【人類の覚醒と真実】 の記事一覧

2014年05月31日



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「気温 40度の5月」の光景が気になりつつ、聖書とクインビー博士と森田正馬博士の言葉から考える「この世」と「神の子である人間という概念」



関東の私の住むあたりは今日(5月31日)、最高気温が 32度だか 33度だかになるそうで、日本全体としては、それより暑く感じたりするところも今日はあるのだと思います。

しかし。

「ふ、甘いよ」

という声が西の方から聞こえてきます。


下のは今日の中国の報道です。

baijing-40.gif

▲ 2014年5月31日の中国 365jia より。


このタイトルの最初の「熱! 熱! 熱!」というあたりに実感がこもっていますけれど、昨日 5月 30日、北京で気温が「 40度」を超えてしまったんですね。

正確には 42度。

北京の5月としては、1951年に 40度が観測されたことがあるそうですが、その記録を上回り、観測史上最高の5月の気温ということになりました。

tenanmon-50.jpg

▲ 天安門広場の地表近くの気温は50度に達しました。 bjnews より。


報道によれば、北京をはじめ、天津省、河北省、中央山西省、山東省、河南省など多くの地域の一部で 35度を越えた模様。


しかしまあ、他の地域に目を向けますと、下の光景はさすがに猛暑とは無縁な感じがしますが、こちらはどこかというと、数日前のニュージーランドなんです。一部の地域で大雪になったようです。

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▲ 2014年5月26日の Yahoo ! News (ニュージーランド)より。


上の光景はセントラル・オタゴという場所のようで、下の位置にあるようです。

central-otago-map.gif

セントラルオタゴ - ワイナリー訪問より。


アメリカのカリフォルニア州でも、5月 22日に雪降ってますしね。

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▲ カリフォルニア州のスノー・サミットのスキー場に5月の末に雪が降りました。2014年5月22日のアメリカ KTLA より。


そんなわけで、世界各地も暑かったり寒かったりと、いろいろですが、中国にしても、ニュージーランドなどにしても、ほんの少し前までは「こんなことになるなんて予想もしていなかった」のですから、日本も来月あたりはどうなるか、よくわからないです。

北京のように灼熱が来るのか・・・。
それとも、逆なのか・・・。

個人的には北京みたいなのは勘弁してほしいですが・・・。

さて、週末でもあり、最近の記事への補足としての資料などを少し書いておきたいと思います。





クインビー博士の本当の言葉

先日の、

病気は「存在」するのかしないのか? : 98パーセントの人間が「老衰以外で死亡する」時代に
 2014年05月28日

という記事の中に、アメリカのキリスト教系新宗教クリスチャン・サイエンスの創始者であるメリー・ベーカー・エディさんのことを書きました。

Mary_Baker_Eddy.jpg

▲ メリー・ベーカー・エディさん( 1821年 - 1910年)。


彼女が「宗教と治癒」という関係について思うようになったのは、フィニアス・クインビー博士という心理治療師によって病気を治癒されたことなどが、ひとつの要因となっているとしました。

その記事で私は下のように書きました。


クインビー博士が、主に治癒に使ったのは暗示と催眠術だったのですが、クインビー博士が考えだし、多くの病気の人々に最も効果のあった「暗示の言葉」は何だったかというと、谷口雅春によれば、下の言葉だったのだそう。

「あなたは神の子だから、あなたに病気は存在しない」

「人間は何者にも支配されない神の子なのだ」

ちょっと考えられないですが、これだけで、数百人の患者が完治してしまったという記録が残っています。




このように書いたのですが、これは、クインビー博士の言葉の概略だけを書いているのですね。

引用が 50年以上前に発行された『生命の実相』からで、文体等が自分でもわかりづらい部分があったので、そうしたのですが、しかし・・・。

仮に・・・もし本当に、上のような手段で、何人かの肉体の病気が治ったという事実があったなら、それは場合によって、たとえば、信仰心のある人などにとっては有効に効く場合もあるのではないかと思い、クインビー博士が患者に言っていたとされる言葉を資料として掲載しておこうと思います。

最近、私もやはり現代医学は「物質で人間を治そうとする意志が強すぎる」と感じていたものですので、そういう理由もあります。「神」という言葉に関しては、私には宗教はないですが、最近は「漠然とした神」を想定することは可能な気がしています。

ですので、下の言葉は、信仰をお持ちの方なら、それぞれの宗教の神様に置き換えたり、また、信仰のない方なら、「神」を「宇宙」としてもいいでしょうし、他の何でもいいでしょうが、置き換えながら考えてみるのもいいのではないでしょうかと思います。

それでは、ここからです。

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▲ フィニアス・クインビー博士( 1802年 - 1866年)。




クインビー博士が病気の患者にかけた暗示の言葉
谷口雅春訳


聖書にいわずや、神すべての創造(つく)り給いしものをはなはだ善しと観たまえりと。
神は人間を神の相(すがた)に造り給いて、これに万物を支配せしめ給うたのである。

だからなんじは健全である。

神ひとたび善に作りたまえるものは何物の力をもってするも悪に変じることはできない。
神ひとたび健全につくりたまえるなんじは、何物の力をもってするも病に変化することはできない。
なんじが今病気であるということは虚妄の迷いである。

迷いを去れ!

神は今もなお、なんじが健全で完全円満で一切の支配者であるのを観たまうのだ。





なお、これは言葉遣いが古い上に、命令口調でもありますので、こういうものを、何か工夫して、たとえば家族や同居人などが夜間で病院に行けない時など、ちょっとした気休め程度、あるいは単に精神的に楽になる手段となればいいと思います。もちろん、その人が少しでも「神」的なもの(何かの大きな力のこと)に信頼を置いていないと意味はなさないのでしょうけれど。

何となく映画『エクソシスト』を思い起こすような台詞ではありますけれど、「悪がどうのこうの」というよりは、一言でいえば、クリスチャン・サイエンスの創始者エディさんの一言、

「病気は『無』である」

という意識に導くための言葉だと思われます。

これらは宗教的な概念のもとでの「肉体的治療」なんですが、最近読みふけっていた森田正馬さんの『神経質の本態と療法』という論文の最終章のほぼラスト部分の記述に大変感動した部分がありまして、そこには「宗教」という単語も出てきますが、そこをご紹介したいと思います。





神という名の法はどこにあるか

ところで、森田正馬さんは最近何度かお名前を出していながら、ちゃんとした経歴などをご紹介したことがありませんでしたが、 Wikipedia 的には下のような経歴の方です。

morita-keireki.jpg


この『神経質の本態と療法』は、東京大学で医学博士号をとった論文の、ほぼラスト部分であるというとろに妙な感銘を受けます。つまり、ご紹介します文書は、「哲学文書」ではなく、「科学文書」だということを念頭にお読みいただければ、その味わい深さが何となくおわかりになるのではないかと思ったりいたします。

なお、文中に私が読めなかったり意味がわからなかったりしたものがありましたので、それを調べたものを先に記しておきます。


帰命頂来(きみょうちょうらい) = 身命をささげて仏に帰依すること。
法性(ほっしょう) = すべての存在や現象の真の本性。
弥縫(びほう) = 失敗や欠点を一時的にとりつくろうこと。




ここからです。




『神経質の本態と療法』第八章より抜粋


自然科学から見れば、神は民族心理の過渡的産物である、とかいうように、神という実体の存在はない。神、仏、真如とかいうものは、宇宙の真理、すなわち自然科学の法則であって、法そのものにほかならない。

真の宗教は、自己の欲望を充たそうとする対象ではない。神を信じるのは、病を治す手段でもなければ、安心立命を得る目的としてもいけない。

神仏に帰命頂来(きみょうちょうらい)するということは、自然の法則に帰依、服従するということである。因果応報を甘んじて受け入れ、周囲の事情、自己の境遇を喜んで忍受することである。

われわれの血行も、心の中に起こる感情や観念連想も、みな法性(ほっしょう)であって、常に必ず自然の法則に支配されている。

夢も偶然の思いつきも、忘却も、執着も、みな必ずそれに相応する事情があってはじめて、そのようになるのである。

頭痛、眩暈も、必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ / 阿弥陀仏のこと)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。

われわれはこの自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能として、それに服従することを正信(しょうしん)といい、因果の法則を曲げて不可能を可能としようとし、我と我が心を欺き、弥縫(びほう)し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。






この中には、「神とは自然の法である」と記されていて、その記述に迷いを感じさせません。

また、

神仏に身命をささげて仏に帰依することするということは、自然の法則に帰依、服従するということである

という内容のことも書かれています。

つまり、森田博士の中では、「神はこの世」という概念があったのかもしれません。そして、これはわりと純粋な日本的な考え方のようにも思います。つまり、「自然の運行とすべての生き物そのものを神様だとする考え」に近いものに感じます。


そして、クインビー博士が一切の薬物や物理的治療をおこなわなかったのと同様、森田博士も、神経症の治療に一切の薬物も、あるいは今でいうカウンセリング的なことさえ治療としてはおこないませんでした。「自分の苦しみと自分自身が一体となり、不可能なことは不可能だと悟ること」を自分の力で成し遂げていくというような方法でした。


それにしても・・・この森田博士の青年期までの生き方は、私とわりとよく似ているのでした。

病弱で生まれ、少年期には神秘やオカルトに強く興味を示し、しかし、成長するにつれて、神秘への興味は薄らぎ、あるいは、八卦のような占いが当たると評判になったり(私の場合はタロット)というあたりはとても似ています。

そして、そのうち、計算の中で自分の占いのパーセントが、すべて計算のうちに収まることに気づき、占いへの興味も失せ(私の場合は、タロットの解釈が自己基準でどうにでもなることに気づき)、そして大人になっていった、というあたりはとても似ています。

ただ、そこから森田博士は多くの人のためになる医者としての仕事を全うしたわけで、ダラダラ過ごした私とはまったく違います。

この森田博士の本を読み続けていたことは、クレアの、

森田正馬と老子とブッダと梶井基次郎のコアミックスが神経症治癒に対して示唆してくれるもの
 2014年05月29日

という日記にも書いています。





人を治癒することで一番大切なものは多分

ところで、唐突な感じがするかもしれないですが、宗教的な考え方では「信仰と希望と愛」の3つのうちではどれが最も重要だと思われますか?

クインビー博士のような暗示による治癒も含めて、信仰などによって、病から解放されることが可能だとした場合、それのどれが最も重要かは大事なことになるかもしれないからです。誰かを癒やしたいのなら、それを最も重きに置くことになるわけでしょうから。

たとえば、キリスト教の聖書ではどう書かれているか。

キリスト教は信仰なのだから、それは信仰だろうと思っていたのですが、新約聖書「コリントの信徒への手紙一」には以下のように書かれています。


コリントの信徒への手紙一 / 13章 13節

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。




ということらしいんですね。

ですので、家族でも恋人でも、病気などでつらい思いをしている時には、今の世の中での普通の治療をした上での話ですが、上の言葉を思い出すのもよろしいかと思います。

ちなみに、この「コリントの信徒への手紙一 13章」というのは、なかなか興味深いもので、

予言、あるいは「神や天使たちからの声」を「否定」

しています。

それらは滅ぶものだと。

「異言」という言葉が出てきますが、普通は、外国語というような意味のようですが、「天使たちの異言」という言い方などから、これは(人にはわからない)天使の声という意味のように思います。

部分部分ですが、日本聖書協会より抜粋します。


コリントの信徒への手紙一 / 13章 1-10節から抜粋


たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。




この中の、

預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう

という言葉はシュタイナーの、

あなたが霊的に見たものについて沈黙することができるようになりなさい。


の意味と相互に関係した意味を持っていることに気づきます。


いずれにしても、ごく普通の私たちは、「霊的な世界」のこと以前に、森田博士のいうように、

自然法則に勝つことはできないことを知り、不可能を不可能と理解する


ということが大事なのかもとも思います。

今の時点では。

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2014年05月30日



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5月28日の CNN に掲載され、その後削除された記事

cnn-asteroid-top.gif


上の記事は、ユーザーがニュースを共有できる CNN の iReport というサイト上に投稿されたものです。しかし、閲覧回数が 25万回に達したところで CNN はこの記事を削除しました。

その内容は、


ニューヨークのマンハッタンに相当する大きさの巨大小惑星が、地球から 8200万キロメートルに位置しており、この小惑星は地球に衝突する可能性のあるコースをとっている。NASA のジェット推進研究所の計算では、直径は16キロメートル。 2041年3月35日に地球に最接近する。



というものでした。現在は、該当するページにアクセスすると、記事は削除されており、下のように「 NASA はこの情報を正式に否定しました」という内容の文書が掲示されています。

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▲ NASA のジェット推進研究所のスポークスマンは、「発見された最大の小惑星は3キロメートルであり、また、その小惑星は地球に影響はない」とメールで CNN に返答したと書かれてあります。


真偽はともかく、さすがに私は、2041年という今から 27年後までの衝突の危険を不安視するほど先を考えないですが、実は今回は上の話は本題とはあまり関係ないのです。しかし、この記事を投稿した人のように「この世の終わり」を常に念頭に置く人は意外に多いのではないでしょうか。

世が進めば進むほど、この何百年とか、あるいは、数十年の間にいろいろな人が「人類の未来の理想」としていて考えていたあらゆることから今は逆行しているような気がしてならない感じがしています。

時代の流れには逆らえないこともわかっていますけれど、どうしてこうなったんだろうということを考えます。





誰のための何のものなのかわからない様々な事や物

私はスポーツ全般にまったく興味がないのですが、もうじき、ブラジルではサッカーのワールドカップがはじまるということで、現地は盛り上がっているようです。

街の中の様々なグラフィティ(壁に描く絵)も「サッカー1色」となっているようです。

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▲ ブラジル・サンパウロの学校の校舎に描かれたグラフィティ・アートを特集した 2014年5月29日の ロシア・トゥディ の報道記事より。以下、同じ。


サンパウロ市内

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▲ 書かれてある文字は、「食べ物が欲しい。サッカーは要らない」。



リオデジャネイロ

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▲ マラカナスタジアム近くの地下鉄駅入口。


今回のワールドカップの FIFA のマスコットは、ワールドカップ マスコットというページによると、下のようなものだそう。

mascott.jpeg


フレコという名前だそうですが、このフレコ君も壁に描かれていました。

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▲ 左がやや悪そうなことを考えていそうな表情のフレコ君。右の人物は誰かわかりません。マラカナスタジアム近くの壁。


現在のブラジルですが、ワールドカップへのデモが頻発していて、ほんの3日ほど前にも大きなデモが起きています。


ブラジル首都でW杯開催反対デモ
NHK 2014.05.28

サッカーのワールドカップ、ブラジル大会の開幕が来月12日に迫るなか、首都ブラジリアで大会の開催に反対するデモが行われ、警察が催涙弾を使うなど混乱が起き、予定されていた優勝トロフィーの展示会が中止される事態となりました。



NHK の報道ではふれられていませんが、この日のデモには、ブラジルの先住民たち数百人も参加していて、専属地の拡大と保護を求めて国会議事堂を占領したりもしています。

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▲ ブラジル先住民たちの集団に催涙弾を使っている光景。新華社より。


こんなことをご紹介していますが、私はワールドカップの開催に反対でも批判的だというわけではないです。

しかし、このように世界で様々におこなわれるイベントが「いったい誰のために、誰の幸福のためにおこなわれているのか」ということを、冷静に考えてみてももいい時期に来ている気がするように思うのです。

2030年だったか3500年だったか忘れましたが、日本でも東京オリンピックが開催されることになっていますが、そういうのも含めて、こういうことって、誰の幸福につながっているのだろうと。

これからも、いつまでも今回のブラジルのような状態の中で様々な催し事が開催され続けるのだとしたら、そこにいったい何の意味があるのだろうかと。


ところで、上に子どもたちの「サッカーじゃなくて、食べ物をください」というようなことが書かれている絵がありましたけれど、今後、この状態が拡大する可能性は強いと思います。

なぜなら、ブラジルは現在、過去最悪ともいえる干ばつの真っ只中にあるからです。

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▲ 2014年5月29日の wwmt.com より。


多分、ワールドカップの開催中も、「水」の問題は起きる可能性が高いと思われます。

まあ、先日、サンパウロでは、同地としては非常に珍しい「雹(ひょう)」が降ったりしたという珍現象はありましたけれど、雨は降りません。

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▲ 5月26日の来たるべき地球のかたちより。


華々しく世界中に報道されるワールドカップでしょうけれど、それが終われば、ブラジルにはかなりの苦しみしか残らないような気がします。もちろん、上のほうの絵にあるマスコット氏のように、笑いが止まらない人たちもいるのでしょうけれど。

