2011年03月30日



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闇を覗き込む性質



なるべく毎日書きたかったのですが、昨日はどうしても時間がとれず、今日も基本的に何だか慌ただしいのですが、ただ、うちの奥さんの震災後の行動など見て気付いたのですが、「それまでインターネットで積極的に情報やニュースをあまり探すというようなことをしていなかった人たち」の中で、震災後からネットで情報を得ようとしている方もいらっしゃるかと思います。


その場合、本人も気付かない状況に陥ることがありますので、簡単に書いておきたいと思いました。

これはふだんからネットで情報を大量に見ることに慣れている人にはあまり関係のない話です。



不安の輪廻

インターネットの閲覧には、「ハイパーリンクの持つ自己洗脳性」というような若干の危険性がもともとあって、ハイパーリンクというのは、ここではネット上にある「リンクすべて」を指していますが、それは一般論としての前提として、

まず、


・「どうして普段は一晩中ネットで情報なんて探らないのに今は、それをやっているのか」


というと、それは、



・「何か不安か心配があるから」



であることが多いと思います。

そうすると、たとえば、ニュースでもブログでも何でもいいのですが、



・「まず、不安なリンクタイトルに目が行く。そして、そちらを選んでクリックする」



ことになります。
その後、どうなるかというと、「不安なリンクからさらに不安なリンクへとたどる」ということになり、最初はリンクの候補は、楽しいものや不安なものも含めて、いくつかの感情のあったサイトやブログからスタートしても、最終的に行き着く雰囲気は、


・すでに不安と恐怖の文字列しかないような場所



であることが多くなり、知らない間に、「不安と恐怖の項目しかない中から情報を選んでいる」ということになることが多いです。


そして、この場合の問題は、どういう経緯であれ、「自分でリンクをクリックしていった」という事実があります。

つまり、

・「これは自分で選択した情報なのだから正しいはずだ」という錯覚に陥りやすい


ということです。

これが結局は、「不安心理から自動的にリンクを辿っていっただけの行為」が、いつの間にか、その正誤を判断する前に自分にとっての「真実の情報」となっていく仕組みです。つまり、言い方としては適切ではないにしても、自分で自分を洗脳に追い込んでしまうというようなことになってしまうようです。

歴史では、いろいろな団体などが、様々な勧誘の方法などを考えてきましたが、実は最も効率的なのが、「自分で考えた結果だ」と思わせることだというのが確定した技術かと思われます。

これはそんなに難しく考えることではなく、様々な局面や著作などの中でおこなわれています。

つまり、

「これは○○である!」

という言い方を人にしないで、

「これは○○でしょうか? それとも△△でしょうか? お考え下さい」

という言い方です。
もちろん、この前提として、ずっと言外に「○○がいい。○○が正しい」というニュアンスを伝え続けているわけです。

その最終形として、「これは○○でしょうか? それとも△△でしょうか?」と訊かれた場合、訊かれた人々の多くは、


「それは○○だ」


と自分で結論に至ります。

これは一見自分で考えて出した結論のように思えるので、実に強固な意志となっていきます。

この方法はこれまであらゆるジャンルで使われてきたと思います。
商品の CM なども含みます。


もちろん、これがいいとか悪いとかでなく、インターネットの場合、自分自身の手によってこの状態に陥っていく可能性があるということを書きたかったのでした。


まあ・・・ハイパーリンクは本当に便利なんですけどね。

私が初めてインターネットに接続した頃は、ダイヤルアップという方式の、しかも、最初は 12800bps という速度で、これは最近の一般家庭のインターネットの、もう・・・何十分の一から何百分の1という速さで、たとえば、ハガキ大くらいの写真が全部表示されるのに、コンビニで買い物をして帰ってきても、まだ表示が終わっていないというようなことはよくありました。

当時は、「インターネットをすることがそのまま電話代」となり、大変な料金がかかったもので、多くの人が、「テレホーダイ」という夜中に NTT の電話代が固定化されるものを使っていたのですが、その夜中の時間全部を使っても、得られる情報などそれほどではなかったのです。


