2013年05月08日



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富士山はもう日本人を守らない



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最近、富士山が世界遺産に登録されるということが確実となったニュースを知りました。

ただでさえ最近ドヨンとしていた気持ちがさらに落ち込んだという感じはいたします。

どういう風にこの「ドヨン」とした感じを書けばいいのか・・・。


たとえば・・・どこかの国の、名も知らぬ数十人規模の住む小さな村に「神様」としてまつられている石コロか何かがあるとする。それはその村にずっと精神的な伝承と共に伝えられてきて、それこそ村の守り主であると考えている人々にとっては、世界で何よりもそれが自分たちの生活と存在にとって大事なものであると思います。どんな雄大な世界遺産よりも。

でも、それを「世界」に持っていって、何か世界遺産でも国宝でも何でもいいですけど、それらと並べて、

「さあ、このふたつの価値を決めて下さい」

というようなことになれば、そのどこかの村の神様は「価値のないもの」として人前に晒されることになってしまうと思われます。

そうならないためにはどうすればいいか。
「自分の神様」に辱めを受けさせないためにはどうしたらいいか。

それは「比較させないこと」であり、つまり「関係ない人前に出さない」こと。
それを神様だと思っている人以外の前には決して出さないことかと。



先日、チリの山奥にある「地図に出ていない神秘の赤い湖」というものの記事をご紹介したことがありました。

地図には載っていない「悪魔の血の湖」のあるチリの町には神の名前がつけられて
 宇宙の中の地球と太陽系の記録 2013年05月07日

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この場所が地図に載っていない理由は、標高 3700メートルという把握しにくい場所にあるということ以上に、チリのこの村の地元の人たちが「古来から秘密にしてきた」ということがあったようです。

その理由は、「この赤い湖は悪魔の持ち物であり、その水にふれたものには呪いがかかる」という伝承が長く伝えられてきたそうなのです。

多分、「だから、この湖のことは知らせてはいけない」という「外部者への配慮」だったのかもしれません。


しかし、この湖の存在も明らかとなり、上のような観光系サイトにも載り、たとえば、訪れた白人観光客は下のような真似をして写真などを撮っています。


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「水にさわると呪いがかかるから」と村の人が隠してくれていたのに。


白人の人たちにしてみれば、「呪いとかプッ、ワロス。( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \」ということなのでしょうか。

まあその考え方はその考え方で合理的で別にいいと思いますけれど、しかし、多分、上の人が自分の国の何か世界遺産のようなものをぼろくそに言われたり上のようなふざけた写真を外国人に撮られれば、烈火のごとく怒りそうです。



いずれにしても、「神様」とか「悪魔」の基準さえも、今では人種とか国境とか言葉とかの壁で区切られてしまっている。

「言葉や歴史などの前提条件がないと崇められないもの」ならば(自然と崇拝したくなるようなものではないものという意味)なら、つまり、他の価値観の人々には理解されにくい「聖なるもの」ならば、隠しておくということでもいいのだと思います。上のチリの人たちのように。

少なくとも、それを神様と思ってはいない人たちに売り渡さない。





世界遺産になった「聖なる山」の行く末

しかし、世界遺産のうちのいくつかは、どうにも、グローバルという名のもとの「白人価値観的支配カルチャー世界」に売り飛ばされてしまった感じがします。

そして、ついに富士山も。

「富士山を神様とも何とも思っていない人たちに『それに神様の価値があるかどうかの判断を委ねる」という、日本の歴史が始まって以来の大惨事となっています。


山というのは、世界各地でその国やその地域での「ご神体」のような存在となっていて、それは「その地にあるから」そうなっているものではあるはずです。そこに見えるから。

以前の記事、

北京の空に現れた「終末の雲」や富士山のレンズ雲から思う世界の7つの「聖なる山」
 2012年06月20日


に出てきたアメリカのシャスタ山などもそうですが、崇められている山にはそれなりの伝説や「精神的な伝承」が存在しますけれど、それは知識としてではなく、「見ているだけでも伝承が生まれるような存在だったから」だとは思います。




▲ シャスタ山のレンズ雲。

世界には「7つの聖なる山」と呼ばれるものがあって、


・シャスタ山 (米国)
・富士山 (日本)
・マチュピチュ (ペルー)
・シナイ山 (エジプト)
・チョモランマ / 英名エベレスト (ネパール)
・キリマンジャロ (タンザニア)
・セドナ (米国)



がそう呼ばれているものですが、世界遺産の登録リストで調べてみますと、上の中で世界遺産になっているものは、

・マチュピチュ
・キリマンジャロ

だけです。

世界的な聖なる山ともいえるシナイ山もチョモランマも世界遺産ではありません。

シナイ山はその麓に建つ聖エカテリニ修道院が世界遺産となっていて、チョモランマは麓のネパールのサガルマータ国立公園が世界遺産となっているようですが、山そのものは世界遺産ではありません。



宗教都市だったとして捉えられているマチュピチュは、便宜上の理由以上に、「外来からの人を遮断したかった」という理由は存在していたであろう古代都市だったはずですが、今では誰でもかれでも観光地としてやってくる。その地域の人じゃない人たちが。その山の神様なんてどうでもいい人たちがどんどやって来る。

どんどん神の領域に土足で入ってくる。


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▲ マチュピチュ。



そういう場所はもはや「神は消えた場所」となっていくはずです。
認識されない背後の神。
自分を好きではない集団から神々は逃げるはずですので。


そこは死んだ場所。
文字通りの廃墟。



そしてそれが未来の富士山の姿になりそうです。


神が消えれば山はただの地質的盛り上がり。


まあ、外国人にとってはその国の神様が消えることなんて関係ないですしね。

実際、アメリカのふたつの聖なる山のシャスタ山もセドナ山も世界遺産ではないです。まあどちらも観光地ではありますけれど。



▲ アメリカのセドナ山。






単一どころか完全なる多様民族 DNA からなる日本の人々


山は過去の地殻変動の証でもあり、たとえば富士山なら、そこに富士山のような山が出来た時の地殻変動と共にその周辺も形成されていき、日本人の住む土地がそこに出来た時期ともリンクする話でもありそうです。なので、山がその土地の固有の神様世界全体の神様ではないということ)であることにはそれほど違和感のある話ではないようにも思います。


もっとも、「日本人」といっても、最近の遺伝子解析で、日本人の根源はまさに「バラバラ」であることが次第にわかってきています。

下の表は、国立科学博物館人類史研究グループ代表の篠田謙一博士という方が書かれた『日本人になった祖先たち』という NHK ブックスからの抜粋です。


dna-j2.jpg

ハプログループという言葉が表に出てきますので、 Wikipedia から抜粋しておきます。


ハプログループ

単一の一塩基多型変異をもつ共通祖先をもつような、よく似たハプロタイプ(生物がもっている単一の染色体上の DNA配列のこと)の集団のことである。



詳しいことはともかく、上の表の意味するところは、「日本人には、それぞれ違う祖先の DNA 配列のグループがこれだけ存在する」ということでもあります。

もちろん日本だけではないですが、日本も、極めて「多祖先民族」であることが DNA 上では非常に明らかになりつつあります。

私などはこれを見て、

「日本人って、DNA を見ると、そのまま世界民族だよなあ」

などと思ってしまうのですが、いずれにしても、


日本人は単一民族なのではなく、八百万(多数)からなる民族

というように、日本の神様と同じように考えたほうが合理的な感じがします。


そのような本来はバラバラな DNA を持つ人類同士の大きな接点が、日本語という五音の母音のみからなる類い希なる無駄のない言語であり、また、他の国の人たちが食べ物として見ないような、海の海草や土の中の根っこを食べてきた特異な食べ物文化の下、少しずつ「日本人という価値観」ができあがってきたのだと思います。

「はじめに言葉があった」というたとえを出さなくても、言語はある程度、その言語集団の性質を決める部分はあるように私は思っています。そして日本語というのはいろいろな意味で貴重な言語だと思います。基本的にはその言葉の下での価値観で人間性が培われてきた。

国家の引いた国境だとか権益だとか、そういうものとは関係なく、日本人は存在したはず。


でも、この 1500年間で消え続けてきたその「日本人」という概念の最終的な最後がやってきたような気も最近はして、それで最近の私は落ち込んでいるのかもしれません。

ちなみに上にある「 1500年前」というのは、西暦535年を境にして、日本に外国文化が流入してきた時のことで、過去記事の、

ウイルスの流入の繰り返しでDNAの進化をなし得てきた人類をサポートする「宇宙と火山」(2)
 2012年09月24日

に少しふれています。

リチャード・キースという英国の作家が、著作で、


五三〇年代に気象異変と伝染病をきっかけとして始まった動きは、ここに完了した。日本の七世紀初頭は、六世紀初頭とはまったく様相を異にしていた。古代日本は消え去り、近代日本の原型が生まれたのだ。今日の日本という国の起源ははるか昔の、悲劇の六世紀にあったのだ。



と、今から1500年前に、日本から「神が消えていく最初の段階」がありました。

下はその頃の歴史表です。



▲ リチャード・キース『カタストロフィー(原題)』より。


そして、その完成は今なんだと思います。

神というものが何かなど私は知らないですが、何らかを象徴とするならば、それは「そのあたりの木や草や空気すべてが神」という日本ならではの「どこにでもいる大勢の神様」と共に、形としての象徴として「山」や「木」などがあったように思います。

富士山というのも、そのうちのひとつだったはず。

でも、今、その富士山は外国のものになってしまいました。
外国人に優劣を判断させることになってしまったという意味


以前の記事の、

活動を始めない太陽とそこから思い出すウェブボットの「太陽の病気」の記述
2012年05月16日

の中で、あるいは他の記事などでも、


富士山はその構造、爆発指数、記録上の過去の噴火の点で、「危険な火山ではない」ことを私たちは認識するべきです。

富士山は「概念として日本を守っている山」として、つまり、日本の象徴としてのものであるということを意識的に私たち日本人は認識するべきです。富士山が日本人を苦しめる火山であるはずがないと私は思っています。




というようなことを書きましたが、もはやこう言い切る自信はなくなりました


日本から神様が消える前に起きてほしいこともありますけれど、なんだかいろいろと無理っぽい気はします。



最近、こちらに書かれてある、20世紀のスイスの神学者のカール・バルトさんが「ロマ書」というものに記していたという、


「終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという再臨が『遅延する』ということについて・・・その内容から言っても少しも『現れる』はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。

・・・再臨が『遅延』しているのではなく、我々の覚醒が遅延しているのである。終末は既に神によってもたらされている」


という言葉を再び思い出します。


私たちはこの 2000年、単に「終末後の世界を生きてきた」というだけなのかもしれません。

もう(見た目や感覚では)この世は何も変わらない。
変わることができるとしたら、個人の中での変化だけなのかもしれません。




  

