【人類の覚醒と真実】 の記事一覧

2014年11月04日



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私たちの宇宙から「時間」が徐々に消えている?



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▲ 2014年11月3日の Daily Galaxy より。






 


「時間の絶対性の崩壊」が招くかもしれない現代宇宙モデルの終わりの時

宇宙関係の大御所サイトのデイリーギャラクシーで上のような「宇宙から時間が消えているという新しい学説」を紹介している興味深い記事を見ました。

ちょっと読んでみましたら……長い長い。

その上に、異常なほどの専門用語の飛び交う大変難解な記事だったのですが、今回はその中から自分である程度わかる部分を翻訳しました。

それにしても「どうしてこんなに長い記事となったのか」と考えますと、過去のデイリーギャラクシーの記事の例では、「現代宇宙論やビックバン仮説の崩壊につながりかねない理論については長い記事になる」という傾向があります。

たとえば、今年2月の記事、

「暗黒物質は存在しないかもしれない」 : 王立天文学会の総会で発表された科学界にとっては衝撃的な新学説
 2014年02月13日

では「暗黒物質の存在の否定」に関してのデイリーギャラクシーの記事をご紹介したのですが、この時もあまりにも長い記事の上に極めて難解であり、その時には記事の翻訳そのものを諦めました。

この暗黒物質という仮想上の物質にについては、後の方でも少し書きます。

しかし、今回は暗黒物質の否定よりも、さらに過激といえば過激な、

時間の絶対性の否定

ということがテーマとなっていて、これはもう、物理学の基本中の基本に「時間の流れは不変」という大前提がありまして、この「時間」というものの絶対性が崩れますと、つまり、時間が変幻自在なものであった場合、すべての物理法則は「崩壊」します。

もちろん、宇宙論もです。ビッグバン仮説から「宇宙の膨張と終焉」、あるいは「星や銀河の成り立ち」の理論に至るまで宇宙論「すべて」崩壊しかねないほどのインパクトを持っていると思われます。

ちなみに、この「絶対的時間」を確立したのは、近代物理学の祖であるニュートンでした。

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▲ ニュートンが絶対的時間なども含めたニュートン力学体系を記した著作『自然哲学の数学的諸原理』(1687年)の英語版の扉。


なお、ニュートンは敬虔なクリスチャンでもあったのですが、「イエスの教えと絶対的時間の関係」について、アイザック・ニュートン -Wikipedia の「キリスト教徒として」というセクションに以下のような記述があります。

絶対的時間や絶対的空間などを確立したニュートンではあるが、彼自身はそれらがキリスト教の教義と矛盾するとは考えておらず、『自然哲学の数学的諸原理』にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べている。

というようなことなんですが、今回のデイリー・ギャラクシーの記事には、2011年にスロベニア科学研究センターというところの科学者たちが、ニュートンの「絶対的時間」は「間違っている」とした研究発表をおこなったことなどにもふれられています。

しかし、「時間が絶対的ではない」となった場合はどうなるのかというと、時空を4次元的にとらえるしかないわけで、どうやら現在の最先端物理学は「4次元の世界」への理論へと少しずつ変化しているようです。

そういえば、アメリカの科学系メディア PHYS.ORG の10月 30日の記事にも下のようなものがありました。

para-universes.gif
PHYS.ORG


パラレルワールドとは「複数の宇宙が存在する」というようなことなのでしょうけれど、どうやら最先端物理学の世界ではそれらの存在を認めることと、それらの「様々な宇宙」の相互の作用を研究するという機運が高まってきているようです。

4次元の世界とか、パラレルワールドなどの響きは、かつては映画やコミックだけの幻想の世界だったような概念ですが、現実の科学がそちらに向かって進んでいっているという時代になったようです。

実際、今回のデイリーギャラクシーの記事は「時空連続体」( space-time continuum )という少なくとも私は聞いたことのない言葉から始まります。

これは、時空連続体 - Wikipedia によりますと、

時空連続体とは、時空を4次元多様体としてとらえることを指す。連続体という考え方は古典的であるので、時空の量子論を論じる際には多様体という幾何学的物体を量子化して考えなければならない。

とのことですが…………この説明では、何だかさっぱりわかりません。

そうしましたら、 Yahoo! 知恵袋に「時空連続体ってなんですか?過去・現在・未来はすでに存在しているって事ですか?」という質問があり、そのベストアンサーは下のようなものでした。

通常私たちが存在する世界(空間)は3次元とされています。

しかし、この「縦」「横」「高さ」の概念だけでは状態の変化を説明する事ができないため、4番目の次元である「時間」と3次元空間をひとまとめにしたものが時空連続体です。

つまりは「時間と3次元空間をミックスさせたもの」ということでいいのですかね。

そして、デイリーギャラクシーの記事には、「暗黒物質」のことも出てきます。
というより、「暗黒物質の存在の否定」が主要なテーマとなっているのです。




暗黒物質の存在は風前の灯火

この「暗黒エネルギー」とか「暗黒物質」というものが何かといいますと、ダークエネルギー(暗黒エネルギー) - Wikipedia の説明では、

宇宙論および天文学において、宇宙全体に浸透し、宇宙の拡張を加速していると考えられる仮説上のエネルギーである。

2013年までに発表された観測結果からは、宇宙の質量とエネルギーに占める割合は、原子等の通常の物質が4.9%、ダークマターが26.8%、ダークエネルギーが68.3%と算定されている。

というものです。

なお、 Wikipedia の「暗黒物質」の説明は以下のようなものです。

暗黒物質とは、宇宙にある星間物質のうち電磁相互作用をせずかつ色電荷を持たない、光学的には観測できないとされる仮説上の物質である。そもそも本当に存在するのか、もし存在するとしたらどのような正体なのか、何で出来ているか、未だに確認されておらず、不明のままである。

ちなみに、私は、

「暗黒物質や暗黒エネルギーというものの存在への疑念」

をずっと持っていまして、記事もよく書いていました。

上のほうにもリンクしました「暗黒物質は存在しないかもしれない…」 という記事に載せました現在の物理学での考えでの宇宙の分布図は以下のようになっています。

dark-energy-03.gif

この図が示す意味は、

現代の宇宙論では「この世の中で、人間が存在を認識できる物質は4パーセントしかない」

ということになります。

つまり、この宇宙……というか「この世」は「人間に見えもしない、存在を確認することもできない物質に 96パーセントも占められている、というのが現代物理学の考え方なんですね。

なぜ、そんな訳のわからない理論を打ち立てなければならななかったかというと、

「こうしないと現代の宇宙論モデルの計算のつじつまが合わなくなる」

からです。

こういうもの(暗黒物質など)で計算上の矛盾を補足しておかないと、宇宙の急速な膨張だとかビッグバン仮説さえも崩壊してしまい「現代宇宙論が窮地に陥る」からだというのが最も妥当な説明だと私は思っています。

しかし、だからといって、「この世の 96パーセントが認識できないモノで作られている」なんてのは、やはり納得できるものではないような気がするのです。

上の表では、「通常の物質」、つまり人間が認識できる物質はこの世界にたった 4パーセントしかないということになっているのですが、私の頭の中の宇宙論は下のようになっています。

my-uchu-01.gif


人間はこの世に存在するすべての物質を認識できると私は確信していますし、何より、「この世は計算で作られている訳じゃない」と思うのです。

まあしかし、実際、そんなに強く主張せずとも、この暗黒物質や暗黒エネルギーといったものの存在は、「否定に向かって一直線」の傾向を見せています。

2012年 4月の、

「そこに暗黒物質は存在しなかった」:従来の宇宙論を否定する観測結果を欧州南天天文台が発表
 2012年04月20日

という記事では、宇宙の観測結果が現代宇宙論に反する観測結果を出したことを取り上げていて、この頃から多くの科学者たちの間に、

「暗黒物質とか暗黒エネルギーって本当はないんじゃね?」

という雰囲気が漂って、現在に至っています。

そんなように、いろいろと急激に変化していくかもしれない物理学や宇宙論なわけですが、ここからデイリーギャラクシーの記事をご紹介します。




"Time is Slowly Disappearing from Our Universe" (Or, is It Timeless?)
Daily Galaxy 2014.11.03


「時間がゆっくりと我々の宇宙から消えている」(それとも、それは永遠?)


もし、時空連続体の数式から「時間の部分」が尽きた場合はどうなるのだろうか。

おそらく時間はゆっくりと消滅し続けており、そして、いつか、時間は完全に消え去ることを現在の科学的証拠は示している……という長年、科学者たちを悩ませて続けているラディカルな理論がある。

かつて、科学者たちは、宇宙が加速度的に拡大していることを示すために、宇宙の遠い場所にある爆発した星(超新星)からの光を測定した。 科学者たちは、これらの超新星が宇宙の年齢のように、より速く広がっていくと仮定した。

また、物理学者たちは、反重力のような力が離れた銀河を駆動させていなければならないと仮定し、この正体不明の力を「暗黒エネルギー」と呼ぶようになった。

そんな中、宇宙の急速な膨張や暗黒エネルギーの存在を確認する方向ではなく、「時間そのものが何十億年の中でその存在がなくなる」という考え方が提唱されたのだ。

この理論は 2009年にスペイン・サラマンカ大学のホセ・セノブィラ( José Senovilla )教授により提唱された。時間が消えると、すべてのものは完全に停止するまで粉砕する。

この「時間そのものの終焉」という推論は暗黒エネルギーの代替えの説明ともなりうる。神秘的な反重力の力の宇宙現象であるとの示唆をされている、この暗黒エネルギーについては、多くの科学者たち頭を悩ませてきた。

しかし、今日に至っても、実際に暗黒エネルギーが何であるかを知る者はいないのが現実で、あるいは存在するとしたら、それはどこから来たのかも誰も知らない。

セノブィラ教授と彼の同僚たちは、それに対して驚くべき代案を提示した。教授らは、暗黒エネルギーというようなものは一切存在しないとし、時間がゆっくりとしたペースで遅くなっているという理論を提唱したのだ。

教授の主張は、私たちは「宇宙の膨張の加速」に関しての考え方に騙されていたわけで、実際には時間そのものが遅くなっているというものだ。

日常の日々のレベルでは、その変化を私たちが知覚することはない。しかし、数十億年にわたる宇宙の進路を追跡しての宇宙規模の測定から、このことは明らかになるだろう。

この変化は、人間の視点からでは無限に近くゆっくりとした変化だろうが、宇宙論での視点の観点からは、数十億前に地球を照らした太陽からの古代の光の研究によって、それを簡単に測定することができる可能性がある。

セノブィラ教授は、「私たちは、宇宙の膨張そのもののが幻想だとは言ってはいません。私たちが言っていることは、膨張が加速しているということが幻想だという可能性についてです」と言う。

現在、天文学者たちは、いわゆる「赤方偏移」(観測対象からの光のスペクトルが、可視光で言うと赤に近い方にずれる現象)の技術を用いることで、宇宙の膨張速度を識別することができる。

しかし、これらの測定の精度は「宇宙の時間が絶対的であること」に依存している。もし、セノブィラ教授たちの新しい理論のように、時間が減速していっているとした場合、私たちの独立した時間は新しい空間次元に入っていくことになる。

2011年には、スロベニア科学研究センターの科学者たちは、ニュートンが提唱した「絶対的時間」は間違っているとの理論を発表した。

このスロベニアの科学者たちは、時間は4次元の時空にあるという考え方に基づいている。これまでの時間というものに対しての視点を置き換えることにより、物理の世界は、事物により正確に対応させることができると彼らは主張する。





このあたりまでとしておきます。

オリジナルは、本当にとてつもなく長い記事なのですが、その長い記事の1番最後の文章は、

What is time?

すなわち、「時間とは何なのか?」という文章で締めくくられていました。

ちなみに、科学的な事柄とは関係ないですが、未来予測プロジェクトのウェブボットの代表のクリフ・ハイが、2008年のエッセイで、「変容する時間」について記していたことを思い出しました。

こちらは上の記事のように「時間が遅くなる」のではなく、「時間が加速する」ことを書いています。

今回の記事とは関係ないながら、一部抜粋して記事を締めたいと思います。

ALTA レポート 909 パート5
ウェブボット 2008年12月7日

E=MC2、これはアインシュタインの周知の公式だが、時間という概念はこの公式にあるほど客観的な存在ではないと私は考える。時間というものは人間の感じ方によって、加速したり減速したりスピードが変化するものなのだと思う。

どのような状況でも変化することのない尺度としての客観的な時間のような概念というものは見いだしにくい。

時間の速度はあくまで人間の主観的な実感が決定している。そうした意味で、多くの人間の時間感覚は根本的に変化するとのデータが強く出ている。時間感覚が一気に加速するのである。

われわれのデータでは、時間が加速している実感は、まず個人のレベルで起こることを示している。多くの普通の人達が、説明のつかない奇妙な出来事や気分を体験するというのだ。

もちろん、こうした変化は誰でも体験するというわけではない。
こうした体験を一切しない人々もいる。

しかし、時間の新しい実感をもつ人間の数は一気に増えてゆく。それら個々人の体験や意識変化は、人類全体の集合意識に次第に浸透する。そして最終的には人間の意識を根本から変えてゆく。

このようにクリフ・ハイは書いていましたが、どうなることなのでしょうね。

今の私の個人的な感覚でいえば、時間は加速しているように感じます。



  

2014年10月10日



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▲ 2014年10月7日のインターナショナル・ビジネス・タイムスの記事を引用したイギリス Yahoo! ニュースより。






 



心停止後の意識は生前と変わらず継続している可能性

イギリスにサウサンプトン大学という国立大学があります。その大学から最近発表された研究結果が、人間の「死後」に対してのひとつの方向を示すものかもしれないとして、英国のメディアを中心に大きく報じられました。

というのも、臨死体験(英語で Near Death Experience )という言葉そのものは、かなりの人びとが知っていても、それに関しての科学的、臨床的な大規模調査というのはこれまで行われたことがなかったのです。

そんな中で、サウサンプトン大学の研究者グループは数年かけ、英国、オーストリア、米国の病院で、2,060人の「心停止」、つまり「臨床的に死亡した」と判定された人たちを対象に調査を行うという初の試みをおこなったのです。

そして、その中から「蘇生した人たち」の「心停止後の意識」(死亡を宣告された後の記憶を覚えているかどうか)についての聞き取り調査を行い続けました。これは、2008年からおこなわれている長い研究の中の一環のようです。

これだけの人数を対象にした規模で、臨死に関しての調査研究がおこなわれたことは過去にはなく、それだけ調査結果に注目が寄せられたということのようですが、結果を先に書きますと、

死後も人の意識は続いているという可能性が高い

という結果となっています。

今回はその記事をご紹介します。

ちなみに、上の英国 Yahoo! ニュースの記事で使われているイラストは、小さくてわかりにくいと思いますが、下のイラストです。

near-death-experience.jpg


いかにも世で言われる臨死体験を現しているような絵ですが、今回の研究で調査したのは、

このような「暗いトンネルを通る」という方の話では「ない」

です。

「心停止の直後」、つまり、死亡した直後の病室の状況、聞こえた音、病室などにいた人などの記憶の方の調査です。

というのも、科学的に検証できる部分はそこしかないからだと思われます。

暗いトンネルや、体外離脱などの経験を語られても、それは「比較検証」できないものですが、患者の死の直後の様子を記録しておけば、蘇生した人からの聞き取りと、実際の状況に合致する点(つまり、記憶と現実が一致するかどうか)を調べられるからです。

しかしまあ、科学的には画期的な調査とはいえ、なんと言うか「イマイチな部分」が生じるのは仕方のないところもあります。




死後の意識の研究の限界とは

その「イマイチ」の意味ですが、その前に、まず、今回の英国サウサンプトン大学の「死後の意識」についての調査が、なぜ重要なのかというと、脳は心停止の 20 〜 30 分後には停止するもののようですので、つまり、今回の調査は「脳死の後の意識」とある意味では同義ともいえます。

ですので、学問的な重要性としては、

脳死の後の意識の有無

ということに関係しそうです。

なぜなら、「脳がその人の意識や記憶をつかさどっている」というのが現代の科学であり、死んだ後も意識や記憶があるとなると、この部分に微妙な摩擦が生じるためです。つまり、

「意識や記憶に脳は必要ないかもしれない」

という、科学的・医学的には受け入れがたい概念が認められてしまう可能性があるからです。


また、もう一方では、スビリチュアル的に、

肉体と意識は別のもの

という考え方を立証させられる可能性があるという意味での重要性もあるかもしれません。

「意識と肉体が別だなんて当たり前のことでは?」のように思われるスピリチュアル系の方もいらっしゃるかもしれないですが、「そうは考えていない人を納得させる」ことこそ一般科学の重要な役割だと思っています。