スポーツは、いわゆる陰謀論的にいわれることもある3S政策(3つのS/映画、性産業、プロスポーツ)のひとつで、これらは「大衆の愚民化政策のひとつだ」というような主張もありますが、もはやブラジルでは自らの国の誇りのスポーツであるサッカーすら、それに対して使えないほどの状態になっています。

これらは「誰のための何なのか?」。

そしてこれからも続けていくことのどこに意味を見出せばいいのか?
スポーツに興味があるとかないとか以前に本気でわからなかったりします。

「誰のための何なのか」といえば、上海やドバイなどの馬鹿高いビルやタワーや、中国などにいくらでもある誰も来ないテーマパークや、誰も住んでいない巨大団地群など、つまり、「地球の資産を使って機能していない数々の事物」もそうだと思います。

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▲ 廃墟化した中国のディズニーランド風の巨大テーマパーク「中国魔法王国」。 Izismile より。


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▲ 中国の河南省鄭州市の完全な無人状態にある巨大都市の様子。2010年12月21日の過去記事「衛星写真に写し出される中国各地の広大な無人都市」より。






バックミンスター・フラーの「富」の概念

アメリカが産んだ思想家であり建築家だったバックミンスター・フラーは、「富」の概念について、次のように語っていました。Wikipedia からの引用です。


バックミンスター・フラーの富の概念

フラーは独特の富の概念を公言していた。それは、一般的に私たちの大部分に認められている貨幣ではなく、人間の生命を維持・保護・成長させるものとした。

それらを達成するための衣・食・住・エネルギーを、そして究極的にはより効率的に成し遂げるための形而上的なものであるノウハウの体系であるテクノロジー、それ自体が更に発展し続ける、それこそが「富」の本質であるとした。




・形而上的なものであるノウハウ

だとか、

・それ自体が更に発展し続ける

などは難しい表現ですが、テクノロジーは本来ならこのような理念の延長線上にあるべきものだということを言っていたのかもしれません。

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▲ バックミンスター・フラー( 1895年 - 1983年 )。


さらには、過去記事で、ウェブボットのクリフ・ハイのエッセイを載せたことがあります。

今から5年前のものです。


ALTA レポート 1309 クリフ・ハイ巻末エッセイ
2009年3月


現在、太陽系全体で大きな変化が起こっている。ここで思い出して欲しいのは、「自然の力とは戦ってはならない。使うのだ」というバッキー・フラーの忠告だ。

今は変容が始まっている時だ。太陽系のこの変化によって人間性の変容のプロセスは加速される。その意味では、まさに今われわれは巨大な転換点に立っていることになる。

今後、様々な意味で混乱するだろう。その中でわれわれは変容することを積極的に選択しなければならない。いずれにせよわれわれは変容せざるを得ないのだから。

先ほどのバッキー・フラーの言葉を言い換えるなら「自然の力をこちらから捕まえてそれを使うべきだ」ということになろう。

今は選択と意思決定、そしてリスクを伴う行動のときだ。
変容の過程が進行中であることをあなたは感じるだろうか? 

もしまだなら、感じるまでの時間はわずかである。待っていないで変容の過程に飛び込んでゆくべきなのだ。




バックミンスター・フラーは

人間の生命を維持・保護・成長させるものこそが富なのだ。


と言っていたわけですけれど、今回の「サッカーより食べ物を下さい」にしても、世界中に広がる廃墟や、人の住んでいない住宅の数々にしても、このバックミンスター・フラーの理念からはおよそ遠く離れたところに私たちは行き着いてしまっているのかもしれません。

少なくとも、「それ自体が更に発展し続ける文明」とはほど遠い感じがします。


昨年あたりからの私が、いつも漠然と、「そろそろ最終局面なのかな」とした実感を持つのは、そういうようなことを考えることが多くなっているからかもしれません。

子ども時代から「未来はこうなっていく」という夢というか希望というか、そんなものを持っていた少年たちの頭の中にあった世界は、間違いなくユートピア(理想郷)だったわですけれど、現実には「ディストピア」(ユートピアの反対)的な傾向が強いことは疑いようがない。

それでも、私などは映画や音楽で「ディストピア的な作品」に数多く接していたわけで、まだ耐性がありますが、パンクなどの反体制音楽や、アンダーグラウンド・アートやカウンターカルチャーの経験の少ない若い人は「ディストピアへの耐性がない」ようにも思えます。

最近は「物の見方が一方からだけ」という風潮をとても感じます。

つまり、綺麗なものは綺麗、醜いものは醜い、悪いものは悪い、良いものは良いとして考えるように仕向けられてきている。若い人たちは本来この世にある「世界の寛容性と多様性」を削がれて育てられて生きてきた傾向が強いように思います。

そうなると、今のような世の中ではただただ希望を少しずつ消失させて日々生きる。

そして「もう終わりに近づいている」と思う。

同じように思う人が増えていることが、冒頭の小惑星の投稿記事にも現れているような気もしますし、あるいは、最近の数多くの刹那的な殺傷事件や無意味と思えるような人々の行為の中に見えて仕方ないです。

それでも、あえて「世界は誰のもの?」と自分に聞いてみます
そして、

「まずは自分の(外部と内部の)もの」

と思うことには意味かあるかもしれません。

日常の外界も自分の内面の世界においても、「自分自身と自分の世界の価値観を独自に形成して、それを確実なものとしていくことが大事かもしれない」と決意して、そして、周囲と自分の価値観の比較をやめるということだけでも、あるいは、もしかするとこの世の中は少しは良くなっていく可能性があるかもしれません。

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2014年05月28日



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老衰について考えるより。




私たちを蝕んでいるものの正体は何なのか

昨年くらいからは、「病気」がタイトルについた記事が多かったように思います。

そして、自分の冬頃までの体調・メンタルの状態、また周囲の状況を含めて、今年は特に「病気とは何なのだろう」ということを改めて考えることが多いです。


世界規模で発行されている新聞クリスチャン・サイエンス・モニター紙の発行母体でもあるアメリカのキリスト教系新宗教にクリスチャン・サイエンスというものがあります。

クリスチャン・サイエンスは、1879年にメリー・ベーカー・エディという女性によって創設されたのですが、彼女は、フィニアス・クインビー博士という心理治療師によって病気を治癒され、 Wikipedia によれば、以下のように記されています。


大怪我をした後、彼女は聖書の教えに立ち戻り、予想外の回復をした。そして、それから3年間、聖書の研究とクリスチャン・サイエンスの発展に全てを捧げた。

そこで彼女は、病気は心の幻想に過ぎず、よりはっきりと神の存在を知覚することによって癒されうると確信し、個人的に人々に対して彼女の癒しの理論を説き始めた。




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▲ メリー・ベーカー・エディさん( 1821年 - 1910年)。


その彼女を治癒した心理治療師のフィニアス・クインビー博士が、主に治癒に使ったのは暗示と催眠術だったのですが、クインビー博士が考えだし、多くの病気の人々に最も効果のあった「暗示の言葉」は何だったかというと、谷口雅春によれば、下の言葉だったのだそう。


「あなたは神の子だから、あなたに病気は存在しない」

「人間は何者にも支配されない神の子なのだ」


ちょっと考えられないですが、これだけで、数百人の患者が完治してしまったという記録が残っています。もちろん、治らなかった人も多くいたでしょうが、治った人のほうの記録しか残っていませんので、その比率はよくわかりません。


今回は「病気」のことを書いてみたいとふと思って、上のような話から始めてしまいました。

なお、私自身は、「あなたは神の子だから、あなたに病気は存在しない」などということをそのまま受け入れることは難しいです。

何しろ、私は、過去記事に下のように書いたように、神だの愛だのと意識する以前からすでに「病気の子ども」として世に産み出されていたからです。


そして、私は自分の「支離滅裂な生き方」のコアを再確認して、小児ぜんそくで寝たきりだった幼稚園児の時に布団の中で決意した理念を再度思い出します。

「オレを寝たきりの幼稚園児にしたお前(相手は不明)が支配する世界では、少なくともオレは社会に迎合しないで生きる」と天井を見ながら考えていた5歳の時の気持ちです。

精神的反逆者グルーブとして生まれ、私はひとつも肯定しないで生きてきました(もちろん、否定もしない)。そして、これからもそのままで生きようと思います。この世もあの世も神も宇宙も未来も肯定もしないし、否定もしません。


(2014年01月09日の記事「地球サイズの黒点を眺めながら「必ず今年終わるこの世」を神(のようなもの)に誓って」より。)



とはいえ、上の記事ではそのように書きましたけれど、最近、いろいろと本を読んだり、考えたりしているうちに、次第に、上に出てきたクリスチャン・サイエンスのメリー・ベーカー・エディさんの、

「病気は無である」

という言葉に興味を持ち始めたりしています。

これは、神経症の治療法のひとつである森田療法を創設した森田正馬博士の概念と似ているものがあると感じたからという部分もあります。

森田療法というのは、森田博士の『神経質の本態と療法』( 1922年)に書かれたままを抜粋すると、


「患者にその苦痛を苦痛として自然のままに味わわせ、抵抗する心をなくさせればもう強迫観念はなくなるのである」



というのが基本的な治療概念です。

ここでの「苦痛」というのは「神経症としての苦痛」ですので、肉体の病気の苦痛とは違いますが、森田療法では、神経症の症状に対しての対症療法などの治療もしないわけで、それで治るならば、確かに「病気は存在していなかった」ということが実感としてわかります。

(実は、私は二十数年前にこの概念を知り、急速に神経症が良くなった経験を持ちます)

体の病気と神経の病気は違いますけれど、それは関係なく、私たちは「病気」に対しての考え方を改めていかないと、立ちゆかなくなる可能性もあります。なぜなら、後述しますが、西洋医学の根本が崩壊しつつある可能性もあるからです。

ところで、部分的に余談となってしまいますが、プライベートの話を書かせていただきます。





ほぼ全員が病気で亡くなっていく時代に

上にもリンクしました今年1月の「地球サイズの黒点を眺めながら「必ず今年終わるこの世」を神(のようなもの)に誓って」という記事の中で、私が最も人生でお世話になり、また最も多くの時間を共に過ごした人のひとりである田中くんという友人が亡くなったことを書きました。

享年は私より年下の 48歳でしたが、直接的な死因はともかく、長く糖尿病などを患っていました。

彼のお姉さんに聞いたところでは、倒れるその日まで会社に仕事に出かけていたそうですが、実際には、じきに足も切断しなければならないほど糖尿病は悪化していいて、目もほとんど見えなかったそうです。

パソコンで文字やデータをまとめるのが仕事でしたが、パソコンの画面に目をくっけるようにして、そして、指もすでに何本かしか動かすことはできなくなっていたことをお姉さんは涙まじりで話してくれました。

田中くんと3年くらい前に連絡をとった時には、

「元気になったら、また昔みたいにぱーっと遊びたいですね」

と彼は言っていましたけれど、それはかないませんでした。

ちなみに、彼はお酒は一滴も飲めない人で、タバコも一度も吸ったことのない人でした。


田中くんのお葬式には、劇団時代から付き合いのあった男4人で行きましたけれど、私自身、この2〜3年は、公的な用事で人と会うのは別として、飲みに行ったりして、つまりプライベートで会うのはその4人だけだという状況になっていたりします。

もう特に新しい知人は欲しくないですし、他の数人を含む、この世で最も気楽にいっしょにいられる数人の人間を私と出会わせてくれたこの運命には感謝をしています。


最近、久しぶりにその4人で東京の高田馬場で飲んだのですね。

昔は全員、東京の西荻窪か吉祥寺に住んでいたのですが、今はみんな住んでいる場所がバラバラになってしまって、その接点となるのが、大体、高田馬場あたりになるんです。

私たちは飲んでいる時には、基本的に非常にくだらない話しかしないのですが、お互いの親の話になると、やや重い話になります。

みんな、特に父親のほうが軒並み健康的な問題を抱えていることがわかります。
私たちの父親の年齢層は全員が 70代の後半から最高で 80代前半です。

その中のひとりの父親は、元大学教授で、ラジオの教育講座番組なども最近まで担当していた人ですが、昨年、胃がんが発見されたのだそうです。その時に、その人は抗がん剤治療と、胃がんの切除を「拒否」したのですね。

何しろ、知識のある方ですし、80代の自分にそれらの治療が有効に働くとは考えられなかったようです。それが昨年のことで、今の状態を聞きましたら、体中の各所にがんの移転が始まっているそうで、そのたびに適時の治療を受け、それでも自宅で過ごしているようです。

ほとんど先行きは覚悟しているのか、別にふだんと何も変わらない生活をしているとのことです。

ちなみに私の父親も、あと数日後に、全身麻酔による血管の大手術を札幌でおこないます。
まあ、これは私のプライベートの話ですので、詳細はいいです。

もうひとりの友人の父親は糖尿病の悪化で、すでに自力では立つこともできずに、視力なども消えかかり、介護状態だそう。そんな話をしていて、


「結局、そろそろ俺らの親父らもみんな死ぬ頃なんだよなあ。そういうのって、いつかは来るとは思っても、実感ないもんだったからねえ」


と私がいうと、その糖尿病の父を実家に持つ友人は、


「俺なんかはどっちかっていうと、父親が嫌いだったんだけどさ。帰省した時、あの衰えた姿を見たら、生まれて初めて親父に同情心が湧いたよ」


というようなことを言っていました。

そして、このように、今は人が亡くなる原因はほとんど何らかの病気です。
冒頭に貼りましたグラフのように老衰で亡くなる方の比率は全体の 2.5パーセントしかありません。




自然に年老いて死んでいくほうが「珍しい死に方」となっている現況

昔は比率としてこんなに病気で死んでいたのだろうかと、つい考えます。

昔といっても、うんと昔・・・。つまり弥生時代や縄文時代などの時はどうだったのだろう・・・と考えてみましても、縄文時代の上のようなグラフが残っているわけでもなく、わかりようがないですが、ほぼ 90パーセントが病気で死亡しているのが現代の人類。

ただ、縄文時代のグラフはなくても、「かつては老衰(あるいは病気ではない死)が今よりは多かったのだろうな」と思えるのは、ほんの 100年くらいの短い期間のデータでも「死者の割合での老衰の比率が減っている」ということがわかるからです。

下のグラフは文部科学省のサイトからのもので、1899年(明治32年)から1998年までの死因別にみた日本の死亡率の推移のグラフです。説明の文字はこちらで加えたものです。

natural-death.gif

▲ 1899年(明治32年)から1998年までの死因別にみた日本の死亡率の推移のグラフ。文部科学省「平成12年版科学技術白書」より。


これも今から 16年前のデータですので、今はさらに老衰で亡くなる方は減っているのではないかという気がします。

どうしてこのようなことになったのかということについては、いろいろと言われますけれど、たとえば、汚染や化学物質や、過剰な西洋医療について言われることも多いですが、今回はそれらのことにはふれません。

その理由は、最近考えていることが、「精神と病気」ということについてだということであるということもありますし、また、西洋医学にしても、私は幼い頃から青年期まで自分がそれで生きのびた経緯があるため、それほど批判的に思うことができません。

また、西洋医学が様々な病気の死亡率を下げてきたことも事実で、例えば、下の表は同じ文部科学省のサイトにあるグラフで、結核菌の抗生物質であるストレプトマイシンが発見されてからの、結核での死亡率の変化です。

stmai.gif


ストレプトマイシンの発見で、結核での死亡率が 100分の1、あるいはそれ以下になったことがわかります。

さらに「梅毒」という病気がありますが、この病気は 15世紀に「突然」この世に現れて以来、大変に多くの人を苦しめてきました。 Wikipedia によりますと、


抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害をかかえたまま苦しむ者も多かった。



とありますが、今では抗生物質で完治する例がほとんどです。

・・・・・というように順調に病を根絶してきたかのような歴史を持つ西洋医学のように見えますが、状況は明らかに変わってきました

過去記事の、

「数千万人の死」という言葉に違和感を感じないアメリカという国のイメージ。そして、戦争や耐性菌の蔓延にさえ思う「犠牲」というキーワード
 2014年05月02日

にも書きましたが、その「抗生物質」がどんどん効かなくなっているということが、 WHO から報告されています。

who-2.gif

▲ その報告が発表された2014年4月30日の WHO ウェブサイトより。


これは日本でもかなり報道されましたので、ご存じのかたも多いでしょうけれど、概要は下のようなものです。産経新聞の記事からです。


抗生物質効かない耐性菌、世界各地で拡大 WHO「極めて深刻な状況だ」
msn産経ニュース 2014.05.01

世界保健機関(WHO)は4月30日、抗生物質が効かない薬剤耐性菌が世界各地で広がっているとの報告書を発表した。

フクダ事務局長補はジュネーブでの記者会見で「貧困国など一部の国だけでなく、あらゆる国で拡大している。極めて深刻な状況だ」と強調した。




ちなみに、上に出てきた「梅毒」ですが、この日本での患者数が最近急増しているそうです。


梅毒、なぜか急増 3年で倍、国が注意喚起 検査拡大が必要
共同通信 2014.05.27

古くから知られる性感染症「梅毒」の患者が近年、急増している。2013年は全国で1200人を超え、3年間で倍増した。

なぜ今ごろ? その答えははっきりしないが、「昔の病気」という意識もあって自分の感染に気付いていないケースや、治療が不十分で人に広げているケースもあるとみられる。

抗生物質で完治する一方、感染した妊婦が適切な治療を受けないと死産や赤ちゃんの障害などにつながるため、厚生労働省が全国の自治体に注意喚起。新たに無料検査を開始した自治体もある。




これも抗生物質が効いている現在は完治しますけれど、他の多くの病気で確認されている「抗生物質が効かない薬剤耐性菌」が出現した場合は、またこの梅毒のような病気も過去のような「恐ろしい病」となるという可能性が高いです。

現代の西洋医学は、薬物治療と「物理的切除や改造(手術)」が病気を治す基本的な方法となっていて、その中でも、

・抗生物質
・物理的切除


に現代医療が依存している部分は非常に大きなものがあると思われます。

そして、上のふたつの関係もまた相互に依存しています。





病気は「存在」するのか?