2012年04月09日



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今日はうちの子どもの小学校の入学式でした。

私は「学校」と名のつくところに長時間いると吐き気がするし、パニックも出てしまい、それは奥さんも知っているので、子どもの入学式には出席しなかったのですが、学校の門の前まで一応ちゃんとした格好をして(笑)、送りました。

まあ、ちゃんとした格好といっても、私はネクタイを今でも一本も持ってないので、昔のヤクザ映画か、タランティーノのレザボアドッグス(肥満バージョン)かという感じもありますが、それで見送り、その帰りに散歩すると、桜が咲いている。

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▲ クエンティン・タランティーノの傑作映画『レザボア・ドッグス (1992年)』。リンクは日本語予告編です。


「今年はちょっと遅いのかなあ」と、時事のニュースを見ない私は、それでも、これ幸いと道ばたのいろいろなところにある桜の花を見ながら散歩していました。

家のほうに戻ると、小学生の子どもたちがまだお昼前なのに帰宅している。入学式の日は、2年生以上の子たちは、むしろいつもより早く帰宅できるのかもしれません。

先日、この町の「1丁目の新入生歓迎会」というのがあって、私も行ったのですが、そこでは班にわけられていて、私の子どもの班では1年生はうちの子どもだけで、他に数名の近所の子たちがいて、1ヶ月くらいの間はその子たちが、新1年生と一緒に登校してくれるのだそうです。

その、「うちの子の班」にいた、確か小学2年生の女の子がタッタッタッと走っていく。

「明日からはうちの子は、あの子とも一緒に学校に行くんだなあ」

と思うと、彼女の前に走り寄って、「なにとぞ、うちの息子をよろしくお願いいたします」と敬礼しようと思いましたが、それも「ユーマくんのオトーサンは微妙に変態」というような評判になるのもアレですのでヤメて、そのまま歩きました。

その「1丁目の新入生歓迎会」の時には、うちの子どもと同じ班の、やはり小学2年生の女の子が私にいろいろと説明してくれました。

なんというか、子どもにもよるでしょうけれど、今の小学生2年生あたりの女の子は、何だかものすごくしっかりしています。


女の子 「最初のですね、1ヶ月は私たちの班と一緒に学校に行きます」
わたし 「あ、そうですか。うちの子をよろしくお願いします」
女の子 「何か学校のことでわからないことがあったら相談して下さい」
わたし 「えーと・・・僕がですか?」
女の子 「いえ、ユーマくんが」
わたし 「あ、そうですね。はい、よろしくお願いします」
女の子 「そういえば、そこのとんかつ屋のK亭さんは行きました?」
わたし 「いえ、まだ引っ越して日が浅くて」
女の子 「行くといいですよ。大人でも子どもでもおいしいメニューです」
わたし 「はい。今度行きます」


というように、42歳差という年齢の差のどちらが上だか下だかわからないほどしっかりしているというような子たちもいる最近の小学生たち。

まあ、私は、むかし、短い期間ですが、芸能学校みたいなところで演劇の技術指導をしていたことがあって、子役の子たちは上の子くらいの年齢の子たちも多かったですが、芸能界にいるような「特別に優れているように見える子」たちがどこにでもいるというような感じのようです。



最強の破壊液体である人間の胃液

その入学式の日の夜、つまり、今日、家族で食事を取っていたときのことです。

うちの子が当然、青ざめた顔をして、「エビフライの尻尾のところを少し飲んじゃった」といって涙ぐみ始めました。

これは理由があって、2年くらい前だったか、祖母と外食でエビフライを食べていた時に、エビフライの尻尾が喉につまりそうになって大変だったことがあったそうで、それ以来のトラウマのひとつが「エビフライの堅い部分が喉に入る」ことのようです。

私が、「喉に詰まってるの?」ときくと、「ううん」と言う。


わたし 「じゃあ、どこにあるの?」
子ども 「お腹に入っちゃった」
わたし 「じゃあ、大丈夫だよ」
子ども 「だって、あんなに堅いものがお腹に入ったら、お腹は大丈夫なの?」
わたし 「あー、お腹って柔らかい感じがするもんね」


どう答えようかを考えていた時に、私はだいぶん前のひとつのニュースリリースを思い出しました。それは、日本薬理学会のサイトの昔の記事でした。

「胃潰瘍は何故発生するのか?その治療薬は?」 -貝殻からポンプ阻害薬まで-
 日本薬理学会 平成13年10月06日

というもので、これは、私が胃潰瘍で倒れた後に見つけた記事ですが、そこに京都薬科大学の岡部進という教授の文章が掲載されているのですが、そこにこのような一節があります。


胃液の作用は強力で、肉類などの消化などは1-2時間で完了するが、著者らの研究室では、ステンレスも半年以上胃内に放置しておくと消化?される事を観察している。つまり、溶解される。



なんと、胃液はステンレスも溶かしてしまうほど強力な酸なのです。

長い間の医学上での疑問が、「じゃあ、なぜ胃は溶かされない?」ということだったのは言うまでもないですが、それはその上のサイトに出ていますが、主要な要因としては、


・胃の上皮細胞は「粘液」と「重炭酸イオン」を同時に分泌しているために中和される。
・胃粘膜の表面には「燐脂質層」という層があり、酸が胃の細胞に接触しにくい。
・胃粘膜は、急速に細胞分裂が進む組織なので、少々の傷はすぐ修復される。


というあたりの作用があるそう。

私はこの岡部進さんの文章を思い出し、子どもに「台所を見てごらん」と言いました。

そこにはステンレスがあります。
ステンレスという言葉は子どもに通じないですので、「鉄」ということで。


わたし 「あそこに銀色の鉄があるでしょ。あれも、胃には負けちゃうんだよ」。
子ども 「え・・・?」
わたし 「もちろん、本当に鉄なんて食べちゃダメだけど、人間のお腹は鉄にも勝っちゃうの。溶かしちゃうの。そのくらい強いんだよ」
子ども 「あれが溶けちゃうの?」
わたし 「そう。だから、エビの尻尾くらいなんて、あっという間に」
子ども 「あ、そういえば、お腹は痛くない」
わたし 「でしょ? もう溶けちゃったんだよ」(これはウソ)


それで、子どもの顔色は元に戻り、またバクバクとご飯を食べ始めました。



うちの子どもは、これから小学校で学びます。
そこでは、多分ですけど「人間は弱い」ということを学ぶような気がするのです。

しかし、実際には「人間は強い」

(私が「死の真実」を知りたいのも、「人間の強さ」は死で終わらないことを知りたいからでもあります)


以前、子どもに、

「おとーさん、爪ってどうしてあるか知ってる?」

と聞かれて、その答えは幼稚園の先生かなんかに教わったらしく、子どもは、

「指先を守るために体が変わっていったんだって」

と、進化論を語っていました。

私は「へえ、そうなの」と答えつつも、このあたりに関しては、実は本当は極めてシンプルな答えしかないことはわかっているのです。

「指先を守るため」とか「堅い果実を割るため」とか古代人の変な想像上の話を持ち出すようなことではないのですよ。


そうではなくて、単に、「爪がないと人間は困る」のです。
だから、爪がある。

たとえば今から以下のこれをやらなければならない。

シールをはがす。
セロテープの先端をはがす。
缶ジュースのプッシュを開ける。
携帯電話の充電用の小さなゴムのふたを開ける。
机の上にこびりついて固まったノリを取る。
かゆいところを掻く。
・・・・・


爪がないとまったく出来ないことの多さ。

他の動物の爪とは役割が違う。

爪は進化の果てにあると考えるより、「爪がないと人類生活も文明もあり得ないからある」と言うほうが妥当なはずです。


それでも、多分、また小学校で仮に、

「人間の爪はどうしてあるのか」
「人間の髪の毛はどうしてあるのか」
「人間はどうして涙が出るのか」

というようなことに対して、うちの子どもは「何か」教わってくると思います。


それに対しての対峙を考えると、今から、若干憂鬱な面もありながら、楽しみな面もあります。

何が楽しみかというと、

どちらもアリだよ

という答えがあるからです。
そして、子どもが自分が楽しいと思った答えをよしとすればいい。


宇宙は未来も「過去さえも」自由自在だということが科学の世界でも明らかになっているのに、何も、無理して窮屈に考える必要もない。

言葉とか左脳の理解ではなく、「この世は縦横無尽の無限の宇宙」ということでいいと思います。




そういえば、この間、ずーっと私より年下の知り合いの女性がこんなこと言ってたんです。


みんな『良くなる』ということに夢中になりすぎてる

と。

私は彼女のこの疑問に対して、いつか、答えを出したいと思います。

「良くなる」という考え自体に意味がないことを示唆し始めているのが、今の科学であり、そして、変化しつつある多くの人々の感覚だということを。


そんなわけで、変な文章だけで終わってしまいましたが、いろいろなニュースが貯まっていますので、明日からまた書きますね。。

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[子どもたち]に関係する過去記事:

子どものかみさま
2011年03月04日


こどもたち (震災翌日の記事)
2011年03月12日


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[1年前の In Deep ]

2011年04月08日の記事

もはや神も大地も怒らない



  

2012年03月05日



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最近、宇宙のこととかを書くことが多かったんですが、さきほど気づいたら日記みたいなのを書いていました。


同じ街

私が生まれて高校を出るまでいた北海道の岩見沢という町のことです。これまで自分の街のことなど(なんの興味もないので)ネットで調べたこともなかったのですが、今年の大雪のことで何度かこの町のことをネットで調べることがありました。

その中で知ったのは、「どうやら今では、岩見沢という町の本当の歴史は記録から抹殺されている」ということです。


私の父親は真面目な教師でしたが、その父親、つまりおじいちゃんはヤクザで、岩見沢の近くにある栗沢という小さな町のテキヤの親分でした。その9人だか10人の兄弟の末っ子として生まれたのが私の父親でした。その9人の兄弟は全員が勤め人となり、それも、みんな教師とか役人とか裁判官など真面目な仕事ばかりについていましたので、よほどテキヤのおじいちゃんの生き方が反面教師になっていたようです。子どもは誰もテキヤの組の跡を継ぎませんでした。

そういうこともあり、私は父親からも、あるいは、その兄弟たちからもよく昔のいろいろな「岩見沢の実体」の話を聞いていました。

岩見沢というのは北海道で最初の鉄道の中心となった町で、岩見沢を起点として北海道各地に交通網が広がることになりました。そんな小さな町がどうして交通の中心地となったのか。あるいは、そもそも「岩見沢」という意味は何なのか。


ここからは戦前の話です。

一般的に「岩見沢(いわみざわ)」は「湯を浴びる沢」(ゆあみさわ)として発展したからだというように言われてきました。でも、この町には温泉など昔からありません。それでも、この周辺の当時の炭鉱夫たちは岩見沢で毎日のように湯を浴びたのです。

