、人を助けるために必要な基盤なのです。

かつて賢明な存在者たちが知恵を注ぎだしたので、世界には常に知恵が存在しています。知恵は頂点にいたると、すべてを包括する愛になります。愛が未来の世界で、私たちを照らすことでしょう。

知恵は愛の母なのです。知恵に満ちた精神は、偉大な治療家です。ですから、キリストつまり愛は、聖霊つまり治療する霊から生まれたのです。



最後のほうは、キリストなどという単語も出てきて、大変な展開となっていますが、いずれにしても、「愛に満ちているだけでは治せない」ということを言っていると思います。

ナイチンゲールは、「衛生と感染症の関しての知恵があった」ので、英国軍兵舎病院の死亡率を 42パーセントから 5パーセントに下げることができたということなんでしょうけれど、それにしても、まだ、微生物学が確定していなかった 1855年に、なぜナイチンゲールが、「衛生の方法」ということを知り得ていたのかは、なかなかの謎です。

微生物学の歴史 - Wikipedia を見てみますと、

1857年 - ルイ・パスツールが「すべての発酵過程は微生物活動に基づくものである」ということを発表した。

1876年 - ロベルト・コッホによって炭疽の原因となる細菌(炭疽菌)が分離され、その病原性が証明された。

とあり、ナイチンゲールが英国陸軍省に兵舎病院の衛生改善を申し出た 1855年頃は「感染症が細菌から起きる」という観念は一般的ではなかったと考えるのが妥当です。衛生状態をよくすることが死亡率の低下につながるという概念も一般的ではなかったように思います。

また、医者にもその概念がなかったから、医者は死亡率を下げられなかったとも考えられます。しかし、ナイチンゲールは気づいた、と。

いろいろと立派な人はこの世にいますけれど、偉人としてあげられる人たちには、何らかの「天性」があるのかもしれないですね。

ただ、ナイチンゲールは、晩年は苦しかったようです。


37歳(1857年)の時に心臓発作で倒れてしまい、その後は慢性疲労症候群に由来すると考えられる虚脱状態に悩まされた。死去するまでの約50年間はほとんどベッドの上で過ごし、本の原稿や手紙を書くことが活動の柱となった。


さて、そのナイチンゲールの『看護覚え書』からです。



ナイチンゲール『看護覚え書』( 1860年)より

およそ病気というものは、その経過のいずれの期間においても、多かれ少なかれ回復過程であり、それは必ずしも苦しみを伴わない。

つまり病気とは、何週間、何ヶ月、時には何年も前から起こっていながら気づかれなかった病変あるいは、衰弱の過程を修復しようとする自然の努力のあらわれであり、その病気の結末は、病気に先行する過程が進行している間にすでに決定されている。

自然によってすすめられる病気という回復過程は、「新鮮な空気、陽光、暖かさ、静けさ、 清潔さ、食事を与える際の規則正しさや世話」が欠けることによって、「妨害され」、その結果「痛みや苦痛、あるいは過程そのものの中断」 がおこる。

看護としてなすべきことは、自然によってすすめられる回復過程を邪魔している要素を取り除くことである。

自然による回復過程の「邪魔をしないこと」、それは回復を促す自然のはたらきに従うということを意味する。自然のはたらきに従うということは、自然法則、われわれの身体と、 神がそれをおかれたこの世界との関係について神が定めた法則に従うことを意味する。



ここまでです。

ちなみに、

> 自然によってすすめられる回復過程を邪魔している要素

とありますが、現代で当てはまる最大のものが「薬」だと私は考えます。

ナイチンゲールは、つまり、「回復過程=症状を無理に抑えてはいけない」と言っているわけですが、現代医学はその逆の方向にあります。



「病気」に関してのナイチンゲールから後藤艮山までの系譜

看護師の始祖であるナイチンゲールは、

> 病気とは、衰弱の過程を修復しようとする自然の努力のあらわれ

であると言っています。

そして、日本の整体の始祖である野口晴哉さんは以下のように語っています。


野口晴哉『風邪の効用』( 1962年)より

病気が治るのも自然良能であり、病気になるのも自然良能です。

新陳代謝して生きている人間に建設と破壊が行われるのは当然ですから、建設作業だけを自然良能視しようとするというのは、破壊を恐れ、毀(こぼ)れた体のまま無事を保とうと考える臆病な人間です。

生命を保つためには自然のはたらきを活かすことの方が、人智をつくすより以上のことであるということを考えてみるべきでしょう。



シュタイナーも、1928年の講演で、ほぼ同じことを述べています。


シュタイナーの 1928年のイギリスでの講演『病気と治療』より

今日、すでに人間は、医学においての認識の限界にいたっています。「病気とは、何なのか」という問いに、今日の科学的認識は、どのようなものでしょうか。

それは頭の先から足の先まで、自然のプロセスです。

では病気のとき、肝臓、腎臓、頭、心臓で生じるプロセスはどのようなものでしょうか。自然のプロセスです。健康なプロセスは自然のプロセスです。病気のプロセスも自然のプロセスです。



また、江戸時代の医者に、後藤艮山(こんざん)という人がいたそうなのですが、この人は、

「瞑眩せざれば病は癒えず」

と言っていたそう。

瞑眩(めんげん)というのは、一般的な意味では「めまい」となりますが、日本や中国の医学では、「好転反応」のことだそうで、つまり、熱が出たり、発疹ができることです。

また、今では「毒出しの際の反応」という意味でも使われているようです。

後藤艮山の「瞑眩せざれば病は癒えず」というのは、つまり、高熱や症状があれば、病は治るという意味でよいのだと思われます。

と、ここで、これは、ナイチンゲールの「病気は回復である」と同じ意味であることに気づきます。

まあしかし、この「瞑眩」という言葉、めまいそのものの意味でもあるわけで、私も、相変わらずめまいはそのままなんですが、これも「回復である」というようにとらえるのがいいのでしょうかね。

野村晴哉さんは、「健康も病気もどちらも自然良能である」と言っていましたが、森田療法の森田正馬博士も『神経質の本態と療法』の中で、

頭痛、眩暈も、必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。

と言っています。

「自然に従う必要性」を、森田博士は強く述べます。

あるいは、ジャイアント馬場師も以下のように言っています。

「成り行きと言うと無責任なイメージを持つけど、これほど強いものはない。つまり、自然の流れに逆らわずに正直に生きるってこと」Naver

baba1.jpg
Yahoo!


ついに、稀代の看護師であったナイチンゲールから、稀代のプロレスラーであったジャイアント馬場という「二大師」がつながったようです。

ちなみに、江戸時代の後藤艮山のことを知ったのは、免疫療法をおこなっていた福田稔医師(昨年亡くなられました)の以下のブログででした。「熱は最高の治療者」であることがここでも書かれます。


高熱は急激に治癒力を上げる最強の反応
薬のいらない人生 2015.03.19

「瞑眩(メンゲン)せざれば病は癒えず」これは江戸時代の名医・後藤艮山が残した言葉であり、私の座右の銘の一つです。

一般に好転反応と呼ばれることの多い瞑眩は、血流が回復する際に生じる、毒だし反応を示します。体内にたまった毒が排泄される過程にでは、多かれ少なかれ発熱、湿疹などの不快な症状を伴います。

しかし、そこを乗り越え、体が浄化されないと、持ち前の治癒力(免疫力)を発揮できません。瞑眩が起こらなければ、病気は治らないのです。

体は、毒出しを助ける治療を求めています。しかし、体に備わる治癒力を軽視してきた現代医学には、瞑眩という概念はありません。

そこで、湿疹や発熱などの瞑眩を悪者として不要な治療をくり返し、逆に体の毒を増やして、治るはずの病気を治らなくしているわけです。

今、私たちに必要なのは、こうした過剰な医療からの自律です。



この福田稔医師は「医学は薬からの脱却が必要」ということを強く主張していた方で、亡くなったことは残念ですが、今は同じような主張を持つお医者さんがわりとたくさんいることも最近知りまして、それが全体のムーブメントになるかどうかはわからないですが、少しずつでも変わればいいと思います。

ナイチンゲールさんの言っていた「病気は回復である」という概念を無視して、「とにかく症状を消せばいい」と走ってきた西洋医学の結末は、下のグラフでも一目瞭然だと思います。

dr-01d.gif
厚生労働省


このグラフが示す事実の意味を考える時期ではないでしょうか。

医療技術は日々進んでいるのに、病人と病死が増え続けている」という意味をです。

このグラフは、今の医学が「基本的には病気を治していない」ことをよく示していると思いますし、そしておそらくは、「現代の医学がむしろ病気を増やしている面もある」ことは、先月の、

健康ブームの中でガンが増え続ける理由…
 2015年04月10日

などでも書きましたように、ある程度は間違いのないところのようにも思います。

なお、私は「治療しないのがいい」とは、まったく思っていません。

最近は、「病気は放置するのがいい」というような主張もあるらしいのですが、今回の記事に出てきたナイチンゲールやシュタイナー、野口晴哉さんたちのように「治療」を一生懸命考えていた人たちを見ますと、「治療」は大事なことだと思います。

現代の西洋医学には、その「根本」に過ちにも似た考え方がありそうで、そこを修正することができれば、日本には素晴らしい設備と、高度な医療技術と、あるいは人により残っている「医道」の精神が、きっとあるのですから、治療をとんでもなく良い方向に軌道を変えられる可能性はあるのではないでしょうかね。

今、上のグラフを下向きに変えられるかどうか、ギリギリのところにいるような気がしています。

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2015年05月05日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





Flowering-desert-01.gif

▲ 2015年05月03日の南米チリの 24horas より。アントファガスタ県は、アカタマ砂漠を有します。


世界最下位を更新中の日本の子どもの比率

今日は、こどもの日ですけれど、ニュースを見れば、


子どもの数 34年連続の減少
NHK 2015.05.04

5日は「こどもの日」です。総務省の推計によりますと、先月1日現在の15歳未満の子どもの数は、過去最少だった去年よりも16万人少ない、およそ1617万人で、34年連続の減少となりました。


というのが報じられていました。

子どもの数自体も、毎年減り続けているのですが、「人口に占める子どもの割合」がすごい。

全人口に対しての子ども( 12歳まで)の占める比率が、約 60年間で「3分の1」になっています。

kids-2014b.gif
朝日新聞

グラフを見ると、1970年代には、子どもが増えていた時もあったようですが、1980年代からは一直線に「減少のみ」となっています。1980年代からの 30年間で、大体 1,200万人くらい、子どもの数が減っている計算になりますかね。

日本の未来 : 子どもに関しての、そして、高齢者に関しての統計データから受けた衝撃
 2015年01月28日

という記事で、日本は「人口に占める 15歳以下の子どもの率では世界最下位」であることなどもご紹介したことがあります。

子供の人口の割合ランキング(191カ国中)
under-15b.gif
WHO 子供(15歳未満)の人口の割合ランキング・国別順位

これは 2010年の時点の調査ですが、ドイツ、日本、カタールの3カ国が 191位の最下位で並んでいました。ししかし、日本の今年の子どもの割合は、NHK によれば、

去年を0.1ポイント下回る12.7%

ということですので、その後のドイツとカタールの人口動勢次第では、単独での最下位になっているかもしれません。

ちなみに、日本は「人口に占める 60歳以上の割合」では、世界一位です。

60歳以上の割合ランキング(191カ国中)
over-60b.gif


これも、今年はさらに引き離した一位になっていそうです。
ここまでくると、日本は、単なる少子高齢化ではなく、「超少子化」であり、「超高齢化」であるといえそうです。

なんかもう日本すごいですね。

このあたりは、もう行くところまで行くしかないようにも思えてきます。

何しろ、34年間もこの傾向がノンストップで続いているということは、対策も政策も効果がないということでもありそうで、とにかく、「弾ける」ところまで進むしかないのかもしれません。

さてしかし、何事も「良い→悪い」、「悪い→良い」というのは循環しているものなのかもしれないと、最近よく思うのですが・・・というか、「そもそも悪がなければ、善は生まれ得ない」というようなことも含めて、たとえば、過去記事の、

ローマ字「 TASUKETE (たすけて)」から偶然導かれた日月神示や神様と悪魔の関係…
 2014年07月26日

に小説『エクソシスト』に登場する悪魔払い師、メリン神父の悪魔の所業に対しての以下の台詞を記したことがあります。

「このような悪からでさえ、善が生じてくる。なんらかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ。……おそらく、悪こそ、善を生み出す『るつぼ』であるからだろうな」

このような言葉も、最近は別の意味で改めて強く響くのです。

あるいは、日月神示の、

第21巻 空の巻 第八帖

悪も元ただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ

などもそうですが、冒頭に貼りましたアタカマ砂漠の報道と写真もそのような示唆を含んでいます。




アカタマ砂漠の未曾有の災害が生み出したもの

3月の終わりに、

世界で最も雨の少ないチリのアタカマ砂漠が「1日で7年間分の雨」に見舞われ大洪水…
 2015年03月30日

という記事を書いたことがありました。

今年の3月の終わり頃は、南米の天候がカオス化していまして、以下のようなことが立て続けに起きていました。

south-america-03c.gif
・Google Map

この中の、「チリのアタカマ砂漠で、半日で7年間分の雨が降り、大洪水」という出来事。

アタカマ砂漠という場所は、アタカマ砂漠 - Wikipediaに、


世界でも最も乾燥した砂漠であり、40年間まったく雨が降らなかった地域もある。


と記載されているような場所なのですが、そこで、記録に残っている歴史の中では起きたことがないのではないかというような、信じられない豪雨と大洪水に見舞われるという出来事が起きたのです。

少なくとも、7名の方が亡くなっています。

3月25日のことでした。

洪水で破壊された町
atacama-floods-01.jpg
euronews


この洪水は、大変な被害をアタカマ砂漠の周辺に残したわけですが、冒頭のチリの報道は、以下のようなものでした。


アントファガスタ(アタカマ砂漠を有する県)では、3月の豪雨の後、植物の芽が出始め、その後、砂漠の丘一面が「花が咲き乱れる砂漠」となり、異常な量の花が咲き乱れ、砂漠一面が緑になった。


ということなのだそうなのです。

つまり、あの壊滅的な洪水が、「花の園と化した砂漠」を導いたのでした。

基本的には年中不毛な、いつもは下の写真のようなアタカマ砂漠。

いつものアタカマ砂漠

atacama-desert.jpg
Fodors

それが現在は、どのくらいの範囲の地域でだかは報道に記載されていないのでわからないですが、少なくとも、アタカマ砂漠の一部は下のようになっているのでありました。

現在のアタカマ砂漠

Flowering-desert-p1.jpg
24horas


Flowering-desert-p2.jpg


Flowering-desert-p3.jpg


ちなみに、この現象は、フラワーリング・デザート( Flowering Desert / 花咲く砂漠)と呼ばれるものだそうです。

洪水は確かに大きな災害なのですけれど、その後に、ふだんそこにはない美しい光景が現れる、という出来事に何となく思うところがあったのでした。




苦痛に満ちているように見えるところでも、世界は叡智に満ちている

ところで、最近は、日々の出来事の中に、

「悪の中に善を見出すことができるかどうか」

ということを意識したりしますが、シュタイナーは「心魂の調和を築く方法」として、その中に、「肯定的な態度の練習」というものを挙げています。

つまり、「あらゆる存在や事物、経験に対して、善いところや優れたところ、美しいところ、つまり肯定的なものを探し出す練習」ということで、たとえば、シュタイナーは『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』に収録されている講演で、以下の例を挙げています。


この心魂の特性は、イエス・キリストに関するペルシアの伝説に、最もよく述べられています。

イエスが弟子たちとともに歩いているとき、彼らは道端に腐敗した犬の死体を見ました。弟子たちはみな、嫌な光景から目を背けました。ただイエス・キリストだけが立ち止まって、感慨深く、その犬を見つめました。

そして、「なんて美しい歯だろう」と、言いました。ほかの者たちが醜いもの、嫌なものを見たのに対して、イエスは美しいものを探したのです。



というものです。

この「肯定的な態度」は、ものごとだけではなく、すべてのこと、すなわち、経験、感情、出来事などに対しての練習だそうです。

この「肯定的態度」は、さきほど書きました、

・悪こそ、善を生み出す(メリン神父)
・悪憎むでないぞ(日月神示)


というようなところとも基本としては似たものだと思います。

そして、たとえばですが、最初に書きました、「日本の少子化」の中に、何か善いところや優れたところや美しいものを見いだせるか・・・というようなことでもあります。

あるいは、今、箱根山( 3000年噴火していません)の群発地震がえらいことになっていて、この1ヵ月で、そろそろ「 1000回の群発地震」というようなことになっていますが、こういうことに肯定的な見方をすることはできるのかな、と。



1000回の群発地震の渦中の箱根山

hakone-0505.gif

▲ 2015年05月05日の 神奈川県温泉地学研究所 最新の震源分布 より。


特に、ここ数日の増え方はかなりのもので、昨日 5月4日が下のように 762回でしたので、昨日から今日で 214回も地震が発生していたことになります。

hakone-eq-0504.png


これが噴火と関係しているものなのかどうかはわからないですが、何にしても、私たちは昨年の御嶽山の噴火を経験したばかりです。つまり、「突然噴火する」ということを見ているわけで。

そして、このような箱根山の群発地震にも、不安や心配ではなく、何か善いところや優れたところや美しいものを見いだせるか・・・ということです。いや、見いださなければならないというのが、シュタイナーの主張なのでしょうね。