今のほうが、環境も内容もコンテンツも充実していて、信憑性が感じられるものも多い。
しかし、それだけに、「どんな情報も正しそうだ」ということを思いやすいです。

前にも書いたように、実際に現在ネットにある「どんな情報も正しい」のだと思います。
見方や考え方を変えれば、それぞれの主張や意見すべてが正しいかもしれないです。

しかし、今のこの時期に、まして、まだ被災地ではほとんど何も手つかずの状態というような中では、「不安」というような要素は私たちの一部にはあまり必要ないのではないかとも思います。



精神の自己防衛は必要


誰も予測しない中で今回の大災害が起きたように、基本的に私たちには未来が予測できないのなら、少なくとも今は不安を排除するということをした場合がいいということはあるのかもしれません。


私自身は他の情報を今ではあまり見ていないですが、いろいろな見地からいろいろな先行きを予測されている方々がいらっしゃるとは思いますので、そのようなものから情報を得ることは大変に有意義なことだと思います。ただし、そこから「ハイパーリンクの不安の輪廻」に陥らないように、長い時間、関連項目を見ないなどの「自己防衛」は必要かと思います。


最近ちらほらと Yahoo! などのニュースの見だしで見るようになりましたが、以前記事にも書きました PTSD (事故や出来事などの精神的ストレスが後になって肥大化すること。病名や言い方は様々でも、多くがひとつのもの)が本格化するのはこれからです。一般的には、事件後、数週間から数年で顕著になっていきます。

私の経験(私は PTSD から最終的に不安神経症とパニック障害に陥りました)だと、「最初は事件そのものへの恐怖だったものが、恐怖の対象が変化してきて、生活そのものが恐怖に変わってくる」までに数ヶ月を要しています。


この PTSD というのは本当に軽く見てはいけない。

今回は出来事も大きいですし、被災地以外のあらゆる人が PTSD に陥る可能性があるように思います。そして、これは本当に長く本人を苦しめるものです。

そういう意味でも、今の時期だけでも「不安は最小限」にして生活されたほうがいいというように感じます。どちらかというと、震災後に見てきた、たくさんの子どもや若い人たちのような「ゆるい思考」のもとで、精神の現状復帰を目指し、 PTSD を極限まで避けるようにしたほうがいいように感じます。

今回の出来事はそれくらい大きなものです。


未来を予測できない人類には「人生を楽しむ」という性質の一方で、「闇を覗き込みたがる」という性質もあるように思います。そして、覗かない時には覗かないほうがいい時もあるように思います。


タグ:PTSD



  

2011年03月25日



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あるテーマで途中まで書いている時に、用事ができまして、いくら何でも中途半端なので、そちらのほうは後にします。
その「テーマ」には微生物のことにもふれ始めています。


昨日眠っている時だったか酔っている時だったか、「認識しての生命の再起動はいいけど、じゃあ、微生物とかどうする。天然痘とかペストなんかも、人間が感染して再起動させんのかよ」と寝ている時に自分で気付きました。


「あーあ、ついに微生物との最後の対決の時が来たか・・・」

ということを感じます。

以前のブログでは「微生物との対峙」というあたりで、混乱して終わっています。その頃、「人間と植物と微生物」という三者の関係を考えることがとても楽しかったのですが、震災以降は忘れていました。

しかし、人間がこの後の生活や人生を送る上で、あるいは社会システムや経済などの混乱があったとした場合、そこで「病気と医療」というのはかなり大きな問題となってくると思います。


微生物と人類は最終的にどのような関係でいるのが理想なのか。


そのことを書きたいと思いますが、今日は時間が足りませんでした。


phage-1.jpg

▲ 私の永遠のライバルである微生物。写真はバクテリオファージ


ところで、関係ない話ですが、気になったことがあったので書いておきます。

最近はテレビもつけず、インターネットでもニュースは Yahoo! のトップの見だしくらいしか見なく、基本的には情報を遮断している傾向にはあるのですが、いろいろと考えさせられる報道を見ました。


黄色い付着物

同様の報道は他にもたくさんあると思いますが、花粉による「黄色い雨」で気象庁に問い合わせ殺到という、つまり「黄色い物質が雨と共に大量に降ってきた」ことを「放射能じゃないか」と思っている人たちがいるという報道でした。

これの正体がなんであれ、東京に関しては、「この黄色いものは震災前の2月ころから継続的に降り続けて」います。つまり、少なくとも「震災後に始まった」ものではないです。