なお、今回の記事の一番最初に、

最近、「病気とは何か」ということを改めて考えることが多いです。


というようなことを書きましたが、それはどうしてかというと、最近読む本では、さまざまな事物について最初に「重要なこと」として書かれてあることが、ほぼ「病気と健康」についてだったためだからなのです。

たとえば、最近たまに記事にするオーストリアの神秘思想家ルドルフ・シュタイナーですが、わりと最近の、

人工 DNA から生命が作られる物質科学の時代に考え直したい 100年前にシュタイナーが唱えた「人類が高次へ移行する方法」
 2014年05月12日

という記事では、シュタイナーが言うところの「神秘学の学徒になるための7つの条件」というものを書いています。

私自身はいまだに「神秘学の学徒」なんて意味を理解しているわけではないですが、それはともかく、その7つの条件のうち、最初が、


第一の条件

「あなたの体と霊の健康を促進するように注意を払いなさい」



なのです。

ここについては、後で抜粋しますが、さらに今回の記事の上のほうに出てきた心理療法士であり、神秘思想家のフィニアス・クインビー博士の治療方法が元になってできた「ニューソート」というアメリカの宗教運動がありますが(クリスチャン・サイエンスもこの一派といわれることがあります)、その主張の一部には以下のようなものがあります。


・人間の心情と意識と生命は宇宙と直結している。

・あらゆる病の本質は自己意識に対する無知が原因である。



quimby.jpg

▲ フィニアス・クインビー博士( 1802年 - 1866年)。


人間の心情と意識と生命は宇宙と直結している。


なんてのは、まさしく、過去記事の、

私たちに残されたかすかな「破局の回避」の可能性のために(1)
 2013年03月24日

などに出てくる、20世紀初頭の「ロシア宇宙主義」という学派にいたアレクサンドル・チジェフスキー博士の学説である、


チジェフスキーは 1920年代のはじめに、地球上の生命現象が宇宙の物理的な現象とつながっていることを明らかにした。

ひとつひとつの生きた細胞は「宇宙の情報」に感応するのであり、「大宇宙」はこの情報を細胞のひとつひとつに浸透させているのである。




とほとんど同じであることに気づきます。

chizhevsky.jpg

▲ 黒点と人間の精神活動の研究をはじめとして、「地球上の生命現象が宇宙の物理的な現象とつながっている」ことを発表したロシアのアレクサンドル・チジェフスキー博士(1897 - 1964年)。


あるいは、今まで何度も引用してきたフレーズで、つい最近もこちらの記事でも記しました、フレッド・ホイル博士が著作『生命はどこからきたか』の最終章で、ブッダの言葉を引用して書かれた、


ブッダが生命と意識(彼はすべての生命に意識があると考えていた)が宇宙の構造に全体として結びついていて別々にできないものと捉えていたことは充分に明らかである。



ともほぼ同じであることに気づきます。

また、谷口雅春はクリスチャン・サイエンス系のキリスト教的解釈として以下のように書いています。


ほんらい人間の病気を神が造ったものであるならば、人間がどんな方法でもってしても治るはずがないのであります。

たまたま人間がなんらかの方法で病気を治すことができるというのは、病気というものの造り主がないからであります。

ところが宇宙万物は一元で一切は神によって作られたのでありますから、神によって作られないものは実在しないのであります。「病気とは『無』の別名である」とクリスチャン・サイエンスの創始者エディ夫人が賢くもいっているのは真理であります。


(『生命の実相』より)



ここに至ると、「病気というもの自体が存在しない」という過激な発想なわけですが、ここまででもないにしても、シュタイナーが「神秘学の学徒になるための7つの条件」の最初の条件としている「あなたの体と霊の健康を促進するように注意を払いなさい」を説明している部分にも、やや似たニュアンスが見られます。

ほんの一部ですが、抜粋します。



第1の条件は、「あなたの体と霊の健康を促進するように注意を払いなさい」というものです。

確かに私たちは、はじめのうちは、みずからの健康状態を自分で決定することはできないかもしれません。しかし誰でも体と霊の健康を促進するように努めることは可能です。

健全な認識は健全な人間のなかからのみ、生じます。健康でないからという理由で、ある人が神秘学の訓練から排除されることはありません。しかし神秘学の訓練では、学徒は、少なくとも健全に生活する意志をもつように求められるのです。

私たちは、自分自身の体と霊の健康を促進するという点において、可能な限り自立しなくてはなりません。




解釈が違っているかもしれないですが、要するに、シュタイナーは「本来は自分の健康は自分の意志でコントロールできるものだ」と言っているように見えます。

ちなみに、私が知りたいと思うことは「理想」ではなく「事実」です。

その点からいえば、「全生命が宇宙とつながっている」という様々な人たちの言葉と、「健康はコントロールできる」、あるいは病気は存在しないという概念を結びつけていった時に、本当に、つまり、

「現実的に」この世から病気が消える

という考え方は少しでもあり得るのか。

生まれた時からずっと病気だった私は、このタイプの意見に対して最も懐疑的な人です。

それでも、もし、その可能性が少しでもあるならぱ、私たちの次の世代に、私たちがどんなことを教えていけばいいのかということも見えてくるような気もするのですが・・・。

しかし、「すべての生命と宇宙がつながっている」ところまでは今では疑う余地はないですが、「病気は存在しない」までになると、それを受け入れるには 500年くらいかかりそうです(長生きかよ)。

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2014年05月18日



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ch-ufo-top.gif

▲ 2014年5月16日の yicai.com より。


数日前に上のようなニュースが中国で報道されました。

その報道の数は普通ではなく、下は Google ニュース検索ですが、国営の新華社をはじめとして、中国のありとあらゆるメディアで取り上げられたといっても過言ではないと思われるほどです。

ch-ufo-google.gif


もう少し大きく物体が写っている写真が下のものです。
円形の金属の物体で、これが 5月 16日に3体落ちてきたということなんですね。

ch-ufo-03.jpg


落下してくる時の空中の様子も撮影されています。

ch-ufo-light.jpg


これらが中国の黒竜江省のチチハル市に突如として落下してきたという出来事ですが、上のニュース検索で注目していただきたいのは、確かに不思議な物体だと思いますけれど、「何かが落下してきた」というだけなのに、新華社なども含めて、一斉にタイトルに「 UFO 」という単語を使っていることです。

「UFO ?」というように「?」を入れることもなく、明確にそう記しています。





「政府とメディアが真の UFO の理解者なのだ」と思わせる道の彼方に

中国の一般メディアで「 UFO 」という言葉を躊躇なく使うのは、ここ数年顕著な傾向で、すいぶん以前のものですけれど、

中国共産党公式報道で躊躇なく「UFO」という単語を使う理由
 2010年09月22日

という記事の中で翻訳したデイリー・ギャラクシーの報道には以下のような言葉があります。


人民日報は中国共産党の公式報道機関であるにも関わらず、迷うことなく「UFO」という言葉を使っている。新聞の内容の英語版の編集の責任を持つ翻訳者たちは、多分、西側諸国の用語との関連を意識している。

これらの記事からは、まるで彼ら中国共産党が真の地球外文明の信奉者であるかのような印象を受ける。




とありました。これは最近の記事との関連として考えてみると、英国の政府通信本部( GCHQ )などが進めている「計画」について記した、

ミスター・スノーデンが示唆する米英政府機関の「 UFO での大衆マインドコントロール作戦」
 2014年03月19日

などにも似た雰囲気を感じるものです。

もちろん、ここで私が書きたいことは、「宇宙からの UFO が存在するとか、存在しない」とはまったく関係ない話です。

UFO の存在の可否にかかわらず、以下のふたつ、すなわち、



1. 仮に本当に宇宙から UFO とエイリアンが地球に来ていることや、その存在そのものが公式に発表された場合

2. UFO とエイリアンのようなものが存在しないか、存在していても地球に来ていない場合




のどちらにおいても、「政府の威厳」と「大衆のコントロール」のために有効に使える手段が、そこに存在していることがわかるということです。

具体的に書きますと、「1」の場合は、その際に、


「中国共産党(あるいは英国政府)は以前から真の UFO とエイリアンの理解者であった」



と大衆にアピールできれば、それは若い層から中年層まで非常に大きな支持を得られる可能性があります。

しかし、実は「2」の場合でも、さほど変わらないという部分もあります。要するに「1」と同じ結果となればいいわけで、フェイク、つまり「ねつ造」によって、それを行うのです。

過去記事、

4月5日に実行される「全世界での偽UFO出現」計画
 2014年02月24日

にあるように、フェイク UFO はほとんど誰にでも作れる程度の装置で十分に機能します。

mrgyro-07.jpg

▲ 2013年10月4日に英国グロスターシャーの青年が飛ばした LED つきのマルチコプターの実物。これが翌日以降、数十のメディアで「グロスターシャーに UFO 出現」と報道されました。下のように新聞にまで取り上げられる始末。


uk-newspaper-ufo.jpg

▲ 記事のタイトルは「彼らはいまだに来ている。ファイヴバレーで UFO が目撃される」となっています。


中国共産党はどうだかわからないですが、上にリンクした英政府機関の UFO での大衆マインドコントロール作戦の記事では、英国政府通信本部は、こちらの「ねつ造」の方法をとっていることが、スノーデン氏の文書などで明らかになってきたことが記されています。

記事は、


イギリスの諜報機関である政府通信本部( GCHQ )が作成した UFO の存在を明らかにした複数の政府文書とスライドのセットをエドワード・スノーデンが公開した。



というものですが、それを見た著名な UFO 専門家ナイジェル・ワトソンという人が、「これらの UFO 写真はすべて偽物で、それは政府機関自身も知っていて使っている」として、その真実性を否定したことから始まりまして、以下のように語ります。


「イギリス政府機関は UFO によって大衆の心理を操作、つまり、マインドコントロールをおこなっていると思われます。政府機関はいまだに人々の UFO 信仰の力と大きさを認識しています。そして、彼らは人々の信念を悪用するためにインターネットを使うことに罪悪感を感じてはいないようです。」



ナイジェル・ワトソンさん自身は UFO 専門家で、 UFO の存在を信じているわけですが、逆にその彼から見ると、お粗末な UFO ねつ造写真をメディアやインターネットを使うことによって大衆操作をおこなっている政府機関に憤りを感じているという部分があるようです。





5年前のウェブボットに書かれてあったこと

これらのことと関係するというわけではないのでしょうけれど、2009年のウェブボットに書かれてあった奇妙な「予測」を思い出します。

これは陰謀論に属するものですけれど、「インターネットでニューエイジ的な概念を使い、人々に『選民思想』を植えつけ、人間同士を分離、対立させていく」という方法について書いたものです。

真偽はともかく、このような5年前に書かれていたことと、現在の一部の政府機関がおこなっていることには共通性があるようにも感じますので、記しておきたいと思います。

本文はかなり長いですので、部分的に抜粋したものです。


非対称型言語傾向分析報告書「来たるべき未来の形」0巻2号より
ウェブボット 2009年9月15日配信

影の支配勢力は国民を分断し、相互の不和を拡大する思想の刷り込みを行う。この思想は専門家が注意深く考案したもので、ニューエイジ系の考え方も取り入れており、よくできている。

この思想は、分断して統治するという影の支配勢力の典型的な手法に基づいており、すでにインターネットのさまざまなサイトから発信されている。まず分離と分断の技法は「われわれは特殊である」という思想の宣揚から始まる。

影の支配勢力は最近、裏のネットワークを使い、人類の15%はエイリアンのDNAをもっているとするニューエイジ系の考え方を抑圧しようとした。だが、この考えはエイリアンのDNAをもつ15%の人類は特殊であるという意味で、分離と分断の思想を強化する方向に作用する。

影の支配勢力は、複雑な神経言語学的プログラミングの方法を駆使して、エイリアンのDNAをもつこの15%の人類を自分たちの仲間に引き入れようと画策する。

彼らはそのとき、この15%の人類はわれわれと同じDNAをもつ選民なので、人間性を裏切るような行為を行っても構わないと彼らにアプローチする。このとき、他の人間たちを原始的な動物にたとえることもする。

まず、この選民思想はインターネットのトンデモ系情報を流している有名なサイトから広まる。

この選民思想を信じた人間は、自分こそ、この15%に属する選民であると思い込むようになる。それはまったくなんの根拠もない思い込みにしかすぎないのだが、彼らはそれを信じることで自分たちの集団には属さない人々を下等な人間として見下すようになる。

(略)

実際にエイリアンのDNAをもつ人間が存在するのかどうかはどうでもよいことである。

これは影の支配勢力が、民衆を統治するための戦術として生み出した選民思想にしかすぎないのだ。

影の支配勢力は自分たちが民衆を統治する神権をもっていると信じているが、この神権の正当性を主張する根拠がエイリアンのDNAに変わっただけなのだ。これは遺伝子工学の時代に考案された神権の新しい概念である。




さて。

こんなややこしい話はここまでとして、最初の中国の UFO の話に戻ります。





中国の UFO の正体

ところ変わりまして、下の報道は中国に UFO が落ちてきた日と同じ日のロシアのニュースです。

ru-ch-proton.gif

▲ 2014年5月16日のロシア dp.ru より。


このロシアの「プロトン」というロケットが打ち上げに失敗し、空中で分解してしまったのだそうです。

そして、中国側の調査で、冒頭の「 UFO 」は、このロケットの残骸だということが判明したという出来事でした。これは、中国のメディアでもその後ただちに報道されました。

ロシアのロケットが打ち上げられたカザフスタンのバイコヌール宇宙基地と、物体が落下した位置関係は下のようになります。

ru-ch-map-03.gif


相当な距離ですけれど、これだと、モンゴルだとか、いろいろなところに破片が落下していそうで、冒頭の写真の大きさ程度のものなら、何かに当たれば大変な被害が出るでしょうし、奇妙な事件というより、結構危険な事件だったようです。

それにしても、ロシアもロケット打ち上げ失敗するんですね。
しかも、今回の打ち上げは重要な打ち上げだったようです。

このロケットには強力な通信衛星が搭載されていて、それもダメになったということで、ロシアにややダメージがあった出来事でもあったかもしれません。


この「プロトン」計画はしばらく中止されるそう。

ロシアと「中止」といえば、国際宇宙ステーションも中止になるようですしね。

iss-2020.jpg

▲ 2014年5月14日の CNN 「ロシア、国際宇宙ステーションからの撤退表明 20年までに」より。


これは最近の国際情勢の中での「アメリカへの報復」のようなんですが、ロシアの宇宙船であるソユーズがないと、国際宇宙ステーションに人員を輸送する手段がなくなるので、ロシアが手を引いたら、それで終わりということになるようです。