というわけで、また話が逸れてしまっていますが、先日の、

ネパール大地震での上層大気圏に変化から見る「地震の原因は宇宙にある」こと。そして、恐怖からの解放について「倉田百三氏との苦痛の同体験」
 2015年05月03日

という記事の最後のほうに書きました、シュタイナーが「苦痛」に関して述べた講演を抜粋して、今回は締めたいと思います。

この中に、


私たちの中にいる賢明な者が、常に私たちを苦痛へと導いている。


という内容があり、ちょっと圧巻だったと同時に、目からウナギが落ちた感じでした(こわいわ)。

では、ここからです。



シュタイナー『運命にどう向きあうか』(1912年の講演)より


業に向かい合うと、「私たちが出会う苦痛は、すべて私たちの不完全さが求めたものだ」という確信にいたります。すなわち、私たちが前世から持ち越してきた不完全さが、苦痛を求めたのです。

そのような不完全さが私たちのなかに存在するので、私たちよりも賢明な者が私たちの内におり、苦痛への道を探し求めるのです。「私たちよりもずっと賢明な者が私たちの内にいる」というのが、人生の秘密です。

私たちが通常の生活で、「私」と言っているものには、賢明さが欠けています。この「賢明さの欠けている者」は、放っておくと、苦痛を求めたり、快楽を求めたりします。

「賢明な者」は、私たちの通常の意識が入っていけない、意識の深みに安らいでいます。この賢明な者は、軽々しい快楽から私たちの目をそらせます。

そして、私たちが知らぬ間に、苦痛への道を進む不思議な力を、私たちの内に燃え上がらせます。「私たちが知らぬ間に」とは、どういうことでしょう。

賢明な者は、賢明さの欠ける者よりも力が大きいのです。

賢明な者が不完全な私たちのなかにおり、常に私たちを苦痛へと導いていきます。私たちは内的および外的な苦痛によって、自分の不完全さを取り除き、自分を完全にしていけるからです。

人生の特別な瞬間なら、

「外部の騒がしさ、および騒いでいる私を度外視しよう。私の苦痛に目を向け、内なる賢者が不思議な力によって私を苦痛に導いたのを感じよう。私が不完全さを克服していないので、苦痛が課せられたのだ」

と、私たちは思うことができます。

そうすると、「苦痛に満ちているように見えるところでも、世界は叡智に満ちている」と、感じるようになるでしょう。

このようなことを、繰り返し訓練すると、私たちの心魂のなかに種子のようなものが撒かれるのが分かります。

そして、私たちの内にある陰鬱な感情、虚弱な気分が、明朗な気分、力の感情に変化します。人生の特別の瞬間から、調和的な心魂と力強い人間が現れてきます。

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2015年04月29日



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528Hz周波数が水に描く紋様
528hz-water-sound.jpg
528 hz frequency cymatics in water



ささやかな激動期だったこの1ヶ月

先月、人生最初の講演会をしてから1ヶ月ほどになりますが、その講演会は、何といいますか、私自身にとって、重要な偶然や出会いのキッカケや始まりとなった日でした。

そして、それからの1ヶ月は、私にとって特別な1ヶ月だったといっていいと思います。

講演会の時のことは、

宇宙の創造…ひも理論…432Hz…528Hz…ライアー…:数々のシンクロの中で、この世の存在は「音そのもの」であるかもしれないことに確信を持てそうな春の夜
 2015年03月22日

という記事に書きましたが、講演会の日に、主催のヒカルランドの社長さんから、音の周波数とこの世のなりたちについて記されている『ウォーター・サウンド・イメージ』をいただいたり、あるいは、講演会に来ていただいていた、ライアーの演奏ユニットでらっしゃる、リラ・コスモスさんから演奏 CD をいただき、ライアーの存在と、その音色を知ることができたというのも大きいです。

それ以来、私の BGM には、ライアーの音楽の占める割合がとても多くなっていて、自然とそうなっているということは、体というか心というか、求めている部分があるのだとも思います。



薬の真実も知り

その少し後に、偶然「薬の作用の真実」を知る機会に恵まれます。

昨年以来、どうも、めまいやら胃の不調やら神経症的なものやら、たびたび体調や神経的な問題に見舞われていた際、その度に薬でごまかしていたのですが、

「こんなんでいいのだろうか」

と考えながら道を歩いていた時、ふと目にした「自律神経免疫療法」の研究をされている医師の方々が記したムックを偶然手にして、それによって、薬(西洋薬)が体に及ぼす「負のメカニズム」をはじめて知ることになりました。

その際に知ったのは「抗コリン薬」という、風邪薬を含めた多くの西洋薬について「免疫を落として病気を難事化させる可能性」についてでしたが、その後、

・ベンゾジアゼピン系(抗不安剤や抗うつ剤の一部)
・抗うつ剤
・降圧剤


なども、どれも基本的に「とても体や脳に悪い」ということも知りました。

また、それらのことは、私自身の幼少時からの体験とも合致し、経験上からも「ほぼ間違いない」といえるところにいます。

ここではそのメカニズムには詳しく触れませんが、それぞれ、過去記事の、

ブラック・フラミンゴが現れた地球。そして、数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本
 2015年04月12日

健康ブームの中でガンが増え続ける理由…
 2015年04月10日

に記しました。

皮肉なデータもいろいろと目にしました。たとえば、 1980年代くらいからは健康ブームが盛り上がり、それ以前よりも人々が健康に気を遣うようになりました。

多くの人たちがタバコをやめたり、数多くの健康食品が出現し、あるいは、不調の場合には病院にすぐに行き、すぐ薬を処方されるようになったのですが、その 1980年頃から、

「むしろ病気での死亡者数と認知症の患者の数は急速に増えている」

ということが、厚生労働省のグラフから明らかになっています。

dr-01c.gif
厚生労働省


これらには、いろいろな要因はあるにしても、その根本には「日本人の自己免疫の低下」があることは間違いないと思われます。そして、その免疫の低下に「薬」と「食品の問題」が、少なからず関係していると確信するに至っています。

特に、「毎日飲むような日常の薬」に問題がありそうです。

それほど気に留めないで飲んでいる睡眠薬や抗不安剤。
まわりもみんな飲んでいるから、と飲み続けている降圧剤。
ちょっと落ち込んだ時に処方されて、漫然と飲んでいる抗うつ剤。


こういうものが、どれだけ私たちの細胞や免疫システムにダメージを与えているかということが、このトシになってやっとわかったのでありました。

私も何も知らなければ、たとえば、医者に「血圧が高いですね。降圧剤でも飲みますか」と言われて、自覚なく、「はあ、そうですか」とか言って飲んでいたかもしれません。

降圧剤のうち、現在使われている「カルシウム拮抗剤」という種類の降圧剤では、体のすべての細胞の「カルシウムが通る穴」を閉じてしまい、免疫細胞の機能まで弱まってしまうことが問題で、それが「ガン細胞が排除されない原因となる」と、関東医療クリニックの松本光正医師は述べています。

あるいは、細胞の機能を弱めるようなものを飲み続けると、いつかは脳細胞に問題が出るのではないか、ということも含めて、脳や認知の働きにも関係するのではないかと私は思っています。

しかし、現実として、日本人の成人のうちの4に1人が降圧剤を飲んでいる
高齢者に限れば、もっと高い比率で飲んでいるかもしれません。

まあしかし、薬のことは今回は関係ないですが、この1ヶ月、

・音にまつわること
・薬にまつわること


のシンクロが次々と起こり、その中で、いろいろな本とも出会ったのですが、たとえば、その中の、

・シュタイナー(神秘思想家、医学研究者、他)
・森田正馬(森田療法を生み出した精神科の医師)
・中村天風(日本最初のヨガの行者)
・野村晴哉(整体の始祖)


あたりの人たちは、共に思想の出発点はまったく違うわけですし、何より、学問や探究の対象そのものがまったく違うものなのにも関わらず、

「ときとして、同じ思想に辿り着いたり、同じ発想の展開を見せる」

ことに、この世の興味深さを知った次第でした。

その中でも、今回は「恐怖」について、自分に向けた内容も含めた記事を書こうと思っています。




恐怖は無価値な観念だとは知ってはいるけれども

これの「恐怖との対峙」に関して、私は、2週間ほど前に、

自分が「今生」に生まれた理由がやっとわかったのは嬉しいけれども、恐怖と不安からの解放の前に立ちはだかる「西洋科学的思考」
 2015年04月17日

という記事を書きまして、私が今の「生」の中でおこなわなければならないことは、

「生まれた時から持つ根源的な恐怖と対峙して、これを消し去る」

ことだということに何となく気づいたことを書きました。

しかし、そこにも書きましたけれど、これほど難しいことはあまりないのです。

大人になってから体験の中で築かれた恐怖ならともかく、まだ何の経験もない幼い頃から、私は「意味のわからない恐怖」を持っていまして、そんな生まれて以来持つものを簡単に消し去ることなど、不可能に近いです。

私がシュタイナーの言う「輪廻転生」的な部分に、やや共鳴できるのは、そのことがありました。

つまり、

「生まれながらに得体の知れない恐怖を持ってるって変だろ」

ということです。

「恐怖遺伝子」なんてのがあるならあれですけれど、まさか胎内で親の持つ恐怖感が伝染するというわけでもないでしょうし、私の根源的な恐怖は「前代(前世)」からの引き継ぎであると考えてもいいのかなと思うこともあります。

しかも、「〇〇が怖い」という理由があったり、ガイコツやモンスターが怖いというような、誰にでもあるような観念なら問題ないのですが、私の場合は「恐怖の対象が何なのだかわからない」のです。

幼稚園に入る頃から「怖い対象が何もないのに、突然、恐怖にとらわれる」ことがよくありました。

道で突然、怖くて歩けなくなる。

あるいは、その後、「夜驚症」というものにもなっています。

夜驚症 - Wikipedia

夜驚症(やきょうしょう)とは、睡眠中に突然起き出し、叫び声をあげるなどの恐怖様症状を示す症状のことである。概ね数分から十数分間症状が続く。

夢とは異なり目覚めた時に本人はそのことを覚えていないのが普通である。小学校入学前から小学校低学年の児童に見られる症状であり、高学年以上では稀である。睡眠中枢が未成熟なために起こる症状であると考えられている。

上には、

> 目覚めた時に本人はそのことを覚えていない

とありますが、私は夜驚症の中のいくつかを覚えています。

というか、妙な書き方ではあるのですが、夜驚症で恐怖に苦しんで叫んで走り回っている自分の姿を「客観的に見ていた」ことを覚えています。

まあ、小さな頃のことなので、そのような思い込みだったのかもしれないですが、今でも恐怖で叫んでいる自分の姿を思い出して切なくなります。

夜驚症は、こちらによりますと、アメリカのデータで、繰り返し起こしている率は、児童全体の 5%くらいということで、特に少ないというわけでもないようです。

私の場合は、8歳くらいまでには収まっていたと記憶しています。

ただ、今でも思い出しますが、発作の前に、眠っている目の前に「針が突き出たような大地」が広がり、それがガーッと広がっていった光景を思い出します。その光景が何だかわからないのに、怖ろしくて怖ろしくてどうにもならない。

夢遊病的なものを想像される方もいらっしゃるかもしれませんが、認識はしっかりしているのです。日常の光景は普通に目に入っています。ただ、その光景が「その前にベールのようにある光景の奥に広がっている」という感じです。恐怖の光景の後ろに、心配そうな父と母の顔や、部屋の様子など日常が広がっている・・・。

まあ、夜驚症はともかく、そのように、いろいろと「恐怖」についての症状は多かったのですけれど、ちなみに、小学校の・・・何年生だか覚えていないですが、「作文」で、この「根源的な恐怖」をテーマにしたものを書いたことがあったんですが、先生からは「書き直したほうがいいのでは」と言われたことを思い出します。

教師さえも目を背けるイヤな内容だったのかもしれません(笑)。
でも、その時は「書き換えません」とお断りしました

そして、大人になってからは、不安神経症とパニック障害という「恐怖の権化」のようなものにも囚われまして、二十代の私を「ベンゾジアゼピン薬漬け」としていきました。

そういう長い付き合いのある「恐怖」ですから、そう簡単に、どうこうできるものではないのは確かなのですが、最近読んだどの人の本にも、


恐怖観念ほど無価値で無意味なものはない。


という主旨が述べられています。

シュタイナーは、恐怖心や臆病な心は「克服しなければならないこと」としています。

著作『いかにして高次の世界を認識するか』の中で、シュタイナーは、不安や恐怖を持つ人は、常に下のように考えることが重要だとしています。

「あらゆる観点から見て、私が不安を抱いても、何の役にも立たない。私は一切不安を抱いてはいけない。私は、自分は何をするべきなのか、ということだけを考えなくてはならない」

しかし、こう言われて、これだけで「はい、これで私は不安や恐怖を克服しました」と言える人は、多分、元々がすごい人であり、私のような人間には、このような言葉だけではどうにもならない面があります。

そこで、今回は、日本の賢者ふたりによる「不安と恐怖」についての文章をご紹介したいと思います。




不安や恐怖への対処

ここでは、薬を使わない強迫神経症の治療方法のひとつである森田療法の創始者である医学博士の森田正馬さんが昭和2年(1927年)に書かれた『神経質の本態と療法』からの抜粋です。

「神経質」というのは、今でいう神経症と、大体は同義だとしていいと思われます。

私は森田療法を受けたことはないですが、二十代の時に森田療法の本を読んで、ずいぶんと気が楽になった記憶があります。

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・森田正馬( 1874 - 1938年)


今回抜粋するのは、「恐怖」に限定したことではなく、様々な想念や出来事についてのことで、また、最近悩まされていた「めまい」という言葉も出ていたので、その部分を抜萃することにしました。

ちなみに、この抜萃部分は「神」という言葉から始まりますが、森田医師は基本的に、宗教的な意味での神という存在を信じません。森田医師は、神というのは「自然法則そのもの」だと考えています。



『神経質の本態と療法』 宗教的および哲学的説得 より

神、仏、真如とかいうものは、宇宙の真理、すなわち「自然の法則」であって、法そのものにほかならない。

真の宗教は、自己の欲望を充たそうとする対象ではない。神を信じるのは、病を治す手段でもなければ、安心立命を得る目的としてもいけない。神仏に帰命頂来(きみょうちょうらい)するということは、自然の法則に帰依、服従するということである。

因果応報を甘んじて受け入れ、周囲の事情、自己の境地を喜んで忍受(にんじゅ)することである。

われわれの血行も、心の中に起こる感情や観念連合も、みな法性(ほっしょう)であって、常に必ず自然の法則に支配されている。

夢も偶然の思いつきも、忘却も、執着も、みな必ずそれに相応する事情があってはじめて、そのようになるのである。頭痛、眩暈も、必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。

われわれはこの自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能として、それに服従することを正信(しょうしん)といい、因果の法則を曲げて不可能を可能にしようとし、我と我が心を欺き、弥縫(びほう)し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。

梨を「有りの実」といって金が儲かるかと思い、消化薬を呑んで大食し、一銭の賽銭で相場を当てようとするのはみな迷信である。

迷信と宗教とは、同一の起源から発生した双子であって、迷路と悟道とに分かれ生育したものである。生老病死の畏怖に対する「自己欺瞞」が「迷信」であり、自己没却が正信(しょうしん)である。瀆神恐怖、縁起恐怖等の強迫観念は、迷信の発生をほとんど典型的に示したものである。




ここに出てくる「法性」という言葉の意味は、辞書によりますと、

すべての存在や現象の真の本性。

ということだそうで、ここに「身」がつき、「法性身」という言葉になりますと、

仏陀の肉体に対して、その悟った真如の法を本性とする色も形もない仏。

という意味になるのだそう。

森田医師は、

> 必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。

として、

> われわれはこの自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能として、それに服従する

という心境に至ることが不安や恐怖の克服への道だというように説きます。

これは「苦しいことを無理矢理、楽しいと思え」ということではなく

「苦しいことを苦しいこととして受け止め、それ以外の何ものでもない」という状態を作り出す。

ということでして、まあ、つまり、森田医師は自らの患者に「悟り」に近い境地へと導いていたということにもなりそうです。

ちなみに、森田医師は別にヘンな出所の医師ではなく、現在の東京大学医学部出身の、完全なエリート精神科医で、森田療法に行き着くまでは、化学療法を含むさまざまな療法をおこなっていました。

しかし、それらのどれにも一時的な効果しかないことを体験し、その中で、森田療法に行き着いたのは、宗教的動機でも何でもなく、「医学的実験と医学的な試行の末」に行き着いた完全な「西洋医学」的なアプローチから生まれたものです。

それはともかくとして、森田医師の言う、

> 煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるもの

ということを理解するためには、過去記事の、

中村天風師の語る「極微粒子=気=創造主」の概念で 25年間持ち続けた「神様の正体のモヤモヤ」が少し晴れた日
 2015年04月14日

でご紹介した、日本最初のヨガの行者であった中村天風さんの、

たったひとつだけの宇宙の本源が森羅万象のすべてを生み出した

という言葉、つまり、「何もかもが、自然法則の支配の下にある」ということを、根源的に知る、あるいは「体全体で知る」ことができれば、少しは「恐怖」と対峙するための姿勢として、前に進めそうな気もするのですけれど。

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・中村天風( 1876 - 1968年)