もし、これが放射能関係のものだったら、東京には震災前から放射性物質が降り続けていたことになります。

なにしろ毎日のように、私が廊下やベランダを拭き掃除していました。
ずっと、それが何だかわからず、今日の報道でスギの花粉だと知りました。


2月頃から、ベランダにたまに見たことのない鳥が柵にとまっていたので、「鳥のフンかな」とか思っていたのですが、「黄色い鳥のフンってのも変だな」とは思っていたので、スギの花粉と知り、今年の花粉の飛散量の多さを知りました。
花粉症の方は今年は花粉でも大変なんでしょうね。


これは都内の路上のありとあらやるところに付着していて、多くの人はそれまでの毎日の生活でこの黄色いのを見ていたはずなんで、やはり、これまでの都会での生活は忙しすぎたということなのかもしれません。

道路に付着した黄色いものを眺めて「なんだろうなあ」と考えられる時間というのは、確かにあまりとれないのかもしれないです。私は毎日眺めて「ここにも黄色いフンか」と悩んでおり、実は夢にまで見ていたのです(笑)。

それは、ベランダに鳩が3羽止まり、それらが黄色いフンをする夢でした。


まあ、これからはこういう「自然で起きるわりと退屈な日常の風景をちゃんと見る」ということは大事なようにも思います。


地震以来、気象的に変化したと個人的に感じられるのが、


・気温
・風
・雲の形


なんですが、気温に関しては、3月11日の最初の地震発生後、確か 30分後くらいに「突然気温が下がった瞬間」がありました。

その時、空が暗くなり、氷のように冷たい風が吹き始めました。

私は空を見上げて、「なんだこりゃ・・・」と声を出して言ったことを覚えてますので、感覚的な話ではないと思います。


しかし最近、それとは別に「街や人の全体の感覚的な様子が変わってきている」ことも感じます。


今なお被災されている方々が厳しい状態の中では、その様子が良くなっているとか悪くなっているとかは書けないですが、何かが変わったことは感じるような感じを日々受けます。


それが何かはわからないのですが、まあ・・・何だろう。


正直よくわからないのですが、仮に何もかもダメになったとしても、「今の時をたくさん見ておきたい」という欲求が今は強いです。


なんかぶつ切れになってしまいましたが、今から用事です。
ごめんなさい。




  

2011年03月22日



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昨日は、部屋の整理と共に、換気扇などを塞ぐなどの作業もしました。
前にこちらの記事も書きましたが、本州の東日本に位置する原発なら、福島でなくとも、どこの原発に事故が起きても、結局は偏西風で日本に戻ってきて、それは放射能が拡散するか減衰するまで何度も循環は続くのだと思います。

これはその時の記事に記した地図です。
毎日コースは違いますが、大まかでこのように偏西風は世界を回ります。




なので、偏西風上に住んでいる限り、ある程度の影響は仕方ないということにはなりそうです。
また、世界を巡る風の循環は偏西風だけではなく、海流とも似ていて、世界のいろいろな場所を巡るようです。

放射能そのものは、室内では影響はかなり弱くなりますが、まあ、隙間風があまり入らないようにするとか、不要な換気扇や郵便受けなどを封鎖するということも気休め程度にやるのもいいのかもしれません。


狂った話ですが、私自身は、昨年、核攻撃の場合のために部屋の隙間風対策は、それなりに行っていました。隣町の吉祥寺は核攻撃のターゲットとして選ばれやすいと考えていたからですが、核攻撃の場合は攻撃が確定してから、すき間を閉めても間に合わないので、先にやっていました。

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タグ:放射線 3.11



  

2011年03月15日



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東京の品不足状況はそろそろ究極的になっており、このことに関しては夜にでもまた書こうと思います。多分、この後、午後3時くらいから停電になると思いますので、昔書いていたブログの2年ほど前の記事に、わりと参考になる図を掲載していたことを思い出しましたので、転載しておきます。

ただ、これは当時、「戦争で原発がピンポイントで攻撃された場合」を想定して書いたもので、また、私が東京に住んでいるので、東海方面のの原発を想定しています。まさか、マグニチュード9などという非現実的な地震で、このことを思い出すことになるとは思いませんでした。