しかし、あのようなデカイものが「宇宙で廃墟化していく」というのも何とも・・・。それにしても、人工衛星などはよく地球に落下したりしますけれど、国際宇宙ステーションは運用が終わった後、そういうようなことには・・・ならないのですかね。どうなんだろう。

ホピ族の有名な予言の、第5の時代の地球が始まる時に、


天界の居住施設が大音声とともに落下して地表に激突する。



なんてフレーズがあったのを思い出したりします。

いずれにしても、インターネットに毎日接していると、真実も真実でないこともごっちゃになって入ってきますので、その判断は自分でしかできないということだと思います。

そういう意味では「真実」という言葉も、人によって違うわけで、「真実」という言葉自体がすでに「真実ではない」というややこしい話となる中で、先日書かせていただきましたシュタイナーの記事にある、「十二弁の蓮華の育成のための六つの条件」を思い浮かべます。




十二弁の蓮華の育成のための六つの条件

第一の条件
自分自身の思考の流れを支配すること

第二の条件
思考の場合とまったく同じような首尾一貫性を、行為においても保持すること

第三の条件
粘り強さの育成

第四の条件
人間や、ほかの存在や、さまざまな事実に対する寛容さ

第五の条件
人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度

第六の条件
ある種の人生の均衡状態を捕獲すること





第一の条件の「自分自身の思考の流れを支配する」ということに努めれば、いろいろなことが起きても、それらの中に一貫してあるもの、あるいは矛盾として存在するものを常に気づくことができるのかもしれません。

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2014年05月17日



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sun-2014-05-17.jpg


今日は記事をふたつアップします。
こちらはお知らせのような感じです。

ところで、最近 Seesaa ブログがよくサーバ障害などで、極度に表示が重くなったり、表示されなくなります。そのような際には、こちらのページに状況を記すようにしているのですが、こうあまりにも障害が続くと、移転なども考えたくなりますが、 In Deep の記事数は現在では 1800以上になっている上に、写真や図版も多いですし、現実的に他に全移転するのは相当な時間と覚悟が必要で、現時点では不可能に思えます。


どの程度の手間がかかるのか、今では単なる日記の過疎ブログと化している「クレアなひととき」などで「ブログ記事全移転実験」でもやってみようかなとも思っています。

それには別に理由もありまして、クレアの場を使う必要はないのですけれど、最近「やりたいこと」というか、私は今、同じ意志(のようなもの)をお持ちの方などと「意識」を共有したいことがありまして(情報の共有ではないです)、それは先日の記事の、

人工 DNA から生命が作られる物質科学の時代に考え直したい 100年前にシュタイナーが唱えた「人類が高次へ移行する方法」
 2014年05月12日

で、シュタイナーが唱える「人間が高い次元を認識するという概念」について、ザラッとですけど、その全体像を知った時に、

高次元を認識する

ということについて私は勘違いし続けていたことに初めて気づいたのです。


正直、私はネット上などでの「高次元に移行する」というような表記や概念があまり好きではありませんでした。その理由は、内容そのものではなく、「あからさまな他者への差別と排除感覚が見える」からでした。

つまり、

高次元に行く人は優れた人
そこに行かない(あるいは行けない)人はダメな人

みたいな(こんな書き方ではないにしても)空気を常に感じてしまっていました。さらには、そこには一種の「選民思想」が存在しているように見えてしまう。もちろん、ご本人方はそうは思っていないのでしょうけれど、私のように「絶対に高い次元になどいかない人間」からはそう見えるのもまた事実なのです。

そして、「根本に区別と排除が存在しているものが良いものとは思えない」というのが私の正直な考え方です。

しかし、上にリンクした記事に記しました、シュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』をザラッと読んだ時に、少なくとも薔薇十字に伝わる「高次元を認識するための道」というものには、そのような選民意識や、そもそも「人を区別する」という原則もそこにはないことがわかります。

high-level.gif


それはこの本の本文の最初の1行である、


すべての人間のなかには、高次の世界を認識する能力がまどろんでいます。



にある、「すべての」という言葉で十分にわかります。

違いがあるのは、

・自主的に訓練をおこなおうとするか
・しないか

だけです。


そして、それ以上に私が「いいものだ」と思えた部分は、シュタイナーが書く、高い次元の世界を認識しようとする人間が「持ってはいけない行動や思考」(自分の中から捨て去らなければならないもの)として、

・怒り
・不機嫌
・臆病な心
・迷信を信じること
・偏見心
・虚栄心
・名誉欲
・好奇心
・人間を地位や性別や血縁関係などから差別する態度


というようなことが書かれてあるのです。

上のような感覚を自分の中から消すことが「高次元を認識するための最初の条件」だとシュタイナーは書いています。そして、最もいけない感情は「憎しみ」だとシュタイナーは言います。


そして、これこそが「私が昔から抱き続けていたパラダイスのイメージ」そのものなのです。

つまり、
・憎しみ
・怒り
・不機嫌
・臆病な心
・迷信を信じること
・偏見心
・虚栄心
・名誉欲
・好奇心
・人間を地位や性別や血縁関係などから差別する態度


のない場所。


そんな世界は単なる夢だと思っていましたが、今の世界に普通に生きていても、「高い次元を認識できるようになれば、それはなしうる」とシュタイナーは言っているのだと思います。

つまり、「高次元に生きること」とは、生きている場所が地球ではなくなるわけでも、肉体の死がなくなるわけでもなく、「認識する世界が変わる」のだと。

それは素晴らしいことだと思います。

また、薔薇十字、あるいはシュタイナーの修行の素晴らしいところは、宗教のように「徒党を組む必要がない」ということです。ひとりひとりが、自分の生活の中でおこなえばいいものです。リーダーも必要ないし、議論も多分必要ないはずです。


正直、私はいまだに「高い次元」という言葉自体には抵抗感がありますが、これを言い方を変えて、

「いい考え方の人間になってみたい」という修行

だと思えば、私にとっても悪いことではないと思い、シュタイナーの思想を今後じっくりと考えたいと思っています。ただ、私自身がまだ本さえ完読していないような人で、そのことについて人様に何かを書くのは妙だとも思います。

ですので、そのような考えを持つ方が他にいるならば、たとえば、メルマガのようなものでもいいですが、そういうもので考えを書いたりして共有してみたいとも思います。

シュタイナーの言葉は、これまで In Deep で書いてきた「宇宙と人類と生命の関係」にも関連します。現代にはさまざまな宇宙科学と生命科学(たとえば、パンスペルミア説)があります。

シュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』の中で、「神秘学の学徒になるための条件」として書いている中のひとつに、


「自分自身を生命全体の一部分と感じること」



があります。

この「生命全体」は、パンスペルミア説から見れば、実は「宇宙空間全体」であることを示していることにも気づかれると思います。

space-dna.jpg


今後の世界。

たとえば、In Deep の多くの記事に示される災害や戦争や暴動。
それは今後も確実に続くと思います。

しかし、その混沌とした地球の中で「高い次元を認識して生きる」ということは、すでにそれらの脅威が脅威ではなくなる可能性があるという意識の変化を示すものなのかもしれません。



とはいっても、まず私のすることは、シュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』をちゃんと読むことからですね。

何しろ、最近の私はものすごくたくさん本を買っているんです。

森田療法を理解する必読の原典と言われている、森田療法の創始者の森田正馬さんが大正11年に書かれた論文を新刊として書体などが新字体になっていて読みやすなっていた『神経質の本態と療法』だとか、東京大学の名誉教授だった自然人類学者の埴原和郎さんが 30年くらい前に書かれた『日本人の起源』というようなものとか、他にもたくさん買いまくっていて、まずはそれらを適度に読んでから、シュタイナーをゆっくりと読みたいと思います。


少し時間はかかるかもしれないですが、「高い次元の認識」というような小難しいことではなくても、「意識を変化させて、多少なりともいい人間として死んでいきたい」というようなことに興味がある方たちと意識や意見を共有できるといいかと思います。

準備にかなり時間はかかりそうですが、その際にはまたお知らせします。


というわけで、今日は通常の記事も書いていますので、後ほどアップします。
私たちは皆、「現実は現実として見続けなければいけない」と思ってもいます。
それを提供するのが In Deep のささやかな役割かもしれないです。

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2014年05月13日



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man-computer.jpg

▲ 「発明家レイ・カーツワイル - コンピューターに魂がやどり、人間は機械化する」より。


昨日はとても長い記事を書いてしまったのですが、その昨日の、

人工 DNA から生命が作られる物質科学の時代に考え直したい 100年前にシュタイナーが唱えた「人類が高次へ移行する方法」
 2014年05月12日

という記事の最初に、「科学者たちは人工的に作った DNA から初めて生物を作り出した」という報道をご紹介しました。

DNA-03.gif


実は上のニュースを読んで、昨日のシュタイナーの件とは別に、もうひとつのことを思っていました。





H・G・ウェルズやヒトラーの予見した未来像

昨日の記事では、ついに人間が DNA まで人工的に作り始めたということに「焦燥感を覚えた」と私は書いたのですが、「タイム・トラベル」や「宇宙戦争」などで名高いSF作家、ハーバート・ジョージ・ウェルズ(以下、H・G・ウエルズ)が 1930年頃から執筆し、1933年に発表した『来たるべきものたちの姿』( THE SHAPES OF THINGS TO COME )という小説があります。

これは小説の体裁をとっていますが、巷では「予言書」としてとらえられている部分が強いものだそうです。

日本では、『世界はこうなる』とか『地球国家2106年』というような邦題で刊行されています。しかし、原題は、「SHAPES OF THINGS」と、やってくる「物の形」という表現となっています。

HerbertGeorgeWells.jpg

▲ H・G・ウエルズ( 1866年 - 1946年)。


内容としては、 2016年の時点から 1965年までのできごとを振り返ってみるという形をとっています。大きな出来事としては、

2059年頃に「世界は単一の国家になる(完全な世界政府)」
2106年までに、人類は最終的な進化(新人類の誕生)に向かう

などが書かれています。

そして、その中に、


2047年には遺伝子操作で新生物を人工的に進化させられるようになる。



という下りがあるのです。


昨日の「 人工 DNA で生命が作られた」というニュースから私は、ウェルズの書いていたこの「新生物を人工的に進化させられる」ということを達成したかのような感じを受けたのでした。

つまり、すでに 2014年の私たちは「ウェルズが予測した2047年頃に足を踏み入れているのではないか」という感じを受けてしまったのです。


さらに、今ではネット上で有名な言葉で、ご存じの方が多いと思いますが、生前のヒトラーは以下のように述べています。実際には言葉の中に「年代」が入っているのですが、それはあえて外しました。


ヒトラーの予言

人類は、神のほうに進化し「神人」になる者があらわれる。彼らは数次元以上の知能と能力をもつ、あらゆる危機や問題は『神人』が解決してくれる。

残りはただ操られ、働いたり楽しんだりする完全に受動的な「ロボット人間」と化している。「ロボット人間」は「神人」の言いなりになって気楽に生きていける。

「完全な神々だけの世界」と「完全な機械化生物」だけの世界に分かれた世界ができあがる。




というように、彼は、将来の地球は、

「進化した人間」と「完全な機械化生物」に分かれる

と言っているのでした。






新人類「P」が地球に登場するとき

ところで、さきほどの、「予言者としてのH・G・ウエルズ」に関してですが、ノストラダムスの予言本などで有名な五島勉さんが『H・G・ウエルズの予言された未来の記録』という本を出していて、私も古本で買ったのですが、これは予想以上に面白い本でした。

特に恐怖を煽るわけでもなく、日本の未来についても、


何か日本が蘇生できるような奇跡的なことが起こる。これから次々に起こる。内紛を繰り返しながらも状態は光へ向かう。



というようなことが書かれているような本ですが、それはともかく、この『H.G.ウェルズの予言された未来の記録』の中で、最も興味深いのが、

新しい人類「P」の登場

というくだりです。

この「P」というのは、ウェルズによれば、ポリプ( Polyp )の頭文字で、イソギンチャクやクラゲなどの刺胞動物にみられる幼生の形態のひとつのことだそう。

とはいえ、その「新しい人類」は、クラゲやイソギンチャクのようなものだということではなく、五島さんは、H・G・ウエルズの著作の内容を紹介して、以下のように記しています。


新人類「P」はべつに宇宙人や異星人ではなかった。血統的には、今の私たち普通の人間と同じ。

ただし、彼らはもはやそれまでの人類ではなかった。ちょっと見たところ、それまでの人類とさほどの違いはなかったが、姿や顔かたちも、よく見ればそれまでにない超知性にきらめいていた。

とくに、頭脳の内容が違っていた。実は2000年〜2010年あたりから、ごく一部の人類の頭脳や知性や体の奥の中身はすでに変わりはじめていたのだ。




とあります。

2000年から 2010年ということは、つまり、この現代の子どもたちの中に、すでに「進化の兆し」を見せている子どもたちが少し存在し、その遺伝子が、さらに進化して伝えられていく中で、2050年くらいまでに地球上での大きな存在となっていく、というようなことをウェルズは『来たるべきものたちの姿』で書いています。

このウェルズの言う、


・進化した新しい人類
・遺伝子操作で作られる生命



と、ヒトラーの言う、


・神のように進化した人間
・機械化した生物でしかない人間



というものが妙にリンクして感じられて仕方ないわけです。

そして、このテーマの中心には、昨日のシュタイナーの記事などにもありますように、

・生命



・生命ではないもの


という「厳密な違い」を考えなければならない点があると思うのです。






機械が人間と「融合」するのか、それとも「人間は機械に浸食される」のか

確かに、現代文明はテクノロジーの恩恵を数多く受けています。
進み方も加速しています。

たとえば、下の記事は 2012年の報道記事です。

us-2030.gif

▲ 2012年12月10日の WIRED U.S. Spies See Superhumans, Instant Cities by 2030 より。

タイトルは多少、意訳していますが、つまりアメリカで、


2030年までには、驚異的な能力を与える脳のチップや体が機械やバイオプリンティングで作られ、大都市も3Dプリントであっという間にできあがるようになるだろう。



ということを、アメリカ国家情報会議( NIC )が「予言」したという報道です。

その後2年もかからず、3Dプリンターの技術は大変に進んで、しかも、一般にも広がっています。日本では、3Dプリントは最近は別のほうで話題になったりしていますが、宇宙基地を3Dプリントで作る計画なども見聞します。

3d-moonbase.jpg

▲ 欧州宇宙機関(ESA)が 2013年2月に発表した「3Dプリント技術を利用しての月面基地の建設」のイメージ図。ナショナルジオグラフィック ニュース「3Dプリンターで月面基地、ESA発表」より。


それはともかく、上の WIRED の記事では、


電気回路やアンテナ、バッテリー、メモリーなどの電気部品と人体の構成要素を組み合わせることができるようになる可能性がある。義肢や単純な器官のバイオプリンティング(3Dプリンタで臓器をプリントして作ること)が 2030年までに可能になるかもしれない。



というようなことが書かれてあるのです。


確かに・・・医学の進歩なのかもしれないですけれど・・・何か「人間の幸福」という概念から見て、違和感を感じるテクノロジーの進歩に見えてしまうのです。


冒頭に貼りました、レイ・カーツワイルという人は、 Wikipedia によりますと、


レイ・カーツワイル( Ray Kurzweil )はアメリカ合衆国の発明家、実業家、フューチャリスト。

ニューヨーク・クイーンズにユダヤ系移民の子として生まれる。1960年12歳の時、コンピュータに触れ、以後夢中となり、統計分析のプログラムや作曲を行うようになる。

1974年カーツワイル・コンピューター・プロダクツ社を設立。以後数々の発明を世に送り出す。アメリカの「発明家の殿堂」に加えられ、「ナショナル・メダル・オブ・テクノロジー」「レメルソンMIT賞」など数々の賞を受賞。





という発明の分野での権威なんですが、冒頭に貼った彼を紹介した記事には、以下のようなことが書かれてあります。


発明家、未来派科学者、作家 / レイ・カーツワイル 「コンピューターに魂がやどり、人間は機械化する」

カーツワイルは、 人間の機械化も予言している。「限りなく人間に近い機械」と「限りなく機械に近い人間」。「人間と機械の境界が曖昧になってきている」と語 るカーツワイルは、今後の人間と機械の関係を どう予測するのだろうか?