中村天風さんの講演をまとめた『運命を拓く』から、宇宙の法則から見て、恐怖観念を持つことがいかに無意味なことかを語っている部分を抜萃します。



『運命を拓く』 恐怖への戒め より


恐怖観念、詳しくいえば、病はもちろん、人事世事一切の出来事に対して、物を怖れるという気持ちくらい、価値のない結果を人生にもたらすものはない。

ところが、今までのあなた方は、ちよっとでも体が悪いと、すぐおののき、怖れている。わずかな運命に見舞われても、それが、とてもどえらい運命になってしまうように怖れてしまう。毎日の人生一切の出来事に対して、この恐怖観念で応接しているという場合が多い。

このくらい、人生というものを哀れな状態にするものはない。なぜかというと、恐怖すればするほど、価値のない結果が人生にくるからである。

ベーコンという哲学者がいった言葉に、

「人の大いに怖るるところのものは必ず、遂に襲い来るべし」

というのがある。

これはまさに、このコンペンセーション(報償)の法則を、必然的のものであるという信念で、人生を考えている偉大な哲学者の言葉である。

何度も言っているとおり、宇宙霊という生ける大きな生命は、常に我々人間の心で思ったり、考えたりする事柄の中で、特に観念が集中し、深刻な状態の時に、その観念が、その事柄に注がれると、咄嗟にそれを現実の「すがた」に表現しようとする自然作用があるのである。

さあそこで考えてみよう。一生忘れないような深刻な記憶に出来るくらいに、瞬間的でも、観念が集中されたとすると、それが宇宙霊の力を受け入れる「鋳型」が用意されたことになる。

そのとき出来上がっている「鋳型」というものが、良かろうと、悪かろうと、極めて確実な「すがた」が出来上がったことになる。そうすると、その恐怖している事柄が、やがて事実となって現実化してくる。

否、むしろ、そうなることが当然である。

いずれにしても、感情というものは、その種類が、いかなるものであろうと、我々の肉体や、人格に影響せずにはいられないように出来ているのである。




というように、天風さんは、

「不安になるから、現実の不安がやってくる。恐怖するから、現実の恐怖がやってくる」

ということを言っています。

これは道徳的な道理に基づくのではなく、天風さんがインドの山奥で修行して行き着いた「宇宙の摂理」に基づく信念でもあります。

反対にいえば、

「不安にならなければ、現実の不安はやってこない。恐怖しなければ、現実の恐怖はやってこない」

ということにもなりそうですが、まあ、言葉としてはわかりますが、これはやはり難しいところです。

しかし、どんなことでもそうなんですが、「思考」や「思想」というのは、何だかあっけないほどの理由で気づかされることになるようなことも多いです。

そして、何より実は、私は、十代の時に「恐怖の解消」を1度経験しているのですよ。

だから、あの時の感覚はわかるのですが、年齢を重ねますと、体に染みついた恐怖の元型はさらに屈強に複雑になっている感じでして、「難治性の恐怖」ともいえるものはあります。

しかし、やはり、ここを越えなければならない、あるいは、「越えようとしたけどダメだった」という努力だけでもいいので、なにがしかを考えなければならないようです。

そして、できるだけ多くの方が、「不安と恐怖への呪縛」から解放されることが、多分、世の中的にも現実に良いことなのだと思います。

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2015年04月25日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





北海道で起きている「大規模な大地の隆起」

本題とは関係ないですが、今朝、下のニュースが報じられていました。

rausu.jpg
NHK

北海道の羅臼というのは、知床半島にある場所です。

知床半島といえば、森繁久彌が歌った 1960年の『知床旅情』で名高い場所ですが、この年は、東映サラリーマンシリーズの最高峰『サラリーマン忠臣蔵』が発表された年であり、森繁久彌にとっては公私ともに充実した時期だったといえるかもしれません(だからどうした)。

その知床の海岸で、何だか大変なことが起きているようです。下は、北海道新聞からです。


羅臼の海岸線、15メートル隆起? 長さ800メートル、幅30メートル
北海道新聞 2015.04.25

24日午後6時ごろ、根室管内羅臼町幌萌町の住民から「近所の海岸線が隆起しているようだ」との連絡が羅臼町役場に入った。

同町によると、羅臼町幌萌町の海辺が約800メートルにわたり、高さ約10〜15メートル、幅約30メートルの規模で盛り上がっているのを確認したという。



ということで、「 800メートルの範囲」と小さくはないです。

記事には、

> 近所の女性が24日早朝に訪れた際には約30センチの高さで土砂が盛り上がっていたという。

とありますので、「1日で 10〜 15メートル」海底が隆起してきたようです。

まだ起きたばかりで何がどうなるのかわかりませんが、この北海道の大規模な地盤の隆起、高さや広さが、この範囲だけで止まるのでしたらともかく、今後の動向が気になるところです。

昨日の記事でご紹介しました、ロシアの奇妙な大地の現象などもそうですが、いろんなことが起こりますね。

というわけで、今回の本題は、ニュース性があるものではないですが、最近「現代の医学の進んできた道は正しかったのだろうか」と思うことがたまにありましたが、ルドルフ・シュタイナーのいくつかの本を読んでいるうちに、

西洋医学は 500年以上も前から正しい方向ではない方へ歩んできた・・・かもしれない

ということがわかってきたような気がしたのです。



シュタイナーの守備範囲の広さ

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・ルドルフ・シュタイナー(1861 - 1925年 / 64歳没)

ここ3日ほど、シュタイナーの本が立て続けに届きました。

これらも、Amazon の「この商品を買った人はこんな商品も買っています」に、いろいろと表示されたものを購入してしまったものです。

それにしても、シュタイナーという人は、守備範囲の広い人で、届いたうちの一冊は、『音楽の本質と人間の音体験』というもので、タイトル通り音楽に関してのものです。

私は最初、「ふんふん、ま、音楽ね」と油断して読んでいると、音楽原理主義者ともいえるような、怒濤のごときシュタイナーの「音楽への熱い想い」がぶちまかされていて、圧倒されます。

音楽だけを一生涯研究し続けた音楽学者のごとき熱意が感じられるのです。

たとえば、「なぜ楽器が必要なのか」という、何だか軽くも流せそうな話題も、シュタイナーに語っていただきますと・・・。


『音楽の本質と人間の音体験』音楽教育の基礎より

人間の音楽的発展は、そもそもどのようなものでしょうか。霊的なものの体験から発するものです。音楽のなかに霊的なものが現存することから発するのです。霊的なものは失われ、人間は音の形象を保つのです。

のちに人間は音を、霊的なものの名残としての言葉と結び付け、かつてイマジネーションとして有した楽器を物質的素材から作ります。楽器はすべて霊的世界から取って来られたものです。

楽器を作るとき人間は、もはや霊的なものが見えなくなったことによって空になった場所を満たしたのです。その空の場所に楽器を据えたのです。

音楽においては、唯物論の時代への移行がどのようにおこなわれるかが、ほかの領域よりもよく見てとれます。楽器が響くところには、かつて、霊的な実在があったのです。

その霊的な実在は、古代の霊視力から消え去りました。しかし、人間が音楽的なものを客観的に持とうとするなら、外的な自然のなかにはないものを必要とします。外的な自然は人間に、音楽のための相関物を与えないので、人間は楽器を必要とするのです。



なんとなく、「ふーん、楽器ねえ」と、いい加減な気持ちで読み始めたところに、この得体の知れない情熱と迫力。

「この紋所が目に入らぬか!」

というような、水戸黄門が正体を明らかにした時のような圧倒感も感じます。

言っていることに関しては、

・楽器の音色の部分は、かつて「実際に霊的な何かが存在した」空間
・今はその霊的存在はないので、その空間を楽器(の音?)で満たしている


ということなのでしょうけれど、言っていることは、さっぱりわからないのですが、熱い部分は感じます。「熱血霊学教師」というような言葉も浮かびます。

今回は音楽の話を書くわけではないですが、このシュタイナーの音と音楽への執念というのは、

宇宙の創造…ひも理論…432Hz…528Hz…ライアー…:数々のシンクロの中で、この世の存在は「音そのもの」であるかもしれないことに確信を持てそうな春の夜
 2015年03月22日

という記事あたりから記していたこともあるような、

この世界そのものが音である

というような概念をくすぐる感じもあります。

音や「音楽の意味」については、私自身の考え方なども多少はありますので、また別の機会に書かせていただくとしまして、話をシュタイナーに戻しますと、「医学」についても生涯研究し続けていたようで、1923年にシュタイナーがイギリスでおこなった「人体と病気の過程」(『病気と治療』に収録)の中で、

「医学についてわたしは三十数年研究してきて」

と述べています。

1923年となりますと、シュタイナーの晩年にあたり、62歳くらいだと思いますが、それでも、三十数年ということは、二十代から医学を研究し続けていたことになります。

精神科学(霊学)、音楽、哲学、教育、芸術、建築… と、いろいろと幅広くやっていたシュタイナーですが、「医学も真剣かよ」と、その活動の多方面ぶりには驚かざるを得ません。



「異端」が作り出した道

そんなシュタイナーですが、その思想の根幹(霊学的な思想)にはいろいろと逆風があったようで、講演の内容の中には、「現状の科学界への不満」のような言葉が垣間見られます。

たとえば、1909年1月18日に行われた講演「実際的な思考方法」(『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』収録)の中で、シュタイナーは、「前世の存在」について述べた後に以下のように語っています。シュタイナーが 48歳の時です。


1909年のシュタイナーの講演「実際的な思考方法」より

「人間の存在の核は、前世に由来する」と見なす時代が、いずれやってくるでしょう。「人間存在は前世の成果である」と、認識するようになるでしょう。

「生物は泥などの無生物から発生する」という昔の学者たちの意見が克服されたように、輪廻思想に対する抵抗は克服されるにちがいありません。三百年前まで、「動物は泥などの無生物から発生する」と、自然科学者は信じていたのです。

イタリアの自然科学者フランチェスコ・レディ( 1626 - 1697年)が初めて、「生物は生物から発生する」と主張したのです。そのように主張したために、彼は攻撃されました。自然科学的な宇宙観を唱えて火炙りにされたイタリアの修道士、ジョルダーノ・ブルーノ( 1548 - 1600年)のような目に遭ったのです。

今日では、もはや火炙りは行われません。今日では、「心魂 - 精神は、心魂 - 精神に由来する」という新しい真理をもたらす者は、火炙りにはされませんが、愚か者と見なされます。

しかし、「人間は一度だけ地上に生きるものだ。祖先から遺伝される特質と結び付く永続的な心魂 - 精神など存在しない」という考えが否定される時代が、やがてやってくるでしょう。



と、シュタイナーは、その 1909年当時の、前世を含めた精神科学を認めない科学界の考えをやんわりと批判しています。

ジョルダーノ・ブルーノについては、私は3年ほど前に初めてその存在を知り、その頃、「現代のジョルダーノ・ブルーノを作り出さないためにという記事を書いたことがあります。

ブルーノは、無限の宇宙を主張し続け、そして、異端として焼かれて死んでしまいました。

ところで、シュタイナーは、「生物は同種の生物からしか生まれない」という、現在では科学的な常識とされていることを証明した自然科学者フランチェスコ・レディを他の講演でも引き合いに出していまして、そして、レディを「偉大な科学者」として賞賛していますが、このことからも、シュタイナーが、真実の科学の探究の道筋を大事にしていたことがわかります。

前世とか輪廻転生とかの概念は、今の世の中では、どちらかというと、正当な科学ではなく、オカルトやスピリチュアリズムのような捉えられ方をされますが、シュタイナーの言う霊学は、自然科学と同じ土俵上の科学だというとらえ方で良いのかもしれません。

そういう意味では、現代でも、前世や輪廻転生を語る人たちは、スピリチュアリズムに偏ることなく、正しい自然科学、正しい宇宙物理学などを学ぶほうが良いような気もします。その時点での正当な科学の智恵が根幹にないままに輪廻転生を語り始めると、それもまた霊学を誤った方向に導きそうな気がします。

どうも、最近の世の中で語られる「前世」という言葉の響きの「軽さ」には、何となく、やや問題があるような気もしています。

ところで、このフランチェスコ・レディという人ですが、フランチェスコ・レディ - Wikipedia には、


フランチェスコ・レディ(1626 - 1697年)は、イタリアの医師。

一連の実験を行ったことでよく知られており、1668年に発表した「昆虫の世代についての実験」は、自然発生説と呼ばれる学説への反駁の第一歩となった。当時優勢だった自然発生説では、肉を腐敗させるとそこから自然に蛆がわくとしていた。



とありますが、この実験は、文字で読むより、イラストで見てみますと、

「あー、この実験は子どもの頃、なんかで聞いた」

と思い出します。

当時の科学は「虫はモノから自然に発生する」とされていて、例えば、蛆は「肉から自然に発生する」と考えられていたことに対して、疑問を感じていたレディは、下のように、ふたをした瓶と、ふたをしない瓶で、その発生を確かめたのでした。

redis-experiment.gif
FRANCESCO REDI'S EXPERIMENT

この実験で、「生物は異物からではなく、同種の生物からのみ発生する」ということを実証したのですが、今では当然とされるこの結論を導き出したレディは当時は「異端」とされてしまったのでした。

シュタイナーもまた当時の科学界で、レディのように「異端」されていた部分が少なからずあったのではないか、ということが、さきほどのシュタイナーの講演で少しわかる気がします。

さて、そして、シュタイナーの医療に関しての講演をまとめた『病気と治療』に、16世紀の医者であり、錬金術師であったパラケラススという人の言葉が述べられています。

それを読むと、「医学はすでに 500前には誤った方向で固定されつつあった」かもしれないことが何となくわかってくるのです。

医学の本質のズレの問題はなかかなに根深いものであるのかもしれません。




パラケラススの時代の医学

パラケルスス(1493 - 1541年)は、パラケルスス - Wikipedia によりますと、


1515年にイタリアのフェラーラ大学医学部を卒業した後、医療を施しつつ旅を重ね(略)1525年にバーゼル大学の医学部教授に就任したが、その翌年には大学から追放され、以後放浪の身となる。追放の理由は諸説あり、現在も明らかになっていない。

パラケルススは医者であるが、錬金術師としても有名である。錬金術師としては「ホムンクルス(錬金術師が作り出す人造人間)を創り出すことに成功した」「賢者の石(霊薬)を持っていた」「常に持ち歩いている剣には賢者の石が入っている」といった伝説がある。



という人ですが、このパラケラススの考え方では、人間というものは、

・身体(地上界 / 目に見える世界)
・精気(天上界 / 目に見える世界)
・魂(霊的世界 / 目に見えない世界)


というものから成り立っているとしたものだったようです。

シュタイナーは、人間は、

・肉体
・生命体(エーテル体)
・感受体(アストラル体)
・自我


の4つの要素から成り立っているとしていて、多少の違いはありますが、パラケルススもシュタイナーも「人間は単なる肉体が生きていたり死んだりするもの」という考え方はしていません。

生きて動いている自分という存在と関係している「正体」は極めて複雑で、それが人間個人を形作っているとしているわけです。

そのパラケルススが語ったとされる言葉を、シュタイナーは、そのまま講演で述べました。

Paracelsus.gif
・1625年に描かれた錬金術的構成のパラケルススの肖像。
 Portraits of Paracelsus



シュタイナーの1908年の講演『病気と治療』より「パラケルススの言葉」を述べたもの

南欧の医者たち、モンペリエ、サレルノ、パリの医者たちは栄光にあこがれ、人を軽蔑したいと思っている。それなのに、医者たち自身はなにもものを知らないし、なにもできやしない。これはおかしいんじゃないか。

医者のおしゃべりな口も、豪奢な服装も、患者をごまかす技術にすぎない。浣腸したり、下剤をかけたり。

それでも死んでしまったら、あらゆる手段を尽くしたんだから仕方ない。医者たちは偉大な解剖学に通じているという。それなのに、酒石が歯に引っ掛かっているのを見落とす始末。

医者は、なにを解剖し、なにを見ているのか。

医者は、糞尿と付き合うけれど、目が二つしかないので、目のまえの体がよく見えない。ドイツの医者は一生懸命、カッコウみたいに覗く。

そうやって、いろんなものを見るけれど、昔のほうがかえってよく見えていた。糞尿と腐肉に囲まれて窒息しそうだ。医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ。



と、16世紀の時点で、当時の医学を徹底的に批判しています。

まあ、この「医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ」という部分に関しましては、パラケルススから 500年経った今でも、そういうような部分もないではないと思える部分もあるような・・・ないような・・・。

今はともかくとして、当時の医師というのは、パラケルススの言葉からは、あまり慈愛のある職業ではなかったのかもしれません。

中世ヨーロッパの医者の服装の例
medival-doctor.jpg
LHS-CanterburyTales


そして、このパラケルススの言葉を引用した 100年前ほど前の講演でも、シュタイナーは基本的な意味で当時の医学を批判しています。

何だか、どうやら、500年前から 100年前に至る間には「本質的な意味」での医学の発展はなかったのかもしれないことが伺えます。そして、その後の 100年もまた・・・。

「本質的な意味」と書いたのは、進んだ部分では大変に進んだからです。

解剖学的な意味で人間の器官やパーツを把握したり、化学物質の発見が対症療法に効果を発揮する西洋薬に結び付いていったり、放射線など医療への応用ができる発見があったり、医学は部分的には大きく発展しました。