私が、現代科学のことをたまに記事にするのも、そこに意図があります。

もっといえば、

現代科学が、現代科学自体の矛盾を自ら明らかにしていくこと

こそが現代科学のこれからの使命だとさえ考えます。


いずれにしても、この「肉体が滅びても、意識はそのまま永遠に残る」ということの証明は、現在の科学と「非科学」を線引きするかもしれない最も強烈なテーマでもあります。

実際、今回の調査を最初に報道した英国テレグラフの記事の冒頭は以下のような出だしで始まります。

時の経過に従って、人類はより多くの発明や発見を行い、そして、同時に、答えが出る以上に多くの疑問が噴出してきた。

なかには、強力な疑問もある。

それは、太古の昔から哲学者や科学者たちを悩ませ続けてきた疑問 − 死後の世界はあるかどうか − という疑問だ。


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▲ 2014年10月7日のテレグラフより。



臨死体験研究の歴史

そして、今回、「死後の世界」ではなく、「死後の意識」が存在する可能性についての研究が発表されたわけですが、この「臨死体験」の学術的な歴史というのは、臨死体験 - Wikipedia によりますと、1800年代の終わりからあったことはあったようのですが、事実的にこの研究が進んだのは、1975年にキューブラー・ロス医師が『死ぬ瞬間―死とその過程について』という著作に、約 200人の臨死患者から聞き取りしたものをまとめたことから始まります。

まあ……このキューブラー・ロスという女性に関しては、今年の夏前に書きました、

聖女キューブラー・ロスが「神を呪った」とき : 寿命は長いけれど命そのものが粗末な感じがする今の時代に読んだ聖女の「最期」
 2014年07月14日

という記事で、この聖女と呼ばれたキューブラー・ロス医師が最期に豹変していく描写などを読みまして、「自然死の受容の難しさ」を書いたことがありますが、このキューブラー・ロス医師が、臨死体験の学問的発展の先駆者であったとは知りませんでした。

ross-03.jpg
▲ キューブラー・ロス医師(1926 - 2004年)。


今回の冒頭に貼った英国 Yahoo! の記事のイラストは、「トンネルのようなところを渡っている人のような感じ」が描かれていますが、臨死体験のパターンというものは、おおむね定型化されているもののようで、 冒頭のイラストはその中の一部をイメージしたものだと思われます。

上記 Wikipedia の「臨死体験のパターンと経験者の変化」というコーナーから抜粋しますと、次のようになります。そのページでは、

> 臨死体験には個人差がある。ただ、そこに一定のパターンがあることは否定できない。

と注記した後に、以下のように書かれてあります。




臨死体験のパターン

1. 死の宣告が聞こえる

心臓の停止を医師が宣告したことが聞こえる。この段階では既に、病室を正確に描写できるなど意識が覚醒していることが多い


2. 心の安らぎと静けさ

言いようのない心の安堵感がする


3. 耳障りな音

ブーンというような音がする


4. 暗いトンネル

トンネルのような筒状の中を通る


5. 物理的肉体を離れる

体外離脱をする


6. 他者との出会い

死んだ親族やその他の人物に出会う


7. 光の生命

光の生命に出会う。神や自然光など。
自分の過去の人生が走馬灯のように見える。人生回顧(ライフレビュー)の体験。


8. 境界あるいは限界

死後の世界との境目を見る


9. 蘇生


生き返る




となっています。

冒頭のイラストは「4」の「トンネルのような筒状の中を通る」のイメージだと思われます。

そして、重要なのは、ここでは

9. 蘇生

生き返る


までありますが、ここに至らない「8」で終わった人、つまり

「蘇生しなかった人の話の聞き取り調査は出来ない」

という事実があります。



約3分の後の「意識」はどのように

いずれにしても、今回の英国の大学の調査では、少なくとも蘇生するまでの「心停止(直後に脳死)の間の数分の記憶を持つ人が多い」ということと、その記憶と現実の光景の一致の状況などから、

「脳死後も意識は継続している」

ということが推測されるということになったわけですが、しかし、やはり、この調査には「限界」があります。

その限界は先にも書きましたように、心停止から蘇生した人の調査しかできない。

つまり、「死者からの聞き取り調査はできない」という、当たり前といわれればそれまでの話なのですが、これは決して笑い話として書いているのではなく、やはり、「死んでしまった人のその後の意識はわからない」ということの「壁」は大きいと思います。

ここは結構重要なことで、どうしてかというと、今回の調査の結論として、研究者たちは、

「心停止(脳死)後3分間程度、意識が続いているようだ」

という主旨に至りましたが、この「3分間」というのは、多分、大体の「心停止から蘇生に至るまで」くらいの時間なのではないかと思うのです。

要するに、心停止、あるいは脳死後、時間が経てば経つほど蘇生する可能性が低くなりますので、調査対象となった蘇生した人たちは、

「死んでいる時間が短かった人たち」

だったはずです。

ちなみに、調査対象の 2060人のうち、蘇生した人は 330人です。

そういうこともあり、今回の研究では、永続的な「死後の意識」というものについてはわからないままです。


突然かもしれないですが、今の世の中は、非常に大ざっぱに分類すれば、「死後」、あるいは「肉体と意識」について次のように考えている人たちに分類できるように思います。

A 意識は脳の中にある(つまり、肉体が死ぬとすべての意識が消滅する)

B 意識と肉体とは別のもの(肉体は容器であり、意識は永続的に続く)

C 死後は違う存在となって「死後の世界」に行く

細かくわければキリがありませんが、非常に大ざっぱに上のような感じではないでしょうか。

これを別の言い方で書くと、

A 意識と肉体はひとつのもの(現代の西洋科学)

B 輪廻転生、あるいは、意識が肉体を授かる、という概念

C 天国や地獄や幽霊の世界の概念


というような感じでしょうか。

「A」はともかくとして、「B」と「C」は似ているようで違うところは、

B 意識という観点からは生前と死後の区別はない

C 生前と死後では違う存在となる

というあたりでしょうか。

どの考え方の方々が一番多いのかはわからないですが、たとえば昔の日本では「C」だったような気もするし、それが「A」へと「教育」されてきたという感じでしょうけれど、今では、「B」、つまり、

永久に続く意識としての存在

として人間を見る立場の人も多いようにも思います。


私自身の考え方としては……まあ……多少は「B」に近いと思いますけれど、完全にそうではないのも確かで、なぜなら、病気や災害に会う度に、自分の、そして家族の「死を恐れ」、そして、報道でも「死」を特別に見ている。

最近の In Deep のテーマのひとつの「大量死」に関してもそうです。

これは、私が「死を特殊なこととして見ていて、自分でも大変に恐れている」ことを意味します。心の底から「意識は永遠に滅びないので、肉体の死など関係ない」と思っているのならば、こんな考え方にはならないはずです。

やはり、「永遠の意識」を心底では信じ切れていないのかもしれません。

死を恐れるのは、ほぼすべての人間の、そして動物たちの本能ですけれど、人間が違うのは、上の





のように、「死」に対して多様な考え方を持つことができるところです。

他の動物でも……まあ、そのことを考えている動物たちもいるのかしれないですけれど、それは彼らの世界の中のこととして、とりあえず、人間から見れば、こんなに一生懸命に「死と意識と肉体の存在」のことを考えるのは、やはり人間の特性であるのだろうなあと思います。



父の昔の話

ところで、私が初めて「臨死体験」というものに興味を持ったのは、今から 40年くらい前の小学生の時だったと思いますが、教師だった真面目な父親が、夕食時、お酒を飲みながら、自分の幼い時に体験したことを語った時でした。

冗談や嘘を言うことのない父親でしたので、多分本当に体験したんでしょうけれど、父が子どもの頃、高い木の上から落ちて、仮死状態となって病院に運ばれた時のことを語っていました。

「病院の天井の間上から自分を見ているんだよ。オレは目を閉じていて、母さんと兄弟がベッドを取り囲んでいてさ。その後、暗いところを通ってどこかに行って、明るいところに出た時に、後ろのほうから母さんの気が狂ったかのような叫び声が聞こえたんだ。オレの名前を叫んでるんだよ。それで振り返ったら、誰かに手首を引っ張られて。そうしたら、ベッドの上で目が覚めた。その間、オレはずっと息が止まっていたらしい」

そして、

「でも不思議とその間は気持ちよかったんだよ。『もっとここにいたい』と思ってた。だから、母さんの叫び声だけでは戻らなかったと思う。手首を引っ張られなければ」

とも言っていました。

多分、話の感じとしては、下のようなところで、父の「母さん」が、多分、息子が仮死状態の中、絶叫して父の名前を呼んだのでしょうけれど、それで振り返ると同時に手首を引っ張られて「ご生還」と相成ったようです。

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この時、父親が亡くなっていたら、今の私もいないわけで(いや、いたかも)、手首を引っ張ってくれた人に感謝したほうがいいのか、そうでもないのかさえわからない 50代の晩秋なのでした。

いずれにしても、「意識は永遠に継続する」に一票、ということで前振りが長くなってしまいましたが、冒頭の記事の翻訳です。




Life After Death: 'Near-Death Experience' Study Shows Awareness Continues After Brain Shutdown
Yahoo ! News (英国) 2014.10.07

死後の世界:「臨死体験」の研究は脳死の後も意識が継続していることを示した

臨死体験についての史上最大規模の研究によって、脳活動の停止後も意識が継続していることが発見され、そして、私たちが死ぬ時に何が起きるのかということについての詳細が明らかになってきた。

サウサンプトン大学の科学者たちは、英国、オーストリア、米国各地の 15の病院において、心停止に陥った 2,000人以上を調査した。 これは臨死体験に関しての調査規模としては過去最大規模だ。

心肺停止から蘇生した人たちの約 40%の人たちは、臨床的に死亡してから、心臓が活動を再開するまでの間に「意識」があったことについて説明した。

その描写は正確で、たとえば、ある人は、心肺停止中の治療マシンの音とノイズを覚えており、どの医師がその間の治療に当たっていたかを記述した。

研究を率いたサム・パルニア( Sam Parnia )博士は、英国紙にこう述べた。

「私たちは心臓が活動を停止した際に、脳が機能しないことを知っています。そして、心臓が停止すると、その 20〜 30秒後には脳活動が停止するのが通常であるにも関わらず、今回の研究では、心停止の後、最大で3分間、明確な意識が続いていたような例があります。」

ある男性は、心停止の間に、治療器から流れる2種類の電子音を正確に説明した。そして、その間に病室で起きたことをすべて正確に説明したのだ。

今回の研究のために、科学者たちは 2,060人の心停止患者を調査した。心停止から生き帰ったのは、そのうちの 330人で、さらにその中の 140人が、蘇生する前の心停止中の経験を説明して、「意識があった」ことを述べた。

意識があったと答えた中の5人に1人は、彼らが、その間、平和な感覚を感じたと答えた。

何人かは明るい光を見たと言い、何人かは、時間が高速化していくことを感じた。また、他の何人かは時間が遅くなる感覚を持った。他には、深い海に沈んでいくような感覚を持つ人もいた。

パルニア博士は、今回の調査で、より多くの人が、死に際して同じような経験を持っていることが示されたとする一方で、蘇生の際に使われる薬の種類によっては、その心停止中の意識と記憶が阻害される可能性があると語った。

博士は以下のように言う。

「これまで、何百万人もの人びとが臨死に対しての鮮烈な経験を持っていたが、科学的には曖昧な証拠しか示せませんでした。あるいは、これらの体験が幻想や幻覚であると想定されてきた面もあります。しかし、今回の調査は、心停止中の彼らの体験は実際に起きたことを認識していたようにとらえられるのです」

さらに、

「しかし、心停止の原因が脳損傷の場合や、蘇生の際に記憶経路への鎮静剤を使った患者たちの場合、心停止の間のことを覚えていません」

と付け加え、さらなる研究が必要だと語った。

ベルニア博士は、心停止中の脳の酸素送達の測定をおこない、蘇生の意識について調査する 2008年に成立された「蘇生中の意識」( Awareness during Resuscitation )の主任研究員を務めている。




  

2014年08月15日



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▲ 写真家アレハンドロ・チャスキエルベルグの作品を紹介している FENCE より。

大槌町 - Wikipedia より

大槌町(おおつちちょう)は、日本の岩手県上閉伊郡に所在する町。2011年3月11日、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、大槌町も強い揺れに襲われた。 加えて、この地震が引き起こした大津波とそれによって発生した火災により、町は壊滅的被害を受けた。








 



先日、アルゼンチンの写真家による印象的な写真の作品群を見つけました。

それは、岩手で 2011年の津波で壊滅的な被害を受けた大槌町という町の「廃墟跡」で、そこにもともと住んでいた人と共に、その場で撮影したというものです。

上の写真もその1枚で、写真家の技量(あるいは心理的技量)のおかげなのか、悲劇よりも「人間の力強さ」を感じさせるもので、やや感動しましたので、いくつか載せたいと思います。

ところで、この最近の1週間ほどは、記事の更新も開くことが多かったんですけれど、ほぼ、とんぼ帰りで私の実家のある北海道へ帰省したりしていたり、他にも「老」と「死」の関係でいろいろとあったのですが、まあ、それらのゴタゴタで、肉体的というより、精神的にちょっと参っていた時期でした。

そんな時に「偶然」知った、太平洋戦争時の「ある戦場」についてのことを少し書きたいと思います。




はじめて知った「太平洋戦争時の狂気の戦場」の映像

上に書いたようなゴタゴタとしたことがやや一段落した、8月 13日、家族は奥さんの実家のほうに行き、夜は私1人で部屋でお酒を飲んだりしていたのですが、午後 10時前くらいに、

「あ、天気予報見よう」

と、消していたテレビをつけ、 NHK に回しました。しかし、もう 10時を少し過ぎており、天気予報は終わっていたのですが、始まっていたのが NHK スペシャルで、そのタイトルは、「狂気の戦場 ペリリュー 〜"忘れられた島"の記録〜」というものでした。


これがすごかった。


偶然見ることができて本当に良かった……という、「良かった」というのは何だか変な表現ですが、この戦場も戦闘も知らなかったので、知ることができて本当に驚きと同時に、 NHK スペシャルなんて、この数年見たこともなかったので、偶然に感謝したした次第です。

NHK の番組サイトの冒頭をご紹介します。

狂気の戦場 ペリリュー 〜"忘れられた島"の記録〜

今年、アメリカで日米の熾烈な戦いを記録した113本のフィルムの存在が明らかになった。撮影地はフィリピンの東800キロに位置するパラオ諸島の小島・ペリリュー。「地球最後の楽園」と呼ばれるサンゴ礁の美しい島だ。

70年前、日米両軍はここで死闘を繰り広げた。米海兵隊の最精鋭部隊と言われる第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%。そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られてこなかったため、「忘れられた戦場」と呼ばれている。

ペリリュー島は、太平洋戦争の中でも特異な戦場だった。日本軍はアッツ島以降続けてきた組織的な“玉砕”を初めて禁じ、持久戦を命令。米軍が当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は2カ月半に及んだ。



そうなんです。

今年になって、初めて「フィルム(しかも、ほとんどがカラー映像)」の存在が明らかになった戦場の記録を放映したのです。

しかも、太平洋戦争のアメリカ軍の連隊の死傷率として、史上最も高い約60%という死者をアメリカ軍は出したという戦闘だったのです。日本兵は山に穴を掘り、持久戦に持ち込み、接近戦で戦い続けました。それはゲリラ戦のようでもあり、ベトナム戦争のようでもありました。

この映像と、そして戦況などと共に、見ている途中で私は体が震えてくるほどの強烈な「未体験のはずなのに、体験したかのような感覚」を味わい続けていました。顔の表情も動かなくなりました。

途中からほとんど顔も体も不動で番組を見ていました。
なぜだかわかりません。


それはともかく、番組によると、ペリリュー島に派遣されたアメリカ軍の「第1海兵師団第1連隊」は、当時のアメリカの「最強の部隊」と言われていた部隊で、3000人から構成されていました。

ペリリュー島で迎え撃つ日本兵も、関東軍から選ばれた精鋭で、人数は何千人だったのかはわからないですが、最終的に生き残ったのは 120人だけ( 60人だったかも)だったのだそう。

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▲ 戦闘末期にアメリカ軍が投入した火炎放射器搭載の装甲車。130メートル先までのすべての対象を焼き払います。


内容については、フィルムも証言も、その具体的な描写と語り口があまりにもすべてが衝撃的で、うまくまとめて説明することはできないですが、いつかまた再放送されると思いますので、そういう際にはぜひご覧になっていただきたいと思います。