なので、ここが「湯を浴びる沢」であったことは事実です。
では、炭鉱を掘っていた男たちは「どこでお湯を浴びた」のか。


それはこの岩見沢という町の本当の名前の由来と関係すると思いますが、当時この町は、北海道で最大級の「遊郭街」のひとつだったのです。そこで男たちは「湯を浴びた」のでした。


うちのおじいちゃんのような人たちがどういう場所に「テリトリー」を作っていったのかを考えればわかりますが、

・炭鉱で働く男たち
・現地に有り余る彼らの給料

となると、当然、彼らの欲求に応じる店が次々と出来ていきます。

遊郭が次々と立ちます。
すると、遊郭のある「ゆあみさわ」にどんどん男たちが集まる。

彼らをターゲットにした賭博をする場所があちこちにできる。
その「賭場」を仕切っていたのが私のおじいちゃん系の人々たちです。


私の町にはそういう発展の経緯があるのですが、今はネットのどこを見てもその話は出ていないので、「なかったこと」になっているようです。

実際、その面影は今はあの町にはどこにも残っていません。

何年か前に帰省した時に、父親の車で移動している時、父親が、ある通りで、

「このあたりは、ずーっと遊郭と賭場が並んでいたんだよ」

と言いました。

「1度だけ夜に親父についていったことがあってさ。まだ小学生だったかな」

父親は今 70代ですので 60年以上前のことだと思います。

「すごかったなあ・・・何もかも」

と言っていました。

東京に吉原という場所がありますし、神戸だと福原とか、岐阜の金津園など、全国にいろいろとありますが、そういうものの北海道のにあるもののひとつが岩見沢という町だったようです。札幌はススキノという形で多少その名残もありますが、岩見沢はすべて消えました。

なので、本来は北海道の岩見沢という街は、

・遊郭
・賭場
・鉄道


という北海道での3つの発祥地だったのです。

でも今は、3つめの鉄道だけが歴史の文字に残されているだけで、上の2つは「なかった歴史」となったのかもしれません。そういう意味では、テキヤの親分だった、うちのおじいちゃんあたりも「存在しなかった人」ということになりそうです。

ちなみに、このおじいちゃんは四国の高知で生まれました。
そこから「一山当てに」開拓中だった北海道に確か十代でやって来たと聞きました。


今住む街も

さて、なんでこんな話を書いたかというと、今住んでいる埼玉県の所沢という町も「メジャーな遊郭街だった」ということを最近知ったからです。

以前いろいろと歩いている時に、妙に古式ゆかしい町並みがあることには気づいていましたし、所沢市には「有楽町」という町もあり、何らかの「歓楽の営み」の気配はあったのですが、それらの古い町並みには遊郭も含まれていたことを知りました。

こちらのページに街並みの写真がたくさんありますが「江戸時代から宿場町だった所沢には「浦町」と呼ばれる花街があり、明治・大正時代に栄えていた」と書かれてあり、そのあたりを何度か散歩したことがあったのですが、何十年くらい前まで続いていたのかはわからないですが、そのあたりは歓楽の場所だったようです。


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▲ 上のサイトにある写真。「三好亭」という料亭。かつて、こういう建物が数多く並んでいたことは今でもかすかにわかります。


ただ、現在の所沢周辺は「超高層住居ビル」の乱立で沸き返っていて、かつての町並みはほぼ死んでいます。

高層マンションにより「完全に日当たりがなくなった古い家」も多数見られます。
良い悪いの問題ではないですが、寂しい光景ではあります。

また所沢の高層ビルはそのデザインがスゴイのですよ。

『未来世紀ブラジル』という1984年のハリウッド映画をご存じでしょうか。
そこに出てくる威圧感のある政府ビルそのもののような感じで、見ていて圧倒されます。

下から眺めていると、「呼吸が苦しくなる」ような圧迫感があります。


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▲ 所沢にはこんな超巨大高層マンションがたくさんあります。しかも、たったこの10年の間に建てられたものばかりだとか。


まあ、そんなわけで、生まれた場所も今住んでいるあたりも、近所が遊郭街だったという共通項もあるのだなあと知った次第です。


「共通項も」と「」と書いたのは、「裏が軍隊」というのも似ているからです。岩見沢で、特に私が小学生から高校を出るまで暮らした家は、自衛隊の北海道岩見沢駐屯基地の演習場のすぐ裏でした。

すぐ裏というより、その演習場の森林との境界と 100メートルほどしか離れておらず、地図レベルでは「自衛隊の敷地内そのもの」みたいなところでした。現在は、わりとすぐ裏に所沢米軍基地があります。

ここは通信基地で、正式名はアメリカ第五空軍の 374空輸航空団に所属する米軍通信基地「所沢トランスミッターサイト」というもののようです。

所沢市のホームページを見ると、ここは明治44年(1911年)に、日本で最初の飛行場ができた場所だそうで、戦後の1945年の第二次世界大戦後に米軍に接収されて、現在に至っているようです。今、私の住んでいるところはものすごく低空から飛行機が飛ぶのを見ることができます。機体番号が読めるほどの低空です。

さて、日記のシメとしては、その米軍とは関係ないと思うのですが、先月あたりにその米軍のあるあたりの空で見た光景の話です。

それは冒頭に載せた写真と関係します。


空の円

冒頭に載せた写真は 2009年の10月6日にロシアで目撃された「空の謎の光」です。ロシアでは一般ニュースでも取り上げられた、わりとメジャーなミステリー現象でした。今でも YouTube に動画があります。




これは結局なんだったかわからなかったんですが、先月くらいに、私も「同じようなもの」を空に見ました。

大きさも大体同じでしたが、ただ、あんなにくっきりと明るいわけではなく、上の写真に細工するとこんな感じでしたでしょうか。

tokorozawa-circle.jpg


日付けをはっきりと覚えてなくて、2月のはじめか1月の終わりくらいだったと思います。あれだけの大きさだと見ていた人だと他の人でも記憶に残っていると思うのですが、ただ、時間が早朝(深夜)4時くらいだったので、その時間にボーッと空を見ている人の数が多いとも思えないですが。

私はそのくらいの時間に起きることが多く、そのまま外に行って空を見ることもわりとあります。その時に見ました。

よく考えてみれば、奇妙な現象なのかもしれないですが、その時はなぜか別に違和感も感じず、10分間くらい眺めていたのですが、ちょっとコワくなって部屋に戻りました。あのあたりは通信基地があるし、いろいろと空にも影響あるんだろうなあ」とは考えていました。

場所はちょうど所沢の基地の「真上」でした。

そして、そのまま忘れていたのですが、先日知り合いにその話をしたら、すごく興味を持っていたので、今回書いてみました。



  

2011年06月21日



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前回、40度以上の熱が出たことを書いたままで、記事の更新が止まっていました。その後、丸3日間倒れておりましたが、何とか熱も下がりました。

今回のことのついでとして、昔経験した不明熱のことを少し書いておこうと思います。

私は 2006年の秋頃に、約2ヵ月の間、間隔を開けながらも断続的に「原因菌が特定できない感染症」になったことがあり、その際も、 40度以上の熱が2週間おきに数日くらいずつ続きました。前人未踏の 42度は避けることができましたが、最高で 41度を少し超えました。

その際に「何の抗生物質も効かない」状態に陥り、また、精密検査で感染症であることは確定しても、「その細菌やウイルスが特定できない」ということとなり、処置なしといった状態でした。


私 「先生、原因菌が不明というのは勘弁してください・・・ハァハァ・・・ウッ(ジョークを言おうとして空回った上に朦朧としすぎて力尽きる)」

医師「うーむ」



まあ、そんなこんなで何度か精密検査などしているうちに、熱が出ることもなくなり、「発熱はなかったこと」になったのですが、最近の 最強の耐性菌 NDM-1 とか、そういう「あらゆる抗生物質が効かない」という菌の存在をコワイと思うのは、そういうような経験があったかもしれません。「抗生物質が効かない」というのは、現代医学での病気の治療や手術にとって予想以上に厄介なことです。

先日、「抗生物質に代わる物質がドイツの機関で特定される」という記事をご紹介したことがありますが、このような「人間の体内組織だけ」で病原菌に対抗できるシステムの解明が進むといいですね。


今回の発熱も実は原因がよくわからないのですが、感染症であることは確定していますが、原因菌が不明なままですので、何ともいえないですが、のど風邪とか、咽喉炎とかのたぐいの妙に熱が高いやつなのかもしれません。

この「風邪を引く理由」に関しては、最近、体が疲れている可能性はあるんですよね。
実は、また「アレ」が始まったんです。

アレというのは「強烈な睡眠障害」です。

2008年の11月頃に最初に始まったもので、これが始まると毎晩継続して、それは1ヶ月間くらい続くんですよ。

これは「右か左かどちらかの偏頭痛」と必ずセットで訪れるんですが、今回は、眠って 30分後くらいには「強烈な右側の偏頭痛」で起こされます。そして、次が眠れない。

その繰り返しで朝になるので、あんまり眠ってないんです。
ナポレオンの半分も眠っていない日が多いです。

不眠症と違うのは、眠れないこと自体を気にしてはいないし、眠るための努力もしていないあたりですが、精神的にはなんともなくとも、体は疲れる。だから、抵抗力が弱くなっていそうです。


ちなみに、この睡眠障害はそのうち収まると思いますが、今までの例ですと、まず、1ヶ月くらい左右どちらかの偏頭痛が、毎日、夜間のある程度決まった時間に起きました。収まった後は何ヶ月も頭痛はなくなります。

そして、次は「前回の左右と反対側の偏頭痛」がまた1ヶ月くらい続きます。

右の次は左と。その間1ヶ月なら1ヶ月、「右なら右側だけ」の頭痛が毎晩同じような時間に発生して、それが毎日続くのですけれど、これが痛いのですよ。何しろ、もともと頭痛が全然ない人だったので(二日酔い以外の頭痛はほぼない人でした)、2008年の秋くらいには物流停止の不安からバッファリンを備蓄用にたくさん買いこんだほどでした。

しかも、私は今でも梅雨がとてもダメで、消耗します。

そんな感じですが、また、記事のアップも始められそうです。
どうもありがとうございます。続きを読む
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2011年05月11日



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東京は連日どうも暑苦しい感じの気候だったということもあるのでしょうけれど、昨晩もあまり寝付けずに、朝方やっとウトウトしていた時に、いくつか夢を見たのですが、その最後に見た夢がとても印象的で、起きた時には実際に涙を流していましたので、なんとなく感動したみたいです。

そういえば、最近は、「夢」のことをたまに書いていましたが(夢の重要性についてなど)、最近はあまりハッキリと夢を覚えていない日が続いていたような気がしますので、あれだけハッキリした夢を見たのは久しぶりな気がします。

情景は全部覚えていますが、うまく書けるかどうかわからないのですが、その夢の内容を書いておきます。


(2011.05.10)