2030年代までには、生物学的な意味での知能=「人間」と、生物学的ではない知能=「機械」との間に明瞭な区別はなくなるかも知れない。

そして我々人間は、最終的に身体と脳のシステムをすべて再構築することになるだろう。そのプロセスは徐々にではあるが、既にはじまっている。現代における人間の進化の最先端にあるのは、生物学的な問題ではなく、技術革新なのだ。




このカーツワイルというユダヤ系の発明家の人は、今後の人間は、

・限りなく人間に近い機械
・限りなく機械に近い人間
・生物学的な意味での「人間」と、生物学的ではない「機械」と区別がなくなる


ということを言っているのです。

そして、

> 現代における人間の進化の最先端にあるのは、生物学的な問題ではなく、技術革新なのだ。

という、前ローマ法王のベネディクト16世が聞くと、必ず怒っただろうと思われるような発言をしています。


ここで、先に書きました、

H・G・ウェルズの、


・進化した新しい人類
・遺伝子操作で作られる生命



そして、ヒトラーの、


・神のように進化した人間
・機械化した生物でしかない人間



という状態が、すでに進んでいるかもしれないということに気づきます。

ここには、あらゆる宗教や神秘学の基本中の基本としての、

生命は物質ではない

という概念はもはやありません。


その言い方が「魂」だとか「霊」だとか、エーテルだとか、どんな呼び方でもいいのですが、生命が生きているということは「機械が動いている」ことと決定的に違うということ、そして、特にその中でも「人間を物質として考えてはいけない」と最近強く思います。

もはや、人間の「スピリチュアルの本体」の存在は否定しようもないところにまで、多くの人々の考えは進んでいると私は思います。

しかし、今、現実の社会で進んでいるのは、「生命を、物質を同列にまで貶めること」のようです。


私たちは単なる生きる機械となっていく将来に向かうのか。

それとも、ウェルズがいう「新しい人類」、あるいはヒトラーの言う「神のような人類」に向かうのか。


それは、これからの個人個人の思想にかかってくると思います。「どこかからの救いがやってくる」ことを確信されている方もいらっしゃるかもしれないですし、そのことについて否定するつもりはありません。しかし、もはやそのような状態ではないことが次第に明らかになりつつあるように思います。


そして、これは大事なことだと思いますが、私たちが対象にする相手は「敵」とか「味方」という第三者ではないく、「自分自身の内部」です。

もはや世界は「敵や味方にわける」という時代ではなく、自分自身がどのように考えて、そして行動するかということに自分たちの未来が委ねられると感じます。

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2014年05月12日



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(筆者注)最終的に大変に長い記事となってしまいました。
わかりにくくなってしまっている部分が多いと思いますが、ご了承下さい。

--



そろそろ人間は「精神性」というものの意味を再考する時にきているのかも

Artificial-DNA.gif

▲ 2014年5月7日の US News Scientists Create 1st Living Organism From Artificial DNA より。


先日、上のニュースがあったのですね。
概要だけを短くご紹介しますと、下のような報道です。


科学者たちは人工的に作った DNA から初めて生物を作り出した

米国スクリプス研究所の研究チームが、人工 DNA を取り込んだ微生物を作り出す実験に初めて成功した。英科学誌ネイチャーに掲載された。

研究チームは、通常の遺伝子コードに2つのコードを追加して、人工 DNA を作り出し、バクテリアにこの人工 DNA を取り込ませた。実験を主導したフロイド・ロームズバーグ博士(Floyd Romesberg )は、「バクテリアの細胞は人工 DNA を自然界のものと認識した」と語った。

専門家たちは、この実験は、異なる DNA コードに基づいた生命体の実現の可能性を示すと述べている。




というニュースでした。

これはまさに、「生命 = 物質」ということに突き進む現代科学の極限のような報道なのですが、大きな科学記事として報道されていますが、むしろ私は「何ともいえない焦燥感」を感じてしまいました。

たとえば昨日の記事、

「神はいない」とする団体の「六芒星+スヴァスティカ」のシンボルを見て、それでも神(のようなもの)と太陽と人類は存在して発展し続けると思いたかったり
 2014年05月11日

の最後に、ルドルフ・シュタイナーの『我が人生の歩み』という自伝の下の部分を抜粋していました。


自然科学の時代は、人間および民族の生命に及ぶ影響において凋落を意味している。人類がこれから先も発展していくためには、精神的な側面からのまったく新しい価値観が必要とされるだろう。



さらに少し前の、

パニック障害 30年目の年に思い出す森田正馬の「あるがまま」と谷口雅春の「さとり」のリンク
 2014年05月07日

という記事には、谷口雅春の『生命の実相』第一巻( 1962年)を抜粋していますが、そこに健康についての記述があり、全体の内容としてはともかく、以下のような下りがあります。


(現代の医療と健康法は)ほんらい自発的、能動的、創造的であって物質を支配するべき生命の本質を忘れて、ほんらい無力な他動的受動的な物質の法則の奴隷になろうと努力しているのであります。



と、谷口雅春は、

自然科学は、「生命を物質の法則の奴隷」にさせようとしている

ということを書いています。

今回の人工 DNA から生物が作り出された報道を見て、この「生命が物質の法則の奴隷になろうとしている」という言葉を思い出したのでした。




またも図書館にて見つけたもの

さて、それは一端おきまして、昨日記事の最後にシュタイナーの言葉を書いたのですが、私はシュタイナーの本を持っているわけではなく、他の本に抜粋されている箇所からの抜粋でした。

そして、昨日の午後、子どもや奥さんと近所の図書館に行きました。

うちの子は、精神的な成長という意味では幼いところがありまして、普通なら、眠る時に母親に本を読んでもらって喜ぶのは、幼稚園とか、せいぜい6歳くらいまでだと思うのですが、うち子はむしろ6歳を過ぎた頃から、寝る前に母親に本を読んでもらうことが大好きで、そのこともあり、よく図書館に行きます。

私が図書館に一緒に行くことはあまりないですが、昨日は「日曜だし外でご飯でも食べようか」ということで、その後、3人で行ったわけです。昼食時に焼酎を昼飲みして、ほろ酔い加減で行った図書館でした(なんかダメじゃん)。


うちの子どもと図書館に行くと、いつも何かと発見があるもので、2年ほど前の、

大出血のような太陽フレアと真っ赤な富士山上空を眺めながら「物質は永遠」という法則を子ども科学本で知った日
 2012年09月03日

という記事では、子どもと一緒に図書館に行った時に、「子ども本コーナー」の棚で手にした『原子の発見』という田中実さんという方の書いた本を立ち読みして、「物質不滅の法則」(質量保存の法則)を知った時のことを書きました。

そして、科学本である『原子の発見』には、以下のような記述がありました。


生きているとはどういうことか。人間も動物も、そして、植物も生きている。生きているものと、生きていないものとは、どこがちがうのか。生きているものが死ぬとは、どういうことなのか。

生命という現象には、まだたくさんの解ききれない秘密がある。しかしそれは自然科学の力によって、しだいに解決されてゆくはずである。どんな生物も物質から出来ているのだから『物質不滅の法則』に外れるような現象は起こるはずがない。




というくだりがありました。

この。

> どんな生物も物質から出来ているのだから

このあたりが今回の記事のポイントでもありそうなのです。


図書館で、子どもは自分で本を探していたので、私は適当に本を見て回っていたのですが、

「そういや、昨日、シュタイナーのこと書いたな」

と思い、「シュタイナーの本ってあるのかな」と探してみると、数冊だけでしたが、「小さなシュタイナー・コーナー」がありました。ほとんどが教育関係(シュタイナー教育)の本でしたが、一冊だけ、『いかにして高次の世界を認識するか』というタイトルの本がありました。


その本を開いて、本文の冒頭の1文、


「すべての」人間のなかには、高次の世界を認識する能力がまどろんでいます。



というのを見て、「あ、借りよう」と思い、借りたわけです。
カッコにしている部分は、本では傍点(強調点)がふられている場所です。

翻訳者の松浦賢さんという方の訳者あとがきにはこのように書かれてあります。


本書『いかにして高次の世界を認識するか』は、太古の昔から秘儀の場で伝えられてきた霊的な訓練の方法を初めて書物という形式で公開した、という点において画期的な意味を持っています。



というものだそう。

これは何度も改訂されていて、これは 1914年の第五版を訳したものだそうですが、1914年というと、ちょうど 100年前というあたりもキリがいい気がしました。

ざらっと読んだだけなのですが、今回、ここに書かれてある「高い次元に上る修練について」の具体的な方法の一部を箇条書き的ですが、記してみたいと思います。


ちなみに、私自身は、高い次元とか「霊的」とされる概念とふれることに興味はなく、私自身は今の状態でもいいのです。

では、なぜそんなことを書きたくなったかといいますと、いかにして高次の世界を認識するか』の中の下のシュタイナーの文章を読んだことでした。


真理を求める努力は、信頼と真の人間愛という基盤の上に「築かれなくては」ならないのです。そしてこのような人間愛はじょじょに、すべての生き物や、すべての存在に対する愛へと拡大していかなければなりません。そのような条件を満たしておかないと、学徒はもあらゆる建設や創造の営みに対して十分な愛を抱くことができなくなり、何かを破壊したり、滅ぼしたりするのをやめようとしなくなります。



今の世界の状況は、この「何かを破壊したり、滅ぼしたりするのをやめようとしなくなります」という状況そのものが世界全体に広がっているとしか思えない部分があります。


やはり、そろそろ人間は「精神性」というものの意味を再考する時にきているのかもしれません。

あるいは、「人間の持つ本当の力とは何か」を知る時に来ているのかもしれません。

かつての、

最後の法王と呼ばれ続けたベネディクト16世: 聖マラキの予言とコナン・ドイルの未来感の時間軸
 2013年02月13日

という記事に、アーサー・コナン・ドイルの予言「人類の大部分が滅びる間の自然の激動の期間」 というものを載せたことがあります。

その全体はともかく、最後の1文は、


人類は、自らの精神的な存在に戻ることによってのみ、生き残ることができる。



となっていました。

doyle-03.jpg

▲ シャーロック・ホームズの産みの親、コナン・ドイル(1859年5月22日 - 1930年7月7日)。


しかし、「人類は、自らの精神的な存在に戻ることによってのみ」と言われても、その方法論がわからなければ、どうすることもできないわけです。

そんなわけで、多分、このシュタイナーの思想というのは、そういう方法のひとつであるとは思いますので、「未来の地球を良くしたい」ということに興味のある人のために足がかりとなればと思った次第です。

もちろん、私自身は、今回初めてシュタイナーの本を読んだような「完全な素人」ですので、私の主観や考え方は基本的には添えません。

まあ、一番いいのはやはりこの本を手にされることかと思います。 Amazon の『いかにして高次の世界を認識するか』にあります。


その前に、「霊的な修行」というものの西洋においての一般論を記しておきます。
訳者の松浦賢さんが書かれているものを短くまとめたものです。

ちなみに、シュタイナーそのものについてのことはここでは書きませんので、ルドルフ・シュタイナー - Wikipedia などにある程度の歴史と人物像がありますので、ご参考下さい。






霊的な修行と「薔薇十字系」の修行の特徴

霊的な訓練をする方法では歴史上、

・インド系
・キリスト教、グノーシス主義系
・薔薇十字系


の3つがあり、インド系では導師(グル)が弟子に対して絶対的な立場としての修行をおこないます。キリスト教系では、「イエスが絶対的な導師」というように、インド系、キリスト教系では、「絶対的な導師の存在」があるのに対して、薔薇十字系には導師が存在しないのだそうです。


薔薇十字系の修行では、学徒の自我に基づく自由と自主性が何よりも重んじられます。薔薇十字系の修行には、権威的な指導者としての導師は存在せず、友人としての立場から学徒に助言する師がいるだけです。



と訳者あとがきにあります。

シュタイナーの霊的な修練はこの「薔薇十字系」の修行法です。


薔薇十字系の修練の特徴

シュタイナーの薔薇十字系の修練の特徴として、


日常生活が最良の霊的な訓練の場と見なされる


というものがあるようです。

要するに、集団で修行場で修行するというようなものではなく、「日常生活と共におこなう」ということで、さらにいえば、薔薇十字系の修行では、社会や家庭の中で通常の社会生活をきちんと営むことが何よりも最重視されるそうです。

これについては以下のようにシュタイナーは強く述べています。


「ひとつだけ、どうしても守っていただきたいことがあります。すなわち私たちは、いま自分が置かれている人生の立場と義務から判断して、自由に使うことが許される以上の時間と力を訓練にあてるべきではありません。

神秘学の訓練の道をたどることによって、私たちが一瞬でも、ほんの少しでも、日常生活の状況を変化させるようなことがあってはなりません。」




何よりも優先するべきは、「私たちのいつも通りの日常」なのです。

そして、


目覚めた自我意識と健全な判断が重視される


というものがあります。

よくオカルト的な構図にあるような「目を閉じてトランス状態になったような状態で霊と交流する」というようなものではないのです。

瞑想のように目を閉じもしません。
「目を開けた状態」でおこなうのです。
普通の目覚めた状態の中で霊的認識をおこなうというもののようです。

シュタイナーも本書の中で、「目を開けていること」について強く書いています。

ここなどは、先日、紫綬褒章を受章した漫画家のしりあがり寿さんの長編漫画『弥次喜多 in Deep』の中で、古い地球が消滅した後に「新しい世界の天地創造」を始める弥次さん喜多さんが「目を開けた瞬間から新しい世界が始まる」場面を思い出します。

目を開けた弥次さんも喜多さんもすでにいわゆる物質ではなく、霊的存在として江戸の町に再登場します。そこにある世界は弥次さんと喜多さんが目を開けた時に生まれた「霊的な存在の江戸の町」であるといことになりそうです(もちろん、漫画にそんな説明があるわけではないです)。


話がそれました。
続けます。


薔薇十字系の修行でさらに大事なことは、


論理的な思考の鍛錬を重視する
個人の自由が徹底的に尊重される


のふたつだそう。

つまり、


ふだんの生活の中で、絶対的な指導者がいるわけでもなく、常に論理的に考え、そして、自分と他人の自由を最大限に尊重する。



というものだと言ってよさそうです。

まあしかし・・・これは、「論理的な思考の鍛錬」を別にすれば、何となく私が若い頃から考えて実践していることとあまり変わらない感じはします。つまり、私は、

・どんな集団にもリーダーは必要ない
・どんな集団にも最大に必要なのは個人の自由


だと考えて生きてきました。

私が若い時にやっていた劇団のようなものもすべてその主義でした。
リーダーなどいなくとも、少なくとも表現行為や思想活動なら、どれだけ大規模なものでもできます。

「リーダーがいないとできない」というのは現代社会の洗脳と暗示が強いと思われます。

今回のシュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』を図書館でちょっとだけ立ち読みしただけで、「読もう」という気になったのは、この「自由の尊重」と「絶対的な導師がいない」という部分を読んだこともあるかもしれません。

ここから箇条書きのような感じで、薔薇十字の学徒がどのような修練を日常の中でおこなうかを記してみたいと思います。別に「高次がどうのこうの」というスピリチュアル的な意味で読むのではなく、「ひとつの人間の考え方」として読んでも十分なものだと思います。




重要なこと

なお、「非常に重要なこと」としてシュタイナーが記しているので書きますが、仮に現在、あるいは未来、あなたが「霊的な事象」を見ることができる場合の話です。

シュタイナーは下のように記しています。


あなたが霊的に見たものについて沈黙することができるようになりなさい。

それどころか、あなたは自分自身に対しても、霊的に直感したものについて沈黙を守らなくてはならないのです。




それはどうしてかというと、

・そのような霊的な現象を未熟な言葉で表現しようとすると、たいていの場合は、自分で幻想を作り上げることになるため。

・日常的に使われる言葉は、本来、霊的な事象について語るために生み出されたものではないため。

ということで、つまり、霊的な体験は言葉では表現しづらいもののようで、それを言葉で他人や、あるいは自分に語った瞬間から、「それは単なる幻想となっていく」ということのようです。

そして、その「幻想」が真実であるかのようになっていき、本人をも追い込むものなのかもしれません。いずれにしても、霊的な事象は言葉で人と共有するものではないことが厳命されています。