どこからともなく現れて、部隊最後方を歩くアメリカ兵を刺殺して音もなく消え去る日本兵。戦闘の恐怖に耐えかねて発狂するアメリカ兵の姿や、日本兵同士での処刑の後の光景など、映像では、これまでちょっと見たことがないような光景が続きます。

処刑に関しては、どんな戦場でも「敵前逃亡」は前線では基本的に銃殺刑ですので、その点では普通のことなのでしょうが、その映像では、手足を縛られ、頭部も切断されたり、尋常ではない粛正の状態が示されていたので、日本兵の内部でも「狂気じみた何か」が起きていたのかもしれません。

そして番組には、現在も生きている当時の日本兵、そして、アメリカ兵、さらに、そのフィルムを撮影したアメリカ軍の従軍カメラマン(現在 91歳)なども出ていて、証言を行っています。

番組に出ていた元兵士たちは、最も年齢の若い人で、アメリカ人の 88歳。日本人の元兵士には 93歳の人もいましたが、この人たちの記憶の明確なこと・・・

93歳の元日本兵は、この戦いを比喩として、

「サソリとサソリをね、瓶の中に入れて、そして上から蓋をした状態。逃げられもしない。ひたすら殺し合うだけ」

というようなことを言っていました。

「サソリとサソリ」というのは、「双方とも当時のそれぞれの最強部隊だった」という意味だと思います。そして、「蓋」というのは、この戦いは、当時の戦略的な意味で、「日本兵もアメリカ兵もどちらも見捨てられたような形」となった戦場だったといえる部分があることから来ているようです。

88歳の元アメリカ兵は、仲間のアメリカ兵が木に縛り付けられて殺されている光景を見て、怒りに震えている直後、日本兵を発見した時のことを話します。

「最初に見つけた日本兵の頭を2発撃ち、その場にいた 17人を全部私が殺しました」

ということを「とても穏やかな顔つき」で話していました。

日本のテレビ番組とはいえ、もしかすると、孫などもいるであろう温厚そうなオジイサンの口から出る言葉としては、それだけでもショッキングなイメージがありましたが、でも、むしろその老人の表情が穏やかで私は何だか救われたという変な感覚に陥ってもいました。

ところで、これらの戦場の話は、今から 70年も前の話で、「そんな昔のことをちゃんと覚えているものなのだろうか」と思われる方もいらっしゃるかもしれないですが、第二次大戦で、フィリピンに兵士として派兵された作家の山本七平さんが 40年ほど前に書かれた『ある異常体験者の偏見』という著作の冒頭は以下のような文章で始まります。

山本七平『ある異常体験者の偏見』(1973年)冒頭より

ときどき「山本さんは戦争中のことをよく憶えていますね」といわれるが、こういうことは、形を変えてみれば、だれでも同じだということに気づかれるであろう。

たとえば航空機事故である。ニュースとしてこれを聞いた人はすぐ忘れるであろうが、本当に落ちて、全員死亡した中で奇跡的に助かったという人は、そのことを一生忘れ得ないのが普通である。

それは「思い出すだに身の毛がよだつ」という体験で、本人にとっては何とかして忘れたいことにすぎない。「戦争体験を忘れるな」という人がいるが、こう言える人は幸福な人、私などは逆で、何とかして忘れたい、ただただ忘れたいの一心であったし、今もそれは変わらない。



くしくも、それから 40年後の先の NHK ドキュメンタリーの中で、ペリリュー島の「地獄の光景」のフィルムを撮影した現在 91歳のアメリカ人の方も同じようなことを言っていました。番組のほうの最後のほうのシーンです。番組を見た記憶だけで、書きとめていたわけではないですので、台詞は適当ですが、

「あの記憶は忘れられるなら忘れたいですが、死ぬまであの光景が私の頭の中から消えることはないのだと思います」

というようなことをうつむいて語っていました。

山本七平さんは、1945年 1月 6日から終戦まで続いたルソン島の戦いで戦い、生き残った人です。この「ルソン島の戦い」は、日本兵 25万人のうち、21万7000人が死亡しています。兵士の9割弱が死亡した地獄の戦場でした。


そんなわけで、何だか余談というか、変に長い話となってしまいましたけれど、この時期になると、「霊」というものがこの世に存在しようがしまいが、毎年、私の中に刺激を与え続けるようで、

「死者」

というものへの思いが強くなるようです。

昨年の今頃も、

心地よい「死の園」からの帰還後に気付いたイルカの大量死と人間の大量死をつなぐ曖昧なライン
 2013年08月10日

というようなタイトルの記事を書いています。

ところで、この時期というと、戦争と共に、原爆のことが話題となりますが、広島はともかく、「長崎がどうして原爆投下の対象として選ばれたのか」というのは、人体実験な目的が最も大きかったということが今では公での通説になっていますが、ただ、上の昨年の記事に書きました下の部分にもやや着目してみる、ということの意味もあるのかなとも思います。

この 33度線が通る場所というのは、政治的混乱を象徴する場所が多く、33度線の代表的な国や場所として、

・トリポリ(リビア)
・ダマスカス(シリア)
・カシミール(インド)
・バグダッド(イラク)
・長崎(日本)
・ヨルダン川西域
・ベイルート
・エルサレム


などがあり、国家の中の複数の地域を通過する国としては、チベット、アフガニスタン、イランなどがあります。他にバミューダ海域や米国のソルトン湖も、この北緯33度上にあります。



ただ、原爆投下の問題は今でもセンシティブな問題で、私が気軽に書けるようなことではないと思っています。

それにしても、上の 33度線の地域のうちで、リビアとかシリアとイラクとか、あるいはガザの周辺などは、昨年よりも今年になってからのほうが、さらに状況が厳しくなっていることにも気づきます。

イスラム国( IS )の台頭、リビアの内戦、ガザへの侵攻。

いずれにしても、戦争はどうやら拡大を続けていて、2014年 8月 7日の時点で「戦争状態」にある国は、以下の赤い部分の 10カ国だそうです。

war-2014-87.jpg
What Countries Are Currently At War? A Complete List


そんなわけで、いろいろと「死」を思う時期の中で見つけたアルゼンチンの写真家が作成した「生を感じる」写真をご紹介します。




白くぼやけた「写真の記憶」にショックを受けて

Alejandro-Chaskielberg.jpg
・写真家アレハンドロ・チャスキエルベルグさん(1977年生)。


mem-1.jpg

▲ アレハンドロ・チャスキエルベルグさんの写真の1枚。Slate より。以下、すべて同じです。


アルゼンチンの若き写真家、アレハンドロ・チャスキエルベルグ( Alejandro Chaskielberg )さん。

彼は、 2011年 3月 11日の地震後に被災地を訪れ、その後、何度か現地に足を運ぶうちに、現地の人々や市民団体、学生さんたちとの交流を深めていった時期に、チャスキエルベルグさんは、被災地で「あるもの」を見つけて、それにショックを受けたのでした。それが彼を今回の作品を創作する熱意に突き動かしたもののようです。

その彼が「ショックを受けたもの」は下のものです。

album-01.jpg


何かよくわからないかもしれないですが、これは、水没して、部分的に「白くぼやけた家族の写真アルバム」なのです。どこの家族のものかはわかりません。

ほとんど写真としての原型は留めていませんが、下段の右から2枚目などを拡大してみますと、家族か親戚などでの集合写真のようなものであることがわかります。

album-02.jpg


その「写真の記憶」が白くぼやけている光景と、そして、現実に目の前に広がる「廃墟」の光景との組み合わせに大変に衝撃を受けたチャスキエルベルグさんは、

「この廃墟で、もともと住んでいた人たちの写真を撮りたい」

と思うようになり、付き合いのあった地元の人たちの協力により、「元の自分のたちの家の廃墟」の中で写真の撮影が続けられたのでした。

memories-top.jpg


写真を見ると、おわかりかと思うのですが、写真の中に「白い部分」と「カラーの部分」が入り交じっていることに気づかれるかと思います。

そして、

「人々、そして活動している街には色がついている」

ということもおわかりかと思います。

memories-part-1.jpg


チャスキエルベルグさんは、「廃墟となった部分を白く加工する写真処理」をすることによって、破壊された記憶から色を消し去り、命のある部分に色を残すという作品を作り上げたのでした。

mem-5.jpg


大部分が廃墟となってしまった町の中から「生きているすべてを浮き上がらせる」という試みともいえます。


考えてみれば、この方々は、戦争ではなく、自然災害の被害者ですが、先のあげた戦争体験者の人々の、

「あの記憶は忘れられるなら忘れたいですが、死ぬまであの光景が私の頭の中から消えることはないのだと思います」

という言葉と同じ思いを持っているかもしれません。

なお、上の写真は縮小していて、今ひとつその迫力と美しさが伝わりませんので、非常に大きなサイズで掲載されている、Slate というサイトの、

Devastatingly Beautiful Photos of Japanese Tsunami Victims in the Ruins of Their Homes
(自分たちの住んでいた家の廃墟の中の日本人津波被災者の圧倒的に美しい写真 )

をご覧下さるとよろしいかと思います。

これが被災者ご本人たちの復興につながるものかどうかはわからないですが、しかし少なくとも見ている私たちの「何か」には結びつくように思います。いずれしても、この作品によって、私は大槌町という、ともすれば今まで知りもしなかった町の存在を一生忘れることはないはずです。



  

2014年07月26日



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exorcist-association-top.gif

▲ 2014年7月3日のカナダ CBC ニュースより。






 


エクソシストから辿り着いたのは日月神示の冒頭だった

先日の記事、

世に溢れるアナグラム : ツェッペリンの天国への階段の逆回転での「悪魔と666」。リーガンが語る逆回転のサタンの言葉。そして、セウォル号オーナーの「鏡像」遺書
 2014年07月23日

という、読み直すと何ともとりとめのない長い記事ですが、その後半で、1973年の映画『エクソシスト』についてふれている場所があります。

その内容そのものは記事を読んでいただければ幸いですが、映画のシーンの中の言語研究所のセットの中に、下のように「 TASUKETE (たすけて)」と書かれた看板か横断幕のようなものがあることに気づきました。

tasukete-1.gif


このような描写は原作にはなく、そもそも映画は日本とか日本語などはまったく関係しないものですので、何となく興味を抱き、これはローマ字ではなく、「もしかすると、英語に TASUKETE という単語があったりして」と思って辞書を引いたのですね。

英語辞書 Weblio で TASUKETE と引いてみたのです。当然、該当する英語はなく(笑)、ただ、

「TASUKETE を含む例文一覧」


というものがあり、そこに下のような例文が載せられていたのです。

tasukete-2.gif
Weblio TASUKETE


「・・・なんじゃね、これは・・・」

と思わず呟いたほど訳のわからない英語と、そして日本語訳でした。

日本語の部分は、

「卍も十も九も八きりたすけて七六かしい五くろうのない四かくるから 三たまを二たんにみかいて一すしのま九十を十四て九れ四 いま一十九十六あるか 九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 九の四八まって二十十七一九六てある」


と書かれてあるのですが、どう考えても普通の日本語ではないものです。
そもそも読み方がわからない。

そうしましたら、その後、お知り合いがメールをくださいまして、

「あの日本語は日月神示です。しかも、冒頭の第01巻 上つ巻 第一帖 (一)です」

と教えられたのです。

「日月神示?」

しかし、たとえば、ひふみ神示データー ひふみ神示 第01巻  上つ巻などで確認しますと、その部分は下のように書かれてあります。


「仏もキリストも何も彼もはっきりたすけて七六かしいご苦労のない代が来るから みたまを不断に磨いて一筋の誠を通してくれよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労である。」



では、最初の訳のわからない日本語は何かと申しますと、メールを下さった方によりますと、


> 岡本天明氏が自動書記で書かれたもの、つまり原文を忠実に文字起こしたもの


だそうです。

まあ、それだけの話なんですが、何ともいえない「奇妙さ」を感じたのは事実です。

そもそも、ネットの英語辞書で「 TASUKETE 」なんて検索する人がいるとは思えないわけで、つまり、上のような奇妙な例文に出会うこと自体があり得ないようなできごとではあるわけで、いずれにしても、映画『エクソシスト』の中で、「ふと気づいた美術セットの文字」から、まさか、日月神示の冒頭部分が浮かび上がってくるとは・・・と思った次第です。

このような、

「何かの存在が、自分を偶然に何かの存在へと導いていく」


ということを「実際に感じる」ことは実は多いことでもあり、そして、これは多くの方がそのように自覚的に気づくことも多いのではないかと思われます。

それらは一般的には「偶然」という言葉で語られるわけですけれど、この「偶然」という現象には「大きな(物理学としての意味ではない)力学が存在している」ということと共に、それらの背後にあるものは、

「すべてを意味する意味での《ひとつのもの》かもしれない」


と考えることもあります。

死ぬまでに何度の「偶然」を繰り返して生きていくのかはわからないですが、それらは確実に「過去と未来を結ぶ線」であり、そして線というのは、そこから時間軸を取り払えば、「単なる点」となります。

小さな何もないようなところに自分の人生のすべてが集約される。多分そのあたりが「人生」というものだと思うのですが、変な形而上的なことを書きたいわけではないですので、この話はこのあたりにしておきます。




「悪魔は昔から神さまのコマーシャルなんですわ」と口にしたリーガンの母親

ところで、上の記事「世に溢れるアナグラム…」には、


何しろ、私が小説『エクソシスト』を初めて買ったのが、映画が話題となった後の中学2年の時(1977年)ですので、現在、購入後 37年目になりますが、まだ完読していないという有り様。



と書いていますが、実は上の記事を書いた夜、お酒を飲みながらパラパラめくっているうちに、結局、全部読んでしまいました。

映画のほうのエクソシストでは、カトリック教会から正式に派遣された老神父であるメリン神父という人の悪魔払いの様子が、ひとつの映画のメインとしても描かれますが、小説ではメリン神父が登場するのは、この全ページが文庫本で約 550ページもある長編小説の中の、なんと 470ページ目なのです。

そして、528ページ目には死んでしまう。
わりとほんのちょっとの登場なのです。

しかし、やはり映画同様、小説でもすべての登場人物を圧倒する存在感と「理性と尊厳」を備えた人物であることがわかります。

melin.jpg

▲ 映画『エクソシスト』で、悪魔払いのため聖書を朗読するメリン神父。


ストーリーの最初の方から登場しているカラス神父が、このメリン神父に、

「(悪魔が)人間にとり憑く目的はどこにあるのでしょう

と訊く場面があります。

それに対してのメリン神父の答えは以下のようなものでした。


それは誰にも判らないことだ。……しかし、私はこうみている。つまり、悪霊の目的は、とり憑く犠牲者にあるのではなく、われわれ……われわれ観察者が狙いなんだと。

そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティを打破することにある。

やつはわれわれをして、われわれ自身が究極的には堕落した者、下劣で獣的で、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしている。




悪魔、あるいは悪霊は、「人間が『自分たちは堕落した無価値な存在』と自覚させるため」に、憑依などをおこなうと言っているくだりは、私にとって、過去2千年くらいの間の、

人間の価値を低く考えさせようとしてきた人類(の教育)の歴史


と重なります。

しかし、この話をすると、また長く余談となるので、話を進めます。

さらにメリン神父は後半でこのような言葉も口にします。


「このような悪からでさえ、善が生じてくる。なんらかの方法でだ。われわれには理解できず、見ることもできない何らかの方法でだ。……おそらく、悪こそ、善を生み出す『るつぼ』であるからだろうな」



この言葉は、大変に印象に残ったのですが、その心境をうまく表現することができません。

ところで、さらに、印象深かったのは、小説の最後のほうの部分。悪魔に憑依された女の子リーガンから悪魔が出て行き、悪魔払いの儀式が終わって(カラス神父とメリン神父は共に悪魔払い中に死亡)から数日後のエピローグとしての場面の中で、リーガンの母親は死亡したカラス神父の友人のダイアー神父という人にこのように言います。

ちなみに、リーガンの母親は信仰を持たない無神論者です。


あなたがた神父さんたちは、祭壇の前にぬかずいて、神さまの実在を考えなければならない立場ですわね。だからこそ、神さまは毎夜、百万年の眠りを眠ってらっしゃるんですわ。

そうでなかったら、神さま自身がいらいらなさって、ついには怒りださずにはいられなくなるはずです。わたしのいっていること、判っていただけるかしら?

