【人類の覚醒と真実】 の記事一覧

2015年01月15日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。




コマではなかったエリートたち : フランスのデモ行進で、各国首脳は市民とは交わらず「安全な別の場所で映像を撮影して編集」していたことが露呈



テレビ報道映像用の撮影風景での「指導者たちの演技」

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▲ 2015年1月12日の Twitter より。場所はパリ11区のヴォルテール駅近く。一般道を閉鎖して、警護した上で撮影した模様。今回ご紹介するドイツの DWN によりますと、多くのメディアがライブ中継を許可されなかったのだそう。




史上最大のデモ行進で、史上最大の「演出」が発覚

シャルリー・エブド事件の話が続いてしまいますが、パリの襲撃事件の後、1月11日には、フランスで 370万人が参加した史上最大のデモ行進が催されました。

その際「市民たちの先頭を切って、世界 50カ国の首脳たちがデモ行進に参加した」というような感じで報じられました。

それは、たとえば、下のように報道などを見まして、

marcher-001.jpg
AFP

その後に、下のような写真を見たりしますと、

mainichi-march-002.jpg
毎日新聞

これらの写真の流れなどから、何となく、

「 370万人の集団の先頭に立ち、民衆を率いる世界の首脳たち」

という勇ましい構図が「勝手に見ている私たちの頭の中で構築されていく」という部分があります。


……ところが。


実は、「民衆を率いてはいなかった」ということが、その後、わかってしまいました。
行進の先頭に、世界の指導者はいなかったのです。

それどころか、デモ行進そのものに参加していたかどうか自体も怪しい流れとなっています(というか、参加していなかったようです)。

どういうことかというと、

各国首脳たちは、閉鎖された別の道路で警備兵に囲まれながら行進に参加している「演技」をした映像を撮影し、それが後に編集されて映像メディアで報道された。

ことが、英国のインディペンデントや、ファイナンシャル・タイムズなど様々なメディアによって暴露されてしまったのです。

今回は、ドイツの Deutsche Wirtschafts Nachrichten (ドイツ経済ニュース)というメディアが、その顛末をまとめていましたので、それをご紹介します。

下がその記事です。

staged-on-street.gif

▲ 2015年1月13日のドイツ Deutsche Wirtschafts Nachrichten より。


上の報道では、Twitter 上に投稿された「各国首脳がデモ行進が行われているのとは違う場所に集って撮影している様子」を数多く掲載しています。

world-leader-fake.gif
Twitter

この場所について、フランスのル・モンド紙は、周囲の風景から「パリの地下鉄駅ヴォルテール近く」だと断定しています。

周囲には一般人の姿があまり見えないですが、事前に交通封鎖がなされたようです。
警護兵たち、あるいは警察官たちの姿が確認できます。

sec-march.gif


それにしても、今回あとでご紹介するこのドイツのメディアの記事は、まだ発表されてから、実質1日なんですが、Facebook の日本語で「いいね」に相当する「 Empfehlen 」の数が、2万以上となっています。

empfehlen.jpg


英語のメディアならともかく、ドイツ語のニュースですので、読んでいるのは、そのほとんどがドイツ人だと考えると、なかなかすごい数だと思います。

いずれにしましても、フランスのデモ行進では、各国首脳たちは、決して「感情に流されてデモに参加したりはせず」に、きちんと身の安全を守りつつ、民衆へのアピールのための映像編集も忘れない、という「まさに現代社会のエリート指導者」そのものといってもいいような部分を見せてくれたのでした。

私は、少し前の記事の「満開する軍事カオス…」という記事で、

パリのデモに参加した 50カ国にも及ぶ各国の首脳たちも、すでに扇動者でも何でもないコマにしか見えないわけですが

というように書きましたが、これは完全に私の考え違いでありました。

50カ国の首脳たちは「決してコマではなかった」ということになりそうです。

むしろ、「熱狂とは関係のない冷静の中にいた」と言えそうです。

あるいは、前回記事の、

「第三次世界大戦が侮辱画から始まるとは誰が想像しえたか」
 2015年01月14日

の中に書きました、「南北戦争時の南部連合将軍アルバート・パイクが 1871年8月15日に書いたとされる手紙」の中にあります、

そこら中にいる市民たちに、世界の少数派の革命家たちから市民各々が自らで守ることを義務づけることによって、市民たちは文明の破壊者たちを駆逐するだろう。

という扇動、あるいは、先導の役割を見事に果たした、あるいは「演じ」たのでありました。

albert-pike-05.jpg
・フリーメーソン33階級「最高大総監」アルバート・パイク氏。Wikipedia より。




すぐに現実化した懸念と予測

ちなみに、今回のフランスの襲撃事件の後に最初に書きました、

シャルリー・エブドは最初の聖戦:1000人の「フランス人イスラム国戦闘員」が過激思想と戦闘スキルを携えて母国に帰還する時
 2015年01月10日

という記事に、米国ノースイースタン大学のテロ専門家マックス・エイブラハム氏の予測として、

エイブラハム氏は、フランスの 600万人のイスラム教徒に対するフランス政府の過激な反動が起きる可能性を予測している。

というものとか、

ジハード主義者の暴力の増加が、フランスの極右過激派たちによるヨーロッパのイスラム教徒たちへの報復攻撃や追放行動につながっていく可能性

を懸念したりしていたわけですが、まったく、その通りの動きになっています。

2015年1月13日のテレ朝newsの記事によれば、

過激派のイスラム教徒によるパリのテロ事件以降、ヨーロッパでは反イスラム感情の高まりが懸念されていて、フランスでは事件後にモスクなどイスラム教の施設を狙った事件が50件以上、発生しています。

とあり、

「テロとの戦い」

という大義名分は瞬間的に消え去っていて、

「反イスラム」

という、過激主義だとかジハード主義だとかは関係なく、「イスラムそのもの」に対しての動きとなっていたりするわけです。

あと、下のニュースなんかも結構ムチャクチャな感じがします。
これは、本題のニュースよりも、後にくっついている方のニュースがかなりのものです。

仏コメディアン逮捕、表現の自由めぐり問題も
TBS News i 2014.01.15

フランスでは、襲撃された新聞社『シャルリエブド』が最新号を出版し、表現の自由を貫く姿勢を明らかにしましたが、一方で、容疑者の名前をもじった文章をソーシャルメディアに投稿したコメディアンが逮捕されるなど、表現の自由をめぐって問題も起きています。

(略)

フランスでは、この他にも12日、飲酒運転で逮捕された男が新聞社を襲撃した兄弟の名前を出し、「クアシ兄弟がもっといればいい」と言ったとして、すぐに裁判が開かれ、この男には本来よりも加算された懲役4年の判決が言い渡されました。

この記事にある、

> 「クアシ兄弟がもっといればいい」と言ったとして、すぐに裁判が開かれ、この男には本来よりも加算された懲役4年の判決が言い渡され

うーん。

1月12日に逮捕されて、1月14日に「懲役4年」。

これは何という罪状での判決なのかわからないですが、普通に読めば、「酔っぱらって暴言を吐いて、懲役4年」というようにも受け取れないでもない感じで……というより、いくら何でも、フランスって、起訴から判決までこんなに早いわけなんですかね。

何だかヨーロッパ社会の一部が均衡を失った状態に陥っている感じもします。


精神の均衡を保つ……といえば、先日の記事でも少し抜粋しましたけれど、クレアなひとときに書きました「2015年からの未来を考えるために知っておきたい 「アメリカ先住民の倫理の智恵」」というアメリカ先住民の倫理規定 20ヶ条の中から最後の5つを抜粋したいと思います。

16. あなたがどのように在るか、あるいはどのように反応するかの意志決定を意識的に行いなさい。あなたの行動のすべてにあなたが責任を持ちなさい。

17. 他の人々のプライバシーと個人的な空間を尊重しなさい。他の人々の財産には決して触れてはいけない。特に、神聖で宗教的なものに関しては。他人のそのようなものに触れることは禁止されている。

18. まず最初に自分自身に対して真実でありなさい。あなた自身があなたを育み、助けられなければ、あなたが他人を育み、助けることはできないのだ。

19. 他の人々の宗教的な信念を尊重しなさい。あなたの信念を他の人々に押しつけてはならない。

20. あなたの幸運を他の人々と共有しなさい。慈愛と関わりなさい。

こういう「自分の心の規律」が、頭のどこかの隅に、ほんの少しでもあって、そして、ほんの少しでも、それに従って行動したりするようになれば、「扇動」や「心の混乱(社会が混乱しても)」から少しは解放されるような気もします。

そんなわけで、いろいろなことが露呈しつつも、世界は何かに向かって着実に進んでいる、あるいは、進まされているのかもしれない空気を感じます。

それでは、最初に書きましたドイツの報道の概要をご紹介します。



Trauermarsch der Staatschefs in Paris war Inszenierung auf Nebenstraße
DWN 2015.01.15


世界の首脳たちのパリでの追悼行進は、他の路上で演じられた


パリでおこなわれた大規模な追悼デモ行進で、世界の指導者たちは人々の先頭に立って歩いてはいなかった。その時、彼らは、閉鎖された道路で治安部隊に守られていた。

この「演劇」は、政治エリートたちと市民たちの間のギャップを示している。

しかし、現代の政治政策者は、自分たちの信頼性を危うくさせないための、このような茶番イベントを行うべきではないと我々は考える。

パリでテロ犠牲者たちの追悼のための壮大な連携が見られた 1月11日の行進の後、これらの首脳たちの写真は、世界中に広まった。


paris-art-event.jpg


この日、すべてのテレビチャンネルには、世界の指導者たちが映され続けた。
それは、世界の指導者たちが市民たちと団結して、追悼行進に参加する構図だった。

しかし、この日、世界中で報道された「市民たちのトップに立って行進する指導者たち」の錯覚は、写真によって、すぐに、それが幻想だと判明した。

指導者たちは、市民たちの先頭にはおらず、実際には、レオン・ブルム通りの閉鎖された道路にいた。そして、指導者たちの後ろにいるのは「市民」ではなく「治安部隊」だった。

これらが撮影された場所は、地下鉄駅のヴォルテール近くだと、ル・モンド氏は確認した。

この日のデモ行進をフルで報道したメディアは、皮肉なことにロシア国営のロシア・トゥディで、この日のデモを5時間の長さで動画報道した。

その動画を、フランスの編集手腕の中を進みながら見ると、キーとなる場面が 2:00:00 から、2:33:05 のシーンにある。政治家たちが手順に従って準備していることがわかるかと思われる。

政治家たちが行進をやめる。
その道路にはなぜか異様な静寂が漂う。
フランスのオランド大統領が仲間たちと場所に向かい、握手をする。

それらの映像は、まるで市民たちと共に行動しているように見えるが、デモに参加した市民たちの中に、指導者たちと握手した者はいないし、ふれあった者も1人もいない。

多分、指導者たちは、撮影現場からリムジンで帰宅したのだろう。

これを最初に報じたのは英国インディペンデントで、英国ミラーも報道した。
ファイナンシャル・タイムズ紙の記者は、ツイッターに以下のように投稿した。

このような”演出”にはいくつかの問題がある。それは、世界のすべての政治社会は誤魔化しであるという真実の陰謀論の意見が育ってしまうということだ。実際、今回のことで、トップのエリート政治家たちは一般大衆の波の中に入ることは決してしないということがわかってしまった。

また、メディアが「真実」を報道していないこともわかってしまった。

しかし、あなたがたは、このことを読者や視聴者たちに伝える必要がある。

そして、第2の問題がある。それは、われわれ DWN を含む報道メディアの多くが、ライブでの取材ができなかったことだ。

したがって、私たちは映像や写真を DPA (ドイツ通信社)から得なければならなかった。
DPA は、非常に慎重に映像・画像を操作する。

ともあれ、「パリの路上で各国の政治指導者たちが、フランスの一般市民たちと共に記念行進をした」ということについては、それはまったく実現していない「幻想」であった。

そして、最も重要なことは「政治とドラマの境界線は一体何なのか?」ということだ。

今回の件が示すことは、政策にも儀式が必要だということだが、問題は、メディアと市民たちが、これらの儀式を広めるもととなってしまったことだ。

今後、市民たちも、あるいは多くのメディアも、政治家のどんな声明をも疑うようになるだろう。

それは、政策が絶望的なピエロとして進むことを示している。

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2015年01月09日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。






・写真クリックで Amazon の
該当ページに行きます。


お知らせといいますか、このたび、In Deep の本が出版される運びとなりました。

「このたび」と書きましたけれど、編集者の方からお話をいただきましたのが1年以上も前のことで、私のほうのいろいろなどもあり、紆余曲折ありましたが、1月23日に発売されるとご連絡をいただきました。出版社は、中矢伸一さんの『日月神示』などを出版されている「ヒカルランド」さんです。


最初は、「ブログの書籍化」ということでお話をいただきました。
自分で気に入っている記事をいくつか選んで、テーマごとにそのまま書籍化する、という感じでした。

しかし、ブログというのは、特に私のブログがそうなのですが、たとえば、強調したい内容などを、

文字を大きくして強調する

とか

このように色や太さなどで強調する

とか、

写真で文字を表現する


などによって自分の意向を読者の方に伝えていく、という部分が大きいです。

このように、感情の強弱や重要部分の表現を「文字と共に、視覚的にもおこなっている」ということが強いこともあり、そのままプレーンな文字にして読みますと、強調や主張が伝わらない部分が多いことに気づきました。

あるいは、私のブログの問題として「余談が多すぎる」(苦笑)ということがあり、これがまた、プレーンなテキストにすると、内容が混乱する混乱する。

実際、普通のテキストにして読んでみますと、

「このままではだめだ」

と思いまして、ブログの書籍化といいながら、結局、翻訳部分以外はすべて書き直しました。
どうしても書き残したい余談は前書きとか後ろ書きに飛ばしたりしています。

ただし、写真はモノクロにはなりますが、載せられるものは、ほぼすべて載せています。

その上で、各章の前に説明を書き加えていまして、記事そのものも書き直した部分が多いことを考えますと、何だかんだと、翻訳部分以外は、ほぼ書き下ろしといっていいかと思います。

選んだ記事としては、時が経てば忘れてしまうような時事的な記事は入れずに、ある程度、今後も継続して話題として出てくるような記事、あるいは、これからも考え続けたいと思われるテーマの記事を選んでいます。なので、かなり古い記事なども抜粋しています。

ちなみに、書籍のタイトルは、

『科学・生命・歴史の [In Deep] 99%隠されている【この世の正体】 今の文明が遺跡となってしまう前に 『これだけは知っておきたい』』

というもので、とても長いですが、私が妙なタイトルをつけようとする中、出版社の方々のご尽力の中で決まったものです。

内容は、

第一章 - 真実の暴露の時代
第二章 - 人類は、そして地球の生命はどこから来たのか
第三章 - 地球で起こっている大異変
第四章 - 人類と太陽の真実の関係
第五章 - 宇宙、そして地球をめぐる天体
第六章 - 未来の人類へのメッセージ


他に前後に、

前書き - 夢と現実のシンクロニシティの中で
後書き - 十数年ぶりの目覚め


となっています。

第二章の「人類は、そして地球の生命はどこから来たのか」というのは、パンスペルミア説についての記事のことです。

また、第六章の「未来の人類へのメッセージ」は、うお座の「階級的社会」から、みずがめ座の「女性性の覚醒の時代」へと向かうというようなことなどを含めて書いた記事をいくつか書き直しています。

後書きでは、セルフ23の演劇時代からの自分の人生とのシンクロニシティなどを漠然と書きました。

なんだかんだと 300ページほどもある結構な量となってしまい、途中で読み飽きる危険性もありますが、この本の中に、少しでも読まれる方々にとって、そして自分にとっても、資料的な意味で後々参考などになる部分があればいいなとは思うのですが。

いずれにしましても、私の本が出るなどというようなことも最初で最後だと思いますし、モニュメント的なものとしましても、出版できたことは嬉しく思います。

お声をかけてくださった編集者の方と、そして、何よりいつもブログ In Deep を読んでくださっている皆様に感謝したいと思います。

それと、アイルランドのジェシーにも感謝したいです(誰だ?)。

まあ、そのことはおいおい記すとして(そういう余談ばかり書くから無駄な部分が多くなるのです)、次の記事からしばらくの間、 In Deep の記事の左上に書籍のお知らせをさせていただきますね。

発売は1月23日からで、Amazonに、予約ページがあります。

よろしくお願いいたします。

そして、重ね重ね、読者の皆さんには感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。
ありがとうございます。

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2015年01月04日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





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▲ 2014年11月7日の Discovery News より。




その死者を愛した者だけが幽霊を見るという語句に誘われて

河北新報に興味深い記事が出ていました。

霊、時には癒やしに 男性、被災地で幽霊話取材
 河北新報 2015.01.04

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全文は上のリンクからお読みいただくとして、内容としては、奥野修司さんというジャーナリストの方が、東日本大震災の被災地で、「犠牲者の霊を見た家族や知人から聞き取りを進めている」というものでした。

そのジャーナリストの方が、幽霊の取材を始めたきっかけについては、以下のように答えていました。

「岡部医院(名取市)の看取り医療の取材で『お迎え』の重要性に気付いた。いまわの際に、亡くなった両親や親類を見る人は死に方が穏やか。その延長線で霊を見た人が被災地に多いと聞いた。『うちの患者は2割くらい見ている』と言う医師もいた。もう特殊な現象ではないと感じた」