それでは、ここからです。

Rudolf-Steiner.jpg

▲ ルドルフ・シュタイナー (1861年 - 1925年)。





神秘学の学徒になるための条件

神秘学の修練をしようとする際に、克服しなければらない点について、シュタイナーは下のように記します。


私たちが克服しなければならない性質には、怒りや不機嫌のほかに、臆病な心、迷信、偏見を好む心、虚栄心、名誉欲、好奇心、必要のないことを何でも人に話したがる気持ち、人間を外見的な地位や性別や血縁関係をもとに差別する態度、などがあります。



そして、「神秘学の学徒になるための条件」として、シュタイナーは、7つの項目を記しています。ひとつひとつに長い説明がありますが、基本的に項目だけを書いておきます。

その前に、このように書かれてあります。


どの条件に関しても、それを「完全に」満たすことは求められていない。学徒に求められているのは、完全に条件を見たすように「努力する」ことだけである。




第一の条件

「あなたの体と霊の健康を促進するように注意を払いなさい」

この後に、


確かに私たちは、はじめのうちは、みずからの健康状態を自分で決定することはできないかもしれません。しかし誰でも、体と霊の健康を促進するように努めることは可能です。



と書かれてあります。


第二の条件

「自分自身を生命全体の一部分と感じること」


これは人間以外の生命すべてに対してのことであるのですが、しかし、「人間」に関して考えると、たとえば「犯罪者」などに対して、現在の社会、あるいは世論やマスコミでは容赦ない非難と攻撃をするのが普通になっていて、「それが当然」というような感じになって久しいですが、私自身は、昔からそういうことに対して疑問を持っていました。

それは、「私に他の人間を非難する資格や資質があるのだろうか」という疑問でもあり、なので、犯罪や行為にもよりますけれど、基本的に私は「他人を攻撃したり、憎むということができない」で成長してきた人間でした。

シュタイナーは、私の犯罪者に対して持つ疑問について、以下のように「思う」ことが重要だと書いています。


「私は全人類の一部分である。私は、生じるすべての事柄に関して、全人類とともに責任を負っている」



このシュタイナーの言葉を読む限りでは、「他人を攻撃したり、憎むということがなかなかできない」という私の優柔不断な性格もまあ、それでもいいのかな、とかもやや思います。


第三の条件

「私の行動だけではなく、私の思考と感情も、同様に世界に対して重要な意味をもっている」と考えることができる境地にまで上昇しなくてはならない。



シュタイナーは、ここでも「憎しみという感情が良くないこと」を書いており、


「私が身近な人間に対して抱く憎しみの感情は直接殴りつけるのに匹敵するほど破壊的な作用を相手に及ぼす」と考えること。



だと書いています。


第四の条件

「人間の真の本質は外見にではなく、内面にある」


これは、「人は姿じゃなくて心だよ」というような意味とはちょっと違い(笑)、シュタイナーの記述では、


「私という人間は外界の産物、つまり物質的な世界が生み出したものにすぎない」と考えるなら、私たちは、神秘学の訓練において何も達成することはできません。



のように、今回の記事の最初のほうにも書きました「生命は物質から生み出されたわけではない」ということが書かれています。


第五の条件

「一度自分で決めたことは、確固とした態度で守り通す」


第六の条件

「自分に与えられるすべてのものに対する感謝の感情を育てる」

この後に、シュタイナーは、


私たちは、「私という存在は宇宙全体からの贈り物である」ということを知らなくてはなりません。



と記しています。


第七の条件

「つねにこれらの条件が求められるとおりに、人生を理解する」



そして、次に「十二弁の蓮華の育成のための六つの特性」という項目などが記されます。

本には、十二弁の蓮華とか十六弁の蓮華などの言葉が出てくるのですが、私はこのあたりのことがさっぱりわからず、また、シュタイナーの長い説明を要約することも難しいですので、「シュタイナーなら気功ブームをどうみただろうか」というサイトから説明を抜粋させていただきます。


アストラル体の咽喉の辺にある16弁の蓮華(チャクラ)、心臓の辺にある12弁の蓮華、臍の辺にある10弁の蓮華、脾臓の辺にある6弁の蓮華というふうに蓮華を活性化(回転を始め)させてきた修行者は、体内のエーテル流をコントロールできるようになってくる。

そしてエーテル心臓を源としたエーテル流をアストラル体全体に送り出し、そのエーテル流によってアストラル体の各蓮華の回転を制御する。そしてその流れはさらに、蓮華の先端から体外へ出ていく。その及ぶ範囲は、その人が霊的に進歩するほどに広がっていく。シュタイナーは以上のように表現する。




というものだそうです。

まあ・・・私個人としては、このあたりのことはよくわからないのですが、その「仕組み」より、シュタイナーの「言葉の内容」を読んでいただきたいと思います。

ここから再びシュタイナーの記述を続けます。
ここからは箇条書きだけとします。




十二弁の蓮華の育成のための「六つの条件」

第一の条件

自分自身の思考の流れを支配すること


第二の条件

思考の場合とまったく同じような首尾一貫性を、行為においても保持すること


第三の条件

粘り強さの育成


第四の条件

人間や、ほかの存在や、さまざまな事実に対する寛大な態度(寛容さ)


第五の条件

人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度


第六の条件

ある種の人生の均衡状態(平静さ)を捕獲すること


さらに、シュタイナーは、霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない「4つの特性」というものにも言及します。





霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない四つの特性

第一の特性

思考において真実と仮象のものを、真理と単なる意見を区別すること


第二の特性

仮象のものと向き合ったときに、真に実在するものを正しく評価すること


第三の能力

「十二弁の蓮華を育成するための六つの特性」で述べた、思考の制御、行動の制御、ねばり強さ、寛大さ、信じること、冷静さを実践すること


第四の特性

内面的な自由に対する愛



長くなりましたが、ここまでです。

ところで、高次に上昇する際に、学徒は「境域の守護者」というものに出会うそうです。



境域の守護者

シュタイナーの記述によれば、それは、それまで自分自身の中にいた美しさと醜悪さの姿を兼ね備えているそうなんですが、その「境域の守護者」が語る言葉について、シュタイナーは物語風に長く書いています。

シュタイナーの記す「境域の守護者」の言葉(物語風にしたもの)からの抜粋です。
何ページにもわたる境域の守護者」の言葉の記述の中のほんの一部です。


目の前に広がる暗闇を自分自身で照らし出さなくてはならない、ということを理解するまで、あなたは私の境域を越えてはなりません。あなた自身のランプに十分に燃料が入っていると確信できないうちは、一歩たりとも先に進んではなりません。これまであなたが頼りにしてきた、導き手たちのランプは、これから先の未来においては存在しないのです。



この中に、先にも出てきました、しりあがり寿さんの長編漫画『弥次喜多 in Deep 』のラストの場面とリンクする言葉が出てきます。

過去記事、

30年目のエレキな春 : 精神圏へ移行する人類の覚醒後の姿を夢想させてくれた『弥次喜多 In Deep 』と作者への感謝
 2014年04月28日

の中でも書きましたけれど、「この世には何も存在していない」ということに気づいてしまった少年が、すでに霊的存在と化している弥次さん喜多さんから、


そりゃあ不安だろうよ
だけどな・・・その不安をな
ぐっとこらえて
ボウズがそこに「ある」と思ったらな
そのちっちゃな足を・・・
そう ぐっと・・・
そうやって前に出していくしかねえんだよ
そうやって・・・
ぐっと・・・



と言われ、そして、真っ暗な闇の中に少年は歩き出します。

そこから先は「この世は自分で作っていかなければならない」のです。

シュタイナーも今回ご紹介した著作の中で、人間が高次に移行した後は、これまであなたを導いてくれていた「宇宙の導き」がなくなり、そこから先は「自分で自分を導いていく」ことだと述べています。

そういう意味では、高い次元に移行するということは、巷で言われる以上に「覚悟のいること」だとも言えます。

それでも、上に出てきたシュタイナーの考え方は、「高次元」とか、そういうスピリチュアルを越えて、どれも心地よく響くものであり、あるいは「これからの人類が身につけるべき考えと行動」のようにも思います。

今のままの人間の考え方では地球はもたないと私は思います。

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2014年05月11日



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昨日、英国のデイリーメールで下のような記事を見たのですね。

raelian-top.gif

▲ 2014年5月9日の Daily Mail 'We're creating an embassy to welcome the Elohim back to Earth!' Inside the wacky world of the Raëlians - a cult who think humans are descended from ALIENS より。


このような団体があって、その内部や活動についてのドキュメントが、ナショナルジオグラフィック・テレビで報道されるというものでした。

「まあ、そういう団体は結構あるだろうな」と思いつつも、この「 Raelian 」という単語を知らなかったので、英語で一生懸命調べていましたら、何のことはない、日本語の Wikipedia にあったのでした。

そうしましたら、予想を越えた大きな団体のようで、また、デイリーメールでは、タイトルに「カルト」と記していますが、そのあたりの価値判断はともかく、下のような団体のようです。



ラエリアン・ムーブメント - Wikipedia より

ラエリアン・ムーブメントはラエルことフランス人のモータースポーツ系ジャーナリスト、クロード・ボリロンが創始した非営利ボランティア団体。

公式アナウンスによると、ラエルは1973年12月13日にフランス中部で遭遇した異星人「エロヒム」から人類の起源と未来に関する重要なメッセージを受け取り、そのメッセージを地球人類に普及する事を目的としてこの団体を創立した。

メッセージによれば、現在の地球上の生命は、25,000年進んだ科学技術力をもつエロヒムによって、科学的に創造されたとしている。





というもので、このあたりまでなら、他にも同じようなことを主張する団体は多くありそうな感じですが、そのメンバー数。


2003年11月の時点で、世界90カ国に活動拠点があり、6万人以上のメンバーが在籍しているといわれる。中でもラエリアンムーブメント日本支部は最も規模が大きく、公式アナウンスによれば6,000人以上のメンバーを擁している。



これは約 10年前の人数ですが、インターネット上でニューエイジ的なコンテンツが増えたのは、その後のことですので、その人数は増えているのかもしれません。「日本支部は最も規模が大きく」とありますが、下のような写真があります。これはラエリアンムーブメントのマスコットのようで、他の国でも登場します。

日本

raelians-japan-nov2012.jpg

▲ 2012年11月。場所は不明。 Wikipedia より。


韓国

aramis-korea_1-mascot_2013.jpg

▲ 2013年のソウル市内。Aramis より。


オーストラリア

au-raelians.jpg

Raelian Event News より。


ところで、上に共通するシンボルがおわかりでしょうか。

下の赤い丸で囲んだ部分が共通していますので、これがこの団体のロゴ、あるいはシンボルということになるのかもしれません。

swastika-like.gif


下のマークですね。

raelian_symbol.gif


六芒星の中に右まんじ(卍 / スヴァスティカ)を入れたデザインに見えます。

swastika-hexagram.gif


ところで、私がこの「ラエリアン」の記述の中で最も目についたのが下の記述でした。


神を、「科学を理解できなかった時代の古い概念」と位置づけており、霊魂も現実には存在しないと考えている。(中略)神は存在せず、霊魂も存在しない。死んだ後は、科学によるものでない限り何も残らない。



このあたり何ともコメントのできない微妙な雰囲気もあります。

まあ、良い悪いは個人個人の判断ですが、上の意見はちょっと私とは相容れない部分もあり、この団体の話はここまでということにしたいのですが、ところで、上に「六芒星」と「スヴァスティカ」が出てきます。六芒星にしてもスヴァスティカにしても、思い起こしてみると、 In Deep では、よく取り上げていたものでした。





六芒星とスヴァスティカのシンボルとしての意味

スヴァスティカは古代から非常に広い範囲で使用されていたシンボルです。下の図は 1898年のもので、今から 100年以上のものですが、当時の米国イェール大学の研究により明らかになった古代遺跡にスヴァスティカ(まんじ)の痕跡が確認されている場所です。

swastica-1898.gif

▲ 2012年9月27日の記事「『宇宙からやってきたブッダ』の胸に刻まれるマークで思い出すスヴァスティカの歴史」より。


この「まんじ」を「カギ十字(ハーケンクロイツ)」のように考えると、ナチスドイツなどを連想する場合もあるかもしれませんが、第一次大戦時はアメリカ軍(陸軍第45師団)でもこのマークを使っていました。

swastika-us.jpg

▲ 第一次大戦中のアメリカ陸軍第45師団の発刊物。これはスヴァスティカが白いですが、 1930年まで、陸軍第45師団では黄色のスヴァスティカをシンボルとして使っていたようです。 Tin Vienn Aart Plates より。


また、このスヴァスティカの「意味」の解釈はいろいろとあるのでしょうが、上の地図のように、ありとあらゆる古代文明でシンボルとして使われていたということにを見ると、「無意味」ということはありえないとは思います。

しかし、それはよくわからない部分が多く、卍 - Wikipedia などにも、世界各地での歴史などについては書かれてはありますが、「意味」については書かれていません。

ちなみに、それが合っているかどうかはともかく、過去記事の、

マヤ長老評議会の議長の言葉から思い出した「マヤ族にとっての1万3000年前の意味」
 2012年10月22日

の中で、未来予測プロジェクトのウェブボット代表であるクリフ・ハイが 2012年にウェブサイトに記したものを訳した文章があります。一部抜粋します。


嘶くカラス - 2012年のための補足資料

太陽にはいくつかの興味深い性質がある。その一つは、太陽の極部と赤道部とでは太陽の自転の周期が異なるということである。これが原因で、太陽は1万1500年の周期のカオス的ともいえる変動を繰り返している。

太陽の質量は太陽系の惑星の全質量の合計の99%に相当する。一方で、回転運動の角運動量では他の惑星が圧倒的に大きく、太陽の角運動量は1%にすぎない。

1-sun-1.gif


このアンバランスの結果、太陽の赤道部は他の惑星によって引っ張られる格好となるため、赤道部の自転周期は極部のそれに比べて速くなる。この自転周期のズレが原因で、この動きに引きずられて南北方向の磁力線にはねじれが生じ、太陽に巻き付いたような状態となる。

2-sun-equator.gif


この状態を太陽の極から見ると、スヴァスティカ(まんじ)と似た形になる。多くの古代文明の神話では、スヴァスティカと同様のシンボルが出てきており、それはすべて世界の終わりのシンボルと理解されている。

3-sun-swastika.gif




ということを書いていたことを思い出しました。


このブログでは、一方の六芒星に関しての記事も大変多いですが、

アルケミーの真実と噛み合わないモダンな 2013年の太陽系の六芒星から感じるのは宇宙の意志ではなく「ある種の人々」の思惑
 2013年07月31日

という記事では、


太陽系では、太陽、土星、水星、火星、金星、木星、月により六芒星が形作られる。



ことにふれています。

下の図は、18世紀に出版された『薔薇十字の秘密のシンボル』にある図ですが、中世までの神秘主義、あるいは占星術的な考えには、当時はまだ発見されていなかった天王星( 1781年発見)や海王星( 1846年発見)は含まれません。

太陽を中心とした六角のフォーメーション

hexagon-sun.jpg

▲ 上の記事より『薔薇十字の秘密のシンボル』の中に出て来るイラストのひとつ。



話がそれますが、上の図では、「太陽」に「4という数」が割り当てられており、そして、そのシンボルには「〇の中に・がある」ようなものが使われています。

これは日本に漢字が伝わる以前の古代文字であるヲシテ(ホツマ文字)というものの中の、「あ」と同じであることに気づいたりもしました。

woshite.gif

▲ ホツマ文字で「あ」を意味するマーク。


まあ、この

「太陽(太陽系の中心)=4(インド最古の文字で十字形)=あ(日本語の冒頭)」

という問題は複雑すぎて、最近はあまり考えていませんが、過去記事の、

地球は太陽そのもので、その太陽は4であり、かつ日本語の始まりを示すものかもしれない
 2012年03月14日

という記事などにも書いたことがあります。






「究極の完全」であるはずの人類の覚醒を阻んでいるものは何か?