前半のほうはいろいろとアドベンチャーがあったのですが、それは省略して、今日のその日の夢のドラマも山場を越えて、気付くと、私は宇宙船か、あるいはどんな乗り物か外部から見ていませんのでわかりませんが、いずれにしても、「宇宙空間が中から見える乗り物」に乗っていました。

他に数人いるようですが、その時はそれが誰だかわかりません。

私自身はなぜか非常に投げやりな気持ちになっていて、乗り物の床に座っているか、寝そべって、ボーッと外(宇宙空間)を見ています。

「あああ、だるい」

とかそんな感じですね。


そのうち、乗っている乗り物が「降下していく」感覚を感じました。
外を見てみると、外から見える様々な惑星、赤っぽいのや青っぽいのもありますが、それらが風景の「下から上へ」と流れていっているので、乗っている乗り物自体はやはり下降しているようです。

つまり、「乗り物が下に落ちている」。

それでも、別に気にするでもなく、投げやりにボーッとしている。

「ふぁわわわわわ〜、だりぃ、うぜー」

という感じで。


外の風景からは次々と惑星が脱落していき、次第に風景の中に惑星などは見えなくなってくる。


個人的にも「そろそろ下に行き着くのではないか」と感じている。

「下」というのが具体的にはよくわからないのですが、要するに「宇宙の底」というような感覚かもしれません。

外を見ると、今度は惑星というより、星自体が消え始めている。
星が見えていた場所はどんどんと黒い「壁」になっていき、星はさらに消えていっています。

ふいにその黒い壁の頂上に「地球」が見えました。

「あ、地球だ」

と、私は声には出さないものの、その黒い壁の上にある地球を寝そべって眺めています。

いろいろと去来する地球の思い出。

今の落下の感覚では、もうすぐ底に到達しそうな感じが非常にします。
多分あと何秒とかそういう感じで。


そして・・・。

宇宙の中に「黒い水面みたいな底」が見えてきたのですね。


Black-water.jpg

▲ こういうのが「宇宙の底のように思える場所」に見えてきたんです。


その「底」が見えた瞬間。

「やっぱ戻ろうかな」

と私は立ち上がり、でも、どうしていいのかよくわからなかったのですが、そこで、「水面に息を吹きかけて、風力で上昇してみる」ということしてみることにしました。

思いついたんだか、誰かに言われたのかわかりませんが、それをしてみた。
乗り物の窓か床のようなものを開けると、真っ黒な水面はすでに足元ギリギリのところまで来ていました。

乗り物の真下に広がる真っ黒な水面に、フーッと全身を使って、思い切り息をかけると、なんと、乗り物は少し上に上がっていく。

「お、これでいけちゃう?」

と思って、それを見ていましたが、息を吹きかけていない時、つまり休んでいる時にも乗り物はまだ上に上がっている。

「どうして?」と横を見ると、いつからそこにいたのか知らないですが、私の子どもが一生懸命、下の黒い水面に息を吹きかけている。

そして、誰だかわかんないですが、他の場所でも何人かの人がそれをやっている。

私もまたその「作業」に戻り、一生懸命に「宇宙の底」のような黒い水面に息を吹きかけ続けると、さきほどの黒い壁の上の地球がまた見えてきました。

「ほお」

と、あとは子どもや他の人に任せて(休むなよ)、外を見ていると、先ほど宇宙の風景から消えていった星や惑星が次々とまた現れてくる。

「こりゃいい」

と私は満足げにしていると、また、宇宙の風景は元通りに戻っていきました。

その時、乗り物のドアのようなものが開きました。
その向こうに何かある。

私はドアの向こうに歩いて行きました。


そこは、実際には行った記憶はない店ですが、カウンター席が中心の、とてもきれいな作りの焼き鳥屋、あるいは飲み屋のような店でした。

店は満員で、そして、そのお店のカウンターにはガイジン(白人)の男たちが何人か座っていて、みんな満面の笑みでビールを飲んでいる。

おもしろかったのは、その店のビールは瓶ビールで、コップはよくあるサッポロビールの小さなコップなんですが、ガイジンたちは注ぐのにあまり慣れてないせいか、泡がコップの外にこぼれてしまう。

しかし、ガイジンの男たちはすぐにそれをズズズと口で吸って、そして、私に、

「こうやって泡を吸えば大丈夫ネ。だいぶ、ワタシもうまくなったネ」

と私に言います。
私はそれを聞いて、苦笑しています。

カウンターの一番端に座っている大柄のガイジンは黒いTシャツに帽子を被ったお洒落な感じの男なのですが、カウンターの彼の横に、ショートヘアでボーイッシュな日本人女性の一人客が座りました。

もうその外人の大男は大照れで、突然ハシャギだして、真っ赤な顔をしてビールを飲んで、大声で嬉しそうに何か言っています。

カウンターの中にいる若いお店の人が、

「なんだかうるさくなってきちゃいましたねえ。でもまあいいか」

と笑っています。

誰もかれもが笑って大騒ぎの喧噪に包まれている焼き鳥屋の中で、

「ああ、戻ってきてよかった」

と思っている時に目が覚めました。



目覚めた時に、ものすごい泣いていましたので、多分、夢の中でも泣いていたのでしょう。


まあ、いい夢でしたが、あれほどリアルに宇宙の中での落下を夢の中で経験したのは、初めてのことでしたので、いろいろと危なかった(精神的にという意味)のかもしれないですね。

やはり、昨日、「宇宙の自殺がどうだこうだ」と書いたことと関連して見たのだとは思います。


確かに夢は不思議ですね。
そして、それがどうして不思議なのかも、昨日の「宇宙の自殺」の話と絡めると、なんとなく理由もわかるような気もしています。


今回の夢は、昨日の記事と関係している感じがとてもしましたので、「追記」として書かせていただきました。2、3日のお休みというのはそのままにさせていだきますね。


ところで、昨日の記事ではなく、その前の記事のぼんやりと外を見ていて気付いた「宇宙の計画」という記事で、

アジアの日本の東京の西荻窪という街。
あるいはその中の私の部屋の中の机の上。

そして自分と周囲の人をちゃんと見るだけで宇宙のことはすべてわかるというのが、この宇宙の意志なのではないか


というようなことを書いたのですが、誰でも書く「日記」というのがどれだけ大事なことかということについても、初めて気づいた気がします。

日記はちゃんと書いたほうがいいかもしれないなあ。うむ。




  

2011年05月02日



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久々に更新が開いています。今回の更新も、その言い訳というのか、その理由がなんとも情けない話なんですが、「植物がきれいすぎて、植物から離れられなくなってる」という超キチ理由で、申し開きがつかないのですが、ほとんどパソコンの前にもいないのです。


最近のパターンとして、

・天候がムチャクチャ荒れる

・次の日から景色がさらにきれいになる


という繰り返し(だと自分は思い込んでいる)風景がありまして、3日くらい前だったか、東京の天候は大荒れだったんですよ。で、次の日がやはり異常に穏やか。これは震災後、比較的続いているサイクルで、「荒れてから穏やかに」というのを繰り返しています。


緑の意味

実は今日、パソコンの前にむかった理由なんですが、ここ数日ずっと考えていた「植物はどうして緑を選んだのだろう」(あるいは与えられたのだろう)という疑問を調べようと思って、パソコンの前に座ったんです。光合成で緑を選ぶ必要性はあまり意味のないことです。

ところが、検索して最初に見たページで「それはもういいや」と思ったんです。

社団法人 日本技術士会の北陸支部のページのコラムに、「35年間もの間、植物と付き合っている方」の書いたものがあり、それを読んで満足したのです。

つまり、「そんなこと(植物が緑である理由)がわかるはずがない」と。

その文章を少しだけ抜粋させていただきますが、要は、

・植物の葉が緑である理由は、「葉が緑色の光を反射あるいは透過し、他の色の光を吸収している」という理由による

のにも関わらず、

・地球に届く太陽光の強さと波長との関係を見ると、緑色の光に強さのピークがあるらしい。


ということで、どういうことかというと、植物が太陽の光を最も効率よく吸収するためには本当は緑色ではないほうがいいのです


ダーウィンのような進化論から考えると、これは「進化論への反逆」であるはずです。
なぜなら、現在の進化論のように植物が進化すると、太陽光のあまり届かない場所にある植物の多くは「緑以外の色の植物となっていたはず」です。黒や紫などでしょうか。

そういう葉の植物はあることはありますが、それらは決して「太陽光の弱い場所のもの」ではないですし、種としての実数も極端に少なく、「どこでも植物はだいたい緑」ということは言えそうに思います。


植物は緑色でなければ、もっともっと太陽光を効率的に吸収できたはずです。
なのに、「植物は緑色で存在」している。


これはもうものすごいことです。
植物というのは「最も太陽光を吸収するために最も効率の悪い色で地球に存在している」のですよ。
もうね。この世の中はスゴすぎますね。


その「日本技術士会 北陸支部」のページからの抜粋です。

 植物の葉が緑なのは、「葉が緑色の光を反射あるいは透過し、他の色の光を吸収している」という理由による。つまり、葉は緑色の光をあまり必要としないということである。光のエネルギーを取り入れて糖を生産(光合成)するのに、緑色の波長領域のエネルギーを捨てた・・・ことを意味している。

 ところが・‥である。(私の記憶に間違いが無ければ、ここが重要!!)
 地球に届く太陽光の強さと波長との関係を見ると、緑色の光に強さのピークがあるらしい。最強の緑色光を使えば、例え曇天の日でも光合成が可能となるんじゃないか? その方が明らかに効率的ではないか。光のエネルギーを利用して光合成を行う植物が、最も強い光を吸収しないで捨てる。そういうメカニズムになっている植物達って、一体なんでやねん!?!
 なんでそんな非効率的で訳のわからん選択をする のだろう? 単に、神様の御戯れかな???