とのことで、「もう特殊な現象ではない」というのは「被災地で故人の幽霊を見ること」が特殊な現象ではないということです。現地のお医者さんによっては、患者さんの「2割ほど」が幽霊を見ているということもあるのだそう。

そして、実は興味を持ったのは、ここまでの部分ではなく、以下の下りでした。

なぜ幽霊を見る遺族がいるのだろう」という質問に対して、ジャーナリストの方は、

「亡くなった家族への強い思いが霊を見させるのかもしれない。殴られたり怒鳴られたりした、憎悪の対象だった家族の霊を見たという話は聞かない」

と述べています。

> 憎悪の対象だった家族の霊を見たという話は聞かない。

ここに興味を持ったのですね。

つまり、「愛されて死んでいった人が、その人を愛した人によって見られる幽霊の話だけが存在する」ということだと思います。

逆にいえば、憎悪の対象だった家族が亡くなっても、その故人を憎悪していた人たちはその人の幽霊を見ない。

こうなりますと、幽霊の存在の有無はともかくとして、

「見る方(故人を愛した生きている方)にも、幽霊を見るメカニズムが働いているのでは?」

ということが言えそうな気がします。

そういえば、私がまだ中学生くらいの時だったと思いますが、父親が、父方の祖父の幽霊を見た時の話を私にしてくれたことがあります。

父方は、祖父が先に亡くなったのですが、亡くなってすぐ後のお葬式前後だったと言っていたと記憶していますが、実家の廊下を歩いていた祖母の背中に亡くなった祖父がおぶさっていた(あるいは、寄り添うようにしていた)のだそうです。

祖母自身は、自分が祖父の幽霊(のようなもの)が背中におぶさっていることには気づいていなかったようで、私の父親だけが後ろからその光景を見ていたそうです。

うちの父親は非常に真面目な人物で、変な冗談を言うような人ではないので、本当に見たのだと思いますが、その時にも私は今回の東北での幽霊と同じような「出る方(幽霊)ではなく、見る方(送る家族・知人など)が主体なのではないのかな」と感じたことがあります。

というのも、その時、私は父に、

私 「今までも幽霊を見たことがあるの?」

と聞いたのですが、父は、

父 「いや、ない」

と言っていたからです。

幽霊など1度も見たことのない父親が(その後も見ていないとすれば)、唯一見たのが、自分の父親が母親の背中に寄り添っている幽霊だったとすると、「幽霊の存在って、出る方じゃなく、受け手にあるのでは?」と何となく思いました。

もっと、極論として書きますと、

幽霊という存在が存在しているのではなく、私たちの心や体の中に《それを存在させる》メカニズムがあるのではないか。

というようなことを思ったりもします。




幽霊の存在する場所

そして実は、そのことについての実験についてを報道したのが冒頭に貼った「幽霊たちは私たちの脳の中に存在している?」という昨年のディスカバリーのニュースなのです。このニュースは、昨年の11月に BBC などでも報道されまして、その時にご紹介しようかどうか迷いました。

結局、その時はご紹介しなかったのですが、今回の河北新報の記事を読みまして、この記事を思い出しました。

この実験は、スイス連邦工科大学ローザンヌ校という大学の実験室で行われた「脳の感覚に干渉する実験」で、その結果として、被験者は、「実際にはその実験室には存在していない対象の存在を感じた」ことが確かめられたもので、被験者の中には、4人の幽霊の存在を感じた人もいたそうで、この実験により、

幽霊の存在は、私たちの脳の中にある感覚把握機能に異常が生じた場合に、自らの脳の中で作り出されている可能性がある。

ことを述べています。

今回は後でこのディスカバリーの記事をご紹介したいと思います。

このスイスの実験の主張では「幽霊存在そのものはない」というようなことになっていますが、しかし、私自身は、先の父の幽霊目撃の話を聞いた時にも思いましたように、幽霊の存在の有無が大事なのではなく、「幽霊を見る」ということが重要なことのような感じはするのです。

「愛した人が見ることのできる存在」ということが重要だと言い換えてもいいかもしれません。

先ほどの河北新報の記事で、被災地で幽霊取材をしている奥野修司さんは、取材に以下のようなことを答えています。それぞれ抜粋です。

「幽霊がいるかいないかを議論すると泥沼に入る。その人が見たという事実だけを素直に受け止めようと考えた。」

「お迎えもそうだが、科学的に証明できない体験はすぐに、せん妄とか幻覚とかで処理され、病気扱いされる。人間には科学で説明できない領域がたくさんある。幽霊がマイナスの作用をしない限り、分からないけれど、そういうものがあってもいいと受け止めることが大事ではないか」

「これまで否定されてきたこと、いかがわしいと切り捨てられてきたものを再評価したい気持ちが、私の仕事の根本にある。新しい価値観を見つけることで、新しい世界が生まれる。社会の選択肢が多くなる」

私はこの方の言う「新しい価値観を見つけることで、新しい世界が生まれる」ということはとても正しいことだと思います。

私自身に関していえば、回りくどく書きますと、幽霊の存在は実質的にはあると思います。

「実質的には」と書いたのは、「存在はしないかもしれない」と考えているからです。

しかし、存在しようがしまいが、故人を愛した人々は、その故人の霊を確かに見ている。
この意味で、「実質的には存在している」ことに異論の余地はないと思われます。

過去記事の、

人類は宇宙へは行けないし、異星人たちも地球には来られないことを悟る中、人々から「神の存在が消えていっている」ことも知る
 2014年10月29日

では、ロンドンの調査会社が、イギリスの成人 1,500 人と、子ども 500 人を対象として「スピリチュアルなものの何を信じるか」という調査をしたことを記事にしました。

成人に関しての結果は以下のようになりました。

英国の成人が信じる超自然的な存在トップ5

1位 幽霊( 55 %)
2位 エイリアン( 51 %)
3位 UFO( 42 %)
4位 天使( 27 %)
5位 神( 25 %)

信じるものの成人のトップは「幽霊」でした。
この数程度の調査なら、イギリスの全国民を調査しても、それほど誤差は出ないと思われます。

さらに、

2600年前のブッダが語った「無数の宇宙 / パラレルワールド」が現代の量子論の中で蘇る中で感じること
 2014年11月05日

という記事では、アメリカの成人 2500人を対象としたさまざまな現象を信じる割合」を調査した結果を記しましたが、「幽霊」に関しては、アメリカでは、成人全体の 52% が幽霊の存在を信じているという結果とななっていました。

この比率はイギリス人成人の

「幽霊( 55 %) 」

と、さほど変わらない割合ですので、英米に関しては、どちらも約半数程度の人が幽霊の存在を信じているということになりそうです。

ちなみに、日本に関しては、2013年7月に調査されたものがあります。

幽霊の存在を信じる57.4% 女性の5人に1人は心霊体験あり
DD News 2013.07.23

インターネット調査のネオマーケティングが「ホラーに関する調査」を実施、その結果を発表した。調査は2013年7月4日〜8日の5日間、20歳〜59歳の全国の男女500名を対象に行われた。

幽霊の存在を信じるか、という質問には、全体で57.4%が「はい」と回答し、半数を超える人が幽霊の存在を信じていることがわかった。

また男女別の集計では、「はい」と回答した男性が50.8%に対して女性は64.0%と差が生まれたことから、男性よりも女性の方が幽霊の存在を信じている割合が高いと言えそうだ。

日本人の場合は男女差があるようですが、総計では、やはり大体半数くらいのようです。

ところで、私自身は、先ほど書いたよりも正確に書きますと、幽霊というものは実質的には存在するにしても、それは受け手(見る側)の事象であり、外部的なものとして存在するとは思っていません

なぜかというと、「死後の霊の外部的存在」を肯定してしまうと、「死にも邪魔されることのない人間の意志の永遠性」を否定してしまうことになるような気がするからです。

ジョン・レノンの曲に DNA を修復するといわれるソルフェジオ周波数 528Hz コード「だけ」で作られていたものがあることに気づいた日
 2014年08月26日

という記事で、ビートルズの 528Hz ワンコード進行となった「トゥモロー・ネバー・ノウズ」という曲のことを書いたことがありますが、トゥモロー・ネバー・ノウズの歌詞の最初の部分の日本語訳は下のようなものです。

こころのスイッチを切って、
リラックスして
流れに任せなさい

死んでいくのではない
死んでいくのではない


この歌詞は、ティモシー・リアリーという人の書いた『チベットの死者の書―サイケデリック・バージョン』に触発され、ジョン・レノンが書いたものですが、その中に、以下のような下りがあります。

『チベットの死者の書―サイケデリック・バージョン』より

このことを覚えておいてもらいたい。
休みない生命電気の向こうに、究極のリアリティ、空(くう)があることを。
形や色をもったものに形成されないあなた自身の意識は本質的に空なのだ。
最終的なリアリティ。
完全な善。
完全な平和。
光。

この空(くう)は無ではない。
カオスであり、混沌なのだ。
カオスは始まりであると同時に終わりであり、絶え間なく変化しながら輝き、脈動し、至福をもたらす。

これは「死」というものは、宇宙が生まれた時と同様の「カオス」に戻るということを示していそうな感じで、そのカオスは「絶え間なく変化しながら輝き、脈動」しながら、次の生(誕生)に輪廻するという考えが、この書で説かれているわけですが、まあ、私もおおむねそのようなものだろうとは思いますけれど、そうなると、

「死んだ後に、生前の姿形を持っていることは許されない」

はずです。

人間が死んだ瞬間に、その意識は、「形や色をもったものに形成されない」自分自身の意識に転換していくのだとすると、目に見えるような生前の痕跡はあってはならないことです。

それが「死という現象」なのだとすると、幽霊というものは「死者からの関わりではなく、生きているものの働きによって出現する」と思えて仕方ないのです。

もちろん、そうではないかもしれませんし、これはあくまで私の考えです。

しかし、このことを思ってからは、むしろお墓参りなどに行くことが多くなりました。生きている自分と死後のカオスを結ぶ接点が、「死者に対しての強い思い」であるように思うからです。

このあたりは、ちょっとうまくお伝えできなくて、すみません。




大量死の時代に

そういえば、河北新報の記事には、ジャーナリストの方が、

「長年取り組んだ沖縄の取材でも、沖縄戦の直後、たくさんの幽霊話があったと聞いた。今後も何か大きな災いがあった時、霊を見る人間が増えるかもしれない。」

と述べている部分がありますが、ふと思えば、現在は、

赤い月と黒い太陽: 2014年から 2015年まで「4回連続する皆既月食」がすべてユダヤ教の重要宗教祭事の日とシンクロ…
 2014年04月06日

などをはじめとして何度か記している「犠牲の時代」になるかもしれない、ということがあります。

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2014年4月15日から 2015年9月28日までの期間が、「大量死の時期」になる予感というようなことを書いたりしていました。その理由については、上の記事などをご覧いただければ幸いです。

そして、2014年に起きた様々な災害や事故や病気を見ていますと、あながち、それも単なる思い込みだけとも思えない部分もありました。

しかし、ここでふと「 20世紀という時代そのものが、かつてない大量死の時代だった」ことを思い出したのでした。

それを思い出したのは、作家の埴谷雄高さんと、長編小説『死霊』(しれい)を、 NHK 教育が「5夜連続」で取り上げた 1995年のテレビ番組『埴谷雄高・独白「死霊」の世界』という番組の中での以下のナレーションを思い出したことによるものでした。

『埴谷雄高・独白「死霊」の世界』より

20世紀は革命と大量死の時代である。『死霊』の作者埴谷雄高氏の出発を支えたものは、こうした死者たちの犠牲の上に生きのびてきたという認識であり、死者たちへの責任を果たすという悲壮な決意であった。

『死霊』の扉には次のような言葉が掲げられている。

 悪意と深淵の間に彷徨いつつ
 宇宙のごとく
 私語する死霊達

つまり、生者に見捨てられた死者たちがこの小説の主人公なのである。

その 20世紀がどれだけ凄まじい大量死の時代だったかというと、戦争と共産主義による粛正と病気だけをとりましても、以下のようになります。

これらの死者数はどれも正確な数はわからなく、資料によりまちまちですが、1900年代以降だけで、

戦争の死者数

・第1次世界大戦の死者数  852 万人 
・第2次世界大戦の死者数 5565万人(8500万人とする統計もあり)
・ベトナム戦争 236万人
・朝鮮戦争 300万人
・アフガン内戦 150万人
・スーダン内戦 150万人


他にも 100万人単位で死者が出ている戦争は、ナイジェリアのビアフラ内戦とか、カンボジア内戦とか、モザンビーク内戦とか、いろいろとあります。


共産主義政権の粛正による死者数

・スターリンによるソ連の大粛正 最大で 700万人
・毛沢東による中国の文化大革命 5000万人から 8000万人(実際は不明)
・ポル・ポトによるカンボジアでの粛正 200万人(実際は不明)
・北朝鮮 200万人
・ベトナム 100万人
・東欧 100万人



病気の死者数

・スペインかぜ(1918年〜)での死者 4000万人〜5000万人
・エイズでの死者(累計) 2500万人〜3300万人


もうキリがないですが、20世紀というのは、このような時代でもあったんですね。

これからの世の中でも、たくさんの死者が発生する可能性もあり、そして、多くの「幽霊」たちが、私たちの存在と共に地上に現れるのかもしれません。

それでは、ここから、ディスカバリー・ニュースの記事です。



Do Ghosts Live in Our Brains?
Discovery 2014.11.07

幽霊は私たちの脳の中にいる?

experience1-hd.jpg


目隠しをされた研究の参加者たちは、彼らの背後のロボット装置によって、参加者たちに幽霊の錯覚につながる歪んだ認識をもたらされた。

この研究が、幽霊を信じる人たちの考えを変えることはないかもしれないが、しかし、研究者たちは、幽霊存在は「私たちの心の中にだけ住んでいる」とする証拠を得たと語る。

生物学専門誌カレント・バイオロジー( Current Biology )で発表された研究によると、科学は、人々が「実際には存在しない存在」の感覚を取得することを説明できるとしている。

研究では、参加者たちの脳の感覚入力を妨害することによって、研究室内で幽霊の感覚を再現することに成功した。相反する感覚運動信号に直面した時、参加者たちは最高で4人の幽霊を感じたと語った。

参加者の中には、実験を停止するかどうかを尋ねた時に、取り乱した人もいた。

参加者たちは目隠しをされ、体の前に手をもっていき、動かすように求められた。ロボット装置は、彼らの動きを再現しながら、彼らの背中に触れた。

参加者の動きに対して、ロボットのタッチが遅れた場合に、それが歪んだ空間認識を作り出し、それが幽霊の錯覚へとつながったと研究者たちは言う。

MRI による解析で、実験の参加者たちの脳は、3つの空間位置と関係する感覚と、自己認識に関しての領域が干渉を受けたことを確認した。

スイス連邦工科大学ローザンヌ校 認知神経科学研究所の所長オラフ・ブランケ( Olaf Blanke )博士は、「今回の私たちの研究は、実験室において、人間ではない存在の感覚を誘発した初めてのものとなります」とプレスリリースで述べている。

そして、「これ(存在しない幽霊の存在を感じること)は、競合する感覚運動信号を通して、通常の条件下でも(実験室ではなくとも)発生する可能性があることを示すものです」と述べた。

この感覚は、精神障害を持っている患者で発生する可能性があると同時に、正常で健康な精神の人々でも、異常な状況下に置かれることで発生する可能性があると、ランケ博士は言う。

研究をおこなったギウリオ・ロッニニ( Giulio Rognini )氏は、「私たちの脳は、空間の中の体に、いくつかの描写を持っています」と述べる。

そして、以下のように語った。

「通常の条件下では、これらの描写から自己の統一した自己認識を組み立てることが可能です。しかし、病気の時や、あるいは今回の実験のように、ロボットなどによって、この自己認識が正しく働かない場合、自分の身体のふたつめの描写が自分の中に作られる可能性があるのです。この場合は、(自分の動きにも関わらず)それを自分だとは認識せず、何か他の『存在』として認識するのです」




(訳者注) ここまでです。

あまりわかりやすい内容とはいえないですが、つまり、

脳の自己認識と空間認識をつかさどる場所の認識を妨害すると、自分の動きを自分の動きとして認識せず、「他の何かの存在」として認識する。

ということだと思います。

また、ブランケ博士は「この状態は精神に障害のある人に発生しやすい」というようなことを言っていますが、一部の精神疾患や一部の認知症で多発する幻覚もこのような仕組かもしれません。

また、博士は、

「正常で健康な精神の人々でも、異常な状況下に置かれることで発生する可能性がある」

と言っていますが、人々が経験する可能性のある中で、最大の「異常な状況下」は、やはり「災害」だと思ってしまいます。

ジャーナリストの奥野修司さんが、記事で、「今後も何か大きな災いがあった時、霊を見る人間が増えるかもしれない。」と述べていましたが、確かにそうかもしれません。

この世に生きていて最も自分の精神が混乱することは、愛する人の死や負傷であるのは多くの人びとに共通だと思います。

もちろん、幽霊の存在に関して、今回のこのひとつの実験で語られるというものではないです。
ただ、このスイスの実験のようなタイプの「霊体験」は、私も存在すると思います。