何だか話がどんどんズレてきていて、すでに最初のラエリアンとはまったく関係のない話となっていますが、そちらのことはもうどうでもいいです。

いずれにしても、古代から使われる、シンボルとしての六芒星やスヴァスティカ、あるいは、太陽や、その数字の意味といったことを含めまして、古代から中世のインド、ヨーロッパ、中東などの文化、あるいは神秘主義と日本の古代の「何か」が通じていることを感じます。

上のほうに載せましたスヴァスティカの古代の分布を見ましても、「世界全体に共通する何か」があるのだと思います。

そして、この「世界全体に共通する何か」というのは、つまり「宇宙全体に共通する何か」で、さらに言えば、「人類全体に共通する何か」ということにも発展しそうです。

よく思うのですが、仮にこの世に「陰謀」というものがあるとすれば、その最大のものは、


「人間の真実の力を人間自身に気づかせないようにすること」


だと私は考えています。

私はいつでも「現在の人間は究極的な生命の姿」だと考えています。

そのことを古代、あるいは中世の神秘主義などは伝えていたと思いますし、何よりも宗教はストレートに「神と人間は同じもの」と伝えるものが多いです。

旧約聖書「創世記」の第1章には以下のような記述があります。
日本聖書協会からのものです。


創世記 1章 26節

神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。




中国古代神話の人類創造の女神「女媧(ヌーワ)」も、自分と似せて人間を作っています。

仮に「神がそれ以上ない存在」であるならば、人間(今の人類)も究極の存在であっておかしくはないはずなのです。


しかし、今の人間の状態はどうもそのように見えない・・・。


「何か」に阻まれている。

まだわかっていないことは多いです。たとえば、松果体や脾臓といったような機能が明確にわかっていないものや、 DNA の90パーセント以上が「ジャンク」とされているような状態で、多分、私たちは、私たち人間の機能のすべてを知らない、あるいは、使っていない可能性が非常に高いです。

そこが「神と似せて作られたけれど、全部同じではない」部分ではないかと思いますが、しかし、私たちがすべての機能を使う、あるいは気づく方法がどこかにあるはずです。


つまり、「人類が神と同等の究極の生命となる」何かの知恵か方法か行動が。


多くの宗教も、あるいは、ロシア宇宙主義などのすぐれた科学も、あるいは、森田療法などが導こうとしていた「悟り」への道も、あるいは他の「多くの何か」にそれはえがかれているのかもしれません。

何かによって「それを知ることが阻まれている、あるいは、隠されている」のだとすると、「神の産んだ欠陥生命」として私たち人類はこれからも生き続けなければならないわけで、現代の人類がそれを知ることができるかどうかに地球の未来のすべてがかかっていると思えて仕方ありません。

神秘思想家で哲学者のルドルフ・シュタイナーは、『我が人生の歩み』という自伝の中で、世界が現在と同じように「物質だけを見て考える世界が続いた場合」として、以下のように記しています。


自然科学の時代は、人間および民族の生命に及ぶ影響において凋落を意味している。人類がこれから先も発展していくためには、精神的な側面からのまったく新しい価値観が必要とされるだろう。

これまで人間の精神が辿ってきたのと同じ道を、これからも歩み続けるとしたら、それは退化につながることになる。




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2014年05月07日



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Original Panic Away より。





ふとした瞬間に自分が今でも生きていることに驚いたり

先日も、

世界中で蔓延する「謎の病気」の裏に見える太陽活動と白血球の関係
 2014年05月04日

などという記事を書いていますが、私は医療関係者でも何でもないのに、病気関係の話題をよく記事にします。

これは思えば、私自身の人生が病気と深く関わっていたからで、肉体的のほうでも精神的なほうでも「健康」とか「健全」とは最も程遠いタイプの人間でした。

「でした」というか、「です」ですね。


先日の、クレアの日記の、

六歳の春から何十回目かの春
 2014年04月29日

の中に、私の幼少時代の病気のオンパレードのことを書きました。

2歳の頃か、3歳の頃だったか、私の親は、医者から「この子は6歳まで生きられるかどうか」というようなことを言われて、親は意地になったそうです。

「医者がどう言おうと、そんなに早くは死なさないぞ」と。
そう思ったと、ずいぶんと後の私が大人になった頃にそう言ってました。

それで私は結局 50歳を過ぎてしまいまして、やや生き過ぎた感もないではないのですが、それでも、その後も、基本的に免疫の弱い少年でした。先ほどリンクしました記事「世界中で蔓延する「謎の病気」の裏に見える太陽活動と白血球の関係」の中に、人間を感染症から防ぐ重要な役割を担っている、白血球の約半分をしめる「好中球」というものの話が出てきますが、今思ってみれば、そういう免疫に対抗する力が極端に弱い「欠陥血液」を持った少年時代だった気はします。

なので、幼少の時に医者に言われた「この子は6歳まで生きられるかどうか」という言葉はある意味では正しかったような気さえします。

それほど、いかなる病気にもすぐになりました。

だから本当はその医者の予言通りになるようなタイプの子どもだったのが、何らかの理由で偶然死ななかったということなのだと思います。





中学からはメンタル攻撃も始まり

そして、中学生の後半くらいからは、今度は「自分はメンタル面も弱い」ということに気づき出します。

中学3年生の時、明確な幻聴を学校の授業中に聞いていたことがありました。
それも1度ではなく。

さすがにこれは自分でも、

「あー、オレは身体だけじゃなく、そっちも弱いかあ」

と思ったわけです。

ちなみに、幻聴は、ぼんやりとか、「何となく」聞こえるものではありません。耳の横から誰かが正確に話しかけているように実際に自分に語りかける声が内容を伴って、はっきりと聞こえるのです。

はじめて声が聞こえた(話しかけられた)時は、

「え?」

と思い、すぐ横や後ろを見ても、授業中で声を出してる人などいない。

それが2、3度あった頃から、

「あー・・・これは・・・いわゆる気が狂う前兆なんじゃね?」

と思い、不安というか、自分の将来が狂気の中で終わっていくのなら、何となくみんな普通に思っている「高校→大学→就職」みたいな人生のレールも違うことになりそうだし、

「ちょっと調べてみよう」

と思ったのでした。


ちょうど、中学3年生の時で、受験をする人たちは、当時は塾なんてものは基本的になかったので、学校が終わった後に大勢で市立の図書館に行って、そこでみんなで勉強するという日々が普通でした。

勉強をするのが目的というより、図書館を遊び場にしていたという部分もあります。

いずれにしても、私は受験勉強どころではありませんでした。することがあるのです。私もみんなで図書館に行くところまでは同じなのですが、周囲が教科書を広げて勉強をはじめる中、私はひとり図書館の地階にある「精神医学書コーナー」に毎日おもむきました。

そこで、医学専門書で、( 35年前までのですが)最新精神医学や、あるいは症例の数々を読みました。

「ははあ、オレは将来的になるのはこれかなあ。いや、しかし、こっちもある」

などと、自分の暗い将来を楽しく勉強していました。

ちなみに、その「精神医学書コーナー」のある地階には、「犯罪心理学コーナー」とか、「宗教関連書籍コーナー」などもあり、精神医学の勉強に疲れた時は、それらの本も読んでいました。その図書館で、歴代の様々な犯罪を知りましたし、新興宗教の歴史なども勉強しました。たとえば、中山みき(天理教)とか、出口なお(大本教)とか、谷口雅春(生長の家)の『生命の実相』なんかも少し読んだ記憶があります。

大本教は、出口王仁三郎が有名ですけど、「ある日、狂気に憑かれたように、コトバを出し始める老女」という光景のほうが何だか迫力を感じて、「宗教ってすごいなあ」と思ったものでした。

何の話だかわからなくなりましたけれど、いろいろと「自分の将来の狂気の様相」を思い浮かべていた中学生の私でしたけれど、実際にはそれから約6年後に私が迎えた病気は「不安神経症」というものであり、そして、症状としての「パニック障害」というものでした。





森田正馬博士の「あるがまま」を知った 24歳の春

そもそも、神経症だとかパニック障害だとかいっても、実際には「何だかよくわからない」という方が多いと思いますし、それが普通だと思います。自分のかかっていない病気の苦痛を知ることは無理ですし、知ろうとする必要もないと思います。

それでも何とか文字で説明したいなあと思いまして、日本には「森田療法」というものがあるのですが、この森田博士のご自身の体験を少し抜粋してみようかと思います。

森田療法というのは、森田療法 - Wikipedia によりますと、


森田療法とは、1919年(大正8年)に森田正馬(もりた まさたけ)により創始された神経質に対する精神療法。

神経質は神経衰弱、神経症、不安障害と重なる部分が大きい。また近年はうつ病などの疾患に対して適用されることもある。




で、「治療法」とありますが、薬を使うわけでも、西洋医学的治療をするわけでもありません。説明は難しいですが、森田博士の言葉をお借りすると、

「あるがままでよい、あるがままよりほかに仕方がない、あるがままでなければならない」

という状態を目指す治療法のことです。

しかし、ここは森田療法のことを説明する場ではないし、私も経験したことがないですので、とりあえずそういう世界でも類を見ない優れた神経症の治療法が日本にあり、それを生み出したのが森田正馬さんという方なのですが、何より、森田博士自身が若い時に非常に重い、今でいえば、神経症でありパニック障害をわずらっていたのでした

大正 13年に森田博士が書いた論文『神経質の本態及び療法』から抜粋します。



森田正馬『神経質の本態及び療法』 1924年より。


余は十四歳で中学に入学したが、十六、七歳頃から頭痛持ちになった。時々心悸亢進が起こり疲労性で、病を気にするとか、いわゆる神経衰弱の症状を持っていた。

余はまた、中学五年のとき重い腸チフスにかかり、その軽快期に一日自転車乗りのけいこをして、その夜突然、心悸亢進、全身震せん、死の恐怖の発作におそわれ、医者を招いて注射をして、ようやく落ち着いたことがある。

その後その発作は、年に数回、多くは月に二、三回も起こって、大学卒業前までもつづいた。これが余のいわゆる精神性心悸亢進症であった。




この中の、

突然、心悸亢進、全身震せん、死の恐怖の発作におそわれ


というのは、今でも非常に一般的なパニック障害の症状です。

今から数十年前の学問分類ですが、「不安神経症」の症状とは、


・理由のない不安発作
・心臓の不安
・自分が精神異常を起こすのではないかとの不安
・発作的的めまい症状
・発作的呼吸困難
・発作的に卒倒しそうな不安


(鈴木知準著『神経症はこんな風に完治する - 森田療法の道』 1986年より)



となっています。

これらの中の一部分、あるいは「ほぼ全部」が突然襲ってきます。

上の中で、私の場合で最も強かったのが、

・自分が精神異常を起こすのではないかとの不安(狂ってしまうのではないかと恐怖する)

・卒倒しそうな不安


ここから、

このまま死ぬのではないか

という極大な不安に発展してしまうと、普通はもうどうにもなりません。
まさに「パニック」と陥るわけです。


私がこの状態にはじめて陥ったのは、21歳の時でした。

森田博士は、

発作は、年に数回、多くは月に二、三回も起こって


と書いていますが、私も同じでした。

そして、短い期間の寛解(よくなったような時期)があり、油断していると、またやってくる。

「いよいよ、ダメかなあ」

と思い始めたのは、23歳の頃で、その頃は演劇なども始めていたのですが、度重なる発作と、「歩くとき、周囲の風景がグルグルと回り、ふわふわ雲の上を歩いているような感じ」が常につきまとうようになり、日常生活もキツくなってきました。

「死のうかなあ」

と、それほど悲観もせずに考えるような日々も出てきました。
そして、念のためにいつでも死ねるように、部屋にロープを常備していました。

その後、近所の心療内科に飛び込んで、そこで処方された抗不安剤が劇的に効いたことによって、とりあえずはよくなったのですが、しかし、今度は「薬がないと不安だ」というようなことになっていきます。

そういう生活の中で、ある日、古本屋で見つけた本が鈴木知準さん(すずきとものり 1909年 - 2007年)という方の『神経症はこんな風に完治する - 森田療法の道』という本でした。

suzuki-chijun.jpg

▲ 新刊は存在しないでしょうが、古本は Amazon にもありました。


この鈴木知準さんという人も学生時代にひどい神経症で、そして、1927年(昭和 2年)に、森田正馬さんのもとで森田療法を実践し、良くなった経験を持っている方で、その後、自分が人を治す立場となった方です。

この本の中に、

「あるがまま」

という概念が書かれていたのですが、これについて私はうまく説明する表現を持ちません。

たとえば・・・・・上にあるように神経症の発作や症状は「苦痛そのもの」です。
それを「あるがままにする」という意味なんですが、つまり、

・苦痛に抗おうとしない
・抵抗もしない
・流されもしない
・その状態がただ存在していることを自覚する
・当然とも、不当然とも思わない


というような意味なんです。

これは「苦痛を受け入れる」という意味ではないです。

苦痛がそこにはあるわけで、「その状態を認識して、あるがままにしておく」というような・・・いや、しかしうまく説明できていないような・・・。

いずれにしても、私はその「あるがまま」のフレーズを読んだ時から、少し楽になって、「苦痛から脱したい」とする気持ちが少なくなりました。その頃から、次第に状態は変化していって、そうですね。その何ヶ月後からの約 10年くらいは本当に病気のことを忘れてしまっていました。

ただし、やはり(太陽活動とも関係しているのでしょうけれど)10年程度のスパンで症状が出ます。
この2年ほどはあまり状態は良くないです。

そして、長い間、調子が良かったため、この「あるがまま」を忘れていた感もあります。

それを最近思い出しのでした。





肯定も否定も抵抗も迎合も議論もしない人間となって

この「あるがまま」の概念を知ったことは、私の人格形成にも大きく影響を及ぼしたと思っていています。

たとえば・・・私の書いてるこのブログも、「私自身の意見」というのが見えにくい部分があると思われる方も多いかと思われます。

それはですね、私は出来事に対しても、さまざまな考え方や主義主張に対しても、

「存在そのものは認めるけれど、その存在に力を加えたり、そこから力を加えられたりしない」

という生き方を長くしているから、「主義がない」のです。
(ただ、この傾向は若いときからありました)

あれはあれだし、これはこれだし、それらは実際にある。

あの意見やあの考え、この意見やこの考えは、それらはある。

それらに対して、

・抵抗しない
・流されもしない
・迎合しない
・否定しない
・肯定しない


というような部分がわりと強いのです。


とはいえ、この1、2年はこの数十年の中でも一番状態の悪い時だということは事実です(やっぱり太陽活動と関係しているのかなあ、という思いはかなり強いのですけれど)。だから、先日、本棚の中に鈴木知準さんの『神経症はこんな風に完治する - 森田療法の道』を見つけて、 25年ぶりくらいに開きました。 25年経っていますが、まだ完読していません。「あるがまま」のくだりを読んで満足してしまいまして、後は読んでいません。


ちなみに、神経症やパニック障害になったばかりのような方は、途方に暮れる方も多いでしょうが、最初のうちは、

多少の西洋医学(抗不安剤など)は最初の補助として重要

ただし薬の飲用が長期化すると問題があるので、補助としての薬に効果があるうちに、何らかの「少しでもあるがままに近づく方法」を考える

というようなことだと思います。

そして、正式な療法以外の「変な」治療法とされているものとは関わらないほうがいいです。
そういうものでの悪化例を私はずいぶん知っています。





悟り、あるいは正等覚(さとり)のこと

ところで、森田療法 - Wikipedia の「全治と悟り」というセクションに次のような記述があります。


森田正馬は神経質が「全治」した状態に対して「悟り」という言葉を用いており、その体験者として釈迦や白隠の名前を挙げている。また鈴木知準は神経質の「全治」と禅の「悟り」は同じ心理状態と考えており、宇佐玄雄は近い状態と考えていた。

ただし森田正馬自身は神経質の「全治」と禅の「悟り」は全く違うと述べている。




というように何だか大変なことになっているようなのですが、しかし、「悟り」という言葉はちょっと合わないかもしれないですが、神経症やパニック障害を含めて、その苦痛に対して「あるがままになれる」、あるいは「あるがままになろうとするこころみ」というのは、

すべての精神的苦痛を自分の中にひとつにした

ということか、あるいは、

完全な狂人となってしまった

のどちらかだとは思います。

私はとてもそのどちらの状態にもなっていませんが、「何とかと何とかは紙一重」というような言葉もありますけれど、そんなものなのかもしれないとも思ったりすることがあります。


しかし、病気は悪いことだけではなかったことは明白でした。

若い時の(あるいは今でも)不安神経症の苦痛や経験は、私に舞台などの表現をさせ、そこで知り合った、ほんの何人かの人たちだけが私の今に至るまでのオフラインでの友人で、今後も彼ら彼女ら以外の友人はもうできないし、作らないと思います。