 数億年も前に植物が誕生してから、ずっとずっと緑で来たのだろう。だから、緑であることが何か非常に重要な合理性を持っているはず。
 そして植物達が選択して来たその合理性は、強いエネルギーの光を捨てて相対的に低いエネルギー利用を選択することの意味を納得させるだけの説得力を持っているはずである。




そして、書いた方は最後にこう書かれています。


> 彼らが緑である理由はいまだに解りませんが、自分の無知さ加減は身にしみて解りました。願わくば、「なあ〜るほど!!!」と納得してから神に召されたいと思います。



私も本当に最近はこの方の感想と似た思いを日々感じます。

「自分は何も知らない」。

でも、最近はむしろそれも快感で、「わかることなどひとつもないのだ」と。

植物が緑という非効率的な色を選択し、そして、人間などの生命は「赤い血」というものもやはり選択したりしていて、色と光と現実的な用途の間にはそれぞれ大変な乖離があるままですが、でも、「現実的な用途」なんて本当はこの世にはないのかもしれないと。

実は「すべては理想だけ」という世界である可能性もあるのかもしれません。


ところで、私は最近、「植物に根がある理由」というものがなんとなく想像できていますが、さらに、「植物と人間と微生物の三者間の位置関係」というものにも何となく考えるところがあります。

とても、短く書けるものではないですが、書ける時があれば書いてみたいと思います。
これは、人間(他の動物も)は植物が地上にないと生きられないが、微生物は「人間だけがいれば(寄生や宿主として)生きられるものもいる」というあたりにポイントがありそうです。



  

2011年04月25日



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(※)タイトルに「地震」の文字が入っていますが、また余計なことをいろいろと書きすぎてしまいました。最後のほうに地震の話題があります。
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「認識され過ぎ」の世界の虫たち

最近、「生き物を含めて、いろんなものが出てきている」というようなことを書いたのですが、場所によっては「出過ぎている」ようで、まあ、これが「春だから」なのか、そうではないのかよくわからないですが、大量発生のニュースをよく目にします。日本語の記事にもなっているものが多いので、リンクなども。

毛虫が大量発生=バリ島で観光に悪影響も(インドネシア) 時事通信 2011年04月16日

メコン川沿いで羽虫大発生(タイ) newsclip.be 2011年04月25日

どちらも短い記事ですが、タイの「虫の大発生」は、タイの新聞やテレビでも連日報道されていて、その写真がすごい。

たとえば、これはビルの屋上で、パッと見ると何だかよくわからないのですが、床の白いのがすべて羽虫。

tahi-hamshi-1.jpg


これを拡大すると・・・。

kakudai.jpg


ひぃぃ・・・。


タイ語ですが、こちらの報道では、街を清掃する人々の様子が出ています。


thai-hamushi-2.jpg

左のチェ・ゲバラのTシャツを着ているぼっちゃん(笑)が指さしてている地面は広大な面積の一面が死んだ羽虫で覆われています。隣の黒い服のぼっちゃんが嬉しそうに虫の死骸をすくっています。

この羽虫の大発生が何と 4月18日から23日までの1週間近く連日続いたというのだからすごい。

虫の大量発生自体はどこでもよくあることですが、今回のタイのものは報道の多さを考えると、相当なものだったようです。
インドネシアの毛虫もかなりの規模らしい。


まあ・・・こういうこと・・・。

なんというか、こう、最近の自分のまわりでの生き物なんかを見ていると、「このまま調子に乗らせると、こいつら大量に出てくるんじゃないだろうな」という感じは実は少しあります。

スズメだって蝶々だって、いて嬉しくはあるけれど、大量発生したらそれはそれで大変。
まして、クモだのハエだのに大量発生されたら・・・(苦笑)。

とはいえ、この地球の過渡期。
なんでも起きちゃうということはあるのかもしれません。


関係ないですが、さきほど夢でずいぶん前に死んだ父方のおじいちゃんのことが出てきました。



仁義なき

私の父親は小学校の教師でした。まあ、誰から見ても、また実際の周囲の評価も「あの真面目なお父さん」というような人でした。

その父は9人兄弟(うち男8人)という中の末っ子で、戦前とはいえ、当時でも9人兄弟は多いほうだったと思います。普通、それだけ兄弟の数が多いと、学歴など含めていい加減だったことが多い時代でしたが、うちの父親は末っ子であるにも関わらず、大学まで行き、それで教師になっています。

他の兄弟たちもほとんど同じように高等教育を受けて、そして、また、その父の兄弟のほぼ全員が教師か公務員関係という、「よくぞこんなに堅苦しい兄弟があったものだ」というほど真面目な兄弟でした。

現在は父の兄弟はほとんど亡くなっていて、年齢順に、末っ子である父とそのすぐ上の父の兄が生きています。


さて、昭和の初期に自分の9人の子どもたちすべてにほぼ平等に教育を受けさせた父の父、すなわち私のおじいちゃんはどんな人だったかというと、ヤクザの親分だったのです。

正確には、お祭りなどをつかさどる、いわゆる「テキヤ」というジャンルにあたるのですが、北海道の小さな町の地元の親分でした。

そのおじいちゃんは、私が幼稚園の頃に亡くなったので、私が祖父がテキヤの親分だったということを聞いたのはずいぶんと後のことでした。私の印象は「やさしいけど、体の弱いおじいちゃん」という印象でした。私が物心のついた頃には、入退院を繰り返していて、会いに行くのはほとんど病院の入院病棟だったからです。

祖父は二十代の後半にすでに地元の若い衆を統括して親分の立場となっていたという、いわゆる実力派だったそうで、何しろ、当時の北海道は「多くが内地からの流れ者 (内地とは北海道以外の日本のことすべて)」で、祖父は四国から北海道にやってきました。もちろん、目的は他の多くの流れ者同様に「開拓地で一発当ててやるけん」というものだったと思います。


「湯のまち」

私の生まれた町は北海道の岩見沢という小さな町でした。しかし、小さいながらも、北海道で最初に「国鉄の路線の基点の駅」となったという、北海道の中では、札幌と並んで北海道開拓の要所となった町でした。

どうして、岩見沢のような小さな町が要所となったのか。

そもそも、私のおじいちゃんのように「北海道で一発当ててやるけん」の中の「一発当てる」は何を対象にしているのか。

その中心となるものは「炭鉱」だったんです。

全国から北海道に集まった炭鉱夫たち。そして、炭鉱に関わる利権そのもの、そして、さらにはそれにより住宅、娯楽などが増加して、不動産価格も上昇する。

「炭鉱」の周囲にありとあらゆる「利権」がうずまいていたらしいのです。

そして、この岩見沢という町の周囲には当時、数多くの炭鉱があり、そして「湯を浴びる町だった」。

岩見沢は「いわみざわ」と読みますが、アイヌ語を日本語に変換した地名が多い北海道の地名の中で、岩見沢は純粋な日本語で、「ゆあみさわ(湯浴沢)」という俗名がそのまま地名となったようです。

その「湯」は何か。
これは温泉どと関係する言葉ではありません。

この「湯」は東京の吉原などのイメージを想像してもらうといいのでしょうが、「遊弋」というほうに関係する「湯」でした。

つまり、戦前から多分、戦後もそうだったのかもしれないですが、私の生まれ町である岩見沢は「一大遊郭地帯」だったのです。

炭鉱夫たちが稼いだお金を握りしめてどんどんと遊びに来る。そして、そこに必ず発生するのが、賭場であり、あるいは「縄張り」であったようです。

うちのおじいちゃんは戦前、その中の抗争で勝ち上がり、親分になったということのようでした。

私が生まれた頃には、遊郭街はすでになく、また、炭鉱自体が次々と消えていき、今では岩見沢という町は老齢化した寂しい町となっていますが、戦前、あるいは明治時代なども、ここは欲望が渦巻く場所だったということのようです。

下の動画は 1973年の日本映画の金字塔「仁義なき戦い」の第一作目のオープニングで、これは場所が広島ですが、北海道などでも、おおむね戦後は良い意味でも悪い意味でもギラギラとしていたのかもしれません。




ギラギラした様子は私の生まれた頃には、少なくとも周囲にはなく、特に私の生まれたあたりには「他の町では見られないような虚脱感」が漂っていて、それはわりといい雰囲気だったのですが、その理由は「文明が滅びた後の町だから」ということがあったのかもと今は思います。

今は本当に「何もない」です。

岐阜の金津園とか、神戸の福原とか、かつて遊楽街だった場所は現在でも多少はその面影を残したりしているのが普通ですが、そういう面影が見受けられません。


ヤクザのおじいちゃんから生まれた9人の子どもたちは全員真面目な人生を送りましたが、孫であるその子どもたちの中には、たとえば私のように「おじいちゃんの血を引き継いだ不真面目な人間」も散見されますので、「隔世遺伝」というものはあるのかもなあと思います。



「地震がこわいので帰ります」

昨日の記事に書いた、変なモノを見てしまった友人のジローさんですが(笑)、そこの記事にも出ていた「ネットカフェ」は、韓国人のオーナーの経営の店です。

私は知らなかったのですが、東京の西日暮里というあたりには、韓国人の留学生向けの日本語学校などがたくさんあるのだそうです。そして、その留学生を相手にしたネットカフェや飲食店などの商売がたくさんあるのだそう。

上のネットカフェも韓国人留学生を相手に経営している店のひとつだったようで、置いているパソコンも、日本語環境と韓国語環境のデュアルブート仕様。ジローさんは「家が近い」という理由だけでよく行っていたそうなのですが、頻繁に行くうちにこの韓国人の若いオーナーと仲良くなっていたようです。

で、このネットカフェは今年の6月で「閉店」ということになったのだそうで、理由は「お客さんが減った」からなんですが、その実情を聞くと、本当に現在、日本から次々と外国人たちが逃げ出している様子がとてもわかります。

そのネットカフェに来るお客さんのうちで、もっとも多かったのは、向かいのビルにある日本語学校の生徒さんたちだったのだそうですが、3月13日の震災前には、その日本語学校には 100人程度の韓国人の生徒さんがいたのだそうです。

それが今。

その数は「全部で 11人」というところにまで減ったそうです。

震災直後から時間が経つにつれて、日本から出て行く留学生の数は増えていっているようで、しかも、「その後、ほとんど誰も日本に戻って来ない」そうです。

留学生がいなくなると、その人たちを相手にしていた商売も成り立たなくなり、順番として、

・留学生がいなくなる
・留学生を相手にしていた商売もやめせざるをえなくなる
・その国の人たちの多くがいなくなる


という順番で、町から韓国人の人たちが消えていっているのが現状のようです。

これは韓国人の話ですが、ある程度のコミュニティを持っている様々な外国人の人たちの間で、多分似たようなことが起きているのではないかと推測されます。

要するに、「完全に帰国するには準備などで時間がかかるが、震災から1カ月経ち、次第にそういう外国人も帰国する時期となってきた」と。近所に住む白人夫婦も最近になって引っ越しました。ダンナさんがこっちで働いていたので、「完全に帰国する段取りをつけるまで」ちょうど今くらいまでかかったということのようです。


ジローさんはそのオーナーに、「やっぱり、みんな放射能とかがコワイのかね?」ときくと、

違いますね。地震。地震そのものがコワイ。韓国ゆれない

と言ったといいます。

そう。

実は韓国という国は地震がほとんどまったくないのです。
これは韓国だけではなく、近隣アジアでも「地震などほとんどない国」のほうが圧倒的であり、そういう意味でも、日本というのは極めて特殊です。