しかし、その一方で、「それともまた違う存在」というような可能性もあるわけでして、そのあたりは、結局、私たちひとりひとりの霊といったようなものに対しての考えや、スピリチュアルに対しての考え方によるものなのかもしれないです。

そして、ひとりひとりが違う認識でいいのだと思います。

愛する人に絡む問題の「霊」に関して、何かひとつの概念に断定する必要はないはずです。

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2014年12月28日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





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▲ ジョン・レノンは、1975年に息子のショーン・レノンが誕生したことをきっかけに音楽活動を停止し、数年間、育児に専念していたことを知りました。映画『ジョン・レノン、ニューヨーク』より。



友人の命日を前に

今日も昨日の記事に引き続いて、時事ネタではなく、雑談のような、日記のような曖昧な記事となってしまいました。体調ではなく、メンタル的にボーッとした感じから抜けきれません。

まあその・・・今年の始めの記事、

地球サイズの黒点を眺めながら「必ず今年終わるこの世」を神(のようなもの)に誓って
 2014年01月09日

の中に少し書かせてもらったことがありますが、私が人生の中で、最もお世話になった友人の田中くんという人が昨年の暮れに 48歳で亡くなったんです。私にとっては、本当の意味で緊密だった人(ほんの数人)の中での、初めての死でした。

そして、明日(12月29日)が田中くんの命日なんですよね。

田中くんは下の写真のスタンリー・キューブリック監督とよく似た顔立ちと体型の人でした。

cp-2014.jpg

▲ 2014年02月23日の過去記事「スタンリー・キューブリックとT氏のふたりの亡霊に私はまたも月の世界へ引き戻される」より。


明日、一周忌のお墓参りに行くのですが、ここ数日、何だかいろいろと考えることが多いです。

ところで上の記事に、私は以下のようなことを書いていました。

「個人的な宇宙の部分的な崩壊」という意味では、今年 2014年という年は異常なほど鮮明に記憶される年であることが確定して、そして、第5宇宙だか第6宇宙だか忘れましたけれど、ホピ族のいう「現在の宇宙の終わり」であり、あるいはアステカの人々が、現在の太陽神トナティウの時代が終わる時とした「その年」にいる自分を感じます。

sun-god-2014b.jpg

▲ 過去記事「アステカ神話の過去4つの世界と太陽。そして、現在の太陽トナティウの時代の終わりは」より、アステカ文明の暦に刻まれる過去の4つの太陽の時代。

・第1の太陽アトルは、水の太陽。
・第2の太陽オセロトルは、ジャガーの太陽。
・第3の太陽キアウトルは雨の太陽。
・第4の太陽エヘカトルは風の太陽。
・第5の太陽(現在の太陽)オリン(トナティウ)は地震の太陽。

と書いていまして、そういえば、「 2014年で現在の太陽(第5の太陽)の世界は終わる」というようなことを、かつて書いていたことを思い出しました。

スピリチュアル系の話に過ぎないと言われればそれまでなんですが、ここらあたりの概念からは、

2015年は、まったく新しい世界へ突入する最初の年となる可能性がある

ということなのかもしれません。

序盤は荒れて始まる時代のような気もしますけれど。




言葉が宇宙を突き進んでいく

昨日からうちの子どもが奥さんのほうの実家に遊びに行っていまして、そういう日は、奥さんと飲みに行くか、部屋で映画を見たりすることが多いんですが、昨日、

「こんなのテレビでやってたんで録画したんだけど」

と、奥さんはテレビで放映されていたという映画を再生し始めました。それは『ジョン・レノン, ニューヨーク』(原題: Lennon NYC)という、2010年のドキュメント映画でした。

1971年から 1980年に殺されるまでの9年間、ジョン・レノンが過ごしたニューヨークでの生活を周囲の人々の証言や残された映像を元に構成したものでした。

映画自体は面白かったですが、オノ・ヨーコさんがいろいろ語る度に「カチン」と頭の中で小さく弾けるものがありまして、まあ別に、ビートルズが解散した原因がヨーコさんにあるというわけではないんでしょうけれども、私はビートルズ時代のジョン・レノンは神がかっていたと思っていますが、ソロ以降はどうもあの「後光的ともいえる音楽性」がやや見出しにくくなっていたことがあります。

ビートルズ時代のジョン・レノンの曲は、たとえば、過去記事の、

ジョン・レノンの曲に DNA を修復するといわれるソルフェジオ周波数 528Hz コード「だけ」で作られていた…
 2014年08月26日

で取り上げました、ジョン・レノンが、『チベットの死者の書―サイケデリック・バージョン』という書に触発されて書き上げた 528Hz ワンコード進行の「トゥモロー・ネバー・ノウズ」とか、基本はメロウなポップスなのに、そこに実験的な要素を詰め込みまくった「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」などの「神がかり性」は、ちょっと異常なほどだったと思いますが、しかし、これらをなし得たのも、ジョン・レノンひとりの力ではなく、ビートルズの他のメンバーとその演奏があったからこそのものだとも思います。

そして、今回のタイトルに入れました、

我らが導師(グル)、神に勝利あれ

というのも、ビートルズ時代のジョン・レノンの「アクロス・ザ・ユニヴァース - Wikipedia」 ( Across the Universe )という曲の中の一節なんです。

この曲は英語の歌詞ですが、その中で、繰り返し出てくる、

Jai Guru Deva Om(ジャイ・グル・デイヴァ・オム)

というフレーズだけは「サンスクリット語」で、その意味が「我らが導師、神に勝利あれ」を意味するのだそうです。

この曲に対して、ジョン・レノンは、

「本当に良い歌は、メロディーがなくても歌詞だけでその価値を見出せる歌であり、それに該当する曲こそが、『アクロス・ザ・ユニヴァース』である」

と述べたということが Wikipedia に書かれています。

jai-guru-deva.jpg

▲ アクロス・ザ・ユニヴァースのプロモのようなもの(下に動画があります)より、ビートルズのメンバーのが「 JAI GURU DEV 」と書かれた服を着ている光景より。


歌詞の最初の方は以下のようなものです。


アクロス・ザ・ユニヴァース(1969年)

終わりのない雨が紙コップに降り注ぐように
言葉が飛び出してくる
宇宙を横切り、言葉は滑るように進んでいく
喜びが波のように私の開いた心を漂う
私を捕らえて私を優しく包み込む

Jai Guru Deva Om(我らが導師、神に勝利あれ)

何も私の世界を変えようとはしていない
何も私の世界を変えようとはしていない





ちなみに、ドキュメント映画での当時のスタッフの証言では、ジョン・レノンはこれらの歌詞をあらかじめ書くということはなかったようです。

スタジオのセッションの中で、「自然とこれらの歌詞が口から出てくる」のだそう。

ビートルズ時代の後記のジョン・レノンの多くの曲はそんなものだったようです。

音楽版の自動書記みたいなもののようで、確かに彼は「何か」に取り憑かれていたのか、あるいは好かれていたのかもしれません。

そして、この曲の歌詞のこの部分だけ見ますと、「存在」が宇宙を突き進んでいくのではなく、「言葉」が進んでいくというような概念を語っているようで、言葉から宇宙が始まったという聖書の記述などを連想させるものでもあります。

ヨハネによる福音書 1章 1-3節

初めに言があった。言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

こういう神がかった曲を作ったジョン・レノンですが、しかし、私がこのドキュメント映画『ジョン・レノン、ニューヨーク』で、もっとも印象的だったのは、「ジョン・レノンが、専業主夫として子育てに専念していた数年間があった」ということでした。

それが冒頭の写真です。




オムツ替えの中で謙虚さを取り戻す男性たち

ジョン・レノンは、息子のショーン・レノンが下の写真くらいになるまで、というより、1980年に射殺されるまで主夫として子育てを続けたのですね。

john-lennon-1980.jpg


その当時の数々の写真やフィルムなどが残っているのですが、ミルクをあげ、おんぶして、多分おむつの世話もしていたのだと思います(オノ・ヨーコさんが育児している写真はありません。笑)。

私も育児は小さな頃から奥さんと交代でおこなってきましたが、男の人は子育てをやると結構「傲慢さが消えていったりして」なかかないいものだと思いますよ。

どんなに偉ぶっても、「あかちゃんの泣き声とうんちには勝てない」ということで、最初から赤ちゃんに対して勝てないことがわかりますので、「この世には自分の力ではどうにもならないことがある」というような瞑想の境地さえ獲得することができる人もいるかもしれません。

まず、おむつを替えるあたりで、自分の自尊心が一皮剝けていきますからね。

「どうやっても、俺が赤ちゃんのうんちから逃げられる日はない」

と思いつつ、気づけば、そういう時代もいつのまにか過ぎていたりする。

それに、赤ちゃんの頃から緊密に接して育てていると(人によるでしょうけれど)、子どもの言うことにわりと真面目に耳を傾けることが多くなるような気がします。

先日の、

フランシスコ・シリーズ:神学上でも啓示学上でも難解な「動物の魂と動物の死後の問題」に気軽に介入した法王の発言で巻き起る議論
 2014年12月19日

の中に、ルドルフ・シュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』の中の以下の下りを書いたことがあります。

子どもが話す言葉に耳を傾けるのは、すべての人に有益な結果をもたらします。すぐれた賢者ですら、子どもたちから計り知れないほど多くのことを学ぶことができるのです。

「子どもの話を謙虚に聞きなさい」ということのようですが、そういえば、経営の神様とも言われた、パナソニック創業者の松下幸之助さんも同じ考えを持っていたことを最近知りました。

私のお知り合いが、若い頃、松下幸之助さんの会社にいたそうなのですが、新人研修中に松下さんご本人が新人たちの前に直接やってきて会話をしたのだそうですが、その中で、松下さんは、

「小さい子供の言う事をよく聞くんやで。子供やからと適当に相手にしてたらあかん。小さい子供は時々、なるほどなあと思うような勉強になる事や、仕事の参考になる事を言うからな」

とおっしゃっていたのだそうです。

経営の神様は、子どもの言うことに真摯に向きあっていたようです。

そういえば、先日、子どもと一緒に散らかったものを片付けていた時に、「ややさびしい夏の思い出」が出てきました。

夏休みに知人から立派なメロンを頂いたのですね。

下の写真は適当なものですが、こういう感じに切って食べていました。

melon.jpg
kitanogurume

食べ終わった時に、子どもが、「これ・・・」と呟いて、メロンの皮をじっと見続けています。何事かを考えているようです。

そして、

「これ、船のかたちだよね」

と言いました。

さらに、

「乾かしたら・・・水に浮くかな?」

と訊いてきます。

「うーん、どうだろう」と私は答えるだけで、何しろ、確かに食べ終えたメロンの皮など干したことがないので、どうなるのかよくわかりません。

しかし、どうやら子どもの頭の中には、下のようなイメージが広がっているらしい。

melon-dream.jpg
Writing Your Destiny


「まあ、実際に乾かしてみないとわからないから、乾かしてみよう。今は太陽の光がすごいから、あっという間にカラカラに乾燥するよ」

というように私は言いまして、ベランダで乾かすことにしました。

食べた後のメロンの皮は果肉が残されている部分がわりとあるせいか、強力な太陽の下でも、1日では完全には乾燥せず、2〜3日放置していました。

そして、何日後かに乾燥した、食べた後のメロンの皮。

上の美しいボートのイメージのようになったかどうかというと。

melon-after.jpg

(笑)

あからさまに彼の想像とは違ったものになってしまったようで、「乾いたよ」と見せにいくと、この奇妙なものを見た途端に興味を失ったようです。

しかし興味は失ったとはいえ、紙には「すてないでね」と書いてあり、これは今でもそのままですので、勝手に捨てるわけにもいかず、今でも「夢のメロン船」は、何となく部屋に置かれたままになっています。彼も数ヶ月に一度ほど、これを手に取り、感慨深げに何事かを考えたりしています。

もしかすると、「若気の至りよのう」などと考えているのかもしれません。


今日も雑談で申し訳ありませんでした。

明日は午後からお墓参りですが、行き先は東京の田町で、天気予報では、どうやら明日の東京は天候が大荒れとなる模様です。

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2014年12月22日



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Akademia Witalnosci



まさかの場所での「本物」のエキストラバージンオリーブオイルとの出会い

今日の記事は時事とは関係ないですが、ぜひ書かせていただきたいと思いました。

最近まったく更新していない日記ブログのクレアなひとときですが、夏前に、

ツバメへの愛とラモーンズへの愛
 2014年06月16日

という記事を書いたことがありました。

私の奥さんの高校からの友人に版画家の小川美奈子さんという方がいらして、個展やグループ展などをおこなう際には、私もたまに行かせていただいています。

最近も、『きもちをかたちに-展』というグループ展をされていて、昨日(12月21日)が最終日ということで、東京の高尾というところに家族で行きました。

十人ほどの方々のグループ展ということで、1人1人のブースはかなり小さなものだったのですが、それぞれの作家さんの作品を展示して、また、販売もしていました。

その一画のテーブル上に、オリーブの実とオリーブオイルが置いてあることに気づきました。
オリーブオイルはとても小さな瓶に入った商品です。

実は私はオリーブオイルが大好きなので、興味を持って眺めていると、近くにいた女性が、

「こちらの方、小豆島(しょうどしま)からいらっしゃったんですよ」

と、そのテーブルの横に座っている二十代と思しき素朴な感じの女性を紹介してくれました。

「ああ、小豆島ですか・・・って、えーとそれは確か・・・」

と、私がすぐには思い出せないでいると、

「瀬戸内海にあるんです」

とその女性。

後で調べましたら、小豆島は下の場所でした。

shoudo-shima.gif
小豆島で暮らそう


 「えーと、じゃあ、このオリーブオイルは小豆島で作ったもので?」
女性「はい。うちの実家が小豆島でオリーブを栽培しているんです」
 「じゃあ、完全な自家製のオリーブオイルなんですね」
女性「小豆島に障がいを持つ方々の働き場としてオリーブオイル工場施設があるんです」
 「へえ、じゃあ、これは混じりけなしの小豆島産の本物なんですね」
女性「はい」


私が、

> 混じりけなしの本物なんですね

などと言ったのには訳があって、最近、

「市場に出回っているエキストラバージンオリーブオイルの9割はニセモノ」

というような情報というのか、そういう話が広く出回っているからです。
たとえば、下のような報道です。

オリーブオイルの「エキストラバージン」は「偽物」ばかり スーパー陳列の8〜9割は国際規格に合っていない 
J-Cast ニュース 2014.10.20

健康志向から需要が拡大しているオリーブオイル。なかでも、生の実から油分だけを搾り取った「バージンオリーブオイル」の最高品質、「エキストラバージンオリーブオイル」は大人気だ。

ところが、最近は世界規模でエキストラバージンオリーブオイルの偽装がまん延しているそうなのだ。(略)

偽装オリーブオイルの多くは、低級の植物油に植物エキスで香りや色づけしたり、瓶などに規格基準の違うラベルを貼ったり、架空の生産者の名前やそれらしいブランド名をつけたりといった手口で販売。とくに高値がつくエキストラバージンオリーブオイルでは、安物のオイルから不快な味とにおいを取り除き、わからないように精製加工する方法がまん延しているそうだ。

国際オリーブ協会というものがあって、エキストラバージンオイルとして認められる判断基準として定められているのは、

・オリーブの実だけを原料に使用していること
・精製されていないこと
・酸化していないこと
・風味に悪臭などの欠陥がひとつもないこと

だそうですが、上の記事によると、

> 関係者によると「国内のスーパーなどに出回っている8〜9割は『エキストラバージン』とは言えません」という。

というようなことになっているのだそう。

確かに、最近のスーパーでのオリーブオイルの「安さ」は気になっていました。

大手スーパーなら、どこでも 700ミリリットル程度の量のサイズの「エキストラバージンオイル」と銘打っている商品が 600円とか 700円とかで売っています。

上の記事にありますように「8割から9割がニセモノ」だとすると、多分、私が今まで使っていた格安のエキストラバージンオイルは、すべてニセモノだった可能性があるのですが、しかし「比較基準がない」ので、どうにもならない面はありました。

要するに、Aという商品とBという商品を比べてみても、「どちらも違うテイストのニセモノ」であった場合、「どちらがより本物に近いニセモノか」ということ自体もわからないわけです。

ただ、上の4つの条件を見てみますと、今まで使っていた格安の「エキストラバージンオイル」で、

・酸化していないこと
・風味に悪臭などの欠陥がひとつもないこと


に関しては、差として感じる商品はありました。

特に「酸化している」と感じることはとても多いです。

まあ、何にしても、どうやら、それが外国産であろうと日本産であろうと、スーバーなどに格安で並べられているものは、ニセモノとは言わないまでも、厳密な意味でのエキストラバージンオイルでないものがほとんど、という可能性は高いようです。