いろいろなことは今晩か、明日に書ければ書きたいと思います。
なんだか、生と死の真意を「死んで確かめる」という状況も近くなってきたみたいで、書けるだけ書きますね。

多少ストレスを感じていますが、それはみんな同じですので。

昨日、子どもが、「地震はね、地球が生きているから起きるんだよ」と言いました。

「ああ、そんなことを思っているとはすごいなあ」と感じました。私は「宇宙全体が生き物だ」と考えていますので、親子でわりと似たようなこと考えていたのだと思うと、それはちょっと嬉しかったですね。

では、ここから過去記事の抜粋です。
笑い系の表現も多く、どうしようかなと思ったんですが、編集している時間がないですので、そのまま転載いたします。

(ここから転載)



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タグ:原発 3.11



  

2011年03月07日



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「無数」の正確さ

昨日、ビリー・マイヤーさんの言う宇宙の歴史のことを記事にしました、そこでは 40兆にのぼる人種の数などの大きな数字が出ています。宇宙の最初には「40兆 3536億 700万」の人種が作られたと。

最初はこの数に驚いていたのですが、冷静に考えると、最近はずっと「巨大な数字の無意味さ」に気付いていた部分はあって、つまり、このように何十兆とか何千兆のような膨大な数を具体的に挙げる考え方そのものが「西洋的」なのだと感じています。まあ、ビリー・マイヤーさんは西洋人でしょうから、その意味では当然なのかもしれないですが。

「西洋的」というのは、要するに「無意味に近いことを具体的に表さないといけない」という強迫概念的な発表行為のことです。

たとえば、同じような数多くの宇宙や人種の存在の概念について、お釈迦さんが言っていた言葉があります(ビリー・マイヤーも「さん」付けにしていますので、お釈迦さんも「さん」付けにしています)。


oshakasama.jpg

故フレッド・ホイル博士の著作「生命はどこからきたか」からの抜粋です。



ブッダは宇宙が、各々がわれわれの惑星系と似た数十億の ”小さな宇宙” から成り立っていると記している。ブッダの対話形式になっている古い仏教の教典のなかに無限の宇宙について述べられている。

「無数の太陽、無数の月、・・・、無数のジャムブディパス、無数のアパラゴヤナス、無数のウッタラクラス、無数のブッダビデバス」

ジャムブディパスとは当時の北インドの人々が知る限りの人の住んでいる地域を表す単語である。この対話から、ブッダが生命と意識(彼はすべての生命に意識があると考えていた)は宇宙の構造に全体として結びついており、別々にできないものと捉えていたことは充分に明らかである。





のようにお釈迦さんは「無数」という表現を使っています。

ここに出てくるジャムブディパスとかアパラゴヤナスとかは、人がたくさんいるような場所を想定して入れ替えるとわかりやすいかもしれません。つまり、「無数の新宿、無数のムンバイ、無数の北新地」というようなほうがわかりいいかもしれません。

そして、この「無数」のほうが多い感じはするのですが、そのお釈迦さんの言葉を引用した西洋人のホイル博士自身は、やはり「数十億」という一種具体的な単位を使っています。


このように「少しでも具体性を持たせる」ことは西洋的科学のひとつの使命のようで、つい先日の 2月26日に NASA が「我々の銀河系には少なくとも 500億の惑星があり、そのうち 5億に生命が存在しうる」というような発表を行ったという報道がありました。

nasa-50billion.jpg

この記事には「科学者は従来、天の川銀河には 1000億の惑星があると考えていたが、最近、3000億に近いと考えるようになった。また、宇宙全体に銀河は 1000億あると見積もられている」とあるのですが、現実的に考えると、ここでの「 1000億ではなく 3000億」という響きにはほとんど意味がないはずなのに、そこに具体性を持たせて(しかも仮説)、それが大々的に報道されることの意味が今ひとつわかりません。


理由のひとつとして、これが「無数の」とした表記ではプレスリリースにならないという理由はあるかと思います。また、それでは報道にも向かない。現在のメディア体制が西洋主体で始まって存続している影響で、「お釈迦さんスタイル」の表現はいい報道とはされていないはずです。