下の図は、1963年から1998年までの35年間に「世界で起きたすべての地震」の分布図を示したものです。回数にして、約 36万回分という数の地震の分布が記録されている貴重な図です。その後もほとんど分布は同じで、「世界の地震はこのように起きている」ということがわかると思います。

earthqake-1963-1998.gif

日本はあまりにも真っ黒で場所さえわからないかと思いましたので、赤で丸く囲みました。


この分布図からわかることは、人口が多い地区で地震がよく起きるのは、

・日本の全域
・アメリカ西海岸
・南米の太平洋側
・ギリシャからイタリアの地中海沿岸
・インドネシアの中心部全域


などとなっていて、「国家ひとつがまるごとすべて震源域」である国としては、日本とチリは世界で最大の地震国です。


そして、その「日本」をさらに詳しく見てみると、こんな感じです。
最近の1、2カ月だと大地震後で少しイレギュラーかもしれないですので、パソコンに保存してあった過去の地震の分布。

これは 2009年7月7日から8月6日までの「1カ月」の間に発生した日本のすべての地震の記録です。たった1カ月の間です。

eq2009-0707.jpg


今回のような大地震がなくとも、日本列島というのは常にこのように揺れ続けています。あるいは、常に揺れ続けているからこそ、ある程度の「軋みの解消」の連続ともなっているとも言える部分もあるかもしれません。

いずれにしても、これだけ「地震から逃げ場のない国」は他にはありません。

そして、上の図で地震が発生している場所は、実際に地震が起きているという以上は、すべての地点で大地震が発生しても「不思議ではない」断層と言えます。


何を言いたいかというと、そういうところに私たちは住んでいて、今後も住み続けるということです。

何をどう予測しても、地震は、それはあるいは大地震かもしれないですが、いつかは必ず日本では起こります。そして、地震は日本では「毎日常に 100パーセント起きる」と言えるものです。

なので、このことを本当に恐怖に思うのなら、地震のない場所(きわめて起こりづらい場所)というものが上の世界地図でも見当がつくかと思いますので、そういうところで暮らすという方法はあると思います。西洋ならアメリカの北東部やイギリスなどでは基本的に大地震はありません。近隣諸国なら、韓国や中国の大都市部でも大地震は基本的に起きたことがありません。


しかし、少なくとも、日本にはそういう場所(地震の影響を受ける可能性がほとんどない場所)がどこにもありません。

もし日本に留まるのならば、地震のための準備をして(物質的にも精神的にも)、あとは普通に毎日過ごすという「今までどおりの日本での生活」をする以外には何もないと思います。


この地震の分布図を見ると、あらためて日本という国家が数千年(年数はよくわからないですが)存在していたことがどれだけ奇跡か、よくおわかりかと思います。個人的には「いつまでも続く奇跡もないかなあ」とも思いますが、一方で、その奇跡が終わるにしても「奇跡の最期と一緒にいられるならそれはそれでカッコイイ」という気持ちもあります。


ところで、ここ1カ月(2011年3月26日から4月25日)の地震の分布図も参考までに。
壮絶ですよ。

EQ2011-0326.gif



タグ:地震大国



  

2011年04月14日



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さきほど書いた記事で「帯状疱疹で痛いので、ちょっと休みます」と書きましたけど、お酒を飲まずにベッドに入り目をつぶると、


ジンジンジン・・・・・。


「痛いっつーの!」

というわけで、お酒も禁じられているし、そもそも眠くならないということがあって、日記でも書こうと思いました。


痛み止めにボルタレンという薬を処方されてるんですが、じつは以前これで死ぬ目にあったことがあるので、ちょっと敬遠しています。これらの痛み止めは、非ステロイド系消炎鎮痛薬、別名NSAIDs (エヌセッド)と呼ばれているもので、ロキソニン、ボルタレン、ポンタールなど、非常に広範囲に処方されている一般的な消炎と痛み止めの薬なんですが、「一般的だから安全か」というと、そういうわけではないというのが現状なんです。

もちろん、一般論としては安全ということでいいのでしょうけれど、私、これで以前、胃に「4つの穴が同時に開いた」ことがあり、ちょっと前に記事に大出血の話を書いたんですが(生きている意味: DNA に蓄積されていく人類の体験)、それはこのボルタレンが原因だったんですよ。

胃に4つも同時に穴が開くと、それはそれはひどい出血で、体の血液の何分の1が流出したようで、その血が口からドバッとシャワーのように(苦笑)。何リットル出たのかわからないですが、その直接的原因が上の鎮痛剤でした。

これらの危険性は海外でも調べられていて、たとえば、ウィキペディアの非ステロイド性抗炎症薬というページには、

NSAIDsの胃腸障害作用は用量依存性であり、多くの場合致命的となる胃穿孔や、上部消化管出血を起こす。

おおむね NSAIDsを処方された患者の10〜20%に消化器症状が現れ、アメリカでは年間に10万人以上が入院し、1万6千500人が死亡している。



要するに、上の非ステロイド性抗炎症薬を処方された患者の1割から2割が、何らかの胃の不調を訴えて、アメリカでは、大体年間で1万人から2万人が死亡しているということです。


ピロリ菌という胃潰瘍や胃がんの原因となる胃の中の菌があるのですが、日本人の、特に四十代以上はこのピロリ菌の含有率が世界の中でもずば抜けて高く、上のアメリカの場合より問題が出る可能性は多いようにも思います。

しかし、じゃあ、なぜこれらが病院で多用されているかというと、「他にない」のです。痛みを止める薬となると、これらに勝るものはないと。

なのでまあ、これらは単なる風邪などでも処方されますので、処方された場合は、

・胃の調子はふだんから良いか、悪いか
・食後の服用を必ず守る。あるいは胃薬も同時に処方してもらう


といったことを気にしてもよく、もっと言えば、

・多少の痛みは我慢して、なるべく服用しない

というのも大事だと思います。


私も様々な「痛み」の疾患を経験してきており、痛みのつらさはそこそこわかります。なので、耐えられないほどの痛みを耐える必要はないと思いますが、「処方されたから漫然と飲む」のは、この系統の薬ばかりはやめたほうがいいです。

なお、処方された薬が非ステロイド性抗炎症薬かどうかは、非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)一覧というページにすべて載っていますので、調べるといいと思います。

ちなみに、大体、下のようなものが一般的です。

病院で処方される主なNSAIDs

・アスピリン
・ロキソプロフェン(ロキソニンなど)
・ジクロフェナク(ボルタレンなど)
・インドメタシン(インダシンなど)
・メフェナム酸(ポンタールなど)
・スルピリン(メチロンなど)
・アセトアミノフェン


市販薬の主なNSAIDs

・アスピリン(バファリンAなど)
・イブプロフェン(イブなど)
・エテンザミド(ノーシン,新セデスなど)
・イソプロピルアンチピリン(セデス・ハイなど)
・アセトアミノフェン(タイレノール、小児用バファリンなど多くの市販薬)



これを見ておわかりだと思いますが、「痛み止めのほとんど」なんですよ。
だからまあ・・・難しい問題です。



当面の日本人が直面する主な問題はストレスとPTSD

そういや、さきほど、知り合いの女性で医療関係に勤めている人に言われたのですが、震災後、ストレス原因の病気で来院する患者さんが数が驚くほど多くなっているとのこと。

私の帯状疱疹も、基本的にはストレス原因とされている病気のひとつですが、自分では感じていないストレスが高まっていた、あるいは溜まったまま時間が過ぎていたということはあるのかもしれません。


考えてみれば、震災後の「時間感覚を失っていた」時の1週間前後に受けたストレスというのか、精神のアンバランスが心身に何らかの影響を与えないわけないですもんねえ。なにしろ、私はパニック障害や PTSD歴があることでもおわかりかと思いますが、基本的にストレスに大変弱いです。


しかし、大した被害もない東京に住む私がこういう一種のストレス障害に属するものが出てしまっているということは、被災地に近い方になればなるほど、この問題は今後大きくなると思います。

以前にも書いたことがあるような気がしますが、PTSD とストレス障害の問題が大きくなるのは、一般的には「事件直後」ではないのです。


たとえば、インフラや生活などが多少、元に戻り、不便ながらもやや平穏な日々が戻りつつある・・・という時がもっとも厳しいと私は考えます。

厄介な話なんですが、「心の余裕が出てきた時に、はじめてストレス障害のたぐいが頭をもたげてくる」ということがあるのです(もちろん、基本的にはストレス障害にならない人の方が多いです)。必死で対応している時は、心理的な葛藤が飛び出してくる余裕がないのですが、一息つける頃にむしろ問題となりやすいように感じます。


なので、被災地の方だけではなく、今しばらくの間、多くの日本人の心配のひとつは、放射能や余震といったもの以上に、「心の中」ということがとても大事になってくると思います。

震災直後から、「精神のサバイバル」のような書き方をしていたのは、やはり、なるべく、できる範囲で、精神的に現状復帰できる人はしてほしいと思います。被災地の方々はまだまだ難しいでしょうが、被災地の人ではない人でも、もし、今、極度の不安などに見舞われている人がいるなら、「震災があったことを忘れてしまう」くらいのつもりで、精神を戻すのもいいと思うほどです。

結果的に、被災地以外の周囲の人たちから精神的に立ち直ったほうが、何だかいろいろとうまく行くような気がするのです。

それには、たとえば、確かに今、新たな地震とか放射能とか、あるいは火山のこととかいろいろと不安はあるかもしれないですけれど、何度も何度も書いていますように、それらは予知できません。

なので、不安が先行していても仕方ないことで、そこそこの準備をしたあとは、それこそ笑っていたほうがいいように思います。

あるいはどうしても不安が払拭できないのなら、移動されてもいいでしょう。

「不安と不安の積み重ね」が人々の間に新たな不安の輪廻を呼ぶと、「本来存在しなかった不吉」が台頭してくるのが世の中ですので、それはあまり建設的ではないと思います。




不安の輪廻の例

以前、闇を覗き込む性質という記事を書いた時に、「不安の輪廻」ということを書いたのですが、その記事を書いた3月の終わり頃に、この現実を私はネットで見ています。

ブログには載せなかったのですが、ずいぶん日が経ったので、載せてみます。

ニュースサイトのロイターには、毎日、トップニュースのランキングというものが掲載されます。その日に最もアクセスがあった記事をベスト 20位まで載せています。たいていは、その日から前日くらいのニュースで占められます。

たとえば、今日(4月13日)のはこんな感じでした(関係ないですが、3位のメキシコのニュースの見だしすごいですね)。

4-13.gif



次に、これは先月の3月30日のロイターのトップニュースのランキングです。
ちょうど、東京あたりの飲料水から放射能が検出されたことが報道されていた頃です。


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1位のニュースが「中国のボトル入り飲料水、飲ませたニワトリが死亡」。飲料水問題に揺れるその時期としてはショッキングな見だしです。記事はこちらののもので、こういうような記事です。

中国の海南省で、ボトル入り飲料水の安全性に疑念を抱いた家族が中身をニワトリに飲ませたところ、そのニワトリが1分もたたずに死んでいたことが分かった。10日付の新京報が地元紙の報道を基に伝えた。