そんな報道を最近見たことなどもありまして、先ほどの「混じりけなしの本物なんですね」という言葉が出たわけですが、当然、次の行動として、

「日本産のピュアなエキストラバージンオイルかあ」

と、オミヤゲとしてひとつ買ってみようかと、ひとつ取り上げて、値段を見て、私は、

「な……」

と一瞬たじろぎました。

・ 182グラム 4,000円
・ 45グラム 1,200円


とあるのです。
グラムはミリリットルとほぼ同じと考えていいと思います。

4,000円のほうは諦めましたが、45グラムでも 1,200円。

45グラムの瓶というと、コショウなんかの入った小さな瓶を少し長くした程度のとても小さな瓶です。

グラムをミリリットルと置き換えますと、これはスーパーで売っているエキストラバージンオイルの「数十倍の価格」となります。

具体的には、 700ミリリットル程度の量に換算しますと、大体ですけれど、

1本 18,000円くらいの商品

というような計算になります。

「うーむ」

と私は心の中で唸りながら、そういえば、先ほど説明してくれていた女性が、「障がい者の方々が」と言っていたことに気づきました。

下は、買ったオリーブオイルの商品についていたパンフレットからの抜粋ですが、

ひまわりの家では、障がいを持つ人たちの就労の場の確保と工賃増加をめざして小豆島の特産物であるオリーブを使った事業に取り組む独自の活動を行っています。

ということは、少なくとも利益先行ということはなさそうです。

 「もしかすると、この価格でも採算ギリギリなくらいとかですか?」
女性「そうだと思います」
 「ということは・・・スーパーあたりで売っているあの数百円という価格は・・・」
女性「あれはまあ・・・(苦笑)」
 「普通に作ると、エキストラバージンオイルってこのくらいになるのですね」


そんなわけで、結局その 1,200円の小さな瓶のエキストラバージンオイルを買ったのです(今となっては大きいほうを買っておけば良かったと後悔しています)。

下の写真が実物大くらいです。

extra-virgin-oliveoil.jpg




これまで使っていたエキストラバージンオイルがすべて純正でなかったことに気づいた瞬間

家に帰った後、試してみようと思いましたが、

「料理に使ったら、サラダなんかでも一瞬でなくなる量だしなあ」

と、スプーンに少し注ぎ飲んでみました。

「なんと!」

kaibara.gif


ここで私は悟りました。

私が今まで買って使っていた「エキストラバージンオリーブオイル」とされていたものは、そうではなかったことを。

本当のエキストラバージンオリーブオイルというものは、油というより、むしろ、オリーブのジュースに近い感じのもののようです。

オリーブの香りはそのままで、スーパーなどの商品によくある酸化したスカスカの香りはまったくありません。加えて、市販されているエキストラバージンオリーブオイルにありがちな「喉を通る時に痛みさえ感じるほどのえぐみ」はなく、爽やかで穏やかな苦みがあるだけです。

うちの子どもなども興味を持ち、スプーンでそのまま飲み、「おいしい」と言っていました。

それにしても、本当のエキストラバージンオイルの味を知ったことに加えて、今回わかったことは、

本来の製造方法で国際基準に合わせて作った場合、エキストラバージンオリーブオイルというものはものすごい高価で貴重なもの

ということです。
特別なものであって、日常的にドバドバと使うようなものではないということでした。

かといって、オリーブオイルそのものはいつでも使いたいですけれど、スーパーに1本2万円のオリーブオイルが置いてあったとしても、買う人がいるとも思えません。

ということを考えますと、現状の「純粋とはいえないエキストラバージンオイル」の存在は、それはそれでいいのだと思います。1本数百円で買えるからこそ、使い放題使えるわけであって、特に加熱する料理の場合だと、さほど差はないと思います。

ですので、普段のオリーブオイルはそのままで、こういう純正のものも、たまに、少し贅沢して買うということでよいのだと思います。

私の買ったこのオリーブオイルがオンラインで購入できるのかどうかを今、問い合わせていますが、購入したオリーブオイルの箱に入っていた紙には、URL が記されています。それを辿りますと、「社会福祉法人 ひまわり福祉施設 ひまわりの家」のウェブサイトが表示されました。

ここで作られているようです。

購入方法は今のところわからないですが、商品紹介ページには「オンラインショップ」という文字も見えますので、多分、何らかの方法で購入できると思われます。ちなみに、サイトの方には、私の買った 45グラムのものはなく、182グラム 4,000円のものだけが掲載されていました。

商品紹介ページには、

利用者のみんなでオリーブ苗木から育て、摘み取り、実を絞った 100%小豆島産のオリーブオイルです。加熱処理や化学処理は一切おこなっていない、まるでジュースのような黄金の滴です。

とありまして、苗木から育てていることも知ります。

182グラムというのは、一般の 700ミリリットル前後のオリーブオイルの4分の1くらい量で、それで 4,000円は、購入するのに勇気のいる価格ですが、今のがなくなった時に、オンラインで購入できるのなら、したいと思っています。

サイトを読みますと、この素晴らしいオリーブオイルを作っているのは、障がいのある方々のようで、昔からですが、私はそのような方々と縁がある人生が続いています。

ふと、このオリーブオイルを作られている「社会福祉法人 ひまわり福祉施設」のサイトの理事長挨拶というページを見てみると、理事長のお名前は「岡 裕」さん!

何が「!」なのかと思われるかもしれないですが、私の名字が岡であることに加えて、「裕」という漢字はうちの子どもの名前の二字の漢字のうちのひとつなのです。うちの子どもは「岡裕〇」という名前なのですよ。

oka-hiroshi.jpg

うーん。なんかシンクロしてる。

ついでに、この法人の設立された 1987年ってのは、私がセルフ23という劇団のようなものを設立した年だなあと思い出します。

いろいろと縁深いなあと思います。




人生の中で連綿と続いていること

私が今住んでいる場所に越してきたのは3年前ですが、ここに来るまで、私はこのあたりに何があるのかとか、どんな場所だかなども知りませんでした。

越して来てすぐに、家の裏手に「所沢通信基地」という米軍の通信基地があることは散歩していて知りました。この所沢通信基地は見かけは地味ですが、所沢通信基地 - Wikipedia によりますと、

近年、米軍資料から所沢通信基地を含む世界14ヶ国にある通信基地を対象にアメリカ大統領もしくは国防長官などから核攻撃実施部隊への「緊急行動メッセージ " EAM " 」を米本土から遠隔操作で伝達可能にする近代化計画がある。

という「全面核戦争」などという事態の際に活躍する通信施設になる計画もあるようです。

同時に、「じゃあ、今住んでいるあたりはアメリカの敵側にとっては最重要攻撃ポイントなわけだ」とも理解しました。日本が戦争に巻き込まれたりした場合は、このあたりは雨あられとミサイルが降り注ぎそうです。

米軍施設のほうはどうでもいいのですが、越して来た時に、もうひとつ気づいたこととしては、この街に「障がいを持つ方がものすごく多い」ことでした。

その理由はわからなかったのですが、しばらくしてわかりました。

これも私の家のすぐ近くなんですが、国立障害者リハビリテーションセンターという「日本で最大」の障害者リハビリセンターがあるのです。

家から徒歩で 10分もかからないところにあります。

その施設面積の広大さは、下の地図でもおわかりかと思います。

shin-tokorozawa-map.gif


ちょっとわかりにくいかもしれないですが、米軍所沢通信基地と指している長方形の部分が、米軍基地の面積で、国立障害者リハビリテーションセンターはそこと防衛医大と隣接していて、所沢通信基地の4〜5分の1ほどの面積を占める広大なリハビリセンターです。

地元では「国リハ」と呼ばれています。

そんなわけで、私の住む最寄りの駅は、日本の各地から障がいを持つ方々が集まる場所でもあったことを、その時に知ったのでした。

私の家から駅までは徒歩5分くらいですが、その道の途中で杖を持つ方(目に障害のある方)や車椅子の方と会わない時はありません。

学校も多いせいか、小中高の学生さんたちと、障害者の方々と、そこに私たちのような住人が常に同居しているといえる街です。

また、このあたりの食べ物屋、あるいは居酒屋なども、車椅子の人たちなどが入ることのできるようにしている店が多く、障がいのある方の宴会などもよく目にします。

全部の店ではないですが、わりと地域全体として、そのような感じの共同意識が存在します。

私も、ここに越してきてからは、必然的に、生活の上で障がいを持つ方の手助けをすることが多くなりました。

私は小学生の子どもを持ちますが、「ここに越してきてよかったなあ」と思うのは、そのあたりのこともあります。何がよかったかというと、障がいのある方々と共存している風景がごく普通である、という経験をできているからです。

このあたりの小学生(中学生も高校生もですが)たちは、障がいを持つ人を毎日数多く見ているわけで、自然と「この世の中にはそういう人たちがいる」ことを「日常」と思って生きているはずです。

もちろん、だからといって、特に優しい子が多いとかそういうことではないです。

人間社会はそんな単純なものではありません。たとえば、この街は「日本で最も振り込め詐欺被害が多い地域のひとつ」でもあります。ただまあ、これは逆にいえば、人のいいお年寄りが多いことが原因でもありそうですが。

話を戻しますと、普通だと、こういう形で「障がいを持つ方々と地域が自然と共存している街」の中で生活するということはないわけで、住む都市によっては、「障がいを持つ人を見たことがない」ような子どもたちだっているはずです。

そういう子どもたちにとって、障がいは何か特別なものというような見方となってしまうもののように思います(もちろん、それはその子どもが悪いのではないです)。

しかし、この街では、障がいと共存している風景が普通なのです。繰り返し書きますけど、だからといって、良い子が多いとか、そんな意味ではないです。でも、このあたりの子どもちは、ほんの少しだけ「他人に対しての偏見が少ない」という面はあるかもしれません。

思えば、私自身が幼い頃からいろいろな人たちと付き合ったり、見ていたりしている中で、これは自分自身にも言いたいですけど、「あらゆる偏見がなくなればいいのになあ」という理想みたいなものがあります。




ほぼ 100パーセントに入ることのできなかった子どもたち

幼稚園の頃(今から四十数年前)、私は小児ぜんそくで、ほとんど幼稚園に行っていなかったのですが、仮病で休んだ時も多く、そういう時はひとりで散歩するか、あるいは家の裏のほうにあった、今では児童養護施設と呼ばれますが、当時は「孤児院」と言われた施設に遊びに行っていました。

幼稚園児でしたので、孤児院が何かについては理解していなかったかもしれません。

しかし、当時の私は、幼稚園の友だちより孤児院で知り合った友だちと遊んでいる方が楽しくて、また、当時の孤児院は「外から施設と関係のない子どもが勝手に入っても何も言われない」のでした(ただし、「孤児たちは施設から外にはなかなか出られない」ということもありました)。

でも、孤児院に遊びに行った日は、親や周囲にはそのことを言いませんでした。

地域的なものかもしれないですが、なぜか、その頃には「そんな子どもたちと遊んじゃいけません」的な雰囲気があったのです。

でも、「どうして遊んじゃだめなんだろう」という、その理由がわかりませんでした。だから、「遊びに行ったという事実を言わない」という方法しかありませんでした。この頃から私は親に「ウソ」を言うようになったのでしょうね。

他にもいろいろなことがありましたけれど、長くなりますので、話を大人になるまで飛ばします。

今度は、私に子どもが与えられて、また「新しい世界」を知ることになります。

ずいぶん以前ですが、

3歳までことばを持たなかった私の子どものこと
 2012年05月08日

という記事を書いたことがありますが、タイトル通り、うちの子は3歳まで発語がなかったんです。

赤ちゃんの言語機能通過率(何歳までに意味のある言葉を話すようになるか)というのは、わりと基準が厳密に決まっていまして、下のようになっています。

language-01.gif
厚生労働省調査 - 乳幼児の言語機能通過率

赤で囲んだ部分は、「1歳7ヶ月までには約 98パーセントの子どもが言葉を話すようになる」ということを示します。

これが2歳までとなりますと、ほぼ 100パーセントに近くなります。

これを越えて意味のある言葉が出ない場合、つまり、「ほぼ 100パーセントに入ることのできなかった子どもたち」は、言語コミュニケーション能力が年齢相応に達していない状態と判断されます。

こうなると、必然的に療育と呼ばれるものを受けるために、何らかの施設に通う子どもたちが多くなります。

ちなみに、2歳を過ぎた後は、日本版デンバー式発達スクリーニング検査などによりますと、

・3歳で単語 800語を習得し、三語文以上の複語文が出始める
・4歳では習得単語は 1700語


と、加速度的に言葉を体得していきます。

これらは教えなくとも自然と習得していくものなのですから、幼児期の習得力というのはものすごいものだと思います。

何にせよ、うちの子はその3歳になる頃でも発語がなかったのでした。

そして、私は自主的な行動として、東京杉並区にある、たんぽぽ園という療育施設に相談をして、2歳半の頃から週に一度、通いました。連れて行くのは最初の半年は私で、後に奥さんと交代でおこないました。

そこでは基本的に先生と親と子どもたちが全員でひとつのことを行うので、自分の子ども以外の子どもたちとの交流も多くなり、また、子どもを連れてくるのはほとんどお母さんばかりで、お父さんは珍しかったので、私はちょっとした人気者でした(笑)。

その療育施設で、私は、この世にはこんなにたくさんの「ほぼ 100パーセントから外れた子どもたちがいる」ことを知ることになります。発達障害の子どももいれば、他の障がいを持つ子、あるいはうちの子のように言葉を発さない理由がわからない子どもたちもいました。

そういう子どもたちの世界は「知らなければ知らないまま」だったと思いますが、私は、うちの子どものお陰で、その世界や、あるいは、懸命に子どもたちの自立の手助けをしている人々がたくさんいることを知ります。

うちの子は、3歳を過ぎて突然普通に話を始めて、幼稚園に行く頃には、大体、年齢相応の会話をするようになりました。

そういえば、今の家からいちばん近い小児科の医師は、小児科医師であると共に、この近所では他にはあまりいない「小児神経科専門医」でもあり、この病院にもさまざまな子どもたちがやってきます。

何だか長く書いてしまいましたが、自分とその周辺を含めて、小さな頃から、いろいろと障がいを持つ人々との関わりが強い中で生きてきた感じがあります。他人目線としての接触ではなく、うちの子どものことなども含めて、当事者的な立場で関わることも多かったです。

何より私自身が現実としては「健常者ではない」です。

そして、今回初めて口にした「本物のエキストラバージンオリーブオイル」は瀬戸内海にある小さな島で、そのような人々によって作られていることを知りました。

ちなみに、もうそのオリーブオイルは瓶の3分の1くらいしか残りがありません。つД`)
無理してでも 182グラムの買っておけば良かった。

[追記] オンライン注文の問い合わせに対して、社会福祉法人ひまわり福祉会の管理人の方からご返信がありました。

その中に、

当施設で搾油していますので、大量販売することはできませんが、ご理解のある小さな店舗や、島内の土産物店で販売しているところです。最近、岡様のようなご支持が少しずつ広がり、直接ご注文いただくことが増えてまいりました。大変ありがたいことと感謝しております。売り上げはすべて障害者の給料になります。

とありまして、少しの注文でしたら、電話又はメール、FAXで送料着払いで送ってくださるようです。

売り上げはすべて障がい者の方の給料となるようです。

お勧めしたいですが、しかし、大量に注文するのはご勘弁を。

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2014年12月20日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





サイバー攻撃を受けた際のソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントのウェブサイト画面

sep-hack-top.jpg
Marc's Security Ramblings



サイバー戦争を仕掛けようとしているのは誰なのか?

アメリカのソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントがサイバー攻撃を受けて大量の情報が流出し、その後、脅迫等により北朝鮮に関してのパロディ映画「ザ・インタビュー」が公開中止に追い込まれたという事件が最近ありました。

このサイバー攻撃を仕掛けたのは誰かということについて、今朝の報道を見てみますと、アメリカの FBI は、北朝鮮の仕業と「断定」したという報道を見ました。

ロイターの報道には、

ソニーへのサイバー攻撃、北朝鮮の犯行断定 米大統領「相応の対応」 
ロイター 2014.12.20

オバマ米大統領は19日、ソニー の米映画子会社、ソニー・ピクチャーズエンタテインメント(SPE)に対するサイバー攻撃について、北朝鮮の犯行との見方を示し、対抗措置を講じる考えを表明した。

またサイバー攻撃の引き金となったとみられる金正恩・北朝鮮第1書記の暗殺を題材にしたコメディー映画「ザ・インタビュー」の公開中止をSPEが決定したことについて、間違った判断との認識を示した。(略)

FBIは攻撃に使用された悪意のあるソフト(マルウエア)を分析した結果、北朝鮮による過去のサイバー攻撃で使用されたものと極めて類似しているとの見方を示した。

ただ北朝鮮の犯行だと断定した詳しい経緯については明らかにしなかった。

これに対し、北朝鮮外交官はロイターに対し、北朝鮮政府はSPEに対するサイバー攻撃に関与していないと反論した。

とあり、この記事の最後は、

過度に厳しい措置を講じれば、北朝鮮をかえって刺激し、サイバー戦争へとエスカレートする危うさをはらむ。

と締められていました。

記事に、

> FBIは北朝鮮の犯行だと断定した詳しい経緯については明らかにしなかった。

とありますように、どうもよくある感じの「真実が曖昧なままトラブル状態にもつれこむ」というような感じの雰囲気が強く感じられる流れとなっているのですが、3日くらい前、アメリカのセキュリティ研究家のマーク・ロジャーズという人が、

「今回のソニーへのサイバー攻撃は北朝鮮によるものではない」

と、こちらも「断定」に近い形で自身のブログに記しています。

sony-hack-02.gif

▲ 2014年12月18日の Marc's Security Ramblings より。


これは、「その 10の理由」という形式で書かれていますが、目を引くのが、「このハッカー攻撃では北朝鮮で実際に使用されている朝鮮語で書かれていない」ことを筆頭の理由にあげていることです。

このブログについては、12月19日の IT Media ニュースの「SPE攻撃は北朝鮮が命令」と米当局が判断か、依然疑問の声もという記事でも書かれていますので、抜粋します。

セキュリティ研究者のマーク・ロジャース氏は自身のブログで、北朝鮮の関与は「あり得ないと思う」との見方を示した。

その根拠として、攻撃者が使っている英語の誤りには、朝鮮語使用者にありがちな典型的な誤りが一切なく、英語使用者が意図的に誤った英文を書いた疑いがあると指摘する。

また、SPE攻撃に使われたマルウェアが朝鮮語のPCで作成されたと伝えられている点については、「むしろ北朝鮮である可能性は薄くなる。北朝鮮では伝統的な『朝鮮語』ではなく独自の方言を使っていて、伝統的な朝鮮語は禁止されている」と解説した。

私もこの記事で初めて知ったのですが、

北朝鮮と南朝鮮(韓国)では、同じ朝鮮語でも「違う意味として」使われている

ものが多いのだそう。

話がそれるかもしれないですが、興味深かったので、このことを記します。




北朝鮮国民と韓国人との間では朝鮮語でのコミュニケーションはあまりできない

私は、北朝鮮と韓国は、国家として違うだけで、まったく同じ意味での朝鮮語を話しているのかと思っていましたが、そうではないようなのです。

下の 2009年11月2日のボイス・オブ・アメリカの記事では、「脱北した韓国に暮らす1万数千人の北朝鮮の人々が言葉の壁で苦労している」ことが報じられています。

kolean-language-separate.gif
VOA

さらに、2006年8月30日のニューヨーク・タイムズの記事でも、同じことを取り上げていまして、その中に、

2001年の調査では、北朝鮮からの脱北者の中で、韓国の言葉を理解している人の数は、わずか 24%であることがわかった。

とあります。

方言レベル以上の意味の違いがあるようなのです。

たとえば、同じハングルの綴りの朝鮮語で、韓国で「タコ」の意味が、北朝鮮では「イカ」だったりとか、あるいは、北朝鮮には「ドライブ」とか「ショッピング」の意味の朝鮮語が存在しなかったり(2001年時点)と、同じ朝鮮語でありながら、実質はかなり違うものであるようです。

ということは、韓国の人も、北朝鮮の言葉は「理解できない部分が多い」ということが言えそうで、たとえば、韓国の人たちが北朝鮮の国営通信テレビの報道を見ても、「理解できる部分と理解できない部分がある」ということになりそうです。

こういうことを知りますと、「南北統一」なんて言葉の裏には、その際には、言葉の統一でも混乱する要素がありそうです。

このことで長くなってしまいましたが、セキュリティ研究家のマーク・ロジャースさんは、ソニーへのサイバー攻撃は、

「英語使用者が意図的に誤った英文を書いた疑いがある」

と述べていまして、「英語使用者がおこなったサイバー攻撃である」としています。

そして、ロジャースさんは、実は、最大の問題は攻撃者が誰か、ということではなく、「ソニーのセキュリティの脆弱性が露呈されたことにある」としています。

記事の中には、

「ソニーはすべて(のデータ)を焼き尽くして、再度起動し直す以外に残された選択の余地はほとんどない。現在の証明書はすべて汚染されている」

という強い口調の内容さえ書かれています。

そのあたりのことはともかくとしても、今回のサイバー攻撃が北朝鮮によるものではない、という見方が少なからずあることは事実です。

上のマーク・ロジャースさんの記事には多くのコメントが寄せられていて、同意も批判もどちらもありますが、感情的なコメントはあまりなく、淡々と議論が交わされています。

コメントで出ている意見としては、

・英語圏の者がおこなった
・中国、イランなどが関与した
・アメリカ政府の自作自演
・ソニーの内部関係者
・北朝鮮以外には考えられない


などがありました。

いろいろな意見がありますが、私個人は、単なる感覚的な話ですが、北朝鮮が行ったものとは思えない面もあります。何より、北朝鮮側の利益がよくわかりません。

いずれにしても、もうすでにアメリカは「報復」という言葉を使っていますので、いろいろとややこしいことになるのかもしれません。

obama-hacking-korea.gif

・2014年12月20日のラジオ・フリー・アジアより。


さて、実は、私が今回、もっとも書きたかったことは、このハッキング事件そのものより、その事件の引き金となった(のかもしれない)映画「ザ・インタビュー」に関しての、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事を読んで、そこに、私がずっと思っていたことが書かれてあったことです。




ビジネスの中で成長し続ける愚民化戦略

その記事は、

正恩氏暗殺映画「ザ・インタビュー」を見るのは拷問
 ウォール・ストリート・ジャーナル 2014.12.19

という映画レビュー記事で、日本語記事ですので、レビューの内容などは上のリンクから記事をお読み頂くとして、とにかく「ひどすぎる出来の映画だ」として、

現実の世界では、何が拷問で何が拷問でないかについて議論されているが、映画の世界に議論はない。「ザ・インタビュー」を見ることは、ほとんど最初から最後まで拷問だ。

というほどひどいものらしいのです。

interview-1.jpg

▲ 映画「ザ・インタビュー」より、ヘリコプターに乗った金正恩第1初期が暗殺されるシーン。WSJ より。


しかし、私にとって、この映画の出来などはどうでもいいことで、それより、上の文章に続く記述に「まったくだよなあ」と思ったのです。

記事では以下のように書かれます。

このような駄作がどうして公開されようとしていたのだろうか。その答の大きな部分は、数十年前に始まった観客のレベル低下にある。

マーケティング部門が丁寧な仕事さえすれば、週末に子供たちが、ほとんど、どんなジャンク映画でも見に行くことに制作会社が気付いたのだ。ポップカルチャーを粗悪なものにしたのは映画だけではないが、映画は熱心な観客を伴ってその道を先導した。

観客のレベルを低下させることは何年間もうまくいき――それは少数の人気スターのおかげなのだが――その結果、映画自身のレベルも落ち、現実と無謀な空想との違いが容易に識別できないほど矮小(わいしょう)化されてしまった。「ザ・インタビュー」はハリウッドで作られるべくして作られたのだ。

私は かつては、そりゃまあよく映画を見ました。

ここ十数年の映画がひどくなっているということも感じ続けていて、今では映画館に行くことさえなくなってしまいました。

私感はともかくとして、では、映画産業は衰退しているかというと、その逆で、少なくとも、アメリカ映画の収益は年々最高益を上げ続けている。

それなのに、どの映画もあまりにも個性がなく、なんだかひどい。

どうしてそうなったのかという理由が上のウォール・ストリート・ジャーナルの記事にある、

> マーケティング部門が丁寧な仕事さえすれば、どんなジャンク映画でも見に行く

です。

記事では、ジャンク映画と訳していますが、普通は「ゴミ映画」という日本語を使います。

つまり、それがいい映画だろうと、ゴミであろうと、映画をヒットさせるために大切な要素は、

1位:何よりもマーケティング戦略と宣伝
2位:主役(場合によってはこれもどうでもいい)
以降:あとはどうでもいい

という図式が成り立っていて、皮肉なことに、それがアメリカの映画産業をさらに大きくしています。

今やアメリカ映画は、あらゆる商品と同じで、「マーケティングでおびき寄せることがもっとも大切」というのは、実は製薬会社の方法と同じで、今では映画も「抗うつ剤」みたいなものなんですが(参考記事「うつ病だらけの世界の中、アメリカの「現代の十戒」ジョージア・ガイドストーンに突然組み込まれた「 2014 」という数字の意味」)、それはともかくとして、

ウォール・ストリート・ジャーナルの記事には、

> 数十年前に始まった観客のレベル低下

という記述がありまして、「観客のレベルの低下」という表現は失礼な感じもしますけれど、ただ、下の図式は当てはまるのではないかと思います。

「この映画を見ろとメディアに言われれば、その映画を見る」という図式がアメリカでは成り立っている

というものです。

これはアメリカだけではなく、どこの国でも同じかもしれませんけれど。

何となく「娯楽による愚民化政策」などというフレーズが浮かんでしまいます。

そういえば、先月の記事、

西洋版コックリさん「ウィジャボード」が英米の若者たちの間で爆発的に流行している背景と「悪魔の増加」の関係
 2014年11月30日

では、英語圏を中心に公開された『ウィジャ』というアメリカの低予算ホラー映画の大ヒットの影響で、十代を中心として、ウィジャボードという「死者との会話盤」ゲームが爆発的に売れているということをご紹介しましたが、2014年11月26日の英国インディペンデントの記事では、以下のように書かれています。

映画『ウィジャ』は、十代のティーンエイジャーの少女たちがウィジャボードで死者とコミュニケーションをとり、そして恐怖におののくというお決まりの安物映画だ。

映画評論家による映画レビューをまとめたウェブサイト「ロッテン・トマト」では、7パーセントの評価という極めて低い評価だったにも関わらず、映画はまさに「オカルト」的に大ヒットした。

アメリカに本拠を置く玩具メーカー「ハズブロ」は、映画会社ユニバーサルと提携して、この映画の上映を後押しした。結果として、ウィジャボードはオンラインで過去最大の販売数を記録した。

マーケティングが優秀なら映画の内容は関係なくヒットするという例の典型であるだけではなく、さらにその関連商品もヒットするという「ビジネスのループ」を作り出すことに成功したのでした。

そういえば、その後、アイルランドの教会の司祭が匿名を条件に、

「ウィジャボードを多くの若者たちが使うことは危険だ」

として、クリスマス・プレゼントで、ウィジャボードをギフトで贈らないように述べたことが、報道されていました。

exorcist-warn-gift.gif

▲ 2014年11月30日のインディペンデント(アイルランド)より。


その司祭は、記事の中で「悪霊の魂を出現させることは簡単なことだが、それを取り除くのは難しい」と述べています。

しかし、時すでに遅し、のようで、Google の集計による「2014年の子どものオモチャの売り上げランキング」は下のようになっています。

Google による子どものオモチャの売り上げランキング 2014年

2014-toys.gif
9to5google

ウィジャボードは5位に入っていて、他のものはどんなオモチャなのかわからないですが、何千何万種類とあるであろうオモチャの中で5位というのは、かなりの数が売れていると考えて間違いないのではないでしょうか。

しかも、そのオモチャが「死者と会話するボード」。

そういえば、やや陰謀論的な世界観の話かもしれないですが、今回のことを書いていて「3S政策」などという言葉を思い出しました。

3S政策 - Wikipedia

3S政策とは、Screen(スクリーン=映画)、Sport(スポーツ=プロスポーツ)、Sex(セックス=性産業)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策であり、そのような政策があったとの主張である。

私はスポーツにはまったく興味がなく、性もトシのせいなのか、めっきり興味を失いつつあり、あとは映画なんですが、上に書きました通りの懐古だけの感じになりつつあります。

ただ、その映画ですけど、そんなに遠くない昔は映画は決して「愚民化」という概念だけで語ることのできないものでした。

それこそ、今月書きました、

「太陽を盗んだ男」がつくった原爆から東京を救えなかった菅原文太さんが亡くなった日に、もう何十年も前から私たちは自由を奪われていたことを思い出してしまった
 2014年12月02日

の中で書かせていただいた、ほんの 35年前の『太陽を盗んだ男』などもそうですけれど、自分たちの置かれている状況に「気づかせてくれる映画」は、どこの国の映画でも、いくらでもありました。

それは、私たちは実は「誰かが作った巨大な檻の中のような中に生きている」ということを気づかせてくれるような映画の数々です。私は十代の頃からそういう映画を数多く見て、「いつか、私たちはそんな " 檻 " から抜け出せるはずだ」と夢見ていたものですけれど、そんな夢もどこへやら。

未来に転がる「価値観の墓場」を想像するだけの懐古病でありつつ、数年先には老人世代の狂い咲きサンダーロードとなってしまいました(なんだかもう日本語になってないな)。

だからこそ、若い人たちは自分の周囲の「壁」や「檻」に気づいてくれるといいのですけれど。
そして、そんな「見えない檻」は必要ないことにも気づいてほしいと思います。

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2014年12月02日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





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▲ 『仁義なき戦い』(1973年)で、菅原文太さんが復員兵で最初に登場するシーン。広島抗争の中心人物の一人である美能幸三という実在の人物を演じました。話も実際にあったことです。



今年 50回以上は見た文太さんが残した偉大な娯楽作品

昨年までそんなことはなかったのですが、なぜか今年のはじめから『仁義なき戦い』シリーズ(深作欣二監督・菅原文太主演の初期5部作のみ)が見たくて仕方なくなり、 DVD やビデオを立ち続けに購入して、夜にお酒を飲みながら何度も何度も見ていました。

若い時もレンタルビデオで見ていたことはありますが、こんなに何度も繰り返して見たのは、今年がはじめてのことだったと思います。

それだけに、今年は菅原文太さんに対しての思い入れはわりと強かった中で、昨日亡くなったニュースを知りました。その夜はテレビニュースも見たんですが、 20日ほど前に亡くなった高倉健さんより明らかに扱いが小さく、「そんなもんなのかなあ」と思いました。

ところで、ニュースなどでは『仁義なき戦い』や『トラック野郎』ばかり取り上げられていましたが、実は文太さんは日本映画史上で歴史に残る名作に出演しています。

それは、1979年の長谷川和彦監督による『太陽を盗んだ男』という映画です。

このストーリーは、

「東海村からプルトニウムを盗んで原爆を作り、日本政府を脅す」

という当時でもギリギリのストーリーの映画で、教師役を当時人気絶頂だった沢田研二が演じ、犯人を追う警部を菅原文太が務めた映画でした。ダブル主演といっていいと思います。

taiyo-7.jpg

▲ 『太陽を盗んだ男』より。沢田研二は中学の教師役。


この映画はですねえ……。

見たのが若かった時だったということもあるのでしょうけれど、感想としては、 Amazon の『太陽を盗んだ男』 DVD ページにあるレビューの下のコメントの人と同じような感じだったと思います。

シャレにならないくらい秀逸な無軌道性

友人に薦められて観た。

あまり期待しないで観たが、観終えた時、脳がヒリヒリして、1000本に1本の秀作と出会ってしまった時の、あの放心状態を久々に味わうことができた。

職務に全く無気力な中学教師の学校での世捨てぶりと、プルトニウムを手に入れ、自室で原爆を造る段階の恐ろしい集中の度合いとの対比が、たまらなく面白い。

湧き上がる衝動で原爆を完成させ、政府に要求を突きつけるまでの完璧なシナリオを実現できたにも関わらず、自分の要求自体が曖昧で、逆に「何をしたいのか分からない」という自分への問いを投げかけられる主人公。

主人公には「思想も目的」も無い。「衝動」だけがある。

それは「この街はとっくに死んでいる」と自ら見切りをつけた「神」からの、孤独で息苦しい「罰」でもある。

このレビューの最後のほうの、

> 主人公には「思想も目的」も無い。「衝動」だけがある。

この「衝動だけがある」というのが、当時の時期の社会全体の雰囲気だったように思います。

その上にある、「何をしたいのか分からない」という自分への問いを投げかけられるというのも、私を含めた当時の若者の多くが経験していたことのように思います。

この『太陽を盗んだ男』の中に、教師役のジュリーがラジオ局に電話して、

「原爆を持ってるけど、これで何をしたいかが分からない」

と DJ に問いかける言葉がこの映画のすべてを象徴していました。

「何も欲しくないし、要求もないけれど、衝動だけある」

何しろ映画では、原爆が完成したものの、主人公の教師は「政府に何を要求すればいいのかまでは考えていなかった」のです(笑)。

それで結局、ジュリーが日本政府に「原爆を爆発させない条件」として要求したのは、

・1番目の要求 「プロ野球のナイターを試合の最後まで中継すること」
・2番目の要求 「ローリング・ストーンズ日本公演」
・3番目の要求 「現金5億円を渋谷のビルの上からばら撒く」


でした。

当時、プロ野球中継は9時ちょうどで終わっていたので、それを「試合終了まで放映しろ」と。政府は要求を飲んで、巨人対大洋戦は試合終了までテレビ放映されたのでした(笑)。

taiyo3.jpg

▲ 『太陽を盗んだ男』より。現実の世界で、ローリング・ストーンズが日本に初来日したのは、映画の 11年後の 1990年です。


下の動画は予告編です。

「太陽を盗んだ男」予告編




どうでもいいことですが、この 1979年という時期は第 21太陽活動周期(サイクル21)の活動最大期でもありました。それだけに、この頃(1978年〜1980年頃)の音楽の世界ではパンクが台頭し、映画の世界でも数々の無軌道な作品が世界中で登場した本当に刺激的な時代でした。

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▲ In Deep 過去記事「 5月17日に地球の周囲で何が起きていたのか?」より。


もはや、この『太陽を盗んだ男』のような映画が作られることはないと思います。

この映画は、かなりの数の俳優や表現家たちに相当な刺激を与えた作品でもありました。太陽を盗んだ男 - Wikipedia の中に「後世への影響」というセクションがあり、そこに、この映画が好き、あるいはこの映画に影響を受けた俳優や有名人たちの名前が列挙されていますが、一般の人々でもこの映画に影響を受けた人は大変に多かったと思います。