しかし、先日のパッチ・アダムス医師の記事でもふれましたように、やはり、それは医の「本質」ではない気がします。

そして、これは「愛」とか何とかいう曖昧な話ではなく、実際的な話です。

うつといわれて、すぐに抗うつ剤が処方され、ガンと診断され、ただちに抗がん剤が処方される現在。

しかし、抗うつ剤でうつが完治した人は(ほとんど)いないし、抗がん剤で生きのびた人も(ほとんど)いない現実を見ると、愛だの何だのという言葉以前に「単に手法が間違っているのでは?」ということです。

実際、うつ病もガンも「治療するより、むしろ何もしないのが最も効果的」だとさえ言えるデータも数多く存在します。もちろん、「何もしない」は極論としても、ここから考えなければならないことはたくさんあると思います。

WHO によるうつ病治療の追跡調査
who-1998.gif
過去記事より


抗がん剤を使った場合と使わない場合の生存率
cancer-lancet2.gif
・医学誌ランセット掲載データ。過去記事より

そして、今のようになってしまった原因の大きなものは、実は「医者」のほうだけではなく、「私たちにもある」のではないだろうかとも私は最近思い続けていました。

特に、私のように、小さな頃から体が弱かった人は「症状=薬」という条件反射ができあがっていて、何かと薬を頼りにする傾向があります。

そのようなことはあまり正しい傾向ではないということを、私たち自身が真剣に考える時なのかもしれません。

今回は、やはりシュタイナーの言葉で締めたいと思います。

今から 100年ほど前の人々も、最近までの私のように、「病気に対して真剣に考えていなかった」ことがうかがえ、それに対してのシュタイナーの言葉です。自分に対して言われている気もしましたので、その部分を抜粋します。



1908年のベルリンでのシュタイナーの講演「病気の本質」より

きょうは、精神科学の観点から、病気の本質についてお話します。一般に人間は、病気になってはじめて病気のことを気にかけるものです。

そして、病気になったとき、なによりも病気が治ることに関心を持ちます。病気が治ることが問題なのであって、「どのように」癒やされるかということはどうでもよいと思っています。現代人の多くは、そのように考えています。

今日では、宗教よりも医学の領域に、権威への信仰が見られます。医学的な権威者の有する権限は大きく、将来さらに大きくなっていくでしょう。

このような現状は、一般人に責任がないとはいえません。病気で苦しんでいないと、このようなことについて真剣に考えないからです。

医学的な権威者がさまざまなことがら、たとえば子どもの教育や学校生活について語るのを、人々は平静に聞いています。その背後にどのようなことがらが存在するのかを、気にかけていないのです。

病院がどのような法律によって作られるかというようなことを、人々は傍観しています。人々は、そのようなことに真剣なまなざしを向けようといません。

通常の唯物論的な医学では治らない人々も、なぜそうなのかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。霊的な方法によってものごとの基盤を見極めようとはしないのです。

今日のような唯物論の時代には、病気についての教義が唯物論的な思考方法の大きな影響を受けています。ある方法を特別なものだとすれば、道を誤ります。

人間は複雑な存在であり、人間に関するものはすべて、その複雑さと関係するということを、なによりも明らかにしなくてはなりません。

もし、人間がたんに肉体からなる存在であると見るなら、治療をすることは不可能になります。健康と病気は、肉体だけに関することではなく、人間の心と精神にも関係しているのです。

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2015年04月22日



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Why antibiotics are making us all ill



風邪の記事を書いた途端に子どもが引いてしまうという因果で看病中でした

前回、風邪についての、

人間にとって最も日常的で慈悲深い治療者は風邪ウイルスかもしれない…
 2015年04月21日

という記事を書きましたら、その直後から、子どもが何ヶ月かぶりに風邪を引くという因果なことになってしまいました。

子どもはもう回復して基本的に元気ですが、思い出したことがありまして、日記程度のものですが、時間を見つけて書いています。

今回の子どもの風邪は本当に軽いもので、風邪そのものは問題ではありません。うちの子どもは風邪を引くと、それに伴い自家中毒(長時間続く猛烈な嘔吐発作)となることが多く、今回もなってしまいました。

24時間近くも、水も食べ物も一切受け付けないで苦しんでいる様子を見ているのはつらいものでしたが、この自家中毒というものに対しても、西洋医学的には何ら具体的な手立てはありません。

経過を見守るしかないのです。

ただ、最近、シュタイナーの音楽関係の本を少し読んでいましたら、「子どもと音楽」ということについて、あまりきちんと考えていなかった自分を思いました。

シュタイナーとか神秘主義などを持ち出さなくとも、自家中毒も何らかの免疫システムによる症状の病気であることは間違いないと思うのですが、何か興奮やストレス、あるいは風邪の時に発症することを見ていますと、

・交感神経(緊張時、興奮時などに優位に)
・副交感神経(リラックス時に優位)


のバランスというものが関係している可能性を感じます。

特に、興奮やストレスは交感神経を刺激しますから、そのアンバランスを、先に「超リラックス」系で予防しておけば、あるいは軽減できるのではないなあと。

ただ、一応書いておきますと、一般論として「交感神経の優位が悪い」のではないです。

ストレス=悪
リラックス=善


という図式は、免疫システムの基本である白血球の構造からは成り立ちません。

バランスが大事で、ただただ、ひたすらリラックスしていては、それはそれで免疫が崩れ、病気になりやすいです。

交感神経が優位だと、細菌、花粉など、サイズの大きな異物を処理する白血球の中の「顆粒球」というものが増えます。

副交感神経が優位だと、ウイルスなど小さな異物やガン細胞を処理する「リンパ球」というものが、白血球の中に増えます。

なので、「興奮とストレスばかり」だと、ウイルスやガンに対抗するリンパ球の割合が低くなり、ウイルスやガンに弱くなります。

その一方で、「リラックスしてばかり」だと、顆粒球の割合が少なくなり、免疫は強くても、花粉やホコリなどに反応しやすく、アレルギーや炎症が多くなりやすいです。

これは、たとえば、のどかにゆったりとだけ暮らしている人たちに病気がないかというと、そうとも言えないのではないでしょうか。

「ストレスが悪い」という方向だけ言われることがありますが、すべてはバランスで、リラックスだけの生き方だと、ストレスが多すぎる状態と同じに白血球の免疫バランスは崩れます。

何だか話が逸れましたが、「宇宙の創造…ひも理論…432Hz…528Hz…ライアー…」などに書きました楽器ライアーなどのような音色などは、交感神経への刺激に弱い子どもには特にいいかもしれないなあと思います。

実際、ライアーとは違いますが、528Hz の音叉を寝る前に子どもに、ほんの数十秒くらいですが、聞かせたりして以来、発作は劇的に減っていますので、 528Hz の効果ともども、「音」の効果に改めて感じ入っている次第です。

看病している時、ふと、子どもが赤ちゃんの頃に熱を出した時に、それを看病している自分の姿がフラッシュバックしてきました。そして、その時に起きていたことを思い出していました。

それは、前回の風邪の記事を書いた後だからこそ思い出したのですが、うちの子どもは、発語(意味のある言葉を言い始める)がとても遅く、普通の子より最大で2年は遅れていました。

そのあたりのことについては、

3歳までことばを持たなかった私の子どものこと
 2012年05月08日

という記事に書いたことがあります

言葉を口にし始めたのは3歳になってからですが、それからの2年間くらいの間に起きていたことを思い出したのです。

それはその頃に必ず起きていた、

「高い熱を出すたびに、どんどんと新たな言葉でしゃべり出す」

という経験でした。

過去記事を検索してみますと、

かれの「神しゃま」は消えたのか、それともまだ消えていないのか
 2012年09月26日

にも書いていることに気づきましたが、うちの子どもは、1年に何度か、原因のわからない激痛と、原因のわからない高熱に見舞われることがありました。

そのたびに、語彙が増え、会話の内容も上達していくのでした。

それは曖昧な感じではなく、私も奥さんも「昨日までとは違う子どもと話しているような感覚」を感じるほど発達していることがわかるほどなのでした。言葉だけの話ではなく、認識力そのものがアップしているような感じだったでしょうか。

熱を出して、熱が引いた翌日には「はっきりとわかるほど成長している」のです。

子どもが「熱のたびに言葉が増えていく」ことを目の当たりにして、奥さんと「不思議な熱だねえ」などと言っていたにも関わらず、その時は、「熱の意味」を考えたことがありませんでした。

それに、熱を出している時も、うなされて「それまで口にしたことのない」ようなことを言ったりすることもありました。4年前の「子どものかみさま」という記事に、5歳だった子どもが、40度の熱で寝ている時に、ふと上半身だけ起こし、私たちに以下のように言い、また眠ったことを書いたことがあります。


幼稚園の先生は、神さまは空の雲の上にいるっていうけどね・・・それはちがうんだよ。神さまは透明で、どこにでもいるの。あそこにもそこにもいるの。

雲の上にもいるけど、他にもどこにでもいるの。木にセミみたいに止まっていることもあるの。でも、透明だから誰にも見えない。でも、透明でもそこにいるの。全部の空も砂も木も全部すべて神さまなの。



そんなことを子どもが普段口にしたこともないし、私と奥さんはきょとんとするばかりでしたが、次の日、熱が下がった時には、子どもはそんなことを言ったことを覚えていませんでした。

あの熱と認識の作用はわからないままですが、高熱が子どもに変化を与えていたことは確かで、もし、うちの子どもが当時まったく熱を出さなかったとしたら、成長もまた違ったのかもしれません。





どうすれば的確に人に伝えられるのですかね

それにしても、最近の In Deep の記事は健康に関するものが多かったですが、その健康法…。

・薬を飲まない
・笑う
・風邪を引く


これは普通の人には安易には言えない。

たとえば、仮に、知人か誰かから「ガンになって治療中なんです」と暗い顔で言われた時に、


「降圧剤も抗うつ剤も抗がん剤も薬はすべてやめましょう。もっと笑いましょう。風邪を引いて高熱を出しましょう」


・・・・だめだ、言えない(苦笑)。

現代の常識だとされている医療知識は強固に人々の中に浸透していまして、病気の人に真面目な顔で上のようなことをいえば、「ふざけるな」と怒られてしまう可能性が強いです。

とはいえ、上の3つは、病気に対しての処方としては、間違っているわけではないことも言えると思います。

・薬を飲まない → 免疫細胞の働きを正常に戻す
・笑う → ナチュラルキラー細胞が活性化する(過去記事
・風邪を引く → 先日の記事をご参照ください


結局、今の医療と、何より、私たちの病気に対しての考え方の問題として、

不快な症状は悪いものなので無理矢理止める

という観念のまま進んできたことにあるような気がします。

熱が出れば薬で下げる、痛みがあれば薬で下げる、血圧が高ければ薬で下げる。

野口晴哉さんの以下の言葉は、「そういう考えは間違いだ」ということを気づかせてくれます。


野口晴哉『風邪の効用』より

病気が治るのも自然良能であり、病気になるのも自然良能です。

新陳代謝して生きている人間に建設と破壊が行われるのは当然ですから、建設作業だけを自然良能視しようとするというのは、破壊を恐れ、毀(こぼ)れた体のまま無事を保とうと考える臆病な人間です。

生命を保つためには自然のはたらきを活かすことの方が、人智をつくすより以上のことであるということを考えてみるべきでしょう。



これを私も忘れていた。

新陳代謝。毎日、おびただしい細胞が生まれますが、同時に、おびただしい細胞が死んでいる。

体というのは「破壊と再生の繰り返しの場」で、死ぬまで、それが延々と繰り返されます。なので、あらゆる体の現象には「再生」と同時に「破壊」も起こるということを忘れていたのですね。

ちなみに、私は、

基本的に「すべての薬」は人間に良くないという理由の理論的なメカニズムがわかったのです
 2015年04月02日

という記事を書いた日から薬を飲んでいません。

それまで、かなり神経的に厳しい状態の時に、ベンゾジアゼピン系の弱い抗不安薬を飲むこともあったのですが、それはやめました。

何となく大量保有していた、めまいの薬も捨てました。

もちろん、私は救急処置的な意味での薬の服用は、自分に対しても否定していませんが、特別何もないのなら、今のままで薬を一切飲まない生活をしていければとは思います。

薬にはいろいろとやられた人生でしたけれど、それらのことがあったから、「薬に頼りすぎるのは、あまり良くない」と自然と体感できた部分はありますし、何より、私は薬に命も助けられています(小児ぜんそく)ので、薬の存在を否定するどころか、今でもとても感謝しています。

薬の存在が悪いのではなく、それを投与するのも、服用するのも「人間」ですから、そこが少し変化すればいいなとは思います。

そんなわけで、子どもの看病の後に、やや日記的に書かせていただきました。

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2015年04月21日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





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書籍連鎖地獄の中でホイル博士への解答を見出し

昨日、子どもがポストに入っている郵便物を持ってきてくれて、「これ、おとうさんに」と渡してくれて、開けましたら、書籍でした。

その時ふと、

「何だか・・・毎日、本届いてないか?」

ということに改めて気づきました。

まあ、「毎日」というのは大げさですが、かなりそれに近い程度にネットで本を購入する日々が続いています。

特に Amazon はこの連鎖に入りやすいですね。 Amazon で本を買いますと、下に、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というコーナーが表示されます。

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ここを見出すとまずい。

気になるものをクリックして、レビューを読んだりしているうちに、ポチッと買ってしまったり、あるいは、価格が高いものは、ヤフオクなどで同じのを探すと、もっと安く売っていたりするんですが、

「これはそんな欲しいわけではないけど、安いから買わないと損だ」

というヘンな理論のもとに結局買ってしまったりします。

そして、毎日毎日、本が届くという状態なのに、また、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を見てしまう毎日。

というわけで、毎日読書に時間を取られていたりするのですが、昨日届いたのは、野口晴哉さんという人の『風邪の効用』という本でした。

この野口晴哉さんという人が誰だか知らずに買ったんですが、野口晴哉 - Wikipedia によりますと、何と、日本の「整体の始祖」の方なんですね。

そもそも「整体」という言葉を最初に使ったのが、この野口さんという人だったそうで、野口晴哉公式サイトのプロフィールを見てみますと、どうも、一種の「天性」を持っていた人らしく、


古今東西の健康法や療術などを独自に探求し、十五歳で入谷に道場を開き、療術団体『自然健康保持会』を設立。

十七歳で「健康に生くることが自然順応の姿である」などとする『全生訓』を発表し、以後、一貫して「活き活きと生を全うする」ことを指針に据えた活動に入る。



17歳で「健康に生きることが自然順応の姿である」の境地に達するとか、どれだけ頭脳が早熟かいね、とも思いますが、やはり、この世にはいろいろな人がいるものです。

野口晴哉( 1911 - 1976年)
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野口晴哉公式サイト

この『風邪の効用』という本が書かれたのは昭和 37年( 1962年)ということで、私が生まれる以前に書かれた本なのですが、なーんと、この本の中に、「フレッド・ホイル博士の説とほぼ同じ」ことが書かれている上に、

ホイル博士の考えに対して「その理由」を与える解答が書かれていた。

のでありました。

もちろん、日本人の整体師の野口さんと、イギリス人の天文学者のホイル博士の間に関係があるわけもなく、おそらくはお互いにその存在さえ知らなかったと思います。

どんなことに関してのものか。
それは、

「人間はなぜウイルスに感染して発症するのか」

ということに対してのものです。

しかも、前回書きました、パッチ・アダムス医師の記事も含めて、最近書かせていただきました「健康」に関しての記事、例えば、

健康ブームの中でガンが増え続ける理由 : 世界でもダントツの「薬」消費国である日本は「薬に人間の自己治癒能力を奪われながら」滅ぼされつつあるのかもしれない
 2015年04月10日

とか、

基本的に「すべての薬」は人間に良くないという理由の理論的なメカニズム…
 2015年04月02日

などに対しての「回答」ともなっている部分があるのです。

まず、この『風邪の効用』という本のテーマは、次の一文に集約されていると思われます。

私は風邪は病気というよりも、風邪自体が治療行為ではなかろうかと考えている。

これは、野口さんが若い時から数多くの整体治療を行ってきた中で、人間の体というものは、それは筋肉にしても血管にしても、大事なのは「弾力」ということらしいのですが、

「風邪を引いている時に、その人の全身の弾力が戻っている」

ことに気づいて以来、研究し続け、その結論として、

風邪は自然の健康法そのものであり、風邪を引くことで自分の体のさらなる悪化を防いでいる。

という確信に行き着いたというものと言っていいと思います。

この本には「ウイルス」とか、そういうような言葉は出てきません。

風邪ウイルスが発見され始めるのは 1950年代からで、病原ウイルス研究の方法の歴史についてというサイトによりますと、風邪のウイルス学説が確立したのは、1960年代のことでした。

風邪ウイルスの発見により、「風邪はウイルスのヒトへの感染によって起きる」という学説が確定して、つまり「ウイルスがヒトの細胞に侵入し風邪に感染する」というような感じで、風邪の概念は現在に至っていると思われます。

風邪は「悪者以外の何物でもない」というのが現在の定説です。

ところが、この『風邪の効用』を読むことで、少なくとも私は、その観念が覆されたのです。




風邪は自分を治癒させるためにかかっている

私は、風邪にしてもインフルエンザにしても、ウイルスがヒトに「侵入」することで、風邪を引くのなら、風邪は基本的に「全員がかかっても不思議ではない」のに、どうしてそうならないのか、ということは子どもの頃から疑問でした。

後で書きますが、私は人一倍風邪を引きやすい子どもでした。

過去記事の、

21世紀のパンデミック: ウイルスが人を選ぶのか? 人がウイルスを選ぶのか?
 2013年04月08日

の中で、フレッド・ホイル博士の『生命(DNA)は宇宙を流れる』の中で、ホイル博士が述べている、

「ヒトがウイルスを選んで体内に取り入れている」

という主張をご紹介しました。

これは従来の考え方である「ウイルスがヒトを選んで感染している」というのではなく、ヒトが「自分に」感染するウイルスを選んで感染しているという、それまでにはまったくなかった主張です。


フレッド・ホイル著『 DNA は宇宙を流れる』進化のメカニズムより

ウイルスが宿主を選ぶという前提が間違っているのだ。

われわれは、宿主のほうがウイルスを選んでいるのだと考えている。

地球にはじめて落ちてくるウイルスが、あらかじめどんな宿主に遭遇するか知るよしもないことは当然だ。けれども、宿主たるわれわれは、もともと宇宙からやってきたバクテリアから進化した存在であり、このような事態に備えた機構を持っているはずなのだ。

それが免疫機構なのだとわれわれは考えている。



この、ウイルスについての従来の見方を根本からくつがえすといってもいい考え方は、私たちの今までの常識から考えると、突飛に響きますが、しかし、そもそも、「極めて高度なヒト DNA と、極めて単純なウイルスの DNA の構造」を考えますと、

ヒトがウイルスに負けると考えるのは不合理な話

なのです。

ホイル博士は、風邪ウイルスと比べて、比較にならないほど優れた構造を持つヒトの DNA 分子が、「風邪ウイルスに騙される」という考え方自体が合理的ではないとして、以下のように記しています。


通常、ウイルスと免疫との関係と言えば、ウイルスがわれわれの細胞を騙して侵入し、それに気づいた免疫機構がウイルスを排除しようとして戦う、という説明がなされている。

けれども、まっすぐに伸ばすと全長 1.5メートルにもなり、 10万個もの遺伝子を持つヒトの DNA 分子が、全長わずか数ミクロンで、数個の遺伝子しか持たないウイルスの DNA 分子に「騙される」などということが、本当にありうるだろうか?