私は上のトップニュースを見た途端、「ああ、みんな闇ばかりを探している」という事実を知りました。

なぜ、このことだけで「みんなが闇ばかりを追いかけている」と言えるのか。

ランキングの下の日付を見ていただきたいのですが、他のニュースがほとんどその日か前日のニュースなのに対して、この「中国のボトル入り飲料水、飲ませたニワトリが死亡」の日付は 2007年 09月 10日とあります。

4年前のニュースなのです。

ロイターのランキング1位になるには、かなりのアクセスが必要で、多分、誰かがこのニュースを探し出して、いろいろな媒体に貼り付けて、多くの人がクリックしたか、あるいは意図的に集中的なアクセスをした可能性もありますが、どういう理由であれ、「ほとんど何の意味もない4年前の外国のニュースが1位になった」という事実は十分に残念な話で、飲料水パニックの中とはいえ何となく、冷静さの欠如はあったのかなあと思います。


しかし、ロイターはまだ日付があるからいいです。

日付、根拠などが何もないニュースたくさんあるわけで、そういう場合、非常にはっきりしているのは、

・不安な気持ちでニュースを探して、不安な記事にたどりつけばさらに不安になる

という事実のように思います。


ある程度の大人の人たちならば、今までの人生で自分の考え方や価値観といったものがある程度は確立されているでしょうし、非常時には、むしろその「自分」を基準にして考えることのほうが大事に思います。


もし、不安な気持ちが先行しそうな時は、「他は無視する。見ない。聞かない」という方法もあるようにも思います(今の私)。


これは単に心情的な、あるいは心理的な問題ではなく、「非常事態に冷静に行動するためには、普段以上に平静である必要がある」ということは言えるのです。不安だったり怖かったりしていてはダメなんですよ。

これは、かつて米軍の特殊部隊で要人暗殺の指導をしていた元軍人の人が書いていたエピソードがあって・・・まあ、話としては脱線しすぎるので、ふれないですが、憎しみとか不安などのネガティブな感情は、何をやるにしても、もっとも不要な要素だと書いています。




通常では人は希望のほうに向く

私は、最近は何だかよくわからないことばかり書き続けていますが、もともとは異常なほどの現実主義者です。

もともと、世の中は「現実と現実が連綿と続いて、次の現実を作り出している」とだけ思っているわけで、その上で、最近になって自分なりに分かってきた「人は未来を予知できない」とい概念があります。

しかし、そのおかげで、私たちは「現実の中に夢や希望を抱ける」わけで、ここで気付くのは、

・予知や予測が生み出すものは希望ではないほうが多い

ということのようにも感じています。

どういうことかというと、先が何もわからない場合、「その時の気分が普通」なら、多分、気持ちは「希望の方向」に向きます。


たとえば、何の予定もない旅行に行って、そこで素晴らしい光景と出会う。その中で思うことは、

(まだ何も起きてはいないけれど)「すてきな女性(男性)と知り合うかもしれない。それがなくとも、地元の人たちと楽しい交流が何かあるかも。美味しいものも食べられるかも。財布も拾っちゃったりして。そこに入ってた宝くじが一等だったりして。うっひゃっひゃ」

まあ、財布は届けたほうが良さそうですが、「何もなければ」大体こういうように、漠然と希望に気持ちが向くのが人間だと思います。


特に不安も怖れもないのに、

「ああ、この旅行中に、きっとオレは病気になり、留守中に会社は倒産し、白頭山と富士山が噴火して、小惑星も衝突して、その前にオレは電車にひかれてしまって、しかし、身元もわからず、地元の砂浜に埋められて、その骨も波で洗われて、オレの存在はこの世から消えてしまうのだ」


と考える人はあまりいないのでは。

しかし、この冗談のような心理に「根拠なく」なるとしたら、それは「不安」によるものだけのように思います。

「社会性のウツ」、あるいは「情報性のウツ状態」というような感じともいえるかもしないですが、今、現実に、上の「不安の例」のような考え方の繰り返しに陥っている人もいるのではないかと思うのです。

確かに、現実、自然現象にしろ、社会的にしろ、何があっても不思議ではないとは思います。しかし、それだけに「起きた現実に対処する」という方法のほうがいいかなと。

「起きたことに対処して前に進む」ということです。

私のように、すでにストレスで発病している弱々しい人もいるわけで、やっぱり人はそれほど強いものではないです。だからこそ、私のように弱い人は不安を排除して生きないと、災害や放射能の前に、自分の精神に殺されてしまうのですよ。



山本七平さんの「私の中の日本軍」という著作に、「第二次大戦中のフィリピンのジャングルにいた前線の兵士たちが最も欲していたもの」に関しての記述があり、もちろん次々と餓死していく中では、食べものが最も欲しいものであることは確かにしても、食べものというものは手に入らないもので、それは別として、兵士たちがとにかく日々望んでいたのがありました。

それは「笑い」だったと言います。

つらい状況の中で、夜、兵士たち同士で冗談を言って笑うことが、たった唯一の生きている意味だったといいます。だから、人を笑わせることのできる兵士の命はものすごく大事にされたといいます。

私たちは、当時の日本軍の兵士たちのように苦しくはないにしても、私もできるだけ最期まで笑っていたいとは思っています。稀代の殺人鬼ペーター・キュルテンは、ギロチンで首を切り落とされる瞬間にも愉快そうに笑っていたそうですし(それは意味が違うだろ)。


ただ、今は帯状疱疹が痛くて笑えねえです。



  

2011年04月13日



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数日前から、右の頭皮から右目の下あたりにかけて、皮膚の表面がかなり痛かったんですが、今朝になって目の上あたりに腫れが。

「ああ、これは・・・」と、なじみの病院に行ったら、帯状疱疹でした。

顔の目の上あたりから頬あたりまでを三叉神経というのですが、このあたりの神経に沿ってのものみたいです。
で、治療を始めると共に、まあ痛いのはともかく(私は意外と痛さには強いのです)、「お酒はしばらくダメ」とか言われて、そうなると、何かを書く気力も失せてしまい、前回くらいまでの続きの内容での更新は少し開くかもしれません。


ちなみに、昨日くらいに途中まで書いていたものがあって、それは仮題が「夢は未来を予測しない」というタイトルでした。それは途中までとなっていて、書き上げましたら、アップしたいと思います。

「夢は未来を予測しない」という響きは何だか本当に夢のない話っぽくて、そう思われるのもアレですので、途中まで書いたその文章の中に最初に「結論じみた」ことを書いていますので、その部分だけ抜粋しておきます。

「人類の宇宙の記憶からの決別」はあらゆる活動と現象に及び、夢も例外ではないのかもしれません。つまり、一般的に言われるように、夢は宇宙の記憶に触れるという現象「ではない」可能性があります。

夢も「宇宙の記憶とは関係のない人類の単独の現象」だという言い方にもなるかもしれません。

なので、夢は基本的に社会全体の未来を予知しないと思われます。

夢の正体は、その人の DNA が何十億年(期間は様々)の間に蓄積され、その本人の DNA の中に保存され続けてきた「その人(その人のもつ DNA )だけの過去のあらゆる歴史」に触れていることだと思われます。なので、その個人の宇宙の中の人生で経験した、あらゆることに毎晩ふれているといってもいいのかもしれないです。

たとえば、未来のような風景に見えても、それは過去なのだと思われます。

「過去の現実の経験の記憶の中を毎晩、旅している」というような感じでしょうか。


そして、夢を見る意味は、過去の自分を知ることでのキュア(治療)であると同時に、自分が経てきた何億年、何百億年のすべての人生の学習でもあり、それを見ることで、自分の人生に「自分の価値観」を反映させることができる。

地球の人類文化の中にあるあらゆる価値体系(嗜好、趣味、音楽、文学、芸術など様々なもの)は、夢と現実を DNA の中を相互に行き来する行為の中で確認されて、そして、現実の中で芸術や、あるいは「個性」として花開くということなのかもしれません。

つまり、夢での学習がないと、人類の文化はこれほど多様に展開しなかった可能性を感じます。





と、その途中までの文章に書かれてあります。

相変わらずわかりにくいし、このことをちゃんと説明できる続きが書けるかどうかわからないですが、「夢って何なのだろう」ということは十代の頃からずっと考え続けていたことでした。ある意味、何よりも長く考えていたことかもしれません。

その夢というものに対して、正しいとか正しくないという意味ではなく、自分なりに結論的なところに行き着き始めたのは良かったと思います。


ちなみに、今日行ったお医者さんは若い時からわりと長い付き合いなんですが、「帯状疱疹は疲労かストレスがキッカケのことが多いから、気付かないうちに疲れてるんじゃないの?」と言われました。

自分としては、ストレスとかは感じてないのですけど、ここで顔が痛み出したのも、なんかの意味があるのでしょうかね。
痛みが取れるくらいまで少し休みます。
タグ:帯状疱疹



  

2011年03月31日



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今週の初め頃だったと思うんですが、「雲」の様相が変わりました。
変わったというか、戻りつつあるように見えます。


震災後の2週間くらいは、東京の雲はそれまでには見たことのないような形や色や動きの雲が次々と出ており、そして、「突然気温が低下する」ということも(これは今日もあった)続いています。


空に関しては、3年くらい前から何となく毎日見るようになっていて、ヒマなせいもあって、ベランダから見る以外にも、外を歩いている時にも空を見上げて、そのままボケーッと立っていることもあります(あぶねー)。

そんなこともあり、雲の名前などはよくわからないままに空の色とか雲の形なんかはわりと見てきたのですが、3月11日からの2週間くらいの間は、そういう過去に見てきたものをすべて否定するような雲が多かったです。

震災当日にも、暗雲と気温の急激な低下はあったのですが、その3日後くらいから空の様子はむしろひどくなっていき、こちらの記事の日(3月16日頃)に現れた「とぐろを巻くような黒い雲」を見た時には本当に「ああ、これはだめかも」と思いました。

その上の記事には、

「まあ・・・お前みたいな黒い雲も、ずっと不吉だ不吉だと言われてきて、まあ、オレなんかもそう思っていたわけだけど、そのへんはお互いの考え違いという面もありそうだわな。まあ、お互いあんまりトゲのない程度に行こうぜ」。



と書いてありますが、基本的には、その後の日々でイヤな感じの雲を見た時には同じように思って過ごすようにしていました。

そして、数日前、確か4日前だと思いますが、やっと以前と同じような雲に戻ってきたような気がしました。東京ではその翌日から、それまで異常に低かった気温も、また普通くらいの温暖な感じに戻りつつあります(一時的かもしれないですが)。



この数日の間、自宅以外も含めて室内での用事が続いて、ほとんど散歩ができない日が続いていました。それで、昨日の夜あたりに、震災後としては、初めて「イライラが非常につのって」ちょっと危ない感じでした。