たとえば、ニュースをYahoo! から適当に拾ってみますが、

学生524人行方不明=政権、トリポリで弾圧強化―リビア人権団体
時事通信 3月6日(日)2時32分配信

 【ジュネーブ時事】ジュネーブに本部を置く人権団体「リビア人権連盟」のスリマン・ブッシュウェガル事務局長(65)は4日、インタビューに応じ、カダフィ政権に反対する民衆のデモが起きた後、学生524人が行方不明になっていると証言した。



これがこのような報道だったらどう感じられるでしょうか。

誰かがたくさん行方不明とかそうじゃないとか=どこそこだかで弾圧強化―何とか団体
どこかの通信だかなんだか 3月6日(日)あたりかあるいはそうじゃない月日

 【どこかの時事】どこかの誰かの団体「何たらかんたら」の何とかさん(5歳から120歳くらいの間とかなんとか)は、過去かだか未来だかに、何か言ったとか何とか。どこかの誰かに対する何かが起きたとか起きないとかの後、たくさんだか一人だかの誰それが行方不明になっているとかいないとか、と証言したとかしないとか。



こういう報道はあまり見ないと思います。
しかし、これはふざけているというよりは、「確認されていない、わからない部分を曖昧に書いた」という、ある意味では実は正確な書き方だと思います(お釈迦さんの「無数」という言い方が正確であるように)。「ほとんど伝聞」の報道である場合、むしろ下のほうが正しいという考え方もあります。

しかし、これでは報道にならないと思いますし、報道メディアも読む方も「不正確だろうが何だろうが、具体性のあるほうを好む」という宿命があって、そのために、報道というのは前者だけになっているのかもしれません。


まあ、これは批判的なことを言いたいわけではなく、むしろ「無数」という一見曖昧に見えるような概念を正しいと認識されてくれたお釈迦さんの偉大さのほうを褒めたいというか、そうじゃないというか(こっちも曖昧かよ)。


ちなみに、この「数字」の観念については子どもに気付かされた部分が多く、先日、子どもの話を少し書いたので、また少しだけ書いて見ます。タイトルにつけた「無限の11」というのはこちらの話と関係いたします。



数は「1と2と5だけから成り立っている」

今ではそうでもないのですが、1年くらい前までは、うちの子どもにとって、数というのは3種類の表現で間に合うものでした。

すなわち、



そして、その1がふたつある状態の



そして、

それ以上

の3種類です。

最初、子どもが数を認識したのは、「じゃんけんのチョキと数の2が同じことを示している」ことを気付いた時で、そして、「パーも数を示すことのできるもの」だと気付いた時でした。


janken1.png


チョキは「2」のことであって、これはわかりやすいのですが、半年くらい前までは、「2を数える単位はすべてチョキ」で表現していました。

すなわち、「ふたつ」は「チョキ個」、「ふたり」は「チョキ人」、「2回」は「チョキ回」となるわけです。

極端に書きますと、「昨日、おかあさんとチョキ人でお店に言って、パンをチョキ個食べた」と(笑)。
家ではともかく、外でどこまで通じていたのかはわからないですが、動作の「チョキ」が伴うとわかるので、問題はなかったようです。


「2がチョキ」はわかりやすいことでしたが、しかし「パーの意味」は違いました。

バーは指が5本なので、「5」を指しているかというと、そうでなく、「2では表しきれない単位はすべてパー」でした。

なので、まあ大体、「3以上がパー」だと。
これは現実的に単位として計ることができないものにも使っていました。

すなわち、「昨日、公園でたくさん遊んで、すごく楽しかった」ということの場合、

昨日、公園でパー遊んで、パー楽しかった」というようなニュアンスになっていました。
上記のお釈迦さんでの「無数」に当たります。

彼が 5歳になる前くらいまでの数の単位は上記ですべて足りました。

1 と 2 それ以上。

そして、最近は上の言い方はしなくなり、また、数の認識も増えているのですが、以前も書いたように私は数や文字を自分からは教えませんので、いろいろと自分で数えたり研究したりしているようなんですが、やはり独力で数えることの基本となるのは「手の指」ということになるようで、つまり、右手と左手の指を合わせた数までが「彼の有限」だというようなことのようです。