神さまは何もおっしゃらない。その代わり、悪魔が宣伝の役をつとめます。悪魔は昔から、神さまのコマーシャルなんですわ。




この

> 悪魔は昔から、神さまのコマーシャルなんですわ。

という台詞は 1970年代のアメリカでは禁忌に近そうな言葉に感じますが、実際、映画のほうにはこのやりとりのそのものが出てきません。

悪魔は神さまの宣伝をしている」という響きは信仰をもたれている方にとっては怒りを感じる言葉かもしれないですが、しかし、ここで、冒頭にはりました、「ローマ教皇庁が正式に悪魔払い師の団体を認めた」というような最近の記事をみまして、少なくとも、このこと自体は、

「神の存在のほうからパチカンを知らしめている」

のではなく、

「悪魔の存在のほうからバチカンを知らしめている」

ということにはなります。

短い報道ですので、ご紹介します。

バチカンが承認した悪魔払い団体の名称は、「インターナショナル・アソシエーション・オブ・エクソシスツ( International Association of Exorcists )」ですので、日本語では「国際エクソシスト協会」というような感じでしょうか。





Vatican formally recognizes exorcist association
CBC News 2014.07.03

バチカンは正式にエクソシストの協会を認めた

悪魔払いは 「苦しむ人々に利益をもたらす慈善の形だ」と協会のトップは述べる

エクソシスト(悪魔払い師)たちは今、自分たちで自由に活動できる法的権限を持った。バチカンが、30カ国の 250人からなる、悪魔払いをおこなう司祭たちの協会「ザ・インターナショナル・アソシエーション・オブ・エクソシスツ」を承認したのだ。

最新のバチカンの新聞によると、バチカンの組織のひとつ「聖職者省」( Congregation for the Clergy )は、このエクソシストたちの組織を承認する法令を出し、教会法の下にこの組織を認めることを報告した。

現在のフランシスコ法王は、前任者(ベネディクト16世)よりも、悪魔についてよく話す。そして、昨年は「4人の悪魔に取り憑かれている」とされた男の頭の上に手を載せ、悪魔払いをしたことが認められている。






ということなんですが、記事の「フランシスコ法王が悪魔払いをした」というようなフレーズは、当時多く報じられまして、2013年5月22日の AFP 「法王が悪魔払い?ローマ法王庁が否定」という記事の冒頭は以下のようなものです。


イタリア司教協議会のテレビ局TV 2000が、フランシスコ ローマ法王が車椅子の少年に悪魔払いを行ったと報じたことについて、ローマ法王庁は21日、これを否定した。

テレビ局が撮影した映像には、ペンテコステ(聖霊降臨祭)の式典が行われた19日に、法王が車椅子の少年の頭に少しの間両手を載せる姿が映っている。少年は数秒間体を震わせ、叫ぶかのように口を開けている様子を見せた。

バチカンの広報局長は、「病人や苦難を抱える人に面会した法王がよくされるように、ただその人のために祈るという意図があったにすぎない」と語った。




ところで、冒頭の「エクソシスト協会を承認」の報道の写真を見て、ちょっと「うん?」と思ったのは、そのフランシスコ法王の「顔つき」なんです。

フランシスコ法王というのは、いかにも「いい人そうな顔つき」のような写真が就任時から多いです。

Pope-Francis-waves-to-cro.jpg
Guardian


しかし、上でご紹介しました報道の写真は、6月29日に撮影されたものなんですが、単に厳粛な顔をしているだけなのでしょうけれど、何となく「ちょっと違うイメージになってきてないか?」と思ったりした次第です。

下はちょっと拡大してみたんですけど・・・左の方がフランシスコ法王です。

pope-stn-01.jpg


暑かったか、あるいは強面路線に変更ですかね。
あるいは・・・。


昨年の記事、

最後の法王と呼ばれ続けたベネディクト16世(1): 聖マラキの予言とコナン・ドイルの未来感の時間軸
 2013年02月13日

に書いたことで、「偽書」とされてはいますけれど、12世紀の聖マラキという聖職者の預言では、ベネディクト16世が「最後の法王」ということになっています。


ですので、本来は現在はもはや法王のいない時代のはずなんです。


まあ、奇妙な実在論はともかく、フランシスコ法王になってから起きている様々なこと。
これは過去記事、

「悪魔 vs キリスト教」の戦いが世界中でエスカレートしている
 2014年01月29日

にも書きましたけれど、「受難的」なことが続いているといえないでもない。

2014年1月27日

pope-hato.jpg


2013年2月13日(ベネディクト16世が退位を発表した日)

2012-02-13-thunder.gif



2014年1月16日

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▲ ブラジルのリオデジャネイロの「コルコバードの丘のキリスト像」に雷が直撃し、像の指が欠けました。


と、いろいろと続いています。

もちろん、これらも先に書きましたような意味での「偶然の連続」ではあるのでしょう。

そして、ここにきて、バチカンは正式に「エクソシスト協会」を発足させたわけで、小説『エクソシスト』の中の母親の言葉「悪魔は昔から神さまの……」を思い出したりした次第です。

ところで、エクソシストのオープニングシーンとして登場する「イラク北部」では、キリスト教の聖地である「預言者ヨナの墓」が、過激化組織イラク・シリア・イスラム国(ISIS)によって破壊されたという出来事がありました。

クリスチャン・トゥディに短くわかりやすい報道が出ていますので、抜粋しておきたいと思います。


イスラム過激派組織ISIS、預言者ヨナの墓を破壊
クリスチャン・トゥディ 2014.07.22

イスラム過激派組織「イラク・シリア・イスラム国」(ISIS)がイラク北部ニーナワー県で、聖書に登場する予言者ヨナの墓を破壊した、と語った。

ISISはこのところ教会、墓、神殿などの破壊を進めており、イスラム教の聖地メッカまで遠征して、毎年巡礼数百万人が参拝に訪れるカーバ神殿を破壊する計画もあるという。




こちらが預言者ヨナの墓です。

j-d-1.jpg


そして、下の写真が「爆破」された瞬間です。

j-d-2.jpg
YouTube


なんとなく、私たちは、現実の出来事を含めて、「本当に神と悪魔の戦いの渦中にいる」(象徴的な意味でも構いません)のかもしれないとも思います。もっとも、これは結構前から感じていることではありますけれど、もっと顕著になっていくのかもしれません。

何しろ、 聖マラキの予言という、それは確かに「偽書」に書かれてあることとはいえ、本来は、現在は「もはや法王は存在していない世界」なのですから。



  

2014年07月19日



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YouTube より。






 

きな臭い現場の周辺に飛び回る「7」という数字

Yahoo! のニュースか何かで見出しのリンクをクリックしていましたら、「「反日」前のめりの習近平の狙いは何か(ウェッジ 2014.07.15 )」というタイトルの記事が表示されました。

記事の内容は書きたいことと関係ないですので、興味のある方は上のリンクからお読み下さい。

この記事のサブタイトルは、「利用される対象」としての日本 「盧溝橋」77年記念式典の「異例さ」というものでした。

いろいろな年数の区切りの記念式典があるでしょうが、

77年?

と違和感を覚えました。
パチンコ関係の式典でもない限り、このような中途半端な数の式典というのは珍しいです。

あるいは、西洋なら、もしかすると「7絡み」という記念日はあるのかもしれないですけれど、アジアの概念で「 77周年」というのは特別な記念日になるものだとは思えません。記事を読みますと、

日中全面戦争の発端となった1937年の盧溝橋事件から77年を迎えた記念式典が7月7日、北京市郊外の盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館で開かれたのを受け


とあり、また、

77年という中途半端な年に最高指導者の習近平が出席した「異例さ」を安倍政権と中国国内の2方面に訴える意味があったのだ。


とありまして、やはり、77年というのは中途半端という認識でいいようですが、それにしても、盧溝橋事件というのは、「7月7日」に起きたものだったことを知りました。

それで、少し中国の記事を探してみましたら、下のような見出しを見つけました。

rokoukyou-7777.gif
news.takungpao


上のも記事の内容はともかく、中国では、盧溝橋事件を「七七事変」と呼ぶこともあるのだということを知り、それなら「 77周年」という記念式典も理解できないではないなと思った次第です。

「それにしても、77年と7月7日・・・7777・・・か」

と、そのことに目が留まった記事でした。


なぜ「7」に目が留まったか。


先日、マレーシア機がウクライナで撃墜されましたけれど、あの事件に「数秘術の概念」を持ち込んだような投稿が海外で結構ありまして、それを見ていた後だったせいで、「7」という数字に反応したのかもしれません。

たとえば、撃墜されたマレーシア機の特徴には「7」がたくさん含まれます。


・機体のタイプはボーイング777

・フライトナンバーは 17便

・墜落したのは 2014年 7月 17日。一般的な英語表記では「 7/17/14 」となり、この中の 14は「 7 + 7 」。

・この機体の初フライトは 1997年 7月 17日( 7/17/97 )。 97は一桁まで足していけば、「 9 + 7= 16」→「 1 + 6 = 7」と 7 になる。

・この機体の飛行期間は「 1997 年 7月 17日から 2014年 7月 17日」までのジャスト 17年間




というように「 7 と 17 」に溢れています。
数の遊びといわれればそれまでですが、数秘術の計算とは概してこのようなものです。




個人的な関係の「7」の意味

この「 7 」と「 17 」という数字の羅列を無視できないのは、「個人的なこと」にも関係していて、それで印象深いということがあるのかもしれません。

実は、私の子供(男子/9歳)の誕生日が、この「 7 」と「 17 」に囲まれているのです。

子供の誕生日は、

西暦 2005年 7月 7日
平成 17年 7月 7日


西暦の 2005 から 0 をとると、「 2 」と「 5 」になり、「 2 + 5 = 7 」となり、結局、すべてが 7 と 17 なのですね。つまり、うちの子供は今回、撃墜されたマレーシア機と同じ数( 7 と 17 )に支配されているというように見えてしまう、ということも気になった部分でした。

このように一桁になるまで数を足すというのは、数秘術といわれるものの中ではよくあることのようで、私は数秘術のことはほとんど知らないですが、「数秘術」というページには、

num.gif


とあり、すべての数や文字を1から9までの一桁の数字にあてはめます。

「文字」というのは何かというと、アルファベットでは、すべての文字に数字が割り当てられていて、上のサイトによりますと、

7-alphabet.gif
数秘術とは

となるようで、たとえば「7」なら、GとPとYが7の意味を持つということになるようです。

これは例えば、名前なら、その数字と対応するアルファベットの意味する数を、1桁になるまで足すということのようです。

たとえば、 OKA なら、上の表で当てはめれば、

O → 6
K → 2
A → 1


となり、 6 + 2 + 1= 9 というわけで「9」という数字が導かれるというようなことです。

そして、上のサイトを読み進めますと、すべての人には、「核となる4つの数字(コアナンバー)」があるようです。4つのコア・ナンバーについてというページから抜粋します。

ライフ・パス・ナンバー
自分自身が人生をどのような道を通って歩んでいくかを表すとされています。

ディスティニー・ナンバー
今生での自分の人生にはどんな目的があり、自分は生まれながらにどんな使命を与えられているのかといったことを表すとされています。これはさきほど書いた名前をアルファベットに変換して足したもの。

ソウル・ナンバー
「魂の数」。内なる自己を表す数。

パーソナリティー・ナンバー
「人格の数」。「外なる自己」を表す数。



ということになっているのだそう。

掲載するのを忘れていましたが、1から9までの数字の持つ意味は下のようになるそうです。

number.gif
数秘術とは


上のサイトには、下のようにそれぞれのコアナンバーを「自動計算」してくれる機能もありました。下のは私の誕生日です。私のライフ・パス・ナンバーというものは「7」となるようです。

1963-08-07.gif


しかし、個人的なことはどうでもいいとして、さらに「7」と「数」の関係の話を進めます。






IMF専務理事が語る 2014年と数字「7」の深い関係

そして、このあたりまで書いたところで、「7」絡みの話として、冒頭に貼りました今年 1月 15日の国際通貨基金( IMF )専務理事のクリスティーヌ・ラガルドさんのスピーチを思い出したのでした。

専務理事というのは、「 IMF のトップ」です。

その IMF のトップの方が、冒頭に貼りましたように、スピーチの最初のほうで、集まった報道陣を前に、

「私は、魔法の数字「7」についてどのように考えているかを質問することで、あなたがたの数秘術のスキルをテストするつもりです」


というようなことを言っているのですね。

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▲ クリスティーヌ・ラガルド IMF 専務理事。


ちなみに、クリスティーヌ・ラガルドさんという方は、 Wikipedia によりますと下のような経歴の方です。


クリスティーヌ・ラガルド(Christine Lagarde 1956年1月1日 - )は、フランスの政治家、弁護士。現在、国際通貨基金(IMF)専務理事。国民運動連合所属。

2006年には、アメリカの経済誌フォーブスが取り上げた世界最強の女性30に選出されている。反トラスト法、労働法専門の弁護士としても著名であり、ベーカー&マッケンジーの所長に女性で初めて就任した。

2011年6月28日、IMFの理事会にて専務理事に全会一致で選出された。女性として初のトップ就任である。




もう、完ぺきなエリートそのものであるわけですが、その彼女が、IMF のトップとしての年頭の演説で、「数秘術( numerology )」という単語を使っているということに違和感を覚えたのでした。

YouTube のページは、

Occult Message in Speech by Christine Lagarde of IMF
( IMF 専務理事クリスティーヌ・ラガルドの演説の中のオカルト・メッセージ)

です。

YouTube のそのページでは、アップした人が、演説の中で「気になるフレーズが何分何秒のところに出てくるか」ということを書いてくれているので、とてもわかりやすいです。

彼女がどんなことを言っているかを見ると、彼女は「数秘術」という言葉を口にしただけではなく、上のほうに書いたような実際の数秘術の方法を用いて、物事を説明していることがわかります。

いくつかの言葉をビデオから抜き出して日本語にします。
かなり訳しにくい部分も多かったのですが、雰囲気として、ということでご了承下さい。





クリスティーヌ・ラガルドさんの 2014年 1月 15日のナショナル・プレスクラブでの会見より

1分22秒位 - 「私は、魔法の数字「7」についてどのように考えているかを質問することで、あなたがたの数秘術のスキルをテストするつもりです」

1分34秒位 - 「あなたがたのほとんどは7が特別な数であることを知っているでしょう 」

2分24秒位 - 「 2014 という数から 0 をおとすと 14 になる。これは 7 の 2 倍です」

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4分08秒位 - 「今年はブレトンウッズ会議で国際通貨基金( IMF )が設立されて実に 70 周年です。 70 から 0 をとると 7 です」

4分22秒位 - 「そして、今年はベルリンの壁の崩壊から 25 周年になるでしょう」

(注)上のは唐突な感じですが、数秘術の方法から見ますと「 25 周年」の 25 は「 2 + 5 = 7 」というような意味での引き合いのようです。つまり、「7」であると。ちなみに、ベルリンの壁崩壊は 1989年。


4分38秒位 - 「今年は世界金融危機 ( 2007年 ) から7年目を迎えます」

5分08秒位 - 「その後の悲惨な7年間は、弱く脆いものでした」

5分14秒位 - 「私たちは強い7の数々を持っています」

5分43秒位 - 「もし、G7がそれと共に何かを持っているのだとしたら、それは私にはわかりません」

(注)これも何だか訳文自体が意味がわからないですが、「G」というのは、数秘術では下のように「7」をあらわしますので、G7自体が「77」ということを言いたいのではないかと。


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そして、ビデオの投稿者は、クリスティーヌ・ラガルドさんがスピーチの中で、「 7月 20日に起きる何かを示唆している」というようなことを示しているようなのですが、その理由は私にはわかりません。

それにしても、先日のマレーシア機の撃墜というのは、事件が起きた時に感じたことよりもはるかに重大なニュースであることが後になってから少しずつ感じられてきます。

今回は、数から思ったことを書き殴るように連ねてしまい、何のまとまりもないものとなってしまいましたが、自分の子供の数ともいえる「7」が動機となって導かれてしまったものとしてお許し下さい。



  

2014年07月14日



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▲ 今回は写真がほとんどないですので、本文とは関係ないですけど、絵の一枚でもと思いまして。Kanayo Ede の Old Barn という作品です。






 


昨日今日と、少し考え込むことが多く、今回は雑談めいた記事となります。

ここ数日、須原一秀さんという哲学者の書かれた『自死という生き方』という本を、私としてはそれなりに真剣に読んでいました。

須原一秀さんという方に関しては、この本を読むまで私は知らなかったのですが、Wikipedia から抜粋しますと、次のような方です。


須原一秀(1940年 - 2006年)は、日本の哲学者・社会思想研究家。元立命館大学非常勤講師。元龍谷大学非常勤講師。

現代を肯定的に捉え、哲学的思索に裏打ちされた社会思想研究を行う哲学者であったが、本人の遺著『自死という生き方』によれば“一つの哲学的プロジェクトとして”、2006年4月、自宅近くの神社にて自死した。享年67。