また、ウイルスが侵入してからの免疫システムの素晴らしい活躍ぶりを見ると、どうして、もっと早いうちに完全にブロックしておかないのだろうと疑問に思わないだろうか?



ウイルスという存在は、多くの場合、人間に重篤な症状を引き起こすとは思えないほど「単純」な構造です。ウイルスの構造と増殖過程というページから抜粋しますと、


ウイルスの構造を簡単に言ってしまえば、「膜の中に遺伝情報が入っているだけ」の構造となっています。

なお、ここでの遺伝情報とは、DNAまたはRNAのことです。ウイルスはその種類によってDNAをもっていたりRNAをもっていたりと様々です。




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ウイルスの構造と増殖過程

しかも、ウイルスは、自分で生きていく構造を持っていませんので、「他の生物の細胞に寄生しないと増殖できない」というもので、上のページの説明をお借りしますと、

ウイルスは自分自身の力だけで増殖することはできません。増殖には私達の細胞に寄生する必要があります。

ヒトとウイルスの差を数として比較してみますと、下のようになります。

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DDBJ 遺伝子とゲノム

このような単純で自主性のないウイルスという存在が人間の強大な敵というのは何だか奇妙です。

最近になって「人間の体は、その免疫システムを含めて、完ぺきなもの」ということを思うようになると、私はさらに、

人間がウイルスのような単純なものに負けていると考えるのはおかしい」

と強く考えるようになりました。

もともと、上のホイル博士の記述で、「ヒトがウイルスを選んでいる」ということについては確信を持っていたのですけれど、ただ、「なぜ、ヒトはウイルスを自分に取り込む必要がある?」かがわかりませんでした。

風邪を引けば、熱が出たり、いろいろと面倒な症状が出るばかりなのに、どうして?

ホイル博士は、「ヒトという種の進化のため」だという立場を持ち、


ちっぽけなウイルスが大きな生物を騙すのではなく、生物が自らの利益のために ----- 進化するために ----- 進んでウイルスを招き入れるのだ。

われわれは、免疫機構に対する考えを改めなければならない。免疫機構は、常に新参者を探しているが、それはわれわれの遺伝システムがそれを取り込むことが進化論的立場から価値があると認められるような新参のウイルスを探すためなのだ。



と書いています。

そういう部分は確かにあるのでしょうけれど、「新参のウイルス」はともかくとして、風邪のように、いつでもどこでも日常の中にありふれているウイルスについて「ヒトが感染を選ぶ」という理由がどうもわからなかったのです。

そのことが『風邪の効用』には、わかりやすい形で書かれています。

風邪は自分の体を「治すため」にかかるということが。




風邪の熱や症状を治めようとしてはいけないという理論

前回のパッチ・アダムス医師の記事で抜粋しました『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』の中にある 1908年の講演で、シュタイナーは「熱を下げてはいけない」として、


生体はその損傷に反抗し、防御力を用います。この反抗が通常、熱なのです。熱は、人間のなかの治癒力の呼び声なのです。熱は病気ではありません。損傷を直すために、人間が自分の生体全体から力を呼び集めているのです。

病気において、熱は最も慈善的で、最も治療的です。損傷を受けた個々の部分は、みずから治癒できず、他の側から力を得なくてはなりません。それが熱として表現されるのです。



と、シュタイナーは、「熱」というものは、ヒトが自らの体を守るために発しているもので、「熱そのものが治療者」であるという立場を示していますが、野口晴哉さんの風邪に対しての考えと、まったく同じです。

そして、シュタイナーと野口さんの考えは「薬」に対しても同じです。

シュタイナーは 1908年の講演において、その頃、世に出てきた解熱鎮痛剤(フェナセチン)に、「科学が精神とともに真面目さも失ったこと」として、絶望していましたが、野口さんも、専門用語は使いませんが、

「症状を急激に治めるようなことは良くない」

と繰り返し書いています。

身体に起きることには自然の道理があるのだから、その自然の経過に逆らうことは良くないと。

シュタイナーと同じことを言っている部分を抜粋します。
「イルガピリン」とは、かつての日本で、神経痛やリウマチの痛みに処方されていた薬です。


『風邪の効用』 自然の経過を見出すもの より

刀によって、一気にバサッと斬ってしまうようなことは本当ではない。(今は)神経痛の痛みを止めることだけでも、いろいろな薬を使って一気にバサッと止めようとします。

京都でイルガピリンを使いすぎて死んでしまった人がおりましたが、死ねば確かに神経痛はなくなるでしょうが、少し困りますね。バサッと一気にやろうとすることは、殺すにはよいが生かすには向かない。

生きる動きには順序があり、自然の経過がある。パッと良くするということにはどこかでインチキがあり、やっている人も、受けている人も気づかないでいることが多いが、体には硬直やら、歪みやらが残っている。

闘って病を征服するのではない。ただ体の交通整理をして、体のもっている力をスムーズに流れるようにする。早く回復することがよいのではない。自然に流れ、体のもっている力をスムーズに発揮すればそれがよいのである。

人間の体の動きは要求によるのでありますから、痛むから止める、足らぬから補う、困っているから助けるというように、外部から調節することだけを行っていると、体のうちの回復要求を鈍らせてしまう。

余分な養生が人を弱くし、余分な治療の工夫が回復のはたらきを鈍くしてしまっていることは少なくない。

早く治ろうとする努力が逆の結果に導くことが多いのは、病気の時に限らず、晴れの舞台でも、習字のお清書でも、簡単な受験でも、努力はしばしば逆の力を育てます。一気呵成に病気を治そうと考えるその考えが、体の調子を乱す。強行すれば、そのための行為が体を乱す。



野口さんという人は、おそらくは楽しい人だったのかもしれないと思うのは、結構キツいギャグが文中の多くの場所に垣間見られることなどでも思います。上の中の、

> 死ねば確かに神経痛はなくなるでしょうが、少し困りますね。

というような、ちょっとシュールなモンティ・パイソン風のギャグ表現が、あちこちに見られます。

ところで、風邪とは関係がないですが、野口さんの書かれている文章から、今から 50年以上前でも、「臓器の切除」というのが多く行われていたということを知ります。

以下のような記述があります。


最近のように臓器を除られている人が多いと、私のように体の自然なはたらきというものを利用して健康を保っていこうとするものには、とても不便なのです。

まあ心臓がないという人はありませんが、腎臓がなかったり、子宮がなかったり、卵巣がなかったりという人はザラで、そういう人を円満に治そうなどと考えても不可能である。

だからいちいち、どこか切ったところはありませんかと訊かなくてはならない。ひどい人は「胃癌になるといけないから胃袋を除りました」と言う。胃袋さえなければ胃癌にならないと・・・それなら首を切っておけば万病にならない。



この短い下りには、

> まあ心臓がないという人はありませんが

> それなら首を切っておけば万病にならない

と、モンティ・パイソン・ポイントが2箇所ありますが、こういうような感じの本ですので、整体の専門用語が飛び交う部分は別にすれば、読みやすいです。

それにしても、

「胃癌になるといけないから胃袋を除りました」

これはひどい。

そう考える本人もですが、そう言われて、本当に胃をとってしまう医者の方もなかなかのもので、50年以上前の日本もいろいろだったんですね。

なお、つい先日の記事、

日本人「総薬づけ計画」やら抗がん剤やら混沌の中に入り込んだサイクル24の渦中に
 2015年04月15日

という記事の中で、ガンは治療せずに放置しなさいという主張をする医師の意見に、私は、

この近藤医師という方は、「ガンは治療しないで放置しなさい」という意見の方のようですが、全面的にその意見に賛成する気にはなれません。

手術でとってしまえば、何らかの機能の障害は残っても、そのまま一生何でもなく過ごせるガンはたくさん存在すると思うので、極端化するのはどうかと思います。

と書いたのですが、野村晴哉さんは「体の部位を切除することは良くない」として、


やはり天然のまま傷つけず、むしろそれを鈍らせず、萎縮させず、自然のままの体であるようにするのでなければ、本当の意味の治療とはいえないのではあるまいか。


と書いていました。

まあ、それでも、私は、現在の外科的治療の中には、「あって良かった」ものもあると思っています。

東京・青山で自律神経免疫治療というものをおこなっている、まだらめクリニックのQ&Aにある下の答えが、私の考えと近いです。


Q 西洋医学があるのに、なぜ他の治療法をするのですか?

A 西洋医学は立派な医学ですが、それだけでは解決できないことも多いのです。

西洋医学は急性期医療に優れ、手術が必要な病態には力を発揮します。しかし、慢性疾患には不十分なのです。

いわゆる生活習慣病には効果があまり期待できません。特に癌の再発・転移の予防にはほとんど無力といっても過言ではないでしょう。

西洋医学だけが医学ではありません。江戸時代には漢方医学や針灸医学が日本人の健康に貢献してきました。それを利用するのが当クリニックの立場です。

単純に古い医療を利用するだけではなく、現代医学の生理学や免疫学を利用してそれらの効果判定も出来る時代になっています。



というように、緊急的な治療と、予防医学(天然痘などが撲滅されたようなこと)に関して、西洋医学は、多くの命を救ってきたと思います。

ただ、上にも「癌の再発・転移の予防にはほとんど無力といっても過言ではないでしょう」とありますように、現在の世界で最も大きな問題となっている、ガン、認知症、精神疾患などに対応できていないことは確かです。

そして、何となく今の「薬を出しておけばいい」という医療には、「あるべきはずの何かが抜け落ちているかもしれない」という感じもあります。昨日のパッチ・アダムス医師を知り思う、「医者と患者の心と心のこと」などもそうです。

日本には「医は仁術なり」という言葉があります。
これは、広辞苑の定義によりますと、

「医は、人命を救う博愛の道である」

ということを意味するのだそう。

要するに、日本では、「医」とは「学」でも「術」でもなく、本来は「道」だったんですね。

求道の道です。
神道の道。
そして、北海道の道(そら違うわ)。

道といえば、

「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ」

というアントニオ猪木師の格言が有名ですが、医療において、「迷わず行けよ。行けばわかるさ」では、少し困りますね(野村晴哉さん風)。

いずれにしても、この『風邪の効用』という本と、ホイル博士のウイルス論によって、長い間疑問だった「なぜ風邪にかかる人とかからない人がいるのか」ということが少しわかった気がします。

うまく説明はできていないですが、この『風邪の効用』という本を読みますと、

「人間は、自分の治癒のために、風邪ウイルスを細胞に取り込んでいる」

ということが、何となくですが、理解できるような気がします。

とはいえ、「ウイルスがヒトに侵入しているのではなく、ヒトがウイルスを取り込んでいる」などということを医学的に証明することは不可能ですので(不可能とまでは言い切れないかもしれないですが)、医学的には「戯れ言」だと思います。しかし、私個人は納得がいったので、知ってとても良かったです。

数多くの免疫システムを人間は持ちますが、「風邪を引く」というのも免疫システムのひとつだったということを知ったという感じでしょうか。

なので、「風邪の症状を薬で抑えることは基本的には良くない」のかもしれません。
シュタイナーの言うように、「熱」を薬で抑えるというのも良くないようです。

よく風邪の引き始めに市販の風邪薬などを飲んだ後、長引く人をよく見かけますが、野口さんの主張からすれば、症状を抑えることで、本来の風邪の働きが遮断されてしまうのですから、「風邪薬を症状の初期から早くに飲めば飲むほど治りは遅くなるかもしれない」という逆説的なことになってしまうものなのかもしれません。

ただ、この『風邪の効用』は「何もしないのがいい」と言っているのではありません。

風邪を引いている間の「経過」をどのように過ごすかということが書かれています。

その過ごし方は、「風邪を治す」のではなく、「風邪の働きを邪魔しない」ということについて書かれています。風邪は体を適正に戻そうとしているのだから、その働きを妨害しないこと。

その「風邪の経過中の要点」をタイトルだけ書いておきます。

1. 体を弛めること
2. 冷やさぬこと(熱が出ても冷やしてはいけない)
3. 体を温めること
4. 発汗は引っ込めない
5. 平熱に下がったら寝ていないこと
6. 水分を大目にとること


この中の「熱が出ても冷やしてはいけない」については、言いたいことはわかるにしても、でも、小さな子どもなどが高熱を出してしまうと、やはり心配なものです。

うちの子どが小さな頃、たまに高熱を出した時はやっぱり「下げる努力」はしていました。ただ、「子どもへの解熱剤の投与は恐ろしい」という感覚はありましたので、解熱剤を飲ませたことはありませんでした。

ひたすら、動脈を冷たいタオルなどで冷やして熱を下げていました。

野口さんやシュタイナーから見れば、こういうのも良くないということになりそう。
しかし、高熱の子どもの熱を「下げない」というのもなかなか勇気のいることで、難しいところです。




幼少時、小児ぜんそくで薬漬けだったわたし

ところで、『風邪の効用』で「風邪は体を正すために引いている」という概念を知る中で、ふと、自分の昔を思い出しました。

私は二十代くらいまで本当に風邪を引きやすい人でした。
小中高を通じて、1ヶ月に1週間熱で休むなど普通でした。

それだけに、小さな頃から「どうして風邪にかかりやすい人とかかりにくい人がいるのか」を考えていたのだと思います。

「いくら何でもオレだけ風邪引きすぎ」

というように。

でも、これは今回の記事、あるいは、最近の薬の記事などを書いていて、何となく理解してきました。

私は幼稚園に入るより以前から小児ぜんそくで、それ以外にも、赤ちゃんの頃から多くの病気を繰り返していた幼児でした。

50年くらい前とはいえ、病院での治療は今と同じでした。

つまり「薬漬け」。

小学校の中学年くらいまでには、ぜんそくは治ったのですが、その頃すでに私は、

「薬漬けの子ども」

となっていたのでした。

昔、「私の体はワインでできているの」とおっしゃった女優さんがいましたが、

「ぼくの体は薬で作られている」

というほど、生まれてからその頃まで数多くの薬を飲み続けていたのです。

今の薬だけではなく、昔の薬も人の免疫を下げていたはずです。
まして、当時の、ぜんそくの発作の薬というのは、特に「とても強い薬効」を持つものでした。

そんなものをまだ小さなうちから何年も飲んでいた・・・。
もちろん、それがなければ、生きていなかったわけですから、薬に文句があるわけではないです。

しかし、その長年の薬漬けの生活で、幼い私の体の免疫能力は「限界」に近いほどまで低下していたのだと思います。免疫力という神秘というページには、

病気は大きく分けて、(1)免疫力の低下、(2)免疫力の異常(アレルギーと自己免疫疾患)というふたつの現象に起因します。

とあり、つまり、病気というのはいろいろな原因があるとはいえ、その主因は、「免疫が下がること」であることがわかります。

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免疫力と言う神秘


この免疫システムが「崩壊」していたかもしれない私のその後

風邪は毎月引いていて、1ヶ月の間に何度も引くこともありました。

風邪以外にも、私の免疫の弱さは、その後の長期間にわたり、各所に出ました。

まず、「できもの」関係。

ものもらいは中学生になるくらいまで「毎月できていた」といっても過言ではありません。眼帯は家の必需備品でした。

そして、小学生高学年くらいから、背中の上部に「常に吹き出物のようなもの」ができ続けました。そして、寝ている時に掻いていたのか何なのか、背中の上部全体の皮膚がムチャクチャに荒れました。

この背中の跡は 50歳を過ぎた今でも消えていません。
背中の上部全体が変色したままになっています。

ただ、幸いだったのは「背中はふだんは見えない部位」ですので、傍から見れば、とんでもない量のできものが体にできていることは、外からはわからないことでした。

こんな感じで、その他にも鼻やら耳やら、普通はそんなに簡単にならない病気になり続けていて、ちょっとした免疫不全症候群みたいな状態で、いろいろな場所に、いろいろなものがすぐできて、いろいろな病気になる。

そして、なかなか治らない。

その間にも、また風邪を引く。

この頃を思い出して、当時は「どうしてオレはこんなによく風邪を引くんだろう」と思っていて、風邪は単に忌まわしい存在だったのですが、今、野口さんの「風邪は優秀な治療者」という概念を知り、風邪は忌まわしい存在どころか、

「あれらのウイルスは、オレの体を治癒するために、一生懸命、オレに風邪を引かせ続けていたんだ」

と、知るに至りました。

そして、

「自分自身の細胞がウイルスを積極的に取り込んでいたんだ」

ということも。

ものもらいや、できものにも意味があったのでしょう。

「体内の毒が外部に噴出する」というイメージを描きますと、「皮膚の外に出ようとするデキモノの存在」が思い浮かばれます。

多分、当時の私の体の中では「免疫戦争」が起きていたのだと思います。

自分が生き残るために、細胞たちは次々と病原菌やウイルスを自分の中に招き入れる。

そして、風邪なりできものなり、症状が出る。

そのたびに、体の中の何かがリセットされ、改善されていく。

あの時、風邪を引き続けなければ、私は何らかの大きな病気にかかったり、あるいは、本当に免疫が落ちるところまで落ちて、生きていなかったかもしれません。

風邪にかかりやすい体質は、30代になるくらいまで続きました。

その後、次第に風邪を引くことはなくなり、そうして、気づいて見ると、ほとんど風邪にもインフルエンザにもかからない体になっていました。

たまに「不明熱」を出したり、めまい持ちだったしますけれど、それらにも意味があるというより、「そうなる必要があるからなっている」ということなんでしょうね。

私のこのような体験もありますし、お子さんのいらっしゃる方は、薬の投与には慎重になっていただきたいと思います。もちろん、命にかかわるようなものは別として、軽い風邪や病気なら自然に任せた方がいいです。

しかし、そうなりますと、鳥インフルエンザとか、エボラウイルスなどの致死率の高いウイルスも「人間が選んで細胞に招き入れている」と?