それに、「生き方」、「考え方」、「この世に対しての価値観」。

そのようなものが、どんどんと変わっていき、そして、病気はともかく、考えてみると、人生そのものは比較的楽に生きてこさせていただいたという感じはあります。このあたりは、誰に感謝していいのかわからないですが、神様なら神様でもいいですが、かなり感謝したい部分です。

ところで、先ほど、「中学生のころ、図書館で谷口雅春の『生命の実相』を読んだこと」を書いていますが、最近、やはりそれを思い出しまして古本で買ったんですよ。

調べると、なんと全 40巻もあり、買ったのは第一巻だけですが、ちょっと読むと、この第一巻には「健康」のことがえんえんと書いてあります。そこに書かかれてあることが正しいかどうかはともかく、興味深くはあり、そして、そこに「森田博士の理念と共通する何かのもの」を感じた次第です。


それは具体的には「さとり」という概念が共に出てきます。


長くなりますが、森田正馬博士の『神経質の本態及び療法』 と、谷口雅春の『生命の実相』からそれぞれ抜粋して今回は締めたいと思います。

森田正馬さんのは、上のほうに抜粋した部分の続きからです。
「神経衰弱」などとあるのは、現在でいう神経症などと置き換えていただいて考えていいかと思います。


森田 正馬『神経質の本態及び療法』 1924年より。

余は特に高等学校と大学の初期との時代はほとんど常にいわゆる神経衰弱症に悩まされた。その前に余は十八歳の時に、東京に来て、麻痺性脚気に罹った事がある。東京帝大に入学してからは、常に脚気を恐れていた。

入学後間もなく、大学の内科で診察をうけて、神経衰弱といわれ、その後さらに脚気の合併と診断され、一年間の大部分は薬剤と離れなかった。

然るに余は、その一年級の終わりの時に、ある動機から、余の心身に一大転機の起こる機会に遭遇した。それは余が必死必正の心境を体験する事を得た事である。

それはその一年間、いわゆる病気のために、ほとんど学科の勉強はできず、すでに試験間際になって、その試験に応ずる事のできないような有様であった。折しも国元から二ヵ月も送金がない。

余は人をうらみ、身をかこち、やるせない憤怒の極自暴自棄になった。よし、父母に対する面当てに、自ら死んで見せようと決心した。

後に考えれば、まことにおとなげない事であり、他人からみれば、きわめて馬鹿げた事であるけれども、自分自身のそのときにとっては、真剣である。薬も治療も一切の摂生を放てきした。

夜も寝ずに勉強した。間もなく試験もすんだ。成績が思ったよりも上出来であったときには、いつの間にか、脚気も神経衰弱もその行方がわからなくなっていた。国元から送金もあった。

余の今までの神経衰弱は実に仮想的のものであった。もとより、脚気でもなかった。このことがあってから、余の頭痛持ちも、その後いつとはなしに忘れるようになった。




この時に、森田博士は、

自分の神経症は仮想的、つまり「実は存在していないもの」だった

ことに気づくわけです。

さて、そして、『生命の実相』の「キリストの超健康法」というセクション。


谷口雅春『生命の実相』第一巻「キリストの超健康法」 より。

現代の生物学はキリストが教えた超健康法とはぜんぜん反対であります。

それは宇宙はまず「生命」という偉大なものがあって人間の脳髄や身体の諸器官を作ったということを忘れてしまい、人間の精神力を脳髄の分量で測ろうとしたり、人間の生命力を体重で測ろうとしたりしているのであって、生命とは物質の化学的一作用なりという仮定のもとに、あらゆる養生法と治療法を出発させているのでありますから、物質が生命におよぼす力を非常に恐れている。

それでほんらい自発的、能動的、創造的であって物質を支配するべき生命の本質を忘れて、ほんらい無力な他動的受動的な物質の法則の奴隷になろうと努力しているのであります。

医学がますます発達し、いろいろの健康法が数えきれぬほど案出され、それによって癒やされる、あるいは癒やされるように見える病気もたくさんあるにもかかわらず、病者の数がずんずんふえてゆきますのは、医学というものが一方では病気を治しながら、他方では人間の霊的自覚を奪ってゆき物質のまえに人間を無力にしてしまいますから、差し引き計算してみると病気を治す数よりも、病気の起こりやすい精神状態を伝播する範囲の方が広いからです。




そして、続いて、西洋医学で、病気を薬などで治すことについて以下のように語っています。


(たとえば胃が悪い時などに)物質的方面にその原因を求め、その治療にも物質的方法を用いようとするのであります。こうしますと、それでたとい病気が一時的に回復しましても、おおむねそのため将来において病気にかかりやすい素地を養成します。

なぜなら、物質的方法によって病気が治ったということから出発して、生命は物質によって生かしも殺しもできるものなのだという誤れる暗示を受けることになり、自己の生命の霊妙さの自覚が失われてしまうからであります。

自己の生命の霊妙さの自覚 − これすなわち仏教でいえば正等覚(さとり)をうることであり、キリスト教でいえば神の子としての自覚をうることであり、古神道でいえば「尊(みこと)」としての大自覚をうることであります。

この大自覚に達することがあらゆる宗教の目的 − いな、人間そのものの目的であり、この大自覚に達すれば、自覚した程度にわれわれに宿っている生命力は発現するのでありますから、キリストのように他人の病気を一言で治したり、釈迦のようにいろいろの神通力を発揮することもできるわけで、むろん自分が病気で苦しんだり、生活難で苦しんだりするような、不如意不自由な状態は消滅してしまいます。





まあ、健康に関して、こんなにうまく行くものではないとは思いますが、実際に身体の病気でも、「気」からのものは非常に多く、それは、薬剤の試験をする時に「プラセボ」という偽薬(薬効のない粉とか錠剤)との比較をおこないますが、「薬がなくても治っちゃっている人」は、どんな薬の試験でもかなり多いです。

たとえば、

・治療なしで治った 20人
・偽薬で治った 50人
・本当の薬で治った 70人


なんてデータもよくあり、偽薬でも結構治ってしまう。

暗示の力は身体にストレートに影響します。

これをさらに拡大解釈していくと、「薬のない治療が可能なケース」は、身体の病気でもメンタルの病気でもかなりあり得るとは思っています。

今後の医学がいい方向に行くとしたら、そのような方向だと思うのですが。

というわけで、今回は単なる日記的な記事なのに、異常に長くて申し訳ありませんでした。

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2014年04月28日



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▲ 春の受勲で、紫綬褒章を受章した漫画家のしりあがり寿さん。『弥次喜多 in Deep 』の作者です。2014年4月28日の朝日新聞デジタルより。




この世界は存在しているのか? を考えるキッカケを与えてくれたしりあがり寿さんの漫画

このブログのタイトルの In Deep というのは、私が漫画家のしりあがり寿さんの『弥次喜多 in Deep 』という作品がものすごく好きで、そこから拝借していたことは何度か記させてもらったことがあるような気もします。

世界各地で台頭しつつある「宇宙は『ひとつ』(人類も他の存在も)である」という概念
 2012年01月10日

という記事では、


私自身、

すべてはひとつであり、実際には現実(この世)は存在しない

という概念は、昨年の後半くらいからの私のグリグリの概念で、今では完全にそう考えています。




と書いたしばらく後に、


考えてみれば、このブログに、「 In Deep 」というタイトルをつけた時から、「リアルとは何か」という命題と共存していくことになるような感じは予想されたような気もいたします。このブログのタイトルの元となった、しりあがり寿さんの『弥次喜多 In Deep 』という漫画の最終的なテーマは「この世は存在しないかもしれない」でした。



登場人物たちは常に「リアルとは何か」と自らに、そして、他人に問い続けて、江戸の時代を生き続けます。

そして、『弥次喜多 In Deep 』のストーリーは、「現実は存在しないからこそ、自分の足で前へ進んで現実を作っていく」というところで終わっています。つまり、


「現実が存在しようがしまいが、私たちは日々、前や後ろに進んで、そして、感情を表して、物理的な動きと観念的な動きを提示し続ける」


ということ。

それが「この世」であり、「人間のおこなうこと」だと。


そして、久しぶりに、今日、上のしりあがり寿さんのニュースを見まして、ブログ名に In Deep とつけた以上は、「弥次喜多 In Deep」で描かれる一種難解なテーマを自分なりに解釈していくこと、つまり、「この世とは何なのか」ということを考え続けることに意味があるのだと思っています。

しりあがり寿さんが春の褒章でもらったのは「紫綬褒章」というのを受章したそうで、どういうものかはよくしらないですが、記事によると、震災後はボランティアなどもしていたようです。上の朝日新聞の記事より。


「へただからこそ」 褒章受章のしりあがり寿さん

紫綬褒章受章 漫画家・しりあがり寿さん(56)

「まさか自分が、と。マンガ界の端っこでこそこそイタズラしてたのが見つかっちゃった、みたいな」。柄ではない、といった風に照れている。

3・11直後、震災をテーマにした作品を集中的に発表した。朝日新聞の夕刊マンガ「地球防衛家のヒトビト」では2011年5月6日付で、がれきの山だけが続く4コマを掲載した。ボランティアとして現地を目の当たりにし、「あれ以外描けなかった」。




まあ、私自身はそういう国家などからもらう賞とかに関しては否定的な人ではあるんですけれど、それでも、しりあがり寿さんがそんなふうに認められているのだなあと思うと、それはそれで嬉しいです。

かつて、

千年ムスコが気づいた「何も存在していない」現実
 クレアなひととき 2011年07月26日

という記事で、『弥次喜多 in Deep 』のラストについて書いたことがあります。


yajikita-in-deep.gif

▲ 千年ムスコという名前の少年。この長編漫画のラストに、ただひとり、「存在しない世界」へと旅立つことになります。目の前に現れたすでに江戸の世の中で神格化されていた弥次さんと喜多さんを前にこの台詞を言います。


上の千年ムスコがこの長編漫画のほぼラストで言う、

「まさか、弥次さん喜多さんまで・・・ホントウはいないんじゃ・・・」

という台詞は予想以上に重い台詞で、漫画のこの時点でのストーリーでは、弥次さんと喜多さんはすでに抽象的な意味での宇宙となっています。

つまり、「弥次さんと喜多さんが神として存在してこその世の中」という意味となるわけで、「その時代の宇宙はすべて弥次喜多から始まった」ということ。

その弥次さん喜多さんの存在を「ホントウは存在しないのでは」と疑いを持つことは、すなわち、この少年は、


宇宙って存在しないのでは


ということに気づいてしまったわけで、そして、それはさらにいうと、


この世には何も存在していないのでは


ということにも気づいてしまったことになります。

そして、その「存在しないかもしれない世界」を知ってしまった少年の旅立ちに、弥次さん喜多さん(のようなもの)は、「言葉だけで」こう言います。


そりゃあ不安だろうよ
だけどな・・・その不安をな ぐっとこらえて
ボウズがそこに「ある」と思ったらな
そのちっちゃな足を・・・
そう ぐっと・・・
そうやって前に出していくしかねえんだよ
そうやって・・・
ぐっと・・・


自分で「ある」と思ったら、怖がらずにそこに踏み出す。
そうすれば、「世界は作られていく」と弥次喜多は少年に告げるのでした。


そして物語は終わります。



正と負の宇宙

それと、弥次喜多 In Deep では「幸(さち)」というストーリーが大好きで、これは正の宇宙に対して、「負の宇宙」が作られる瞬間というのか、あるいは、生の宇宙に対して、「死の宇宙」が作られる瞬間というのか、そういうものを描いた(と、私自身は解釈しています)ものでした。

sat-1.gif

▲ 弥次喜多 in Deep 『幸』より。


子どもの時から不幸な少女が、死んで山に捨てられた後、「死後に受胎する」ところから始まる話(お父さんは弥次さん)で、しかし、死者である彼女が赤ちゃんを産むことは、現在の宇宙の原則と相反してしまい、「死者の幸が赤ちゃんを産んだ瞬間にこの宇宙は消滅する」ということになり、そのため様々な「形而上的な存在たち」が彼女と赤ちゃんの存在を消そうとします。

しかし、彼女のあまりにも子どもを産みたいと熱望する姿勢に心をうたれた「形而上的な存在たち」は「現在のこの宇宙ではなく、別の宇宙を作り、そこで子どもを産む」という選択をし、そして、新しい宇宙が生まれます。

その「死の宇宙」で彼女は生まれて初めて「幸せ」を手にするのでした。





「存在しない」ことを成立させるために必要な「存在していること」

思えば、「幸」の「ふたつの宇宙」この「世界はふたつの相反するもので出来ている」ということもよく思うことでした。

とはいえ、

「この世は存在しない」

ということと、

「世界はふたつの相反するもので出来ている」

ということは何だかとても噛み合わない気もするのですが、しかし、そうでもないということにも気づきます。

・存在している
・存在していない

という対立図式も「ふたつの相反するもの」だからです。

過去記事の、

「暗黒物質は存在しないかもしれない」 : 王立天文学会の総会で発表された科学界にとっては衝撃的な新学説
 2014年02月13日

では、「 MISHIMA 」という三島由紀夫を描いた 1980年代のアメリカ映画の中にある三島由紀夫の回想の台詞として、下の台詞を抜粋しました。

MISHIMA(1985年)より

子どものころ、
私はすでに世界がふたつの相反するもので出来ているのだと感じていた。

ひとつは世界を塗り替えることのできる言葉。
もうひとつは言葉とはまったく関係のない現実の世界。

世の常の人は、体が先にできて、そして、言葉を覚えるのであろうに、
私の場合は、言葉が先に来た。


これは、

・言葉



・現実の世界

というふたつでこの世はできているということを言っているわけで、つきつめれば、聖書の、

「はじめは言葉だった」

ということと同じような概念に突き進むこともわかります。
つまり、「はじめに現実の世界はなかった」と聖書は言っていると解釈して構わないかと思います。


あるいは、前ローマ法王ベネディクト16世が述べた、


「人間はなぜ存在しているのか、何のために存在するのか。そして、なぜ何も存在しないより、何かが存在したほうがいいのか」

(2010年9月23日の過去記事「なぜ何も存在しないより、何かが存在したほうがいいのか - ベネディクト16世」より)



という大変に今でも心に残る言葉も思い出します。

ベネディクト16世は、「この世が存在しないという選択」について知っているということに気づき、慄然としたものでした。


そして、これは、最近いろいろとご紹介する焦臭い「大量死」の事件のことや、あるいは、「それが今後も続くかもしれない」というようなことを記事にすることがありますが、それらの意味と通じるものがあるのです。


つまり「生」と「死」です。


この「生」と「死」、あるいは「生者」と「死者」ということについて、私たちは本来なら、これまでの価値観とはまったく違う考えで未来に進もうとしない限りは、いつまで経っても、私たちは、

「死に脅迫され続ける生活」を続けていかなければならない

ように思うのです。

これは、過去記事の、

私たちに残されたかすかな「破局の回避」の可能性のために(1)
 2013年03月24日

などで書きました、ロシアのチジェフスキー博士の著作『ロシアの宇宙精神』にある次のフレーズ、


生きた物質、生命の宇宙的な性質、そして生物圏が精神圏へ移行するという問題に取り組んだ創造的な思考は、生命の生み出した最高のものである人間の課題について考えようとする思想伝統につながっている。



というものともつながることで、少なくともロシア宇宙主義では、今後、

人類は精神圏へ移行する

というようなことがロシアでは学問として言われていたわけです。
「精神圏」へ移行した時の「生」と「死」とはどんな意味を持つのか。

それは移行してみければわかりませんし、そもそも、そんな移行なんてことがあるのかどうかも私にはよくわかりませんが、そのようなことも、漫画『弥次喜多 in Deep 』の中には、「要素」として、絵やストーリーのそこら中に散りばめられています。

いずれにしてましても、この『弥次喜多 in Deep 』という作品が、私にとっては、創世記のような役割を果たしていたわけでした。そんなわけで、受勲されたついでといっては何ですが、感謝の言葉を書かせていただいた次第です。

ちなみに、はじめてしりあがり寿さんの漫画を読んだのは、30年くらい前だと思いますが、『エレキな春』という単行本でした。それ頃から実際に「春という季節も 30回くらい経験しているのだなあ」と思いますが、それが多いのか少ないのかはよくわからないです。


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