つまり、上の『自死という生き方』という本は、本は本として存在しますが、本だけでテーマが完結するのではなく、「自分の死」によって完結するというプロジェクトでした。

そして、 Wikipedia に書かれてある通り、須原さんは本を書き上げた後、自分で決めていた日に自死します。

本人が亡くなったわけですので、この本の編集や加筆を学者仲間などがおこない、内容を補填・編集して出版されたものです。

ところで、この「自死」という言葉はあまり聞き慣れない言葉かもしれないですが、今の日本で使われる「自殺」という言葉のイメージがあまりにも暗いものとして固定されてしまっているので、最近では、

・自死
・自決
・自殺


のそれぞれの言葉を「それぞれ違う意味の単語」として使ってはどうか、という意見はそれなりにあります。須原さんもそれを主張しています。

ところで、どうして上みたいな本を知ったかというと、私は東海林さだおさんのエッセイが十代の終わりの頃から大好きなんですが、そこで知ったのです。

東海林さんのイメージとは違うように思われるかもしれないですが、実は、東海林さだおさんという人は、

「最後は自決で人生を終えようと考えている」

という人なんです。
多分それなりに本気だと思います。

最近、文庫本で出版された、その東海林さだおさんの『花がないのに花見かな』の中に、廃墟愛好家だという栗原亨(とおる)さんという方との対談があり、そのタイトルは「樹海で死ねたら」というものでした。

栗原さんという方は、これまで調査のために 70回以上も樹海の中に入っている方なのだそう。

上の対談も非常に興味深いですけれど、その対談の内容はともかく、その中に、東海林さんが、『自死という生き方』という本を読んでいろいろと思うところがあった……というようなことを書かれているんです。それを読んで、私もすぐに Amazon で探して買ったという次第だったんですね。

それを読んでいるうちに、薄々と最近思っていたことや、「自分の未来」も含めて、昨日から考え込んでしまっている部分があります。





単に放っておいても高齢化で滅びる日本という国

これは上の『自死という生き方』の内容とは関係のないことですが、私の周辺もそうですが、今では多くの人々が、自分が直接介護などに関わったり、あるいは周囲で介護やそれに準じた状態というのを様々に見たり聞いたりしているのではないかと思います。

というより、最近では、この「高齢化社会」というのは、単なる日本の社会問題であるということを越えて、どういったらいいのか、宿痾とでもいうのか、要するに、このままだと、この「高齢化社会の進行で日本自体が滅びるのでは?」とさえ真面目に思うことがよくあります。

経済的な破綻とか、戦争がどうのこうのとか、あるいは天地がひっくり返るような自然災害とか、そんなことがどちらに転ぼうと、単に「放っておけば、そのうち日本は自滅する」というのが明らかであるというようにしか見えないのです。

しかも、それは私の生きているかもしれない間の、ほんの 10年先とか 20年先に起こりうることだと思っています。

いやいや。

そんな小難しい話をしなくとも、たとえば、今、介護をされている方は、

「将来の私もこの人(自分が介護しているお相手)のようになりたい」と思うかどうか

というような話でもいいですし、そうは考えなくともいいのですけれど、2年くらい前の記事で、日本だけではないですが、現在の「普通の」価値観として、


長生きすることは無条件に素晴らしい。(場合によっては健康であろうがなかろうが)



という概念があるというようなことを記したことがありました。

そして、それは社会的に絶対的な思考であり、つまり、


その「長生きすることは素晴らしい」ということに対しての、いかなる反対意見の存在も許されない



という社会であることの事実。

「介護に疲れた人」でも、それを言ってはいけない。

そして、あちこちで現に起きている「共倒れ」(老老介護でどちらも立ちゆかなくなる)。そのうち、子供なども関係してきて、そちらも参加することで三重の共倒れ(仕事をやめたりしての介護で収入の問題が出て来る)なども起きる。

それでも、

「長生きしてくれているから・・・それだけで・・・」

と他人の前では呟かなくてはならない。

今の日本の高齢者がいる家庭で、「高齢者の病気の問題や、介護とは無縁」の家は、むしろ少ないのではないでしょうか。

うちの母方の祖母は、もうかなり昔の話ですが、10年間寝たきりでしたが、うちの母の妹さんが長く介護していました。しかし、介護を続けるうちに、もともと上品で穏やかだった母の妹さん、つまり私の叔母さんの顔の様相が年々やつれ果てていくのを見るのはつらいものでした。

最後の何年間かは、介護を受けているお婆さんご本人は、すでに自分の娘の顔というか、その存在自体を忘れているのです。

下の世話から何から何まで介護する娘さん(私からすれば叔母さん)に対して、

「あなたはどなたですか?」

と言うのです。

こんなような同じ例は今現在おびただしくこの世に存在しているはずです。

そして、今のままだと、こういう事例はどんどん増えていくしかないはずです(減る道理がないので)。
中途半端な健康知識や健康番組などのせいで、体の寿命だけは伸びていく。

私は最近は特に漠然と、「これはもう本当にダメなのではないだろうか」と感じることがあります。そして、これから老境に入っていく私たちのような五十代くらいの人間というのは、「本気で生き方の考え方を変えるべき世代なのではないか」というようには思うようになっていました。

いずれにしても、今の社会が漫然と進行していけば、あと・・・それこそ 30年もすれば、日本は何も機能していない実質的な廃墟となっている可能性さえ感じます。

えーと・・・何だか変な展開となりましたが、今回はその須原一秀さんの『自死という生き方』の中に、キューブラー・ロスという女性の話が長く書かれていまして、そこに何ともいえない感覚を覚えまして、「命」あるいは「死」というものを考える上で、ちょっと書いておきたいと思ったのです。

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聖女キューブラー・ロスが「神を呪った」とき

キューブラー・ロスという方は、終末医療の先駆者であり、40年間以上の中で、数千人の「最期」を看取ってきた人であり、また敬虔なキリスト教徒でもあり、私財を投じて死に向う患者のための施設を作ったりしていた、まさに聖女と呼ばれるにふさわしい人でした。

辞書的な説明は、Wikipedia から抜粋しますと、下のような女性です。


エリザベス・キューブラー・ロス(1926年 - 2004年)は、精神科医。その中で彼女は初めて今日、「死の受容のプロセス」と呼ばれている「キューブラー・ロスモデル」を提唱している。まさに死の間際にある患者とのかかわりや悲哀の考察や悲哀の仕事についての先駆的な業績で知られる。



Kubler-Ross.jpg

▲ キューブラー・ロスさん。


また、 Wikipedia には、


彼女は死への過程のみならず、死後の世界に関心を向けるようになった。幽体離脱を体験し、霊的存在との交流したことなどを著書や講演で語った。



という記述もあり、彼女は「優秀な精神分析医」という冠だけではなく、敬虔なクリスチャンとしての「聖女」としても人々の尊敬を受けるようになっていきます。


人間の最期を真剣に見つめ続け、そして神の愛に生き、魂の再生を信じていた「間違いない聖女だった」彼女の最期はどのようなものだったのか

死の受容のプロセスの「受容」に行き着いたのか。

そのあたりのことが『自死という生き方』にかなり長く書かれています。

ちなみに、 Wikipedia の彼女の説明にあった「死の受容のプロセス」とは、彼女の最も有名な『死ぬ瞬間』という著作に書かれてあるもので、死の受容のプロセスとは、死に近づく患者たちの段階として、




否認
自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。

怒り
なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。

取引
なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。
何かにすがろうという心理状態である。

抑うつ
なにもできなくなる段階である。

受容
最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。





という段階で亡くなっていくとしたものです。

その理論を確立したキューブラー・ロスさんの最期について『自死という生き方』から抜粋します。


『自死という生き方』 8章 - キューブラー・ロス − キリスト教徒の苦悩 より


『死ぬ瞬間』などの著書で世界的に有名な精神科医、キューブラー・ロスは、ターミナルケア(終末医療)の先駆者として、四十数年にわたり数千人の人々の最期を看取ってきた。彼女は死に行く人を励まし、愛の言葉で力づけてきた功績で、聖女とも呼ばれていたのである。

しかしその彼女は、晩年脳梗塞に倒れ、豹変してしまうのである。その様子を伝えるビデオを見た(『最後のレッスン − キューブラー・ロス 死のまぎわの真実』 NHK制作)。

彼女自身あれだけ他人の最期に真剣に接してきたにもかかわらず、そして二十世紀にホスピスに関してあれだけの業績を達成したにもかかわらず、自らの「自然死」の受け入れに関しては、やはり難しいことを表す内容であった。

と言うのも、彼女は死んで天国に召されることをはっきりと望んでおり、その瞬間を楽しげに待ちわびる言動がはっきりと見られたが、しかしその「お迎え」があまりにも遅いことにいらだって、最後には神様を呪いだしてしまったのである。

インタビュアーが、あなたは長い間精神分析を実践してきたので、それが役立っているだろうに、と問いかけると、「精神分析は時間と金の無駄であった」と、にべもない返答がかえってくる。




ということになってしまうのです。

彼女は 1995年に脳梗塞で倒れて、2004年に亡くなりますが、その下りは Wikipedia には、

1995年に脳梗塞に見舞われ左半身麻痺になった。2004年にアリゾナ州のスコットデールの自宅で亡くなった。


とだけ書かれているのですが、実際には、以上のように「神を呪う」という状態にまで陥り、そして、最後の頃には、


「もうこんな生活はたくさん。愛なんてもう、うんざりよ」
「神様はヒトラーだ」
「聖人? よしてよ、ヘドが出る」


などと言い出すようになるのです。

これは、すべて、その NHK のドキュメンタリーに収録されているのだそう。

それでも、1995年に脳梗塞で倒れてから2年後に彼女が書いた手記『人生は廻る輪のように 』には、まだ「神」も「愛」も「魂」も彼女の中にあったことがわかります。

部分部分抜粋します。


キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』より

学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされる・・・・・究極の学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある・・・・・
自然に死ぬまで生きなければならない・・・・・

どうかもっと多くの人に、もっと多くの愛を与えようとこころがけてほしい。それがわたしの願いだ。
永遠に生きるのは愛だけなのだから。




そして、それから数年後には前述した、

「愛なんてもう、うんざりよ」
「聖人? よしてよ、ヘドが出る」

という言葉が彼女の口から発せられるようになってしまうのです。

彼女は自分の最後に死の受容のプロセスの「受容」に行き着いたのか。
それはわからないです。

しかし、これは彼女に対して否定的な意味で書いているのでははなく、キューブラー・ロスという方があまりにも愛と信仰(神)に真摯であり続けたからだというようにも思います。

ただ、彼女が分析し続けた「臨終の理想」は、現実には「自分の死の場合」はその理論と噛み合わなかった、というだけで・・・。






真剣に「未来への何らかの存続」を考えてみたり

考えてみれば、毎日毎日、世界中で誰かが亡くなっています。
理由や原因はあまりにも様々です。

その中には生前、あるいは活動期に非常に立派だった方もいらっしゃるでしょうし、そうではない人もいるでしょうけれど、さきほど書いた、「高齢化に殺される日本という国」の問題なども含めて、たとえば、私は今、50代になりましたけど、こういう世代の人間は、これから先どのように考えていけばいいのか。

この『自死という生き方』を数日前から少しずつ読んでいて、私は自分がどのようにして生きていけばいいのかわからなくなってきています。

毎朝、やや「鬱」っぽい気分で目覚めることが多いです。
そして、朝起きて、すぐお酒を飲むこともあります。



皆さんは日本はどうなると思われますか?・・・このままの現状で時代が進むと。

あるいは、ご自身はどうなると思われますか?・・・今のままの価値観で進んでいくと。

そこにあるのはどんな未来・・・?

ただ、これらの問題は、本来は「地球最後のニュース」と銘打っている In Deep に多く書くのは適切なことではないと思いますので、今後は書くことはないと思います。

いずれにしても、今回は変な話となってしまいましたが、明日は「地球の磁場の反転が今すぐに起きてもおかしくない」とした欧州宇宙機関( ESA )の報告について書こうと思います。

先日の、

地球の磁場が弱くなっていることを欧州宇宙機関の地磁気観測衛星(SWARM)が確認
 2014年06月30日

と関係する話ですが、さらに「先の話」があったのです。
そのことについて書ければ書こうと思います。

何しろ、私には小さな子どもがいて、今は「自死」など考える余裕もないです。
考えたり書いたりすることが唯一の「擬似死体験」かもしれません。

ま・・・今は。



  

2014年06月22日



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▲ 2014年6月20日のロシアのプラウダより。






 



今回は、ロシアのプラウダに上のようにとても興味深い記事を見つけまして、それをご紹介したいと思います。

ところで、最近の、

ポールシフトに関する最近の緊迫(1) : 磁場の反転時には「地球から大量の酸素が消滅する」とする科学論文の発表。そして、日本で西之島が「新しいアトランティス」となる時
 2014年06月16日

という記事で、中国科学院の科学者たちを中心とした研究身グループが、磁場のポールシフト、つまり、地球の磁場が反転する時に、「酸素が地球から外へと流出していく」というシミュレーションの研究発表をしたことを書きました。

上の記事に翻訳がありますので、細かいところはそちらを読まれていただければ幸いですが、大ざっぱに書きますと、


・地磁気の逆転は、実質的に地球の大気の保護を弱める。

・地球の磁場が弱くなると、酸素イオンが太陽風により地球外に流出する。

・過去の大量絶滅時の大気レベルの低下の原因もこれで説明できる可能性がある。




という感じのことでした。

現実的な話として、現在はリアルタイムで、すでに磁場の大幅な移動が起きているわけで、それがさらに進行している可能性について、上の続きの記事でもある「ポールシフトに関する最近の緊迫(2)」に書きました。


過去約 420年間の磁場の移動距離(単位はキロメートル)の変化
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まあ、中国科学院の論文はひとつの推測として「そういうものもある」という認識でいいと思いますが、最近、知人の方に「日月神示にそのようなことが書いてある部分がある」ということを教えていただきました。

日月神示の五十黙示録 / 第07巻 / 五葉の巻にある「第十五帖」に下のように記されているそうです。


今に大き呼吸(いき)も出来んことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、岩戸がひらけると言ふことは【半分のところは天界となることぢゃ、天界の半分は地となることぢゃ】、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。



息ができなくなる時が来て、それで、人々は一度「仮死」のような状態になると。
そして、とにもかくにも、大地も天体も「変転」すると。

そのようなことが書かれてある下りでした。

何となく「なるほどねえ」と思いましたので、ご紹介しておきました。

ちなみに、上の日月神示の中に「今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ」とありますが、今回はそっち方面の話となります。





消えた「初期宇宙の重力波の証拠」

「宇宙のインフレーション理論」というものがあるそうで、インフレーションというのは、「膨張」という意味ですが、 Wikipedia の記述によりますと、


宇宙のインフレーションとは、初期の宇宙が指数関数的な急膨張を引き起こしたという、初期宇宙の進化モデルである。ビッグバン理論のいくつかの問題を一挙に解決するとされる。



とあります。

ここの、

> ビッグバン理論のいくつかの問題を一挙に解決する

とあるところに注目していただきたいのですが、ここを読むだけで、ビッグバン理論には「いくつかの問題」があるということが、まずわかります。

そして、その「いくつかの問題」に関しては、この宇宙のインフレーション理論を完全に証明させれば、ビッグバン理論にある多くの矛盾や問題が一気になくなる可能性があるということです。

逆にいうと、これらが証明されない限りは、あるいは「この理論が崩壊すれば」、ビッグバン理論そのものの存在が危ういということにもなりかねないようです。

今回ご紹介するプラウダの翻訳記事で報道の内容そのものは大体わかると思うのですが、「出来事の経緯」について少し補足として記しておきたいと思います。





米国の天体物理学者たちの「大発見」の真偽

今年3月に、アメリカのハーバード・スミソニアン天体物理学センターなどの研究グループが非常に大きな発見をし、それは世界中のメディアで報道されました。

下は日経サイエンスの当時の記事からのものです。


実は存在、ビッグバン以前 宇宙誕生の痕跡を初観測
日経サイエンス 2014.04.26

宇宙誕生直後に起こった現象として「ビッグバン」はよく知られている。このビッグバン以前に、極小だった宇宙全体が一瞬で急膨張する「インフレーション」現象が起きていたとする説が、宇宙誕生の謎を説明する理論として有力視されている。