この映画の主役に沢田研二を選んだのは、菅原文太さんその人でした。

ちなみに、この『太陽を盗んだ男』は、キネマ旬報が 2009年に選出した「オールタイムベスト映画遺産 200 日本映画篇」において7位に選出されていますが、上位 10作品のうち 1960年代以降の映画は3作品しかなく、その中の2本が菅原文太さん主演です。

オールタイムベスト映画遺産 200 日本映画篇 上位10作品

第1位 東京物語 (1953年)
第2位 七人の侍 (1954年)
第3位 浮雲 (1955年)
第4位 幕末太陽傳 (1957年)
第5位 仁義なき戦い (1973年)
第6位 二十四の瞳 (1954年)
第7位 羅生門 (1950年)
第7位 丹下左膳餘話 百萬兩の壷 (1935年)
第7位 太陽を盗んだ男 (1979年)
第7位 家族ゲーム (1983年)


1960年代以降の映画は、仁義なき戦いと、太陽を盗んだ男、家族ゲームだけで、そのうちの、仁義なき戦いと太陽を盗んだ男に文太さんが絡んでいるというだけでも、この菅原文太という人物が、現代の日本映画に大変な影響を与えた人、あるいは与える宿命にあった人であることがおわかりかと思います。

それにしても、この「映画遺産 200 日本映画編」の上位は古い映画が多いですね。

第1位の小津安二郎『東京物語』に特に異議はないですけれど、この映画でさえも、昭和 28年ということは、私の生まれる10年前の映画。・・・ということは、『東京物語』を公開時に映画館で見ていた人の現在の年齢は、80代以上くらいですかね。

しかしそれだけに、このランキングに『仁義なき戦い』と『太陽を盗んだ男』という現代作品2本が入っているというのは、それだけ映画が社会や心理に与えた影響の大きさを感じます。

ちなみに、『太陽を盗んだ男』はヒットしませんでした

後から少しずつ評価が高まった映画だと思います。

この「後から少しずつ評価が高まる」というのは、1999年のアメリカ映画『ファイト・クラブ』なんかと似たようなもんですかね。

映画『ファイト・クラブ』は、日々の生きがいを見失っていた男が、「殴り合いをすること」で、初めて生きる実感を感じていき、そのような人々が次々と彼のもとに集まり、最終的にその組織は、

「アメリカ金融街ビルをすべて爆破し、この世から消滅させる」

という計画の実行にまで至るストーリーで、太陽を盗んだ男の「生きる目的を見失った青年教師が原爆で日本政府を脅すことにより生きている実感を取り戻す」というあたりとやや似ている感じもなくもないです。

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いつのまにか消えていた「自由」という概念

上の方に「太陽を盗んだ男のような映画はもう作られることはないと思います」と書きましたけれど、これは、うまくは説明できないんですけれど、規模だとかストーリーとかのことではないんです。

私たちの今の社会(あるいは世界の多くの社会)は、「表現の自由」というような言葉を平気で使って、何となく、そういうものが存在しているように感じている場合もあるかもしれないですが、実際には、そんなものは今はないです。

こうなった理由は、明文化されている表現規制のせいではなく、

「人々から他人に対する寛容性が消えていったため」

だと私は思っています。

あるいは、「自分と違う価値観は認めない」という人が増えたことも関係あるのかもしれません。

インターネット上などでも、有名人あるいは普通の人に対して、少しでも社会的感覚から逸脱したようなことを書いたりすると、いっせいに袋だたきに遭うのが普通の光景となっています。

専門用語で「炎上」とか「フルボッコ」というやつですね(専門用語なのかよ)。

表現の世界でも今ではそれは同じだと思います。

自分が正しいと思う社会的通念から外れたものに対して、「自分は好きではなくても、そういう考えも生き方もあるだろうね」というのではなく、それを叩いて叩いて、そして消滅させる

こういう風潮が当たり前のようになっています。

じゃあ昔は自由があったのかと言われますと、何とも言えないですが、自分自身の十代から三十代くらいまでの社会の「空気」を思い出しますと、あくまでも個人的な見解としてですが、「当時はあった」といえます。

そういえば、先日、日本経済新聞のコラム記事に、小島慶子さんという方の文章がありました。
小島さんという方がどんな方かは私は知りませんが、そのコラムは、

「勉強しないとああなるわよ」は最低だ
 日本経済新聞 2014.12.01

というタイトルの記事で、3ページにわたるわりと長いものですので、全文は上のリンクからお読みいただくとして、その中に、

> どうしてこうなったのだろう。なぜこんなに不寛容で偏狭な意見が大きな顔でまかり通る世の中なのだろう。

という下りがあります。

この小島さんという方の文章の内容全体について賛同するというわけではないにしても、このフレーズには非常に「そうだよなあ」というように思います。

ちなみに、その文章の中に、

以前、こんな母親がいた。転勤先のニューヨークの街角で清掃をする黒人を指差して、小学生の子どもにこう言ったそうだ。「見なさい、勉強しないとああなっちゃうのよ」(略)

人が嫌がる仕事をするしか生きる方法のない人がいるのはなぜなのかと考えようとしないのだろうか。彼と自分の違いが何であるかではなく、なぜそんな違いが生まれるのかを問い、その理不尽な現実に対して、自分にできることがあるのだろうか? と問うたことはあるのだろうか。

という下りがあります。

ちなみに、「見なさい、勉強しないとああなっちゃうのよ」というのは、アメリカ在住の日本人の言葉です。

この「他人と自分」というものについて、「それはまったく関係のないもの」として考える人が多いのは事実だろうと思います。

理想的な考え方のひとつとされる場合もある、「人間全体をひとつのものとして考える」という状況とは「まったく反対の考え方が普通」の世の中で、そりゃまあ、夢のようなパラダイスな社会が実現するわけもないわけで。

ちなみに、上の小島さんという方の言葉は、部分的に、ルドルフ・シュタイナーの著作『いかにして高次の世界を認識するか』の中に神秘学の訓練として出てくる「例え」とも、やや似ています。

「神秘学の訓練のための条件」という章に、神秘学の学徒になるための7つの条件が記されています。その中の第2の条件は、

「自分自身を生命全体の1部分と感じること」

というものです。
抜粋します。

シュタイナー著『いかにして高次の世界を認識するか』

神秘学の訓練のための条件より

たとえば、このような考え方をすることによって、私たちは、いままでとはまったく異なった方法で犯罪者に目を向けることができるようになります。私たちは、自分自身の判断を差し控えて、次のように考えます。

「私も、この人と同じような1人の人間に過ぎない。もしかすると、ただ環境が与えてくれた教育のおかげで、私はこの人のような運命に陥らないですんだのかもしれない」。

私たちは「この人から奪われたものが、私には与えられた。私がよいものをもっているのは、それはこの人から奪われたおかげである」と考えます。すると、私たちは、「私は全人類の1部分である。私は、生じるすべての事柄に関して、全人類とともに責任を負っている」という考えに近づきます。

ここに、

> 「生じるすべての事柄に関して、全人類とともに責任を負っている」という考え

とありますが、同時に、シュタイナーは「他人、あるいは他人の思考や行動に対して、その善悪の判断をしない」ことを教えています。

これは先日の記事、

西洋版コックリさん「ウィジャボード」が英米の若者たちの間で爆発的に流行している背景と「悪魔の増加」の関係
 2014年11月30日

などでも書いた、「悪も善も根源は同じなのだから、悪を憎んではいけない」というようなこととも似ている気がします。

まあ、私自身が「善悪の判断の価値観がずいぶんと他の人と違う」部分はあって、それだけに、自分で、たとえば事件などに対して「善悪の判断」はしません。というか、できません。

法律を破った犯罪に対しても、「法律と、個人の善悪」は比例しないのですから、「捕まったから悪い人間」というようにはどうも考えることが難しいのです。

それはともかく、先の小島さんの文章は、全体としては「寛容性のない人を糾弾する姿勢」が、わりと見られまして、この「糾弾」というようなことに関しては、シュタイナーが「してはいけないこと」としていることですので、小島さんという方の今回の文章は、ひとつの内容の中に「シュタイナーの記述と沿った内容」と「真逆の内容」がひとつになっているという点では興味深いです。

その「真逆の内容」は、先のシュタイナーの文章の続きとなっていて、以下のようになります。

『いかにして高次の世界を認識するか』より(先ほどの続きの部分)

ここで述べられているような考え方に関して、人類全体に普遍的な要求をつきつけても、何の成果も得られません。人間はどうあるべきか、ということについて判断を下すのは容易ですが、神秘学の学徒は、このような表面的な部分においてではなく、もっと深い部分において活動しなくてはならないのです。

ですから、ここで神秘学の学徒に求められている事柄を、何らかのうわべだけの政治的な要求と結びつけるならば(このような態度は神秘学徒とは無関係です)、私たちは間違ったことをしていることになります。

要するに、他人や人類全体に対して、

「あなたたちはこのようにするべきだ」

というような要求や意見といったものは高次の世界の意識を獲得するためには「してはいけないこと」のようです。

何だかもう話の展開がぐちゃぐちゃになってきましたが、現在のような「人々の寛容性の薄れた社会」では、あらゆる表現において、本当の意味での自由は生まれにくいということを書こうとしているうちに文脈が破綻してしまったとお考え下されば幸いです。

仮に今、『太陽を盗んだ男』がリメイクされたとしても、ハリウッド映画や韓国アクション映画のごとき大層な映像作品としては作ることができても、

「見た後に脳がクラクラするような虚脱感を伴う快感」

を与える映画なんて、もう絶対に作られることはないような気がします。

あるいは、さきほどの「オールタイムベスト映画遺産 200 日本映画篇」の上位 10位の年代だけを見ますと、

第1位 1953年 昭和28年
第2位 1954年 昭和29年
第3位 1955年 昭和30年
第4位 1957年 昭和32年
第5位 1973年 昭和48年(仁義なき戦い)
第6位 1954年 昭和29年
第7位 1950年 昭和25年
第7位 1935年 昭和10年
第7位 1979年 昭和54年(太陽を盗んだ男)
第7位 1983年 昭和58年



というようなことになっていて、興行収入とかそういうものとは関係なく、日本の映画はずいぶんと前から死んでしまっていたものなのかもしれないですけれど。

ちなみに、『太陽を盗んだ男』と同時上映されたのは、 2009年に亡くなった山田辰夫さんが主演の『狂い咲きサンダーロード』でした。

なんかこう……思い出を美化しているというのも含まれているかもしれないですが、いい時代に十代を過ごせたと思います。ちょっと遅れて生まれていたら、こういうようなすべての「自由」を知らずに過ごしていたかもしれません。

そんな意味では、今の世の中は自分にとって娯楽になるものが少なくて厳しいものがありますけれど、これは天からの「もう娯楽は不要」というメッセージなのかもしれません。


ところで、『太陽を盗んだ男』のラスト・・・。
菅原文太さん演じた山下警部は、中学教師が作った原爆から東京を救えたのでしょうか?

書くとネタバレなので書きませんが、「ドーン」(書いてるだろ)。

それにしても、高倉健さんと菅原文太さんがほぼ同時期に亡くなるなんて、日本の終わりの徴(しるし)のような感じもしますね。

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2014年11月05日



2015年10月7日に In Deep は http://indeep.jp に移転しました。よろしくお願いいたします。





Parallel-Worlds-Top.gif

▲ 2014年11月3日の英国インターナショナル・ビジネス・タイムズより。


今回は、昨日の記事「私たちの宇宙から「時間」が徐々に消えている?」でも少しふれたのですが、「パラレルワールドは存在する」とオーストラリアの物理学者たちが明言したことが様々なメディアで報じられているので、ご紹介したいと思います。

実際には、パラレルワールドの存在も含めて、この世の中の真実なんてことは結局わかりようがないわけなんですが、真実はともかくとしても「この世のことを他の人々はどのように考えているのだろう」ということについて、興味深い記事がありました。

やや余談となってしまいますが、ご紹介したいと思います。


アメリカ人が信じるもの

それは、米国ワシントンポストの、

Study: Americans are as likely to believe in Bigfoot as in the big bang theory
(研究:アメリカ人たちは、ビッグバンを信じる人たちとビッグフットを信じる人の割合が同じ程度のようだ)

という10月 24日の記事でした。

カリフォルニア州にあるチャップマン大学による調査で、全米 2500人の成人男女の「いろいろな超常現象を信じる割合」というものを調査したものでした。

ワシントンポストの記事には、その詳細なグラフが載せられているのですが、そのグラフを日本語にしたものが以下のものです。

us-belief.gif
Washingtonp Post


水色()と紫()の色分けは、

・水色が現代の科学などで「真実」とされていること
・紫は「確認されていないか、あるいは事実ではないとされること」


を表しているとのことです。

つまり、上の図を文字にしますと、アメリカの人々は、おおむね以下のように考えているという傾向があるということになりそうです。

約 70パーセントの人が「ポジティブな思考を通じて物理的な世界に影響を与えることができる」と信じている。

約 63パーセントの人が「かつて、アトランティスのような文明が存在した」ことを信じている。

約 58パーセントの人が「夢が未来を予言できること」を信じている。

約 52パーセントの人が「家や部屋が幽霊に取り憑かれること」を信じている。

約 52パーセントの人は「ワクチンは安全かつ効果的である」と確信している。

約 47パーセントの人が「この世の悪の原因はサタンにある」と信じている。

この次あたりからは、信じているほうが少なくなっていきます。

約 40パーセントの人が「UFOは宇宙船だ」と信じている。( 60パーセントは信じていないということ

約 32パーセントの人が「人為的な活動が地球温暖化の原因」だと確信している。( 68パーセントの人たちはそれを信じていないということ

約 30パーセントの人が「地球の生命は自然選択を通して進化してきた」と確信している。( 70パーセントの人は進化論を信じていないということ

約 26パーセントの人が「地球の年齢は45億年だ」と確信している。( 74パーセントの人はそれを信じていないということ

約 20パーセントの人が「宇宙はビッグバンによって始まった」と確信している。( 80パーセントの人はビッグバンを信じていないということ

約 20パーセントの人は「ビッグフットは実際にいる生物」だとは信じている。( 80パーセントはビッグフットの生物としての存在を信じているということ

約 17パーセントの人は「占い師が未来を予見することができる」と信じている。( 83パーセントは占い師による未来の予見を信じているということ

約 12パーセントの人は「占星術は真実」だと信じている。( 88パーセントは占星術を信じているということ

となっています。

ワシントンポストの記事のタイトルの「アメリカ人たちは、ビッグバンを信じる人たちとビッグフットを信じる人の割合が同じ」の意味は、

・ビッグバンを信じる人が約 20パーセント
・ビッグフットを信じる人も約 20パーセント


ということで、アメリカ人にとっては、昔はいわゆる「雪男」などと言われていた未確認生物のビッグフットも、宇宙物理学の基本とされるビッグバン仮説を信じる人も「どちらも少ない」ということを、多少揶揄してのもののようです。

それにしても、

「夢は未来を予言できると信じる人」が 60パーセント近くいるのに、「占星術を信じる人」は 12パーセントくらいしかいないというあたりは不思議な感じもいたします。

ともかく、多くのアメリカ人がアトランティスのような古代文明を信じている一方で、

・進化論を信じていない
・地球の年齢 45億年を信じていない
・ビッグバンを信じていない


という傾向が顕著にあるようです。

そういえば、上の質問の項目に

神の存在

に関しての質問が含まれていないことに気づきました。

「神の存在」を超常現象といっては怒られるということもあるのでしょうけれど、アメリカ人の「神への信仰度」も知りたい気がします。

先日の記事、

人類は宇宙へは行けないし、異星人たちも地球には来られないことを悟る中、人々から「神の存在が消えていっている」ことも知る
 2014年10月29日

では、イギリスでおこなわれた調査を載せました。

alien-uk-02.gif
The Herald


成人 1,500 人と、子ども 500 人を対象としてイギリスで行われた「信じている超自然的存在」に関する調査の詳細な内訳は成人と子どもでそれぞれ下のような結果となりました。

英国の成人が信じる超自然的な存在トップ5

1位 幽霊( 55 %)
2位 エイリアン( 51 %)
3位 UFO( 42 %)
4位 天使( 27 %)
5位 神( 25 %)

英国の子どもが信じる超自然的な存在トップ5

1位 エイリアン( 64 %)
2位 幽霊( 64 %)
3位 UFO( 50 %)
4位 神( 33 %)
5位 天使( 27 %)

のように「神」の存在が日々薄れていっているようなのですが、そういえば、このイギリスの調査では「天使」は出ていても、「悪魔」はトップ5にはないですね。

アメリカの調査では、45パーセント近くの人が「悪い出来事は悪魔の存在によって引き起こされていることを信じている」となっていて、超常現象では「悪魔」は幽霊に次いで5位にあります。アメリカの結果も英国と同じようにまとめてみますと、

アメリカの成人が信じる超常現象のトップ5

1位 ポジティブな思考が現実を変える( 67 %)
2位 アトランティス( 62 %)
3位 夢は未来を予言する( 57 %)
4位 幽霊( 52 %)
5位 悪魔( 45 %)