ちょうど、今日から数日の間、子どもが奥さんの実家のおばあちゃんのところに遊びに行くことになって、今日は久しぶりに数時間歩き回っていました。

やっぱり、今の私は外を見て歩かないと精神衛生上良くないようです。
また井の頭公園にも行ってきました。



春の池と瓶ビール

散歩を始めたのはまだ午前中で、井の頭公園にも午前 11時くらいに着いたのですが、平日なのに混んでいる。「なんで?」と思ったのですが、春休みということがあるのかもしれないです。


今日は暖かいこともあり、ボートもたくさん池に出ていて、アベック、子ども連れがたくさん来ています。

公園の入り口から池の中央に向かって渡る橋があって、最近はいつもそこで池を眺めるのですが、何十年もここには来ているのに、その池の周辺の風景といったものを気にしたことがなかったので、見ていると、こちらの記事にも書いたような、「自然というのはなんということか」というような感動もありました。

まだ葉のない木のほうが多い時期で、つまり、「茶色のもの」が多い。
それだけに緑のあるもの、花のあるものが目立つのですね。これが春が過ぎ、全部緑になっていくと、「いきいきしすぎて、つまんね」というようなことになりそうな気がします(わがままだな、おい)。


歩き出した時に、ふと思って、木に向かって、

「お前がそのまま緑を出さずに永遠に枯れてしまえば、このまま永遠にいいコントラストでいられるのにな」

とひどい言葉をかけながら進みます。

でも、途中で、「でも枯れちゃったら朽ちてなくなっちゃうか。ハハハハ」と笑いながら(キチ・・・)進みます。

最近、歩きながら笑うことが多いんですよ。


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▲ 携帯で撮影した橋からの風景。古い携帯なので色が実際とは全然違います。右のほうの柳みたいなのがきれいでした。


橋を渡ると、小さな動物園とボート乗り場があります。
動物園は震災以後は休園となっていましたが、張り紙があり、「4月1日から再開します」とのことでした。

動物園の入り口の周辺にはベンチなどの座れる場所がたくさんあります。
子ども連れやアベックが多い中に、男数人組で午前中なのにビールを飲んでいる人たちがいる。しかも、よく見るとごっつい男たちが「瓶ビール」を呷っている。


「瓶ビール売ってんの? つーか、家族連れの横で瓶のままで酒飲むなよ。愚連隊かよ」


と思って見てみると、そのうちの男のひとりが赤ちゃんを抱いており、さらによく見ると、それらは複数の家族グループなのでした。


それを見て、売店のほうへ行って見てみると、やはり瓶ビールなどなく、あの人たちは持参したようです。午前中とはいえ、結構ビールを飲んでいる人は多く、私も缶ビールを買って、池を見てみました。ボートがたくさん出ています。

ボート・・・。
この公園のボートには、普通の手で漕ぐボートと、足でペダルみたいなのを踏んで進むボートと、スワンボートがあります。スワンボートが圧倒的に多いのですが、中にはやはり手こぎの人もいる。

「経済的な問題なのかな」と、料金表を見てみると、手こぎは600円で、スワンボートは 700円とあり、料金の差は 100円。金銭的な問題ではなく、「手こぎがいい」として乗っているようです。


昔、「世界が水没した時にはスワンボートなんていいかも」と思っていた時がありました。
それがなくても、スワンボートは今でも欲しいものひとつですね。
2台くらいあれば家族で水上で暮らせそう。



公園を出ようとした頃、空には青空も見えているのに、ボツボツと雨が。わりと雨に敏感に反応する人は多く「あ、雨だ」とは言うものの、私もそうですが、こんな天気の日に傘など持っている人などおらず、言うだけです。

「私たち放射能のことも忘れないでね」

と、雨がさりげなく言っているかのように、本当に少しだけ雨が降り、しかも、雲が消えて青空になったのに、まだ少し水滴が落ちてくる。恋人とふたりでソフトクリームを食べながら歩いていたアベックの男のほうが空を見て、「なんで雲がないのに雨がまた少し降るんだよ」と言っています。


まあ、前述したように雲とか気候とかは最近は基本的にコントロールを失った感じはしますので、適度にやり過ごすのがいいようです。

井の頭公園にいた全員に多少のいろんな物質を振りまきながら、雨は去りました。



こどもたちの遊びに対しての無秩序な希求

そういえば、今日ではないのですが、先日、吉祥寺を歩いていた時、ヨドバシカメラの裏側に細い道がたくさんある場所があって、そこで、若いお父さんと5歳くらいの男の子が自転車に乗ってゆっくりと私の横を通りました。

子どもは、大きな声で、


「パワー全開! おとーさんに、放射能ビーーーーーム! ビビビビビ!」



と言って、お父さんの横を走っていき、その若いお父さんも、


「ああ、やられたあああ!」


とか言ってました(笑)。

テレビなどをつけているのなら、子どももニュースでいろんな言葉覚えるでしょうしね。


それを見て、そういえば、小さい頃に自分たちで作り出していたいろいろな遊びを思い出しました。


1番印象深いのは「自主的な生き埋め遊び」でした。

今は家の構造が変わったので、北海道でも屋根から雪はそんなにドサドサと落ちないかもしれないですが、30年前40年前は、とにかく、屋根の雪下ろしをしないと、すぐに屋根に雪が積もり、そして、それは少し暖かい日などに下に落ちます。

この「雪が屋根から落ちる物理的な力」というのはものすごいもので、まず音がすごい。

「ドドド・・・ドドドドドドドドドドド・・・・・ドッカーン!」

という本当に冗談でもなく、爆撃を受けたようなものすごい音で落ちます。
稀に、この屋根から落ちた雪に当たって、怪我をしたり、生き埋めになる人たちが出ます。


私も、小学2年か3年くらいの時に、友だちの家でその友だちと屋根の近くで遊んでいた時に、落雪の直撃を受けたことがあります。

怪我は大したことはなかったのですが、ふたりとも雪と氷中に閉じ込められ、少しして気付いた家の人たちに救出されたのですが、結構な時間、雪と氷に閉じ込められた中にいました。

その時に「初めて知ったこと」がたくさんありました。
これは圧縮されて、氷に近いものに密閉された状態で、いわゆる新雪の中などとは違うのですが、すなわち、

・雪の中は暖かい
・雪の中は音が聞こえない


ということでした。
もちろん、光りはほとんど入らないので、ほぼ真っ暗です。
そして、外部の音がしないので、自分の鼓動だけが聞こえるのです。


救出された後、しばらくして、一緒に埋まった友だちと、「静かだったね」とか、いろいろと話していたのですが、しばらくして、

「あれをもう一回経験したい」

と思ったのです。


そして、学校に行った時に友だちに話して、何人かで「あの状況を再現する」という遊びを作り出したのでした。これは小学生が行う行為としては、実は非常に危険なものだったのですが、手順として、

・雪に深く穴を掘る
・その中に下向きか横向きで横たわる
・空気穴のバイブを上に出す
・上から雪をかけて、上にいる全員で踏み固める
・いよいよ苦しくなったら、パイプを動かして救出を求める
・上にいる子どもたちが救出する

というものでした。
密閉するくらいに強く踏み固めないと、無音にも暖かくもならないということがあって、「本人が自力では脱出できないほどの厚さまで」みんなどドンドンと踏み固めます。


最初は私が自分であの体験を再現したくて、中に入って、そして出てきたのですが、他の子たちもやりたがって、結局、全員で交代でこれをやりました。


この遊びはなんというか・・・本当に快感だったのですよ。

その時はそういう言葉は知らなかったですが、「胎内」というようなニュアンスもあったのかもしれません。みんながまたやりたくなる遊びでした。


ある日、学校で、「雪の中に埋め合ったりするような遊びが最近あるようなんだが、危険だから絶対にやめるように」と教師がクラスで言いました。私たちは「なんで広まったの?」と言い合いましたが、誰かが他の誰かに教えたのか、あるいは、同時多発的に(屋根からの落雪で埋もれる子は多かったので)発生したものだったのかもしれません。


小学生の時は本当にみんな遊びを作り出すことが得意で、私も得意でしたが、しかし、男の子の考え出す遊びには「命の危険」がつきまとうものが多かったです、これは乱暴とかアクティブとかという意味だけではなく、そうでない遊びもそうなってしまう。

ただの雪合戦でさえ、気付くと、誰かがそこに「石」を入れ始めた時から、流血になり戦争状態になり、「戦略」が必要となってくる。あるいは、最初は単なる水鉄砲遊びだったのに、理科の実験室から誰かが塩酸を盗み出して、それを入れるやつが出てくる。

上の水鉄砲は中学生の時ですが、当時の田舎の中学生なんて子どもそのもので、中三でも学校で水鉄砲で鬼ごっこやってたわけです。「かけられたら負け」という感じで。

ある時、水鉄砲遊びの時に廊下の奥から、

「えんさーん、えんさーん!」

という叫び声が聞こえてきて、逃げてくる生徒たちがいる。

「どうしたの?」
「一部のやつらが塩酸を詰め始めた! 服焼かれたやつがいる」


ということで、これも本気でみんな隠れて相手を探し出そうとする。
なんでもかんでも戦争じみる。


そのまま男性性社会のシステムを体現するかようですが、でも、私たち全世代はそんな「ただの遊びが殺伐として」どう感じるかというと、嬉しくてたまらなかったんです(笑)。

そして、無傷で遊びを切り抜けられた時は子ども同士で喜びを分かち合う。

遊びの戦争が終わった後にはみんなで学校を出て、家で「今日も生き残れてありがたい」と、みんなそれぞれに眠って夢を見る。
うーん・・・・・。今考えても、わかるようなわからないような。



七夕の因果

そういえば、私は 1963年生まれなんですが、メールなどをいただく方にもこの周辺の年齢の方も多く、変なこと書いて下さる人が多いですね(笑)。


ちなみに、誕生日は 8月 7日なんですが、これは本州では何の意味もない、この 8月 7日というのは、北海道では当時は七夕の日だったんですよ。気候の問題でそうなったんでしょうが、本州とは1カ月違ったんです。

なので、子どもの時は「七夕に生まれた子なんて、めでたいねえ」などと言われていたのですが、本州に来てから何の意味もない日だと知りました。

鼻の日?

とか言われる始末。
実際にそうらしいですが。


そういう「七夕への因縁」というか、そういうものを持っていたんですが、その 42年後に生まれたうちの子どもの誕生日は 7月 7日で、こっちは正真正銘の七夕に生まれました。「さすが東京生まれの子だねえ」と感心したものです(よくわかんないが)。

そんなわけで、長い逡巡だった「実は七夕と無縁だった私」という問題も、子どもに救われたという話でした。


今回は特に支離滅裂ですみません。
ちょっと用事となってしまいました。