米ハーバード・スミソニアン天体物理学センターなどの研究グループは3月、このインフレーションが起きていたことを示す証拠を発見したと発表、世界的な大ニュースとなった。そのインパクトは昨年のノーベル物理学賞の受賞テーマであるヒッグス粒子の発見を上回るともいわれる。




しかし、3ヶ月経った現在、この研究グループの科学者たちの大発見は、「間違っていた可能性」が極めて大きくなっていて、ロシアのプラウダは「意図的にも近い作り話」であるような、やや悪意のあるニュアンスで記しています。


それにしても、今回の問題だけではないですが、科学の世界で、なぜこういうようなこと、つまり、「間違い、あるいはものによっては、ねつ造だとすぐにわかってしまうような科学発表がなされるのか」ということに関しては、上の日経の記事にありますように、初期宇宙の重力波の発見という「偉業」がなされた場合、


「そのインパクトは昨年のノーベル物理学賞の受賞テーマであるヒッグス粒子の発見を上回る」


のだそうで、そして、プラウダの記事にあります、


「専門家たちは、重力波に関しての発見者は、ノーベル賞の重要な候補となるとされている」


というようなことを踏まえて考えるとわかりやすいかと思います。「名誉」、あるいは「野心」といったものと関係していることは想像に難くなく、さらに、過去記事の、

ビッグバン理論での宇宙の誕生より古い「 145億年前の星」が観測された報道を見た日に(2): 破局の回避という奇跡があるとすれば
 2013年03月09日

に、フレッド・ホイル博士が、『生命はどこからきたか』(1995年)という著作において、「科学者たちが歴史に残るような大きな業績を残したい」と考えることについての「意味」について書いています。

たとえば、ニュートンによる力学の飛躍的な進歩がその後の天体力学の発展や現代の量子力学を導いてきたように、ある科学者の偉大な発見により、その後の科学が大きく変わることがあるという事実を記した後に、みんなそのような科学者となりたいと願うのは当然であるとして、しかし、フレッド・ホイル博士は以下のように記しています。


これらの進展に貢献した科学者各人の称賛に値する業績は偉大であり、その名は永く刻まれるようになっている。科学者たちが大進展の主役になりたいと野心を持つのは当然である。ある者はその才能により成功し、ある者は幸運に恵まれ、さらにある者はけしからんことに作り話で成功を収めた。そのやり方は、何もないのに大進展があったかのように振る舞うのである。



この「けしからんことに作り話で成功を収めた」というのは、ここではビッグバン理論のことを言っているのですけれど、いずれにしても、

名誉

もっと具体的にいえば、

ノーベル賞を筆頭とした様々な賞

のために、世界中の科学者たちが奮闘していて、中にはほんの一部ではあろうとも、そのために「科学者としての本質を逸脱する人もないではない」というようなことを書いています。

さらに、最近では日本の何とか細胞などの話も含めて、科学の世界では「論文のねつ造」だとかコピペだとか、あるいは発見の偽り申告などが常に存在しますが、それは上に述べた名誉や「賞」や「名誉」だけではなく、さらに切実な問題が内在していることは、過去記事の、

「暗黒物質は存在しないかもしれない」 : 王立天文学会の総会で発表された科学界にとっては衝撃的な新学説
 2014年02月13日

の最後に「現代科学の何が問題なのか」というセクションに記したことがあります。

そこでは、英国のノンフィクション作家のピート・デイヴィスという人が、1918年のスペイン風邪について書いたノンフィクション『四千万人を殺したインフルエンザ』の中の以下の部分を抜粋しています。


科学者たち --- ことに、どんどん財源が縮小されつつある公的資金に頼っている人々 --- は、熾烈な競争の中で活動している。そこにはたらくシステムを一言でいえば、「発表するか、消えるか」である。研究助成金を獲得するためには、自分の勤勉さ、意欲、創意を示すことになる論文の数を増やしていかなければならない。



多くの科学者が科学者として生き残るためには研究助成金が必要で、そのために「より多くの論文を発表すること」(内容の探求よりも、論文の数が必要)が科学者の情熱の中心となっていることを問題だとしています。

名誉

資金

の争奪戦の中で科学の世界は進行していて、もちろん、その競争が良い方向に向くことも多いでしょうけれど、間違いも多々起きてしまいます。

ビッグバンのような過誤も。





初期宇宙に「すでに物理の法則が存在していた」理由

しかし、そのような科学の世界の問題はともかくとして、「宇宙のはじまり」という概念について、何よりも私たちが考えなければならないのは、次のことのように思います。

それは、最近の記事の、

「なぜ何かがあるのか」の考えに今日一日私を取り憑かせた悪感情の余韻から改めて知るアレニウスたち19世紀の「賢者」たちの高み
 2014年06月17日

の中に、初期宇宙のインフレーション理論を提唱した人物として知られるアメリカのアラン・グースという宇宙物理学者が記した『なぜビッグバンは起こったのか ― インフレーション理論が解明した宇宙の起源』という本に以下の文章があることを記したことがありますが、それ自体が「この世の最大の謎」だと思います。

それは、


宇宙の創造が量子過程で記述できれば、一つの深い謎が残る。何が物理法則を決定したのか。



という部分です。

上のほうに抜粋いたしました日経サイエンスには、宇宙のインフレーション理論というのは、


このビッグバン以前に、極小だった宇宙全体が一瞬で急膨張する「インフレーション」現象が起きていたとする説



という記述があります。

もう一度抜粋しますけれど、「ビッグバン以前に」です。

ということは、 ビッグバンというものがあったと仮定した場合、


・ ビッグバン以前に

・ 量子過程で記述できる物理法則が存在していた



ということになってしまう。

つまり、「まだ宇宙はなかったのに、現在に通用する物理法則が存在していた」ということになってしまうと解釈せざるを得なくなるのです。

これは多分、科学では解決しようのない謎というのか、「宇宙が生まれたという概念そのものを否定せざるを得ないような現実」があったことになります。

いずれにしても、余談が長くなりすぎました。
ここからプラウダの記事です。




Big Bang theory goes up in smoke
プラウダ 2014.06.20

煙と消えゆくビッグバン理論


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▲ 南極点での宇宙観測の拠点BICEP2望遠鏡。


ビックバンによって宇宙に初期重力波が生成されたことを証明する証拠を持っていたと、かつて述べたアメリカの天文物理学者たちは、今以下のように述べている。

「私たちはそのような証拠の発見をしていない」。

もし、彼らがその理論の過ちを証明した場合、現在のビッグバン理論での重力波の出現の問題は無期限に延期されることになる。

そして、30年以上前にこの重力波についての論文でノーベル賞を受賞したロシア人科学者も、彼がその理論を確認することができない場合、ノーベル賞受賞に適格ではないように思える。

話は、今年3月に世界中のメディアで報道された「大発見」にさかのぼる。

それは、米国ハーバード・スミソニアン天体物理学センターの専門家たちが、南極に設置された BICEP2 (宇宙観測望遠鏡)により「インフレーション(宇宙の急膨張)理論での初期重力波の証拠を発見した」ことを発表したのだ。

この出来事は、「ビッグバン理論とインフレーション理論の完全な証明である」として、世界中のメディアで報道され、多くの喝采と議論を巻き起こした。

しかし、最近、事態は新たな方向に動き出した。

重力波の証拠を発見した南極の望遠鏡 BICEP2 の観測基地の科学者たちが、彼らの研究結果を、科学誌『フィジカル・リサーチ・レターズ( Physical Research Letters )』に論文を発表した。この論文は「センセーション(大事件)」と呼ばれた、記事には、この研究の中に死角が存在することが指摘されている。

米国ミネソタ大学の教授であり、 BICEP2 の代表的な物理学者の一人であるクレム・プライケ( Clem Pryke )博士は、ロンドンでの講演の中で、「状況が変わったことを認識している」と述べた。

ビッグバン理論では、巨大な爆発が起きた後、急激な宇宙の膨張と、宇宙の連続的な急拡大が起きたとされている。この段階の存在の証拠は 2006年に発見された。

ロシア人科学者を含め、世界の多くの科学者たちが「巨大な重力波がこの段階に登場し、宇宙の膨張を可能とした」と説明する。この理論によると、重力波により、原子レベルの小さな変動は、銀河を形成した巨大な騒乱の種へと変化する。

アメリカの科学者たちは3月に、CMB (宇宙マイクロ波背景放射)地図上に、重力波の痕跡を発見したと発表した。

彼らが発見したと「されるもの」は、BICEP(Background Imaging of Cosmic Extragalactic Polarization / 銀河系外の偏光背景画像) という望遠鏡によって、なされた。この望遠鏡の目的は、「宇宙が生まれた時」の宇宙マイクロ波背景放射の偏光を測定することにある。

その数ヶ月後、この研究に対して調査をしていた研究家が、このアメリカの科学者たちが発見した「偏光の変化」は、むしろ、初期の重力波ではなく、他の原因によって観測される可能性があると述べた。

そして、プランク望遠鏡(宇宙背景放射を観測するための人工衛星に搭載されている高機能の望遠鏡)から受信されたデータが公表された後、このアメリカ人科学者たちの「発見」に対しての批判は大幅に増加した。

量子物理学の創始者であるマックス・プランクにちなんで名付けられたこのプランク望遠鏡は、放射線自体の温度に関する独自の情報を入手することができ、そのデータは非常に信用できるものとされている。

このプランク望遠鏡の最新データと BICEP2 のデータが異なっていたのだ。

欧州の科学者たちは 2014年中にプランク望遠鏡のさらなるデータを開示することを約束した。

いずれにせよ、3月にアメリカの科学者たちが、初期の重力波の存在の証拠を見つけたという報告は、実際には作り話といってもいいことだったのかもしれない。

以前から専門家たちは、このような重力波に関しての発見者は、ノーベル賞の重要な候補となることを示唆していた。

インフレーション理論は、 1979年にソビエト時代の若き科学者アレクセイ・スタロビンスキ( Alexei Starobinsky )によって表明された。そして、1981年にアメリカのアラン・グース(Alan Guth)が「インフレーション理論」という用語としてこの理論を提唱した。





ここまです。

記事の中にちょっと皮肉に思えた部分がありました。

上のほうでご紹介しました、「宇宙のインフレーション- Wikipedia 」のページの最後の1行は下のような文章で終わっています。


今後は、プランク衛星や南極点衛星などによって、更なる精密探査が行われる事によって、この未解決の問題についての一定の見解が得られるのではないか?と期待がもたれている。



皮肉にも、冒頭に貼ったプラウダの記事は、ここに出てくる、

・プランク衛星
・南極点衛星 BICEP2


の、それぞれのデータの矛盾によって、アメリカの科学者たちによって発表された、「大きな発見」が間違い(ブラウダの書き方では「ホラ話 ( hoax ) 」)だった、ということが明らかになってしまったことが書かれています。

皮肉は皮肉ですが、しかし、これにより「現実」があぶり出されたわけで、これらのふたつの存在は重要なものだったのかもしれなかったとも思います。

それにしても、どうやらビッグバン理論の崩壊(最初は「修正」)の時期はもうすぐのようです。



  

2014年06月13日



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sun-perfect.jpg

▲ 2012年8月18日の記事より。


まだ、 Seesaa ブログのメンテナンスは続いておりまして、昨日は投稿ができない状態でした。しかし、表示の速度は改善されたようです。

今回は全体として余談めいたものとなっていますが、投稿できない2日間に内容が付け加えられていって、なんだか「秩序なく肥大した雑談記事」となってしまった感じがありますが、ご容赦下さい。






 


最近思う「健全に生きる」という意味

最近は以前にもまして、「人間の健康」ということについて、よく考えます。

健康というより、「健全」という意味かもしれません。

今年は、自分のことや、あるいは人の付き添いのようなもので行ったものもを含めまして何度か病院に行くことがあり、その度にその治療の方法や考え方に・・・まあ、疑問や批判的な考え、といったことではないのですけれど、「強烈な違和感」を感じ始めるようになりました。

それと共に、何科を問わず、そこで見る何時間も心療を待ち続ける「膨大な数のご老人たち」のお姿。いろいろな科がありますし、「高齢者」という年齢の区切りは難しいですけれど、眼科や整形外科などでは「ほぼ9割が高齢者」という例は私の住むあたりの地域では珍しくありません。

病院そのものの数はとても多いにも関わらずです。

ちなみに、私自身は現代の西洋医学を否定するつもりはまったくありませんが、現代の日本の社会と日本人が「人間としての体の健全を失いつつある集団」と化しているのではないかと感じることはあります。

このまま何の線引きもせずに「来る者は拒まず」の場あたり的な医療がずっと続いていくのなら、今後の高齢化の状況を考えると、早晩、医療そのものが崩壊、あるいは実質的に機能しなくなるとしても不思議ではないと、つくづく感じます。

今回の記事は単なる個人的な「健康余談」で、内容そのものは軽いものですけれど、無理なく「健全」を獲得するにはどうすればいいのかなあとか、そもそも、「人間の体と心の健全とは何なのか」というようなことは最近よく考えます。





磁気ネックレス

最近、朝起きた時など気持ち良く感じることも多いんですが、メンタルのほうの話は別として、「肩こりがあまりなくなった」というのがあるんです。自分は肩こりはない方だったのですが、よる年波というものなのか、冬頃から肩こりと頭痛の自覚が激しくなっていった時期がありました。

その頃、ふと、かつて、記事で何度かご紹介させていただいている京都大学の名誉教授だった前田坦(ひろし)さんが書かれた著作『生物は磁気を感じるか ― 磁気生物学への招待』の中に、「磁気バンド」の効果がはじめて見出された「実験」の時の状況が書かれてあることを思い出したのでした。

それは 1950年代後半(昭和 20年代後半)と、わりと昔のことです。

抜粋いたします。


『生物は磁気を感じるか』 4章「生物の機能は磁場で変わる」より抜粋


局所的な強い磁場が病人に及ぼす影響は、1950年代の終わり頃からわが国において熱心に研究されている。

1958年に、いすゞ病院の中川恭一博士らのグループは、数百ガウスの磁石(フェライト)六個をNS極が交互になるように配列した「磁気バンド」を作り、患者の上肢または下肢に常時つけさせて、種々の病気に対する効果を調べているうちに、肩こり症状がこのような磁気バンド着用によって軽快する傾向を見出した。

この場合、効果の有無は患者の自覚症状に頼るしかなく、心理的な暗示の影響もかなり大きいので、磁気バンドと同じ形をした磁気のないダミーバンド(にせのバンド)をつけた患者との比較によって、効果の有意性を認めている。その後も感心のある人々によって実験が繰り返され、肩こりの場合には、患者の数十パーセントが 7〜10日で効果を認めているようである。




とのことで、具体的な数値として、久留米大学の木村登さんという教授のグループの調査では、


・1809人を調査。1163人に磁気バンドを使用。646人にダミー(にせ)バンドを使用

・磁気バンドを着用した 1163人中、肩こりに有効だった人の数は 476人(約 41パーセント)

・ダミーバンド着用した 646人中、肩こりに有効だった人の数は 41人(約 6パーセント)


となったそうで、その有用性がかなり確かめれたようです。

そして、その後、1973年に、心理的な効果を除いても、「磁気バンドは肩こりに有効」と、正式に結論づけられたとのこと。

というわけで、私なんかは、これを読むまでは、磁気ネックレスだとか、ああいうものは、なんだか「いかがわしい系」の商品だと思いこんでいたのですが、50パーセント以下の人への効果とはいえ、肩こりに有効だという 1950年代の実験のことを思い出したのです。

とはいえ、『生物は磁気を感じるか』の中では、前田博士は続けて、ご自身の体験として次のように書かれています。


私もよく肩こりがおこるので、実験的に試してみたが、五ヵ月ほど着用しても効果が現れなかった。磁気バンドの効かない人は、いくら続けても効果はなさそうである。



とあり、効くかどうかは試してみないとわからないようなんですが、いずれにしても、この記述を思い出しまして、2ヶ月くらい前だったか、ネットで磁気ネックレスを購入してみたのです。

高価なものから安いものまでいろいろとありますけれど、つまりは、磁気バンドや磁気ネックレスとしての機能があればいいわけで、それだと安いものですと数百円からあります。

それで磁気ネックレスをひとつ買ってみましたら・・・どうもラッキーなことに、私は効果があるタイプだったようで、それ以来、肩こりを感じないのでした。以前は頭痛まで感じるような肩こりになることもあったのですが、着用して、わりとすぐ消えました。