このようになります。


というわけで、これらは今回の話とは関係ないながらも、この調査には「パラレルワールド」というものは出てきていませんが、最近、この説が大きく報道で取り上げられています。

それをご紹介したいと思います。

パラレルワールドの簡単な説明としては、パラレルワールド - Wikipedia から抜粋しますと、

パラレルワールドとは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指す。並行世界、並行宇宙、並行時空ともいう。

「異世界(異界)」、「魔界」、「四次元世界」などとは違い、パラレルワールドは我々の宇宙と同一の次元を持つ。

とのことで、

パラレルワールドは異次元や4次元の世界とは違う

と記されています。

ところが、昨日の記事「私たちの宇宙から「時間」が徐々に消えている?」では、4次元という概念が語られているわけで、つまり、

・「同一の次元」にある複数の宇宙としてのパラレルワールド

・「異次元」、あるいは4次元にある複数の宇宙としてのパラレルワールド


というふたつのパラレルワールドの概念が噴出してきたようで、何が何やら、よくわからないですが、しかし、アメリカでは、ビッグバンで宇宙が始まったと信じている人は 20パーセントしかいないわけで、宇宙の在り方も人の考え方と同じほどあるような感じさえします。

それでは、ここからインターナショナル・ビジネス・タイムズの記事です。

なお、記事に「エヴェレットの多世界解釈」という言葉が出ますが、これは Wikipedia によれば、

量子力学の観測問題における解釈の一つである。 プリンストン大学の大学院生であったヒュー・エヴェレット3世が1957年に提唱した定式を元に、ブライス・デウィットによって提唱された。

というもので、内容は難解でよくわからないですが、このような、パラレルワールドの先駆け的な理論があるのだそうです。



Parallel Worlds 'Exist and Interact' and Help Explain 'Weird Phenomena' of Universe
IBT 2014.11.03


パラレルワールドは「存在し、相互に作用」する。そして、これは宇宙の「奇妙な現象」を説明するのに役立つ


パラレルユニバース(平行宇宙)は、存在するだけではなく、それらは互いに相互作用を与えていると物理学者のグループは述べている。

オーストラリアのグリフィス大学の研究者たちは、我々が存在する宇宙は「数限りなく存在している無数ともいえる数の宇宙」の中のひとつの宇宙であるに過ぎないと言う。その中には、私たちと似た宇宙もあり、また、非常に違う宇宙もある。

パラレルユニバースの考えは、50年以上にわたって存在している。

たとえば、他のパラレル・ワールドの理論「エヴェレットの多世界解釈( Many-Worlds Interpretation )」は、理論を実現させる可能性のあるあらゆるシナリオが出された。

しかし、グリフィス大学の研究者たちの新たな理論の「相互多世界( Many Interacting Worlds )」 は、すべてのパラレルワールドがお互いに相互作用しているとする。そして、それらのパラレルワールドの存在をテストすることが可能なのだだと言う。

最近発表された論文では、科学者たちは、パラレルユニバースはそれぞれが独自に進化し、近くの他の宇宙との反発力によって、お互いに影響を与えると述べられている。

科学者たちは彼らの理論が量子力学を説明するのに役立つと考えている。

グリフィス大学の量子ダイナミクス・センターのハワード・ワイズマン( Howard Wiseman )博士は、「量子力学におけるパラレルユニバースの考えは 1957年以来続いています」と述べる。

量子論は、どのように宇宙が微視的なスケールの働きを持つかを説明するのに必要とされている。しかし、原因と結果の法則を満たさないと、原因と結果の法則に従わない奇妙な現象を示し、それを理解することは極めて難しい。

理論物理学者のリチャード・ファインマン( Richard Feynman )はかつて、こう言った: 「誰も量子力学を理解できないと言えると私は考えます」 。

ワイズマン博士たちが唱えるパラレルワールドは、「無数の宇宙が存在する」ことを示唆すると共に、私の宇宙と似た宇宙とそうではない宇宙があることをも示している。

それらの宇宙はすべて「現実」( real )であり、時間を通して存在する。そして、すべの量子現象は、近くの宇宙の普遍的な反発力よりもたらされる。

共同研究者のマイケル・ホール( Michael Hall )博士は「ただひとつの宇宙の存在の場合は、ニュートン力学に帰着しますが、莫大な数の宇宙の存在は、量子力学を再生させるものなのです。その合間に、ニュートンの理論でもなく量子論でもない、新しい何かの予測があります」と語った。




(訳者注) この「膨大な数の宇宙」という概念は、量子論が出るより 2600年位前に言われていたことでもあります。

おっしゃっていたのは、お釈迦様ですね。

何度か抜粋したことがありますが、過去記事「「宇宙は人間そのもの」という結論を夢想するとき」という記事に載せましたフレッド・ホイル博士の『生命はどこからきたか』 の記述を掲載しておきます。

『生命はどこからきたか』 より
フレッド・ホイル 1995年

紀元前六世紀に、ブッダの世界観はすでにコペルニクス革命以後に入っていた。彼は宇宙が、各々がわれわれの惑星系と似た数十億の ”小さな宇宙” から成り立っていると記している。ブッダの対話形式になっている古い仏教の教典のなかに無限の宇宙について述べられている。

「無数の太陽、無数の月、・・・、無数のジャムブディパス、無数のアパラゴヤナス、無数のウッタラクラス、無数のブッダビデバス」

ジャムブディパスとは当時の北インドの人々が知る限りの人の住んでいる地域を表す単語である。この対話から、ブッダが生命と意識が宇宙の構造に全体として結びついていて別々にできないものと捉えていたことは充分に明らかである。

とあり、ブッダは、今回のオーストラリアの大学の科学者たちと同様に、

「この宇宙は、われわれの惑星系と似た数十億の小さな宇宙から成り立っている」と述べていた

ようです。

このようなブッダあたりの話が現代科学の結末とシンクロしてきた……というあたりにも、何となく概念的に「この世の最終段階」という想いを持ちます。

もちろん、これは悪い方の意味での「最終段階」ではないです。

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2014年11月04日



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▲ 2014年11月3日の Daily Galaxy より。



「時間の絶対性の崩壊」が招くかもしれない現代宇宙モデルの終わりの時

宇宙関係の大御所サイトのデイリーギャラクシーで上のような「宇宙から時間が消えているという新しい学説」を紹介している興味深い記事を見ました。

ちょっと読んでみましたら……長い長い。

その上に、異常なほどの専門用語の飛び交う大変難解な記事だったのですが、今回はその中から自分である程度わかる部分を翻訳しました。

それにしても「どうしてこんなに長い記事となったのか」と考えますと、過去のデイリーギャラクシーの記事の例では、「現代宇宙論やビックバン仮説の崩壊につながりかねない理論については長い記事になる」という傾向があります。

たとえば、今年2月の記事、

「暗黒物質は存在しないかもしれない」 : 王立天文学会の総会で発表された科学界にとっては衝撃的な新学説
 2014年02月13日

では「暗黒物質の存在の否定」に関してのデイリーギャラクシーの記事をご紹介したのですが、この時もあまりにも長い記事の上に極めて難解であり、その時には記事の翻訳そのものを諦めました。

この暗黒物質という仮想上の物質にについては、後の方でも少し書きます。

しかし、今回は暗黒物質の否定よりも、さらに過激といえば過激な、

時間の絶対性の否定

ということがテーマとなっていて、これはもう、物理学の基本中の基本に「時間の流れは不変」という大前提がありまして、この「時間」というものの絶対性が崩れますと、つまり、時間が変幻自在なものであった場合、すべての物理法則は「崩壊」します。

もちろん、宇宙論もです。ビッグバン仮説から「宇宙の膨張と終焉」、あるいは「星や銀河の成り立ち」の理論に至るまで宇宙論「すべて」崩壊しかねないほどのインパクトを持っていると思われます。

ちなみに、この「絶対的時間」を確立したのは、近代物理学の祖であるニュートンでした。

principles.jpg

▲ ニュートンが絶対的時間なども含めたニュートン力学体系を記した著作『自然哲学の数学的諸原理』(1687年)の英語版の扉。


なお、ニュートンは敬虔なクリスチャンでもあったのですが、「イエスの教えと絶対的時間の関係」について、アイザック・ニュートン -Wikipedia の「キリスト教徒として」というセクションに以下のような記述があります。

絶対的時間や絶対的空間などを確立したニュートンではあるが、彼自身はそれらがキリスト教の教義と矛盾するとは考えておらず、『自然哲学の数学的諸原理』にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べている。

というようなことなんですが、今回のデイリー・ギャラクシーの記事には、2011年にスロベニア科学研究センターというところの科学者たちが、ニュートンの「絶対的時間」は「間違っている」とした研究発表をおこなったことなどにもふれられています。

しかし、「時間が絶対的ではない」となった場合はどうなるのかというと、時空を4次元的にとらえるしかないわけで、どうやら現在の最先端物理学は「4次元の世界」への理論へと少しずつ変化しているようです。

そういえば、アメリカの科学系メディア PHYS.ORG の10月 30日の記事にも下のようなものがありました。

para-universes.gif
PHYS.ORG


パラレルワールドとは「複数の宇宙が存在する」というようなことなのでしょうけれど、どうやら最先端物理学の世界ではそれらの存在を認めることと、それらの「様々な宇宙」の相互の作用を研究するという機運が高まってきているようです。

4次元の世界とか、パラレルワールドなどの響きは、かつては映画やコミックだけの幻想の世界だったような概念ですが、現実の科学がそちらに向かって進んでいっているという時代になったようです。

実際、今回のデイリーギャラクシーの記事は「時空連続体」( space-time continuum )という少なくとも私は聞いたことのない言葉から始まります。

これは、時空連続体 - Wikipedia によりますと、

時空連続体とは、時空を4次元多様体としてとらえることを指す。連続体という考え方は古典的であるので、時空の量子論を論じる際には多様体という幾何学的物体を量子化して考えなければならない。

とのことですが…………この説明では、何だかさっぱりわかりません。

そうしましたら、 Yahoo! 知恵袋に「時空連続体ってなんですか?過去・現在・未来はすでに存在しているって事ですか?」という質問があり、そのベストアンサーは下のようなものでした。

通常私たちが存在する世界(空間)は3次元とされています。

しかし、この「縦」「横」「高さ」の概念だけでは状態の変化を説明する事ができないため、4番目の次元である「時間」と3次元空間をひとまとめにしたものが時空連続体です。

つまりは「時間と3次元空間をミックスさせたもの」ということでいいのですかね。

そして、デイリーギャラクシーの記事には、「暗黒物質」のことも出てきます。
というより、「暗黒物質の存在の否定」が主要なテーマとなっているのです。




暗黒物質の存在は風前の灯火

この「暗黒エネルギー」とか「暗黒物質」というものが何かといいますと、ダークエネルギー(暗黒エネルギー) - Wikipedia の説明では、

宇宙論および天文学において、宇宙全体に浸透し、宇宙の拡張を加速していると考えられる仮説上のエネルギーである。

2013年までに発表された観測結果からは、宇宙の質量とエネルギーに占める割合は、原子等の通常の物質が4.9%、ダークマターが26.8%、ダークエネルギーが68.3%と算定されている。

というものです。

なお、 Wikipedia の「暗黒物質」の説明は以下のようなものです。

暗黒物質とは、宇宙にある星間物質のうち電磁相互作用をせずかつ色電荷を持たない、光学的には観測できないとされる仮説上の物質である。そもそも本当に存在するのか、もし存在するとしたらどのような正体なのか、何で出来ているか、未だに確認されておらず、不明のままである。

ちなみに、私は、

「暗黒物質や暗黒エネルギーというものの存在への疑念」

をずっと持っていまして、記事もよく書いていました。

上のほうにもリンクしました「暗黒物質は存在しないかもしれない…」 という記事に載せました現在の物理学での考えでの宇宙の分布図は以下のようになっています。

dark-energy-03.gif

この図が示す意味は、

現代の宇宙論では「この世の中で、人間が存在を認識できる物質は4パーセントしかない」

ということになります。

つまり、この宇宙……というか「この世」は「人間に見えもしない、存在を確認することもできない物質に 96パーセントも占められている、というのが現代物理学の考え方なんですね。

なぜ、そんな訳のわからない理論を打ち立てなければならななかったかというと、

「こうしないと現代の宇宙論モデルの計算のつじつまが合わなくなる」

からです。

こういうもの(暗黒物質など)で計算上の矛盾を補足しておかないと、宇宙の急速な膨張だとかビッグバン仮説さえも崩壊してしまい「現代宇宙論が窮地に陥る」からだというのが最も妥当な説明だと私は思っています。

しかし、だからといって、「この世の 96パーセントが認識できないモノで作られている」なんてのは、やはり納得できるものではないような気がするのです。

上の表では、「通常の物質」、つまり人間が認識できる物質はこの世界にたった 4パーセントしかないということになっているのですが、私の頭の中の宇宙論は下のようになっています。

my-uchu-01.gif


人間はこの世に存在するすべての物質を認識できると私は確信していますし、何より、「この世は計算で作られている訳じゃない」と思うのです。

まあしかし、実際、そんなに強く主張せずとも、この暗黒物質や暗黒エネルギーといったものの存在は、「否定に向かって一直線」の傾向を見せています。

2012年 4月の、

「そこに暗黒物質は存在しなかった」:従来の宇宙論を否定する観測結果を欧州南天天文台が発表
 2012年04月20日

という記事では、宇宙の観測結果が現代宇宙論に反する観測結果を出したことを取り上げていて、この頃から多くの科学者たちの間に、

「暗黒物質とか暗黒エネルギーって本当はないんじゃね?」

という雰囲気が漂って、現在に至っています。

そんなように、いろいろと急激に変化していくかもしれない物理学や宇宙論なわけですが、ここからデイリーギャラクシーの記事をご紹介します。




"Time is Slowly Disappearing from Our Universe" (Or, is It Timeless?)
Daily Galaxy 2014.11.03


「時間がゆっくりと我々の宇宙から消えている」(それとも、それは永遠?)


もし、時空連続体の数式から「時間の部分」が尽きた場合はどうなるのだろうか。

おそらく時間はゆっくりと消滅し続けており、そして、いつか、時間は完全に消え去ることを現在の科学的証拠は示している……という長年、科学者たちを悩ませて続けているラディカルな理論がある。

かつて、科学者たちは、宇宙が加速度的に拡大していることを示すために、宇宙の遠い場所にある爆発した星(超新星)からの光を測定した。 科学者たちは、これらの超新星が宇宙の年齢のように、より速く広がっていくと仮定した。

また、物理学者たちは、反重力のような力が離れた銀河を駆動させていなければならないと仮定し、この正体不明の力を「暗黒エネルギー」と呼ぶようになった。

そんな中、宇宙の急速な膨張や暗黒エネルギーの存在を確認する方向ではなく、「時間そのものが何十億年の中でその存在がなくなる」という考え方が提唱されたのだ。

この理論は 2009年にスペイン・サラマンカ大学のホセ・セノブィラ( José Senovilla )教授により提唱された。時間が消えると、すべてのものは完全に停止するまで粉砕する。

この「時間そのものの終焉」という推論は暗黒エネルギーの代替えの説明ともなりうる。神秘的な反重力の力の宇宙現象であるとの示唆をされている、この暗黒エネルギーについては、多くの科学者たち頭を悩ませてきた。

しかし、今日に至っても、実際に暗黒エネルギーが何であるかを知る者はいないのが現実で、あるいは存在するとしたら、それはどこから来たのかも誰も知らない。

セノブィラ教授と彼の同僚たちは、それに対して驚くべき代案を提示した。教授らは、暗黒エネルギーというようなものは一切存在しないとし、時間がゆっくりとしたペースで遅くなっているという理論を提唱したのだ。

教授の主張は、私たちは「宇宙の膨張の加速」に関しての考え方に騙されていたわけで、実際には時間そのものが遅くなっているというものだ。

日常の日々のレベルでは、その変化を私たちが知覚することはない。しかし、数十億年にわたる宇宙の進路を追跡しての宇宙規模の測定から、このことは明らかになるだろう。

この変化は、人間の視点からでは無限に近くゆっくりとした変化だろうが、宇宙論での視点の観点からは、数十億前に地球を照らした太陽からの古代の光の研究によって、それを簡単に測定することができる可能性がある。

セノブィラ教授は、「私たちは、宇宙の膨張そのもののが幻想だとは言ってはいません。私たちが言っていることは、膨張が加速しているということが幻想だという可能性についてです」と言う。

現在、天文学者たちは、いわゆる「赤方偏移」(観測対象からの光のスペクトルが、可視光で言うと赤に近い方にずれる現象)の技術を用いることで、宇宙の膨張速度を識別することができる。

しかし、これらの測定の精度は「宇宙の時間が絶対的であること」に依存している。もし、セノブィラ教授たちの新しい理論のように、時間が減速していっているとした場合、私たちの独立した時間は新しい空間次元に入っていくことになる。

2011年には、スロベニア科学研究センターの科学者たちは、ニュートンが提唱した「絶対的時間」は間違っているとの理論を発表した。

このスロベニアの科学者たちは、時間は4次元の時空にあるという考え方に基づいている。これまでの時間というものに対しての視点を置き換えることにより、物理の世界は、事物により正確に対応させることができると彼らは主張する。




(訳者注)このあたりまでとしておきます。

オリジナルは、本当にとてつもなく長い記事なのですが、その長い記事の1番最後の文章は、

What is time?