つまり、以前の「1と2」とそれ以上という範囲が少し変わって、

・1

・2

・それ以上で5まで

・それ以上で10まで

・それ以上


という区分のようです。

なので、今の彼にとって「11以上は無限」ということになりそうですし、「ゼロ」というのも、ゼロは概念の外ですので「それ以上」に入ると思われます。数学的にそれでいいのかどうかはよくわからないですが。


また、実際には、体感できる数値というのは大人でもこんなものだと思います。

たとえば、目の前に人が立っている。

ひとりひとりを数えないで「パッ」と正確な数を認識できるのは何人くらいか。

1人と2人は数えなくても一瞬でわかると思います。
3人、4人だと少し間が開くかもしれないですが、まあ、大丈夫。

しかし、これが8人だとすると、多分、「数える」という行為になっていくのではないでしょうか。
さらにこれが 18人とか35人とかが目の前に立っていても、瞬時には数を判別するのは普通の人だと無理だと思います。

人間の数の現実での認識はそのくらいのもののようで、ということは、「その程度の認識でいい」のだと思われます。
それでも私たち人類は生きて生活していますから。

1〜5くらいまでがあって、あとは無限」で実は問題がないような感じさえいたしますが、しかし、それだと現実生活だとそれでは大変ですが。

お会計は無限です」とか、「うちの会社には無限の人がいます」とか言われても困りますしね。


そういう意味では数の具体性というのは「生活上でのツール」という意味もあるのかもしれません。



アルゴン星の物価

数字の巨大さが極端になると、「それ自体がお笑いになる」ことは、英国のお笑い集団モンティパイソンが 1972年のコント「アルゴン1」で示しています。
数をたくさん掲げること自体が笑いになるということに彼らは気付いていました。

射手座の銀河にあるアルゴン星という星の「物価高」を実況中継しているコントです。


algon1-1.jpg


algon1-2.jpg


algon1-3.jpg

▲ 下のは、やかんの金額。


手元に字幕入りのがありますので、アップしてみます。




ちなみに、私が初めてモンティパイソンを見たのは、レンタルビデオというものが一般化した頃のことで、1980年代の終わり頃で、すでにモンティバイソンの初回オリジナル放映から 20年近く経っていたのですが、初めて見た時の衝撃は大きく、その後、全部見て、今ではパソコン上でスケッチごとに分類して、保存しています。どんなに気分が落ち込んだ時でも、モンティパイソンを見れば大丈夫でした。

いろいろな意味で(あくまで個人的に)モンティパイソン・フライングサーカスは文明史の宝物だとは思います。


何だか、また話が飛びましたが、これからは、具体的な数字が重視されるのはいいとしてもその一方で、「無数」や「無限」というほうも同じ程度に重視する考え方が大事にされるというのもいいのかもしれないなあと思った次第でした。「右脳数字」と「左脳数字」みたいな感覚の話かもしれないです。

古代ギリシャの時間の観念には、クロノスとカイノスと2つあったそうで、このことはつい最近まで私は知らなかったんですけど、いい概念だと思います。
数の単位全体に広げてもいけそうに感じます。

タグ:ブッダ



  

2011年03月04日



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2日ほど前から、うちの奥様の用事みたいなのが立て込んでいて、子どもの面倒をほとんど見なければならなくなっておりまして、どうにもあまり更新できません。面倒といっても、幼稚園に迎えに入ったりとか、ご飯作ったりですが、一日が過ぎるのが早いままで、ほとんど何もできないで終わっていく感じです。

子どものことに関しては、「ペアである自分」が途中で止まったのも、子どものことにふれるかどうかで迷ってしまった部分は確かにあります。自分のことならどんなことでも書けても、人のこととか、まして自分の子どものこととなるとどうも躊躇します。

まあ、普通の幼稚園児の男の子(5歳)ではあるんですけど、うちではいろいろと言ったり書いたりして、どこまで書いていいものかわからない部分はありますし。


うわごとで口ずさむパンスペルミア説

ただ、彼から気付かされることも多く、昨年のクリスマス前くらいに子どもが熱で寝込んだことがあったのですが、その時、熱でうなされている途中で子どもが「パッ」と上半身起こして、こんなことを呟いたことがあります。


幼稚園では神様は空の雲の上にいるっていうけどね・・・それは違うんだよ。神様は透明で、どこにでもいるの。あそこにもそこにもいるの。雲の上にもいるけど、他にもどこにでもいるの。木にセミみたいに止まっていることもあるの。でも、透明だから誰にも見えない。でも、透明でもそこにいるの。全部の空も砂も木も全部すべて神様なの」。