1950年代の実験では、ネックレスではなく、「磁気バンド」とありまして、つまり、腕につけての実験でしたので、バンド(ブレスレット)でもネックレスでも同じようです。本には、1958年に、いすゞ病院の中川恭一博士が作成した磁気バンドの実物の写真も出ていまして、下のようなものだったそう。

mag-band.jpg

▲ 中川博士が作成した磁気バンド。時計のバンドに6つの磁石をつけたような感じの作りです。


私が購入したものは、全体がヘタマイトだとかいう磁石で作られていて、その間にパワーストーンみたいなものが入れられているものですが、全体が磁石なので、「腕にも巻ける」ということに気づきまして、次は「一気に3個買う」という大人買い(苦笑)を決行してしまいました。

それ以来、毎日、寝る時もずっとつけています。

まあ、肩こりのある人にはオススメしたいです・・・とはやはり言えない部分はあります。というのも、先の実験の通り、有効性がある人が約 40パーセントだという(有効な人のほうが少ない)ことで、上の前田博士のように、「五ヵ月ほど着用しても効果が現れなかった」というようなケースもありますので、オススメはしないですけれど、私のように効果のある場合もあるということでした。

磁気ネックレスはネットで探すと、いくらでもありますが、高いものを購入して効果がないともったいないですので、まず安いものでお試しになられるといいと思います。それで効くタイプだとわかったのなら、お洒落とか高価なものとかを購入されるのでもいいでしょうし。

ちなみに、私が大人買いしたのは、楽天のこちらのヘタマイト・ネックレスで、3本買うと1本あたり800円くらいでした。

下のような感じのものです。

mag-band-02.jpg


しかし、1950年代の実験などでも、結果として「磁気バンド」が、体のこりに有効であることはわかっても、その原理はわからないままで、現在にいたるまでも、それはよくわかっていないことだと思われます。

そこに、最近得た「人間のカラダは粒子」というひとつの考え方が関係してきたりするのでした。





人間のカラダは粒子の集合としての自然からの力の影響を常に受けている

最近、『三軸修正法 ― 自然法則が身体を変える』という本を読んでいたのですが、これが実に開眼させられるものがありました。

というのも、この本は「書かれてあることをちょっとやってみる」だけで、

「え?」

と「自分の体に対しての認識が瞬間的に変わる」ことが多いものだからなのでした。

たとえば、痛みのある場所が瞬間的に修正されたりするのが自分でわかるんです。
それも「ほとんど何もしていないのに」。

著者の方は、

私たちのカラダは小さな粒子の集合体であり、周囲の微粒子と相互に影響し合っている

というようなことを書いていますが、この「微粒子」というのは、原子とか素粒子とか、そういう現代物理で定義しているものを想定しているのではなく、昔の科学での言い方の「エーテル」とでもいう概念が近いように思います(そんなことが三軸修正法の本に書かれてあるわけではないです)。

そして、この本にいくつか載っていることをおこなってみると、「自分のカラダは、常に自分の周囲にあるエーテルを露骨に感じとっている」ことがわかるのです。

『三軸修正法』に関しては、ブログの Walk in the Spirits さんの記事にもよく出てきますが、たとえば、「体は粒子、鉛直ラインに反応する」という記事など読むと、「そんな馬鹿な」と思うかもしれないですが、どういうことかというと、からだにふれるでもなく、動くでもなく、

糸に重りをつけて鉛直にぶら下げる

あるいは、持って、

その近くにいるだけ

で、体の不調や痛みが、少なくともその時には「消えたりする」のです(決して治っているわけではないと思います)。

omoshi.gif


あるいは、


「カラダの近くでモノ(どんな物でもいい)が動くと、それにつれてカラダに規則的な変化(柔軟性など)が起きる」


というようなことも書かれているのですが、これも実験してすぐわかりました。

私は腰の1箇所に痛みがあるのですが、その近くで、「何でもいい」ので動かすだけで、瞬間的に痛みが引くことにも気づきました(永続的には消えない)。動かすものは何でもいいのです、そのへんにあるものを適当に掴んで動かすだけでいい。

ちなみに、腰の痛みはついに今日ほぼ完全に消えました。1日 10秒くらいの動作をおこなっていただけで。

それにしても、これらの現象を体感していることは事実であっても、


「なぜ?」


と思います。それに関して、著者の池上六朗さんは「あとがき」で、「なぜそうなるのかという質問が多く寄せられますが」として、次のように書かれています。


この質問に答えるのは、私にとって、いちばん厄介なコトなのです。

なんとかお茶を濁すことはできても、本当のところは、今の私には答えるコトはできません。今のところ、いままでにこの本で記したようなコトを、誰も研究した形跡は見当たりませんから、なぜ、カラダの近くでモノが動くと、それにつれてカラダに規則的な変化がもたらされるのか? という問いに対しては、後の研究者の研究結果に期待するしか仕方ありません。




と記してらっしゃいます。

ただ、科学的な意味ではなく、本文中で著者の池上さんが、「人間のカラダとはこのようなものではないか」と「仮説」として規定しているくだりが本文中に何度も出てきます。

ちなみに、それは、16世紀にジョルダーノ・ブルーノが『無限、宇宙および諸世界について』という著作の中で描いていた「人間」と「宇宙」の構図と、非常によく似たものであることに気づき、そこにも非常に興味があります。

『三軸修正法』から抜粋してみます。


・カラダは、小さな粒子がたくさん集まってできている。

・その粒子は、生物であるという秩序を保ちながらも、物理的な拘束も受けていて、その法則にも敏感に従うモノである。

・その粒子は、あるときは単体で、あるときは房や群れになって機能し、カラダの内外からの微弱な作用に対し、まず、物理的に順応して、その刺激を生理的な反応から緩和して、生理的な適応の先駆けとなる。




ここから、まだまだ延々と「人間のカラダとその反応」についての池上さんなりの「規定」の記述は続くのですが、要するに、私の解釈は違うかもしれないですが、

骨とか筋肉とか内臓とかの働きは、その働きとして持ちつつ

そのいっぽうで、

粒子の集合体としてのカラダは、重力などをはじめとした、すべての「力」に対して、粒子の集合としての物理的な影響を受け続けている

というようなことなのではないかと思います。

body-particles.jpg

▲ 関係のないですが、イメージとしてなんとなく適合する「人間の動きを粒子として抽出」した映像。adafruit Your body becomes a swarm of colorful particles より。





いろいろな「奇跡の連続」を知り続けたこの数年

粒子という言葉が出てきましたが、その「粒子」たちの中で最小に近いもののひとつは原子ということになるようで、子ども向けの科学サイト「原子とは?」というページには、


この宇宙にあるすべてのものは、原子という小さな粒からできています。全部で100種類ほどの原子がさまざまに組み合わされて、この宇宙のすべての物質がつくられています。



と書かれてあります。

この原子の中に、さらに小さな電子とか原子核とかがあるわけですが、そんな小さな「電子」のことで忘れられない過去記事として、

電子は「宇宙に存在するものの中でもっとも丸い存在」だった
 2011年05月27日

というものがあります。

2011年 5月に、英国のインペリアル・カレッジ・ロンドンの研究者たちが、「 10年」にわたり、電子の形について、これまででもっとも正確な計測を施したことについての報道で、その結果、電子の球形に関して、


その粒子が 0.000000000000000000000000001センチメートル未満の、ほぼ完全な丸であることが確認された。



というものです。

これは、


> 電子を「太陽のサイズ」にまで拡大したとしても、その円形の誤差の範囲は髪の毛一本の中に収まる程度


という、電子は完ぺきな球形を持つ小さな粒子だったのです。

このことを知った時、「これが奇跡でなくて、何が奇跡か」と思ったものですが、その理由は、


「太陽もほぼ完ぺきな円形」


だからです。

これはトップに貼った記事、

私たちの太陽が宇宙の中で最も完全な球体であったことが判明してショックを受ける科学者たち
 2012年8月18日

に記したことがあります。

自分たちの周囲の最も大きなもの(太陽)と、最も小さなもののひとつ(電子)が共に「共に他にはあり得ないほどの完全な球体だった」というのを「偶然」と言える勇気は私にはなく、やはり、これは奇跡だと思います。

しかし、その後、たとえば、

2004年の金星に現れたアークは再び現れるのか。そして、私たちは太陽系システムの奇跡にそろそろ気づかなければならない
 2012年06月05日

というような記事の「日食という現象そのものが奇跡」であることに気づいたり、他にも、私たちは「常に日常的な奇跡に囲まれている」ことに気づいたりしていきました。

そして、そういう奇跡の多くを知っていく中で、

人間の健康や健全にも「奇跡が内在している」のではないのだろうか

という考え方が最近あります。


現在の西洋医学は、「解剖学的な見地」と「物質(クスリなど)で人間の体をコントロールする」ことが基本ですので、「人間そのもののにあるかもしれない奇跡」を排除してきたという歴史があります。しかし、三軸修正法の本などを読み、実際に自分の体でいろいろと試せることを確認すると、「地球の力と、宇宙の力と、粒子としての自分が影響し合っていることが否定しづらくなる」ことは事実です。


なお、くどいようですが、私は西洋医学をまったく否定しません。

「それ(西洋医学的見地)が優位にありすぎる」ということが問題のように思うだけです。

・人間自体の持つ奇跡(あるいは自己治癒力)
・西洋(東洋)医学


を適度に組み合わせれば、もっとよい治療環境ができるのではないかなと思うだけです。

いずれにしましても、ここに来て、「人間の健全、あるいは人間の命とは何か」ということの「掴み」のようなものが、このあたりからわかるのかもしれないというような感じもしないでもないです。





これらの考え方からのメンタルヘルスの治療的考察

そして、何よりも個人的には重大だったのが、最近確認しながら、独創的にいくつかのことをおこなっていて、ほぼ間違いないと考えているのですが、この『三軸修正法』にある「人間のカラダの規定」(人間のカラダは粒子の集まりであり、地球や宇宙の物理的法則に影響を受ける)を考えてみると、

神経や精神の問題にも適用できるはず

ということでした。

もちろん、そんなことは『三軸修正法』にはまったく書かれていませんが、過去にエーテルと言われていたような「微細な粒子から人間と、そして宇宙全体が構成されている」という考え方は、必ずメンタルヘルスに効果的に作用させる方法となりうるはずです。

もちろん、全部ではないでしょうけれど、精神や神経の病気の中でも、「神経などの中の器質的な、あるいは構造的な病変」がわかっているものには有効に違いないと私は思っています。たとえば、パニック障害などを含めた神経症の一種などには、かなりの効果がある可能性を感じます。

まあ、今、自分でいろいろと実験しているのですけど。

何かありましたら、書いてみたいとも思いますが、ただし、これらは結局は「それぞれの各自が自分なりの方法を創造していくもの」ではあります。そもそも、実は『三軸修正法』という本には、具体的な実践方法はあまり書かれていないわけで、著者の池上さん自身が、この本の中で「これらを、あなたの三軸修正法を創造するためのご参考にして下さい」と書いているくらいです。

そして、

「他人が他人を治すことはできない」

とも書かれています。

私も、「自分に対して奇跡をおこせるのは基本的には自分」だと考えます。

ただ、突然、西洋医学やクスリを全否定するとか、そういう方向は危険だと思います。どんなことでも、まずは「調和」とか、そのようなキーワードが当てはまるような、無理のない過程の中で考えを変更させていくことがよいはずです。

それでも、うまくいけば、この世の中の「病気」あるいは「いくつかの神経症などのメンタル系の疾患」は消滅させられる可能性があるかもしれないと、かなり真剣に考えるようになっています。

そして、それでも、肉体は最終的には滅びるわけで、そのこそを「悟る」ことが何よりも重要なことだとも思います。



  

2014年05月31日



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関東の私の住むあたりは今日(5月31日)、最高気温が 32度だか 33度だかになるそうで、日本全体としては、それより暑く感じたりするところも今日はあるのだと思います。

しかし。

「ふ、甘いよ」

という声が西の方から聞こえてきます。


下のは今日の中国の報道です。

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▲ 2014年5月31日の中国 365jia より。


このタイトルの最初の「熱! 熱! 熱!」というあたりに実感がこもっていますけれど、昨日 5月 30日、北京で気温が「 40度」を超えてしまったんですね。

正確には 42度。

北京の5月としては、1951年に 40度が観測されたことがあるそうですが、その記録を上回り、観測史上最高の5月の気温ということになりました。

tenanmon-50.jpg

▲ 天安門広場の地表近くの気温は50度に達しました。 bjnews より。


報道によれば、北京をはじめ、天津省、河北省、中央山西省、山東省、河南省など多くの地域の一部で 35度を越えた模様。


しかしまあ、他の地域に目を向けますと、下の光景はさすがに猛暑とは無縁な感じがしますが、こちらはどこかというと、数日前のニュージーランドなんです。一部の地域で大雪になったようです。

nz-snow-2014.gif

▲ 2014年5月26日の Yahoo ! News (ニュージーランド)より。


上の光景はセントラル・オタゴという場所のようで、下の位置にあるようです。

central-otago-map.gif

セントラルオタゴ - ワイナリー訪問より。


アメリカのカリフォルニア州でも、5月 22日に雪降ってますしね。

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▲ カリフォルニア州のスノー・サミットのスキー場に5月の末に雪が降りました。2014年5月22日のアメリカ KTLA より。


そんなわけで、世界各地も暑かったり寒かったりと、いろいろですが、中国にしても、ニュージーランドなどにしても、ほんの少し前までは「こんなことになるなんて予想もしていなかった」のですから、日本も来月あたりはどうなるか、よくわからないです。

北京のように灼熱が来るのか・・・。
それとも、逆なのか・・・。

個人的には北京みたいなのは勘弁してほしいですが・・・。

さて、週末でもあり、最近の記事への補足としての資料などを少し書いておきたいと思います。






 




クインビー博士の本当の言葉

先日の、

病気は「存在」するのかしないのか? : 98パーセントの人間が「老衰以外で死亡する」時代に
 2014年05月28日

という記事の中に、アメリカのキリスト教系新宗教クリスチャン・サイエンスの創始者であるメリー・ベーカー・エディさんのことを書きました。

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▲ メリー・ベーカー・エディさん( 1821年 - 1910年)。


彼女が「宗教と治癒」という関係について思うようになったのは、フィニアス・クインビー博士という心理治療師によって病気を治癒されたことなどが、ひとつの要因となっているとしました。

その記事で私は下のように書きました。


クインビー博士が、主に治癒に使ったのは暗示と催眠術だったのですが、クインビー博士が考えだし、多くの病気の人々に最も効果のあった「暗示の言葉」は何だったかというと、谷口雅春によれば、下の言葉だったのだそう。

「あなたは神の子だから、あなたに病気は存在しない」

「人間は何者にも支配されない神の子なのだ」

ちょっと考えられないですが、これだけで、数百人の患者が完治してしまったという記録が残っています。




このように書いたのですが、これは、クインビー博士の言葉の概略だけを書いているのですね。

引用が 50年以上前に発行された『生命の実相』からで、文体等が自分でもわかりづらい部分があったので、そうしたのですが、しかし・・・。

仮に・・・もし本当に、上のような手段で、何人かの肉体の病気が治ったという事実があったなら、それは場合によって、たとえば、信仰心のある人などにとっては有効に効く場合もあるのではないかと思い、クインビー博士が患者に言っていたとされる言葉を資料として掲載しておこうと思います。

最近、私もやはり現代医学は「物質で人間を治そうとする意志が強すぎる」と感じていたものですので、そういう理由もあります。「神」という言葉に関しては、私には宗教はないですが、最近は「漠然とした神」を想定することは可能な気がしています。

ですので、下の言葉は、信仰をお持ちの方なら、それぞれの宗教の神様に置き換えたり、また、信仰のない方なら、「神」を「宇宙」としてもいいでしょうし、他の何でもいいでしょうが、置き換えながら考えてみるのもいいのではないでしょうかと思います。

それでは、ここからです。

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▲ フィニアス・クインビー博士( 1802年 - 1866年)。




クインビー博士が病気の患者にかけた暗示の言葉
谷口雅春訳


聖書にいわずや、神すべての創造(つく)り給いしものをはなはだ善しと観たまえりと。
神は人間を神の相(すがた)に造り給いて、これに万物を支配せしめ給うたのである。

だからなんじは健全である。

神ひとたび善に作りたまえるものは何物の力をもってするも悪に変じることはできない。
神ひとたび健全につくりたまえるなんじは、何物の力をもってするも病に変化することはできない。
なんじが今病気であるということは虚妄の迷いである。

迷いを去れ!