取り入れたら自分が死に至るかもしれないウイルスをヒトが体内にとり入れる理由は一体?

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2015年04月17日



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▲ 2015年04月06日の CNN より。なぜ、このニュースを冒頭に貼ったのかは後半で書かせていただきます。



現代の人に蔓延する「不安」と「恐怖」の心

前回の記事、

シュタイナーが「子どもへの詰め込み教育は絶望的な社会を作る」といった100年後に、完全なるその社会ができあがった日本…
 2015年04月16日

は、何だか「不安」を感じさせるような書き方をしているところが多かったです。

読み返してみて、確かに懸念を感じているのは事実としても、「方法を模索する」ならともかく、「不安」とか「絶望」の気持ちを伝播させるようなことは良くないと反省しました。

その記事のタイトルにもあるシュタイナー本人が、『いかにして高次の世界を認識するか』の中で、生きる上で重要なこととして、


あらゆる観点から見て、私が不安を抱いても、何の役にも立たない。私は一切不安を抱いてはいけない。私は、自分は何をするべきなのか、ということだけを考えなくてはならない。


と考えることの必要性を説いていました。

不安、あるいは恐怖や絶望といったものは、最も忌むべき感情(あるいは「感覚」)であるということは、様々な方々が様々に述べているので、ある程度の真理はそこにあるのかもしれません。

これに関しては、最近たまに引き合いに出させていただく中村天風が「なぜ、現代の生活は不安や恐怖が多くなるのか」ということについて、

「現代の人々は、科学教育の弊害として、疑いから考えるようになり、それが多くの人間を、消極的な考えが基本の小さな存在にしてしまっている」

というようなことを言っています。

「現代の人びと」といっても、天風さんが亡くなったのは約 50年前のことで(享年 92歳)、その時代に生きた方の「現代」ですから、今からみれば結構昔ですが、どうして科学教育がそのような傾向を人に持たせるのかというと、以下のように述べています。


科学は証明を必要とする学問であるから、証拠がないと是認しない。証拠がなければ、承諾しない、というのが科学の研究者の態度だ。すなわち、1+1=2というやり方。

ところが、この世の中の事柄が、すべて1+1=2でわからなければ承諾しないという態度で応接すると、むしろわからないものの方が多いという事実を発見するのである。

科学は万能の学問ではない。それは、何事も科学的態度で応接し、1+1=2でなければ承諾しないという考え方で、人生を活きていると、知らない間に、わからない事柄の多い人生の中に、自分のいる姿を発見してしまう。

そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。

これはつまり人生に対する信念が乏しいために他ならない。



「信念」とありますが、これは、何に対しての「信念」かといいますと、中村天風の宇宙観が、

「この宇宙にはすべてを完全にあらしめたいという力が働いている。宇宙真理は不完全なものはない。そして、人間には、その完全である資格が与えられている」

ということで、

・そもそも宇宙は完全なもの
・その宇宙が人間に与えたものも完全なもの


なのだから、とにかく、その作用は「完全」であると。
なので、どんなことでも疑う方向ではなく、「信念」の方向から考える、と。

最近、この中村天風さんの言葉を抜粋することが多いですが、その理由は、確かに私はこの人の本を読んで、気づくことがあったのです。




来世のために私がしなければならないこと

「よくない感覚」の中でも「恐怖」というものの問題。

最近、これについて気づいたことがありました。

クレアの「自分が今生に生まれた理由 - 根源的な恐怖とのバトルの始まりの日に」という日記的な記事に書いたのですけど、私には「幼少からの根源的な恐怖」があります。

これを言葉で説明することは大変に難しいですが、神経症やパニック障害などだけの問題ではなく、人生の上で「厳しかった多くのこと」の基本的な原因はそこにあると思っています。

しかし、なぜ3歳とか4歳とか、そんな小さな時から自分はこの世に対しての根源的な恐怖を持っていたのだろうと考えると、その理由はわからないです。

ただ、今後どれくらいあるかわからない自分の人生の主たる目的が、天風さんの本を読んだ後に翻然と頭の中に出てきたのです。

その「私の目的、あるいは私が生まれた意味」とは、

「この根源的な恐怖と対峙して、これを消し去る」

ことです。

さきほどのクレアの記事のタイトルに「今生」とあります。

つまり、私の今後の人生の「責任」は、

「今生の中、つまり今生きている時代の中で自分の根源的な恐怖を消し去る」

ことだと認識し始めたのです。

この世に「輪廻転生」という概念が仮にあって、そして、それは次の世(来世)に「同じ気質」として伝わっていくのだとすれば、私が今のまま根源的な恐怖を解消しないままで死んでしまうと、

「来世に同じ苦しみを残すことになる」

と気づいたからです。

私はずっとこの「根源的な恐怖」から目をそらしていました。

例えば、不安ならどれだけ極度なものでも、ベンゾジアゼピン系の抗不安剤やお酒をたくさん飲めば、まずは回避できます。

その「消極的な対策」が今まで、どれだけ自分の肉体や脳を破壊し続けていたかは、「ブラック・フラミンゴが現れた地球。そして、数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本」という記事でも記しました。

何しろ、私が持っている不安と恐怖は、大人になってからのものではなく、「記憶があるころから始まっている」という強固なものです。それ以前からあった可能性があります。「生まれた時」から、あるいは、「母親の中で生命として芽生えた瞬間」から、すでに私は根源的な恐怖を持っていた可能性があるのです。

この状態を来世にまで引き延ばすことがどれだけ罪なことかを、最近少し実感したのです。

「もし来世というものがあった場合」ですが、私は、とんでもない大きな傷を次の世に受け継がせていく、ろくでもない存在となります。

いや、実は、来世だの輪廻転生があるかないかなども関係ないかもしれません。
今生を良くするということだけにでも意味はあるとは思います。

不安や恐怖や臆病な心といったものが「悪い」ことは、シュタイナーが『いかにして高次の世界を認識するか』で繰り返し述べていて、つまり、以前から知識としては知っていました。しかし、その時は、「そうなんだろうなあ」と思ってはいたのですが、シュタイナーの本にあるのは、

「翻訳の言葉」

であるのに対し、中村天風さんの言葉は、

「日本語の実録」

でして、それだけストレートに心の中に入ってきたのかもしれません。



恐怖と不安からの解放

ちなみに、『いかにして高次の世界を認識するか』について、

人工 DNA から生命が作られる物質科学の時代に考え直したい 100年前にシュタイナーが唱えた「人類が高次へ移行する方法」
 2014年05月12日

の中でご紹介したことがありますが、「神秘学の学徒になるための条件」として、シュタイナーは以下のように述べています。


私たちが克服しなければならない性質には、怒りや不機嫌のほかに、臆病な心、迷信、偏見を好む心、虚栄心、名誉欲、好奇心、必要のないことを何でも人に話したがる気持ち、人間を外見的な地位や性別や血縁関係をもとに差別する態度、などがあります。



羅列しますと、

・怒り
・不機嫌
・臆病な心
・迷信
・偏見や差別する心
・虚栄心
・名誉欲
・好奇心
・無駄なことをしゃべる


などは「いけないこと」とあり、実は、これは天風さんの言っていることと、ほとんど同じです。

さらに、シュタイナーの本の中に「十二弁の蓮華の育成のための六つの条件」という部分があります。十二弁の蓮華というのは私からの説明は難しいですので、リンクを示しておくにとどめますが、その条件は

(1)自分自身の思考の流れを支配すること
(2)思考の場合とまったく同じような首尾一貫性を行為においても保持する
(3)粘り強さの育成
(4)人間や、ほかの存在や、さまざまな事実に対する寛大な態度(寛容さ)
(5)人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度
(6)ある種の人生の均衡状態(平静さ)を捕獲すること

となっていて、この中の(1)と(5)は、不安や恐怖の心と直結することなんですね。

(1)は、自分自身の思考の流れを支配「できていない」から、不安になったり恐怖する。

(5)は、人生のさまざまな現象に対する「とらわれがある」から不安になったり恐怖する。

つまり、自分の思考の流れを「完全に」支配できている人(1ができている人)は、頭の中にある何らかの不安や恐怖をコントロールできるので、どんな時にも「不安も恐怖の心も抱かない」という人間だと言えると思います。

そして、たとえば、災害、犯罪、天変地異などに直面した時でも、「そういう現象にとらわれない」心がある人(5ができている人)は、恐ろしいと考えられているどんなことも「恐ろしくはない」という人間だということになります。

もちろん、これは非常に難しいことです。

そういう境地で生きている人はものすごく少ないでしょうが、「まったくいないわけではない」とも思います。

そして、私が「今生の責務」として目指さなければいけないのはそこなんです。

これが大変に難しいことはわかります。

私自身の感覚では、自分がそこに行くのは、9割がた無理だと思っています。
いや、可能性はもっともっと低いと思います。

ただし、これからあと何年生きるのかわからないですが、あと 20年とか生きる機会があるのであるとすれば、時間はまだ結構あるのかもしれないですけれど。

生きる時間が長ければ長いほど、「不安や恐怖と直面することが増える」かもしれません。

そして、それがいいのです。

私が、神経症からパニック障害になった意味は、「私に、自分の中にある根源的な恐怖の存在を知らしめるためだった」と今は思います。

そういう意味では、神経症を発症して本当に良かったと思います。

そして、最近の薬のことなどいろいろな知識や考えに行き着いた背景には、最近、繰り返し起きていた「激しいめまい」が関係しています。

これがなければ、薬のことも西洋医学のことも考えもしなかったし、何より、一連のめまいがなければ、私は中村天風さんの存在さえ知らずに生き続けたと思います。

そういう意味で、本当に良いタイミングで、めまいに襲われたのだと思います。
ありがたいことだと思います。

ところで、「めまい」に悩まれている方は、Amazon などで、横浜市立みなと赤十字病院の耳鼻咽喉科部長である新井基洋さんが書かれた本を読まれてみるとよろしいかと思います。

新井さんは、たくさんの本や冊子を出されているので、どの本がいいとかはわからないですが、上のリンクの中のレビューなどを参考にして選ばれるといいかと思います。

めまいの原因は様々でも、「方向感覚を統括しているのは小脳」ですので、その小脳を「めまいに慣らしていく」という方法しか根本的な方法はないことがわかります。

どうするかというと、運動(リハビリ体操)しかないと悟りました。

めまいに薬はほとんど効きません。

そして、めまいが怖いからと長く安静にしていては、悪化していくだけです。
ある程度は自分(の小脳を)をいじめるしかないです。


話が逸れましたが、いずれにしても、私は人生 50年ちょっとにして、やっと「生まれてきた意味がわかった」のでした。

それは先ほども書きましたが、

今の人生の中で、自分の根源的な恐怖を消し去り、次の来世に生まれる人に、私より楽に幸せに生きてもらいたい。

ということです。

もちろん、その意味と責任を達成できる可能性は極めて低いと思います。

多分できないと思います。

そもそも、シュタイナーの言う、

「自分自身の思考の流れを支配すること」

を達成するだけで、何十年かかるものだか。

さらに「人生のさまざまな現象に対するとらわれない」ことについては絶望的な感じがします。

何が起きても平気でいられるなんて。

道を知人と雑談をしながら歩いている時に、知人が突然射殺される。

外で食事をしている時、震度7の地震が起きる。

そういう時でも、「とらわれない」。

難しいと思います。


そして、最も難しいことは、これらには「手っ取り早い方法は存在しない」し、そもそも、「基本的に、方法論というものが存在しない」のです。

いかなるインスタントな方法も存在しないと思います。
手探りしかない。

自分自身で、そのように思って生きるしかない。
だから、時間がかかるのですね。

黙って待っていれば訪れるものではないです。
考えられない苦痛が伴うことが目に見えています。

10年20年で行き着けるものでもないかもしれません。

そして、それは他人が一切介入できるものではなく、いつの時代でも、どんな状況でも、自分1人だけしか、問題の解消はなし得ないものだと思います。

ただ、その難しさはともかくとしても、やっと「生きている意味」がわかったのですから、そのことについては喜ぶべきことだと思っています。

長々と自分のことを書いてしまいました。

ところで、冒頭に「人間の頭部移植 2年以内にも実施? イタリアの医師が計画」という CNN の記事を載せましたのは、今の人々に「不安」や「恐怖」を大きくさせている原因は、「現代の西洋的科学思考」なのではないかと思ったのです。




私たちは「西洋科学的思考」から少し離れた方がいいのでは

天風さんの言葉によれば、人生を「1+1=2(完全に証明できるもの)」としてとらえてしまうのが今の世の中ですが、人生は「1+1=2」の理論だけではとらえきれないことが多く、そのため、天風さんは、


そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。


という言葉にもありますように、また、最近になって書かせていただくことが多くなっている、「薬(西洋薬)」や、西洋医学的手法にしても、

「何かが違っている」

ということが最近になって、理解されてきました。

「間違っている」とは言わないですけど、「何となく違っている」でもいいかもしれません。

たとえば、一般的に、頭痛には痛み止めは効きますし、下痢には下痢止めは効きます。
それは「間違っては」いません。

しかし、その西洋医学の方向そのものが「何かが違っていた」のではないかということも、最近の薬に関しての研究でわかり始めているような気がします。

西洋の医学や科学は、人間を機械として、その部分部部を「部品」のように考え続けてきました。

シュタイナーの言っていたような、人間というものが、

・肉体
・生命体
・感受体
・自我


からなっていて、それが人間であるという考え方とは違うものです。

あるいは、谷口雅春が、以下のようにストレートに西洋医学を批判していたことも思い出します。


医学がますます発達し、いろいろの健康法が数えきれぬほど案出され、それによって癒やされる、あるいは癒やされるように見える病気もたくさんあるにもかかわらず、病者の数がずんずんふえてゆきますのは、医学というものが一方では病気を治しながら、他方では人間の霊的自覚を奪ってゆき物質のまえに人間を無力にしてしまいますから、差し引き計算してみると病気を治す数よりも、病気の起こりやすい精神状態を伝播する範囲の方が広いからです。

(『生命の実相』)



しかし、つい最近まで、「西洋医学的アプローチ」に対しての合理的な反証はなかったこともあり、「違和感」だけで進んできたものが、ここに来て「西洋医学的アプローチのおかしさ」が露呈してきている感があります。

昔の多くの人びとが言っていたことが今になり、現実だとわかる。

現代になって、薬治療は「脳の作用を阻害する」ことが多いため、霊的という言葉は使わなくとも、「多くの薬は、人の認知と思考を衰えさせ続ける」ことがはっきりしてきています。

特に、脳の中でも松果体は血流が多いですので、大きな影響を受けると思います。

そして、冒頭の「頭部の移植手術」などというのは「人間を部品として考えている行為の最たるもの」だと思ったのです。

CNN の記事によりますと、この頭部の手術は、

首から下がまひした患者の頭部を切り離し、脳死と判定された他人の体に移植する――。イタリアの医師が、そんなSFのような移植手術の構想を描いている。米国で6月に開かれる学会で講演して協力者を募る考えだ。