ちなみに、うちの子どもは言葉が遅かったせいか、舌の発達が発語に追いついていないみたいで、今でも「さしすせそ」が「しゃししゅしぇしょ」なんです。サザエさんのタラちゃん語(笑)。だから実際には「神様」は「神しゃま」(笑)。

いずれにしても、その時、私と奥さんは一瞬ビビって、「はあ、そう・・・なんですか?」と思わず敬語に。

「そうなんだよ」

と言って、子どもはそのまま寝てしまいました。
朝には言った本人が忘れてましたけど。


神しゃま語(笑)

あと、最近は、寝る前に「勉強する」と言って、ノートに何か書き留めるんですが、「勉強」というのは、うちの子は座って紙とかノートに絵とか図とか字のようなものとかいろいろなものを書くことをすべて「勉強」と言っていまして、それを寝る前におこなう習慣があります。

字を書くといっても、うちの子は文字は書けませんから、まさに、「字みたいなもの」です。

私は文字とか数字を親から子どもに教えるのはイヤなので、奥さんにもそれだけは絶対にしないで下さいと言っています。文字と数字はとても大事なものだからこそ、自分で覚えたくなってから自分で全部覚えるのが1番だと思っています。それが何歳になろうと。

さて、そんなわけで、彼は日本語を書けないですが、それでも毎日何かを書き留めてから寝ている。

「何書いているの?」と以前訊いた時には、「まだ見せない」とのことでした。

最近になって、ノートを見せてくれたんですが、それはもう圧巻で、ノートのほとんどすべてのページに大きな三重丸が描かれていて、そのうちの何ページかには、その三重の丸を囲むようにびっしりと文字みたいなのが書き込まれている。
1ページにそれこそ何百文字も書かれている。

私 「うーん、すごいねえ。これは字?」
子 「字だよ」
私 「なんの字?」
子 「神様語(かみしゃまご)だよ」
私 「神様語・・・。おとうさんには読めない」
子 「おとーさんに神様語よめるわけないじゃん」


訊けば、丸だけを書いているページにも今後、順次、文字みたいなものが書き込まれていくのだそうです。

これがノートのページの一部。

kamisama2.jpg

携帯で撮ったのでわかりにくいですが、まあ、上のようなことが書いてあると。
右下の黒いのはカーテンかなんかの影です。

そして、今回、私にノートを見せてくれたのは、そこに書き込んでほしいものがあったそうで、

子 「おとーさん、ここに、なな(7)書いて、なな」
私 「数字の7?」
子 「そう、ここに」

ということで、そこに「7」と書くと、満足して、ノートをしまっていました。

まあ、私もそうでしたが、子どもの時には規則性とかが好きだったので、そういう流れかとは思いますが、いろいろやっています。

そういえば、つい先日も散歩している時、上空に飛行機雲があって、「ほら、あの線みたいなの。あれは飛行機が飛んだ後ろにできる雲なんだよ」と説明すると、

子 「ユーフォーだとあれはできないんだよ」
親 「え?」

私が「え?」と思ったのは、うちは今は基本的に子どもにテレビは見せていないし、そういう話もしないので、彼が UFO という言葉を知っているのが意外でした。幼稚園などで子どもたちの間から話題として出るのだと思いますが。

私が、「UFO もあんなふうに飛行機みたく飛んでるかもしれないよ」というと、

子 「いや、おとーさん、あれは雲の下でしょ? ユーフォーは雲の上のね、もっとずーっと上のほうにいるから見えないんだよ」
親 「宇宙のほう?」
子 「うちゅうって何?」
親 「空のずっと上のほうは宇宙っていうんだよ」
子 「そうなの? じゃあ、そこかもしれないけど、ずーっと上なの。こっちには来ないんだよ」
親 「へえ、そうなんですか」



とはいえ、そんな彼の目下の最大の悩みは同級生の何とかちゃんという女の子と仲良くなりたいということのようですが。


そんなわけで、明日くらいまでニュースなどに目を通す時間がないですが、再開した時にはまたよろしくお願いいたします。

タグ:神様