神は今もなお、なんじが健全で完全円満で一切の支配者であるのを観たまうのだ。





なお、これは言葉遣いが古い上に、命令口調でもありますので、こういうものを、何か工夫して、たとえば家族や同居人などが夜間で病院に行けない時など、ちょっとした気休め程度、あるいは単に精神的に楽になる手段となればいいと思います。もちろん、その人が少しでも「神」的なもの(何かの大きな力のこと)に信頼を置いていないと意味はなさないのでしょうけれど。

何となく映画『エクソシスト』を思い起こすような台詞ではありますけれど、「悪がどうのこうの」というよりは、一言でいえば、クリスチャン・サイエンスの創始者エディさんの一言、

「病気は『無』である」

という意識に導くための言葉だと思われます。

これらは宗教的な概念のもとでの「肉体的治療」なんですが、最近読みふけっていた森田正馬さんの『神経質の本態と療法』という論文の最終章のほぼラスト部分の記述に大変感動した部分がありまして、そこには「宗教」という単語も出てきますが、そこをご紹介したいと思います。





神という名の法はどこにあるか

ところで、森田正馬さんは最近何度かお名前を出していながら、ちゃんとした経歴などをご紹介したことがありませんでしたが、 Wikipedia 的には下のような経歴の方です。

morita-keireki.jpg


この『神経質の本態と療法』は、東京大学で医学博士号をとった論文の、ほぼラスト部分であるというとろに妙な感銘を受けます。つまり、ご紹介します文書は、「哲学文書」ではなく、「科学文書」だということを念頭にお読みいただければ、その味わい深さが何となくおわかりになるのではないかと思ったりいたします。

なお、文中に私が読めなかったり意味がわからなかったりしたものがありましたので、それを調べたものを先に記しておきます。


帰命頂来(きみょうちょうらい) = 身命をささげて仏に帰依すること。
法性(ほっしょう) = すべての存在や現象の真の本性。
弥縫(びほう) = 失敗や欠点を一時的にとりつくろうこと。




ここからです。




『神経質の本態と療法』第八章より抜粋


自然科学から見れば、神は民族心理の過渡的産物である、とかいうように、神という実体の存在はない。神、仏、真如とかいうものは、宇宙の真理、すなわち自然科学の法則であって、法そのものにほかならない。

真の宗教は、自己の欲望を充たそうとする対象ではない。神を信じるのは、病を治す手段でもなければ、安心立命を得る目的としてもいけない。

神仏に帰命頂来(きみょうちょうらい)するということは、自然の法則に帰依、服従するということである。因果応報を甘んじて受け入れ、周囲の事情、自己の境遇を喜んで忍受することである。

われわれの血行も、心の中に起こる感情や観念連想も、みな法性(ほっしょう)であって、常に必ず自然の法則に支配されている。

夢も偶然の思いつきも、忘却も、執着も、みな必ずそれに相応する事情があってはじめて、そのようになるのである。

頭痛、眩暈も、必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ / 阿弥陀仏のこと)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。

われわれはこの自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能として、それに服従することを正信(しょうしん)といい、因果の法則を曲げて不可能を可能としようとし、我と我が心を欺き、弥縫(びほう)し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。






この中には、「神とは自然の法である」と記されていて、その記述に迷いを感じさせません。

また、

神仏に身命をささげて仏に帰依することするということは、自然の法則に帰依、服従するということである

という内容のことも書かれています。

つまり、森田博士の中では、「神はこの世」という概念があったのかもしれません。そして、これはわりと純粋な日本的な考え方のようにも思います。つまり、「自然の運行とすべての生き物そのものを神様だとする考え」に近いものに感じます。


そして、クインビー博士が一切の薬物や物理的治療をおこなわなかったのと同様、森田博士も、神経症の治療に一切の薬物も、あるいは今でいうカウンセリング的なことさえ治療としてはおこないませんでした。「自分の苦しみと自分自身が一体となり、不可能なことは不可能だと悟ること」を自分の力で成し遂げていくというような方法でした。


それにしても・・・この森田博士の青年期までの生き方は、私とわりとよく似ているのでした。

病弱で生まれ、少年期には神秘やオカルトに強く興味を示し、しかし、成長するにつれて、神秘への興味は薄らぎ、あるいは、八卦のような占いが当たると評判になったり(私の場合はタロット)というあたりはとても似ています。

そして、そのうち、計算の中で自分の占いのパーセントが、すべて計算のうちに収まることに気づき、占いへの興味も失せ(私の場合は、タロットの解釈が自己基準でどうにでもなることに気づき)、そして大人になっていった、というあたりはとても似ています。

ただ、そこから森田博士は多くの人のためになる医者としての仕事を全うしたわけで、ダラダラ過ごした私とはまったく違います。

この森田博士の本を読み続けていたことは、クレアの、

森田正馬と老子とブッダと梶井基次郎のコアミックスが神経症治癒に対して示唆してくれるもの
 2014年05月29日

という日記にも書いています。





人を治癒することで一番大切なものは多分

ところで、唐突な感じがするかもしれないですが、宗教的な考え方では「信仰と希望と愛」の3つのうちではどれが最も重要だと思われますか?

クインビー博士のような暗示による治癒も含めて、信仰などによって、病から解放されることが可能だとした場合、それのどれが最も重要かは大事なことになるかもしれないからです。誰かを癒やしたいのなら、それを最も重きに置くことになるわけでしょうから。

たとえば、キリスト教の聖書ではどう書かれているか。

キリスト教は信仰なのだから、それは信仰だろうと思っていたのですが、新約聖書「コリントの信徒への手紙一」には以下のように書かれています。


コリントの信徒への手紙一 / 13章 13節

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。




ということらしいんですね。

ですので、家族でも恋人でも、病気などでつらい思いをしている時には、今の世の中での普通の治療をした上での話ですが、上の言葉を思い出すのもよろしいかと思います。

ちなみに、この「コリントの信徒への手紙一 13章」というのは、なかなか興味深いもので、

予言、あるいは「神や天使たちからの声」を「否定」

しています。

それらは滅ぶものだと。

「異言」という言葉が出てきますが、普通は、外国語というような意味のようですが、「天使たちの異言」という言い方などから、これは(人にはわからない)天使の声という意味のように思います。

部分部分ですが、日本聖書協会より抜粋します。


コリントの信徒への手紙一 / 13章 1-10節から抜粋


たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。




この中の、

預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう

という言葉はシュタイナーの、

あなたが霊的に見たものについて沈黙することができるようになりなさい。


の意味と相互に関係した意味を持っていることに気づきます。


いずれにしても、ごく普通の私たちは、「霊的な世界」のこと以前に、森田博士のいうように、

自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能と理解する


ということが大事なのかもとも思います。

今の時点では。



  

2014年05月30日



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5月28日の CNN に掲載され、その後削除された記事

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上の記事は、ユーザーがニュースを共有できる CNN の iReport というサイト上に投稿されたものです。しかし、閲覧回数が 25万回に達したところで CNN はこの記事を削除しました。

その内容は、


ニューヨークのマンハッタンに相当する大きさの巨大小惑星が、地球から 8200万キロメートルに位置しており、この小惑星は地球に衝突する可能性のあるコースをとっている。NASA のジェット推進研究所の計算では、直径は16キロメートル。 2041年3月35日に地球に最接近する。



というものでした。現在は、該当するページにアクセスすると、記事は削除されており、下のように「 NASA はこの情報を正式に否定しました」という内容の文書が掲示されています。

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▲ NASA のジェット推進研究所のスポークスマンは、「発見された最大の小惑星は3キロメートルであり、また、その小惑星は地球に影響はない」とメールで CNN に返答したと書かれてあります。


真偽はともかく、さすがに私は、2041年という今から 27年後までの衝突の危険を不安視するほど先を考えないですが、実は今回は上の話は本題とはあまり関係ないのです。しかし、この記事を投稿した人のように「この世の終わり」を常に念頭に置く人は意外に多いのではないでしょうか。

世が進めば進むほど、この何百年とか、あるいは、数十年の間にいろいろな人が「人類の未来の理想」としていて考えていたあらゆることから今は逆行しているような気がしてならない感じがしています。

時代の流れには逆らえないこともわかっていますけれど、どうしてこうなったんだろうということを考えます。





誰のための何のものなのかわからない様々な事や物

私はスポーツ全般にまったく興味がないのですが、もうじき、ブラジルではサッカーのワールドカップがはじまるということで、現地は盛り上がっているようです。

街の中の様々なグラフィティ(壁に描く絵)も「サッカー1色」となっているようです。

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▲ ブラジル・サンパウロの学校の校舎に描かれたグラフィティ・アートを特集した 2014年5月29日の ロシア・トゥディ の報道記事より。以下、同じ。


サンパウロ市内

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▲ 書かれてある文字は、「食べ物が欲しい。サッカーは要らない」。



リオデジャネイロ

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▲ マラカナスタジアム近くの地下鉄駅入口。


今回のワールドカップの FIFA のマスコットは、ワールドカップ マスコットというページによると、下のようなものだそう。

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フレコという名前だそうですが、このフレコ君も壁に描かれていました。

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▲ 左がやや悪そうなことを考えていそうな表情のフレコ君。右の人物は誰かわかりません。マラカナスタジアム近くの壁。


現在のブラジルですが、ワールドカップへのデモが頻発していて、ほんの3日ほど前にも大きなデモが起きています。


ブラジル首都でW杯開催反対デモ
NHK 2014.05.28

サッカーのワールドカップ、ブラジル大会の開幕が来月12日に迫るなか、首都ブラジリアで大会の開催に反対するデモが行われ、警察が催涙弾を使うなど混乱が起き、予定されていた優勝トロフィーの展示会が中止される事態となりました。



NHK の報道ではふれられていませんが、この日のデモには、ブラジルの先住民たち数百人も参加していて、専属地の拡大と保護を求めて国会議事堂を占領したりもしています。

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▲ ブラジル先住民たちの集団に催涙弾を使っている光景。新華社より。


こんなことをご紹介していますが、私はワールドカップの開催に反対でも批判的だというわけではないです。

しかし、このように世界で様々におこなわれるイベントが「いったい誰のために、誰の幸福のためにおこなわれているのか」ということを、冷静に考えてみてももいい時期に来ている気がするように思うのです。

2030年だったか3500年だったか忘れましたが、日本でも東京オリンピックが開催されることになっていますが、そういうのも含めて、こういうことって、誰の幸福につながっているのだろうと。

これからも、いつまでも今回のブラジルのような状態の中で様々な催し事が開催され続けるのだとしたら、そこにいったい何の意味があるのだろうかと。


ところで、上に子どもたちの「サッカーじゃなくて、食べ物をください」というようなことが書かれている絵がありましたけれど、今後、この状態が拡大する可能性は強いと思います。

なぜなら、ブラジルは現在、過去最悪ともいえる干ばつの真っ只中にあるからです。

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▲ 2014年5月29日の wwmt.com より。


多分、ワールドカップの開催中も、「水」の問題は起きる可能性が高いと思われます。

まあ、先日、サンパウロでは、同地としては非常に珍しい「雹(ひょう)」が降ったりしたという珍現象はありましたけれど、雨は降りません。

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▲ 5月26日の来たるべき地球のかたちより。


華々しく世界中に報道されるワールドカップでしょうけれど、それが終われば、ブラジルにはかなりの苦しみしか残らないような気がします。もちろん、上のほうの絵にあるマスコット氏のように、笑いが止まらない人たちもいるのでしょうけれど。

スポーツは、いわゆる陰謀論的にいわれることもある3S政策(3つのS/映画、性産業、プロスポーツ)のひとつで、これらは「大衆の愚民化政策のひとつだ」というような主張もありますが、もはやブラジルでは自らの国の誇りのスポーツであるサッカーすら、それに対して使えないほどの状態になっています。

これらは「誰のための何なのか?」。

そしてこれからも続けていくことのどこに意味を見出せばいいのか?
スポーツに興味があるとかないとか以前に本気でわからなかったりします。

「誰のための何なのか」といえば、上海やドバイなどの馬鹿高いビルやタワーや、中国などにいくらでもある誰も来ないテーマパークや、誰も住んでいない巨大団地群など、つまり、「地球の資産を使って機能していない数々の事物」もそうだと思います。

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▲ 廃墟化した中国のディズニーランド風の巨大テーマパーク「中国魔法王国」。 Izismile より。


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▲ 中国の河南省鄭州市の完全な無人状態にある巨大都市の様子。2010年12月21日の過去記事「衛星写真に写し出される中国各地の広大な無人都市」より。






バックミンスター・フラーの「富」の概念

アメリカが産んだ思想家であり建築家だったバックミンスター・フラーは、「富」の概念について、次のように語っていました。Wikipedia からの引用です。


バックミンスター・フラーの富の概念

フラーは独特の富の概念を公言していた。それは、一般的に私たちの大部分に認められている貨幣ではなく、人間の生命を維持・保護・成長させるものとした。

それらを達成するための衣・食・住・エネルギーを、そして究極的にはより効率的に成し遂げるための形而上的なものであるノウハウの体系であるテクノロジー、それ自体が更に発展し続ける、それこそが「富」の本質であるとした。




・形而上的なものであるノウハウ

だとか、

・それ自体が更に発展し続ける

などは難しい表現ですが、テクノロジーは本来ならこのような理念の延長線上にあるべきものだということを言っていたのかもしれません。

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▲ バックミンスター・フラー( 1895年 - 1983年 )。


さらには、過去記事で、ウェブボットのクリフ・ハイのエッセイを載せたことがあります。

今から5年前のものです。


ALTA レポート 1309 クリフ・ハイ巻末エッセイ
2009年3月


現在、太陽系全体で大きな変化が起こっている。ここで思い出して欲しいのは、「自然の力とは戦ってはならない。使うのだ」というバッキー・フラーの忠告だ。

今は変容が始まっている時だ。太陽系のこの変化によって人間性の変容のプロセスは加速される。その意味では、まさに今われわれは巨大な転換点に立っていることになる。

今後、様々な意味で混乱するだろう。その中でわれわれは変容することを積極的に選択しなければならない。いずれにせよわれわれは変容せざるを得ないのだから。

先ほどのバッキー・フラーの言葉を言い換えるなら「自然の力をこちらから捕まえてそれを使うべきだ」ということになろう。

今は選択と意思決定、そしてリスクを伴う行動のときだ。
変容の過程が進行中であることをあなたは感じるだろうか? 

もしまだなら、感じるまでの時間はわずかである。待っていないで変容の過程に飛び込んでゆくべきなのだ。




バックミンスター・フラーは

人間の生命を維持・保護・成長させるものこそが富なのだ。


と言っていたわけですけれど、今回の「サッカーより食べ物を下さい」にしても、世界中に広がる廃墟や、人の住んでいない住宅の数々にしても、このバックミンスター・フラーの理念からはおよそ遠く離れたところに私たちは行き着いてしまっているのかもしれません。

少なくとも、「それ自体が更に発展し続ける文明」とはほど遠い感じがします。


昨年あたりからの私が、いつも漠然と、「そろそろ最終局面なのかな」とした実感を持つのは、そういうようなことを考えることが多くなっているからかもしれません。

子ども時代から「未来はこうなっていく」という夢というか希望というか、そんなものを持っていた少年たちの頭の中にあった世界は、間違いなくユートピア(理想郷)だったわですけれど、現実には「ディストピア」(ユートピアの反対)的な傾向が強いことは疑いようがない。

それでも、私などは映画や音楽で「ディストピア的な作品」に数多く接していたわけで、まだ耐性がありますが、パンクなどの反体制音楽や、アンダーグラウンド・アートやカウンターカルチャーの経験の少ない若い人は「ディストピアへの耐性がない」ようにも思えます。

最近は「物の見方が一方からだけ」という風潮をとても感じます。

つまり、綺麗なものは綺麗、醜いものは醜い、悪いものは悪い、良いものは良いとして考えるように仕向けられてきている。若い人たちは本来この世にある「世界の寛容性と多様性」を削がれて育てられて生きてきた傾向が強いように思います。

そうなると、今のような世の中ではただただ希望を少しずつ消失させて日々生きる。

そして「もう終わりに近づいている」と思う。

同じように思う人が増えていることが、冒頭の小惑星の投稿記事にも現れているような気もしますし、あるいは、最近の数多くの刹那的な殺傷事件や無意味と思えるような人々の行為の中に見えて仕方ないです。

それでも、あえて「世界は誰のもの?」と自分に聞いてみます
そして、

「まずは自分の(外部と内部の)もの」

と思うことには意味かあるかもしれません。

日常の外界も自分の内面の世界においても、「自分自身と自分の世界の価値観を独自に形成して、それを確実なものとしていくことが大事かもしれない」と決意して、そして、周囲と自分の価値観の比較をやめるということだけでも、あるいは、もしかするとこの世の中は少しは良くなっていく可能性があるかもしれません。