すなわち、「時間とは何なのか?」という文章で締めくくられていました。

ちなみに、科学的な事柄とは関係ないですが、未来予測プロジェクトのウェブボットの代表のクリフ・ハイが、2008年のエッセイで、「変容する時間」について記していたことを思い出しました。

こちらは上の記事のように「時間が遅くなる」のではなく、「時間が加速する」ことを書いています。

今回の記事とは関係ないながら、一部抜粋して記事を締めたいと思います。

ALTA レポート 909 パート5
ウェブボット 2008年12月7日

E=MC2、これはアインシュタインの周知の公式だが、時間という概念はこの公式にあるほど客観的な存在ではないと私は考える。時間というものは人間の感じ方によって、加速したり減速したりスピードが変化するものなのだと思う。

どのような状況でも変化することのない尺度としての客観的な時間のような概念というものは見いだしにくい。

時間の速度はあくまで人間の主観的な実感が決定している。そうした意味で、多くの人間の時間感覚は根本的に変化するとのデータが強く出ている。時間感覚が一気に加速するのである。

われわれのデータでは、時間が加速している実感は、まず個人のレベルで起こることを示している。多くの普通の人達が、説明のつかない奇妙な出来事や気分を体験するというのだ。

もちろん、こうした変化は誰でも体験するというわけではない。
こうした体験を一切しない人々もいる。

しかし、時間の新しい実感をもつ人間の数は一気に増えてゆく。それら個々人の体験や意識変化は、人類全体の集合意識に次第に浸透する。そして最終的には人間の意識を根本から変えてゆく。

このようにクリフ・ハイは書いていましたが、どうなることなのでしょうね。

今の私の個人的な感覚でいえば、時間は加速しているように感じます。

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2014年10月10日



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after-death-001.gif

▲ 2014年10月7日のインターナショナル・ビジネス・タイムスの記事を引用したイギリス Yahoo! ニュースより。



心停止後の意識は生前と変わらず継続している可能性

イギリスにサウサンプトン大学という国立大学があります。その大学から最近発表された研究結果が、人間の「死後」に対してのひとつの方向を示すものかもしれないとして、英国のメディアを中心に大きく報じられました。

というのも、臨死体験(英語で Near Death Experience )という言葉そのものは、かなりの人びとが知っていても、それに関しての科学的、臨床的な大規模調査というのはこれまで行われたことがなかったのです。

そんな中で、サウサンプトン大学の研究者グループは数年かけ、英国、オーストリア、米国の病院で、2,060人の「心停止」、つまり「臨床的に死亡した」と判定された人たちを対象に調査を行うという初の試みをおこなったのです。

そして、その中から「蘇生した人たち」の「心停止後の意識」(死亡を宣告された後の記憶を覚えているかどうか)についての聞き取り調査を行い続けました。これは、2008年からおこなわれている長い研究の中の一環のようです。

これだけの人数を対象にした規模で、臨死に関しての調査研究がおこなわれたことは過去にはなく、それだけ調査結果に注目が寄せられたということのようですが、結果を先に書きますと、

死後も人の意識は続いているという可能性が高い

という結果となっています。

今回はその記事をご紹介します。

ちなみに、上の英国 Yahoo! ニュースの記事で使われているイラストは、小さくてわかりにくいと思いますが、下のイラストです。

near-death-experience.jpg


いかにも世で言われる臨死体験を現しているような絵ですが、今回の研究で調査したのは、

このような「暗いトンネルを通る」という方の話では「ない」

です。

「心停止の直後」、つまり、死亡した直後の病室の状況、聞こえた音、病室などにいた人などの記憶の方の調査です。

というのも、科学的に検証できる部分はそこしかないからだと思われます。

暗いトンネルや、体外離脱などの経験を語られても、それは「比較検証」できないものですが、患者の死の直後の様子を記録しておけば、蘇生した人からの聞き取りと、実際の状況に合致する点(つまり、記憶と現実が一致するかどうか)を調べられるからです。

しかしまあ、科学的には画期的な調査とはいえ、なんと言うか「イマイチな部分」が生じるのは仕方のないところもあります。




死後の意識の研究の限界とは

その「イマイチ」の意味ですが、その前に、まず、今回の英国サウサンプトン大学の「死後の意識」についての調査が、なぜ重要なのかというと、脳は心停止の 20 〜 30 分後には停止するもののようですので、つまり、今回の調査は「脳死の後の意識」とある意味では同義ともいえます。

ですので、学問的な重要性としては、

脳死の後の意識の有無

ということに関係しそうです。

なぜなら、「脳がその人の意識や記憶をつかさどっている」というのが現代の科学であり、死んだ後も意識や記憶があるとなると、この部分に微妙な摩擦が生じるためです。つまり、

「意識や記憶に脳は必要ないかもしれない」

という、科学的・医学的には受け入れがたい概念が認められてしまう可能性があるからです。


また、もう一方では、スビリチュアル的に、

肉体と意識は別のもの

という考え方を立証させられる可能性があるという意味での重要性もあるかもしれません。

「意識と肉体が別だなんて当たり前のことでは?」のように思われるスピリチュアル系の方もいらっしゃるかもしれないですが、「そうは考えていない人を納得させる」ことこそ一般科学の重要な役割だと思っています。

私が、現代科学のことをたまに記事にするのも、そこに意図があります。

もっといえば、

現代科学が、現代科学自体の矛盾を自ら明らかにしていくこと

こそが現代科学のこれからの使命だとさえ考えます。


いずれにしても、この「肉体が滅びても、意識はそのまま永遠に残る」ということの証明は、現在の科学と「非科学」を線引きするかもしれない最も強烈なテーマでもあります。

実際、今回の調査を最初に報道した英国テレグラフの記事の冒頭は以下のような出だしで始まります。

時の経過に従って、人類はより多くの発明や発見を行い、そして、同時に、答えが出る以上に多くの疑問が噴出してきた。

なかには、強力な疑問もある。

それは、太古の昔から哲学者や科学者たちを悩ませ続けてきた疑問 − 死後の世界はあるかどうか − という疑問だ。


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▲ 2014年10月7日のテレグラフより。



臨死体験研究の歴史

そして、今回、「死後の世界」ではなく、「死後の意識」が存在する可能性についての研究が発表されたわけですが、この「臨死体験」の学術的な歴史というのは、臨死体験 - Wikipedia によりますと、1800年代の終わりからあったことはあったようのですが、事実的にこの研究が進んだのは、1975年にキューブラー・ロス医師が『死ぬ瞬間―死とその過程について』という著作に、約 200人の臨死患者から聞き取りしたものをまとめたことから始まります。

まあ……このキューブラー・ロスという女性に関しては、今年の夏前に書きました、

聖女キューブラー・ロスが「神を呪った」とき : 寿命は長いけれど命そのものが粗末な感じがする今の時代に読んだ聖女の「最期」
 2014年07月14日

という記事で、この聖女と呼ばれたキューブラー・ロス医師が最期に豹変していく描写などを読みまして、「自然死の受容の難しさ」を書いたことがありますが、このキューブラー・ロス医師が、臨死体験の学問的発展の先駆者であったとは知りませんでした。

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▲ キューブラー・ロス医師(1926 - 2004年)。


今回の冒頭に貼った英国 Yahoo! の記事のイラストは、「トンネルのようなところを渡っている人のような感じ」が描かれていますが、臨死体験のパターンというものは、おおむね定型化されているもののようで、 冒頭のイラストはその中の一部をイメージしたものだと思われます。

上記 Wikipedia の「臨死体験のパターンと経験者の変化」というコーナーから抜粋しますと、次のようになります。そのページでは、

> 臨死体験には個人差がある。ただ、そこに一定のパターンがあることは否定できない。

と注記した後に、以下のように書かれてあります。



臨死体験のパターン

1. 死の宣告が聞こえる

心臓の停止を医師が宣告したことが聞こえる。この段階では既に、病室を正確に描写できるなど意識が覚醒していることが多い


2. 心の安らぎと静けさ

言いようのない心の安堵感がする


3. 耳障りな音

ブーンというような音がする


4. 暗いトンネル

トンネルのような筒状の中を通る


5. 物理的肉体を離れる

体外離脱をする


6. 他者との出会い

死んだ親族やその他の人物に出会う


7. 光の生命

光の生命に出会う。神や自然光など。
自分の過去の人生が走馬灯のように見える。人生回顧(ライフレビュー)の体験。


8. 境界あるいは限界

死後の世界との境目を見る


9. 蘇生


生き返る



となっています。

冒頭のイラストは「4」の「トンネルのような筒状の中を通る」のイメージだと思われます。

そして、重要なのは、ここでは

9. 蘇生

生き返る


までありますが、ここに至らない「8」で終わった人、つまり

「蘇生しなかった人の話の聞き取り調査は出来ない」

という事実があります。



約3分の後の「意識」はどのように

いずれにしても、今回の英国の大学の調査では、少なくとも蘇生するまでの「心停止(直後に脳死)の間の数分の記憶を持つ人が多い」ということと、その記憶と現実の光景の一致の状況などから、

「脳死後も意識は継続している」

ということが推測されるということになったわけですが、しかし、やはり、この調査には「限界」があります。

その限界は先にも書きましたように、心停止から蘇生した人の調査しかできない。

つまり、「死者からの聞き取り調査はできない」という、当たり前といわれればそれまでの話なのですが、これは決して笑い話として書いているのではなく、やはり、「死んでしまった人のその後の意識はわからない」ということの「壁」は大きいと思います。

ここは結構重要なことで、どうしてかというと、今回の調査の結論として、研究者たちは、

「心停止(脳死)後3分間程度、意識が続いているようだ」

という主旨に至りましたが、この「3分間」というのは、多分、大体の「心停止から蘇生に至るまで」くらいの時間なのではないかと思うのです。

要するに、心停止、あるいは脳死後、時間が経てば経つほど蘇生する可能性が低くなりますので、調査対象となった蘇生した人たちは、

「死んでいる時間が短かった人たち」

だったはずです。

ちなみに、調査対象の 2060人のうち、蘇生した人は 330人です。

そういうこともあり、今回の研究では、永続的な「死後の意識」というものについてはわからないままです。


突然かもしれないですが、今の世の中は、非常に大ざっぱに分類すれば、「死後」、あるいは「肉体と意識」について次のように考えている人たちに分類できるように思います。

A 意識は脳の中にある(つまり、肉体が死ぬとすべての意識が消滅する)

B 意識と肉体とは別のもの(肉体は容器であり、意識は永続的に続く)

C 死後は違う存在となって「死後の世界」に行く

細かくわければキリがありませんが、非常に大ざっぱに上のような感じではないでしょうか。

これを別の言い方で書くと、

A 意識と肉体はひとつのもの(現代の西洋科学)

B 輪廻転生、あるいは、意識が肉体を授かる、という概念

C 天国や地獄や幽霊の世界の概念


というような感じでしょうか。

「A」はともかくとして、「B」と「C」は似ているようで違うところは、

B 意識という観点からは生前と死後の区別はない

C 生前と死後では違う存在となる

というあたりでしょうか。

どの考え方の方々が一番多いのかはわからないですが、たとえば昔の日本では「C」だったような気もするし、それが「A」へと「教育」されてきたという感じでしょうけれど、今では、「B」、つまり、

永久に続く意識としての存在

として人間を見る立場の人も多いようにも思います。


私自身の考え方としては……まあ……多少は「B」に近いと思いますけれど、完全にそうではないのも確かで、なぜなら、病気や災害に会う度に、自分の、そして家族の「死を恐れ」、そして、報道でも「死」を特別に見ている。

最近の In Deep のテーマのひとつの「大量死」に関してもそうです。

これは、私が「死を特殊なこととして見ていて、自分でも大変に恐れている」ことを意味します。心の底から「意識は永遠に滅びないので、肉体の死など関係ない」と思っているのならば、こんな考え方にはならないはずです。

やはり、「永遠の意識」を心底では信じ切れていないのかもしれません。

死を恐れるのは、ほぼすべての人間の、そして動物たちの本能ですけれど、人間が違うのは、上の





のように、「死」に対して多様な考え方を持つことができるところです。

他の動物でも……まあ、そのことを考えている動物たちもいるのかしれないですけれど、それは彼らの世界の中のこととして、とりあえず、人間から見れば、こんなに一生懸命に「死と意識と肉体の存在」のことを考えるのは、やはり人間の特性であるのだろうなあと思います。



父の昔の話

ところで、私が初めて「臨死体験」というものに興味を持ったのは、今から 40年くらい前の小学生の時だったと思いますが、教師だった真面目な父親が、夕食時、お酒を飲みながら、自分の幼い時に体験したことを語った時でした。

冗談や嘘を言うことのない父親でしたので、多分本当に体験したんでしょうけれど、父が子どもの頃、高い木の上から落ちて、仮死状態となって病院に運ばれた時のことを語っていました。

「病院の天井の間上から自分を見ているんだよ。オレは目を閉じていて、母さんと兄弟がベッドを取り囲んでいてさ。その後、暗いところを通ってどこかに行って、明るいところに出た時に、後ろのほうから母さんの気が狂ったかのような叫び声が聞こえたんだ。オレの名前を叫んでるんだよ。それで振り返ったら、誰かに手首を引っ張られて。そうしたら、ベッドの上で目が覚めた。その間、オレはずっと息が止まっていたらしい」

そして、

「でも不思議とその間は気持ちよかったんだよ。『もっとここにいたい』と思ってた。だから、母さんの叫び声だけでは戻らなかったと思う。手首を引っ張られなければ」

とも言っていました。

多分、話の感じとしては、下のようなところで、父の「母さん」が、多分、息子が仮死状態の中、絶叫して父の名前を呼んだのでしょうけれど、それで振り返ると同時に手首を引っ張られて「ご生還」と相成ったようです。

father-retuen.jpg
examiner


この時、父親が亡くなっていたら、今の私もいないわけで(いや、いたかも)、手首を引っ張ってくれた人に感謝したほうがいいのか、そうでもないのかさえわからない 50代の晩秋なのでした。

いずれにしても、「意識は永遠に継続する」に一票、ということで前振りが長くなってしまいましたが、冒頭の記事の翻訳です。



Life After Death: 'Near-Death Experience' Study Shows Awareness Continues After Brain Shutdown
Yahoo ! News (英国) 2014.10.07

死後の世界:「臨死体験」の研究は脳死の後も意識が継続していることを示した

臨死体験についての史上最大規模の研究によって、脳活動の停止後も意識が継続していることが発見され、そして、私たちが死ぬ時に何が起きるのかということについての詳細が明らかになってきた。

サウサンプトン大学の科学者たちは、英国、オーストリア、米国各地の 15の病院において、心停止に陥った 2,000人以上を調査した。 これは臨死体験に関しての調査規模としては過去最大規模だ。

心肺停止から蘇生した人たちの約 40%の人たちは、臨床的に死亡してから、心臓が活動を再開するまでの間に「意識」があったことについて説明した。

その描写は正確で、たとえば、ある人は、心肺停止中の治療マシンの音とノイズを覚えており、どの医師がその間の治療に当たっていたかを記述した。

研究を率いたサム・パルニア( Sam Parnia )博士は、英国紙にこう述べた。

「私たちは心臓が活動を停止した際に、脳が機能しないことを知っています。そして、心臓が停止すると、その 20〜 30秒後には脳活動が停止するのが通常であるにも関わらず、今回の研究では、心停止の後、最大で3分間、明確な意識が続いていたような例があります。」

ある男性は、心停止の間に、治療器から流れる2種類の電子音を正確に説明した。そして、その間に病室で起きたことをすべて正確に説明したのだ。

今回の研究のために、科学者たちは 2,060人の心停止患者を調査した。心停止から生き帰ったのは、そのうちの 330人で、さらにその中の 140人が、蘇生する前の心停止中の経験を説明して、「意識があった」ことを述べた。

意識があったと答えた中の5人に1人は、彼らが、その間、平和な感覚を感じたと答えた。

何人かは明るい光を見たと言い、何人かは、時間が高速化していくことを感じた。また、他の何人かは時間が遅くなる感覚を持った。他には、深い海に沈んでいくような感覚を持つ人もいた。

パルニア博士は、今回の調査で、より多くの人が、死に際して同じような経験を持っていることが示されたとする一方で、蘇生の際に使われる薬の種類によっては、その心停止中の意識と記憶が阻害される可能性があると語った。

博士は以下のように言う。

「これまで、何百万人もの人びとが臨死に対しての鮮烈な経験を持っていたが、科学的には曖昧な証拠しか示せませんでした。あるいは、これらの体験が幻想や幻覚であると想定されてきた面もあります。しかし、今回の調査は、心停止中の彼らの体験は実際に起きたことを認識していたようにとらえられるのです」

さらに、

「しかし、心停止の原因が脳損傷の場合や、蘇生の際に記憶経路への鎮静剤を使った患者たちの場合、心停止の間のことを覚えていません」

と付け加え、さらなる研究が必要だと語った。

ベルニア博士は、心停止中の脳の酸素送達の測定をおこない、蘇生の意識について調査する 2008年に成立された「蘇生中の意識」( Awareness during Resuscitation )の主任研究員を務めている。


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