とあり、

・首から下が麻痺した患者の頭部を切り離す
・脳死と判定された他人の体に移植する


ということをしようとしているのですが、何か違和感がある。

そもそも、頭部の神経組織を繋ぐほどの技術があるなら、麻痺そのものを治せるのでは、とか(頭部のすげ替えは動物でも成功したことがありません ← 過去に何度もサルでおこなわれています)。

考え方がもう本来の「医学」とは違う方向に進んでいる。現代の医学は、頭部のすげ替えなんてことができるレベルには到達していないのに、それでもやろうとする。

この状態は、「医学が人々に希望を与える」というより、むしろ「不安と恐怖を与えている」気がするのです。

人間という存在と、まして、その人生や健康は「1+1=2」では語ることはできないという視点が西洋科学的思考にはない・・・あるいは、「失ってしまった」気がするのです。

なお、「科学」、あるいは「哲学」を基本にするのは、相変わらず大事なことです。
科学を基盤にしなければ、何も進まないです。

でも、今の西洋科学思想は、医学も宇宙学も含めて、科学ではなく、むしろオカルトであることが、冒頭の頭部の手術のニュースでもわかるわけで、世界中で大量に使われている抗がん剤が「オカルト」(延命効果がないのに、延命治療として使う)であることも、すでに周知だと思われます。

いわゆるオカルトと科学の立場が逆転している気がします。

風邪を引いて風邪薬を飲むという滑稽さは、確実なオカルトなのに(風邪薬は風邪を治さず、むしろ根本治癒を長引かせます)、でも、みんなそれが「科学のように」思ってきた。

そういう意味から、あくまで、私自身の問題として、「恐怖を取り除く最初の関門は、この西洋的思考から抜け出すこと」だと思った次第です。

そして、真実の科学や医学の感覚を取り戻すこと。

ここで書いたことは、個人的なこととはいえ、日本全体も、そろそろこのあたりに移行してもいい時なのかもしれないなとは少し思います。

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2015年04月16日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





no-future.jpg
・覆面画家バンクシーの作品 No Future


詰め込まれる子どもたち

最近、健康に関して書くことが多いですが、その大きな理由は、

「今の日本人があまりにも心も体も病んでいる」

ことを最近になって知ったからです。

成人の疾病の多くのグラフが爆発的な上昇を示しています。

また、子どもの弱さも目立っています。

児童生徒のぜんそく罹患率と先天性異常発生の推移
zen-01.gif
文部科学省


私は昔、東京の大手タレント養成学校で、小役さんのオーディションとか、 CM 出演のための小さな子どもに演技指導をしていたことがあります。

私が担当していたのは、小学1年生から小学3年生くらいまでの3クラスで、全部で 40人くらいでしたかね。

その時はうちの子どもはまだ赤ちゃんでしたので、最近の小学生がどのような生活を送っているのかを知らなかったんですが、その学校で、生徒さんたちと話しているうちに、

「こんなことになっていたのか」

と驚いたことがありました。

それは、その学校に来ているのが、比較的、経済的に余裕のあるご家庭の人たちが多かったせいもあるのでしょうけれど、子どもたちの、

ほぼ全員が塾に通っている

ということと、

8割以上が塾以外に、習い事をしている

のでした。

小学1年生とか2年生ですよ。

私には、小学生の低学年が塾に通うという概念がまったくなかったので驚いたのと、「そんなに習い事させて何にしたいんだ?」という強烈な価値観の違和感でした。

その中には、小学2年生の男の子で、「1週間に8つ習い事している」と言っていた子もいました。

 「1週間に8つ?」
 「土曜にふたつ行くから」
 「今日、土曜だけど、この後また何か行くの?」
 「英会話」
 「小学2年が英語習ってんの?」
 「うん」
 「どの習い事が楽しい?」
 「楽しいのなんてあるわけないじゃん!」


吐き捨てるように言った後に、苦笑していました。

ちなみに、この学校では、先生や講師たちへのしゃべり方は「敬語で丁寧に」と厳しく決められていましたが、私は子どもに敬語で話しかけられるのが苦手だったので、普通に話してもらっていました。

聞けば、他の子も塾を含めて、3つや4つ習い事をしている子は普通でした。

私はそんな子どもたちの状況を知って切なくなり、それに、この学校もまた「習い事」であって、何だか「習い事ラッシュ」に荷担しているような気がして、その後、学校の講師は辞めました。

しかし、「小学生低学年が塾に行く」というのは、私の子どもの頃は、狂気か冗談のような話でしたけれど、今ではそれほど珍しいものではないようです。

どのくらいの子どもが塾に通っているのかを調べてみると、下のようになっていました。

小学生と中学生の通塾率の推移
juk.gif
Biz STYLE

推移としましては、1970年代から 1980年代くらいまでは、ほとんどの小学生は塾には行っていなかったことがわかります。

1980年
小学生 10%
中学生 40%


それが、理由は知らないですけど、1995年頃から急激に上昇して、2000年代になりますと、

2002年
小学生 40%
中学生 70%


となっていまして、現在は中学生においては、塾に通う方が多数を占めるということになります。

このデータも 10年以上前のものですので、その後どうなっているのかはわからないですが、多分、減ってはいないような気がします。

「こりゃ、日本の学力も低下するよな」

と、その学校で、子どもたちから話を聞いた時に思いました

私は、自分の経験からも、

「詰め込まれた知識や、嫌々おこなう勉強は絶対に身につかない」

と強く思っています。

ちなみに、別に関連はないですけど、上の、塾に通う子どもたちが急速に増えた 1996年くらいから、日本の国際競争力は急速に落ちています。

imd-2012.gif
社会経済状況の変化

私は国際競争力なんてのはどうでもいいのですけれど、日本の子どもたちがどんどんと「学習することを嫌いになっていく」ことが恐ろしいです。ここでいう「学習」とは学校の科目の勉強のことではなく、広範囲な意味においての「学習」です。

子どもは、自分の好きなことは一生懸命やりますから、遊んでいれば、自然と興味のある対象ができて、そして、そのことについて学習します。ですので、基本的には、特に小さな時には「学習に対しての自由」(小さな時には、どんなことでも学習であるという意味で)が最も大事で、そのためには遊ぶことです。

子どもは(少なくとも自分の子どもの時は)強制されたり、そこに自由がないことに気づくと、すぐ、それが嫌いになります。

私は小さな頃は本が大好きでしたが、小学校で「読書感想文」というものを書かされるようになってから嫌いになり、小学校の高学年からは、ほとんど本を読まなくなりました。

読書感想文は全然自由ではなかったですからね。
「定型」の中に入っていなければ、点数はもらえません。

たとえば、「野口英世」を読んだとして、


アフリカはあついので、野口英世もアイスが食べたいとおもったとおもいます。アイスはアフリカで食べてもおいしいとおもいます。うちはアイスはあまり買えないです。でも、お父さんがスイカを畑で作って、トマトも作ってておいしいです。


では、たとえ書いたのが小学生でも、感想文として多分「ダメ」ということになると思います。

しかし、実際に「野口英世」を読んでいる時にそのように思っていたのなら、これは「素直で正直な感想文」ということになるのですが、それではダメというのなら、「感想文ってウソを書くものなのか」という「現実」がわかってしまい、興味など一瞬にして消えます。

個人的にみれば、この感想文は、アフリカの気候的特徴をよくとらえ、そこで苦労した野口英世の苦難を思わせ、そして、そこに感情移入までした後に、自分の父親への感謝も添えるという、大変な労作だと思うのですが、学校側の評価は、多分、あまり良いものとはならないはずです。

私自身、小学校時代、作文にしろ読書感想文にしろ、「書きかえなさい」という旨のことを何度か言われたことがあります。絵などでもダメを出されたことがありますし(天国の様子を書いただけです)、ダメだしは多かったですね。

まあ、私のことはいいです。




詰め込みは現実の成績も含め、あらゆる方向に悪い作用を及ぼす

とにかく、どんなものでも、「知識を詰め込まれて喜ぶ子どもはいない」です。

いや、これは理想論ではないです。

たとえば、「塾に通わせること」に関しては、下のふたつの比較図が、塾と学力上昇とはほとんど関係ないばかりか、むしろ「塾に行くと成績さえも悪くなる」ことを示すのではないかと思います。

各都道府県の中学生通塾率(2014年)
go-juku2.gif
中学生通塾率

塾へ通う生徒の率が最も「低い」のは秋田県です。
では、その秋田県の生徒たちの成績は悪いのでしょうか。


各都道府県の全国学力テスト順位(2014年)
seiseki-zenkoku2.gif
全国学力テスト

これを見ますと、秋田県が成績で日本一です。
秋田県は、塾へ行く子の率が最も「低い」ところです。

東北は、青森などを含めて、「塾へ通う率が低く、成績が高い」傾向が見られます。

それでは、逆に、塾に通う生徒が多い県を見てみます。

特に多いのが、

・神奈川
・奈良
・和歌山


などとなっています。

しかし、学力テストの成績は、その3つの県はどれも全国から見ると成績下位で、つまり「塾に行く率が高い県ほど成績が悪い」という傾向を示していることがわかります。

特に、和歌山県の成績は全国で最も低いレベルとなっています(データ上の説明で悪意はありません。気分を害された方がいらっしゃいましたら、すみません)。

他の多くの県でも、「通塾率」と「学力テストの成績」を比較していただくと、多くが「逆の関係」にあることがわかります。

これを見る限りでは、手っ取り早く子どもの成績を上げたいのでしたら「塾に行かない」という方法が簡単だと思います。

人間はロボットではないですので、自分から、心の底から学びたいと思わないと何も学ばないと思っています。詰め込めば、詰め込むほど、その子どもは学習は身に入らないし、「学習を憎む」ようにさえなっていくように思います。

しかし、成績などはどうでもいいことで、

「詰め込み教育は、さらに深刻な影響をもたらす可能性がある

ことを最近知りました。

下は、約 100年前に、ルドルフ・シュタイナーが人智学協会の会員向けに行った講演の一部です。

シュタイナーの『人間の四つの気質―日常生活のなかの精神科学』というものに収録されています。



シュタイナーの 1912年の神智学協会会員に向けての講演より


大学には多くの学部があり、教授たちが思考と研究以外のことに、一年中かなり駆り立てられています。学生が試験のために知らなくてはならないことを、二、三週間で習得させます。つまり、最も必要なものを詰め込むのです。そのような詰め込みが最悪なのです。

小学校でも詰め込み教育が行われるようになると、その害は想像を絶するものになるでしょう。詰め込み教育の本質は、心魂つまり存在の最奥の核と、詰め込まれるものとの結びつきが、まったくないことです。心魂は詰め込まれる内容に、関心を持てないからです。

習得したものをしっかりと自分のものにしたい、という気持ちがないのです。人間の心魂と自分が習得するものとのあいだに、興味の絆がわずかしかないのです。

その結果、活動的に公的生活に関わることができなくなります。詰め込まれたものが、自分の職業の課題と内的に結びつかないからです。心魂が、頭の活動から遠く離れているのです。

人間にとって、頭の活動と心魂が遠く離れていること以上に悪いことは、他にありません。



戦後の日本の教育は、上の 100年前の講演でシュタイナーが述べていた、

> 小学校でも詰め込み教育が行われるようになると

を具現化したものですが、

> その害は想像を絶するものになるでしょう

とシュタイナーは言っていて、今の日本は、学校だけでも詰め込みなのに、そこに加えて、小学生の 40%が塾に通い、中学生の 70%が塾に通う。

シュタイナーは上のことを述べた後、エーテル体などの単語を使った言葉を述べますが、難しい言葉はともかく、シュタイナーが言うには、詰め込みは、ただ知識が身に入らないだけではなく、

「人間の生命エネルギーを弱くする」

と言っています。

それが問題なのです。
シュタイナーの言っていることが、あまりにも今の日本の「健康的状況」とリンクするからです。




人間の生命エネルギーが弱くなっているかもしれない現在

先ほど、「塾に行くと成績さえも悪くなる」と「さえも」と書きましたが、成績が悪くなることなどはどうでもいいのです。小学生の時の成績など将来の何に関係があるものかと思います。

そんなことより、この「生命エネルギーが弱くなっていく」ことがコワイのです。

生命エネルギーという言い方ではなく、単に「生命力」でもいいですが、確かに、私たち日本人は年々、弱くなっています。

どうしてそうなってしまったのかはわからなくとも、弱くなっています。

身体そのものも弱くなっているでしょうが、「精神系の疾患」の増え方が著しいです。

精神疾患別増加数
Japan-mental-2008.jpg
現代日本でなぜ精神疾患が増えているのか

理由はともかく、ものすごい増加であることは確かです。

ただ、上のグラフで、赤い部分は「うつ病」ですが、これがに関しては、過去記事「ふと思い出す世界を支配する医薬品ビジネス」の後半の方に書きましたが、うつ病が増加した理由は「うつ病啓発キャンペーン」と、抗うつ剤投与を無理矢理上昇させた、ということが大きく、ビジネス的な理由によるものだと思われます。

なので、うつ病は除外しましても、多くが 1999年との比較で、何倍という単位で増えています。

たった 10年ほどの間にどうしてこんなに増えたのか。
さまざまな理由が考えられて、実際のところはよくわからないですが、とにかく、

「日本人は心も体も弱くなっている」

ということは言えるかと思います。

それに加えて、少子化が止まる気配はありません。
その少ない子どもたちも、詰め込みで勉強を「心から憎む」ようになり、そして、時間的余裕もない。
心も弱る。体も弱る。

冷静に考えてみれば、子どもに対して最も大事なことは、

・その子の身体の健康
・その子の心の健全
・生きている上での安心感


くらいでいいわけで、何より、詰め込みが「現実的に成績さえも悪くする」ことは、上のほうの通塾率の分布でもわりと示されていて、詰め込みを続けていると、実際に「知能的にも日本人はどんどん劣ってきてしまう」と思います。

日本の学力低下は著しいですが、詰め込みと塾の増加が続けば、これはさらに徹底的なまでに進むはずです。なので、現実の社会的にも損失の部分が大変に大きいように感じるのです。

そして何より、今以上、日本人の心と体が弱くなった場合、それはもはや日本という国の死活問題になると思うほど、現状の「病気の増加」ぶりはひどいです。




どこかで何かかが歯止めをかけないともう止まらない

さきほど挙げました「精神疾患系の患者数の増加」や「ガンの患者数の増加」などのグラフを見て、お気づきの点がありますでしょうか。

それは、

上昇曲線に高止まりする気配がない

ということです。

グラフは、それ以上に上まで行かなくなりそうな時は、高いところで横ばいのような状態となりますが、上昇の曲線が「上を向いたまま」のものが多いです。

普通にチャート的な考えからですと、それらの疾病は「今後まだまだ増える」ことを示唆します。

こういうことも、少し前までは「化学物質」などが主要な原因かとも思っていましたけれど、しかし、考えてみると、私たちの子どもの時などは今より公害も排気ガスも食品添加物の問題もひどかったはずです。

なので、単純に化学汚染や環境の悪化というだけなら、最近になってこんなに急激に病気の数が増加してくるというのは、「原因の複雑さ」を思います。

理由は単純ではないでしょうけれど、ただ、最近の記事、

健康ブームの中でガンが増え続ける理由…

とか、

数百万人の「ベンゾジアゼピン依存症」が作られている日本

で書いていますように「薬の過度な服用」の影響は少なからずあると思います。

そして、出生してくる子どもたち自体が、

日本の未来 : 子どもに関しての、そして、高齢者に関しての統計データから受けた衝撃
 2015年01月28日

などで書きましたことを含めて、あまりにも急速な変化を見せていて、いよいよ、「普通ではない」ということになっている感じはしませんでしょうか。

その理由も原因も明確なところはわからないとはいえ、どうすれば「良い方」に向かうことができますかね。

もうすでに状況は、崖っぷちにいるのではなく、「崖っぷちを越えている」と認識していますが、崖そのものが完全崩壊するまで進まない手は何かあるのかどうかを知りたいです。

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2015年04月14日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





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Daily Inspiration



二十数年前の下北沢のロックバーにて

昨日、一昨日と、本を読んでいました。

少し前、

健康ブームの中でガンが増え続ける理由 : 世界でもダントツの「薬」消費国である日本は「薬に人間の自己治癒能力を奪われながら」滅ぼされつつあるのかもしれない
 2015年04月10日

という記事を書きましたが、そこでご紹介した松本光正医師の『高血圧はほっとくのが一番』にある、松本医師の、

「人間の体の働きで無駄なものは一切ない」

という言葉に多少感銘を受けたのですが、この方は、中村天風という人に師事していたことが何度も書かれていました。

その人を私は知りませんでしたので、Wikipedia を見ましたら、ひとことで書いてしまえば、「日本初のヨガの行者」ということなんですが、その人生の凄まじい波乱ぶりに圧倒され、この中村天風という人に興味を抱きました。

中村天風( 1876 - 1968年)
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Healing Network

それで、Amazon を探しましたら、中村天風関係の本はいくつもあるのですが、とりあえず最初に出てきた『運命を拓く』というものを買ってみました。

これは中村天風が書いたものというわけではなく、中村天風が創設した「天風会」という場所での講演や修行の場で語っていた言葉がまとめられているものです。

タイトルだけ見ますと、どこかの実業家が書いたような感じですが、この本の巻末の付記に天風会の会員だった堀尾正樹さんという方が書かれたものによりますと、


本書の原典の『天風瞑想録』は、天風会の創始者中村天風が、夏期修練会において、ご自身の悟りを中核として宇宙・生命・人間・人生について講述されたものを、私が十五年かけて心魂を注いでまとめ上げ、昭和六十三年に発表致したものであります。


という「 15年」の歳月をかけてまとめられたものという執念の作品ともいえます。
どんな書籍でも、15年などの時間をかけて編纂されるものは珍しいと思います。

読みますと、中村天風は明治生まれの男性ですから、その口調は激しいものがありますが、この本を読んで、

「腑に落ちる」

部分が最初からたくさんあったのです。

それで、いつものような飛ばし読みではなく、私にしては珍しく、ちゃんと最初から読んで最後まで順番に読んだのでした。

もっとも腑に落ちたのは、中村天風が、この世のすべてを作り、今でもその基本的全存在であるもの(宗教でいう創造主とか)の名称を、仮称として

宇宙霊

と名づけている部分でした。

この言葉からかなり昔のことを思い出したのでした。

もう二十数年前ですが、私が二十代半ばから後半あたりの頃は、よく東京の下北沢あたりでダラダラと飲むことが多かったのですが、その頃、私は酔っぱらうと歩きながら空を眺めて、

「なんか全体にいるんだよな、きっと」

などと思いながら生きていました。

ある日、下北沢の、今はないでしょうけれど、ガソリンアレイというロックバーで飲んでいた時、どういうキッカケか覚えていないですが、お店の人と、

「神はいるかいないか」

というような話になったんですね。

お互いに酔っていて、加えて、当時の私は人生の中で最も「イラついていた」のか、あるいは、今思えば、その頃、サイクル22(第22太陽活動周期)の太陽活動最大期だったことも関係しているのかもしれないですが、当時は喧嘩っぽい流れとなることがとても多かったのです。

ここ 20年くらいは怒るとか喧嘩とかとは無縁ですので、あの頃の状態が自分でも信じられないですが、考えれば、周囲の誰もが喧嘩っ早い時期で、太陽活動の影響が大きかったかもしれません。

ちなみに、サイクル22は、1989年7月が活動最大期でしたが、このサイクル22の黒点相対最大値は 158(太陽活動の観測が始まった 1755年からの平均値は 114 )と、黒点活動が比較的大きな太陽活動周期でした。

まあ、太陽の話は置いておいて、そのガソリンアレイでも、お店の人と喧嘩のようなことになったんですね。そのお店の人は筋金入りの無神論者でした。

「神様なんていない」と。

私は、無宗教ではありますけれど、「無神論者ではない」という部分はあります。

しかし、今もですが、当時も「神とは何なのか」と尋ねられた場合、成立した言葉では対応できないのですよ。

その時も、私は最初は、「まあ、神っぽい感じのはいるんじゃないすかね」みたいな感じだったのが、店の人に、「それはどんなもんだよ」とか言われているうちにイラついてきて、

(ろれつの回っていない状態での会話と思って下さい)

 「名前なんかあるわけないじゃない」
 「名前も言えねえようなものが存在するってのがおかしいだろ」
 「存在するものすべてに名前があるって考えるほうがおかしいだろ」
 「じゃあ、どんなもんか説明しろよ」
 「しいて言えば宇宙全体だよ」
 「あ?」
 「宇宙全部がその存在だって思ってんだよ、オレは」
 「なんだそりゃ?」
 「宇宙神でも宇宙霊でもなんでもいいが、そういうもんだよ」


というような、問答をしたことを思い出します。

もちろん正確なやりとりは覚えていませんが、このような「宇宙神」というような言葉を使ったことは確かで、しかし、その言葉は酔った勢いで口から出ただけで、その後は使ったことはありません。

というのも、わからないものに名称をつけるよりも、その正体は「曖昧なものでいい」と今でも思っているからです。

話を戻しますと、店の雰囲気が怪しくなり、友人が私を引き連れて店を出ました。

友人「ロックバーで神様を巡って喧嘩してんのかよ(苦笑)」
 「いやまあ・・・確かに喧嘩するのはおかしいわな」
友人「オカは、宇宙が神様だと思ってんのか」
 「いや違う。宇宙が神様ってのは便宜上だよ」
友人「じゃあ、何なの?」
 「この世全体的な感じなんだけど、なんか言葉ではうまく表せないんだよな」
友人「神様じゃなくて、奈美様はどうよ」
 「まあ、それでもいいけど」


思えば、この友人って、クレアの「J氏の異次元との接触体験」など、たまにブログに出てくるジローさんなんですけどね( 30年以上も飲み友だちやってんですね・・・)。

そして、中村天風さん・・・いや、「さん」ではなく、日本のヨガの始祖ですから、天風師と表記させていただきましょう。

その天風師の言葉が収められている『運命を拓く』の序章には以下のような記述があるのでした。



中村天風『運命を拓く』序章より抜粋


我々人間ならびにすべての生物は、宇宙が出来てから後に宇宙が創ったのではない ----- ということをはっきりとわからなければいけない。

宗教には、唯神論と汎神論というのがある。唯神論というのは、初めに神がいて、神がこの宇宙を創ったのだということである。

汎神論は、宇宙が出来てから、その中に神が現れたのだということである。

いずれも、神を相手に考えようとする考え方で、これは、今のように、まだ科学が発達していなかったときの人間としては、無理のない考え方である。私がいつもいっているとおり、今から千年二千年経つと、今あるような宗教という宗教は、地上から姿を消してしまうでしょう。

それは、人間の理智が、既成宗教などに頼らなければ活きられないような、哀れで無自覚なものではなくなるからである。

純粋哲学の立場から観察すると、この宇宙というものは、形ある宇宙以前に、すでに形のない宇宙が在った、という真理の探究というものが、行わなければならないのだ。

神とか仏とかいうのは、人間が便宜上、付けた名前だから、このようなものにとらわれてはいけない。

あなたがたは、抽象的で、あまりにも漠然としたものを、やれ、神だ、仏だ、と思っているが、では「神とはどんなものか」と聞かれたら、何と説明するか。「仏とはいかなるものか」と聞かれたら、どう説明するか。見たことも聞いたこともないものに、説明の与えられるはずがない。

(略)

本当の真理から論壇すれば、何も神だの仏だのと頼らなくてもよろしい。

先祖を敬い、先祖を忘れないための、追善供養は必要である。だが、あなた方の神仏に対する信仰は、いつも自己本位な自分の生命や、自分の運命の安全ばかりをこいねがうだけが、目的になっていはしないか。

これを第二義的信仰というのであるが、そのような信仰を持っている人間は、何となく神があり、仏があるように思い、その神や仏がこの宇宙を創っているように思っているが、それは違う。

さきほど、形のある宇宙が出来る前に、すでに、形のない宇宙があったのだ、といったが、形のない宇宙とは何か、まず科学的に考えてみよう。

この宇宙の中に、我々が感覚できるいろいろな森羅万象がある。この森羅万象も、一番初めはいったい、何から出来たんだろうということを、つきつめて考えるという方法で考えてみよう。

一番根本は何か、というと、ただ一つの実在から産み出されたものである。

その実在とは何であろうか。

哲学では、”根本的本源自在”と呼び、科学では、これを極微粒子的なものとして、”エーテル”と名づけている。

哲学のほうでは、人間の感覚では、捉えることの出来ない、茫漠たる、見えざる、一つの”気”であるといっている。これを中国では”霊気”と呼び、日本の儒学者は”正気”といっている。中国の宋代の儒教哲学では、これを”先天の一気”といっている。

いずれにしても、このただ一つのエネルギーを産み出す元が、宇宙を創り出したのである。





ということで、この宇宙観が、二十数年前に私が下北沢で言いたかった感じと似ていたのです。

当時の私には(まあ今もですが)このように言葉で説明することはできなかったのでした。

この天風師の語る宇宙の正体が腑に落ちたと同時に、ここに、

> 形のない宇宙

とあり、これもまたとても腑に落ちたのです。

私がビッグバン理論を受け入れることができない理由が、

突然、存在(モノ)が出現するということはあり得ない。

という点で、たとえば、ビッグバン理論も「式」で示すことができますが、まだ物理の法則ができていない時に「物理の式に乗っ取った運動が存在した」という変な話となってしまいます。

それがどうしても納得できないのでした。

このことは何度か記していますが、最近では、

量子論が導いた「宇宙には終わりも始まりもない」というビッグバン不在の新しいモデルと、ミチオ・カク氏の書く「超反骨のフレッド・ホイル卿」を知った昨今
 2015年02月27日

という記事で書いたことがあります。

しかし、「形のない宇宙」という概念があるのであれば、どのような宇宙論でも、一応は大丈夫なのかなあとも思います。

要するに、ビッグバンでも、天地創造神話でも何でもいいのですが、「宇宙が創られる前は何もなかった」では科学的にも概念的にも、何だかおかしなことになってしまうので、「形のない宇宙」であっても、「何か存在があった」のなら、どんな天地創造の話でも、あるいはどんな科学論でも納得できるのかもしれないと思ったのでした。

ちなみに、天風師は、先ほどの本の中で、

初歩の物理学の定義は、こういうことを我々に教えている。
”同じきものは、どこまで行っても、同じである”


と述べたことが記されています。

ところで、この天風師の述べることは、ジョルダーノ・ブルーノの宇宙と神の理論と似ている部分を感じます。




創造主の正体

上の抜粋部分ではないですが、天風師が、「人間の心は宇宙より広い」ということを理論的に説明している下りがありますが、ずいぶん以前の、

バチカンの希望の砦は「宇宙人という神」の登場
 2011年11月01日

という記事で、ジョルダーノ・ブルーノ - Wikipedia から「ジョルダーノ・ブルーノの宇宙観」の下りを抜粋したことがあります。


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ジョルダーノ・ブルーノ像

ジョルダーノ・ブルーノの宇宙観

ブルーノは無限宇宙が「純粋気体」で満たされていると考えた。これは後に創案される「エーテル」概念のはしりであり、この気体は惑星や恒星の動きに一切影響を及ぼすことはないとされた。

ブルーノの宇宙論で特筆すべきことは、それまで信じられていた宇宙が特定の中心から広がる階層球によって成り立っているという考え方を否定し、地球も太陽も宇宙の一つの星にすぎないと主張したことにあった。

地球だけが特別な星であるという当時の常識に挑戦するかのように、ブルーノは神が宇宙の一部だけに特別に心を配ることはないと考えた。彼にとって神とは心の中に内在する存在であって、宇宙のどこかにある天国にいて地球を見ているものではなかった。



というようにありますが、この

> ブルーノは無限宇宙が「純粋気体」で満たされている

といっていて、この純粋気体というのは、天風師のいうエーテルのことでしょうが、ただ、すごいと思ったのは、ブルーノは「宇宙の姿の現実」を述べていたのに対して、天風師は、

「このエーテル(気)こそがこの世の存在のすべてだ」

と述べているというように理解できるところです。

さらには、「宇宙存在は、すべての人間と常に関係している」ことを繰り返し言っています。

たとえば、下のように述べています。


中村天風『運命を拓く』序章より抜粋

「この現象界に存在する一切の事物の根底は、科学的にのみ見れば、物質的なものであるが、哲学的に観察すれば、どこまでいっても非物質的な、精神的なものである」

すなわち、眼にも見えないし、観念で想定しなければ想定できない”宇宙霊”という一つの気が、全宇宙を支配し、それが宇宙の本質になっている、ということである。とすれば、運命も、健康も、自分の心の思い方、考え方で、良くも悪くもなるのだということがすぐわかるはずである。



の中の、

> 運命も、健康も、自分の心の思い方、考え方で、良くも悪くもなるのだ

というように、人間は自分の考え方次第で、宇宙はそれに呼応した状態をもたらすということを述べているのが、この本の内容のすべてです。

そして、天風師が主張することは、言葉上は難しいものではなく、

・積極的な考えであること(否定的・消極的な考えを持たない)
・口から出る言葉を大事にすること(否定的・消極的な言葉は使わない)
・何にでも感謝すること
・信念を発布すること
・笑うこと


このあたりです。

あとは、「利他(自分の利益ではなく他人や全体などの利益)を考える」ことを徹底するということですね。

これがインドでのヨガの修行で得た悟りのようです。

しかし、これは一見簡単そうですが、よく考えると、非常に難しい。

つまりは、商売で失敗しようが、病気になろうが、イヤなことがあっても、何でも「そのことに感謝して積極的に考える」ということですから。

しかも、偽りの心ではなく、「本心」で。

この「口から出る言葉」に関しては、言霊(コトダマ)という概念とも似ていますが、天風師のヨガの師匠カリアッパ師は、


「創造主によって便利な言葉を我々人間だけに与えられているが、言葉というものが、積極的に表現されたときと、消極的に表現されたときでは、直接的にその実在意識が受ける影響は非常に大きな相違がある」


と言っていたそうで、口に出した言葉は、健在意識から潜在意識へと影響を与えて、つまり、「発した言葉は、現実的に、その人に作用する」ということを何度も何度も言っていたそうです。

下のようなやりとりもあり、これはちょっと笑いました。

天風 「しかし本当に具合が悪いとき、具合が悪いといっちゃいけないんですか」
先生 「具合が悪いとき、具合が悪いといって治るか?」


そりゃそうだなあと思います。

私も体が強いほうではないですので、子どもの頃からかなり多くの病気をしてきましたが、これは真理です。つまり、「具合が悪いとき、具合が悪いといっても病気は治らない」じゃあ、具合が悪い時に「具合が良い」といえば治るかというと、「これはウソになる」ので、これでも治りません(笑)。

なので、具合が悪い時は、具合が悪いままの状態を(命に別状がない場合)「できるだけ気にしない」より他はないということになりそうで、これは、「気になることから気をそらせる」という意味では、神経症治療のひとつである森田療法にも通じるような感じもあります。

そのあたりを考えますと、前回、ベンゾジアゼピン系の薬についての記事を書きましたが、神経症や不安障害の方には、この天風師の本は特に良いものなのかもしれません。

それにしても、あまり意識したことがなかったですけれど、私たちは「」がつく言葉を毎日のようによく使っていますね。「元気」なんてのは「元(もと)の気」ですものね。

今さきほど書きました、

・気にする
・気にしない


なんて、直接的に「気」が使われていますが、言葉の構造上ヘンな連語であることにも気づきます。

要するに「気」というのは名詞ですから、これが例えば、「土」だとすると、

・土にする
・土にしない


と何だかおかしなことになります。
「水」でも、

・水にする
・水にしない


どんな単語でも、この文脈では言葉として成立しないです。
なのに、「気」だけは成立していることに、今、気づきました。

お、気づきました、も「気」だ。

この「気づく」なんてのは、「気」が「くっくつ」わけですかね。

ということは、天風師の言う「気=エーテルが創造主そのもの」であるならば、「気づき」なんて単語は、「人間に創造主がくっついた状態」と考えてもいいのですかね。

無意識で使っていましたけど、「気」のつく言葉はなかなかデカイ話ではあります。




宇宙存在は美と調和の存在で「悪」は含まれない

ところで、天風師の言う「口から出る言葉を積極的・肯定的にすれば、いろいろと良くなる」というのはあまりにも単純な理論に見えますが、それを徹底している人は少ないはずです。

これまで「言霊」という意味を少し難しく考えすぎていましたが、

・言葉と宇宙がつながっている
・宇宙と自分もつながっている


と考えると、ネガティブな言葉がダイレクトに自分にネガティブに返ってくるということは、それほど不自然ではないのかもしれません。

そして、重要なことは、天風師は、

この世は本質的に調和した美しい世界であり、宇宙という存在は否定的な部分を持たない

としていて、否定的な面は「悪魔」がもたらすものだとしています。

私自身は、いわゆるポジティブ・シンキング的な思想はあまり好きではなかったですが、これは好きとか嫌いの問題ではなく、「人類としての責任」のようなもののようです。

なぜなら、口から出た言葉は、自分だけでなく、周囲の人にも響いていくからです。

同時に、言葉の内容はともかくとしても、

宇宙の創造…ひも理論…432Hz…528Hz…ライアー…:数々のシンクロの中で、この世の存在は「音そのもの」であるかもしれないことに確信を持てそうな春の夜
 2015年03月22日

という記事以来、たまにふれることがありますが、

「この世は音そのものかもしれない」

という概念や、聖書の、

「はじめにことばがあった」

という記述など、口から出る言葉には音声周波数を含めて、確かに人格や社会全体の形成に大きく関わるものが含まれていると最近思っています。

まだ解明されていない極微粒子(エーテル)がもしこの宇宙に存在しているのなら、言葉と、そして音の周波数がその微粒子から様々なものを形作り、そこに性格を与えるという図式が生き生きとした状態で頭の中に広がります。

それら、全然ジャンルの違う様々な概念すべてが「まっすぐ一本の線上にある」ということは驚くべきことなのか、あるいは、それが真理なら当たり前のことなのか、それはわかりませんけれど。

それにしても、今までまったく知らなかった中村天風さんですが、ジョルダーノ・ブルーノやフレッド・ホイル博士あたりの宇宙観を知ってからではないと、この「創造主と人間」とか「形のない宇宙」だとかを理解できなかったとも思いますので、今まで知らなかったことはむしろラッキーだったと思います。

中村天風さんに至るまでの道のりが「降圧剤」だったというのは、何だかおもしろい道のりでしたが、とても充実したこの2日間でした。

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